紙幣から消えていった古代史の主役たち No.1 神功皇后

2010.04.14 Wednesday

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    明治14年発行の「改造紙幣」1円券
     明治14年発行の「改造紙幣」1円券 神功皇后の肖像が西洋人のように見える↑
    明治16年発行の「改造紙幣」10円券
    明治16年発行の「改造紙幣」10円券 顔立ちが日本人らしくやや改造されている↑

    神功皇后の肖像とそのモデルとなった印刷局女子職員斑鳩文化協議会主催「日本人は、なぜ、聖徳太子に魅かれるのか Part2」の第一回講座の中で、現行紙幣の肖像画の中から聖徳太子が消されてしまった話題がでた。そういえば聖徳太子ばかりでなく、日本の歴史を飾ったたくさんの人物が、ある時代の紙幣の顔として登場しては消えていった。
    そこで、今、僕が興味を持っている古代史に絞り、どんな人物が、紙幣の顔として登場し、消えていったのか、一度調べてみようと思い立った。幸い手許には、植村峻さんの「お札の文化史」(NTT出版発行)と、お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」(印刷朝陽会発行)という大変好都合な資料がある。この二つの資料とネットで拾った様々な情報をもとに、紙幣から消えていった古代史の主役たちを追いかけてみることにした。

    まず第一回は、架空の人物と歴史から抹消されながら、最近、またもやその実在が浮上してきた、まさに日本古代史上の「浮沈空母」とも言える「神功皇后」をとりあげてみよう。
    その前に、紙幣の図案に、なぜ人の顔が取り上げられるのかご存知だろうか。僕も偉そうなことは言えず、このことを調べてみようと思って、まず第一に浮かんだ疑問だった。
    植村俊さんの「お札の文化史」によると、一般に肖像が描かれる理由は、大きく三つあるという。まずは偽造防止対策。植村さんは言う。

    「第一は、偽造防止対策上の理由からである。紙幣の図柄にはいろいろな偽造防止対策が施されているが、その中で最も効果的なものが肖像である。
    紙幣の図柄において使われている偽造防止対策の例としては、複雑でこみいった唐草模様、機械彫刻による細かい複雑な凹版彩紋模様、色違いの複雑なカゴメ状の地紋模様、細い平行線の万線模様、色が次第に変化するレインボー模様、特殊な書体の記号と番号、複雑な国家または銀行の紋章、微細なマイクロ文字、動物、建物、風景、花、表裏刷合わせ模様の図柄、人間の肖像など盛りだくさんである。
    その中でも肖像は、最も効果的であるとされている。人間はつね日頃から、よく似た容貌でも見分けるように訓練されている。同じ人間でも、体調が不良だとすぐわかるなど、無意識のうちに優れた識別能力を備えている。したがって紙幣の図柄が本物に比べて若干でも異なっていると、おかしいと感じる。肖像以外の建物、風景、動物等だと、無意識のうちに大雑把に眺めているため、若干画線が違っていてもわからないのである。
    最近の銀行券は、偽造防止の観点から肖像を大型化し、その肖像を細かい線や点で緻密に描き、人々がいやおうなしに肖像に注目するように工夫しており、もし一本の線でも異なると、おかしいと感じるのである。(中略)
    第二は、デザイン上の理由からである。紙幣をひとつの美術作品として考えると、券面を引き締めるポイントとして肖像が不可欠である。美的感覚からも券面の中心となる大きな肖像が必要である。細かいごてごてした図柄だけでは画面構成が散漫になり、かえって偽造防止効果が薄れる。
    われわれはつね日頃から肖像入りの銀行券を見慣れているため、あまり肖像の意義を意識していない。しかし肖像なしの銀行券を眺めると、極めて物足りない感じがする。たとえば、戦後発行の肖像のない国会議事堂の図柄の『A拾円券』、彩紋模様の『A五円券』、昭和二年の金融恐慌時に発行した裏白の『二百円券』、さらに外国の肖像のない銀行券を眺めると、容易にそれがわかる。
    第三は、人々に親近感をもたせるという理由からである。紙幣にはその国を代表する国王、政治家、文化人、有名人等を描いているが、これは、その国民に肖像の人物の業績を再認識させ、親近感をもたせるためである。そのためには、ある程度、国民の間にその人物の業績等についての評価が定まり、コンセンサスが得られるような教科書に出てくるような人物、国民によく顔を知られた人物がよいことになる。」

