自分のことを振り返ってみたくなりました vol.12

2010.03.24 Wednesday

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    口の津の港
                       (船上から口之津の港を遠望)

    三、国民年金保養所「口之津」で起こったこと

    夕食を済ませ、露天風呂につかる。
    囲いの向こうは遠浅の海になっており、目を閉じれば、ザザーッ、ザザーッと波の音だけが聞こえ、波の音の中にただ一人包まれたような感じになる。
    島原の乱で四万人近い村人たちが死滅し、この地から村人が絶えた。幕府は大名たちに働きかけ、一万石につき一家族の割で、この島原半島への移住を呼びかけたのである。このあたりは小豆島からの移住が多かったといい、この地で有名な素麺は、小豆島素麺だと言われる。
    一揆に参加し、原の城に篭城し、ついにこの地の戻ることのなかった人々。空になり、人の営みが跡絶えてしまったこの地に、波の音だけは変わらず響いていたのだろう。そんなことを考えていると、波の音の中に、死んでいった人たちの思いが込められているように感じた。
    胸奥から嗚咽が込み上げてくる。
    「元の生活の返りたい。耕し、魚を獲る生活が夢のようだ。帰りたい、あの毎日の営みの中に帰りたい。もう人の血も、自分の血も、誰の血も見たくない。ただ帰りたい、元の生活に帰りたい。わしらが一体何をした。一体、何をしたというんじゃ。ああ、帰りたい、帰りたい……」
    そんな思いが、波の音の中に響いているように思えた。
    そう言えば、この地は、島原の乱でただ一人、幕府に内通し助かった男、南蛮絵師・山田右衛門作の出身地でもあった。元の有馬の家臣であったが、有馬家移封に伴い、行を共にすることなく、この口之津に残り、絵師として暮らしを立てていた。それが有馬の後に入った松倉重政の圧政のため、島原の乱が起こり、彼も乱側の指導者の一人として、士気を鼓舞するための陣中旗を描いたり、矢文による通信の責任者として闘っていた。
    そんな右衛門作が、幕府軍に内通の矢文を送り、幕府軍の総攻撃に際し、ただ一人、命を助けられたのである。
    その他は、女も子供も、三万八千人ことごとくが殺戮された。
    仲間を裏切り、ただ一人助かった男の悲しみ。そして千々石湾の名から思い出される「千々石ミゲル」の悲しみ。天正遣欧使節の一人としてローマに渡りながら、帰国後、キリスト教を捨てた男……そんなたくさんの人々の悲しみが、波の音の中に隠され、寄せては返し、寄せては返ししながら打ち寄せてきているかのように思われた。

