自分のことを振り返ってみたくなりました vol.11

2010.03.23 Tuesday

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    秋月の風景
                            (秋月の城下町)

    第五章 秋月・加津佐・天草の旅

    一、秋月にて

    秋月城址
    夏期休暇を利用し、福岡ミニセミナーの後、秋月から島原半島を回る旅に出た。
    旅行の目的は、トマス荒木がたどった安土から長崎への道のりの中で、今まで遂に行く機会のなかった島原のセミナリオ(カトリックの初等教育を施す学校)、コレジオ(同高等教育を施す学院)跡を訪ねるためである。
    本能寺の変による安土セミナリオ焼失後、セミナリオは京都から高槻へ、さらに大阪へと移動し、島原半島にある有馬のセミナリオと合流し、島原の加津佐へと移る。またコレジオのほうは、当初、大分に設けられたものが、山口へ移動、さらに島原半島の千々石、有家を転々として加津佐に落ち着く。そして、この加津佐のセミナリオ、コレジオ跡を訪ねるのが今回の旅の大きな目的だった。
    「なぜ、そんなことを」と言われると、ただ行ってみたかった、自分の目と足で、どうしても確認しておきたかったというしかない。
    そして、もう一つの大きな目的地が秋月であった。
    それは、トマス荒木と長崎の豪商末次家の並々ならぬ関係を感じるためであり、その末次家と縁りの深い場所の一つが秋月だったからである。
    セミナー終了後、友人のN夫妻の家に泊めてもらい、翌朝、夫妻の案内で福岡近郊の秋月へと出発する。
    かつてNさんが福岡に引っ越すに当たって、秋月が近くだと聞き、どうしても行ってみてくれないかとお願いしたことがある。
    秋月には、かつて興味があって調べた、長崎代官末次平蔵の父、末次興善の屋敷があったと言われており、しかも、なぜか、トマス荒木がローマへ渡った背景に、末次氏の匂いを感じて仕方がなかった。その末次氏の長崎進出前の拠点が博多であり、堺であり、秋月なのだ。博多、堺が末次氏のビジネス上の拠点とするなら、秋月はビジネスを離れた生活の、もっと言うなら精神的なバックボーンではなかったろうか。
    この地で、末次興善はザビエルを迎え、その宿主となった。
    秋月へ行きいと思った。何も見つからなくても、この足で感じたいと思った。自分ではなかなか行けない。だから中村さんにせっついた。秋月へ行ってほしいと……。
    それが、今年の春になって、中村さんの奥さんから、次のような手紙と写真を頂いた。

    前略 お元気ですか。
    春に桜を見に秋月へ行きました。すぐに写真をと思いましたが、両親が二週間ほど来ていまして、忙しく、こんなに遅くなってしまいました。
    秋月は福岡県甘木市秋月町という城下町です。町の中に小川があちこち流れていて、水が清くて、とてもきれいでした。
    郷土館という所で、桐生さんの話していた末次興膳という人の名前を見ましたので、館長さんに話を聞きました。資料にもありますが、この町に生きた人でした。中国人の方で、この地では興膳善入という名で親しまれていました。子孫は興膳という姓で、今もたくさんいるそうです。
    この武家屋敷の縁側に座って、抹茶を飲んだり、日なたぼっこをしていたら、何か胸がいっぱいになりました。
    長生寺という寺に興膳善入の墓というのがあり、百二十四歳まで生きたそうです。墓まで後一○○メートルという札を見たら、心からワーッとあふれてきて、このまま行ったら墓に抱きついてしまいそうで、墓まで行く勇気が出ませんでした。涙だけがあふれてきてしまった……。
    きっと私も主人も、この地で暮らしていたと思います。
    小さな町ですが、なつかしく穏やかでした。小川の水辺に咲く菜の花が美しく、そして、もの悲しさのある町でした。
    桐生さんも是非いらしてみてください。
    きっと郷土館の館長さんと話しも合うと思います。

