仏教という常識??

2013.09.24 Tuesday

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    はじめに

    人の一生には様々な儀式がついて回る。
    誕生に当たっては、まずは安産祈願。妊娠五ヶ月目に安産を祈って神社に詣で、腹帯とか岩田帯と呼ばれているものを授けられ、これを捲く。生まれたら生まれたで、七日目をお七夜と称し、この日に赤ちゃんの名前を付けるのが古来からの習わし。そして、この名前を命名書に書いて神棚にお供えする。
    生まれて一月が過ぎると、初宮参りといって、男子は生後三十一日目、女子は生後三十三日目に神社にお参りする。
    この後も、お礼参り、七五三参りと生まれてからしばらくは神社との縁が切れないようだ。
    特に「氏神」だ、「氏子」だと意識しなくても、多くの人が、このように神社と関わり、当たり前のように正月には神社に初詣をする。結婚式も圧倒的に神式が多い。最近はクリスチャンでなくても教会で式を挙げる人も増えているが、葬儀となると、俄然、日本人は「自分は仏教徒」だという意識を強くするようだ。生まれるときは「神様」で、死ぬときは「仏様」となるのが日本人の普通の姿になってしまった。
    ところが最近、葬儀についてのトラブルが後を絶たない。その多くがお寺、あるいは僧侶との関係にあるようだ。こんな中、「葬儀不要」「墓不要」「戒名不要」の声もにわかに勢いづいてきた。つい先だっても朝日新聞の朝刊に、シニアの三割が「葬儀を望まず」という記事が掲載された。
    しかし、一方で「葬儀は仏教でし、僧侶にお経を上げてもらい、戒名を授かり、死んだら墓に入るのが常識」という感覚が根強くある。だがこの常識、一体どこまでがホンモノなのだろうか。
    なぜ、こんなことを言うかというと、そもそも仏教に「墓をたてる」という思想がない。「死んで戒名をつける」という考え方も存在しない。仏陀自身は、「僧侶が葬式に関わるべきではない」とまで言っている。
    こんなことを言うと、みんなから「ウソーッ」という声が返ってきそうだが、多くの仏教国で常識となっていることが、なぜ日本では「ウソーッ」と叫ばれるような状況になってしまったのか。
    先日も、ある女性からこんな体験を聞いた。彼女も「葬儀不要」「墓不要」という考え方なのだが、ある時、知り合いの町会議員の方と話す機会があったという。話題は、息子さんの結婚式の話。ところが話すうちに、「うちの息子が、結婚式は外国で自分たちだけで挙げる。たくさんの人を招いて披露宴など挙げたくないと、バカなことを言い出しよった」と怒りだしたのだ。彼の立場上、そんなわけにもいかないらしく、それがもとで口喧嘩となり、あげくは、息子さん、「そんな体面ばっかりの儀式に縛られたくない。一番いい例が葬式じゃないか、あんな金ばっかりかかる葬式、ホンモノじゃないよ。必要ないんだ」と自分の思いをぶちまけたらしい。
    これには議員さん、よっぽど腹が立ったらしく「近頃の若い者はけしからん、あんた、どう思う」と、彼女に同意を求めてきた。
    それをよせばいいのに、「私だって、今の形の結婚式や葬式は必要ないと思っています。お墓だって必要ないですヨ。先祖や親を敬うっていう気持ちが、どれだけ大きな葬儀を挙げるか、どれだけ立派なお墓をたてるかにかかっているなんて、ナンセンスだと思います。せまい日本、そのうち墓だらけになってしまいますしネ。息子さんの言ってること、案外、筋が通っていると思いますけど……」と口が滑ってしまったからたまらない。
    「葬儀がいらない! 仏教徒が墓をたてない! そんなバカな話があるか!」と、怒りの矛先は遂に彼女に向かい「わしは仏教徒だ。お釈迦様を敬い、先祖を敬っとる。仏教徒が墓をたてないなど聞いたことがない。家を建てなくても墓はたてるべきだ。墓を持たない家は、いずれ衰退していく。わしが死んだら、墓がいらんというあんたの人生、これからどうなっていくか、草葉の陰からじっくり見届けてやる」ときたのです。
    このことをどうこう言うつもりはないのですが、私たちは、仏教徒だからこうしなければならないとか、お坊さんが言うからとか、常識だからとか言いますが、もし、この常識の根本が間違っていたらどうなるのでしょう。
    ここでは「葬式が必要だ」とか「必要でない」とか、「墓がいる」とか「いらない」とか、そんな話をするつもりは全くありません。私たちが仏教で当たり前だと思っているもの、世間で常識だと思っているものに焦点を当て、本当にそれが仏教での常識なのかを考えてみたいと思うのです。

    1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?
    まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。
    しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのですが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレーズが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみましょう。
    「始布施若左手布施勿令右手……」
    どこかで聞いたことはないでしょうか。
    そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説です。
    また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」とあります。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。
    このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずです。
    こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だったのです。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたといいます。
    日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記しています。

    私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
    「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
    「はい、たしかにあります」と言ってくれました。
    「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
    それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。
    (ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)

    このことは一体何を意味するのでしょうか。
    私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきました。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのです。
    驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるといいます。
    早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはありました。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑があります。これがお目当ての『景教伝達碑』です。
    しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だといいます。
    では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのでしょうか。
    そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史─仏教・景教編─』から、その概要を見ておくことにしましょう。

    中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。
    この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。
    景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。
    「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」
    この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。
    景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。
    王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。
    当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三〜八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。
    唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。

    このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしいのです。
    九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのです。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしません。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をします。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのです。ケン・ジョセフ氏は更にこうも言っています。

    空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。
    空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
    空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八〜八二七年)も、もとの姓を秦といいました。
    空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
    そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。
    高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
    (ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本─逆説の古代史─」

    これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようです。
    聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できます。
    ところで、ゴードン女子というのは、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことです。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れました。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだというのです。
    ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、一九二五年、七十四才でこの世を去りました。最期の地は京都であったといいます。


    2.お盆という行事も景教から
    このように、日本人が仏教だと思っているモノの中には、原始キリスト教の影響が色濃く残っていることが浮かび上がってきました。
    それは単に思想的な面にとどまるのでなく、行事や風習の中にこそハッキリと刻み込まれています。
     次に、我々が今まで仏教的だと思ってきた様々な行事や風習について見ていきたいと思います。

    ,盆と先祖供養
    仏教にはもともとお盆という風習はありません。お盆は盂蘭盆(ウラボン)の略ですが、これは「死者の霊魂」を意味するペルシャ系のソグド語「ウルバン(URVAN)」からきたというのです(仏教学者・岩本裕博士の説)。
    ソグド人には家に祖霊を迎え、供え物を共に楽しむという風習がありました。中国のお盆はこれを取り入れたモノだというのです。
    また景教徒にも、「じつは先祖の霊魂の慰安を祈る風習」があったと言います。

    ユダヤ人は昔から、死者の慰安のために祈る風習を持っていました。ラビ・トケイヤーにお聞きしたところ、今日でもユダヤ教においては、ユダヤ暦七月一五日の「仮庵の祭」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る特別なときがあるそうです(イズコル)。
    じつは中国には、ソグド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆の風習は、ありませんでした。意外に思われるかもしれませんが、インド仏教にも中国仏教にも当初、お盆や、死者のための供養の行事はなかったのです。
    しかし、中国は祖先というものを大切にする所です。その中国において、景教徒たちは勢心に、神の憐れみに満ちた取り扱いが先祖の霊魂にあるように祈りました。そうやって先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会でたいへん歓迎されたのです。そのために景教は、非常な勢いで人々の間に広まりつつありました。
    一方、仏教は「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。仏教は出家王義ですし、もともと、親を捨てないと救われないとする教えです。また先祖に執着心を持っていては修行できないとする考えですから、先祖や親への孝行を説く儒教の人たちから、さんざんに非難を受けていたのです。
    それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、「彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう」、と計画しました。そうやって、景教徒が中国へやって来た七世紀頃から、中国や、また日本でも、お盆の風習が始まるようになったのです。
    ソグド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)はまた、西暦七六六年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行ないました。七月一五日のことです。これは道教の「中元」の日でもあったからです。
    彼らはこうして、様々な宗教概念を仏教的な概念に編成し直し、景教徒への対抗意識から、歴代の中国皇帝の慰霊のために祈りました。このようにして、中国における「お盆」の風習が、仏教行事として定着したのです。この風習は、さらに唐の時代の中国にわたった空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。日本でもこうして、今日見られるような「お盆」の風習が定着したのです。
    (『日本・ユダヤ封印の古代史2−仏教・景教編』)