    日本最初の近代的紙幣そこで、いよいよ神功皇后の肖像紙幣に話をもっていこう。
    神功皇后の肖像が掲げられた壱円札(明治14年発行 一番上の写真)は、近代的な紙幣として、初めて肖像が採用された紙幣となる。ちなみに日本で近代的紙幣の第一号は、「水兵札」と呼ばれる明治10年発行の壱円札(右上の写真)。第二号が「鍛冶屋札」と呼ばれる明治11年発行の五円札(右下の写真)。そして第三号が「神功皇后」の肖像が印刷された「神功皇后壱円札」となるわけである。
    このように肖像画が採用されるようになった第一号に「神功皇后」が採用されたわけだが、その経緯を「お札の文化史」から紹介してく。
    「明治から今日まで多く九〇種類ものお札が発行され、そのうち四六種類のお札に肖像が登場しているが、それは圧倒的に男性優位である。
    唯一の例外の女性像は、明治十四年から十六年までに発行された改造紙幣一円、五円、十円券に共通の肖像である神功皇后であり、しかもこの改造紙幣は近代的なお札として、初めて肖像を採用したお札であった。もっとも当時、女性を肖像に採用するという方針から神功皇后を肖像に選定したのではなく、明治天皇の身代わりとして選ばれたものであった。国立公文書館に保存されている資料では、当初、明治天皇の肖像を使う予定であったが、天皇自らの指示により、その代わりとして選ばれたものである。当時の資料によると、その昔、神功皇后の時代に朝鮮半島から初めてお金というものを受け取り、神功皇后が初めてその価値を知った人物であり、お金に縁があるという理由から選定されたものとなっているが、むしろ『古事記』、『日本書紀』の記述によれば強力な摂政として天皇制を支えた女傑であったため、天皇の代わりの人物として採用されたのであろう。」

    ところで、この紙幣の肖像画であるが、「毛彫り」というヨーロッパ式彫刻技法が採用されており、この技法を日本に伝授したのが、お雇い外国人である「エドアルド・キヨッソーネ」であった。
    「キヨッソーネは1833年イタリア・ジェノバの近郊アレンツァーノに生まれ、ジェノバの美術学校を優秀な成績で卒業後、イタリア国内で多くの優れた銅版画を制作、発表するなど、銅版彫刻師として活躍、若くしてアカデミア会員となった。
    その後1868年には、イタリア王国国立銀行が近代的な紙幣印刷工場の創設を実行するための要員として、キヨッソーネは嘱託員に採用され、多くの技術者とともに紙幣製造技術の優れたドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン印刷会社に派遣された。
    ドンドルフ・ナウマン社で日本の新紙幣「ゲルマン紙幣」の図柄を彫刻したことが縁で、明治7年(1874)、41歳で大蔵省紙幣寮にお雇外国人彫刻師として雇用された。
    明治8年から24年まで17年間、キヨッソーネは明治新政府が近代国家確立のために必要とした全ての紙幣、銀行券の肖像彫刻を手がけたほか、公債証書、印紙、切手、その他の多くの証券類の凹版彫刻を担当した。
    そのほか、優れた肖像描写の特技を生かして、印刷局在職中に明治天皇をはじめ多くの元勲たちの肖像コンテ画、銅版画を制作し、明治初期の宮廷画家としての役割も果たした。明治24年(1891)には印刷局を退職し年金生活に入ったが、退職後にも明治天皇の御軍装の銅版画や元勲たちの肖像コンテ画を描いた。その後病を得て、鎌倉等で静養をしていたが、明治31年65歳で逝去し、東京青山の外人墓地に埋葬された。」(お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」印刷朝陽会発行)

    神功皇后の肖像画を彫刻したのも、もちろんキヨッソーネなのだが、彼は徹底した写実主義を採用し、このため彼の作品の多くは、モデルや写真が多用された。神功皇后の肖像画を彫刻するに当たっては、「日本書紀」などの文献を参考にしながら、印刷局(現 国立印刷局)の美人女子職員をモデルに使い(写真)、聡明で高貴な雰囲気を出すことが心がけられたという。ただし明治14年に最初に出された1円札は、どこか西洋人のような雰囲気が漂っている。その後、明治16年に出された10円札では、この点が改良され、幾分、日本人らしい肖像画となっているのが見て取れる。
    このようにして制作された「神功皇后札」だが、明治14年〜明治16年まで「一円札」「五円札」「十円札」として発行され、その後、「神功皇后」が紙幣の肖像として登場することは二度となかった。

    次回、「紙幣から消えていった古代史の主役たち」は、神功皇后の補佐役として活躍した「武内宿禰(たけのうちすくね)」を取り上げる予定です。
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