    風呂上がり、ロビーでSさん夫妻と話した後、部屋へ戻る。
    今日の出来事を整理しようと、役所でもらった資料(例のパンフレット)を見ていると、どうしても小さな記事に目が行ってしまう。加津佐町民図書館の記事だ。
    先に天正遣欧使節のことを少し話したが、その使節がバチカンから持ち帰ったものの中に、グーテンベルグ印刷機と鉛の活字一式が存在した。その印刷機が復元されて加津佐町民図書館にあるという。
    この記事が頭から離れなくなった。Sさんに、今日行ってきた加津佐へまた戻ってくれと頼まなければならない。行っても開館していなければ、また行っても、常時、見ることができるとはかぎらない……しかも唐突に、なぜか「天草へ行かなければ」、そんな思いまでが出てくる。
    明日の予定は、口之津から島原半島を北上、南有馬、北有馬、原城跡を経て島原へ出、諌早を抜けて長崎大村空港へ向かう。やはり何も言わず予定通り動くべきだろうか。
    いろんな思いがグルグルと回る。役場へ電話しよう、いや図書館へ電話してみよう、そう思いロビーへおりてみるが、こんな時間にどこも開いているわけがない。結論は、明日、役場へ電話し、記事の内容を確認してからにしよう。自分にそう言い聞かせ、部屋へ戻り寝床を敷いた。
    ………………
    プチプチプチプチ……そんな音に目が覚めた。それとも目が覚めて、この音に気付いたのだろうか。
    部屋のどこかすみのほうから、プチプチプチプチという音が小さいながらもハッキリと途切れることなく続いている。豆電球の灯りで腕時計を見る。午前二時……。
    どこから音が出ているのか、部屋中、探し回る。
    最初は空調の音かと思ったが、どこにも音源が見つからない。でも、部屋の中から、小さくてもハッキリとその音は響いてくる。ずっと大きく波の音は響いているというのに、波の音より、その小さな音が部屋を支配しているかのようだ。
    目が冴えてくるに従い、部屋の異様な空気に気が付き始めた。空気が違う。空気ではなく、部屋中に恐怖がみなぎっており、気を許せば、体の中へその恐怖が忍び込んでくるかのようだ。
    口の津南蛮船来航地探すのをあきらめ、布団の上に座り直すと、自分の中の苦しい思いに語りかけようとする。次第に気分が落ち着いてくる。……と思うと、まるで体に隙間があって、そこから恐怖が忍び込んでくるかのように、あっという間に体中に広まる。
    おまじないじゃない。払うんじゃない。助けてくれじゃない、集まった苦しい思いを受け入れるんだ。受け入れるんだ、受け入れるんだ……ああ、まただ、怖い、怖い、怖くて怖くてたまらない。そうだ、Sさんを起こそう、いやダメだ、自分でやらなきゃ、自分の課題だ。受け入れるんだ、苦しい思いに心を向けてやるんだ……
    そんな繰り返しが続いた。どれぐらいそんなことが続いたのか、いつの間にか眠りに落ちていた。少しウトウトした感じで、次に目が開いたのは明け方の五時過ぎ……空気が変わっていた。あの何とも言えない空気が、すっかり朝のさわやかな空気と入れ替わっていた。
    山田右衛門作住居跡六時前、着替えを済ませ、表へ出る。Sさんとの朝食の約束は八時。二時間ある。私はこの時間を利用し、かつての波止場跡を目指す。この口之津の港は、長崎に先立ってポルトガル船が南蛮文化を運んだ地だ。しかし、現在の波止場は江戸時代末期に埋め立てられたもので、ポルトガル船が到着した港は更に奥へ入ったところ……。
    朝、散歩をする老人に道を訊ねながら、歩くこと十分、口之津の小さな公園にやってきた。途中から、三々五々、その公園に集まってくる子供たちと一緒になる。何のことはない、ラジオ体操に集まってくる子供たちなのだ。そして、その子供たちに導かれるようにしてやってきたこの公園が、南蛮船来港波止場跡だったのである。
    ラジオ体操している子供たちをバックに、記念碑の写真を撮る。
    子供たちや一緒に来ていた父兄の方たちに、山田右衛門作の屋敷跡を知らないか訊ねてみる。でも、知る人は誰もいない。ただ目印になる東大家の駅というのは、道が違うから、一旦、国道へ戻ってからでないと行けないということだった。
    まだ車の数も少ない国道を歩き続ける。
    四十分あまりも歩いただろうか。やっと東大家の駅に着いた。
    駅は無人駅で、その駅のすぐ先に小さな踏切があり、その踏切脇に、山田右衛門作の慰霊碑があった。その背後には「山田右衛門作屋敷跡」の碑が立てられてある。
    彼はどんな思いで幕府軍に内通したのだろう。それより何より、どんな負い目を抱えて、その後の人生を送ったのだろうか。
    この口之津まで来て、どうしても彼の縁りの場所へ来てみたかった。
    トマス荒木、千々石ミゲル、後藤了順、そして山田右衛門作……たくさんの日本人がイエスの教えに出会い、そしてイエスの教えを捨てた。恐怖から、懐疑心から、また利によって洗礼を受け、利によって教えを捨てた人たち。苦しい思いだけが残った。殉教した者も、教えを捨てた人たちも、ただ苦しい思いだけが残った。私は何をしにこの地を訪れたのだろう。私には、その苦しい思いに心を向けることしかできない。苦しい思いが残された地をたどることしかできない。

    東大家の駅から、口之津まで、一駅だけだが電車に乗る。
    七時四十五分、宿舎へ帰り着く。Sさんの部屋に電話すると、まだ寝ておられた。Sさんを起こして、二人で波の音を聞きながら露天風呂につかる。その後、ロビーで役場に電話し、復元印刷機の確認をする。
    今日、見ることができるという。Sさんに打診してみると、予定変更を快く了解してくださる。申し訳ないかぎりだ。本当にSさん、申し訳ありません。

    加津佐町民図書館

    四、加津佐町民図書館

    「ここにグーテンベルグ印刷機があると聞いてきたんですが……」
    図書館に入るなり、司書の女性に勢い込んで訊ねる。
    その女性の視線をたどると、なんのことはないロビーにでんと据えられてあり、すでにSさんが眺めている。すぐにでも印刷機を見にいきたいのだが、司書の方がいろいろと説明してくれる。それによると、この復元機は簡易復元されたもので、精密に復元されたものが天草にあるという。復元したのも、この加津佐ではなく、天草の教育委員会がドイツから図面を取り寄せて復元したのだという。
    写真を撮る許可を得て、さあ現物を見ようとしたとき、その女性が奥から、当時の版を使ってこの印刷機で印刷した一枚の紙片を持って現われた。B4大の紙の中央に「サントスのご作業」の表紙が印刷されてある。インクと紙は違っても、そこに刷り出された絵と文字は、まぎれもなく四百年前と同じものだ。
    その紙片をくれるという。手を出して受け取ったとたん、心の奥底から「オォーオォーッ」と、どうしようもない嗚咽が湧き上がってきた。あふれてくる声をあわてて飲み込むと、今度は涙があふれてくる。あわてて後ろを向き、少し離れたところに行って涙を拭く。深呼吸をして気分を落ち着け、また、女性司書の話に耳を傾けた。
    彼女はただならぬものを感じたのか、ぜひ天草に行くようにと勧めてくれ、案内の地図を用意してくれた。天草へ行きたいと思ったのはこれだったのかと、一人で納得する(すでに宿舎にいる頃から、Sさんには「天草へ行きたい」と無理を言い、予定変更を了解してもらっていた)。
    そんなこんなで、やっと印刷機に近づくことができる運びとなった。図書館に足を入れてから、すでに三十分以上が過ぎていた。

