牛嶋神社の三ッ鳥居/東京の牛、奈良の馬

2011.03.15 Tuesday

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    墨田区向島の三囲(みめぐり)神社を後にし、言問橋(ことといばし)交差点に戻ってきたとき、方向を確認しようと持参のアイパッドで地図を開いた。通信さえつながっていればなんとも便利な代物だ。現在地が確認でき、行きたい場所まで道順が出て案内してくれる。若干、持ち歩くには大きいと思うが、アイポッドだと小さすぎて60歳を過ぎた目には酷だ。
    それはそうとアイパッドの地図をのぞき込んでいると、事問橋交差点の近くに「牛嶋神社」という表示に目が止まった。「牛」を祀る神社といえば、まず思いつくのが「牛頭天王」で知られる「祇園信仰」。祇園祭で有名だが、牛頭天王とスサノオは同義であり、これを合体させ祀っているのが祇園信仰となる。牛頭もスサノオも共に疫病をはやらせる神であり、それを慰め和ませるべく祀り、疫病から逃れようとする。これが祇園信仰の原形になったという。
    話はかわるが、かつてチャールトン・ヘストンがモーゼを演じ、セシル・B・デミルが制作した「十戒」という一大スペクタクル映画があった。ご覧になった方も多いと思うのだが、この映画の中で、モーゼがシナイ山に登っている間、先行きの見えない不安からか、一部のユダヤ種族が、牛の像をつくり、祭り拝むシーンがある。ユダヤ人達の中にはバァル神を崇拝する者も多く、バァル神を牛の形になぞらえ祭られることが多かったという。
    このバァル信仰が日本にもたらされ、祇園信仰になったという考え方がある。

    そんなことが思い浮かび、この牛嶋神社がなんとしても気になる。言問橋交差点でこんなことを思っていると、朝の散歩でも楽しんでいたのか、ひとりの老人が「あれは何ですか?」と声をかけてきた。
    老人の指さす方を見ると、そこには東京スカイツリーが聳え、その天辺から黒い雲のような筋が上空に向け放射状に伸びている。何かの自然現象なのだろうが、珍しくて「さて、何でしょう」と気のない返事をしながら、デジカメをスカイツリーに向けた。老人は「カメラですか、私も最近持ち歩いておるんですよ」と、同じようにスカイツリーにカメラを向ける。
    「どこへ行かれるんですか」
    と、老人はカメラを構えながら訊いてくる。
    「奈良から仕事できたんですが、少し自分のために時間を作って神社を回っているんです。」
    「ほぉー、神社ですか?」
    「歴史が好きなモノで、日本の古代史は神社を抜きに何も分かってきませんから……」
    「三囲神社は行かれましたか?」
    「ハイ、今行ってきたところで、これから牛嶋神社へ向かおうと思っています」
    「それなら、すぐ先ですよ」
    と言うや、一緒に歩き出した。
    ゆっくり一人で回りたかったのだが、こうなったら仕方がない。旅は道連れということか……とあきらめて一緒に歩き出した。

    やがて神社に到着してびっくりした。
    なんと奈良の大神(おおみわ)神社と同じ三ツ鳥居なのだ。
    三囲神社の三ツ鳥居は、同じ大きさの鳥居が三角形に組まれたものだが、大神神社、檜原神社(ともに奈良県の桜井市にある)にある三ツ鳥居は、中央に大鳥居、その左右に少し小さめの鳥居を配したものだ。この牛嶋神社の三ツ鳥居も、大神、檜原神社と同じタイプのものだ。



    大神神社の説明によると、「明神型鳥居を三つ組み合わせた独特の形式で、「三輪鳥居」とも呼ばれ、いつ頃どのようにして、このような形式になったかは伝えられておらず、社蔵の文書にも「古来、一社の神秘なり」とのみ記されている」だけだという。
    大神神社の三ツ鳥居は、拝殿の裏側にあって境内に入っただけでは見ることが出来ない。参集殿の受付へ頼めば特別拝観が可能だが、撮影は禁止になっている。この大神神社から山辺の道を北へしばらく行くと「檜原神社」へ出る。ここの三ツ鳥居は、境内にあって自由に見ることも撮影することも可能だ。二つの神社に共通しているのは、三ツ鳥居が、この「牛嶋神社」と違い、本殿前に配されいるのでなく、ご神体である御神座(みかぐら)=三輪山の前に配されている。
    つまり本殿がないのだ。
    「檜原神社」についてはいずれ別の機会にゆずるが、祭神は「天照大御神」、別名「元伊勢」とあるように「伊勢神宮」に「天照大御神」が祀られるようになるまでは、この神社がその役割を果たしてきたのだ。また「大神神社」の祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)。
    これに対し、この「牛嶋神社」の祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)となる。

    「日本書紀」の一書では、大物主神は大国主神の別名としており、「大神神社」の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。そして大国主の子供、あるいは大国主の六世の孫が、須佐之男命(すさのおのみこと)となる。
    先にあげたように、祇園信仰では、この須佐之男と牛頭を疫病をもたらす荒ぶる神として同神に扱っている。しかも、この牛嶋神社、五年に一度の大祭、神幸祭では、今日では珍しくなった黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳くという。
    思った通り、祇園信仰との関わりが深い神社のようだが、「三ツ鳥居」の存在によって、奈良の大神神社や檜原神社との関わりも推測できる。ただ江戸時代、火災にあっての再建のため、それ以前の資料がすべて消失しており、「三ツ鳥居」の由来も含め何もかもが不明だという。

    境内を清掃している若い神官の方とそんな話をしていると、一緒についてきた老人が、こんな話を聞かせてくれた。
    この牛嶋神社のある場所は、家康が荒川の流れを西に移す前には、荒川と隅田川の間にある中之島ような場所で、牛のような形をしていたので「牛嶋」と呼ばれていたと言うのだ。
    この話を掃除をしていた神官の方に確認すると、「そうだ」という。そればかりか、その牛嶋には、天皇家の牧場、いわゆる官牧(かんまき)があって牛を放牧し、牛乳を朝廷に献じていたという。それを書いた案内板が境内の裏手の方にあるという。

    境内の中の案内板探しが始まった。いつの間にか老人はいなくなっている。なかなか案内板が見つからず、またまた若い神官の方を探し出し、その場所まで連れて行ってもらった。
    以下は、その案内板の表示を写したものだ。

    江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)
    文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺りにかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
    大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、天皇の意志により32ヶ所の牧場(勅旨牧ちょくしまき)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「牛嶋牛牧」が置かれたと伝えられます。
    時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることになりました。
    明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

