広陵町とその周辺・我が町のお気に入り史跡10選 vol.1

2009.11.11 Wednesday

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     1.牧野(ばくや)古墳
    牧野古墳

    所在地:奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目
    「丘陵の南斜面に築かれた円墳で、径約55メートル、何面に横穴式石室が開口している。石室は巨大な花崗岩を使用して構築している。羨道(せんどう)は長さ10メートル、高さ2.0メートル、幅1.8メートル、玄室は長さ7.0メートル、幅3.3メートル、高さ4.5メートルに及ぶ。玄室内には刳抜家型石棺があり、また組合石棺もあったが完全に破壊されていた。当古墳は馬見丘陵では数少ない横穴式石室を有する古墳として重要であるばかりでなく、県下でも最大級の巨大な横穴式石室として学術上きわめて古墳である。なお古墳の被葬者は敏達天皇(538〜585 即位572〜585)の皇子、押坂彦人大兄王(おしさかひこひとおおえのおう)であろうとする説がある。」
    以上が、左写真の案内板に書かれてある解説だ。

    ここで気になるのは、被葬者が押坂彦人大兄王であるということ。彼は、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、用明天皇の崩御(587年)後、厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子と共に王位継承者として候補に挙がった人物である。しかし、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたという説もある。

    これに対し、広瀬満さんという民間の研究者の方が、WEB上で大変魅力的な説を展開されている。結論だけ言うと、従来言われている説とはまるで反対の意見で、「押坂彦人大兄王」と「蘇我馬子」は同一人物だというのである。
    一件、突拍子もない説に思えるが、その論旨を読むと、「なるほど」と頷かせる説得力がある。興味のある方は、彼のサイトhttp://www.ookuninushiden.com/newpage59.html(「日本神話と古代史」)にアクセスすることをお勧めする。
    それにしても、蘇我馬子という人物、聖徳太子と同一人物説を説く研究者もいる程で、興味が尽きないというか魅力的というか、その反面、何か底の知れない薄気味悪さも感じる。この牧野古墳も「馬さん公園」という、何ともかわいい別名がついているが、行かれた方はわかると思うが、石室付近に近付くと、どんよりした薄気味悪い雰囲気が漂っている。
    ただ、この古墳の頂きに立って眺める夕陽は、結構すばらしい。古墳の頂きを通って東側へおりる遊歩道があるので、散歩にはちょうどいいコースだが、頂きに立つと、西に二上山が見渡せ、そこに陽が落ちていく。この景色が素晴らしい。ただ、この時期は4時半頃にこの場所に立たないと日没は観賞できない。


    2.百済寺


    百済寺

    所在地:奈良県北葛城郡広陵町大字百済1168
    「『日本書紀』舒明天皇11年(639)12月の条に『是の月百済川の側に九重塔を建つとあり聖徳太子が平群郡熊凝(へぐりぐんくまぎ)に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。
    その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し大官大寺と称したと伝えられるが明確ではない。現存している三重塔は鎌倉中期の建築(昭和5年解体修理)と考えられ明治39年国の重要文化財に指定されている。本堂は大職官と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで、内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。』

    以上が、百済寺の敷地にたてられた案内表示の全文です。
    ただ「ウィキペディア」でも紹介されているように、『現・百済寺周辺からはその時代の古瓦は出土せず、官寺らしき寺跡もなく、当時の政治の中心であった飛鳥とも地理的に離れており、この地に「百済大寺」が所在したことは早くから疑問視されて』おり、今では桜井市吉備の吉備池廃寺こそが百済大寺だったのではないかと言われています。