    興善と興膳……私が知る人物は末次興善。Nさんが秋月で見てきたのは興膳善入。しかも興膳善入は中国人だという。末次興善は平戸の木村氏の出であり、博多の商人末次家に養子に入って末次興善を名乗った。写していただいた写真を見ると、興膳善入の洗礼名は「ドミンゴス」となっている。末次興善の洗礼名は「コスメ」……どうも別人のようだ。
    でも、違うと言い切れない。根拠はないが、何か深い関わりを感じる。どうしても行かずにいられなくなる。
    八月の末に福岡でミニセミナーがある。それに合わせて秋月へ行こう。その後、島原へも足を延ばそう。そう決めてNさんにも連絡をとった。案内してほしいと……。

    こうして、秋月に来た。
    秋月でSさん夫婦と落ち合い、共に、秋月郷土館を訪れ、館長と話し、「秋月史考」をひもとき、興善の屋敷跡を訪ねる。
    結果、長崎代官末次平蔵の義理の兄の存在が浮かび上がってきた。
    貿易商末次興善は明国との関わりが深い。史伝によれば十六世紀初頭、明国は既にその北辺が騒がしくなってきており(やがて十七世紀に入り明国は滅び清の時代を迎えるが)、その動乱に紛れ、明国の王族の子が、貿易のため明国を訪れていた末次興善に託されることとなった。
    末次興善は、この子を長崎に連れて帰り養子とする。
    これが興膳善入だ。
    ところが、やがて興善に実子が誕生し(末次平蔵)、興膳善入は末次家の屋敷があった秋月へと移る。これが興膳家の起りのようだ。
    興膳善入が起した長命寺を訪れる。かつてNさんたちが「墓まで後一○○メートル」というところで、遂に行けなかったという興膳の墓があるところだ。
    Sさんをはじめ、皆、一様に重いものを抱えたようになる。Sさんのご主人が「みんな受け入れんといかんですよ」と明るく話される。私は「受け入れるぞ」「受け入れるぞ」と冗談まじりに話すが、肩に力が入っている。Nさんの奥さんが「そんな……まるでおまじないのようだ」と冗談を言われ、笑った拍子にふーっと肩から力が抜けた。
    長命寺が見えてきた。
    興善善入の墓
    その山門前から道は左へ折れ、山道に沿うように墓が並ぶ。末次家と興膳家の関係を裏付けるように、まず「末次家之墓」があり、それから奥に道をたどると、「興膳家之墓」があった。道標に導かれ、さらに奥へ緩い山道をのぼっていく。Sさんの奥さんと、Nさんの奥さんはここに残ることになった。
    もう少しで興膳善入の墓に着くというそのとき、道の曲がり角に地蔵があった。ところが首がない! あのときもそうだ。
    二十年前、長崎の唐土山に末次平蔵の菩提寺春徳寺を訪ねた。寺の裏山が岩の切り出し場になっており、その山頂近くに末次平蔵の石龕を切り出そうとした場所がある。石工たちが平蔵の戒名を刻もうとしたところ、その戒名から血が流れ出したという。現実には、岩が鉄分を多く含んでいたため、掘った箇所が雨に打たれて錆びが流れ出したものであろう。
    しかし、当時の石工たちは気味悪がって作業を中断した。今も石龕としてくり抜かれた岩塊がそのままに残っており、中に不動が祭られている。そして、その両脇を何体かの地蔵が守っているが、そのどれにも首がない。ただ一人、山を登り詰め、その光景を目にしたとき、思わず全身総毛立ったのを覚えている。
    偶然だろうが、今、また末次家の墓所近くで首のない地蔵を目にした。昔のことが思い出され、またぞろ全身を悪寒が走り鳥肌が立った。と同時に、何か胸奥から、叫び声とも泣き声ともつかぬものがせり上がってくる。叫びは声にならず喉にからみつき、ただ涙だけが流れる。
    やがて興膳善入の墓の前に立った。平静を取り戻し、感情的にならないよう事務的にしゃべっている自分を感じる。
    トマス荒木は、末次興善の口利きで、実際にはこの興膳善入の後ろ楯でローマへ渡ることができたのかも知れない。