    この牛嶋の地は、祇園信仰で牛とつながっているばかりか、実際の官牧としても、牛の牧場として存在し、二重に牛と縁の深い場所であることがわかった。
    そのうえ、以前から何となく思っていたことがある。それは今住んでいる奈良は広陵町馬見という地名だ。馬に縁があるとは思っていたが、隣町に上牧というところがある。これは「うえまき」でも「かみまき」でもなく、「かんまき」と呼ぶのだ。しかもこの地は欽明王家の地。やはり、大宝律令以前に、天皇家のためというか、大王のための馬の放牧場があったのだろう。それが馬見や上牧(かんまき)という地名として残っている。この地は、聖徳太子に代表される、騎馬遊牧民族の拠点の地だったのではないだろうか。
    奈良から遠く離れた東京で、そんな確信に似た閃きに襲われた。

    なお最後に、ブログ中、桜並木の着色写真を紹介しているが、これは関東大震災後、後藤新平によって計画された「隅田公園」の開設当初の写真だということです。

    出張紀行/三囲神社&スカイツリー

    2011.03.14 Monday

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      東京への出張というので、ぜひ行きたいところがあった。
      映画にもなった浅田次郎の小説「憑神(つきがみ)」。うだつの上がらない主人公が大変御利益があるという三囲稲荷に参るが、間違って貧乏神、疫病神、死に神を祀る三巡神社に参ってしまう。御利益どころか、貧乏神からはじまって疫病神、最後は死に神と、文字通り三巡りの災難に見舞われるというお話。その舞台となったのが、上の写真にある三囲神社だ。
      ここへ来るために、時間を作り出そうと、大阪を午後10時10分発の夜行バスで出発し、朝の8時過ぎに、この三囲神社へとやってきた。別に小説が好きだから来たわけではない。
      京都は太秦、蚕ノ社に「三ツ鳥居」という珍しい三角形の鳥居がある。三角というのは上から見たときのことだが、その「三ツ鳥居」を確認するのが、主な目的。
      また京都の太秦には、大酒神社があり、同じ名前の神社が兵庫県の坂越(さこし)にもある。そして、そのどちらにも「いさら井」という井戸があって、これは「イスラエルの井戸」が訛ったモノといわれている。太秦広隆寺、蚕ノ社、大酒(大避)神社、すべてに共通するのが、聖徳太子のブレーンだったと言われる秦氏の存在。
      兵庫の坂越の大酒神社は、渡来人秦川勝が流れ着いたという伝説があり、京都の広隆寺は、その秦氏の建立になる寺だという。そして、その秦氏の拠点太秦・蚕ノ社にある「三ツ鳥居」、それがこの三囲神社にもあるという。しかも蚕ノ社の「三ツ鳥居」を写したモノだという。
      そして、京都太秦とこの三囲神社をつないでいるのが、三越百貨店というわけ。
      三越百貨店の屋上には、この三囲神社があり、今居るこの三囲神社も、三越と関係がありそうだ。かつて三越百貨店の正門を飾っていたライオン像が、三囲神社の狛犬と仲良く並んで置かれている。
      三越といえば、もとは越後屋であり、三井へとつながる系譜をもっている。また三ッ鳥居の説明板にも「三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある」と書かれている。
      そこで当然起こってくる推測が、三井は、秦氏の出自か?ということだ。

      右写真の鳥居はずいぶん新しいモノだが、もともとあったものを作り替えたのかも知れない。火袋の模様が面白い。片面は三日月だが、反対面には丸く太陽と思われる形が抜かれている。この太陽の抜かれた部分をのぞき込むと、太陽と三日月が重なり、なんと日月紋があらわれる。
      法隆寺にある「四騎獅子狩文錦」、この獅子狩紋というのは、ペルシャ風の貴族か武将が馬にまたがり、振り向きざまに獅子を馬上から弓矢で狙っているという図柄になるのだが、その騎士の冠に着いているのが、三日月と太陽を組み合わせた日月紋であり、夢殿の救世観音の冠にも同じ日月紋がある。ただし、この場合は、下に三日月がお椀のようにあり、そこへ太陽が乗っかっている図柄になる。この灯籠の図柄を左へ45度傾けると同じ模様となる。



      ここへ足を運んできたのは何らかの結論を下すためではなく、古代の日本を、文化・経済の両面から支えた秦氏について思いを巡らせるためだ。それはただ単に秦氏だけのことにとどまらず、日本を形作った渡来系の王族、豪族、あるいは名もない兵士へ思いを寄せる縁(よすが)となっていく。ユダヤ、月氏、スキタイ、突厥等々、様々な遊牧の民、放浪の民が、東の果て日本へとたどり着き、部族を形成し、やがて日本という王国を築き上げていった。
      今となっては複雑に絡み合った糸を解きほぐすことは至難の業だろう。しかし、そこに思いを向けるとき、様々な人の思いが伝わってくる。事実の証明は出来なくても感じることは出来る。
      それが僕の歴史との付き合い方だ。思いを向けていく先に間違いなく、歴史に埋もれてはいるが、自分の使った思いに突き当たる。

      そんなとりとめのないことを考えていると、三越のライオン像の向こうに東京スカイツリーがうっすらと聳えているのに気付いた。

      この後、スカイツリーを追いかけるように、牛島神社へ向かうが、途中、スカイツリーの上空で妙な現象が起こっているのに気付いた。
      スカイツリーのてっぺんから黒い筋が幾筋も上空へ伸びているのだ。



      左端の写真は、三囲神社で撮影したスカイツリーだ。ここでは黒い筋は見当たらなかった。午前8時半頃に撮ったものだ。中央と右の写真は、午前9時過ぎ、三囲神社をあとにし牛島神社へ向かう途中、言問橋の交差点で撮ったものだ。スカイツリーのてっぺんから黒い筋が幾筋も出ている。通行人のおじいさんから「あれは一体なに?」と訊かれ、はじめて気付いたモノだ。
      この翌々日、大地震が起こったものだから、「ひょっとして何かの前触れか?」と、訳の分からぬことを考えたりしたが、僕が知らないだけで、きっと何らかの自然現象で、ちゃんと説明の付くことに違いない。こんな憶測から流言飛語が生まれるのかも知れない。
      でも気になる。誰か、この現象について知っている人がいたら教えてください。


                      (日本橋、三越百貨店屋上にある三囲神社の鳥居)

