相撲の開祖 當麻蹶速(たいまのけはや)の塚を訊ねる

2009.11.03 Tuesday

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    マイ自転車

    今日は、まず僕の奈良散策の大事なアシスタントを紹介しておきたい。
    1台目は、「グリーン」と名付けたMUGELLO-M700というイタリア出身の自転車。イタリア出といっても高価なものでなく、今の広陵町へ引っ越してきたとき通販で買った大衆車だ。一度、ひどい転び方をして前輪が歪んでしまったことがある。顔見知りの自転車屋で修理を頼んだが、国産のホイールでは合わずイタリアから取り寄せになるという。自転車屋は「高い買い物になるから、新しいモノを買った方が気が利いている」ともいう。しかし、この自転車、そのときだけ通販用につくられたモノらしく同じマシンは手に入らない。そこで無理を言って、なんとか修理できないかと頼み込んだところ、気がやさしい彼は、自分に言い聞かせるように「お孫さんの自転車も買ってもらってるし……」というと、丸二日間かかって、曲がったホイールを真っ直ぐにし、スポークを一本一本はずして、これも歪みを直したうえで組み立てなおすという荒技をこなしてくれた。さぞ高い修理代を言われるかと思ったが、「タイヤのチューブを換えたから、チューブ代だけ頂きます」と、修理代は決して受け取ろうとしなかった。今時、こんな青年がいるのかと感動したものだ。

    コシモ・デ・メディチところで、なぜ、この自転車に、ここまでこだわるかというと、その名前のせいだ。MUGELLO……おそらくメーカー名だと思うのだが、マニアでもない僕には、いいのか悪いのかも分からない。ただイタリアのMUGELLO(ムジェロ)という地名には大いに興味がある。フィレンツエの北およそ30kmの地点にあるムジェロ、今ではサーキット場があることで有名だが、実はルネッサンスを支えた金融資本家メディチ家の出自と大いに関係があるようなのだ。ある文献は、「メディチ家は13世紀に入るや、フィレンツェ社会の中で急速に頭角をあらわしてくるが、それ 以前のこととなるとまるで分からない。一説にムジェッロで炭焼きをしていたと言われており、それがなぜフィレンツェ社会でどのようにして身を起こしたのか、まるで中世 の霧の中から忽然と現れてきたとしか言いようがない」と、メディチ家の出自がムジェロにあることをほのめかしている。
    真偽のほどはともかく、メディチ家に興味のある僕としては、偶然通販で買った自転車のフレームに「MUGELLO-M700」とプリントされているのを知り、まるで運命の出会いのように思ったものだ。

    2台目の自転車「イエロー」は、DOPPELGANGER-CROSS。これも名前が気にいって1年前に購入した。ドッペルギャンガーといえば、普通は「自己像幻視」と訳される心霊的な現象のことを言う。自分は別の場所にいるにも関わらず、他人が違う場所で自分を見たとか、自分が違う自分と出くわした等という現象のことをいうらしいが、ドイツ語でdoppel(英語ではdoubleになるが)というと、自分と瓜二つではあるが邪悪なものだという意味を含んでいるらしい。自分で、この現象を体験したら死ぬ前兆だという伝承さえあるという。そんな現象名を、自転車のメーカー名に付けている。そのことににまず惹かれた。メーカーのホームページを開いてみると、DOPPELGANGERをいい意味で「自分の分身」ととらえ、持ち物はその人の分身だから……というような感覚らしい。
    どちらにせよ気に入った。邪悪なものをも包み込んだ自分という存在に気づかせてくれるような名前だ。河内山の台詞ではないが「悪に強けりゃ善にもと……」というところか。

