自分のことを振り返ってみたくなりました vol.10

2010.03.21 Sunday

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    キリシタン転び書物(全体)
                 キリシタン転び書物(複製) 長崎県立図書館蔵


    6 「光のなかへ」

    政府刊行物大阪サービスステーションで働くようになって十三年が過ぎ、田池先生のもとで学ぶようになって、すでに三年が過ぎようとしていました。
    その頃、田池先生から本を書いてみないかという話が起こったのです。最初は冗談半分に聞いていたのですが、いつしか自分がなぜこの学びをするようになったか、自分の気持ちを整理する意味もあって、本気でこの話を考えるようになりました。
    ほぼ一年がかりで原稿ができました。
    この学びに反対していた自分の心がなぜ変わったのか、いろいろ理由はあげられますが、その決定的なものは、やはり「わからない」というのが実情でした。ただ私の心の中には、やはり浅間山の麓で起こった事件が尾を引いていたのです。人のできることが、なぜ、自分にはできないのか。あの恐怖心や不安はどこから来るのか……。
    私が坐禅をしていた心の裏には、そんな弱い自分を変えたい、ものに動じない自分をつくりたいという思いがありました。悟ることで自分が変わり、すべてが明らかになるのでは、という思いもあったのです。
    それがこの学びと出会い、チャネリングを通して間違いだったという答えが突きつけられたのです。
    田池先生の家を訪れたその日、先生から佐藤博子さんというチャネラーに紹介されました。チャネラーは、人の思いを言葉としてでなく波動としてキャッチする。それをチャネリングと呼んでいますが、私が坐禅に心を向けたとき、私の心の中から語り出した思いは、自らを白蛇と信じた僧侶の思いでした。悟りすら、もののように執着する「欲の心」が自らを白蛇と信じた僧侶の意識として語られていたのです。
    それが、私が坐禅を通して求めたものの答えでした。
    こうして坐禅に向けてきた自分の心は、チャネリングを通して教えてもらったのですが、肝心の浅間での件はわからずじまいでした。やはり浅間山でのことは、自分が心を見ていかねば、決してわからないことでしょう。自分は弱い人間なのか。女性でもやっていることが、俺にはなぜ我慢できなかったのか……。その解答は預けられたまま、ともあれ原稿は書き進められました。そこには浅間で起こったことは触れられることはなく、いつか自分の口から語られる日まで、自分の心の中に課題として残されたままにされたのです。