      営業は自転車に乗って 第2弾

      2011.02.01 Tuesday

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        昨日、和歌山営業から帰ってみると、営業用に購入した20インチ折り畳み自転車が到着していた(右写真)。
        以前、地方の営業をしたくてドッペルギャンガーの26インチ折り畳み自転車を買った。(左下の写真)値段が手頃だったのと、デザインが気に入ったのが選んだ理由だが、もうひとつドッペルギャンガーという名前に惹かれたからでもある。
        ドッペルギャンガーといえば、ドイツ語で、普通はあまり良い意味に使われないようだ。超常現象で、もう一人の自分のことをいうらしい。海外旅行に出ているはずが、どこそこで見かけたとか、また家に帰ってみると、そこに既に自分がいて、その自分に出くわしたとか……また、もう一人の自分に出会うと、間もなく死ぬだとか、都市伝説まがいの使われた方をする言葉だ。
        それを良い意味に「もう一人の自分=分身」と捉えたのが、ネーミングの謂われのようだ。
        このネーミングに惹かれたのも、購入理由の大きな要因だった。
        しかし、いざ手許に着いてみると、これが重い。とても輪行など出来たものではない。しかし乗り心地も良く、近場の営業に乗り回していると、みんなから誉められ、「自分もほしい」という人まで出てくる始末。
        たしかにデザイン性は抜群で、黄色のボディがなんともオシャレだ。以来、愛用車となり、近場の営業はおろか、映画に行くのも、買い物に出かけるのも、近くの温泉に行くのも、かならずお供についてくる存在となった。
        かれこれ2年も乗ったろうか、またぞろ地方営業に自転車を使いたくなり、やはり手頃な、ドッペルギャンガーの20インチ折り畳み自転車を購入してしまったというわけ。
        重さは12キロ、これなら下げて出かけられる。そんなわけで、今日は朝から試し乗りと、折り畳みの練習。ほぼ10分程度で折り畳んで輪行袋へ納められる。
        町内を試乗してみた後、輪行袋に納めた自転車を肩に下げ、今度は徒歩で一周してみる。町内一周約400メートル、嵩張るが、これなら何とかなりそうだ。
        飛行機も、新幹線も、近場の私鉄も、輪行袋に詰めてあればOKということ。
        そこへアイパッドとポケットwifiを持てば、地図もOK、ネットもメールもOK。どこに行くのも怖くない。
        さて、地方の自転車営業、最初はどこに行こうか、現在、楽しみながら計画中。

        (下の写真は、事務所で組み上げたドッペルギャンガー20インチ折り畳み自転車。定価で3万3600円、アマゾンでの購入価格1万7000円也。分身というには、ちと安過ぎるか!?)


         

        「石川四高記念文化交流館」にて

        2010.09.20 Monday

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          2010年8月、金沢へ出張した折り、「うつのみや柿木畠本店」を訪問した帰り道、「石川四高記念文化交流館」へ立ち寄った。ここへ来る目的があったわけではないのだが、金沢駅へ向かうバス停留所を探していると、「百万石通り」 を渡ったところに金沢中央公園があり、ここに煉瓦造りの人目を引く建物がある。ここが「石川四高記念文化交流館」だ。なぜか素通りする訳にもいかず、少しだけと自分に言い聞かせ、中へ入ってみた。
          案内によると、この公園は、もとは加賀藩が文正5年(1822年)に学問所を置いて以来、加賀における学問の中心だったところだという。特に明治20年、第四高等学校が設置されてからは「四高」として長く金沢市民に親しまれてきたところであり、昭和38年校舎が移転したことに伴い、その跡地を金沢の都心核にふさわしい公園として再整備し、昭和44年、一般に開放されたのだという
          UTAブックの顧問である田池先生が、UTAブックを置いてもらう書店について、常々こんなことをよく言われる。「旧制高等学校の置かれたところは、古くからの文化の中心。そこにUTAブックの本を置くことは意味のあることで、少なくとも、そんな場所に置くことで、そこから広がっていく可能性がある」と……。
          その意味では、うつのみや本店さんは、まさにピッタリの書店と言える。

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            (四校記念館内の休憩所。まずはここで涼み、汗の引くのを待って、いざ見学に……)

          それはさておき、四高記念館を訪ねたとはいえ、そのすべてを紹介することはできないし、またそんな筆力もない。そこで、館内を回ってみて、気になったというか惹かれたところだけを以下に紹介しておきたい。

          井上靖の原稿.jpg

          井上靖の説明.jpgまず目に付いたのが、「井上靖」氏の「河西回廊」の手書き原稿。説明によると、井上靖氏も四高に学んだ一人であり、在学中は、柔道部の主将を務め、寝技を中心として「練習量が全てを決定する柔道」を目指したという。展示されている「河西回廊」の原稿は、井上靖と同級生で同じく柔道部員であった「足立清」氏が所蔵していたものだという。
          井上靖さんの書いたものは、「敦煌」や「天平の甍」、それに「風濤」ぐらいしか読んだことはないが、氏が高校時代に柔道部の主将だったと知って、なにか意外な気がした。柔道部というと、耳のつぶれた神経の図太い人間で、小説などと無縁な存在……そんな偏見が自分の中にあるようだ。実際には、知り合いの中に、大勢、柔道を志した繊細な人物がいるのを知っているにもかかわらずである。

          西田幾多郎教授.jpg次に目に留まったのが、四高の名物教授「西田幾多郎」氏と、その著「善の研究」。
          氏と、その著「善の研究」については、田池先生の話にもよく登場し、僕も「禅」に興味を持った頃、何度も読んだ本だが、氏が四校の教授だったことも知らず、そのため、いきなり記念館の展示物として出くわしたことが新鮮な驚きとして心に残った。
          この驚きは、翌日、JR七尾線で羽咋へ向かう車内から、「西田幾多郎生家」の案内板を「宇野気」の駅で偶然見かけたことで再燃する。
          それはさておき、館内の西田教授についての説明を見ておこう。

          説明には、「演場の西田幾多郎博士」と題して、次のような説明が施されてあった。
          「西田幾多郎教授(倫理・論理・心理・独語・英語。1896から909在任)は、石川県かほく市(旧河北郡宇ノ気村)出身で第四高等中学校退学後、東京帝国大学文科大学哲学選科卒業。東洋的「無」を説いた西田の思想は、「西田哲学」として世界的に知られている。常に思索に耽っていたため、学生からは「デンケン」と呼ばれた。授業は大変厳しかったが非常に優しい人柄で、「三々塾」などを通じて生徒には親身になって接したという。」

