荒れ果てた京の一角で/語りかけてくる思い

2011.05.22 Sunday

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    私は煤けた寺の一角に立っている。切り石が敷き詰められた回廊。その突き当たりに四角くポッカリと空いた穴。その穴を石の階段が闇の中へと続いている。
    仲間とはぐれ、探し回るうち、どんどん見知らぬところへと追いやられ、こんな奇妙なところへやってきてしまった。でも、この寺にこんなところがあったのだろうか。石段が下へ下へと伸び、ようやく下り詰めたところは、狭い蔵の中のようなところ……。真ん中に燭台が立ち、その小さな炎が、そこに集まった人たちの顔をユラユラと照し出している。
    どの顔も目ばかりがギラギラして厳しい顔ばかり。中でも何かゾッとするような凄さを感じさせる男の顔……、いきなりその口許が動いた。
    「俺は、女房を殺して喰った。それでも救われるのか……」
    押し殺すようなその声に合わせ、スクリーンのようなものに、その光景が浮かび上がってくる。私は、そのあまりの凄じさに、無我夢中で、その場から逃げ出した。
    ……どこをどう逃げたものか、私は、いつの間にか土塀が続く古い町並みに立っている。身に着けた僧衣は破れ、脚半からは血が滲み出している。
    一体、いつ僧侶になんかなったのだろう……。
    と、網代笠が風に転がされていく。その網代笠が土塀のところで止まるや、銀蝿の群れが、驚いたようにブーンと一斉に飛び立った。掃き寄せられたゴミのように、土塀の根元に並べられた死骸の群れ。途端に、今まで気付かなかった死臭が押し寄せてくる。

    まただ、また、あの苦しい思いが語りかけてきた……。

    臭い、臭い、たまらなく臭い……。鼻や口をいくら覆ってもあの臭いは防ぐことができない。やめろ、やめろ、来るんじゃない、来るんじゃない。俺にはどうすることもできない。やめろ、来るなっ、来るなーっ!
    亡者どもが追いかけてくる。はらわたを引きずった奴、膿みただれた奴、たくさんの亡者が追いかけてくる。
    もうたくさんだ。やめてくれ、やめてくれ、逃げて逃げて、息つく間もなく逃げ回り、どんなに祈ろうと、どんなに念じようと、亡者どもを防ぐことはできない。寄るな、寄るな、下がれ、下がれーっ!
    毎日毎日、切りがない。終わることがないんです。でもやめられません。やめたら、仲間や周りの人間が何と言うか、それを考えたらやめられません。でも切りがないんです。昨日済んだはずの通りに、また新しい死骸が転がっている。いつの間にか死骸という感覚もなくなり、嫌悪感も消え、ただ疲労感と腕のしびれだけを感じている。
    やめてくれ、また死骸が追いかけてきた。亡者が迫ってくる。「仏の結縁を」と、「救ってくれ」と、口々に叫びながら、その叫びが大きなうねりになって押し寄せてくる。息がつけない。いくら書いても、書いても切りがない。いくら書いても後を絶たない。いつの間にか、一人っきりになって、ただ逃げ回っていました。
    ああ、どうしたらいいんですか。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ……。みんなに感謝されて、喜ばれて、偉い人だと言われて、よくやったと言われて……、ああ、こんなはずじゃなかった。苦しい、苦しい、咽が焼け付くようだ。咽が熱くて熱くて、誰か、誰か水を、水を……。水を飲もうとしても、川の中に死骸が……。水をすくった手の向こうに亡者の顔が浮かんでいる。「結縁を、仏との結縁を頼みまいらする」と。
    私は逃げました。逃げて逃げて、苦しくて吐こうとしても、胃の中はからっぽで、苦い胃液だけが上がってくる。ああ、誰か助けてくれ、亡者のいない世界へ連れていってくれ。私はもう疲れ果ててしまいました。もう疲れて動くこともできません。
    ああ、少し落ち着きました。でも、こうしていても、いつ亡者が現われるか、気が気ではありません。いつの間にか筆もなくなりました。墨入れもどっかへいきました。
    私はどうしたんでしょうか。今、なぜか、私は間違ってきたという気がしてなりません。あれは遠い昔のことだと思っていたのに、もう過ぎてしまったことだと思っていたのに、私の心は、まだ、あの亡者たちの中にいました。あの餓えた地獄の世界にいました。煤けた、あの真っ暗な東寺の片隅で、私は震えております。いつまた、あのおどろおどろしい亡者たちが現われるかと……
    少し落ち着きました。少し落ち着きました。私は仁和寺の僧……、隆暁さまとともに少しでも、餓え、病み、死んでいった人たちを供養したいと、少しでも仏との結縁を結んでやらねばと……ああ、思い出したくない、亡者が、亡者が襲ってくる。いやだ、いやだ、思い出させないでくれ。もういやだ、もういやだ……

