「石川四高記念文化交流館」にて

2010.09.20 Monday

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    外観.jpg

    2010年8月、金沢へ出張した折り、「うつのみや柿木畠本店」を訪問した帰り道、「石川四高記念文化交流館」へ立ち寄った。ここへ来る目的があったわけではないのだが、金沢駅へ向かうバス停留所を探していると、「百万石通り」 を渡ったところに金沢中央公園があり、ここに煉瓦造りの人目を引く建物がある。ここが「石川四高記念文化交流館」だ。なぜか素通りする訳にもいかず、少しだけと自分に言い聞かせ、中へ入ってみた。
    案内によると、この公園は、もとは加賀藩が文正5年(1822年)に学問所を置いて以来、加賀における学問の中心だったところだという。特に明治20年、第四高等学校が設置されてからは「四高」として長く金沢市民に親しまれてきたところであり、昭和38年校舎が移転したことに伴い、その跡地を金沢の都心核にふさわしい公園として再整備し、昭和44年、一般に開放されたのだという
    UTAブックの顧問である田池先生が、UTAブックを置いてもらう書店について、常々こんなことをよく言われる。「旧制高等学校の置かれたところは、古くからの文化の中心。そこにUTAブックの本を置くことは意味のあることで、少なくとも、そんな場所に置くことで、そこから広がっていく可能性がある」と……。
    その意味では、うつのみや本店さんは、まさにピッタリの書店と言える。

    内部.jpg
      (四校記念館内の休憩所。まずはここで涼み、汗の引くのを待って、いざ見学に……)

    それはさておき、四高記念館を訪ねたとはいえ、そのすべてを紹介することはできないし、またそんな筆力もない。そこで、館内を回ってみて、気になったというか惹かれたところだけを以下に紹介しておきたい。

    井上靖の原稿.jpg

    井上靖の説明.jpgまず目に付いたのが、「井上靖」氏の「河西回廊」の手書き原稿。説明によると、井上靖氏も四高に学んだ一人であり、在学中は、柔道部の主将を務め、寝技を中心として「練習量が全てを決定する柔道」を目指したという。展示されている「河西回廊」の原稿は、井上靖と同級生で同じく柔道部員であった「足立清」氏が所蔵していたものだという。
    井上靖さんの書いたものは、「敦煌」や「天平の甍」、それに「風濤」ぐらいしか読んだことはないが、氏が高校時代に柔道部の主将だったと知って、なにか意外な気がした。柔道部というと、耳のつぶれた神経の図太い人間で、小説などと無縁な存在……そんな偏見が自分の中にあるようだ。実際には、知り合いの中に、大勢、柔道を志した繊細な人物がいるのを知っているにもかかわらずである。

    西田幾多郎教授.jpg次に目に留まったのが、四高の名物教授「西田幾多郎」氏と、その著「善の研究」。
    氏と、その著「善の研究」については、田池先生の話にもよく登場し、僕も「禅」に興味を持った頃、何度も読んだ本だが、氏が四校の教授だったことも知らず、そのため、いきなり記念館の展示物として出くわしたことが新鮮な驚きとして心に残った。
    この驚きは、翌日、JR七尾線で羽咋へ向かう車内から、「西田幾多郎生家」の案内板を「宇野気」の駅で偶然見かけたことで再燃する。
    それはさておき、館内の西田教授についての説明を見ておこう。

    説明には、「演場の西田幾多郎博士」と題して、次のような説明が施されてあった。
    「西田幾多郎教授(倫理・論理・心理・独語・英語。1896から909在任)は、石川県かほく市(旧河北郡宇ノ気村)出身で第四高等中学校退学後、東京帝国大学文科大学哲学選科卒業。東洋的「無」を説いた西田の思想は、「西田哲学」として世界的に知られている。常に思索に耽っていたため、学生からは「デンケン」と呼ばれた。授業は大変厳しかったが非常に優しい人柄で、「三々塾」などを通じて生徒には親身になって接したという。」

    先を急ごう。金沢駅には午後1時には着かないといけない。時刻は、もう12時ちかくになっている。
    「物有れは必ス歴史アリ。歴史ノ指示スル処ニ依ッテ、施設宜しシキニ適ヒ、改善シテ止マサレバ、遂ニ完成ノ域ニ到達スルコトヲ得ン」と、如何にも名調子で始まる「超然趣意書」(下の写真)なる巻物。説明によれば、明治39年に超然火事というものがあって、寮が燃えたらしい。これに対し38人の有志が「寮の再建」と「寮生活の建て直し」をはかった。この「超然趣意書」は、有志の寮生たちが四高を卒業するに当たり、後輩のために残した書だという。
    これにも心を惹かれたが、墨書の巻物を読み込んでいる時間はないし、ガラスケースの中で、全部が読めるわけでもない。「この先、なにが書かれているのだろう?」と気にはなるが、どうしようもないことだ。館内を急ぎ足で移動する。



    南下軍の太鼓.jpgどんなに足早に進んでも目に付くのが、「南下軍」の大太鼓。
    そもそも「南下軍とは、なんか?」
    洒落を言っている場合ではないのだが、南下軍とは、明治34年(1901)野球・剣道・柔道部による、「北の都」金沢から「南の都」京都の第三高等学校への遠征軍が始まりで、のちに運動部の対外遠征試合そのものをさすようになったという。
    同40年(1907)の第2回南下軍を期に対外試合が活発となり、大正期には、柔道、剣道、弓道、野球部が全国大会で活躍した。また、陸上競技部からは昭和3年(1928)アムステルダム・オリンピックに出場した相沢巌夫などを輩出している。
    以上が、南下軍についての解説だが、写真の大太鼓は、その応援団がつかったものだという。

    左の写真は、そんな南下軍応援団が市中を行進する様子。運動音痴の僕だが、少し哀調を帯びた寮歌「南下軍の歌」を聞き、その活躍の様子を写真や文字で追いかけると、心が騒ぎ立つのを感じる。館内で放映されているビデオではあるが、その一部を紹介しておきたい。ビデオを再撮影しているため、画質・音声ともよろしくはないが、雰囲気はわかってもらえると思う。





    この後、記念館を出るに当たって気になったのが「ブリタニカ書棚」。とりあえず現物と説明をカメラに納め、そそくさと館外へ飛び出す。

    これから歩いたり、バスを探していてはとても間に合わない。そう思い百万石通りでタクシーをつかまえ、「1時までに金沢駅へ着きたいんです」とまくし立てたのが12時40分。
    老齢で落ち着いた感じの運転手さん「大丈夫」とばかり、あわてる風もなく、無事金沢駅へと連れて行ってくれた。
    後は、小松の「BOOKSなかだ小松店」へと向かうばかりとなった次第。

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