    ところで、一五九○年、グーテンベルグ印刷機は、天正遣欧使節の帰還とともにバチカンから日本にもたらされた。その印刷機が最初に設置されたのが、この加津佐のコレジオである。
    加津佐にあること二年、「サントスの御作業の内抜き書巻第一」が、「どちりな・きりしたん」が、「加津佐物語」が印刷された。
    そして天草にコレジオが移動すると共に、印刷機も移り、「ドチリナ・キリシタン」「ヒデスの導師」「平家物語」「伊曽保(イソップ)物語」「金句集」「ラテン文典」「ラテン・ポルトガル・日本語対訳辞典」などがローマ字で印刷され発行された。
    その後、印刷機はコレジオの移動と共に長崎へ移り、禁教令の中で破却されることとなる。長崎でこの印刷機の設置されていたのは、当初は「トードス・オス・サントス教会」(現・唐土山春徳寺)であり、その後「岬の聖母教会」(現・長崎県庁辺り)へと移るわけだが、これ以外に長崎の島原町にある「後藤宗因印刷所」にも設置され、コリャドの「懺悔録」や、わが国初の二色刷り印刷「サカラメンタ提要」が出版されることとなる。
    この間、トマス荒木は、この加津佐や天草でグーテンベルグ印刷機と出会ったのだろう。そしてこの印刷・出版への興味が、聖書の日本語訳へとふくらんでいったのではないだろうか。彼がローマへ渡った背景には、聖書の日本語版を期待する多くの顔があったように思えてならない。
    印刷が普及したとはいえ、聖書を外国語に訳すことには、まだまだ大きな抵抗があった。ヨーロッパでは、つい昨日まで、聖書を口語訳したことで異端とされるような時代であった。日本のイエズス会がこの企てに「ウン」と言うはずがなかった。イエズス会の中では、日本人の教育が重要視された一方、「日本人にはキリスト教の奥義を伝えるべきではない。たちまち自分のものとしてその姿を変えられてしまうであろう」「日本人はイルマンとして教会の雑用に使うぐらいが適当である」……そんな偏見が大きな勢力を持っていた時代でもあった。
    トマス荒木がローマに渡った目的の中には、ただ単にパードレになるためばかりではなく、聖書翻訳の原典となるテキストを持ち帰ることが暗に潜んでいたのではないだろうか。彼はローマで危険視され、ベラルミーノ枢機卿の監視下に置かれた。厚遇されたのではなく、暗に監視されていたにすぎない。トマス背教の伏線は、このローマにあるように思えてならないのだが……。
    背教してからの彼の周囲には、出版のにおいが立ちこめている。
    背教後、トマスが家光に謁見し、江戸から長崎への帰途、道中を共にしたのが、同じ背教者であり、先に掲げた「天草版・平家物語」を著した不干斎ファビアンであったし、さらに「キリシタン転び証文」にトマスと共に名を連ねる「日本転び伴天連 了順」とは、先に掲げた後藤宗因印刷所のの息子、後藤了順であり、共にクリストバーノ・フェレイラの著とされる「顕偽録」(キリスト教を攻撃する目的で書かれた書)製作に深く関わっていたと思われる。歴史的には「顕偽録」は、元ポルトガル人宣教師クリストバーノ・フェレイラが著したことになっているが、現実には、了伯(トマス荒木)と了順が書いたものを、フェレイラこと沢野忠庵の名で出版したものだという思いが伝わってくる。
    さらには角倉素庵や本阿弥光悦の「嵯峨本」にも、キリシタン版の影響が強く見られると言われており、その角倉素庵は京都の朱印船貿易家であり、トマス荒木の背教後の面倒を見る、長崎代官であり朱印船貿易家である末次平蔵とつながっている。
    と言っても、何も資料や文献に証拠が残されているわけではない。この旅をしてみて、「そう感じた」、しかも「強く感じた」という以外にはないのだが……。
    とりあえず今は、天草への道を急ぐことにしよう。 

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