    誰に言うともなく、その思いは話しかけてくる。

    分からない、分からない……。最初は本当に思っていました。あの惨状を見て、私にできることはないかと、私は僧侶、せめて供養を、せめて死者と仏との結縁をと思い、あの仕事をはじめたのです。でも、切りがないんです。吐き気を催す臭い、犬に内臓を喰い破られた死骸、そんなおぞましい死体の一つひとつに、顔を寄せ、怯む心に鞭打ちながら、震える筆で、額に「阿」字を書いていくのです。毎日毎日、そんな繰り返しです。やめたくても人の目が怖くてやめられない。夢で亡者に追いかけられ、救うどころか、怨霊退散、怨霊退散と祈っている自分がありました。亡者を寄せ付けないよう、自分の周りに結界を巡らし、必死で祈っている自分がありました。それでもだめとなれば、必死で逃げている自分がありました。取りすがる亡者たちを蹴散らし、ひたすら逃げている自分がいました。今、その世界にいます。人の幸せを願うどころか、ただひたすら自分を守ろうと、逃げ回っている自分が見えます。
    ああ、少し楽になりました。少し胸のうちを話せて楽になりました。

    いつも戦いのなか……

    2011.05.16 Monday

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      いつも戦いの中にいる。自分ほど穏やかで喧嘩などとは縁遠い人間はいないと思っていた。なのに、最近、血生臭い夢がつきまとう。朝、目が覚めると右手に指が二本しか残っていない。不思議に痛みはなく、なぜか拷問で切り取られたんだと合点しながらも、ひどく気分は動転している。「どうしよう」「どうしたらいい」と、うろたえた揚げ句に目が覚める。
      「そうか、目が覚めたと思っていたのが、まだ夢の中にいたのか」とホッと胸をなで下ろす始末。
      瞑想でもそうだ。本当の自分に心を向けようとしてもなかなか向けられない時、戦いで顔面を割られたのだろう、血みどろの顔が浮かんできたりする。そんな塩梅で、闇出し瞑想の時なども、「他力の反省をしなくっちゃ」と、坐禅をしていた時の自分に心を向ける。鉄眼寺で禅定を組んでいる自分、その鉄眼寺の様子、指導してもらっていた鈴木龍珠禅師の様子等をイメージしようとするのだが、なかなか心が向かない。それはそれなりに苦しくはあるのだが、ボーっとしていて何かピンぼけの状態……。それがいきなり、グイと腕を掴まれたかと思うと、「おまえのいる場所はここだ!」と、いきなり戦場の真っ直中に連れて行かれる。
      実際に声が聞こえたわけではないだろうが、でも表現しようとすると、やはり聞こえたとしか言いようがない。
      その途端、たちまち周りの声が、戦場の喧噪に変わる。
      断末魔のうめき声、雄叫び、罵声……回りで闇出し瞑想をする人の腕が、顔や首筋や胸に、次から次と当たってくる。その度に刃をたたきつけられたようになり、返って、気を引き締め冷静になろうという思いが働く。でも、叫び声が耳について離れない。血みどろの顔、絶叫する口、あれは敵だろうか、味方なのか……何が何か分からなくなり、自分自身が回りの叫び声の一部となってしまう。

      今回(舘山寺)でのセミナーでも、キリスト教に向けようと、かつてインタビューした「二十六聖人記念館」のディエゴ・パチェコ神父や、探し回った揚げ句やっと見付けた、大村鈴田のキリシタン牢の様子を思い浮かべたり、果てはイエスそのものに心を向けたりするが、そのどれもが血生臭い争いの中にあった。武器こそ持っていないが、凄絶な戦場の中に自分は立っていた。
      自分の身を犠牲にした、殉教という凄絶な戦い。キリストを肯定させようとする聖戦。キリストを排撃しようとする聖戦。正統・異端をめぐっての凄惨な殺し合い。はたまた宗教と政治権力の確執。
      そのどれにも関わりを持った。
      イエスそのものに対して、ハッキリ言って崇敬の思いはない。「あのバカのせいで……」そんな思いしか出てこない。ただ「キリスト教」と言うことになると、憎しみが募る。叩き潰してやりたい――そんな思いと、懐かしい思いと、妙に不安な思いの中に投げ込まれる。揚げ句は、ウワーッという叫び声になり、すべてを否定する思いへ、すべてを叩き潰してやりたい思いへと広がっていく。
      そんな時、必死でブレーキをかけ、方向を変えようともがく。「その方法が、本当の自分に心を向けることだ」と、必死で思おうとする。そう思うと、今度は、様々な思いが渦となって、懺悔とも、反省とも、後悔とも、時には恨み言まで伴いながら、すべてを巻き込んで自分の中から噴き上がってくる。まるで自分自身が一つの溶鉱炉、いや原子炉になったような感じを抱えながら二度目の闇出し瞑想が終わった。

