自分のことを振り返ってみたくなりました vol.13(最終)

2010.03.25 Thursday

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    天草コレジオを包む自然
                     (天草コレジオのあった付近の自然)

    五、口之津から天草へ…

    口之津港から天草までフェリーに乗る。
    約四百年前、この口之津の港から加津佐コレジオの印刷機やパードレたち、そして生徒たち学生たちを載せた船が、天草の河内浦へと向かった。秀吉の迫害を逃れ、セミナリオ、コレジオを移転させるためである。
    天草コレジオ跡旅の成り行きというのだろうか、私たちも、何かに動かされるように、その足跡を追う。ただし私たちの場合、河内浦まで船で行くことはできない。口之津とは対岸の鬼池までフェリーで渡り、そこから陸路、河内浦(現河浦町)へと車を走らせることになる。
    Sさんの運転でフェリーに車が入り、私たちは船のデッキに上がる。
    やがて待つほどもなく出航……口之津の港が次第に遠ざかっていく。そして、港の背後に愛宕山がそびえ、右手のほうには北条岳、その向こうには雲仙岳がうっすらと見える。あの愛宕山のふもとに加津佐のコレジオがあった。四百年前、天草に向かう学生や生徒たちも、この同じ景色をながめたことであろう。遠ざかる口之津の風景を眺めていると、あの加津佐町民図書館で感じた感覚が衝き上げてくる。手すりにもたれ景色を眺めている風情を装い、声をこらえて思いッきり泣いた。
    グーテンベルグ印刷機どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。ふと後ろを見やると、Sさんの奥さんも、甲板のベンチに座ったまま涙を流しておられた。
    やがて「間もなく、鬼池港に着岸します」と、アナウンスが流れた。
    鬼池から約一時間半、目的地である天草コレジオ館に到着する。来意を告げると、まず天正遣欧使節のビデオを見せられた。やがて完全なグーテンベルグ印刷機と対面する。その印刷機を中心に、当時、コレジオで使われていた楽器類が展示され、遣欧使節がローマ教皇グレゴリオ13世から送られたという服装や、南蛮人の服装が復元展示されている。
    やがて館長が帰ってきた。昼休みを利用して、健康のため毎日歩いているのだという。館長に展示品の撮影をお願いするが、どうしても許可してもらえなかった。代わりにと、天草学林の資料や研究書を頂くことになった。そのうえ、ある人物を紹介された。
    松崎喜一さんという洋服屋さんだ。天草には、天正遣欧使節が持ち帰ったという楽譜が残されているが、彼とそのグループは、当時の楽器を復元し、その楽譜から当時の音楽をよみがえらせていたのだ。
    でも、会っている時間はなかった。お名前と電話番号を教えてもらい、神奈川へ帰ってから連絡することにする。
    時間が刻々と迫っている。今日の夜七時には、長崎空港へ着かねばならない。帰途、天草のコレジオ跡とされる河浦中学校に立ち寄り、コレジオのあった周りの山や川を見、空気を吸う。
    後は一路、長崎空港を目指すばかり……鬼池から口之津へ、口之津から有馬、有家、島原と走る。原城跡にも立ち寄らず、島原城にも寄ることはなかった。行くべきところに行かされ、見るべきものだけ見せられたという感がする。夕方の島原市内の渋滞を走り抜け、諌早、大村と、ただただ走りに走り、夜七時過ぎ、飛行機に何とか間に合う時間に長崎空港にすべりこんだ。お礼の挨拶もそこそこに搭乗カウンターへと走る。
    Sさん、Nさん、本当にありがとうございました。


