デウス号爆沈

2010.04.24 Saturday

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    軟らかな話題が続いたので、そろそろ元の路線に戻してみたい。かといって紙幣の肖像の話題も、そろそろ飽きてきた。肝心の「聖徳太子」もまだ取り上げていないのだが、少しの間、休ませていただいて、しばらくは、昔、雑誌に投稿した歴史紀行の原稿を掲載していこうと思う。
    まずは1610年、長崎沖で有馬の水軍に沈められたポルトガル船「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号、俗に言うマードレ・デ・デウス号事件の話題を取り上げる。
    もう今は廃刊となった「歴史と人物」(中央公論社刊)に掲載した原稿だ。


    『デウス号爆沈』

    デウス号搭載大砲

    デウス号大砲_砲尾火穴の部分長崎県庁の中庭に立って
    砲身の長さ約二三二センチ、口径約一二センチ、砲尾の最も太いところで外周約一三〇センチ、先端部の外周約八三センチ、砲身の中ほどよりやや後方に砲台に固定するための砲耳が突き出ており、砲尾火穴のすぐ上にERの刻字が認められる−。 
    上記は奈良天理図書舘正面入口を飾る大砲の諸測値であるが、実はこの大砲が一六一〇年、長崎沖にて爆沈したポルトガル船マードレ・デ・デウス号搭載の大砲であったという。
    ところで、いま私は長崎県庁の中庭に立っている。奈良天理図書館で初めてこのデウス号大砲を目にしてから、すでに三年近くにもなろうか。あのおり触れた冷たい鋳鉄砲の感触に魅せられ、以来デウス号事件に首を突っ込み、内外の資史料を読み漁ったあげく、とうとう今朝一番の全日空機でこの長崎までやってきてしまった。
    私がまっ先にこの長崎県庁に足を向けたのは、この地がイエズス会本部−日本人の言う岬の教会「被昇天の聖母」の建てられていた場所であり、デウス号長崎脱出劇の最初の舞台となった湯所だからである。
    現在の長崎港今でこそ長崎港の埠頭は、この県庁から西へ三〇〇メートル余りも後退してしまっているが、当時はこの県庁の地は小高い岬をなしており、イエズス会の教会がそびえ、その真下まで海がせまっていた。現在、県庁から北西に下る県庁坂がその地形的な名残りを留めており、その県庁坂を下ったところ、県庁三号館横手にポルトガル船来航波止場の碑が立てられている。
    さて、今から三七二年前(一六一〇年)の一月三日早朝、今私が立っているこの場所、つまり岬の教会に附属するイエズス会司教館に五人の男が集まった。イエズス会準管区長フランシスコ・パシオ、同プロクラドール(会計係)ジョアン・ロドリゲス、長崎奉行長谷川左兵衛藤広、長崎地方地方支配代官村山等安アントニオ、そしてデウス号事件の当面の主人公である肥前有馬日野江の城主ジョアン・プロタシオ有馬晴信の五名である。
    彼らはそれぞれの思惑を胸に、一人の男の到着を今や遅しと待ち釆ねていた。その男といぅのが、長崎港に碇泊するマードレ・デ・デウス号船長アンドレ・ペッソアであった。彼はただたんにデウス号船長といぅばかりでなく、カピタンモールとして、マカオ〜長崎間貿易の責任を負う者であり、またその任期中はマカオ市の軍事はおろか司法・行政をも支配する、言わばマカオ臨時総督のごとき権限さえ有していた。
    当時のポルトガル人の服装
    ところで、普通このカピタンモールの任期は、そのマカオ到着後、長崎との一航海が終了するまでの非常に短期間のことであるが、・ペッソアにとって不幸なことは、彼のマカオ着任以来二年にわたって長崎派船が中止され、異例なほどその在任期間が延長されたことである。
    この派船中止はオランダの妨害のためであった。スペインの支配から独立したオランダが、いよいよ東アジアに進出を開始し、武力でスペイン、ポルトガルの通商拠点を脅かし始めたのである。おかげでペッソアは足掛け二年にわたってマカオに留まり、この市を統治することとなった。そして、このことが却って彼の破滅の原因をも用意することとなったのである。
    事件は、ペッソアがマカオへ到着した翌年一六八〇年に発生した。有馬晴信派遣の朱印船が占城(チャンパ)からの帰途、風を失いこのマカオに寄港したのである。このときすでに同地には、東京(トンキン)からの帰途遭難し、中国船を略奪しこれに乗ってマカオに避難していた別の日本人の一団があった。
    二組の日本人グループは、ポルトガル官憲の制止をよそに、武器を携え市中を横行し、ついには日・葡商人間に商貨の買い上げをめぐって紛争を生じ、仲介に当たった陪席判事まで負傷させるという事件が起こった。いわゆる日本人騒擾事件の発端であるが、この暴動を徹底的に鎮圧したのが、ほかならぬアンドレ・ペッソアだったのである。彼は日本人暴徒の一団を一件の建物に追い詰め、火焔筒で火をかけ、逃げてくる日本人たちを次々と撃ち殺した。さらに彼は、首謀者と思われる日本人を捕えるや、後日の日本政府への弁解のため、この事件の原因がすべて日本人にあるという証言を強要し、そのあげく、男をその場で絞首刑に処してしまったのである。
    さて、そのペッソアがデウス号で長崎へ入港した。一六〇九年六月のことである。ポルトガル側の報告でこの事件を知った長崎奉行長谷川左兵衛や代官村山等安は、かねてよりマカオ〜長崎間貿易の主導権を、ぜひ日本人の手に握りたいと考えていた。
    当時、対マカオ貿易は常にポルトガル側が主導権を握り、日本の主要輸入品である生糸などは、仲介にあたったイエズス会宣教師の思惑でその価格が左右されるというありさまであった。このため日本側は、時々法外な糸値を吹っかけられたり、また望み通りの糸量を得られない場合もしばしばであり、次第にポルトガル側への不満が膨らんできていた。そこへこの事件である。左兵衛や等安が抛っておく筈がなかった。彼らは、マカオで部下を殺された有馬晴信を引き入れ、この事件を盾にデウス号の積み荷を日本側の言い値で買い取ろうと策したのである。
    長崎で、そして江戸で、虚々実々の駆け引きが繰り広げられた。しかし、二年間ポルトガル船の来航がなく、糸価が高騰しているおりである。いわば売手市場、ペッソアが応じようはずもなかった。
    あくまでその強硬な態度を崩そうとしないペッソアに対し、ついに晴信らはマカオ事件を家康に報じ、デウス号捕獲の許可を取り付けたのである。
    明けて一月三日、この日、両者の間に最後の会談が持たれるべく、イエズス会司教館に関係者が集まることとなった。しかし、ペッソアはついに現われなかった。それどころか、待ち惚けを喰わされた晴信らがイエズス会司教館のある「被昇天の聖母教会」の門を出ようとしたとき、彼らの眼に、デウス号が出港準備を急ぐ光景が飛び込んできたのである。