      自分の奥深くに根付いているものは、争う思いだった。どんな形で現れてきても、自分の苦しみの根本は「争う思い」にあった、そう思えて仕方がない。
      なぜ争うのか。自分を守りたいからだ。自分を認めさせたいからだ。自分を押しつけたいからだ。「これだけは譲れない」という思いがある。ここに触れられたら、ここを責められたら、ここを侵されたら、俺には戦うしかないと、そんな思いがある。そうなったら、勝つことも勿論だが、それより自分が潰れても相手にぶつかっていく、そんな思いのほうが強い。
      そのエネルギーを秘めながら、表面、穏やかそうに日常を送っている自分がいる。今、「これだけは譲れない」、その一点を仕事の中で揺すられ出した。「低予算、少部数出版」への夢。印刷が特定の人のものから解放される。ノートがワープロに変わったように、印刷が便利な事務用品のようになっていく。
      UTAブックならそれができる。UTAブックならそれをやる意味がある。UTAブックこそ、それを真っ先にやるべきだ。そんな思いがある。そんな肉的な夢がある。
      ここを突かれたら、今までどうでもいいと思っていたことまでが、自分の中の「争う思い」を引き出す材料となる。どうやら、これから自分の本当の勉強が始まるのかも知れない。 

      神奈川県津久井郡三ケ木

      2011.05.16 Monday

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        昔、神奈川県津久井郡にある三ケ木というところで暮らしたことがあります。三ケ木はミカゲと発音します。JR横浜線橋本駅からバスで小一時間ほどのところです。かつては甲州・武州・相州の結接点にあたり、山深いところとはいえ、戦略上、かなり重要な場所だったようです。というのも、甲州の武田信玄が小田原の北条を攻めたときは、甲州への最短の退却路はこの津久井を突っ切っていくことになるからです。そして津久井城は北条に属しており、このため、武田の主力と北条勢・津久井勢が三増峠でまともに軍事衝突したこともありました。その津久井城も、秀吉の北条攻めのとき、徳川の軍に攻め滅ぼされ、生き残った津久井衆は、この地で百姓となっていきました。
        この地へ越して来てひと月ばかりが経ったころのことです。休みを利用しては付近を散策して回りましたが、にぎやかなのは道路だけ、少し表通りから逸れると、あたりは山と畑ばかり……。裏道の十字路に立っている標識は江戸時代、いや、もっと古い時代からそのまま立っているような代物です。
        ところで私の住む住宅のすぐそばに、三ケ木神社という古い社があります。入り口には保育園ができており、これが神社を隠す形になっており、そんな大きな神社があるようには見えません。かろうじて保育園の横に立つ鳥居が、神社があるということを教えてくれているにすぎません。この鳥居をくぐって行くと、参道は保育園を回り込むような形で山の中へと入っていきます。あたりは鬱蒼として薄暗く、参道は石段となって山肌に沿うように上っていきます。
        その石段の取っ付き口は狭めの広場となっており、そこに目当ての石碑が立っておりました。「天明飢饉、一揆集結の地」と……。