          先を急ごう。金沢駅には午後1時には着かないといけない。時刻は、もう12時ちかくになっている。
          「物有れは必ス歴史アリ。歴史ノ指示スル処ニ依ッテ、施設宜しシキニ適ヒ、改善シテ止マサレバ、遂ニ完成ノ域ニ到達スルコトヲ得ン」と、如何にも名調子で始まる「超然趣意書」(下の写真)なる巻物。説明によれば、明治39年に超然火事というものがあって、寮が燃えたらしい。これに対し38人の有志が「寮の再建」と「寮生活の建て直し」をはかった。この「超然趣意書」は、有志の寮生たちが四高を卒業するに当たり、後輩のために残した書だという。
          これにも心を惹かれたが、墨書の巻物を読み込んでいる時間はないし、ガラスケースの中で、全部が読めるわけでもない。「この先、なにが書かれているのだろう?」と気にはなるが、どうしようもないことだ。館内を急ぎ足で移動する。



          南下軍の太鼓.jpgどんなに足早に進んでも目に付くのが、「南下軍」の大太鼓。
          そもそも「南下軍とは、なんか?」
          洒落を言っている場合ではないのだが、南下軍とは、明治34年(1901)野球・剣道・柔道部による、「北の都」金沢から「南の都」京都の第三高等学校への遠征軍が始まりで、のちに運動部の対外遠征試合そのものをさすようになったという。
          同40年(1907)の第2回南下軍を期に対外試合が活発となり、大正期には、柔道、剣道、弓道、野球部が全国大会で活躍した。また、陸上競技部からは昭和3年(1928)アムステルダム・オリンピックに出場した相沢巌夫などを輩出している。
          以上が、南下軍についての解説だが、写真の大太鼓は、その応援団がつかったものだという。

          左の写真は、そんな南下軍応援団が市中を行進する様子。運動音痴の僕だが、少し哀調を帯びた寮歌「南下軍の歌」を聞き、その活躍の様子を写真や文字で追いかけると、心が騒ぎ立つのを感じる。館内で放映されているビデオではあるが、その一部を紹介しておきたい。ビデオを再撮影しているため、画質・音声ともよろしくはないが、雰囲気はわかってもらえると思う。





          この後、記念館を出るに当たって気になったのが「ブリタニカ書棚」。とりあえず現物と説明をカメラに納め、そそくさと館外へ飛び出す。

          これから歩いたり、バスを探していてはとても間に合わない。そう思い百万石通りでタクシーをつかまえ、「1時までに金沢駅へ着きたいんです」とまくし立てたのが12時40分。
          老齢で落ち着いた感じの運転手さん「大丈夫」とばかり、あわてる風もなく、無事金沢駅へと連れて行ってくれた。
          後は、小松の「BOOKSなかだ小松店」へと向かうばかりとなった次第。

          金沢寄り道出張/ No.1 金沢職人大学校・市民芸術村

          2010.09.20 Monday

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                           (金沢職人大学・市民芸術村 校門付近)

            昨日金沢へ着き、今日は朝から書店営業で金沢市内や小松方面を回った。
            その途中、様々な寄り道をしたが、営業を終えてホテルへ帰り着いてみると、その寄り道を記録したカメラがない。どこへ落としたか、どこへ忘れたかと思っていると、小松で車に乗せていただいた読者の方から携帯に電話が入った。「車にカメラを忘れているよ」って……。
            とりあえずは一安心だが、ブログの方は画像なしでご勘弁のほどを(9月中旬になってカメラが帰ってきたので、写真だけを追加した)。

            ホテルを9時前に出発。最初の「うつのみや書店柿木畠本店」 へ向かうが、約束は10時半、暑いがブラブラ歩いていくことにする。途中、おもしろそうなところがあれば寄り道しながら向かうことにした。
            ホテルのある六枚町から三社を経て元車の交差点へ出る。予定はこの元車の交差点を左折し、永町西の武家屋敷を抜け香林坊へ出るはずだった。
            ところが、元車の交差点でおもしろい案内板を見つけた。「金沢職人大学校・金沢市民芸術村 歩いて10分」という標識だ。標識の地図を見れば、これから向かおうとしている香林坊とは逆方向。ブラブラ歩くには日差しが強すぎる。と言ってタクシーすら走っていない。「あきらめるか」と思ったが、どんなところだろうと気になり出すと、たまらない。いったん左折した交差点を、気が付けば逆戻りし、反対方向へスタスタ歩き出している始末。好奇心を抑えるどころか、この好奇心があるから楽しいなどと思っている自分がいる。
            しかし、暑い。たまらなく暑い。汗が噴き出してくる感じだ。案内板どおり10分ばかり歩くと、JRの線路にぶつかり、その下を洒落た地下道が走っている。この地下道を抜けたところに「金沢職人大学校・金沢市民芸術村 右50m」の標識がさりげなく立っている。地下道から、この標識がちょうど良い配置で見えるようになっており、地下道のたたずまいと相まって、「なかなか洒落た演出だ」と感心することしきり。
            到着した金沢職人大学校・市民芸術村は、憩いの広場、芝生広場と、4万平方メートルを超える広場を抱えた巨大な施設で、しかも、その隅々にまで洗練された気配りが施されている。煉瓦造りの建造物と芝生広場の境界を人工の川が流れ、通路は板張りで、その川に沿うように、あるいはその川を渡って進めるようになっている。広大な芝生広場には、いくつもの噴水が水を吐き出し、芝生に水をやるばかりか、それがひんやりした風を運んでくれ、自然と汗も引いていく。まさに癒しの空間という言葉がぴったしとくるところだ。外の暑さも、ここまでは届かないのだろうか!?



            市民芸術村の一角では、金沢美術大学の学生たちが、作品展の準備(右写真)に余念がない。その学生たちに職員の若い男性が、会場の説明だろうか、優しげに話しかけている。
            その男性職員に「通りがけの者ですが、ここはどういった施設なのですか」と尋ねてみた。
            彼の丁寧な説明によると、ここは金沢市が運営する施設で、市民芸術村は主に演劇や音楽のリハーサルに使われる施設だという。そのほか、常設ではないが、工芸教室や陶芸教室なども企画されることもあるという。これに対し、職人大学は、金沢の伝統工芸を後世に残すための教育施設だという。ただし誰でも入学できる施設ではなく、現役でその仕事に従事している職人さんで、しかも、業種ごとにそれぞれの組合から推薦された者だけが入学できるのだという。
            さらに詳しく知りたいというと、事務室を教えていただき、そこで「金沢職人大学校のパンフレットと「修復選考科要項」の二つの資料を頂戴した。
            これによると、運営基本方針のトップには「基本的な技術を既有する中堅の職人を対象とする高度な技術向上のための研修と情報交換の場とするとともに、市民への公開を意図した匠の技に関する資料の収集、調査、研究を行う」ということが掲げられており、大きく本科と修復選考科に分けられ、本歌には「石工科」「瓦科」「左官科」「造園科」「大工科」「畳科」「建具科」「板金科」「表具科」の科目があり、この本科課程をを修めた者が、修復選考科に進むのだという。
            そこで「修復選考科要項」により、その具体的な内容を見てみると、「1,修理・復元の基礎的な考え方」が必修科目で34時間、「2,環境計画・文化財保存科学などの講座」が必修科目で20時間、「3,建築の歴史と住まいに関する講座」がやはり必修科目で26時間、「4,調査法の基礎講義と事例研修」必修84時間、「5,実測・製図などの講座」必修28時間、「6,工法知識と修復実習の講座」必修262時間、「7,見学研修・自主研修として」34時間、「8,特別講座として」22時間、合計履修単位時間数510時間となる。


