山折哲雄さんの「私の散歩道」

2010.04.14 Wednesday

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    最近、「夕陽さんさんの会」の記事が多くなっているが、山折哲雄さんの珍しい原稿を発見したので、 ついでながら、ここで紹介しておきたい。「夕陽さんさんの会」会報の前身となる冊子で、「今昔ものがたり」なる不定期刊行物がある。やはり「むかし料理 今昔」のおかみ野村さんが発行していたもので、この編集組版も僕が手伝っていた時期がある。そこに山折さんが原稿を下さっていた。前に紹介した「殉教者たちが見た夕陽」とも関係する記事なので、ぜひ、ここに紹介したい。


    私の散歩道
    山折 哲雄

    この四月から京都の下京区に住むようになった。綾小路通りと油小路通りが交叉するあたりである。
    それでよく散歩に出る。このあいだは、その油小路通りを北に歩いていって、昔の本能寺小学校というのにぶつかった。いまは別の施設になっていたが、いわずと知れた織田信長が明智光秀に襲われて自刃して果てたところだ。その旧本能寺小学校を大きく迂回するようにして帰ってきた。

    南蛮屏風に描かれたイエズス会士それからしばらくしてだったと思う。歩き出して数分ほどのところで、「二十六聖人発祥の地」という銘板をみつけて思わず立ちどまった。四条通と堀川通の交わる東南の角である。その銘板にはこんなことが書かれていた。
    一五九四年のことだが、ここから西側百メートルにある妙満寺町に、フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父が聖マリア教会病院学校スペイン使節館というのを建てた。ところがそこで活動していたキリシタンの多くが、その三年後の一五九七年の二月五日に、長崎の地で殉教した。右のペトロ神父をはじめ、五名のフランシスコ会士と、三名の日本人イエズス会士、および十七名の日本人信徒の計二十六聖人だった。それでその場所が、「二十六聖人発祥の地」とされるようになったというのである。

    そのころ私は、たまたま浅田次郎の『壬生義士伝』を読んでいた。東北は南部藩出身の新撰組隊士・吉村貫一郎の話である。私のふるさともその「南部」なので、そこに描かれている吉村のキラキラした人間像に胸をつかれて読んでいた。そのなかに新撰組を裏切った参謀・伊藤甲子太郎とその一味を闇討ちにして血祭りにあげる凄惨な場面がでてくる。慶応三年十一月十八日のことである。かれらは新撰組に入ったものの、近藤勇や土方歳三にうとまれて、裏切る運命をたどったのである。
    その現場が七条油小路通りであった。私のいまの住まいから歩いて三十分ほどのところである。『壬生義士伝』では、さきの南部の義士もその仕事に参画していた。
    そのことを知った数日後、綾小路通りを西へ歩いて、堀川、大宮を越えていった。すると目と鼻の先に、新撰組の壬生屯所あとという遺跡があらわれた。新撰組は、はじめ壬生村に根拠地をおいて分宿していたが、分裂したあとは、近藤、土方などの京都組は京都守護職の配下になって西本願寺に屯所を移している。その西本願寺にも歩いて二十分、現在地に越してきてから私は一度だけお詣りしている。
    じつをいうと大学生二年生のとき、私はその西本願寺の御影堂で剃髪し得度をうけていたのである。
    因果はめぐるというか、このごろ外に出て歩き廻っていると、死者の記憶にぶつかることが多くなった。死の匂いのする場所だけを選んで歩いているような錯覚に襲われるようになったのである。いったいどうしてそんなことになってしまったのだろうか。不思議でならない。
    いちど大阪まで脱出し、「今昔」あたりでお清めの酒でも飲んで厄落としをしなければならないのかもしれない。

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