        それを見たとき、まるで闇の中からわき上がってきたかのような思いを感じました。


        闇から浮かび上がってきた思い
        ああ、やっとここまで来た。やっとここまでたどり着いた。浅間山、嬬恋村、津久井……。浅間の大噴火からずっと追いかけてきた。噴火の規模、被害の状況、人心はどうか、その後に続いて起こった飢饉、米の買い占め、一揆、打ち壊し……。
        この機会を逃すんじゃないぞ。真実を調べるんだ。俺が救ってやる。本当のことを伝える。お前たちの思いを伝えてやる。だから教えてくれ。間引いた子はどこへ捨てられる。そうだ、女の子を間引いたときは「よもぎを摘みにやった、男の子なら川遊びにやった」というのか。そうだ、その調子だ。本当のことを明らかにしていくんだ。近江商人がこんなところまで来て、酒造の権利を買い米の買い占めをやっているのか。
        一揆の首謀者は誰だ。土平治だと……農民たちや土地を平和に治めるだと……。そんな人間はいない。架空の人間を作り出し、そいつに罪を着せる気か。だれだ、土平治を名乗った奴は。幕府直轄領で鉄砲を撃ったのはだれだ。
        俺は何もお前たちを罪に落とそうとしているのではない。本当のことが知りたい。形を整えるんじゃない。苦しみが本当に伝わってくるような、そんな事実をつかみ、報告したいんだ。お前たちの代弁者になろうと言っているんだ。
        訴えたんだろう。実情を記した嘆願状を出したんだろう。そいつを握りつぶした奴はだれだ。
        俺にとって今度の浅間焼けは大きな機会なんだ。俺の残りの人生すべてを賭けた大仕事だ。妥協なんかしないぞ。俺の調べた事実をだれがどう利用しようと勝手だ。田沼をつぶす道具にするならそれで結構。俺はただこの仕事を、俺がここにあったという証としたい。自分はこれだけのことをしたという満足感がほしい。
        あのときの、地の底から響いてくるような、あの轟音を決して忘れはしない。身体のうちから震えるような何とも言えない感覚。恐怖もあっただろうが、何かが起こりつつあるという一種の陶酔感があった。江戸の空を暗く染め、降りしきる火山灰……。身のうちが心底震えた。ついに来た。ついにやってきた。俺の仕事だ。機会が巡ってきた。やっと俺にも機会が巡ってきたんだ。誰に認められなくても、自分にとっては、最後の機会だと思った。
        真実を集めるんだ。何が起こった? 噴火だと……。どの山だ、どの山が火を噴いている? 川を人が流れてくる。死人が流れてくる。家が流されてくる。
        浅間の噴火はそれだけでは済まなかった。そのあとに来た大飢饉。むしろ、そのほうが悲惨だった。情報を集めろ。どこの藩でどれだけの餓死者が出たのか。どこの藩が餓死者を出さなかったのか。天領の状況はどうだ。米の買い占めは……。子供の間引きは……。打ち壊しの状況は……。


        ぶくぶくと泡のように浮かび上がってくる思い
        おめえにいったい何がわかるというだ。俺たちを出世の道具にしただけでねぇか。俺たちの暮らしは何も変わらねえ。土地に縛りつけられ、言いたいことも言えず、ただ働くために生きているような状態。食うに食えず、藁を轢いて団子にして食った。その藁もあいつらは、米の値を上げるためだと、集めて燃やしてしもうた。
        おめえは、俺たちの声を集め、本当のことをお上に伝えるんだと……立派なことを言っているが、結局は俺(おら)たちを利用しただけだ。俺たちの災難まで自分の出世の道具につかったんでねえのか。火事場泥棒じゃねえか。お前のやっていることは火事場泥棒だ……。結局は自分のためじゃねえか。


        違う、違う、本当に伝えたいと思った。苦しい状況を自分の思いを入れず、ただ、事実を伝えようとした。出世しようなんて思わない。ただ生きている証がほしい。俺がこの世にあったという、自分で満足できるような何かがほしい。浅間の噴火に出会ったとき、これだと思った。その機会が与えられたと思った。どこまでも食い下がって、事実を明らかにしてやると思った。自分に満足したかった。満足できる何かがしたかった。
        でも、終わってしまえば、何も残っていない。満足感もなく、もっと何かがあるはずだと。あのとき、これこそ一生の仕事と思ったのだが……。
        何を言われても仕方がない。でも俺の求めたものはなんだったのか。俺はただ甲斐のある、自分で満足できる仕事がしたかっただけ。それを悪と言うのか。俺の中に、なにかやりばのない空しさ、すべてを投げだしたい思い、自分のしていることへの不安が渦巻いている。俺はいったい何をしているんだろう。その思いばかりが湧き上がってくる。これでいいんだろうか。これでいいんだろうか ……


        つかの間、自分という闇のの中からわき上がってきた思い。いつしか闇の中へ吸い込まれるように消えていってしまった。

        地区の役員さんをやることになって/「選挙公報」の配布

        2011.04.07 Thursday

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          今年の4月から順番で、地区の役員というのをやらされている。同じやるなら面白いとものをと思い「広報」を志願した。地区の執行委員会で何が相談され、何が決まったか、住民が知ろうと思えば知れる仕組みをつくろうと、ホームページの導入と、ブログの導入を提案しているが、これだけネット化が進み、普及率が高いというのに、すんなり「やりましょう」とはならない。ホームページのURALを住民に配るのも、住民の顔色を窺って、何か新しいことを始めて文句を言われないか、戦々恐々としている。これっておかしくないと思うのだが……ま、いずれ何とかなるだろうと、このブログ以外に「町内会」で「うまさん掲示板」なるものを始めた。
          それはそうと、地区の役員の仕事というか居住地域の班長の仕事に、回覧板を回すことと、配布物のポスティングがある。先日も「選挙公報」というものが回ってきた。