    事件当時のの長崎の町事件当時の長崎中心部
    長崎県庁を出ると真直ぐ北へ向う大通りがある。現在、県庁前大通りと呼ばれ市の中心をなしており、通りの両側には県警本部、法務局、電報電話局、市役所等々、市の中枢をなす建物が続いている。そしてこれら建物の一つ、電報電話局のあるあたりが、事件当時長崎奉行所の置かれていた場所であった。
    つぎに奉行所が面していた県庁前大通りを東に入ると、住友生命ビル裏手に法務合同庁舎がある。この地点が当時ミゼリ・コルディアの教会があったところだ。建物横手の道は、東へ急な石段の坂道となっており、この坂が大音寺坂で、禁教令によりミゼリ・コルディアが破壊された後、この地に大音寺が創建されたためこの名がある。そして、この大音寺坂から北へ二筋目にある坂道が巌流板で、坂を挟んで南北に小倉藩、長州藩の蔵屋敷があったところから、洒落てこの名がおこった。そして、この小倉藩倉屋敷跡が、事件当時村山等安の屋敷があった場所と考えられている。
    ところで、この巌流坂下の道に南北に走る堀跡の道がある。この堀跡は興善町の交差点を東へ下ったあたりから、桜町の勤労福祉会館のあたりまで続いている。
    この堀筋にかつては幾つもの橋が掛かっていた。その一つ、桜町のあたりに掛かる橋を渡れば、現長崎市公会堂の地点にあったと思われるサン・アントニオの教会へ行くことができたし、また南の方角、興善町あたりから橋を渡れば、現長崎相銀あたりにあったとされるサン・ティアゴの教会へ行くことができたであろう。
    堀跡といえば、桜町の交差点を東西に横切る巨大な堀跡を忘れてはならない。今ではこの堀底を市電が走っており、それとはなかなか気付かないが、これが内町・外町を区切る堀筋であり、先程の南北に走る堀筋と、この東西に走る堀筋、そして南側西側を囲む海が、長崎を完全な環濠都市もしくは要塞都市として特徴づけていた。
    さて、桜町の交差点を北へ進めば、すぐ左手に勝山小学校、かつてサント・ドミンゴ教会の在ったところであり、その小学校を過ぎて左へ折れれば県立美術館=山のサンタ・マリア教会跡へ出る。この道をさらに美術館のところから左へ折れ西へ向かえば西勝寺、このあたりにスペイン商人アビラ・ヒロンが、確か住居していたはずである。彼はその後半生を長崎で暮し、後には『日本王国記』の名で知られる長大な日本見聞記を著わした。彼はその中で、このデウス号事件についても、事件当時長崎に在ったヨーロッパ人の一人として、イエズス会士の記録とはまた違った、公平な立場の記録を今に残している。
    それはさておき、さらに西へ西へと、約十五分近く歩くと、道の右手に、日蓮宗本蓮寺が現われる。ここが聖ラザロ・聖ヨハネバプテスタ教会の在ったところだ。さて、この本蓮寺墓地の階段を上へ上へと上り詰めると、立山の項上に着く。これがまた階段で頂上まで、ほぼ一直線に上って行くというのだからかなり疲れる。しかし、なにはともあれ、これで事件当時の長崎中心部の景観を大まかにたどってきたことになる。
    一汗かいたところで、ホテル長崎の展望喫茶で一息……。眼下に拡がる長崎の夕景を楽しみながら、その風景の中に、ふとデウス号の姿を想像してみた。