                                 (金沢職人大学の校舎)

            こうしてカリキュラムを眺めていると、京都に次いで文化財の多い金沢市。その文化財保護に関する執念のようなものがが感じられるのではないだろうか。
            中国と台湾にある、二つになった「故宮博物院」の文物。これら文物が、第2次大戦の戦火をいかに生き延びてきたか、その秘話を知るとき、文物自体が自らを守ってきたとしか思えないエピソードを聞かされる。空襲があるたびに、いつも意図せず、その寸前に文物の疎開が繰り返されてきたのだという。いただいた資料を見ながら、そんなことを思い出し、金沢の文化財も、ただ単に金沢市が保護に力を入れているという見方以外に、文化財自体の意志が回りを動かしているのでは……そんな思いにさえ捕らわれる。


                    (金沢職人大学・金沢市民芸術村の広大な運動場というか公園部分)

            金沢寄り道出張/38年前の金沢へ寄り道

            2010.09.20 Monday

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                             (金沢の武家屋敷を抜けて香林坊へ…)

              金沢職人大学を出た後、武家屋敷のある一体を通り抜け香林坊へと出た。営業での訪問先、宇都宮書店柿木畠本店は目と鼻の先だ。ところで寄り道の方だが、記録したカメラが手許にないもので(9月中旬になってカメラが帰ってきたので、写真だけを追加した)、武家屋敷や金沢四高交流資料館に立ち寄ったことについて書くことが出来ない。感じたモノ、心が動いたモノにカメラを向けることが習い癖になっており、映像記録はただ単に写真というだけでなく、なにに心が動いたのか、僕の心の動きの記録にもなっている。だから、その画像がないと、書いても書いても、なにか間の抜けたモノになってしまう。少なくとも自分はそう感じている。 
              そんなことを思っていると、今から38年前、北陸電力の仕事で金沢香林坊を訪れた記憶がよみがえってきた。思いの方が寄り道を始めてしまった。
              38年前、僕は二十代前半、映画好きが高じてCMプロダクションのの制作部に勤務していた。制作助手から初めて一本立ちの制作進行になったのが、「関西電力」の安全電化配線メダルのCMだったと記憶している。大阪の電通スタジオに、藤田弓子さんを招いての撮影だった。衣装は自前という条件だったが、撮影の合間、その藤田さんの衣装にアイロンを当てていた僕は、他の用事でその場を離れ、うっかり衣装を焦がしてしまった。幸い軽い焦げ目で、しかも背中側だったため撮影に支障はなかった。しかし、僕は藤田さんに平謝り、弁償も考えていたのだが、藤田さんは鷹揚なもので、まるで気にせず咎めようともしない。そのうえ藤田さんのお母さんから、電話で「気にしないように」と、慰めの電話までいただいた。以来、藤田弓子さんのファンになったのだが、その際、藤田さんから頂いた「桐生さんに」という為書きとキスマーク入りのサイン色紙が、今では、どこに行ったモノか、まるで見つからない。とんだファンがあったモノだ。
              その「関西電力」の仕事のすぐ後に入ったのが、「北陸電力」の仕事だった。「関西電力」のCMが、オールスタジオ撮影で、まる二日で取り終えたのに対し、「北陸電力」のCMは、オールロケ、しかも福井、石川、富山を回るという一ヶ月に及ぶ長期ロケとなった。福井では火力発電所の撮影。石川では金沢香林坊での夜間電線補修作業の撮影。富山では、黒部地域のダムと送電線の空中撮影と、やりがいはあるが、かなりハードな撮影となった。当初、十日の撮影期間を予定し、自社のロケ車の予定がとれず、運転手付きマイクロバスをレンタルすることとなった。