          今まで役に就くまでは、配布物にあまり関心がなかったが、こうして配るようになると、どんな配布物か気になる。朝、ゴロとトマ子(わが家の犬たち)の散歩がてら、配布物の選挙公報を配りながら見ていた。どうして2枚もあるのか、一枚は「知事選用」、一枚は「県議会選用」なのだが、前もって組み合わせてこなかったので、各ポストの前で組み合わせながら投函していく。「無駄だなあ、一般企業だと、こんな2枚にしないよなあ。表に県知事、裏半分に県議会、下半分に日程やら注意事項を入れれば、十分、用を足すのに……そんなことを思いながらのポスティング作業だ。

          しかし地区役員が「選挙公報」を配布するというのは、良いシステムだと思う。ところによっては新聞を取っていないと「選挙公報」が配布されない地区があるらしい。確認のためインターネットで調べてみると、やはり次のような記事と表を見つけだした。

          「選挙公報とは、候補者の写真やプロフィール、公約が掲載されている文書で、選挙管理委員会が発行する。すべての候補者の情報を一覧できるので、ふだん選挙のことを強く意識していない有権者には便利な情報源といえる。
           選挙公報は、公職選挙法にしたがって各地域の選管が配布する。ただ、選管の職員が直接配るのは現実的でないため、「新聞折込」で配達されるのが一般的だった。そのせいで新聞をとっていないと、選挙公報も受け取れないというわけだ。」

          これがなんと2007年の東京都の状況で、その後、同年の2007年の統一地方選挙のときから全戸配布に切り替えたという。しかし、上の表(J・CASTニュースから転載)を見る限り、2009年7月時点で、東京都23区のうち、まだ3分の一以上が新聞折込になっている。

          では奈良はどうかというと、広陵町はどうも全戸配布になっているようだが、システムとして全戸配布が義務づけられているわけでなく、各市町村の事情により「新聞折込」になっているところもあるようだ。これについては、それぞれの選挙管理委員会に問い合わせないと、実状は分からないらしい。
          新聞を読まない世代が増えていく中、こんなところにも自治会の地域における役割があるように感じられる。自治会というのは、古いようで、なかなか新しいシステムかもしれない。そんなことを感じさせられたポスティング作業だった。

          「ヤーさんの顔の傷」と「母親のぬくもり」

          2010.07.09 Friday

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            「ヤーさん」というのは、「やくざ」のことを言うようだ。 
            また、頬を指でなぞりながら「あのひと、これやがな……これ!」などと言うとき、それは、この「ヤーさん」のことを指している。「あの人はやくざだよ」というのを、「顔の傷」を暗示させることで表現しようとしているのだ。
            では、「やくざ」というのは、どうして顔に傷が多いのだろうか。「顔の向こう傷は男の勲章」などと言われるが、果たしてそれだけだろうか。

            「憚りながら」表紙.jpg最近、元後藤組の親分さんの書いた「憚りながら」という本を読んだ。後藤組と創価学会の抗争について知りたかったのと、伊丹十三さんの刃傷事件が、後藤組の幹部のやったこととして処理されているが、果たしてそうだったのか……それが知りたかった。
            というのも、伊丹さんの証言では、犯人は背の高い若い男性二人組ということになっている。しかし逮捕されたのは、背の低いがっしりした後藤組の中高年幹部の方が二人……。どうも納得がいかなかった。
            それで、後藤組の親分さんが「やくざ」から足を洗い、はじめて宝島社の取材に応じて「憚りながら」という本を口述出版したという。ならばと、早速読んでみた次第。
            しかし隔靴掻痒というのか、威勢のよい語り口が、肝心なところになると急に歯切れが悪くなり、僕の知りたかったことは、今も霧の中というところ。

            話が横道に逸れたが、この後藤組の親分さんが言うのには、やくざ同士の喧嘩は、まず顔を斬りつけることから始まるという。顔というのは傷の割りに出血量が多く、相手の気勢をそぐのに効果があるという。そのうえ、捕まっても傷害罪。これが「斬る」のでなく「刺す」ということになると「殺人」あるいは「殺人未遂」ということになってしまう。だから、やくざの喧嘩は「斬る」、しかも「顔」を斬ることで、相手の気勢をそぎ、戦闘能力を半減させるという。