    戒名と洗礼名
    次に戒名について見てみましょう。佐伯好郎教授によれば、この風習についても、もとは景教のモノだというのです。確かに仏教には、もともと死者に戒名を付けるなどという習慣も教えもありません。本来の意味から言えば、戒名とは、教えに帰依したときに付けられる名前です。キリスト教の洗礼名と非常に似通っています。
    現に空海は、中国で密教に帰依したとき、灌頂(かんじょう)の儀式を受けています。この灌頂の儀式というのは、梅の木でつくった棒で人の頭に水滴を三度注ぐ儀式です。
    そして、この儀式の後、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かっているのです。キリスト教の「洗礼式」と「洗礼名」、それに密教の「灌頂式」と「灌頂名」、非常によく似通っています。これに反し、これに少しでも似たような慣習は仏教にはありません。しかも、灌頂ということ自体、密教以前にはなかったといいます。水滴を三度注ぐというのも、特に理由はなく、父・子・精霊の三位一体の名によって三度水をかける、キリスト教の「滴礼式の洗礼」をまねたモノだろうと佐伯教授は言うのです。
    そして戒名を書いた位牌。これについても佐伯教授は、本来景教のモノであると言います。景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった日付と洗礼名を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。同様にお墓をつくるという慣習も仏教にはなかったモノです。
    アジアにある多くの仏教国にはお墓をつくるという習慣がありません。なぜなら人は死ねば、また次の人生を生きるために生まれてくるのです。悟るまでこれを繰り返し続けると言います。死後の世界、死後の生活があって、そこに止まるわけではないのですから、墓も供養も必要ないというわけです。
    故人の思い出のために墓をつくるというのは、実は非常にキリスト教的な発想であり習慣であると言えるでしょう。

    数珠と焼香
    僧侶の必需品であり、私たち一般の者でも葬式には必ず持参する数珠、これもキリスト教のコンタツ(数珠)が元になっているようです。ケン・ジョセフ氏は「一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、随・唐時代の僧、道綽(どうしゃく 五六二〜六四五)だったと言われています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教にも取り入れられた」のだろうと述べておられます。
    この時代、『大秦景教流行中国碑』にあるように、中国において景教が全盛であったことと考えあわせると、なるほどと頷けるモノがあります。
    また、焼香という風習についても、仏教には元々なかったモノです。これについても、ケン・ジョセフ氏は、「じつは線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、そうではありません。仏教にははじめ、そうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちはみな、香炉などによって香をたく風習をはじめから持っていました。ユダヤ人も、礼拝のために香をたく風習を、モーセの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。(中略)また、景教の教会では、ろうそくを立て、あかりを灯しています。祈りたい人はろうそくを買い、それをろうそく立てに立てて祈るのです。これも、仏教の寺院に同じ風習があります」と述べておられます。
    このように、葬儀と供養という面から、日本の文化というモノをみてきましたが、仏教とは違う日本の顔が表面に浮かび上がってきました。
    生活の面、言葉の面、また神道の世界からアプローチしていけば、我々が思いもつかなかった日本が浮かび上がってくるはずです。

    まとめ
    今、仏教でいう常識について、ちょっと、かたよった見方かもしれませんが、一つの観点を紹介してきました。こういった作業を敢えておこなったのは、それは仏教がどうとかキリスト教がどうとかいう問題でなく、葬儀が必要なものかどうかという切り口から、自分にとって「死」とは何か、「生」とは何かということを自由に考えてみて欲しかったからです。今までまとっていた「宗教」とか「常識」とか「世間」とかいう鎧を脱ぎ捨てて、自由になって、この問題を考えてみて欲しかったからです。
    「仏教では」とか、「キリスト教では」とか、「世間では」という発想ではなく、自分はどう思っているか、裸になって考えてみることから本当の答えが出てくるような気がしてならないからです。

    八咫鏡(神鏡) 宮中にあるものと伊勢神宮にあるもの、どちらが本物

    2011.11.11 Friday

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       松山の道後温泉本館に行ったときのことだ。館内の案内で、又新殿(ゆうしんでん)という皇室専用の湯殿に案内された。なんでも明治32年に建てられたもので、昭和天皇も戦後すぐの頃に来浴されたという。浴槽は、御影石の中でも最上級のものが使われ、正面の湯釜には大国主命、少彦名命の両神像を刻んだ宝珠があるという。
       こんな風に、案内のおじさんが名調子で解説してくれるのだが、おじさん、何を思ったのか、若い観光客のお嬢さんたちに、「三種の神器って御存じですか?」と問いかけた。お嬢さん方はキョトンとしている。おじさん、すかさず「三種の神器というのは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙の劔(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)という、代々の天皇に受け継がれる神器を言うのですが、では、この3つの神器、どこにあるか御存じですか?」
       ざわついていた空気が、シーンと静まりかえる。この間をとらえて、「若い人には難しいですね」と言葉をはさみ、さらに「そこのお父さん、御存じですか?」と、こちらへ白羽の矢を立てた。
       思わず振られたので、「エーっと、鏡は伊勢神宮だし、剣は熱田神宮……ウーンと、曲玉はたしか皇居かな。」
       「さすが年輩の方は、違いますね」と、若いつもりの僕をまるで年寄り扱い。喜んでいいのか悪いのか、複雑な心境になったものだ。

       しかし、思わず答えたものの、皇居には、曲玉ばかりか、八咫鏡だって、草薙の劔だってあるのだ。なかでも「八咫鏡」は神器中の神器。いわばキング・オブ・キングス。この鏡だけは特別で、賢所(かしこどころ)に独立して保管されている。それが、どうして二つあるのか。また「草薙の劔」にしたって壇ノ浦で、安徳天皇が抱えたまま入水されたのではなかったか。それ以後、引き上げられたという話は聞かない。にもかかわらず、熱田神宮にも、皇居にもあって、一時は中止されていたが、「剣璽御動座」という儀式が復活し、昭和天皇の行幸のとき、「鏡」以外の「剣」と「曲玉」も、天皇と共に移動したと聞いている。
       とすると、神器は一体何組あるというのだろう?

       道後温泉で湧きだした疑問は、解決されないまま再び忘れさられ、いつしか意識の奥深くに沈殿していってしまった。


      (朝の自転車散歩で、偶然、唐古鍵遺跡へ出てしまった。)

       それが最近、我が町広陵町近辺を自転車で散策するようになって、再び意識の表面に浮かび上がってきた。一時期、早朝、運動を兼ねて、あてもなく自転車を走らせるのが習慣になっていたことがある。そんなある日、少し遠出をしようと、隣町の田原本町にある唐古鍵遺跡まで出てしまった。そこには1世紀の楼閣が復元されており、朝から珍しいものに出会えたと喜んだものの、帰り道が分からない。いつもは二上山が目印なのだが、それも見えない。早朝のこととて出会う人もなく、適当に自転車を走らせて行き当たったのが、「鏡作座 天照御魂神社」。これは「かがみつくりにいます あまてるみたまじんじゃ」と読むのだが、通称は鏡作神社という。その神社の由緒書きを見てびっくりした。そこには道後温泉で湧き出た疑問、その答の一端が示されていたのだ。


      (上は鏡作神社の由緒書き。下は檜原神社の由緒書き)

       まずは由緒書きをご覧じろ。
       「第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡(やたのかがみ)を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像鏡(ひがたのかがみ)を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)として祀れるもので、この地を号して鏡作といふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
       古代から江戸時代にかけて、このあたりに鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。」

       要するに、崇神天皇の時代に、天照大神の分身である「八咫鏡」を、宮中に置いておくのは畏れ多いとして、伊勢神宮の前身である笠縫邑に祀り、宮中にはレプリカをつくってこれを祀った。そして、そのレプリカを鋳造した地が、この鏡作神社だというのだ。
       なるほど宮中にある神器はレプリカなのだ。でもレプリカって、要は偽物なんでしょうと思ったが、さにあらず、どちらも本物らしいのだ。「本体」と「分身」という関係らしい。
       この「本体」と「分身」という関係については、稲田智宏氏の「三種の神器――謎めく天皇家の秘宝」に詳しい。少し長くなるが引用しておこう。


      (元伊勢と言われる桧山神社の鳥居)

       「宮中には鏡、剣、曲玉の三種神器があり、このうち鏡の本体とされるものが伊勢神宮に、剣の本体とされるものが熱田神宮に祀られている。したがって本体の鏡と剣も三種神器のひとつと呼ばれるが、宮中の三種神器と直接的な関わりが本来あったのかどうかについては分からない、ということである。
       ここで本体と分身という考え方について述べておきたい。
       先述のように天照大御神が自身の「御魂として」鏡を祀らせた、ということは、この天照大御神と鏡がすでに本体と分身の関係になっている。鏡は『日本書紀』の一書(あるふみ)によると天石窟に籠もった天照大神を復帰させる祭のとき、「鏡作(かがみつくり)部の遠祖天糠戸者(とほつおやあまのあらとのかみ)」が八咫鏡を製作したとあるから、神代の話とはいえ物理的につくられた物であることは明らかで、神とは異なる存在だろう。
       しかし日本の神は物に宿る。天照大神が宿る鏡は鏡であって同時に天照大神と見なされる。本体と分身という違いはあっても、同一と見なされるのである。したがって宿る物が無数にあれば宿る神も無数に出現する。(中略)
       事実、宮中の草薙劔は平安末期の壇ノ浦の合戦において海中に沈んだままなので、別の剣が草薙劔として用いられている。つまり八岐大蛇の尾から出てきたという由来を寄せられた伝統的な宝剣の直接的な分身ではないが、しかし現在、三種神器のひとつとして剣璽の間に奉安されている宝剣は、草薙劔の分身としての身分が確定しているがゆえに、草薙劔なのである。したがって熱田神宮の御神体の剣、壇ノ浦に沈んだ宮中の剣、現在の剣璽の間に奉安されている剣はいずれも草薙劔と見なされる。(中略)
       宮中に伝わる神鏡や宝剣は、真実かどうかはともかく伊勢神宮や熱田神宮の御神体の模造品、レプリカだと説明されることが多い。しかしその模造品とかレプリカといった言葉から、形だけを似せた模造品やレプリカにすぎないといった印象をもつのは間違いである。」