    それはさておき、僕が注目しているのは、建物よりも、この「百済」という地名。司馬遼太郎氏が言うように、日本中至る所に、この「百済」という地名はあるようですが、元をただせば朝鮮半島に存在し1500年前に滅んだ国のこと。それがなぜ、日本中至る所に、この地名が残っているのか。韓国語では「百済」は「ベクテェ」というらしく、「伯太」→「博多」も、「百済」ということになるらしいのです。
    結論を言ってしまえば、日本の国自体が、1500年前に滅んだ「百済国」をそのまま承継しているのでは……ということになるのです。これも突飛な話ではなく、今では歴史学者や文学者をはじめ、かなり広い分野で指示されている説だと言うことです。天智天皇も百済の王族と言われており、なぜ、彼が蘇我氏を滅ぼしたのか……クダラないと一笑に付さず、頭の体操と思って、思いを巡らせてみてはいかがでしょう。違った日本の姿、違った日本の歴史が見えてくるのではないでしょうか。


    3.南郷環濠集落


    南郷環濠集落

    所在地:奈良県広陵町南郷
    広陵町役場のすぐ南側にある集落で、南北約700m、東西約550mの規模で南郷の村を環濠がめぐっている。環濠集落の一部は公園として整備されており、石畳に沿った水の流れが心地よい景観を作り出している。もともと南郷の地は、室町時代に形成された環濠集落で、環濠内に在地豪族南郷氏の居館南郷城が築かれていたという。その後、近世に入り徳川時代には、南郷は徳川幕府直轄領となり、関ヶ原の合戦の翌年、北見五郎左衛門が代官として代官陣屋を築き2万石を支配したという。環濠の南東角が、「城の内」と呼ばれ南郷氏の居館があったところで、現在、この一角に南郷城の石碑が建っている。



    4.藤ノ木古墳

    藤ノ木古墳
    藤ノ木古墳石室見取り図
    所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目

    「藤ノ木古墳は、昭和60年の第1次調査により、未盗掘のくり抜き式家形石棺を有する6世紀後半の大型横穴式石室であることが確認され、さらに世界でも類例のない装飾性豊かな金銅製馬具が出土したことにより、一躍世界で有名となりました。また昭和63年には、第3次調査として石棺の開棺調査が実施され、石館内からは二体の被葬者とともに、金銅製履や冠に代表される豊富な副葬品が埋葬当時のままで発見されました。そしてその日々明らかとなる調査内容は、みなさんをテレビや新聞に釘付けにし、この現象は『藤ノ木フィーバー』と称され、世間の注目を浴びたところであります。」
    (図は、斑鳩町教育委員会「国史跡 藤ノ木古墳」−整備事業完了記念図録ーから転載)

    以上は平成20年5月、史跡藤ノ木古墳整備事業の完了に伴い、斑鳩町長 小城利重さんが「藤ノ木古墳 記念図録」の巻頭言に寄せた一文である。
    ところが僕自身は、この時期、近世の海外交流史に夢中で、古代史には全く興味がなかった。藤ノ木フィーバーがあったことすら覚えていない。それが奈良に住むようになり、最近は、運動を兼ねて法隆寺まで自転車を転がすことが多くなった。自転車で片道40分程度の法隆寺は、朝の運動にピッタリだったのだ。そこで、聖徳太子に興味を持ち、そのブレーンだった秦氏に興味を持つようになった。世界観が変わった。この時代は、僕が考えているよりもっと国際性豊かな世界だったのだ。帰化人というと、漢字の名前が付いているため、みんな中国や韓国の人達だと思いがちだが、その中には秦氏のようにシルクロードの西から来た青い目の人たちも多くいたようなのだ。急に古代が身近な世界になっていった。そんななかで、この藤ノ木古墳のことを知った。斑鳩町教育委員会の人に話をお聞きし、調査資料や関係図録を分けていただき、俄然、藤ノ木古墳興味を持つようになった。
    というのも、藤ノ木古墳が造営されたのは、6世紀後半、聖徳太子の時代とも重なる時代だということ。この時代は、「日本史」というより「東アジア史」と考えていいような時代。おまけに被葬者は2名。当初は男性2名と発表されていたが、2009年9月14日の朝日新聞に意外な記事が発表された。