            「なるほど納得」という次第。
            なぜ顔の傷にこだわるかというと、僕の右の頬にも3センチぐらいの傷痕がある。それで小・中学校の頃は、「コワー、ヤーさんや」と、冗談混じりにからかわれたものだ。ただ自分で言うのも何であるが、子供の頃は顔立ちが可愛いくできており、それが顔の傷と釣り合いがとれず、自分でも鏡を覗くたびに何かちぐはぐな不思議な感覚に襲われたものだ。
            それが写真を習うようになったとき、奇妙な実習をさせられた。「人体美学」の授業なのだが、人間の顔は、右と左でまるで違うというのだ。左右対称な人間などいないという。そこで真正面から自分の顔を写真に撮り、同じ写真を1枚はネガを正しい向きで焼き増しし、もう一枚はネガを裏返しして焼き増し、2枚の写真をつくる。そして、その写真を「顔」の真ん中で左右にカットする。そうしたうえで、右半分の顔に裏焼きした右半分の顔を合わせる。ということは、左右どちらも「右」半分で構成された自分の顔と、左右どちらも「左」半分で構成された自分の顔が出来るという次第。
            結果、左半分は、まるでお地蔵さんのような、無邪気で人の良い顔が出来上がったが、右半分はそれこそ「指名手配」の暴力団のような顔が出来てしまった。顔の傷が、そこに何とも言えない凄みを加えていたのが印象的だった。
            人体美学ならぬ、人の心のありようを見せられたような気がしたものだ。

            では、この傷はどうして出来たのかというと、まだ私めが歩行器を使って歩く練習をしていた頃の話。たまたま大掃除で、窓枠が磨くために外され壁にもたれ掛けさせてあった。そこへ歩行器で遊んでいた私めが通りかかったが、万悪く歩行器の足がはずれ、そのまま窓ガラスへ顔を突っ込んでしまったという次第。火のついたような泣き声に母親が駆けつけ、出血の多さに動転してしまった。やはり、顔の傷は出血が甚だしいようだ。うろたえた母親が、何とか血だけでも止めなければと、オキシフルで消毒し、出血をおさめてから病院へと走った。
            しかし、傷口がオキシフルで固まってしまい縫えなくなったという。医者が言うには、何もせずそのまま連れてくれば、傷口が縫えて目立たなくなったという。
            物心ついて、傷のことに触れるたびに、母親が申し訳なさそうに話してくれた。
            そんな母親のことを思いだして、戯れ歌をつくったことがある。

            「我が頬に 残りし傷に触れるたび 母の痛みがよみがえりけり」

            反省の中で母を想うとき、その痛みや温もりが伝わってくる。しかし現実に戻るや、携帯電話を通し難題や野暮用ばかり持ち込んでくる母は、煩わしい存在でしかない。
            「早く死ねばいいのに」……そんな思いさえ出てくることもある。そんなとき、自分の顔は、右半分だけの顔になっているのだろうか、ふと、そんなことを考える。

            仇野の三眛地で、ものを思う

            2009.10.26 Monday

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              ◇仇野の三眛地に立って角倉素庵に心を向ける◇

              波の音が聞こえる。
              風を感じる。潮の匂い、カモメの鳴き声……。
              ああ、もう一度、海へ出たい。
              こんな化け物のような身体になって……化野(あだしの)とはよく言ったものだ。化けものような俺が、一生を終わるに相応しい。
              崩れた顔、崩れた手、この嵯峨野では、すき間から吹き込む風さえ血膿(ちうみ)の匂いがする。
              なぜ、こんな病に……? なぜ俺がこんな病にかかる。いや、人を恨むまい。人を呪うまい。俺の運命(さだめ)だ、受け入れよう……そう自分に言い聞かせ、ただただ学問に熱中する。学問だけが救い、学問だけが、俺に逃げ道をつくってくれる。
              そう自分に言い聞かせ、今日も弟子の音読する「文章達徳録」に耳を傾ける。
              異臭を放つ自分の身体。包帯を通して血膿の匂いを放つこの身体。俺の身体が生きながら死臭を放っている。こんな、こんなことがあっていいのか。しかし、そんな不快感より何より、人を呪う思い、世の中を恨む思い、そんな思いの渦の中に身を任せるのが恐ろしい。
              身体ばかりか心までが腐っていくようだ。恨み辛みに心をとらわれれば、心までが悪臭を放ち出す。弟子はこの匂いを感じているのだろうか。いや気付かれてはならない、病に冒されても俺は立派であらねば、そうだ背筋を伸ばせ、毅然としろ。おまえには「文章達徳録」の校注という仕事がある。
              のめり込むんだ、学問にのめり込んで行くんだ。そうすることで、この運命を乗り越えていくことができる。それでこそ「俺」という人格を全うすることができる。