       一昨年、松山道後温泉で湧き出た疑問は、これで見事に解決した。
       しかし、迷った末に行き着いた鏡作神社。実は我が家から、自転車で走ってわずか30分たらずのところに存在していた。
       これを知ったとき、古代史のまっただ中
      (アマテラスのまっただ中)に住んでいる、そんな感慨をあらたにしたものだった。


      (鏡作神社に到着)


      (鏡作神社 本殿)


      (鏡作師が身を清めたという鏡池)

      近江京(大津京)を訪ねて思うこと

      2011.08.11 Thursday

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        2011年8月某日、今日は孫たちの夏休みの話題づくりのため、滋賀県は大津のロイヤル・オークホテルに来ている。日中、孫たちはホテルのプールで水遊びに興じていたが、僕はどうしても行きたいところがあった。

        百済復興に失敗し、女帝斉明も九州で没し、中大兄皇子が遷都に踏み切った大津京の跡。住まいする奈良からも近く、行こうと思えばいつでも行けるようなものだが、仕事に追われ、なかなか足が向かなかった。
        大津市に来ていて行かない法はないだろうと、宿泊先のホテルに着くなり別行動に踏み切った。夕方5時に家族と落ち合うことを約束し、ホテルの送迎バスでJR石山駅へ向かった。石山駅からは、いったん山科駅へ戻り、湖西線に乗り換え大津京駅へと向かう。ここですぐ近くにある京阪皇子山駅に移動し、次の近江神宮前で下車する。

        いよいよ目的の大津京跡に到着だ。改札口には卒業したてだろうか、若い女性駅員が降車客から切符の回収にあたっている。僕はというと、すぐ近くに来ているのだろうが、地理不案内ということもあって、右へ行っていいものか左へ行っていいものか、どちらに行っていいのかまるで見当がつかない。そこで、この女性駅員に「大津京跡は、どちらの方角へ行ったらいいでしょうか?」と訊ねてみた。
        すぐに元気のいい返事が返ってくると思ったが、

        「えっ? 大津京の駅ですか」
        「いえ、大津京の駅から来たところなんです。行きたいのは、大津京の都の跡なんですが……」
        「都の跡……? すみません、分かりません」
        「……」

        一瞬、間違ってとんでもない場所へ来たのかと思ったが、そんなわけはない。間違いなくすぐ近くに来ている筈だ。何て言ったらいいのか、匂いというのか、その場所に自分は居るのだという実感のようなものがある。自分の勘を信じて歩いてみるしかない。
        しかし、少し歩いたところに付近の地図が掲げられてあり、自分の思いが正しかったことが証明された。

        地図の表示に従い5分も歩かないうちに、「史跡 近江大津宮錦織遺跡」という表示板が草むらに表れた。狭い草に覆われた一角にそれは立っていたが、あまりにも寂しい。
        「都としてわずか5年の寿命だったとはいえ、古代史に大きな足跡を残した大津の宮跡、それがこの状態か。若い駅員が分からないのも無理はないか。」
        そんなことを思って歩いていると、歩いて二、三分のところに、またも「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第一地点遺構」の標識が出てきた。案内板によると、ここは「内裏の東南隅にあたり、右手に見える2列に並ぶ柱は内裏の入口から東にのびる回廊の一部と考えられ」「左手に見える一列に並ぶ柱は、回廊から北にのびる塀の一部」だという。さらにここから80メートルあまりのところに、今度は「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第二地点遺構」として「内裏正殿の跡」が現れた。内裏正殿跡は道を挟んで第七地点、第九地点まで広がっているようだ。
        こうして歩き続けると、今度は「大津京シンボル緑地」に突き当たる。ここには、藤原鎌足や額田王(ぬかたのおおきみ)、さらには柿本人麻呂の歌碑が立てられているほか、「平家物語」の時代まで進み、僕の好きな平忠度の「さざ浪や 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな」の碑まで立てられた公園に行き当たる。この先は「近江神宮」があり、ここで道を川に沿って右折し折り返すと、最後は、「京阪近江神宮駅前」に戻ることとなる。しかも、駅建物のすぐ前に「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第四地点遺構」という薄汚れた標識が立っている。何のことはない、先ほど若い女性職員が「分かりません」と答えた目の前に、寂れてはいるが「第四遺跡」は存在しており、そこには「南北に伸びる塀の柱跡三個が見つかり、柱の太さは直径30センチメートル、ほぼ2.6メートル間隔で並んで」いるとの説明が書かれていた。
        「分かりません」と答えた若い女性駅員を責めるつもりはないが、近江京がこの地に存在したという事実自体が稀薄になってきているのを感じる。

        では飛鳥から大津京あるいは近江京への遷都はなぜ行われ、なぜ5年の短期間で再び飛鳥へと都が移されたのか。難しい話は抜くとしても、その背景には東アジアの大変動、朝鮮半島における百済、続いて高句麗の滅亡があり、新羅が唐の力を借りて半島を統一したという歴史的事実がある。百済滅亡に伴い、斉明女帝は、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)と共に、唐・新羅を相手に「百済復興」をうたい軍を起こす。ここで有名な「白村江」における日本軍の大敗北があり、百済は滅亡ということになる。この辺りから、「大津京」が滅ぶ「壬申の乱」までを年表に整理してみると、東アジアの情勢の中での日本の動きがよく見えてくる。


        660年(斉明天皇6年)、唐・新羅連合軍の攻撃で百済が滅亡。

        661年、日本に滞在中の百済王の太子・豊璋を盟主に倭国による百済復興軍が組織されるが、斉明女帝、遠征先の九州にて病没。倭国軍は三派に別れ韓半島南部に上陸。
        中大兄皇子は、天皇位を継ぐことなく、称政、つまり天皇位に就かず政務を遂行する。

        663年、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功するも、その後、倭軍が白村江で大敗し、百済復興は失敗に終わる。
        同年、中大兄皇子、戦後処理のため、唐へ「倭」としてではなく「日本」として使節を派遣する。唐と戦ったのは「倭」であって「日本」ではないというつもりだろうか。それはさておき、ここではじめて「日本」という国号が対外的に使用されることとなる。
        この後、唐からは、使節・郭務悰をはじめとして2000人の兵が日本へ派遣されており、663年〜666年の3年にわたって日本に駐留する。 
        (使節としてはあまりに大規模な派兵であり、おそらくは戦後処理の威嚇的な派兵ではないかと思われる。核武装なくとも2000で戦後処理=核武装と郭務悰をかけているのですが……下手なシャレ、「お粗末さま」と後始末。)

        666年〜668年、唐と新羅が高句麗攻撃を開始。

        667年、劉徳高が戦後処理の使節として来日する。
        この年3月(天智6年2月)、大津京への遷都。

        668年2月(天智7年1月)、いままで称政を続けていた中大兄皇子が天智天皇として即位した。天智が即位することにより、東宮すなわち皇太子は、その弟・大海人皇子となる。しかし我が子・大友皇子に皇位を譲りたい天智と衝突。
        この年、高句麗が滅ぶ。新羅による韓半島統一。

        669年、韓半島の統一なるや、一転して新羅は高句麗の遺臣と力を合わせ、韓半島にとどまろうとする唐に対し蜂起をおこなう。
        この年、河内鯨を遣唐使として派遣。唐からは、使節・郭務悰が2000の兵と共に再来日。

        671年(天智10年)1月、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命する。
        この年10月17日、天智天皇は病が深くなり、病床に大海人皇子を呼び寄せ後事を託そうとする。これを罠と知った大海人は、自分には皇位を継ぐ意志はないことを明言、その場で出家し、吉野山へ下る。

        672年1月(天智10年12月)、天智天皇崩御。このあと大友皇子が即位したかどうか不明ではあるが、後継に立ったのは間違いがないであろう。
        この年5月 唐の使節・郭務悰が2000の兵と共に帰国。
        この年6月 大海人、吉野を脱出して美濃へ向かい、この地で挙兵する。
        この年7月 大海人は大友側に決戦を挑み、大友側を破り、大津京または近江京は崩壊。

        この後、天武の時代には、遣唐使の派遣はなく、新羅との友好関係を保持する。 

        ※唐側は、天智の在世期間、使節・郭務悰に2000の兵を預け、二度も日本に送っている。
        特に二度目は、天智の亡くなる3年前に日本側が遣唐使を送り、これを送るに当たって2000の兵がやってきている。しかも、天智が没し、次の大友が皇位に就いたことを見届け帰国している。そして大海人は、中国の使節や兵が引き上げた一ヶ月後に挙兵している。

