我が町のお気に入り史跡10選 No.6 鳥谷口古墳

2009.11.12 Thursday

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     6.鳥谷口古墳

    鳥谷口古墳

    「奈良県指定史跡 鳥谷口(とりたにぐち)古墳
     昭和62年3月10日指定

     場所 當麻町大字染野字鳥谷口679番地(現 葛城市染野字鳥谷口)
     時代 古墳時代末期(7世紀後半頃)

    この古墳は約1300年前に築造された、一辺が7.6mの方墳です。
    墓室は横口式石槨(よこぐちしきせっかく)という構造で、南側に開口部があり、二上山産出の凝灰岩が使用されています。また、底石や北側の側壁には家型石棺の蓋石の未製品を利用するなど、特異な石槨構造となっている。
    鳥谷口古墳案内板の写真
     平成7年3月 當麻町教育委員会

    以上が、案内板の説明である。被葬者が誰であるか、ここには触れられていないが、写真のキャプションにもあげたように、大津皇子の墳墓ではないかという説がある。この説を打ち出したのは、『陰陽五行思想からみた日本の祭』で博士号を取った吉野裕子さん。彼女は、その著『持統天皇』の中で、大津皇子の墳墓について次のように述べておられる。

    「つまり大津は二上山に移葬されたといわれるが、二上山は大和平野における東方の神の山、三輪山に対し、日没方向の西の山、死者の山である。
    『易』の先天易において
    ●東は『陽』の火を意味する『離』
    ●西は『陰』の水を意味する『炊』で、『炊』は暗い穴である。
    大津の死後の世界は時間的にも空間的にも徹底的に『地』、それも暗い穴に閉じこめられた永遠の闇なのである。
    なお大津の墓は二上山山頂と伝えられ、現に大津はそこに祀られている。しかし考古学的にみて山頂に古墳の形跡はなく、また、西は易の炊卦を象徴するが、その『炊』の象徴は凹だから山頂ではあり得ない。
    従って二上山といっても恐らくその東麓(大和からみて二上山の向側の西麓は落ちた陽が東から再び上ることが期待される地点だから、西麓に葬られるはずはない。こちら側の東麓と思われる)で、しかも沼などの畔りということになる。これらの條件をみたすものに最近、発見された鳥谷口古墳がある。この古墳は二上山雄岳の東麓、その石棺は家形、しかも奇妙なことに古い石材の寄せ集めから成り、いかにも刑死者にふさわしい粗末な出来である。
    未だ確定はされていないが、二上山頂の陵墓比定地よりこちらの方が呪術的にはよほど理かなに適っている。」

    以上が、鳥谷口古墳こそが大津皇子の墓ではないかという吉野裕子さんの論拠である。説得力もある上、妙に胸落ちするところがあり、まず間違いないのないところだと思う。
    それにしても、反乱罪とはいえ、よくもここまで落とされたものである。そのうえ反乱罪と言うが、大津皇子は、すでに即位していたという説もある。即位していたとなると、自身が最高権力者の座にあるわけだから、誰に対しての反乱罪なのかという疑問が当然起こってくる。
    大津皇子は、いったい何のために刑死しなければならなかったのだろう。


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