    戸町の入り江謎の三日間
    話を戻そう。この日、一月三日の夕刻、北西の風に吹き煽られ、デウス号はまだ港内にいた。乗員が足りない。その多くがまだ陸に足止めされている。ペッソアの呼びかけにもかかわらず、長崎港封鎖以前にデウス号に戻ってきた者は、「以前に乗船していた者とあわせて僅か五十人余り」(『一六一〇年長崎沖におけるマードレ・デ・デウス号焼き打ちに関する報告書』五野井隆 訳)にすぎない。しかも、風は北西からの逆風が吹き荒れており、潮も満潮に向かって港内へ流れ込んできている。逆潮だ。ペッソアにとってなすべきことは、装備を整え、ただ待つこと以外なかった。
    しかし、その間、有馬軍は六艘の安宅型軍船を中心に無数の小舟を動員し、デウス号を包み込むかのように布陣を完了していた。
    やがて……(イエズス会の記録では午後八時頃だというが)、潮が引き初めた。
    デウス号の錨が揚げられる。斜檣帆(スプリットスル)が風をはらんで船の方向を変える。上檣(トップ)に白い帆がはためき、やがて風をとらえるや、潮流を利用しながらゆるゆると風上へ間切りはじめた。
    「デウス号が逃げるぞ!」
    包囲軍から声があがった。攻撃が開始される。第一陣には、三十数艘の小舟が三方から押し寄せ、てんでにデウス号に向け弓や銃を打ちかけた。
    デウス号からは、大砲五門からなる片舷斉射でこれに応じた。
    ……轟音のあとの静寂にシャラメラ(古オーボエ)の音が響いた。有馬の第一次攻撃軍は、この砲撃のため四散し、ある者は小舟の破片につかまりながら、デウス号から響く、この人を小馬鹿にしたようなシャラメラの音を聞いた。
    この戦闘のあと、デウス号は有馬軍の小舟と北西からの季節風に悩まされながら、必死で外洋を目指すが、その日のうちには「戸町という同じ港の入江の中にある小さな町より先には出られなかった。」(『日本王国記』佐久間正・会田由 共訳)
    そればかりか、デウス号はこの戸町の沖合に錨を下ろしたまま、まる三日間、ついにピクリとも動こうとしなかった。
    なぜだろうか……。
    翌日、私はバスで戸町を訪れてみて、やっとその理由がわかったような気がした。
    戸町のバス停から十五分ばかり歩くと女神の台場跡に出る。この地点は、手前に女神鼻、その対岸に神崎鼻が突き出ており、湾はここでこの二つの端(はな)に挾まれ、ちょうど巾着(きんちゃく)のようにくびれている。さらにその先には香焼島(今では深堀との間が埋め立られ陸続きとなっている)が、湾を蓋するかのようにドッカと腰をおろしている。