              このロケは、いくつかの問題を抱えていた。まずは福井での火力発電所撮影。発電所の操業は止められないが、煙突から煙が出るのを撮られるのは困るという。視聴者に環境を汚染しているように見られるのでは、何のためのCMかということになる。かといってスポンサーは発電所の全景を撮れという。そこでタービンの操業は止められないものの、フル稼働でなく、一時的に回転を落としてもらいテストすることになった。これなら大丈夫ということになって撮影に踏み切ったが、肉眼では煙は見えないのだが、フィルムに写ると、煙突の上の空気が、熱せられているため陽炎のようにユラユラと動いている。これが煙のように見えるという結果になった。かといってロケは終了しており、再撮影に行くとなると予算の問題が出てくる。そこで煙突の上の部分はちょんぎってしまう、いわゆるトリミングという技法でごまかすことになった。画面としては、煙突の上の部分がフレーム外になっているだけで、火力発電所の全体は写っており、スポンサーからクレームが出ることはなかった。
              これは撮影が終了してからの話だが、撮影中、福井ではもう一つの問題を抱えていた。日本海に夕日が沈むシーンを撮りたいのだが、そのために福井に滞在中、毎夕海岸へ出かけるのだが、うまくいかない。水平線と太陽の間に雲がかかり、日本海に直に沈んでいく夕日のカットが撮れない。そのうちに次の金沢へ移動するリミットが来る。
              金沢では香林坊の繁華街での撮影。深夜、人通りも絶えた香林坊に北陸電力のクレーン車が到着し、電線の点検・修復作業が始まる。これをカメラに収めるという寸法。
              ロケ中、一番問題がなく、スタッフも生き生きと動いた撮影だった。このため、全期間を通じて一番滞在日数の短い金沢だったが、一番楽しい思い出が残った。今でも深夜の香林坊のたたずまいと、黄色いクレーン車が、作業員を乗せ、長い鼻を夜空に伸ばしていく情景がありありと浮かんでくる。
              次の富山黒部地区の空撮がまた問題だった。関西電力と北陸電力の送電線が入り組んでおり、関西電力の送電線は画面に映ってはダメというお達しである。最初、難問のように見えたが、ヘリのパイロットの運転技術と、撮影後の編集でなんとかなった次第。
              このヘリのパイロットという存在がおもしろい。仕事柄、いろんな空撮の要望が出る訳だが、中にはその要望を実現するためには航空法を無視しないといけない、そんな状況が起こってくる。多くの場合、高度の問題だ。そんなとき、異様に高揚するのがパイロットたち。断るかと思えば、「ようし、やってやる。俺は元特攻だ!」てな具合。その勢いに煽られるのは、却ってスタッフの方だったりする。嘘のような話だが、高所恐怖症のカメラマンがいた。そのカメラマンが空撮することになった。しかも助手席におとなしく乗っているだけでなく、低空で飛ぶヘリの機体から身を乗り出しての撮影。ところが、パイロットの高揚感に煽られたのと、カメラを覗いていると大丈夫らしく、無事空撮は成功したというケースがあった。そのときからパイロットという人種に興味を持つようになった。
              話までが寄り道を始めてしまったが、とりあえず富山地区もOK、ところが、この時点でロケ期間は大幅に伸び、一ヶ月近くに達していた。レンタカーの運転手がソワソワしている。事情を聞くと、娘の誕生日が近づいており、それまでに帰りたいと言い出した。ところがディレクターは、福井に戻り、日本海に沈む夕日をどうしても撮るといってきかない。このCMがうまくいくかどうかは、このワンシーンにかかっている。帰り道だからということで、福井でもう少しだけねばってみようということになった。
              しかし、結果はNG。ついに水平線に直にに沈む夕日は撮れなかった。いつまでも延ばすわけにはいかない。中止を決定するのも制作の仕事だ。しかし、決断が遅きに過ぎ、かわいそうなドライバーはついに娘さんの誕生日に間に合わなかった。これが撮影が成功していたのなら、彼の犠牲も活きてくるのだが……。レンタカーのドライバーから見たら、僕は鬼のように見えていたのではと悔やむことしきり。深夜の香林坊のたたずまいと、日本海に沈む夕日(水面との間にかすかな雲の層がある)の映像が、僕の記憶に鮮烈に残った。

              UFOの町、羽咋へ出張することになって

              2010.07.30 Friday

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                石川県へ出張することになった。
                2泊3日の出張で、一日目は金沢の印刷業者と打ち合わせだが、翌日からは金沢の書店、小松の書店を回る。ごく普通の書店営業のつもりだったが、準備中にちょっと変わった風が吹いてきた。
                というのは3日目に羽咋(はくい)市の書店に行くことになってしまったからだ。
                僕の知人が、金沢で書店のミニ取次のような仕事をしていた。北陸の書店に、自分がこれと思った本を卸す仕事をしている。僕も一度お世話になったことがある。ここでは仮にSさんとしておくが、今回も、このSさんに石川での書店展開を助けてもらおうと思い連絡を取った。
                ところが、このSさん、金沢の事務所には今では週に1回ぐらいしか出てこないと言う。羽咋市に250坪の書店をオープンさせたのだ。聞けばSさんは、金沢の大手書店の番頭さんをしていたが、2代目経営者の代になって、経営方針のことで衝突し、会社を飛び出し、これと思う本を北陸の書店に紹介委託するという仕事をはじめたのだという。それが今年になって、羽咋に自分の思い通りの方針で運営できる書店をオープンさせたというわけ。
                そんな経緯でできた書店、ぜひ見学したいし、書店流通の変革期に、彼がどんなビジョンを持っているのかも聞いてみたい。
                「ぜひ訪問させてください」「じゃあ駅へ迎えに行くよ」ということになった。
                ところが羽咋という町が、どういうところか調べていて驚いた。古くからUFOの目撃が絶えない町だという。市自体も、このUFOで町おこしを計画しているという。
                そればかりか、この羽咋には「モーゼの墓」があるという。東北の「キリストの墓」といい、一見眉唾物に見えるが、そうとは言い切れない。モーゼその人の墓があるというより、ユダヤ民族の一部が古代にシルクロードを通り、中国、韓国を経由して日本へ渡ってきている、その傍証として考えられるということだと思う。真偽のほどはともかく、その羽咋へ行くわけだから、モーゼパークへも行き、できれば羽咋市の宇宙科学博物館へも行ってみたいと思った。

                そんな羽咋の町に知人が書店を出したというのだから、僕の発行した本の中でも「母なる宇宙とともに」やこれから発行される「宇宙の風」を並べてもらうのも面白いだろう。それらの本は決して興味本位で宇宙やUFOをとらえたモノではない。そんな本たちが、UFOを求める人たちにどう受け入れられるか、それもまた興味深いと思う。

                この続きは、出張から帰ってからということに……。
                今回の石川出張、何かワクワクするものになってきた。

                伊予から阿波へ/出張紀行 vol.3 阿波の土柱で

                2010.06.12 Saturday

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                  伊予鉄高島屋

                  6月8日午前10時40分、伊予鉄道松山市駅そばの市営駐車場に車を止め、松山での営業活動を開始する。まずは伊予鉄高島屋内にオープンした紀伊國屋書店松山店を訪問。その後、千舟通りにあるジュンク堂書店松山店を訪ねようと、通りがかりの人に道を尋ねる。
                  「千船通りなら、この向こうの通りだけど、ジュンク堂……?」
                  二人の人に尋ねるが、結局、知らないようだ。 これが紀伊國屋や明屋書店の場所なら、すぐに答えが返ってくるのだが、まだジュンク堂さんは松山では馴染みが薄いようだ。
                  ともかくジュンク堂書店訪問も、銀天街にある明屋書店訪問も終え、後は、懐かしい顔の待つ奥道後温泉に向かうだけだ。ここで松山の読者の方と昼食会がある。
                  昼食会の後も、松山市内での書店開拓は続き、その夜は奥道後ホテルに泊まることとなる。

                  奥道後温泉.jpg

                  夕食後、ジャングル温泉で疲れを癒す。「一泊で26の湯巡り」が、奥道後ジャングル温泉のキャッチフレーズだが、上の案内にも書かれてあるように、結局は2種類の源泉が元。一つは昔から湧き出している「単純硫黄泉」。いま一つはラドンを多く含む「単純弱放射能泉」の二つの湯だ。だから忙しそうに26を渡り歩く必要はないということ。
                  翌朝も早朝から温泉を楽しみ、8時にはチェックアウトをして徳島へと向かう。
                  徳島の読者の方と、高速道路「阿波」のパーキングエリアで落ち合う予定なのだ。