        このことから妄想をたくましくしてみると、こんなことが言えるのではないだろうか。
        白村江の敗戦で、唐から郭務悰が2000の兵をひきつれて戦後処理にやってきた。天智=中大兄皇子は、逆にこれを国内統一の駒として使ったのでは。難波の宮遷都で、旧豪族勢力の地盤から離れ、さらに官位を制定することで天皇を中心とした律令体制へ移行しようと頑張っているが、やはり豪族の勢力は強い。そこへこの敗戦。天智としては「皆さん、そんなこといってる場合じゃないですよ。唐が本気で攻め込んできたら、日本なんてひとたまりもありません。従来の権益にしがみつくより、ここは力を合わせて強い国造りに励みましょう。唐のことはしばらく僕に任せてください。悪いようにはしません。」
        唐は唐で、韓半島の背後に同盟国・日本を持つことで力強いことかぎりがない。百済は滅んだものの、まだ高句麗という強敵がいる。前の隋などは高句麗に攻め込んだものの、さんざん手こずらされたあげく逃げ帰り、これがもとで国が滅んだようなものだ。新羅とは手を組んでいるものの、なかなか足並みもそろわない。いつ手のひらを返すか知れたものではない。ここは背後の日本を抱え込んでおくにかぎる。
        こうして、天智=唐の同盟が出来上がった。天智は唐の驚異を煽りたて、国内統一に励む。唐は唐で、天智のスポンサーよろしく、「いつでも困ったことがあったら言ってこい」なんて。

        二度目の中国兵2000名の派遣は、天智が後継者の問題で悩んでいるとき。大海人は人気がある。息子の大友に跡を継がせたいけど、大海人が黙っていないだろう。「なんとかならない」と、河内鯨を遣唐使として派遣し頼み込む。「よっしゃ」とばかりに、またも郭務悰さんが2000の兵を引き連れて、にらみをきかせにやってくる。
        この頃は、韓半島でも、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ばされ、新羅が朝鮮統一を果たしている。ところが、力を借りるだけのはずだった唐は、半島から動こうとしない。この機会に半島も我がものになんて考えている。そんなこというんならと、新羅としては、旧百済や高句麗の遺臣達と協力するする傍ら、背後の日本に目を向ける。唐は日本の天智を手なずけて、韓半島を挟み撃ちにしようと狙っている。
        じゃあ、天智の対抗勢力・大海人くんを応援しよう。「どう、一緒にうっとおしい唐をなんとかしない。このままほっといたら、好き勝手しほうだい。手を組みましょうよ」なんてことにならないか。

        つまり、壬申の乱というのは、天智=大友を唐が応援し、大海人を新羅や高句麗の遺臣、それに百済の遺臣たちが応援するといった、東アジア全体の「仁義なき抗争」ではなかったのかということだ。

        かくして大津の都は、5年間だけで滅び去り、1300年を経た今では、京阪電鉄の若手職員からも忘れ去られる存在となった。

        芭蕉ではないが、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、汗とともにそんな言葉がこぼれた。

        伊勢に齋宮(いつきのみや)を訪ねる

        2011.07.27 Wednesday

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          齋宮跡.jpg

          伊勢に仕事で出かけることがあった。
          伊勢には何かひっかかるところがあって行きたいとは思っていた。ところがどこに行きたいのか自分でもハッキリしない。伊勢の内宮だろうか、それとも外宮だろうか。
          しかし、どちらもピンとこない。
          そう言えばまだ20代のころ(もう40年前のことになる)、PR映画の制作部におり、近鉄電車のPR映画「伊勢志摩」という作品に制作助手として関わったことがある。その頃は、映画の撮影が何か偉いことのように思えて、優越感一杯で、参拝客・観光客に「撮影中ですから」「撮影に入りますから」と、当然のように押しのけてきた。今も、町などを歩いていて撮影風景に出くわすことがあるが、若いスタッフが見物人の整理をしている姿を見ると、自分の若いころの傲慢さを見せつけられることがある。
          閑話休題(それはさておき)、やはり伊勢に行きたいと言うからには、昔行った「内宮」「外宮」なんだろう。ともかく、そこへ行ってみれば何か分かるような気がして、仕事を済ませた翌日、息子の運転する車で、まずは外宮へと向かった。
          前日は、松阪のビジネスホテルに泊まっており、そこを朝8時に出発した。外宮までは約40分の道のり。ゆっくり行っても9時までには外宮に到着するだろう。

          ところが、旧伊勢街道をドンドン走り、櫛田川を越えた辺りで「齋宮の森」「齋宮歴史博物館」「齋宮(いつきのみや)歴史体験館」を示す表示板に出くわした。表示を見るなり
          「ここだ、伊勢で行きたかったのはここだったんだ!」
          そんな思いが一瞬にしてわき上がってきた。キョトンとする息子に「悪いけど、ここへ寄ってよ」と、頼み込み、道を右折し、一路、齋宮の森を目指すこととなった。



          では齋宮(いつきのみや)とは何だろうか。一頃の僕は、近世の日欧交渉史に興味を抱き、キリスト教を中心とした文化摩擦のことばかりほじくり返していた。それも「孤児たちのルネサンス」を書き上げたことで、ひとまず自分の中では決着がつけられるようになった。そこへ登場したのが、関東から関西へ帰ってきて落ち着いた引っ越し先、「北葛城郡広陵町馬見」という場所であった。
          日本という国が成立した舞台、つまり欽明、敏達から推古を経て天武に至る古代史のまっただ中へ降り立った、そんな感じなのだ。散歩コースにある牧野古墳(ばくやこふん)は敏達の息子・押坂彦人大兄皇子の墓と言われている。同じく散歩コースの新木山古墳、その近くには十市皇女の墓があると言われる「赤部」、高市皇子の墓と言われる見立山古墳(見立山近隣公園)。行くところ行くところが、古代史の、しかも日本という国が成立した時代の舞台となった場所。法隆寺は自転車で30分、飛鳥は自転車で1時間半、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳や大神神社、それに元伊勢と言われる檜原神社へは自転車で1時間。二上山登り口へは自転車で30分。そんな場所にいて古代史に心が向かないわけがない。
          特に二上山と、そこに眠る大津皇子――個人的には二上山雄岳よりも麓にある鳥谷口古墳が、大津の墓だと思っているが――そんな大津皇子について語ろうとすると、どうしても出てくるのが、大津皇子とは同母の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)。彼女も伊勢の斎宮であったが、大津皇子が謀反の罪で刑せられたため、斎宮の任を解かれた。そんな彼女が遠く伊勢の地で、刑死した弟を思って歌ったのが、「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」の歌。二上近辺には、この歌を彫った石碑がいろんな場所におかれている。

          齋宮跡石碑.jpg

          やっと斎宮との接点が出てきた。
          恥ずかしながら、斎宮については、皇室の女性が任じられるんだろうぐらいの知識しかなく、場所も漠然と伊勢神宮の中にあるんだろうか? そんな按配で、本当のところは何も知らないのが実情であった。そればかりか斎宮の名前すらも、それに対する思いも、いつの間にか意識の底のほうに深く沈んでしまっている状態だ。それが伊勢に来て、「斎宮の森」の標識に触れ、いきなり意識の表面に噴きあがってきた。

          左の写真は、斎宮跡に文部省が立てた説明表示。これによると、「斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取り扱った役所の跡」だといわれ、「その創設は遠く飛鳥・奈良時代」にさかのぼるらしい。
          では斎王もしくは斎宮と呼ばれるのはどんな役割で、どのようにして選ばれたのか。中野イツさん著すところの「斎宮物語」によると、「幼少の皇女から、うら若き皇女まで、六十有余人の高貴な媛君が、伊勢の海辺近くの、穏やかな風光の地において、ひたすら、神に奉仕する清浄な日々を送られた」という。
          つまり天皇に代わり、伊勢神宮に仕えるため都から派遣される未婚の皇女が、齋宮とか齋王と呼ばれる存在と言うことになる。
          斎宮制度は、先に登場した大津皇子の姉・大来皇女のときに確立し、それ以降、最後の祥子内親王までおよそ六百六十年間続いたと言われ、最年少が二歳、最年長が三十歳であり、内親王から選ばれるのが普通だが、内親王のない時には、親王の王女がなられたという。天皇が代わるごとに齋宮も交代するが、その多くは未婚の内親王または王女の中から占いに当たった方が齋宮となったようだ。齋宮に選ばれると、宮中の一箇所に初齋院が設けられ、ここで身を清め、齋宮にふさわしい知識を身につけることとなる。

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          見苦しくて申し訳ないのだが、上の写真が葱華輦(そうかれん)という輿(こし)で、齋王はこの輿に乗って、鈴鹿峠を越え、都から伊勢の地へやってきたと言う。
          齋王は、普通は天皇の代替わりで退下(たいげ)し都に帰るか、両親のどちらかが亡くなったとき「退下」し都に帰ることになるが、先に掲げた大来皇女(おおくのひめみこ)は、弟・大津皇子の罪により解任されている。このような場合「事故」として都に連れ戻されるのだが、齋王が男女関係を持ったときも、やはり「事故」として都に連れ戻されるようだ。
          歴史上「事故」として扱われた齋宮が三人おられる。
          一人は、先に掲げた大来皇女。また一人は欽明天皇の娘・磐隈皇女(いわくまのひめみこ)。彼女は、母が蘇我氏の出ということもあって、宮中でも夢皇女(ゆめひめみこ)と呼ばれ可愛がられた媛であったが、齋王になってから異母兄・茨木皇子に犯され「事故」として都へ連れ戻されることとなった。
          齋王が無事任務を終え帰るときは、「退下(たいげ)」といって伊勢に群行した道を行列を整え帰るのだが、「事故」で連れ戻される場合は、別の道を密かに帰らねばならなかったという。
          そして菟道皇女(うじのひめみこ)の場合も、池邊皇子に犯され事故として都に連れ戻された。彼女は敏達天皇と、その妃・廣姫に間に生まれたが、母・廣姫が亡くなり、無事「退下」出来るはずだったのだが、母の亡くなる二ヶ月前に、この「事故」が起こってしまったのだ。