    古風な交番とサンドバギー愛車の紹介も終わったところで、早速、奈良散策に出かけてみよう。今日は我が広陵町の隣町に当たる当麻町、目指すは相撲の開祖といわれる「當麻蹶速(たいまのけはや)」の塚、お供はイエローことDOPPELGANGER-CROSS。
    まずは近鉄下田駅まで南下し、大和高田バイパスへと出、ここを右に二上山を見ながら当麻の交差点まで走る。交差点には「右、当麻寺」の標識がある。これを反対の左へ折れると「相撲館けはや座」の幟が迎えてくれる。角には古風な交番が、レトロな雰囲気を醸し出しているが、いきなり妙な乗り物が飛びだしてきた。農耕用トラクターではない、サンドバギーだ。古い町並みに、妙にマッチしているから面白い。
    それはさておき、この古風な交番の向かいが「葛城すもう館 けはや座」だ。館内には本場所の土俵や桟敷が再現されているほか、江戸時代の番付表など相撲資料が数多く展示されている。
    そして、この建物の隣が、當麻蹶速(たいまのけはや)塚ということになる。
    塚の横には、當麻蹶速についての説明書きが金属板に彫られて展示されている。まずは一緒に読んでみることにしよう。

    当麻蹶速について相撲開祖 當麻蹶速の塚
    日本書紀によると「當麻の村に、大変勇ましく強い人がいてその名を當麻の蹶速という。その性格は大変な怪力で、動物の角を引き欠いたり曲がっている鉄の筒を引き伸ばしたりします。そして、いつも人に語るのに、日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者にあって、命がけで力比べをしたいものだ、と語っていました。」このことを天皇がお聞きになり、臣下に仰せられた。「もし誰かこの男にかなうような強い者がほかにはいないだろうか」と。すると一人の臣下が進み出ていうのに、「私は出雲の国に野見の宿禰(のみのすくね)と言う力の強い人がいると言うことを聞いています。それでこの人をよびよせて蹶速と力比べをさせてみてはどうか」と言った。そこで、垂仁天皇の七年七月七日を期して、當麻の蹶速と野見の宿禰とに日本国技として初の天覧相撲を取らせることになった。二人は互いに向かいあって立ち上がり、おのおのの足を高くあげて蹴り合い、力闘の末、當麻の蹶速は野見の宿禰にあばら骨を踏み折られ、またその腰を踏み折られてしまい、敗者となってしまった。當麻の蹶速は高慢な人のようですが、実際には都ずれしない素朴で野性的な性格のため、朝廷の人々と相いれなかったと想像されます。そのため、当地の人々からはかえって親しみをもたれた。石塔は田畑の中に鋤かれることなく、現在まで貴重な遺跡として残されているのです。

    要は、当麻に“けはや”という勇ましい人物がいた。彼は自分ほど強い者はないと思っているような高慢ちきな男で、天皇はそれが気に入らない。なんとか“けはや”の鼻をくじく者はいないのかと探していると、出雲に“野見のすくね”という力自慢の者がいるという。では、というので、天覧相撲とあいなり、天皇の期待通り、“けはや”はあばらや腰の骨を踏み折られ亡くなってしまうという筋書き。
    しかし、この解説を書いた人物も、何かおかしいと思っているようだ。“けはや”のことを都ずれしない素朴な性格のため、朝廷とは相いれなかったが、土地の人々からは慕われていたと付け加えている。

    けはや記念碑03

    そこで違った見方をしてみよう。
    葛城氏や當麻氏は、大和朝廷からみれば被征服民族であり、いずれも、まつろわぬ人々だったわけで、“けはや”というのは、そんな一族のリーダー的存在だったのではないか。しかも征服されたとはいえ、大和朝廷に対し決して従順ではなかった。何かあれば反旗を翻しかねない、そんな火種を抱えていたのではないだろうか。出雲族も同じように、大和朝廷に支配されたとはいえ、鬱々としたものを抱えていたのではないだろうか。しかも葛城・當麻・出雲は元々同族の可能性も指摘されている。當麻氏は葛城氏に属するわけだが、その葛城の地には、出雲の神々が多数祀られているのだ。
    つまり垂仁天皇は、同族同志を争わせ、その牙を抜いておこうとしたのではないだろうか。その象徴的な話として「歴史上初の天覧相撲」があるのではないか。

    他にも、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっている。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻稚媛を自分の妃にしてしまったのだ。その稚媛というのが葛城氏の娘だった。
    要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになる。

    葛城=出雲連合が、「當麻蹶速事件」でつぶされ、葛城=吉備連合が、「稚媛強奪事件」でつぶされた。いずれも大和朝廷の統一政権確立の中でおこった出来事と考えても決しておかしくはないだろう。
     (写真は、相撲開祖 當麻蹶速の塚)

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