                  愛媛から徳島へ.jpg

                  このトンネルの途中から徳島県となるのだが、松山を出てからすでに2時間以上が過ぎている。途中、川之江インターの分岐を間違えたため、それでも予定時間より20分遅れだけで「阿波パーキングエリア」に到着した。

                  高速阿波パーキングエリア.jpg

                  土柱温泉.jpg昨夜、ホテルから徳島の読者Fさんに電話をしたが、そのときは風邪にかかったということで辛そうにされておられた。そんなわけで今日は会えないかもしれないと思っていたが、我々が到着したときは、すでに阿波のパーキングで待ってくれていた。決して風邪が治ったようには見えないのに、「ここはパーキングに車を止めたまま、高速道路から出られるのよ」と、僕たちを案内して「土柱ランド」というところへやってきた。
                  僕たちに、天然記念物の「土柱」を見せてくれようというのだ。
                  ところでFさんは、僕の前の勤め先「かんぽう」に遊びに来られたことがある。Fさんのところで働いている男性の方が、登山家でもあり、ヒマラヤのトレッキングに挑むというので、現地ネパールで「何か困ったことがあったら相談に乗ってやってほしい」というわけだ。「かんぽう」はネパールに「かんぽうネパール」という子会社を持っているので、そのマネージャーを紹介することになった。
                  しかしネパールではなにも問題は起こらなかったのだろう。パタンの事務所には顔を出されることも、電話がかかってくることもなかった。
                  めでたし、めでたしというところだが、問題は次の年、日本で起こった。ヒマラヤ登山に行かれた翌年の正月、国内の登山で遭難され、その男性は帰らぬ人となった。
                  Fさんも、相当ショックだったのだろう、登山家でもあり、詩の才もあったその男性の「遺稿集」を発行できないかと相談を持ちかけられたことがあった。彼女自身も、大手出版社の依頼で絵本の絵を描くほどだから、作れば作ったで、かなり完成度の高い「本」ができたかもしれない。
                  土柱ふれあい広場で.jpgふと見ると、「土柱」探索の足場になる駐車場の隅に山羊の小屋があった。隣にはウサギ小屋もあり、そこに一枚の紙が、ガムテープで留められていた。「{うさぎ ヤギ}大すきな人にさしあげます」と。

                  そんな光景を横目に、展望台へ続く坂道をFさんを先頭に、僕と連れのOさんが登っていく。
                  今回Fさんとお会いした大きな目的は、Fさんの絵本作家としての活動に興味があったからだ。彼女は「意識の世界」を絵本という媒体で、多くの人に伝えることができないか、その思いをずっと抱えておられた。そのことで進展があったかどうかも確かめたいし、まだ進展がないなら、お会いすることで、何か変化が起こるかもしれない、そんな漠然とした目的があった。

                  やがて「土柱」を一望できる展望台へでた。
                  案内板には「土柱」について次のような説明がかかれていた。

                  ◇天下の奇勝・阿波の土柱
                  自然が創った芸術品、130万年前の地層をのぞかせた土の群立で、扇状台地が風雨に浸食されてできたものです。
                  尚、阿波の土柱のうち波濤嶽は、昭和9年5月1日に国の天然記念物に指定されています。
                  アメリカのロッキー、イタリアのチロルに見られる土柱と並んで、「世界三大奇勝」とされています。

                  この土柱を見晴るかす展望台で、しばらくの間、Fさんとの歓談の時間を持った。ここでの話がどんな実を結ぶのか、自分にとってどんな流れを産み出すのか……

                  Fさんの運転する車が、僕たちの前を通り過ぎていった。運転席で、Fさんがいつまでも手を振っているのが見えた。

                  土柱001.jpg

                  土柱の案内板

                  伊予から阿波へ/出張紀行 vol.2 西条の打ち抜き水

                  2010.06.11 Friday

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                    西条市観光交流センター.jpg

                    西条市観光交流センターうちぬき.jpg東予温泉から車で20分ほど走ると、JR伊予西条駅前に着く。この駅前に西条市観光文化センターがある。西条市は、石鎚山系に源流を発する加茂川があり、この加茂川の水が地下水脈となって町の地下を流れている。この地下水が溜まり圧力を受けて地上に噴き出してきたものが、「うちぬき(自噴水)」と呼ばれる。江戸時代には竹筒を打ち込んで水が自然に出てくる仕組みを作っていたという。
                    水に恵まれた西条は、隣の松山が水不足で苦しんでいるときも、ここだけは水が豊富にあり、今まで水不足で困ったことはないといわれる。
                    「うちぬき」は名水百選に選ばれており、水自体が町の名所になっているが、この西条市観光文化センター内では、うちぬき水の仕組みが公開され、試飲できる場所も用意されている。そこで我々二人組も期待に胸をふくらませ、用意された柄杓で「うちぬき」からあふれ出す水をすくった。お味のほどは、ご自身で確認していただくとして、ここでは、とりあえず動画と音で我慢してもらうしかないだろう。



                    うちぬきの仕組み.jpg

                    上の図は、「うちぬき」の仕組みを図示したものだが、小さい画像で細かい文字までは読めないが、なんとはなく雰囲気は分かってもらえるのではないだろうか。

                    左の写真は、海から噴き出した「うちぬき」で弘法水と呼ばれるが、海水ではなく、完全な真水だという。このように町の中には、いたるところに「うちぬき」があり、それら水の名所を回るコースもあるのだが、そんなことをしている時間はない。
                    10時半には松山に到着しなければならない。
                    ちなみに、伊予西条駅構内にも「うちぬき」があって、打ち抜き水を試飲することができるという。




                    うちぬき自噴範囲図.jpg
                                        (打ち抜きの分布を示す地図)

                    伊予から阿波へ/出張紀行 vol.1 東予港上陸と東予温泉

                    2010.06.11 Friday

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                      フェリーのデッキ.jpg

                      2010年6月7日、大阪南港22時、大槻さんと僕(桐生)は車の中でダベりながら四国オレンジフェリーへの乗り入れを待っていた。やがて係の人の合図で、大槻さんがゆっくりと車を発進させる。乗り込むフェリーは「ORANGE7」、思わず「セブン、セブン、セブン……ウルトラの父がいる、ウルトラの母がいる……♪」などと口ずさみたくなるような船名だ。
                      この「ウルトラ・セブン」ならぬ「オレンジ・セブン」に、わが命を託すことになるわけだが、せめて命を託す相手のことは知っておきたいと、Webで彼女のことを調べてみた。