     デウス号の航跡

    つまり、神崎鼻を過ぎ外洋に出ようとする船は、この香焼島を左右どちらかに迂回しなければならない。しかし、島の左側は浅瀬や岩礁が多く、大型船の通行は不可能である。とすれば、神崎鼻を過ぎた船は、この香焼島の手前で進路を大きく右に、つまり北西の方角に取る必要がある。
    記録によれば、デウス号が戸町に錨をおろしていた三日間、北西からの強風が吹き荒れ止むことがなかったという。そこでデウス号の進路を今一度地図上でたどってみると、神崎鼻のあたりまでは湾は西南の方角に開いており、この地点までは、北西風に対しても何とか間切りながら進んでくることができる。しかし、神崎鼻と女神鼻の狭い水路を通過したあたりから、先の述べたような理由で、船は大きく北西に進路を取らなければならない。要するに北西の強風にまともにぶつかっていくのである。軽快な現代のヨットでさえ、風上への切り上がり性能は四十五度が限界だという。C・R・ボクサー教授によれば、デウス号は積載量八百トンにおよぶ当時としてはかなりの大船である。
    しかもこの地点は、ねずみ鼻、高鉾島、神ノ島、四郎ヶ島、中ノ島、松島等々、数多くの島々が点在し、神崎鼻の先には三ツ瀬、唐人瀬などの浅瀬も待ち受けている。とても風上へ切り上がって進める状態ではなかったのである。
    このため、デウス号は神崎鼻の手前で、北西風がおさまるまで、まる三日間、待機することとなった。
    もちろん、この間も有馬軍の攻撃は止むことがない。追撃二日目の一月四日、春信は潜水夫を使いデウス号の錨綱を切らせようとした。しかし、ペッソアもこのことあるを予想し、船尾の鷹砲(ファルコン)を船首に移しており、これを使い潜水夫を次々と撃ち殺したのである。
    さらに三日目、春信は日の暮れるのを待ち、デウス号に火船を流しかけた。しかし、これも潮の流れが思うに任せず、ついには何ら得るところがなかった。『藤原有馬世譜』に言う。
    「翌九日(一月五日)、長崎浦の漁船数艘に焼草を積み、民家をこほち萱を積み、火を付、風上より黒船に流しかけしかとも、思う侭に流れかゝらず、たまたまなかれよるは、船より大筒を放ちしゆえ、この術も行われず」と。
    やがて一月六日(公現の祝日)、今まで吹き荒れていた風が、この日、嘘のようにピッタリと止んだ。ペッソアはこの機を逃さず、数隻の小舟をおろしデウス号を曳航させた。無風状態の中、八百トンに及ぶ大船を曵くのである。なまじのことではない。数少ない乗員の中からボートの漕ぎ手に人数を割き、必死の悪戦苦闘が繰り返された。
    そして、今、巨大なデウス号がズルズルと引きずられるようにして動きはじめた。まるで刑場へでも引かれていくかのように……。

    ナオ型帆船の船首と船尾火縄銃と火焔筒の戦い
    午前六時起床。ビジネスホテルの簡単な朝食を済ませると、私は大波止から神ノ島へ向かう連絡船に飛び乗った。客は私一人だった。海上に出ると、吹き付ける風が刺すように痛い。
    北西風だ……。
    三百七十年前、デウス号に吹きつけたのと同じ風が、今、私の体に吹きつけてくる。
    船室には入る気になれず、鼻水をすすりながら最後まで甲板で頑張った。船の乗務員が不思議そうな顔でこちらのほうを見ている。
    船はやがて神崎鼻を過ぎると進路を右手に取り、皇后島(ねずみ島)と高鉾島の間を抜け神ノ島に着いた。所要時間約二十分である。
    ところで、神ノ島は、昔、全島キリシタンの島であった。今もほとんどがカトリックの信徒であり、船着場から左へ入った高台には、ドミニコ会の教会が港を見下ろして建っている。その教会の真下、どんくの鼻と言われる岩山に、やはり海を見下ろして立つマリア像の姿が見られる。その台座には、

