聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.3/達磨寺から尼寺廃寺へ

2011.03.01 Tuesday

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    龍田新宮を後にし、一路、達磨寺を目指す。大和川にかかる昭和橋を渡れば、斑鳩の地を離れいよいよ王寺町だ。目指す達磨寺も、この王寺町にある。聖徳太子像を先頭に、一行はしばらく葛下川に沿って進み、やがて葛下川を離れ、古い町並みに入っていく。その町並みも終わろうとするあたりに達磨寺はあった。
    ここで待望の解説に耳を傾けるわけだが、その前に配られたレジュメで予習しておこう。

    達磨寺(王寺町本町)
    片岡山と号し、臨済宗南禅寺派の寺院です。このお寺は『日本書紀』・『日本霊異記』などに記された「飢人伝説」(聖徳太子が片岡山へ遊行された時、飢えた人(聖人)に出会ったという伝説)に関わりがあり、後世、その聖人が達磨大師と見なされ、さらにその墓と見なされた古墳が現存することから信仰を集めるに至ったようです。『建久御巡礼記』によると平安時代末期には墓の上に廟があったと記され、その後、鎌倉時代にはすでにこの地にお寺が存在したと考えられています。
    2002年には本堂の建て替えに伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施され、本堂地下の石室に安置された石塔、その中に収められた水晶製五輪塔形舎利容器・ハート形舎利などが発見されました。
    現在はお寺のご厚意により、それらを本堂内で見学することができます。

    達磨寺古墳群(王寺町本町)
    『日本書紀』の「飢人伝説」と結びついた古墳は、達磨寺本堂の下、本堂の北東を含め、小規模な3基が現存します。これらは6世紀末頃に造られた古墳で、内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれています。そのうちの1号墳は石室の見学が可能です。

    片岡王寺跡と放光寺(王寺町本町)
    この片岡王寺こそが、現在の王寺町の町名の起源と考えられています。その遺跡は現在の王寺小学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていました。それによると南向きの四天王寺式伽藍配置と考えられ、採取された瓦や発掘調査で出土した瓦を見ると7世紀前半の創建と考えられます。平安時代の雷火によって多くの堂塔を失いましたが、現在も法灯を受け継ぐ片岡山放光寺(黄葉宗)が、王寺小学校の西側にあります。

    以上が、頂いたレジュメのうち、達磨寺や片岡王寺跡、つまり今現在、私たちが立っている場所の解説部分だ。

    レジュメに目を通しておけば大凡のことは分かるのだが、これから聞く廣岡氏の話は、僕には目新しいというか、自分が今住んでいる広陵町という場所がどんな場所であったか、まるで横っ面を引っぱたかれたような感じだった。

    平岡氏曰く、この地は168号線の拡幅調査に伴う大規模な発掘調査と、達磨寺の本堂改築に伴う発掘調査によって、まず達磨寺については、古墳時代の墓の上に本堂が建っており、更に本堂地下から石塔を埋納した遺構が見つかったという。つまり3重の構造になっているという訳。
    ここまでのことは珍しくはあるが、レジュメを読めば分かることだ。
    もっと大事なことは、この達磨寺は、片岡という地のど真ん中にあたるということだ。そして古墳の回りを溝が巡っており、ここから奈良時代の土器が多く発掘された。恐らく、古墳の周りで何らかの祭事が行われていたのだろう。つまり古墳時代から奈良時代へと移る境目のことを、この地は映し出していると言える。

    さて、168号線の道路の向こうに王寺町の小学校がある。ここが片岡王寺の跡にあたる。ここからは軒平瓦、軒丸瓦の発掘され、鬼瓦も発掘された。しかもこの鬼瓦、使われたのは法隆寺、片岡王寺、平城宮の三つのみだという。これによって、片岡王寺がいかに一流の寺であったかが分かる。
    しかし、この片岡王寺も、平安時代には廃れ、今は放光寺として存続している。

    先にも触れたが、大和川から北は、斑鳩の地であり、上宮王家(聖徳太子一族)の本拠地になる。そして大和川を南に渡ったこの地が片岡であり、僕が今住んでいる馬見丘陵を含み、富田林市太子町の叡福寺あたりまでの広がりを見せている。その中心とも言える場所が、この片岡王寺跡であり、これから向かう尼寺廃寺跡ということになる。そのことは、発掘された鬼瓦が「平城宮」と「法隆寺」、そして「片岡王寺」でのみ使われていたということから、ここが如何に大きな権力を持った一族の地であったか推量される。
    では、この片岡の中心にあたる場所に片岡王寺を作ったのは誰だということになる。
    候補者は3人、まず聖徳太子の娘・片岡女王、そして敏達天皇の娘、最後に押坂彦人大兄皇子の息子・茅渟王、この3人の何れかではないかと言われている。
    中でも茅渟王の線が濃厚なのだが、いずれにせよ天皇に非常に近しい方が、この片岡王寺をつくったということが、考古学、文献史学の共通の成果として言えるのだという。