                       総トン数 9,917t/全長 156.0m/全幅 25.60m/航海速力 22.5ノット/
                       最大速力25.0ノット/搭載能力 乗用車=42台、トラック=122台/旅客定員 750名

                      オレンジフェリー船室.jpg「なかなかのものだ。これなら命を託せる」、と言っても、あまり意味は分かっていないのだが、調べておくとなぜか頼もしい姉さんのような気になってくるから不思議だ。 
                      ともかく、大阪南港→松山便が廃止になった「さんふらわあ号」が、「総トン数9,245t、全長153.0m、幅25.0m、出力27,000馬力、航海速力22.4ノット(最大24.8ノット)、旅客定員710名、車両搭載数:トラック100台・乗用車100台」なわけだから、乗用車数以外は、すべての面で勝っているのだ。
                      「ざまあ見ろ」だ。この船で我々は四国の東予港を目指すわけだ。

                      少し安心したところで、大槻さんの運転する車も、無事、船腹に誘導された。駐車場ナンバーは「1」番とこれまた幸先がいい。あとは船室に荷物を下ろし、船内を見学して寝るだけだ。

                      東予港入港01.jpg

                      船内での朝食.jpg早朝5時に目が覚める。いつもならゴロとトマを散歩に連れて行く時間だ。デッキに出てみると、水平線から上は、うっすらと雲がかかっている。車で走るには、ちょうど良い空模様になるだろう。
                      やがて船内に「6時10分の東予港到着」のアナウンスが流れ、続いてレストランでは朝食準備ができた旨を知らせている。
                      このオレンジ7号では、東予港到着後、7時まで船内で休憩できるという。

                      デッキから船内に戻ると、下船準備をした乗客がホールに列をつくっている。時計を見ると6時、間もなく東予港に到着だ。船室に帰ると、大槻さんが身支度をしている。我々は7時まで下船するつもりはないので、船内のレストランで朝食をとることにした。
                      「和食セット」「洋食セット」ともに650円、なかなかのボリュームだ。二人ともに「洋食セット」をとり、朝飯を食いながら今日の予定を打ち合わせる。
                      松山での書店営業開始は10時半、書店は10時にオープンするが、始まって早々は「品だし」やら何やかやと忙しい。少しずらすのがエチケットだろう。すると7時に下船して3時間半ぐらいの時間がある。ならばというので、東予港から車で10分ぐらいのところにある「東予温泉」を目指すことにした。日帰りの温泉施設があり、朝6時から夜の12時まで営業している。料金は大人550円と手頃である。
                      船内に浴室はあるが、二人とも疲れて眠ってしまい昨夜は風呂にも入っていない。時間つぶしにはもってこいの施設というわけだ。

                      東予温泉癒しのリゾート02.jpg

                      東予温泉癒しのリゾート説明板.jpg走る間もなく目的地へ到着した。
                      施設の名称は、「東予温泉 いやしのリゾート」という。外観からして南国風のイメージにつくられた温泉のようだ。
                      その建物の入り口に、次のような説明板が掲げられていた。

                      弥生の浪漫と歴史香る東予温泉
                      この地は、弥生時代中期(2000年前)周敷(すふ)には、道前平野最大の弥生人の村があり、この村の首長は中国大陸の息吹きを感じる装身具「楽浪系石製指輪」を身に付けていた。
                      奈良時代、周敷あたりは、周敷郡(すふぐん)と呼ばれ、このころも奈良の都と伊予の国府を結ぶ南海道が通り、周敷駅があり、都のいろいろな文化が入って来た。
                      又、周敷郡を治める郡家(ぐうけ)「郡役所」があった。このように周敷は古代道前平野の中心で政治経済、文化、交通の要衝で古代文化の里であったことが周布地区生涯学習推進委員会による先人たちの足跡を解明すべく文化財や遺跡、歴史、伝承の発掘調査により明らかになった。
                      周布の歴史を超え、今に伝える温泉につかり、弥生時代からの香りをご堪能ください。

                      ◎周敷郡(周布郡)は、「伊予国」のちに「愛媛県」の東部にかつてあった郡。1897年(明治30年)、桑村郡と合併、周桑郡(しゅうそうぐん)となった。/大浴場 家族温泉 東予温泉

                      弥生の昔に心をはせるには、いささか南国風の施設ではあったが(バリ島のイメージらしい)、温泉自体はなかなかのもの。少しぬるい目の源泉「黄金の湯」は、いつまでも浸かっていられるし、「歩行湯」や「寝ころび湯」、それに「ホワイトイオンバス」など、それぞれに趣向を凝らしていて楽しめる。

                      東予温泉各種温泉.jpg
                      泉質自体は、ナトリウム−塩化物温泉(低アルカリ性低温泉)と言うのだそうな。適応症は、神経痛から慢性婦人病まで二十数項目にわたって書かれているが、あまり興味はない。ただ入っていて気持ちのいい温泉には違いない。

                      ◇東予温泉 いやしのリゾート
                        住所/西条市周布六百八十七番地の1(東予丹原インターから来るまで2分)
                        営業時間/朝6:00〜深夜24:00(札止め23:00)
                        電話/0898-64-0080
                        入浴料/大人550円 老人(65歳以上)500円 小人(3歳〜小学6年)300円
                        ※タオル・石鹸など、入浴用具は各自持参のこと。

                      東予温泉打ち抜き水.jpgいささか温泉の宣伝のようになってしまったが、僕個人としては、本当に気持ちのいい温泉であった。さて、いよいよ上がろうとして、浴室入り口に気になるものを見つけてしまった。

                      「水風呂」の表示の下に小さく「西条の打ち抜き水」と書かれている。
                      「うちぬき」というのは、ネットで東予温泉のことを調べているとき、たまたま出てきて気になっていた。僕が知らないだけで「西条のうちぬき」というのは、結構、有名らしい。
                      受付の女性に訊いてみると、この近くには「うちぬき」はないという。「もともと、ここは東予市といって、西条市ではなかった。合併で西条になったが、うちぬきは西条にしかない」という。また、ここから車で20分ぐらいのところに「JR西条駅」があり、その前に「西条観光文化センター」がある。そこへ行けば「うちぬき」は見られるし、うちぬき水も試飲できるという。
                      時間はまだ十分にある。大槻さんとも相談の上、いざ西条市に向かうこととなった。

                      東予温泉癒しのリゾート01.jpg
                                  (「東予温泉 いやしのリゾート」 親切な受付の女性)