          齋宮模型01.jpg

          上の写真は、復元された齋宮の10分の1模型。この齋宮から伊勢の外宮までは、車で15分〜20分あまり。この齋宮の中でも、内院は男子禁制の場所なのだが、ここで2件の「事故」は起こっている。ところで3件の「事故」だが、磐隈皇女は欽明天皇の娘、菟道皇女は欽明天皇の子・敏達天皇の娘、そして大来皇女は天武天皇の娘。要するに、大王の連合国家である「倭(やまと)」が、「日本」という統一国家として成立した草創期にかたまっている。この時期に「齋宮制度」も確立しており、3件の「事故」は、いずれもこの時期に起こっており、これ以降は、そのような事故が起こるようなこと自体、恐れ多い時代へと移っていくのであろう。

          二人のマドンナ/vol.1 ヒュパティア

          2011.05.11 Wednesday

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            歴史上、僕のマドンナとも言える女性が二人います。その一人が、4世紀末、エジプトに生きた、女性哲学者にして、数学者、天文学者のヒュパティア。
            彼女はアレキサンドリアにおいて新プラトン主
            義哲学校の校長となり、プラトンやアリストテレスらについて講義を行ったといわれています。
            そのヒュパティアを主人公にした「アレクサ
            ンドリア」という映画が公開されました。ヒュパティアを演じるのはレイチェル・ワイズ。僕の思い描いたヒュパティア像と寸分違わず、まるでヒュパティアがよみがえってきたよう。これだけでも東京まで出向き観た甲斐があったというものです。
            この「アレクサンドリア」公開当初は関西では上映館がなく、東京でしか観ることが出来ませんでした。丁度、東京出張があったのを幸い、一仕事を終えるやホテルに荷物を置き、そそくさと「丸の内ピカデリー」へと向かいました。
            イチェル・ワイズがよかった! というだけでなく、歴史考証もしっかりしており、映画としても堂々たる大作に仕上がっておりました。これだけの大作を単館上映というのは、一体どういうことでしょうか。
            女性として初めての天文学者「ヒュパティア」は、新興勢力キリスト教に迫
            害され、その見せしめとなって惨殺されました。教会は、ヒュパティアのことを「天文学で神を冒涜する魔女だ」と弾劾したのです。ヒュパティアについて、5世紀に活躍した教会史家ソクラテス=スコラスティコスは、彼の著「教会史」のなかで次のように述べています。

            「アレクサンドリアに、哲学者テオンの娘で、彼女の時代の全ての哲学者たちを遥かに凌ぐほどの文学と科学における学識をなした、ヒュパティアという女性がいた。プラトンとプロティノスの学統を受け継ぎ、彼女は、その多くが彼女の講義を受けるため遠くからやってくる聴衆に向けて哲学の諸原理を説明した。彼女が精神の教化の結果獲得した冷静さと物腰における気取りの無さのゆえに、彼女は往々にして政務官の臨席の際に公けの場に姿を現した。彼女は男たちの集まりに来ることを恥ずかしがったりはしなかったのだ。全ての男たちが彼女の非凡な品位と徳性ゆえに、彼女をさらに認めていたのである」と。

            そんなヒュパティアを、獰猛な熱意に凝り固まったキリスト教徒たちが、カエサリオンと呼ばれる教会へ連れ去りました。そこで彼らは彼女を真っ裸にし、それから瓦で彼女を殺害したのです。彼女の遺体は細切れに引き裂かれ、ずたずたにされた四肢はキナロンと呼ばれる場所に晒された後、燃やされました。
            宗教の怖さ、宗教に縛られ理性的なものの見方が出来なくなる、そんな恐ろしさを思い知らされる事件ですが、それを冷静な視点で描いた「アレクサンドリア」という映画。
            すごい映画だと思います。
            これだけの歴史大作が単館上映というのは、「カソリックの圧力か」と勘ぐりたくなるのは、果たして僕だけでしょうか。
            また、「僕の憧れ・ヒュパティアを、こんな目にあわせたキリスト教が許せない」。
            そんな青臭い情熱に駆り立ててくれる映画でもありました。
            (右上の肖像は、19世紀に想像で描かれたものだと言います。)

            最後に、そんなヒュパティアを描いたチャールズ・キン
            グスリーの歴史小説がありますが、これを全文和訳してくれているサイトがありましたので、敬意を持って紹介させていただきます。

            http://homepage1.nifty.com/suzuri/hypatia.htm

            次回、二人目のマドンナは、16世紀末イタリアに生きたベアトリーチェ・チンチェを紹介します。

            我が町、広陵町の靴下

            2011.04.20 Wednesday

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              我が町の広報「こうりょう」No.649号に、上記のようなPRがあがっていました。
              題して「第30回靴下の市&地域特産品交流フェア開催」。そういえば広陵町は「靴下の町」「日本一古墳の多い町」を売り物にしています。町の至る所に「靴下の町・日本一古墳の多い町、広陵町へようこそ」の看板が出ています。「日本一古墳が多い」、これはなんとなく納得できます。でも、どうして奈良の広陵町が靴下の町なのでしょうか?
              またぞろ物好きの虫に火がつき、調べてみることにしました。やはり、靴下の生産量は、広陵町がダントツ、国内シェアの40%をおさえている。

              靴下のことを調べていて、もう一つ気付いたことがあります。靴下に関しての歴史書が1冊もないということです。履き物の歴史、衣服の歴史、着物の歴史は、結構書かれているのに、靴下の歴史について書かれたものは皆無です。唯一の例外が、(株)ナイガイさんが出された「靴下の歴史」。これも(株)ナイガイさんが自費出版されたもので、一般書ではありません。図書館で調べようにも、近畿では、大阪市立中央図書館が蔵書しているのみの、いわば稀覯書ともいえるもの。
              靴下がいかに顧みられていないかの証ではないでしょうか。
              確かに、誰かに「今日、どんな靴下はいている?」と聞いてみても、即座に答えられる人は少ないのが現状。となれば、よりによって靴下の歴史なんて書く人はいませんよネ。

              しからば、ということで調べてみることにしました。
              まず、広陵町と靴下の関係。広陵町は「竹取物語」の舞台となったところ、四国の讃岐氏がここに移住し、朝廷に「竹」を納めていたと言われています。それだけに、「竹炭」とか竹製品日本一というなら分かるんですが、靴下がなぜ? そう思うのは僕だけでしょうか。

              奈良県自体、経済基盤が脆弱です。
              明治の廃藩置県では、この「経済基盤が脆弱だ」という理由で、「奈良県」自体が消滅し、「堺県」に吸収されてしまったことがあります。そこへ大阪府の財政危機を救うため、堺県自体が大阪府に統合されてしまったから、さあ大変。一体いつになったら「奈良県」の地名が復活するのでしょうか。その辺の所は、僕のブログ「奈良県と堺県」(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=24)をご覧ください。
              まあ、そんわけで親分の奈良県がこんな状態ですから、広陵町は、それに輪をかけて財政基盤は脆弱だったわけです。1910年頃と言いますから、明治43年になりますが、広陵町の吉井泰治郎という方が、広陵町にも産業を興し財政基盤をしっかりさせようと、アメリカから靴下編機を導入したのです。

              では靴下編機というのはいつごろ作られたのかということになりますが、その前に、いったい人間はいつ頃から靴下を履きだしたのかということが問題になります。
              冒頭に紹介した(株)ナイガイさんは、靴下博物館を所蔵される他、Web上でも同名のサイトを運営されておられます。このサイトの「靴下のはじまり」という記事を読むと、4世紀〜5世紀にかけてのものと見られる「完全な編物で作られた指付きの子供用の靴下」が、エジプトの墳墓や、アンチーノの町から発掘されたといいます。いや靴下の歴史としてはもっと古く、今から5000年前、「草を編んだ靴に千草を詰め」たのが靴下のはじまり(岡本株式会社「靴下類の系譜」レジメ)という意見もあります。詳しくは、「ナイガイ」さんのホームページ(http://www.naigai.co.jp/05mos/)を見ていただくとして、では日本での靴下の歴史を見てみましょう。

              日本では「襪(しとうず)」という形で、応神天皇の時代に大陸から入ってきたとされています。

              衛士隊の交代10.jpg

              上の写真は、平城遷都1300年祭の時に撮った「衛士の交代」の模様ですが、隊長の足下を注目してください。履(くつ)の中に白い足袋状のものを履いています。これが「襪(しとうず)」です。
              平城京の場合、衛士の服装は、「養老衣服令」により、儀式の際に用いられたという黒服に鎧を着けたスタイル。隊長は、6位の武官の朝服で、冠は柔い黒絹製。紐をあごで結んでいる。位襖(いおう)と呼ばれる衣服は6位相当の深緑色のもの、下に半臂を重ねて白袴をはき、烏油(くろぬり)の腰帯をしめて、黒漆の横刀を組紐の緒で吊り木製の笏を持っている。足は白の襪(しとうず)という足袋に烏皮(くろかわ)の履(くつ)をはくという出で立ち。(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=159