    六、シクストゥスの聖書

    最後に天正遣欧使節以後のローマに目を向けてみよう。
    天正遣欧使節を謁見して間もなく、グレゴリオ13世が亡くなった。コンクラーベ(教皇選出のための枢機卿会議)が開かれ、今にも後を追いそうな老枢機卿モンタルトが教皇に選出された。今まで腰の曲がった老人が、教皇に選ばれるや、急に背筋を伸ばし、松葉杖を放り投げるや叫んだ。「さあ、これでわしが皇帝だ」と……。
    「聖なるつむじ風」とあだ名された、シクストゥス5世の誕生である。
    天正遣欧使節は、この教皇にも謁見し、日本布教への援助を約束され、ローマを離れることとなった。使節の少年たちは、二人の法皇に謁見できた幸せを語っているが、果たしてそうであろうか。少なくともシクストゥス5世の存在は、この後、ローマを訪れた日本人トマス荒木にとっては、彼の夢や希望を打ち砕く大きな布石となった。
    シクストゥス5世は、五年間という在位期間に、サンピエトロ大寺院のドーム建設に奔走し、数百人もの人足を使い、オベリスクを一インチずつ動かし、現在のようなサンピエトロ広場の中央に移動させ、さらにバチカン図書館を建てるなど、五十年分の仕事をしたと言われる。
    その中で、最大にして最悪の仕事が、ブルガータ聖書、つまり教会が拠り所とするラテン語版聖書の改訂作業であった。
    四世紀、ヒエロニムスの労作とされるブルガータ聖書は、時代が下るにつれ、写字生の写し違い、読み違いが増え、印刷機が登場すればしたで、印刷するごとに、版を重ねるごとに誤字誤植が多くなってきた。宗教改革が始まるや、プロテスタントは自らの改訂版聖書を持つようになり、カトリックにとっても、信頼に値するブルガータ聖書を持つことが至上命令となっていたのである。
    これをたった一人で行おうとしたのが、このシクストゥス5世であった。在位三年目、学者たちが提出した決定稿が気に入らず、シクストゥス5世は三百語からなる勅書を発し、学者たちを退け「教会が拠り所とすべき聖書に関する問題を決定するにふさわしい唯一の人間は、教皇、すなわちわしである」と宣言したのである。
    シクストゥスはこの仕事をわずか八ヶ月で仕上げた。ただし今までより誤植が多くなり、しかも気紛れな翻訳、勝手な解釈をほどこし、「詩編のタイトルを変更した」ばかりか、聖書の章と句の配列において「おそらく不注意から、すべての章句を落としてしまった」のである。
    シクストゥスは誤植の訂正に更に六ヶ月を要し、この聖書の改訂作業は一段落を見た。シクストゥス5世の大勅書は言う。

    充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は……主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない。
     
    聖書完成後、間もなくして、シクストゥス5世は世を去った。すべての教会に残されたのは、教皇という絶大な権力に破門処置というおまけつきのやっかいな聖書だった。そしてこの聖書は間違えだらけの判じ物になっており、アカデミック界は大混乱に陥ったという。
    この後始末を引き受けたのが、ベラルミーノ枢機卿である。彼はただちに改訂版の準備と、人知れずシクストゥス版の回収作業を急いだ。プロテスタントの手に渡れば、「教皇は己の都合で、聖書まで書き換える」という非難は目に見えていたから……。
    ベラルミーノが何よりも念頭に置いたのは、歴代教皇が前任教皇の教令を非難する姿は見せてはならないということだ。教皇の威信をひどく損なうことになってしまうからであり、とはいっても聖書に対する尊敬は義務である。そして教皇制と同様、聖書は誤ちを犯すことはない。この矛盾を和解させるため、揉み消しが行われた。
    シクストゥス・クレメンテ聖書各地の異端審問所が動き、すでに出回ってしまった聖書の回収に当たった。
    こうしてシクストゥス版聖書の一件も、なんとか収まりを見せたころ、一人の日本人がローマへ留学してきたのである。密かに日本語翻訳のテキストとなる聖書を求めて。
    また、バチカンにおいて最も重要な聖省が完備しつつあった。世界の異端審問所の頂点に当たり、法皇が総裁となる検邪聖省がそれである。
    さて彼は、そのバチカンで一体何を見たのだろうか。
    史書は、トマス荒木のローマでの動静について、ただ一つのことだけを伝えてくれる。
    「枢機卿ロベルト・ベラルミーノは荒木をことのほか愛し、毎日の聖務日課まで一緒に唱えた」と……。
    はたして、この厚遇は愛されたからだろうか。それとも監視されていたに過ぎないのか。ローマで厚遇されたにも関わらず、トマス荒木がマカオへ帰ってきたとき、その地のイエズス会は、彼のことを性格に歪みのある危険な人物のように伝えている。
    そして、禁教下の日本に帰り、トマス荒木は捕えられ背教した。
    何があったかは想像の範疇を出ない。しかし、彼の描いた夢やその挫折を理解することから、彼を受け入れる道が開けているように思える。
    いつかトマスと共に大きな声で言えるだろう。
    「聖書に本当のことは書かれていない」「私たちの心の中に真実がある」と……。 

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