              暗闇の中に弟子の声が聞こえる。一点の明かりさえ感じさせない暗闇が俺を包んでいる。その暗闇の中に弟子の音読する声……闇の中に次から次へと文字が浮かんでは消えていく。まるで闇から浮かび上がり、また闇へと吸い込まれていくようだ。
              そんな文字の向こうから、時に、潮の匂いが流れてくることがある。波のざわめきが聞こえることがある。そのざわめきに心を集中すると、やがてカモメの鳴き声さえ聞こえてくる。
              腐った身体に潮風が心地よい。
              海へ出たい。もう一度、海へ出たい。父と共に渡った安南の地……言葉の違う国、着るものの違う国、風習の違う国、ここには何か人を解き放つようなやさしさがあった。そこには格式張った家という概念からも、日本という国からも、もつれ合った人間関係からも、俺はすべてから自由だった。
              「船」という、閉鎖され隔絶された世界が……そして果てしなく広がる海が、俺を日常から切り離してくれる。そして、そんな海での暮らしの向こうに、別の世界が開けている。航海という閉鎖された時間を経て、その先に心を解放してくれる別な世界が広がっていた。
              今の俺はどうだ。病に視覚を奪われ、動くこともままならず、ただただ、この身が朽ちていくのを待つばかり。感じるものは深い闇と、自分の身体の腐っていく匂いだけ。弟子の声だけが、辛うじて自分を学問という逃げ道へ誘ってくれる。
              師、光悦の文字が踊る。暗闇の中に光悦の文字が浮かび上がる。闇に、まるで蒔絵のように散りばめられた金粉が綺羅星のように輝き、その中に光悦の文字が踊る。宗達の意匠の見事さはどうだ、この本の見事さはどうだ。これが刷られたものと思えるだろうか。この筆の運び、この筆の勢い、これが彫られた文字だろうか? 
              この本は生きている。俺の身体は朽ちていくが、この本は生き続ける。俺たちが作り上げた「嵯峨本」と呼ばれた数々の出版物……文字を活字として写すだけでなく、俺たちは、俺たちの命を、そこに刷り込もうとした……。

              潮の匂いが消えた。
              波のざわめきが消えた。
              残されたのは、深い、深い、闇…… 


              ◇角倉素庵(与一)という人◇
              <彼は、元亀二年(1571)六月から寛永九年(1632)六月までを生きた。>

              角倉素庵角倉氏は、もと吉田の姓。嵯峨角倉に住したため角倉と呼ばれるようになったという。素庵の祖父宗桂は名医として知られ、明の皇帝にも薬を献じたほど。日本に帰ってからは、医師を営むと共に、副業に土倉業を営んでいた。その子が角倉了以である。彼は勉学に志し、医者でも土倉業でもなく土木工学の技術を研究した。そればかりか海外雄飛の夢を膨らませ、秀吉の時代、朱印状を得て、安南へ通商の船を出し巨富を収めたという。家康時代になっても、了以は朱印船貿易家として活躍しているが、いつも息子与一(素庵=左写真)と行を共にしてきた(慶長八年の第一回安南渡海のときから父と共に海外へ出る=素庵33歳)。それが慶長十四年、東京(トンキン)からの帰途、暴風雨のため遭難。この事件がこたえたのか、了以は隠居し、与一に家督を譲った。しかし了以は自由な気風を以て与一を育ててきたため、決して彼を家業に縛りつけようとしなかった。与一は本の虫であり、学者肌であったが、書斎人として生涯を過ごすには、父譲りの冒険心も旺盛であり過ぎた。ために以後の渡海朱印状は角倉素庵に与えられることになった。しかし、慶長十八年の朱印状は切支丹の取締の余波を蒙り無効となってしまったのである。

              角倉船絵馬

                                  (上の写真は角倉船の絵馬)