              この「襪(しとうず)」について、(株)岡本の庄健二氏は次のように述べています。

              1.織物生地を足形に縫製した布の靴下
              2.用途は現在の靴下と同様に足脚部を覆い保護する役割である。
              3.経錦(たてにしき):漢代に発達した経糸に色糸を用いて柄を出す織り方の生地を使用
              4.織物なので生地の伸縮性がなく、足首部をひもで縛って着用する。
              5.奈良時代までは、机・いすに座って執務していたため、木靴などの靴とともに着用された。

              この後、平安時代に入って、襪(しとうず)は、足趾割れ紐付きの「足袋」へと発展し、室町時代に足袋へと発展していきます。

              ところで海外では、11世紀、イスラム圏で初めて編み物としての靴下が作られ、それが十字軍の遠征でヨーロッパに伝えられ、16世紀には、イギリスでウイリアム・リー牧師が靴下編機を発明し、早くも江戸時代初期には、大航海時代の波に乗って、「メリヤス靴下」が日本に将来されることになるのです。

              以下、靴下編み機の歴史を年表風に見ておきます。
              1610年 ウイリアム・リーの弟ジェームス・リーがロンドンに靴下の新工場をつくる。
              1769年 サミュエル・ワイズが手動横編機を機械化。
              1847年 アメリカで、モーズ・メラーによって丸編機が発明される。
              1863年 同じくアメリカで、アイザック・ウイリム・ラムが、Vベット型横編機を発明。

              この5年後の1868年には、日本で初めて佐倉藩の西村勝三によって、アメリカから手回し式靴下編機が輸入されています。
              1874年、国友鉄砲鍛冶・国友則重によって国産第1号の編機が製造される。

              鉄砲鍛冶の製作した自転車
              (国友鉄砲鍛冶は、明治になって靴下編機の他、上記のような自転車製作にもチャレンジしている)

              そして、1910年頃、いよいよ我が広陵町の吉井泰治郎翁が、アメリカより編機を導入することになるわけです。この辺の事情を奈良商工会のホームページは、次のように述べています。

              奈良県は全国でも最大の靴下団地で、広陵町はその中核産地として発展してきました。広陵町は古くから大和木綿の産地として、その名を広く知られてきました。しかし、明治末期を境に急激に衰退し、その名も忘れがちになってきたころ、1人の事業家がアメリカへの視察で靴下機械を導入し、生産を開始したのが「靴下の町 広陵」の発祥です。大和木綿が農家の副業として広陵町に定着したように、靴下産業も農村工業を基盤として成立した地場産業であります。
              靴下産業は、編み立て部門を頂点に染色、セット加工、刺繍、縫製等、靴下産業に関わる企業と、すそ野の広がりを見せる一般家庭内職に支えられ発展してきました。
              これら下請け加工としての役割を担う企業や一般家庭のほとんどを町内で賄っていることから、地域内での経済的波及効果が大きいのが特徴です。この靴下産業は、戦後、ウーリーナイロン糸の登場により飛躍的な発展を遂げ、質、量共に全国有数の規模を誇る靴下産業として発展し、また町の経済を支える基幹産業としての役割を担ってきました。
              しかし、最近では中国、韓国等から安価な輸入品が大量に流入してきたことにより、国内での生産量が減少傾向にあります。また生産拠点を海外に移転していく傾向の中で、空洞化の状況となってきました。

              我が町広陵町の地場産業も、ご多分に漏れず縮小の一途をたどっているようだ。
              少々話も寂しくなってきたところで、靴下の長談義も、この辺でお開きとしたほうがよさそうだ。
              ところで明日の「靴下市」、天気予報によれば、空模様もあまり思わしくない。かぐや姫の涙にならなければいいのだが……。

              聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.5/太子像、叡福寺に到着

              2011.03.06 Sunday

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                                    (太子町役場のホールで、最後の解説を聞く。)

                昼食休憩後、「第29回 太子道をたずねる集い」一行は、志都美神社を訪れ、その後、旭が丘公園でトイレ休憩をとり、14時30分、予定通り、バスとの待ち合わせ場所「どんづる峯」手前に到着した。
                ここから約15分バスに揺られ、太子町役場に到着する。
                役場ホールで、橿原考古学研究所研究員・廣岡孝信氏の、今回最後の解説に耳を傾ける。
                話の内容は今日要所要所で説明いただいたお話の復習と総まとめになるので省略するが、片岡氏のレジュメについては、準備が出来次第、ダウンロードしていただけるようにしようと思っている。

                この後、いよいよゴールである叡福寺へ向かうわけだが、今日は、飛鳥・奈良時代にかけて、上宮王家の地「斑鳩」を歩き、敏達王家の中心部であった「片岡」の地を、北から南にかけて歩き通したことになる。距離にして約20キロ、時代的には、敏達天皇から、天武天皇、聖武天皇、長屋王の時代にあたる120年あまりの歴史を通り過ぎたことになる。

                そんなことを考えながらのんびり歩いていると、叡福寺に到着した頃には、すでに聖徳太子像が太子廟の前に運び込まれ、法要が始まってしまっていた。
                別に法要はどうでもいいのだが、写真の画としては面白いので、ぜひ撮っておきたかった訳だ。しかし、回りは既に人で埋まっており、カメラを構える場所もない。
                ふと見ると、お堂を取り巻く廊下というか縁側というか、そこが空いている。恐れ多いと思ったのか、誰も上がっている人間はいない。ここに上がらせてもらえば絶好のカメラアングルが得られる。靴を脱ぎ、遠慮がちに上るや、思った通りの撮影ポイント、大慌てでカメラを構えた。
                カメラを構えると、聖徳太子像の前に「富の小川の水」と書かれた水桶が、備えられている。
                気になったので、帰って調べてみると「富雄川」の水のことを言うようだ。
                聖徳太子が片岡山(達磨寺があるあたり)に遊行したとき、飢えた人を見て、食べものを与えたという。そればかりか自分の衣装を脱いで掛けてやり「安らかに眠れ」と言われたそうな。そのときに詠まれた歌が、

                しなてるや 片岡山に飯に飢えて ふせる旅人あはれ 親なしに なれりけめや
                さす竹の きみはやなき 飯に飢えて こやせる旅人 あはれ

                これに対し、その返歌として飢え人が詠んだ歌が、

                いかるがや 富の緒川のたえ(絶)ばこそ わがおほきみ(王君)の み名をわすれめ

                だという。
                「富雄川」の水を捧げるのは、おそらくこの事績に因んだのであろう。

                これですべての行事を終わり、振る舞われた甘酒を頂いて帰路に着いた。



                聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.4/聖徳太子と昼飯を食う

                2011.03.02 Wednesday

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                  正福寺_昼食休憩001.jpg 
                                           昼食会場「正福寺」に到着

                  「第29回 太子道をたずねる集い」も、いよいよ前半最後の行程となった。目指すは香芝・正福寺。レジュメによれば、正福寺は1008年の開創と伝えられ、恵心僧都源信の作とされる阿弥陀如来像を本尊としているという。浄土宗の開祖法然上人は、法隆寺夢殿から磯長の叡福寺・聖徳太子御廟への墓参の祭、この正福寺に立ち寄ったということだ。
                  そこで我々も、法然上人にならい、この正福寺に立ち寄り、昼食とする。
                  既に狭い境内のあちらこちらで弁当を広げているグループもいる。
                  しかし200人が弁当を広げるには、この境内は狭い。そんな不安をうち消すように、案内の方の声が響く。
                  「本堂へ上がってください。本堂に食事をとれる場所を用意しています。」
                  「お寺の本堂で食事か?! 線香臭いんじゃないのかなあ」、そうは思ったが、「まあ、いいかっ、面白いかも」と、ご本尊様のすぐ傍までいき、弁当を広げた。
                  ふと横手に目をやると、なんと聖徳太子像も、ご本尊様の前にあぐらをかいておられる。像とはいえ、聖徳太子と飯を食うなどと、なかなか体験できるモノではない。差し向かいとはいかないが、ワタクシめのすぐ斜め前に太子が座っているのだ。
                  おもむろにリュックの中から、自ら用意したサンドイッチと、魔法瓶に入ったお茶を取り出す。そして最後に小瓶に詰めた白ワイン。いつぞや出張したとき新幹線の駅で買ったワイン。プラスチック製の小ぶりのボトルで、蓋がグラスになっており、なかなか気が利いている。また使えると、中身を飲んだ後も捨てずに残しておいたものだ。ここに冷蔵庫の中に残っていた「マドンナ」というドイツの白ワインを入れ、リュックのなかに入れておいた次第。
                  太子さんとグラスを酌み交わす、それは無理というものだが、気分的にはそんな感じ。
                  太子のブレーンと言われ、帰化人技術者集団のリーダー、秦河勝。彼も酒造りに長じていたと言うが、さすがに太子にワインをすすめることはなかっただろう。
                  ……と、思ってみたが、あながち荒唐無稽な話ではなさそうだ。秦氏といえば西域のにおいがプンプンする。ワインの歴史は古い。紀元前6000年頃には、メソポタミアのシュメール人により初めてワインが作られたといわれている。太子がワインを飲んだ可能性は十分あるのだ。聖徳太子には、日本の濁り酒や中国の老酒より、なぜかワインが似合う。
                  そう思うのは、私だけだろうか。

