聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.2/龍田神社へ

2011.03.01 Tuesday

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    第29回太子道をたずねる集い〜磯長ルート〜
    平成23年2月22日(火) 
    タイムスケジュール

    (午前の部)
    08:30 南大門集合→08:45 挨拶・説明→09:00 出発(太子像合流)→
    09:10 藤ノ木古墳通過→9:35 龍田新宮到着(挨拶・説明)→09:50 出発
    →10:30 達磨寺到着(挨拶・説明)→11:15 出発→11:45 尼寺廃寺到着
    (太子像合流・説明)→12:00 出発→12:20 香芝正福寺到着(昼食休憩)
    (午後の部)
    13:10 出発→13:20 志都美神社到着(説明)→13:35 出発→13:40 
    太子道顕彰碑通過→14:00 旭ヶ丘近隣公園到着(トイレ休憩)→14:15 出発
    →14:30 どんづる峯手前でバスに乗車→14:45 バス下車→15:00 太子町
    役場到着(役場ホールにて挨拶・説明)→15:40 出発→16:00 叡福寺到着
    (御廟参拝、甘酒の振る舞い)→16:30 バスで帰路に着く(近鉄二上駅・JR王寺
    駅に停車)→17:30 法隆寺南大門到着

    以上が、2月22日に実施された「第22回太子道をたずねる集い」のタイムスケジュールです。
    この日、健康のため、あるいは歩くのが好きだという目的で、はたまた聖徳太子を偲んでと……様々な方が様々な目的で集まり、スケジュール通り、朝8時45分、いよいよ法隆寺西門を3班に分かれて出発しました。

    まず目指したのが、龍田新宮です。20分あまりで龍田新宮に到着しました。神社境内には近くの幼稚園の園児達も集まり、屈託のない笑顔ではげましてくれます。
    また、龍田新宮大鳥居の傍に「奈良街道と当麻街道」という案内板が設置され、僕たちを迎えてくれました。写真ではとても読めませんので、以下に書き写しておきます。出先での案内標識や、ちょっとした説明チラシは、その場所では、まるでそこにあるのが当たり前という風情で立っていたり置かれていたりします。風景にとけ込んでしまい、自己主張の少ないこれらの案内人は、普通はあまり気を付けてみられることがありません。
    でも、あとになって「あそこに何て書いてあったんだろう」と思っても、もう、後の祭りです。そのまま忘れてしまうことも多いはずです。
    だから僕の場合は、必ず気になる案内板は書き写します。書き写す時間がなければ写真に撮っておきます。それが必要か必要でない情報かは、その時点ではハッキリしないことが多いのです。でも、それが大きなヒントを与えてくれることもよくあるからです。
    この集いでも、できるだけ、これら目立たない案内人の言葉を紹介しておこうと思います。

    奈良街道と当麻街道(近世の道)
    奈良街道は、大坂と奈良を結ぶ街道として栄えました。大坂からは奈良街道・奈良からは大坂街道と呼ばれ、この街道筋の龍田は、浪速・なら・伊勢・当麻への分岐点として、龍田神社を中心に商家・旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心でした。
    街道筋の龍田は、郡山に次ぐ宿場町として栄えました。そのにぎわいは、「龍田宮前はかいでもきれいな宿屋の女がスソではく」とまで歌われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。また、当麻街道は信仰の道として、法隆寺・当麻寺とを結んでいました。
    当麻からは法隆寺参りの道と呼ばれ、法隆寺からは当麻参りの道と呼ばれていました。
    この街道の分岐点の龍田神社から南の小吉田(こよしだ)・稲葉車瀬(いなばくるませ)・神南(じんなん)にかけては、往時のなごりを残す道標が多く残されています。

    以上が、今日最初に出会った案内人の解説でした。続いて、橿原考古学研究所の研究員・廣岡孝信さんの解説がはじまります。今日、この集いに参加した大きな魅力の一つが、プロの研究員が一緒に歩き、その現場現場で、地域に密着した情報を与えてくれるということがあります。
    その第一回目の解説が、龍田新宮境内で始まりました。

    廣岡さんは、今日歩く地域についてその概観を話されます。その要旨は、この「龍田神社」と河合町の「広瀬神社」が大和川を挟んで、当時の要の地になっているというのです。
    今居る斑鳩の地は、上宮王家の領域であり、大和川の南、叡福寺あたりまでは、歴史上「片岡」と言われる地であり、別の王家の領域に属する地域だということです。詳しくは、これからの行程の中で話されることになりますが、まずは概説ということで、次の達磨寺を目指すことになりました。
    その前に、廣岡さんが用意されたレジュメの中から「龍田神社」の説明を見ておくことにしましょう。

    龍田神社
    (たつたじんじゃ:斑鳩町龍田:三郷町の龍田大杜本宮に対して龍田新宮とも呼ばれます)
    延喜式内社であり、祭神は天御柱命・国御柱命で、そして本殿の左右には龍田大明神(龍田比古神・龍田比売神)・滝祭宮も祀る。社伝によると、聖徳太子は老人の姿となって現れた当社の祭神:龍田大明神に従って法隆寺建立の寺地を選定し、さらに法隆寺の鎮守神としたといいます。中世には法隆寺の僧が神職となり、江戸時代には境内に塔・経堂・胎金堂・伝灯寺などがあったようですが、明治の神仏分離令によって寺関連のものはすべて撤去され、法隆寺からも分離されました。
    境内には奈良県指定天然記念物の蘇鉄、大和猿楽四座のひとつ「金剛流発祥之地」の碑、クスの巨樹もあります。

    このレジュメの中で、僕が気になったのは、この神社の祭神が「天御柱命」と「国御柱命」の2柱が祀られているということです。天御柱(あめのみはしら)は、その名の通り、天津神=つまり天孫した一族(渡来系)の神であり、国御柱(くにのみはしら)=国津神は、それ以前の土着の豪族の神々と言えると思います。渡来系の種族が土着の豪族と争い、国津神として祀ることで懐柔していった、その仕上げの段階につくられた神社ではないでしょうか。
    前回にも若干触れましたが、聖徳太子は渡来系の支配民族、それも中国、韓国というより、騎馬民族系の支配層では? 廣岡さんのお話を聞きながら、話の内容とは関係なく、そんな疑念がムクムクと心の中にわき上がってきます。

    話が終わるや、耳を傾けていた一団が、大鳥居の横へ我先にと動き出します。斑鳩町の職員の方が、スタンプ帳に斑鳩町のスタンプを捺してくれているのです。
    やがてスタンプ騒ぎも一段落、次の目的地「達磨寺」に向かっての行進が再開されました。

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