    記事の内容は、「透かし彫り入りの金銅製鞍(くら)金具など超一級の副葬品が見つかり、内外の注目を集めた奈良県の藤ノ木古墳。墓のあるじは、人骨を調べた人類学者の研究に基づき、『男2人』とされてきたが、考古学者の側から『遺物の特徴からみる限り、男女』との説が発表された。」
    さらに「藤ノ木古墳の被葬者については、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説など様々な説があるが、これらは『男2人』という前提に基づいてのこと。男女であれば、論争は振り出しに戻ってしまう」と、結論のでないまま、このことで「人類学者と考古学者が、深く議論を交わすきっかけになれば」と締めくくっている。

    未だ被葬者は定できないままだが、またもや蘇我馬子や聖徳太子が絡んでいそうな状況だ。古代史への興味は尽きることがない。
    (写真のキャプションに「藤の木古墳」とありますが、「藤ノ木古墳」の誤りです。)



    5.唐古遺跡

    唐古移籍

    唐古・鍵遺跡所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古

    「唐古・鍵遺跡の楼閣(復元)
    平成3年秋、唐古・鍵遺跡の弟47次調査において楼閣の描かれた土器が出土し、古代建築史上、画期的な発見として大きく取り上げられました。この土器は弥生時代中期(紀元1世紀)のものです。すでにこの時代に大陸文化を取り入れた建築文化があったことを証明する資料となりました。1つの土器片には2層の屋根、大きな渦巻き状の棟飾り、3羽の鳥と考えられる波線が、また、もう1つの土器片には2本の柱と刻み梯子が描かれています。この建物の表現から、宗教的な建造物でないかと考えられています。また、魏志倭人伝(3世紀)には卑弥呼の宮室は『楼観(ろうかん)、城柵(じょうさく)をおごそかに設け…」と記されています。卑弥呼の住む邪馬台国にはこのような高い建物がそびえていたのでしょう。
    この楼閣は、高さ12.5m、柱の間隔4×5m、柱の太さ0.5mの規模です。屋根は茅葺きで、藤蔓(ふじつる)製の棟飾り、窓はつきあげ窓、一枚板製の扉、刻み梯子などで復元しました。
    平成6年4月1日 田原本町」

    上の写真にある「案内板」には、このようなことが書かれてあった。更に調べてみると、遺跡面積は約30万平方メートルもあり、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、出土物から考え、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

    実は、この唐古遺跡には、目的があって行ったのではなく、アマテラスに一歩近づいてみようと、田原本の「鏡作坐天照御魂神社」へ自転車で出かけたことがある。そして、その帰り道、道に迷って、この唐古・槍遺跡へ出てしっまたのだ。「唐古・槍遺跡」の表示に惹かれ、何だろうと溜め池沿いに自転車を進ませると、いきなり写真の楼閣が出現した。予備知識もなく対面したわけで、それだけに強烈な印象となって残っている。

    コメント
    毎日楽しく拝見させて頂いております。linksの中に私のブログを発見してしまいました。○| ̄|_
    とても学びをやってる方には見せられないようなブログ…
    これを機にもう少し心を見るようなブログにしたいと思います…。(できるかな…)
    • by 読者A
    • 2009/11/13 2:31 PM
    私の聞いた話では、百済にすんでたのはそもそも倭人と漢人で、国滅亡の時に心太式に住人が押し出され、中国や日本に向かったのだとか。百済を日本が継承したと言うよりは里帰りに近いそうです。昔は民族とかあやふやだったのかもしれませんね。百済王も佐賀県の唐津の出身だそうですし(これは佐賀のローカルCMにもなってます)青い目をした渡来人も面白い&納得です。昔青っぽい色や琥珀色の目の人に会ったことあります。本人達曰く、先祖帰りしたんだそう(笑)なんか歴史のロマンですなぁ〜
    • by 鳥菅
    • 2011/02/12 8:50 PM
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     七期会古代史研所?所員4名は秋の気配の奈良・北葛城郡周辺の古墳を探索してきました。私たちは奈良、大阪の古墳をずい分廻りましたが一番気になっていたこの地を井狩さんの車に乗せていただいて廻ったのです。 いつもの集合地、羽曳野・古市のサークルKに9時30分
    • いっしょに遊ぼ!!
    • 2010/09/30 8:29 AM
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