    こうして不完全ではありますが「光のなかへ」は完成し、私はその原稿を抱えて出版社回りの日が始まりました。というのも、「せっかく書かれた原稿だから、人の目に止まるようにしないと……」というのが田池先生の考えであり、私もその通りだと思ったからです。
    まず、原稿とその「あらすじ」を、幾組かコピーをつくり出版社あてに送付します。しばらくして、その出版社に電話を入れ様子を探る。少しでも可能性がありそうなところは約束を取り付け訪問します。そんな繰り返しがしばらく続きました。その中で東京にある二社が興味を示し、T社が、しぶしぶですが出版を引き受けてくれることになったのです。
    初版は三千部とし、初版分には印税は付けない。二版目印刷からは定価の十パーセントの印税が著者に渡される。ただし、発売時にする新聞広告は著者が費用負担するという厳しい条件でした。さんざん悩んだ末、条件を飲み、契約が交されることになりました。
    ところがです。お互いが契約書に印を捺した後になって、出版社が「契約を取り消したい」と訳のわからないことを言い出したのです。
    どういう理由かわかりません。当初は「契約書がどういうものかわかっているのか」と腹を立てました。でも、田池先生とも相談した上、クレームを付けることなく契約書を同時に破棄することで、この話を白紙に戻しました。
    これで出版の話は振り出しに戻ったわけですが、田池先生は、その後の処置として、「これからまた新しい出版社を探すのではなく、自費出版したらどうか」と勧めてくれました。
    仕事の取引先に、柳々堂書店という建築書専門の老舗があります。この社長が田池先生の教え子であり、彼女(社長)が話を聞いて創元社という出版社を紹介してくれました。早速、創元社に相談に行くことになりました。話はスムーズに運びましたが、自費出版ということになれば、それなりの費用が必要となってきます。しかし、安サラリーマンの私には、それだけの経済的余力はありません。
    どうしたものかと悩んでいたとき、千里中央駅で、ある人物から声をかけられました。同じ千里に住んでいる、この学びを共にする先輩であり、年上の友人でした。妻は、この方の奥さんの家に「朝起き会」を勧めに行って、却って田池先生に出会う道を示唆されることになったのです。
    以来、社会的にも経済的にも段違いの、このMさんとの友好関係ができました。そのMさんが、通勤途上、千里中央駅で電車を待つ私の後ろ姿を見かけ、「何か心配ごとでもあるのか」と声をかけてくれたのです。
    話を聞くと、彼は鷹揚に、「なんだ、金のことか」と、即座に費用を立て替えてくれることになりました。
    やがて二人して契約のため、創元社を訪れる日が来ました。あの日の朝、空は澄み渡り、Mさんは「こんな清々しい気分は初めてだ。気持ちのいい日だ」と、誰に言うともなくつぶやかれました。
    こうしてMさんのお陰で、「光のなかへ」は陽の目を見ることになったのです。ところが、次なる問題が流通の問題でした。書店に並べるためには、名前だけでも出版社名が必要です。
    その頃、私は今勤める会社を辞め、一人でもやっていこうと関東へ出るつもりをしていました。それを受け止めてくれたのが、今のエルの久保社長夫妻だったのです。当時、お二人は、本業の鉄工関係の仕事のほか、洗心堂という画廊を経営されており、その画廊をもとに、エルという会社をつくって本の出版にあたろうということになったのです。
    結果は、好きな画廊をやめさせる羽目になってしまいました。
    ともかくこうして、株式会社エルが発足し、この学びに関する印刷物を刊行するほか、学びの中心となるセミナーのお世話をさせていただくことになったのです。