    加津佐コレジヨ跡二、加津佐コレジオ跡

    話を戻そう。
    秋月で昼食をとろうとするが休んでいるところが多く、やっと「黒門茶屋」という土産もの屋兼食堂らしきものを見つける。ここでウドンを食べるが、これがなかなか旨い。コシがあるというか、モチモチしているというか、出汁も結構いける。Sさん夫婦の素麺・にゅう麺談義を聞きながら黒門茶屋のウドンに舌鼓をうつ。
    昼食後、Nさん夫妻と別れ、いよいよSさん夫妻の案内で島原へと向かう。
    当初は、Nさんと別れたあと、一人、島原鉄道で島原から北有馬、南有馬を経て口之津へと下っていく予定だったが、Sさんが車で案内してくれることとなり、逆の千々石湾から加津佐、口之津へと向かうこととなった。このルートの変更に大きな意味があった。おかげで見るべきものを見、行くべき場所へ行き、会うべき人に会った気がする。
    ところでボーロという菓子があるのをご存じだろうか。かつて長崎のカステラの製造法を盗みに行った佐賀(?)の人間が、作り方を間違え出来たのがボーロだという。いわばカステラの出来損ないだというが、これがなかなか旨く、名物となったという。
    Sさんが運転しながら話してくれたエピソードだ。
    そこへ奥さんが松露まんじゅうの話を始め、車の中が急に盛り上がった。
    やがて車は諌早を離れ、しばらく行くと唐突に車の右手に青い海が広がった。千々石湾だ。道は高台を走り、蘇鉄の木々の向こうに真っ青な海を見下ろしている。
    突然に別世界が出現した感じだった。
    この海岸線を走ること一時間、最初の目的地である加津佐に到着した。

    「加津佐のコレジオ跡を探しているんですが……」
    角の自転車屋に入り道を尋ねるが、あいにく娘さんしかおらず要領を得ない。
    「父なら知っていると思うんですが」と申しわけなさそうに頭を下げ、「少し先に町役場があるから、そこで訊いてみては……」ということになった。これがよかった。
    なまじ道がわかれば、史跡を訪ねてそれだけで終わったことだろう。
    町役場に行き、事情を話すと二階の観光課に案内された。課員は一人だけ、事情を繰り返し話すと、急に顔がほころんだ。彼は私に椅子を勧めておいて、自身は書架へ行き、資料を持ち出してくるとおもむろに説明を始めた。そして一通り話が終わると、加津佐町役場発行の二種類のパンフレットと一枚の地図ををくれた。一つは五十ページ程(全ページカラー)の、町役場の観光案内にしては豪華すぎるパンフレットだった。
    時計を見ると、もう五時近くだ。探している間に暗くなってはと思い、礼を述べ早々に出発する。
    農協前で道は二手に別れ、教えられたとおりに右へ道をとる。資料によれば愛宕山の中腹にセミナリオやコレジオがあったという。
    セミナリオとはカトリックの初等教育をほどこす全寮制の学校、コレジオは高等教育機関であり、この他にノビシアードという修練院があった。
    日本布教を始めたイエズス会は教育や病院、福祉に力を入れた。まず教会がつくられ、そして病院がつくられた。さらに捨て子を収容する施設ががつくられ、巡察師アレッサンドロ・バリニャーノが日本を訪れるに及んで、各種の教育機関がつくられた。
    まず有馬に、そして安土に……。しかし、有馬に一年遅れて出来た安土セミナリオ(琵琶湖刀岸の安土城下)は、本能寺の変の戦乱で灰燼に帰し、京都から大阪へ、そして高山右近城下の高槻へ、さらに秀吉の禁教政策から逃れるようにして南下、やはり島原各地を転々としていた有馬セミナリオと合体して、既にコレジオのあった、この加津佐に設けられることとなった。
    これら教育機関では、神学のほか、天文学、ラテン語、ローマ字、哲学、音楽などが、その課程において教えられた。特にラテン語は、初等教育から徹底的に教えられた。セミナリオの目的がキリスト教教理学習のための語学習得にあったのだから当然といえば当然のことであろう。
    今、手元に当時のバリニャーノの指示による「セミナリオ生徒時間表」なるものがある。その全文を次に掲げておこう。