    「聖フランシスコ・ザベリオ渡来四百年記念
    昭和二十四年六月五日建立
          神ノ島カトリック教会信徒一同
                 上田 十蔵 作」

    の文字が刻まれている。
    さて、この地点どんくの鼻からの眺望であるが、まず東側に目をやれば高鉾島が左に、今は香焼島と一つになった蔭ノ尾が右に、その間に土井首町毛井首町あたりにかけての小山が顔をのぞかせている。また南側に目をやれば、四郎ヶ島が背後の中ノ島と重なり合って見え、その向こうに松島を見ることができる。
    デウス号は、このパノラマの中を、ゆっくりと小舟に曳かれながら、東から西へと移動していった。
    記録によれば、デウス号は、このあと順風を得てわずかの距離を帆送している。しかし、風はすぐに途絶えた。
    と、その時である。背後から漕ぎ寄せてくるものがある。
    それは、十五端帆の船を二艘もやい、デウス号の高さまで井楼を組み上げた楼船であった。
    楼船は、デウス号の船尾に漕ぎ寄せると、須磨留(スマル)と呼ばれる投げ鈎によってデウス号の自由を奪った。やがておびただしい数の小舟の群れが、デウス号に漕ぎ寄せその周囲を取り囲んだ。
    ところでエピソードがある。出撃にあたって日本の一切支丹武将は、「黒船(ナオ)が捕獲されないときは、すべてのパードレが死ぬこととなる。キリスト教も根絶やしとされることであろう。パードレたちの死ぬことのないように兵士が死ぬことは、すなわち殉教である」と、部下の切支丹たちの士気を鼓舞したという。事件の複雑な一面を垣間見たようでおもしろい。
    さて、戦闘は熾烈を極め、夜の八時ころから十一時ごろまで、ほぼ三時間余にわたって繰り広げられた。日本の楼船からは五百発以上の火縄銃が発射され、銃兵たちは互いに交代しながら井楼の最上段に登り降りを繰り返し、続けざまに銃を撃ちまくった。また小舟からも無数の火箭、火縄銃が次々と射かけられる。
    これに対しデウス号では火焔筒を投げかけ応戦する。これは鉛などの金属製容器に炸薬を詰め、導火線によって点火し敵船に投げ込むという、いわば手榴弾のはしりのようなものであろう。大砲は極端な至近戦のため用をなさない。しかし、この火焔筒がデウス号にとって命取りとなった。一ポルトガル人兵士が投げようとした火焔筒に、一発の弾丸が命中した。容器は火を吹いて兵士の足許に散り、甲板に並べてあった他の火焔筒を炎上させた。火は燃え広がり、ついに尾帆(ラテンセール)にまで燃え移った。人員は絶対数が不足している。消火の手がないまま、帆は燃え落ち、火薬の詰められていた大箱を爆発炎上させた。船尾は今や火ダルマとなって燃え上がっている。
    ペッソアは覚悟を決めた。彼は、神に「すべてがこれをもって終わることを赦しておられる主よ、讃美せられ給え」と祈ると、火薬庫に火を放つことを命じた。
    やがて……
    大音響とともに真っ赤な火柱が上がり、デウス号は艫が真っ二つに切断され、ついに三十三尋の海底へと沈んでいったのである。
    アビラ・ヒロンはこのとき「この都市全体がしばらくゆれたほどであった」と、その凄まじさを『日本王国記』に記している。

    香焼島ところで、今、私はどんくの鼻をはなれ、海岸づたいに四郎ヶ島へとやってきた。現在、四郎ヶ島は神ノ島と突堤で結ばれ徒歩で渡ることができる。しかし、この日、北西の風が強く、突堤を渡るとき危うく海へ吹き落されるところであった。それでも何とかこの四郎ヶ島へ立つことができた。恐らくデウス号沈没地点にもっとも近い陸地であろう。火を吹いて沈んでいくデウス号の姿も、ここへ来て初めておぼろげながらも想像できるようであった。 
    (中央公論「歴史と人物」昭和57年4月号掲載) 桐生敏明

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