    ところで、この片岡王寺というのは総寺、つまり男性の寺であるのにに対し、これから向かう尼寺廃寺は女性の寺ということになる。

    ここまでの説明を聞き、これから達磨寺を自由に見学した後、芦田池を経て尼寺廃寺跡へと向かう。
    途中、芦田池を通りかかったとき、例によって慎ましやかな案内板と出会った。そこで、その囁きに耳を傾けておこう。

    芦田池
    片岡のあしたの原は、葛城山脈と馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯を言ったのであろうかと思われます。
    本町のあたりは、古くは葦田と呼ばれ、葦が生い茂っていたところから放光寺古今縁起〈正安四年西暦一三〇二年 僧審盛著〉には葦田池と書かれています。
    この地はまた、歌の名所として知られ、数々の名歌が残されています。

    あすからは若葉つまむと片岡の
         あしたの原はけふそやくめる
                      −人麻呂−


    午前11時45分、いよいよ午前中最後の目的地・尼寺廃寺跡に到着する。
    ここに置かれた案内板は、発掘中ということもあって、木組みにトタンを張っただけの仮のモノらしいのだが、それでもほかのモノと違って、若々しいというか、荒々しい感じがする。

    国指定史跡
    尼寺廃寺跡(にんじはいじあと)
    尼寺廃寺跡は、香芝市尼寺に所在する飛鳥時代に創建された寺院跡です。
    尼寺廃寺跡には、礎石が残る基壇が南北約200m隔てて存在することから南北2つに分かれる寺院跡と考えられています。
    尼寺北廃寺は、北に金堂、南に塔、東に中門を配し、それを回廊で囲む東向きの法隆寺式伽藍配置で、その規模は南北約70.8m、東西約44.3mあります。
    平成7年に実施した塔跡の調査では、地下約1.2mで約3.8m四方の日本で最大級の規模を誇る心礎がみつかり、心礎の柱座内からは耳環12点、水晶丸玉2点、水晶切子玉2点、ガラス丸玉1点、ガラストンボ玉1点、ガラス小玉1点などの多彩な舎利荘厳具が出土しました。
    尼寺廃寺跡は、奈良盆地における飛鳥時代後半の造営者一族の動向等の政治状況をはじめ、仏教文化を考える上で重要であることから平成14年3月19日付けで国史跡に指定されました。
       平成15年3月  香芝市教育委員会



    案内板に目を通した後、再び廣岡氏の解説に耳を傾ける。

    今の葛下郡にあたる地域、ここが片岡といわれる地域だが、その片岡の中心が片岡王寺。これに対して女性の寺が尼寺廃寺となる。
    東を向いた法隆寺式伽藍配置で、日本最大級の心礎が発掘されており、その心礎の中から出た発掘品は、古墳時代後期の副葬品と同じ。「古墳時代」〜「飛鳥白鳳」への切り替わりの時期にあたるようだ。ここでも片岡王寺と同じ軒丸瓦が発掘されている。尼寺廃寺遺跡は、北廃寺跡と南廃寺跡があるが、南廃寺跡から、法隆寺、片岡王寺、平城宮と同じ軒平瓦が出土している。ということは、ここも天皇家に近しい方の建立ということになる。

    尼寺廃寺跡からやや南、西名阪自動車道・香芝インターの手前に平野古墳群がある。今から昼食をとる正福寺の近くだが、この古墳群の中で、平野塚穴山古墳に注目してみよう。これは後期の古墳にあたるのだが、朝鮮半島南部 百済との濃厚な関係を漂わせている。
    ところで平野古墳群のある場所はどういうところかと言うと、「茅渟王の墓が片岡の芦田の墓」と言われており、まさに平野古墳群が、これにあたることが、考古学・文献史学両方の一致した結論となっている。
    要するに、敏達天皇から始まり茅渟王を経て天武天皇にいたる王家の中心が片岡という地だといえるのである。



    そして、僕の住む広陵町も、まさにこの中に含まれる。敏達天皇から始まり天武天皇に至る「敏達王朝」とも言える王家の中心が、片岡の地であり、廣岡氏作成の系図を見れば、そこに出てくる場所は、いずれも僕が普段なにげにチャリを走らせている場所(黄色く色分け)と重なっているのだ。
    今まで、古代史などというのは、自分とは関わりのない、どこか遠いところで起こったことのように錯覚していたが、こうして図式化して突きつけられると、どの地も自分の生活圏でおこったことであり、何か因縁めいたモノを感じ、全身、総毛立つ始末だ。
    人はすぐ時系列でモノを考えてしまう。1000年、2000年というと、遠い遠い昔のように思ってしまうが、自分が気付かないだけで、実は、今自分が生きる時代と重なって起こっていることだとしたら……そんな他愛もないことを考えてしまう。

    http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm 
    (※尼寺廃寺跡復元図は、ホームページ「日本の塔婆」から転用させていただきました。)


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