                  正福寺_昼食休憩007.jpg
                                       (太子像と共に本堂での食事風景)

                  食事も終わり、本堂から外へ出てみた。そこで入り口の看板に気付いた。かなり年季の入った看板だ。下地になる板は摩滅しているが、墨の染みこんだ箇所だけが残り、「光明道場」と書かれたところが浮き彫りのようになっている。
                  光明……またしても西域のにおいだ。
                  たまたま、この寺の住職が傍におられ、これ幸いと訊いてみると、
                  「光明道場と書かれてありますが……」
                  「浄土宗ではよく使われる言葉です。私もこの言葉が好きで……」
                  浄土宗、親鸞、光明……
                  そういえば、親鸞が学んだ教典の中に「世尊布施論」というお経があった。漢文で書かれているので、これまで仏典とばかり思われてきたが、訳してみると、これが実は、キリスト教の「山上の垂訓」の漢文訳であった。空海や最澄が中国から持ち帰った教典は仏典ばかりでなく、当時、景教といわれたキリスト教の教典やマニ教、ゾロアスター教のモノも含まれていたようだ。
                  いや、それ以前、聖徳太子の時代にも、仏教の仮面を被った、たくさんの西域の宗教も入ってきている。聖徳太子にしたところで、厩戸皇子 ( うまやどのみこ ) などというキリストまがいの名前をもっているし、宗教に寛容であった騎馬遊牧民族のにおいをプンプンさせている。
                  光明道場、光明皇后、光明が遍(あま)ねく照らす=遍照、すなわち大日如来、南無大師遍照金剛、そして極めつけが、光明神=アフラ・マズダ……
                  連想は連想を生み、果てがない。そんな妄想に釘を刺すように、集合の合図。

                  いよいよ行程も大詰めを迎える。

                  聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.3/達磨寺から尼寺廃寺へ

                  2011.03.01 Tuesday

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                    龍田新宮を後にし、一路、達磨寺を目指す。大和川にかかる昭和橋を渡れば、斑鳩の地を離れいよいよ王寺町だ。目指す達磨寺も、この王寺町にある。聖徳太子像を先頭に、一行はしばらく葛下川に沿って進み、やがて葛下川を離れ、古い町並みに入っていく。その町並みも終わろうとするあたりに達磨寺はあった。
                    ここで待望の解説に耳を傾けるわけだが、その前に配られたレジュメで予習しておこう。

                    達磨寺(王寺町本町)
                    片岡山と号し、臨済宗南禅寺派の寺院です。このお寺は『日本書紀』・『日本霊異記』などに記された「飢人伝説」(聖徳太子が片岡山へ遊行された時、飢えた人(聖人)に出会ったという伝説)に関わりがあり、後世、その聖人が達磨大師と見なされ、さらにその墓と見なされた古墳が現存することから信仰を集めるに至ったようです。『建久御巡礼記』によると平安時代末期には墓の上に廟があったと記され、その後、鎌倉時代にはすでにこの地にお寺が存在したと考えられています。
                    2002年には本堂の建て替えに伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施され、本堂地下の石室に安置された石塔、その中に収められた水晶製五輪塔形舎利容器・ハート形舎利などが発見されました。
                    現在はお寺のご厚意により、それらを本堂内で見学することができます。

                    達磨寺古墳群(王寺町本町)
                    『日本書紀』の「飢人伝説」と結びついた古墳は、達磨寺本堂の下、本堂の北東を含め、小規模な3基が現存します。これらは6世紀末頃に造られた古墳で、内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれています。そのうちの1号墳は石室の見学が可能です。

                    片岡王寺跡と放光寺(王寺町本町)
                    この片岡王寺こそが、現在の王寺町の町名の起源と考えられています。その遺跡は現在の王寺小学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていました。それによると南向きの四天王寺式伽藍配置と考えられ、採取された瓦や発掘調査で出土した瓦を見ると7世紀前半の創建と考えられます。平安時代の雷火によって多くの堂塔を失いましたが、現在も法灯を受け継ぐ片岡山放光寺(黄葉宗)が、王寺小学校の西側にあります。

                    以上が、頂いたレジュメのうち、達磨寺や片岡王寺跡、つまり今現在、私たちが立っている場所の解説部分だ。

                    レジュメに目を通しておけば大凡のことは分かるのだが、これから聞く廣岡氏の話は、僕には目新しいというか、自分が今住んでいる広陵町という場所がどんな場所であったか、まるで横っ面を引っぱたかれたような感じだった。

                    平岡氏曰く、この地は168号線の拡幅調査に伴う大規模な発掘調査と、達磨寺の本堂改築に伴う発掘調査によって、まず達磨寺については、古墳時代の墓の上に本堂が建っており、更に本堂地下から石塔を埋納した遺構が見つかったという。つまり3重の構造になっているという訳。
                    ここまでのことは珍しくはあるが、レジュメを読めば分かることだ。
                    もっと大事なことは、この達磨寺は、片岡という地のど真ん中にあたるということだ。そして古墳の回りを溝が巡っており、ここから奈良時代の土器が多く発掘された。恐らく、古墳の周りで何らかの祭事が行われていたのだろう。つまり古墳時代から奈良時代へと移る境目のことを、この地は映し出していると言える。

                    さて、168号線の道路の向こうに王寺町の小学校がある。ここが片岡王寺の跡にあたる。ここからは軒平瓦、軒丸瓦の発掘され、鬼瓦も発掘された。しかもこの鬼瓦、使われたのは法隆寺、片岡王寺、平城宮の三つのみだという。これによって、片岡王寺がいかに一流の寺であったかが分かる。
                    しかし、この片岡王寺も、平安時代には廃れ、今は放光寺として存続している。

                    先にも触れたが、大和川から北は、斑鳩の地であり、上宮王家(聖徳太子一族)の本拠地になる。そして大和川を南に渡ったこの地が片岡であり、僕が今住んでいる馬見丘陵を含み、富田林市太子町の叡福寺あたりまでの広がりを見せている。その中心とも言える場所が、この片岡王寺跡であり、これから向かう尼寺廃寺跡ということになる。そのことは、発掘された鬼瓦が「平城宮」と「法隆寺」、そして「片岡王寺」でのみ使われていたということから、ここが如何に大きな権力を持った一族の地であったか推量される。
                    では、この片岡の中心にあたる場所に片岡王寺を作ったのは誰だということになる。
                    候補者は3人、まず聖徳太子の娘・片岡女王、そして敏達天皇の娘、最後に押坂彦人大兄皇子の息子・茅渟王、この3人の何れかではないかと言われている。
                    中でも茅渟王の線が濃厚なのだが、いずれにせよ天皇に非常に近しい方が、この片岡王寺をつくったということが、考古学、文献史学の共通の成果として言えるのだという。

                    ところで、この片岡王寺というのは総寺、つまり男性の寺であるのにに対し、これから向かう尼寺廃寺は女性の寺ということになる。

                    ここまでの説明を聞き、これから達磨寺を自由に見学した後、芦田池を経て尼寺廃寺跡へと向かう。
                    途中、芦田池を通りかかったとき、例によって慎ましやかな案内板と出会った。そこで、その囁きに耳を傾けておこう。

                    芦田池
                    片岡のあしたの原は、葛城山脈と馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯を言ったのであろうかと思われます。
                    本町のあたりは、古くは葦田と呼ばれ、葦が生い茂っていたところから放光寺古今縁起〈正安四年西暦一三〇二年 僧審盛著〉には葦田池と書かれています。
                    この地はまた、歌の名所として知られ、数々の名歌が残されています。

                    あすからは若葉つまむと片岡の
                         あしたの原はけふそやくめる
                                      −人麻呂−


                    午前11時45分、いよいよ午前中最後の目的地・尼寺廃寺跡に到着する。
                    ここに置かれた案内板は、発掘中ということもあって、木組みにトタンを張っただけの仮のモノらしいのだが、それでもほかのモノと違って、若々しいというか、荒々しい感じがする。

                    国指定史跡
                    尼寺廃寺跡(にんじはいじあと)
                    尼寺廃寺跡は、香芝市尼寺に所在する飛鳥時代に創建された寺院跡です。
                    尼寺廃寺跡には、礎石が残る基壇が南北約200m隔てて存在することから南北2つに分かれる寺院跡と考えられています。
                    尼寺北廃寺は、北に金堂、南に塔、東に中門を配し、それを回廊で囲む東向きの法隆寺式伽藍配置で、その規模は南北約70.8m、東西約44.3mあります。
                    平成7年に実施した塔跡の調査では、地下約1.2mで約3.8m四方の日本で最大級の規模を誇る心礎がみつかり、心礎の柱座内からは耳環12点、水晶丸玉2点、水晶切子玉2点、ガラス丸玉1点、ガラストンボ玉1点、ガラス小玉1点などの多彩な舎利荘厳具が出土しました。
                    尼寺廃寺跡は、奈良盆地における飛鳥時代後半の造営者一族の動向等の政治状況をはじめ、仏教文化を考える上で重要であることから平成14年3月19日付けで国史跡に指定されました。
                       平成15年3月  香芝市教育委員会