    7 再びトマス荒木について

    こうして五年ばかりが過ぎました。
    その頃、私は「アトランティスの浮上」という本を編集しておりました。編集しながら、私は、そこにアトランティスではなく、むしろ江戸時代初頭のキリシタン迫害の匂いを感じていたのです。いきおい学生時代のことが思い出されてきました。そんなせいか、編集の参考資料にと図書館で借りた本の中に、一冊だけ日本のキリシタン時代を扱ったものが混じっていたのです。
    結局、この本は開くこともなく返却する日がやってきたのですが、返却に行く途中の電車の中で、パラパラとその本をめくっていると、ほんの数行でしたが、トマス荒木について書かれた箇所が目に止まったのです。
    不思議な気がしました。
    「トマスが追っかけてきたぞ」と、戯れに自分自身に語りかけていました。でも戯れではなくなってきたのです。「アトランティスの浮上」も編集が終わり、一息ついて、その新刊の営業に都内の書店を歩いているときのことです。
    ある本屋で「鈴田の囚人」を見つけたのです。かつて所蔵していた本です。16世紀末から17世紀初頭を生きたスペイン人宣教師カルロス・スピノラが、長崎西坂の丘で火あぶりになるまで、鈴田の牢内から書いた手紙を集めた史料集です。昔、長崎を訪れたとき、買い求めたもので、当時(昭和42年に長崎文献社から発行)は三百五十円で売られていました。
    その本が古本屋ではなく、新刊書店に並んでいたのです。しかも復刻版や新たにつくられたものではなく、初版のまま値段も同じ三百五十円なのです。信じられませんでした。ほぼ三十年前に発行された本が、増刷することもなく初版のままで、しかも新刊書店に残っていることが不思議でしたが、それ以上に「鈴田の囚人」なる本が、トマス荒木についての数少ない資料、しかも同時代、トマスと同じ牢に入れられていたイエズス会神父の書き表した飛びッきりの一級史料だったからです。
    トマス荒木は背教後も、態度が一貫せず、ためにスピノラ等が収容されている鈴田牢内に入れられました。それは、折りから「平山常陳事件」というキリシタン絡みの、オランダ、イギリス、スペイン、ポルトガルを巻き込んでの紛争が発生しており、そのキリシタン側の反応を探るための情報収集活動の一端でもありました。
    その狭い牢内で、スピノラ神父は背教者トマス荒木を見続け、そして心で責め続けました。その思いが牢内で書き綴られた書簡からにじみ出ています。
    かつて「平山常陳事件」を調べていたときには、この「鈴田の囚人」と、ディエゴ・コリャドの「日本キリシタン教会史補遺」が、キリスト教会側の同時代の史料として随分参考になったものです。特に「鈴田の囚人」は、その編者である二十六聖人記念館館長ディエゴ・パチェコ神父(現在日本に帰化され結城了悟と改名)のもとを訪れ、直接に取材さえしていたのです。
    その本が、かつて捨てたその本が、今、当時と何ら変わることなく目の前に並んでいました。トマスが追いかけてきた……そう思いました。今度は戯れでなく、本気でそう思ったのです。トマス荒木を嫌い、何度も心の中で握りつぶしてきました。でも、嫌っても嫌っても追いかけてきます。自分がそう思っているだけで、全部、偶然なのかもしれません。また、追いかけられているのでなく、逆に自分の心が追いかけているのかもしれません。
    「それならそれでよし、ひとつトマスと正面からぶつかってみよう。これだけひっかかってくるからには何かある。自分の心が知っているからこそ、これだけ形として現れてくるんだ」……そう思ったのです。
    それから本気になってトマス荒木のことを調べました。
    調べれば調べるほど、びっくりするようなことがわかってきました。
    大学在学中、そして卒業後この学びに出会うまでの十二年間、私は長崎代官末次平蔵のことを調べているつもりでいました。それを自分のライフワークにしようと思っていたのです。ところが、トマス荒木のことを調べ出すと、私が末次平蔵の取材のつもりで訪れた場所は、ほとんどトマス荒木と関わりの深い場所だったのです。
    滋賀県安土のセミナリオ跡、京都南蛮寺跡、大阪市内越中井戸近辺、大阪高槻の高山右近関係の史跡、堺のザビエル公園等、大村の鈴田牢跡、平戸松浦屋敷ほか、長崎桜町牢跡や岬の聖母教会跡・長崎奉行所跡等々、山口ザビエル記念教会……
    並べてみると、末次平蔵関係地というより、トマス荒木の歩いた道のりそのものでした。また、その地を訪ねたときの状況や思いを振り返っていく中で、絶対的な資料不足の中、トマス荒木の足取りが奇妙に埋まっていくのを不思議にを感じさえしていたのです。
    おまけに、昔撮った古文書の写真の中に、トマス荒木が背教後に名乗った了伯の署名がなされている「キリシタン転び証文」の写真が見つかったのです。この写真はポルトガル人宣教師クリストバーノ・フェレイラ(背教後の日本人名沢野忠庵)の署名が掲げられており、それが珍しくて、「まあ、撮っておこう」ぐらいの軽い気持ちで撮影してきたものでした。
    トマス荒木について調べているとき、何気なしに開いた人名辞典に「トマス荒木=荒木了伯(改宗後の名)」と出ていたのです。了伯という名前に覚えがあります。苦労して「キリシタン転び証文」を読んだとき、確か了伯という名前も出ていたことを思い出したのです。古文書類を撮影した写真は処分していましたが、ネガが一部残っています。早速、ネガアルバムをひっくり返して調べました。
    ありました。目的のネガが残っていました。面倒くさいのでネガをプロジェクターにかけて大きく映し出しました。「南蛮人転び伴天連忠庵」と署名された後ろに、確かに「日本人転び伴天連了順」そして「日本人転び伴天連了伯」の二人の名前があがっていました。
    それと気付かず、私はトマス荒木が署名したキリシタン転び証文を撮影し保存していたのです。訳もなく興奮してしまいました。あんなに嫌っていたトマス荒木なのに、知らず知らずここまで関わっていたのかと思うと、何かうれしくてたまらず、他人のような気がしなくなってきました。 

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