    セミナリオ生徒時間表
    一、夏期、四時半起床。司祭たちと共に祈り、五時頃終える。
    冬季も同様にするが、各一時間遅らせる。時間変更は十月中旬から始め、二月中旬まで続ける。
    二、祈祷の後、ただちにミサ聖祭に与り、次いで主祷文を唱え、六時まで残りの時間は座敷の清掃。
    三、六時から七時半頃まで勉強し、学課を覚える。年少の者は教師の指示によってラテン語の単語を学ぶ。
    四、七時半から九時まで、ラテン語の教師と共におり、宿題を見せ、暗唱したことを報告し、教師が読み聞かせることを聞く。その間、年少者は課業を学び、先生から課せられたことをする。教師は年長者も年少者もそれぞれに応じて指導し、混乱を生じたり、時間を無駄に費やさぬように配慮せねばならぬ。その際、彼はすでに高い知識を持っている幾人かの生徒に手伝わせてもよい。それらの生徒は年少者に試問したり、彼等が書いた答えを訂正してやったりする。
    五、九時から十一時まで食事をし、休養する。
    六、十一時から二時まで、日本語の読み書きをする。すでにできる者は、日本語の教師の命令に従って日本文の書状を認める。その教師は、学課を訊ねたり、習字を修正したり、すべてよく秩序立て、彼等が上達するようにする。
    七、二時から三時まで、唱歌や楽器の演奏を練習し、残余の時間は休憩する。音楽においては、才能のある者を選出すべきである。教師は、数名のすでに上達したものを助手とし、これにより一人ずつに教える時間をより多く持つようにしてもよい。
    八、三時から四時半まで、生徒はふたたびラテン語の教師と共にいる。教師はこのときに一つの文章を書かせ、彼等が進歩するのにもっとも適していると思われる、何か他の文章を朗読して聞かせる。教師は、年少者には、その間、ラテン語の文章の読み書きに留めるのが適当と思われる。なお残る夕食前の半時間、
    すなわち五時までは自由時間とする。
    九、五時から七時までに夕食をとり、休息する。
    十、七時から八時まで、ラテン語を学ぶ生徒のために復習が行なわれ、
    年少者は、その間、日本文字、またはローマ字の学習、あるいはこの時間により適していると思われる他のことをする。
    十一、八時に良心の糾明をし、ロレトの聖母の連祷(夕べの祈り)をしてただちに就床する。
    十二、その週に祝日がない場合には、水曜日に二時間だけ日本語の読み書きをし、一時からは自由時間とする。ただし、しばらくは聖歌の合唱、クラヴォ、ヴィオラ、その他の楽器の練習をせねばならぬ。
    十三、土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語の復習に専念する。食事語は二時間、日本語の読み書きをし、一時に学校が終わる。続く自由時間は、入浴や散髪、また告白の時間に充てる。夕食後は休養し、なお残る時間には、前半はこの時間に行なわれる霊的な話を聞き、後半は聞いた説教やキリスト教の教義について語り合う。
    十四、日曜日と祝日には、昼食の後、別荘か野外に行って、休養するか自由にする。雨が降ったり、非常に寒かったり外出できないときには、一日中、屋内で休養する。しかし音楽をする者は、しばらく唱歌や楽器の演奏に時間を充てる。
    十五、夏期、非常に暑いときには、校長の判断に従い、勉学から解放して休暇をとらせ、数日間、休養のためにより多くの時間を与える。
    アレシャンドゥロ(署名)

    たどり着いたコレジオ跡は、山を切り開いたような住宅造成地の中にあった。正面に山(愛宕山だろう)を見、左手は住宅地、右手に畑地があって、その畑地の向こうが海になっている。この畑地に古い石組みが残っており、この一帯にコレジオやセミナリオがあったのだろうか。
    今となっては当時を偲ぶ何ものも残されてはいないが、周りを取り囲む山や海は、今も変わりはないだろう。海を眺めながら、しばし歩いてみる。
    夏の暑い時期には、セミナリオの生徒たちが、この海ではしゃいだのだろうか。海に向かいグレゴリア聖歌を練習する子供たちの声が、この高台に響いていたのだろうか。オルガンやクラブサンの響きが……と思いきや、付近の小学校のチャイムが響いてきた。
    時計を見ると、もう五時を過ぎていた。
    Sさんと車へ戻る。今日の予定はこれまでだろう。今日の泊りを予約している口之津の国民年金保養所へと向かう。 

    コメント
    Nさんが、途中で実名になってますよー
    • by 匿名
    • 2010/03/24 12:42 AM
    管理者の承認待ちコメントです。
    • by -
    • 2013/03/12 11:38 AM
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