              ところで角倉親子は、海外渡航の合間を縫って、京都において一大土木工事に着手した。大堰川に舟を通そうというのである。今までこの丹波の水を利用して荷物を運ぶことを考えた人間はいない。山が険しく渓谷が深く、大石がごろごろしていたためである。このため丹後、丹波の産物は人の背を借りて山越えをしていた。それを親子は、川の岩を砕き、高瀬舟(平底の舟=右下写真は高瀬川一の舟入))を使って大堰川の舟運を考えたのである。慶長十一年三月、角倉親子は準備を進め、大堰川の開削に着手、これを成功させた。この成功により、幕府は富士川の舟運を開くことを了以親子に命じた。了以はこれをも成功させ、舟を見たことのない甲府の人たちを驚かせた。さらに豊臣秀頼の方広寺の再建に当たって、大木巨石の運搬のため、鴨川を舟を通せないかという依頼があった。了以は幕府の許可を得て鴨川疎通事業を起こした。人口運河の計画。はじめは伏見から五条付近までを、方広寺再建の資材運搬路として掘り、工事が終わると、この水路をもらい受けて、五条から二条まで延長させた。そこで西国の荷物が二条まで運び込まれるようになったという。これが完成した慶長十九年七月十二日、了以は六十一歳でこの世を去った。
              高瀬舟一舟入さて了以没後の素庵であるが、淀川過書船支配を命ぜられたり、江戸城改築のため富士山材木の採集運搬に当たったり、安南貿易を復活させたりと活躍していたが、晩年は学問に傾倒し、本阿弥光悦らと共に出版事業に着手する。世に嵯峨本と言われる。寛永三筆の一人、本阿弥光悦の書いた文字を単語ごとに一つの木版を作り、活字のようにそれを組み合わせることで一つの版を組んでいく。そこには、「トマス荒木」の項であげた「キリシタン版」の影響が表れていると指摘する人もいる。ともあれ、「嵯峨本」は角倉素庵がプロデュースし、本阿弥光悦が筆を執り、その意匠を俵屋宗達が手がけるという、出版史上、画期的な文化事業となった。
              内容そのものも、「平家物語」「太平記」など、「キリシタン版」と重なるものが多いのも興味があるが、それ以上に「王朝文化」の再現と言った趣を持ち、「文芸復興」と呼ばれた西洋ルネッサンスの影響さえ見え隠れしていることにも、当時、日本に流れ込んだヨーロッパの匂いを感じ取られる。
              さて、その後、元和の頃となって、尾張候から書物の講話とその整理を依頼された素庵は、その往復の間に病をつのらせていったという。その病が「らい病」であることを知ったとき、素庵は家督を息子厳昭に譲り、財産挙げて宗族、親戚に分かち、自らは数千巻の蔵書と共に、嵯峨清涼寺の西隣に安居し身を閉ざした。寛永四年のことである。
              当時「らい病」は「天刑病(天の刑罰の病)」と呼ばれ、これにかかること自体、家の名誉を汚すこととされた。このことを恥じた素庵は、角倉の家督を譲り、自らは、すべてを捨てて嵯峨野の奥に身を隠したというのだ。
              以後の素庵の生活は、嵯峨野の奥で弟子相手に、藤原惺窩(ふじわらせいか)編するところの「文章達徳録」の研究、増註がすべてであった。病が進み失明してからも、門人に口述して筆録させていたという。寛永九年(1632)三月になると、病勢はさらに進み、臥床の日々を送る。六月朔日、いよいよ重態となり、しばらくその状態を続けたが、その間にも輿で読書堂へ行き、病間に門人の和田宗允(後、姫路の儒者)を呼んで、宋の羅大経の著「鶴林玉露」を読ませたり、欧陽修や蘇東坡の文について「理と心と相通う」と歎賞したりしたという。
              先ほども述べたように、「らい病」と言えば、天刑病・業病とされ、「かったい」と呼ばれ乞食扱いされるのが普通であった。素庵にしてみれば、角倉家からこの患者を出したということ自体、家名を汚したということに繋がった。その自責の念と、懊悩が学問に逃げ道を見いだしたと言えないこともないだろう。
              しかし、これについても、実は「らい病」ではなく「梅毒」という見方もできる。「梅毒」は、スペインがキューバあたりからヨーロッパへ持ち込み、瞬く間にヨーロッパ中を席巻した。それをポルトガルが日本へと持ち込み、桃山から江戸時代初期にかけて日本でも爆発的流行を見る。うがった見方かも知れないが、もし、彼のかかった病が「梅毒」であるとするなら、それを「らい病」とした、素庵の道徳観や素庵の弱さ、苦しさが窺えるのではないだろうか。もちろん、証拠はない。ただ、そう感じるだけの話でしかないのだが……。
              ともあれ、素庵は、その家名のため、自ら角倉の菩提寺二尊院に葬られることを拒否し、中世以来の無縁墓所、仇野の三眛地に葬られることを希望した。
              いよいよ臨終が近付いた六月二十二日、二子と弟法眼長因を左右に呼んで、手を執って永訣したという。時に六十二歳であった。

              「我死せば、即ち西山の麓に葬り、〈貞子元之墓〉と書せ」(寛永九年三月、和田宗允をして訓戒をつくらせ、玄紀、厳昭の二子に遣わし命ず)。

              【参考文献】
              ■林屋辰三郎「角倉素庵」朝日評伝選19(朝日新聞社刊)
              ■林屋辰三郎ほか「光悦」(第一法規出版刊)
              ■小松茂美「光悦書状」

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