                    案内板に目を通した後、再び廣岡氏の解説に耳を傾ける。

                    今の葛下郡にあたる地域、ここが片岡といわれる地域だが、その片岡の中心が片岡王寺。これに対して女性の寺が尼寺廃寺となる。
                    東を向いた法隆寺式伽藍配置で、日本最大級の心礎が発掘されており、その心礎の中から出た発掘品は、古墳時代後期の副葬品と同じ。「古墳時代」〜「飛鳥白鳳」への切り替わりの時期にあたるようだ。ここでも片岡王寺と同じ軒丸瓦が発掘されている。尼寺廃寺遺跡は、北廃寺跡と南廃寺跡があるが、南廃寺跡から、法隆寺、片岡王寺、平城宮と同じ軒平瓦が出土している。ということは、ここも天皇家に近しい方の建立ということになる。

                    尼寺廃寺跡からやや南、西名阪自動車道・香芝インターの手前に平野古墳群がある。今から昼食をとる正福寺の近くだが、この古墳群の中で、平野塚穴山古墳に注目してみよう。これは後期の古墳にあたるのだが、朝鮮半島南部 百済との濃厚な関係を漂わせている。
                    ところで平野古墳群のある場所はどういうところかと言うと、「茅渟王の墓が片岡の芦田の墓」と言われており、まさに平野古墳群が、これにあたることが、考古学・文献史学両方の一致した結論となっている。
                    要するに、敏達天皇から始まり茅渟王を経て天武天皇にいたる王家の中心が片岡という地だといえるのである。



                    そして、僕の住む広陵町も、まさにこの中に含まれる。敏達天皇から始まり天武天皇に至る「敏達王朝」とも言える王家の中心が、片岡の地であり、廣岡氏作成の系図を見れば、そこに出てくる場所は、いずれも僕が普段なにげにチャリを走らせている場所(黄色く色分け)と重なっているのだ。
                    今まで、古代史などというのは、自分とは関わりのない、どこか遠いところで起こったことのように錯覚していたが、こうして図式化して突きつけられると、どの地も自分の生活圏でおこったことであり、何か因縁めいたモノを感じ、全身、総毛立つ始末だ。
                    人はすぐ時系列でモノを考えてしまう。1000年、2000年というと、遠い遠い昔のように思ってしまうが、自分が気付かないだけで、実は、今自分が生きる時代と重なって起こっていることだとしたら……そんな他愛もないことを考えてしまう。

                    http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm 
                    (※尼寺廃寺跡復元図は、ホームページ「日本の塔婆」から転用させていただきました。)


                    聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.2/龍田神社へ

                    2011.03.01 Tuesday

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                      第29回太子道をたずねる集い〜磯長ルート〜
                      平成23年2月22日(火) 
                      タイムスケジュール

                      (午前の部)
                      08:30 南大門集合→08:45 挨拶・説明→09:00 出発(太子像合流)→
                      09:10 藤ノ木古墳通過→9:35 龍田新宮到着(挨拶・説明)→09:50 出発
                      →10:30 達磨寺到着(挨拶・説明)→11:15 出発→11:45 尼寺廃寺到着
                      (太子像合流・説明)→12:00 出発→12:20 香芝正福寺到着(昼食休憩)
                      (午後の部)
                      13:10 出発→13:20 志都美神社到着(説明)→13:35 出発→13:40 
                      太子道顕彰碑通過→14:00 旭ヶ丘近隣公園到着(トイレ休憩)→14:15 出発
                      →14:30 どんづる峯手前でバスに乗車→14:45 バス下車→15:00 太子町
                      役場到着(役場ホールにて挨拶・説明)→15:40 出発→16:00 叡福寺到着
                      (御廟参拝、甘酒の振る舞い)→16:30 バスで帰路に着く(近鉄二上駅・JR王寺
                      駅に停車)→17:30 法隆寺南大門到着

                      以上が、2月22日に実施された「第22回太子道をたずねる集い」のタイムスケジュールです。
                      この日、健康のため、あるいは歩くのが好きだという目的で、はたまた聖徳太子を偲んでと……様々な方が様々な目的で集まり、スケジュール通り、朝8時45分、いよいよ法隆寺西門を3班に分かれて出発しました。

                      まず目指したのが、龍田新宮です。20分あまりで龍田新宮に到着しました。神社境内には近くの幼稚園の園児達も集まり、屈託のない笑顔ではげましてくれます。
                      また、龍田新宮大鳥居の傍に「奈良街道と当麻街道」という案内板が設置され、僕たちを迎えてくれました。写真ではとても読めませんので、以下に書き写しておきます。出先での案内標識や、ちょっとした説明チラシは、その場所では、まるでそこにあるのが当たり前という風情で立っていたり置かれていたりします。風景にとけ込んでしまい、自己主張の少ないこれらの案内人は、普通はあまり気を付けてみられることがありません。
                      でも、あとになって「あそこに何て書いてあったんだろう」と思っても、もう、後の祭りです。そのまま忘れてしまうことも多いはずです。
                      だから僕の場合は、必ず気になる案内板は書き写します。書き写す時間がなければ写真に撮っておきます。それが必要か必要でない情報かは、その時点ではハッキリしないことが多いのです。でも、それが大きなヒントを与えてくれることもよくあるからです。
                      この集いでも、できるだけ、これら目立たない案内人の言葉を紹介しておこうと思います。

                      奈良街道と当麻街道(近世の道)
                      奈良街道は、大坂と奈良を結ぶ街道として栄えました。大坂からは奈良街道・奈良からは大坂街道と呼ばれ、この街道筋の龍田は、浪速・なら・伊勢・当麻への分岐点として、龍田神社を中心に商家・旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心でした。
                      街道筋の龍田は、郡山に次ぐ宿場町として栄えました。そのにぎわいは、「龍田宮前はかいでもきれいな宿屋の女がスソではく」とまで歌われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。また、当麻街道は信仰の道として、法隆寺・当麻寺とを結んでいました。
                      当麻からは法隆寺参りの道と呼ばれ、法隆寺からは当麻参りの道と呼ばれていました。
                      この街道の分岐点の龍田神社から南の小吉田(こよしだ)・稲葉車瀬(いなばくるませ)・神南(じんなん)にかけては、往時のなごりを残す道標が多く残されています。

                      以上が、今日最初に出会った案内人の解説でした。続いて、橿原考古学研究所の研究員・廣岡孝信さんの解説がはじまります。今日、この集いに参加した大きな魅力の一つが、プロの研究員が一緒に歩き、その現場現場で、地域に密着した情報を与えてくれるということがあります。
                      その第一回目の解説が、龍田新宮境内で始まりました。

                      廣岡さんは、今日歩く地域についてその概観を話されます。その要旨は、この「龍田神社」と河合町の「広瀬神社」が大和川を挟んで、当時の要の地になっているというのです。
                      今居る斑鳩の地は、上宮王家の領域であり、大和川の南、叡福寺あたりまでは、歴史上「片岡」と言われる地であり、別の王家の領域に属する地域だということです。詳しくは、これからの行程の中で話されることになりますが、まずは概説ということで、次の達磨寺を目指すことになりました。
                      その前に、廣岡さんが用意されたレジュメの中から「龍田神社」の説明を見ておくことにしましょう。

                      龍田神社
                      (たつたじんじゃ:斑鳩町龍田:三郷町の龍田大杜本宮に対して龍田新宮とも呼ばれます)
                      延喜式内社であり、祭神は天御柱命・国御柱命で、そして本殿の左右には龍田大明神(龍田比古神・龍田比売神)・滝祭宮も祀る。社伝によると、聖徳太子は老人の姿となって現れた当社の祭神:龍田大明神に従って法隆寺建立の寺地を選定し、さらに法隆寺の鎮守神としたといいます。中世には法隆寺の僧が神職となり、江戸時代には境内に塔・経堂・胎金堂・伝灯寺などがあったようですが、明治の神仏分離令によって寺関連のものはすべて撤去され、法隆寺からも分離されました。
                      境内には奈良県指定天然記念物の蘇鉄、大和猿楽四座のひとつ「金剛流発祥之地」の碑、クスの巨樹もあります。

                      このレジュメの中で、僕が気になったのは、この神社の祭神が「天御柱命」と「国御柱命」の2柱が祀られているということです。天御柱(あめのみはしら)は、その名の通り、天津神=つまり天孫した一族(渡来系)の神であり、国御柱(くにのみはしら)=国津神は、それ以前の土着の豪族の神々と言えると思います。渡来系の種族が土着の豪族と争い、国津神として祀ることで懐柔していった、その仕上げの段階につくられた神社ではないでしょうか。
                      前回にも若干触れましたが、聖徳太子は渡来系の支配民族、それも中国、韓国というより、騎馬民族系の支配層では? 廣岡さんのお話を聞きながら、話の内容とは関係なく、そんな疑念がムクムクと心の中にわき上がってきます。

                      話が終わるや、耳を傾けていた一団が、大鳥居の横へ我先にと動き出します。斑鳩町の職員の方が、スタンプ帳に斑鳩町のスタンプを捺してくれているのです。
                      やがてスタンプ騒ぎも一段落、次の目的地「達磨寺」に向かっての行進が再開されました。