大阪の便利なモノレール&レンタサイクル

2011.09.03 Saturday

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    [モノレール路線図].jpg
    仕事で、モノレールを利用することがあった。目的の訪問先は、大阪空港と蛍池のちょうど中間。歩くと20分以上かかりそうだ。モノレール蛍池の改札を出ると、橋上駅舎だというのに自転車が何台か駐輪してある。見るとレンタサイクルのようだ。
    「お申込は改札口駅員まで」と書かれている。
    これは、確認しない手はないと、今通ってきたばかりの改札に舞い戻り、駅員さんに
    「自転車が借りたいんですが」と切り出した。
    「登録はお済みですか?」
    「いえ、まだ何も……まるっきり初めてなもので……」
    「じゃあ、この申込書に記入して、まず登録を済ませてください」という。
    登録料は無料。一度、登録すると、モノレールのどの駅でも使うことが出来、利用料金は一泊二日借りて200円だという。何というやすさ。これを過ぎると、つまり借りた日の翌々日から一日につき300円の超過料金が発生するという。これまた安い、しかも上に掲げたモノレールの駅ほとんどにレンタサイクルが置かれているという。ただし各駅に8台ぐらいと、そんなに台数は多くない。
    一つ注意するのは、必ず借りた駅へ返さねばならないということ。千里中央の駅で借りて、万博記念公園駅で返すことは出来ない。いや、出来るのだが、その場合は移送料として6,000円が必要となる。
    そのほか、30日過ぎて返されない場合は、日数分の超過料金+違約金10,000円が請求されることになる。これは当然のことだろう。

    今言ったような利用規約の説明を受け、身分証(運転免許証とか健康保険証とかパスポートなど)を提示すると、写真のようなレンタサイクル登録票というカードが支給され、以降は、このカードさえ出せば、モノレールのどの駅でも200円で自転車が借りられるという寸法。
    いやはや、何とも便利なシステムだ。
    今日はたまたま仕事での利用だが、このシステムをつかい、北摂の古墳めぐりや遺跡めぐりをするのもわるくないだろう。いずれ、ぜひチャレンジしてみたいと思う。

    ※モノレールの駅のこととて、駅舎はすべて橋上駅舎となる。その際、自転車を地上に降ろすのはエレベータを利用することになるが、エレベーターが小さく斜めにしか自転車を入れることが出来ない。無理をするとエレベーターや自転車を痛めることになるし、お年寄りや子供など、他にエレベーターの利用者がいるときは、急いでいても次を待つのがエチケットだと思う。老婆心まで……。

    以下は、各駅の自転車を地上へ降ろすための移動経路図。
    (ガリ刷りのプリントをスキャンニングしており、画像が不鮮明ですが、ご容赦を。)

    我が町のお気に入り史跡10選 No.7 大中公園と静御前

    2009.11.16 Monday

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       大中公園野外能楽堂

      ◇大和高田市・大中公園
      広陵町中央体育館の東側を高田川が南へと流れているが、この高田川にに沿って自転車で6キロほど走ったところが大和高田市の大中公園だ。桜の季節には両岸がピンクに染まり、川岸は花見客で埋まる。桜の季節でなくても、早朝、この川岸を自転車で風を切って走ると、つまらない悩み事も風に飛ばされていくような心地がする。しかし、冬に向かうこれからの季節は少し厳しい。

      しかし、僕らが奈良へ越してきた当初は、この高田川もドブ川に近い状態で、桜はきれいだが匂いはたまらない、そんな有様だった。
      それが市政50周年を記念して1億円が市に寄贈されたという。その金で、大中公園に野外能楽堂「桜華殿」が池中に建てられ、同時に隣接する高田川も水辺プラザ整備事業と銘打って、川浚えがされ、“桜の名 所”として生まれ変わることとなった。公園の景観も、この浮舞台の竣工で様変わりしてしまった。

      きれいで気持ちよくなると、今まで気がつかなかったものが見えてきた。
      これまでにも建っていたはずだが、特に興味もないため見向きもしなかった石碑……なんだろうと自転車を止めてみると、それが「静御前の碑」だった。
      静御前の石碑
      「静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。京に遊んで歌舞の名手となり、立烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の賞讃をあびた かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕えられた 鎌倉鶴岡八幡宮の社頭 頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い 後許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという ここに静御前の遺跡を示す村絵図により記念碑を建つ  昭和五十三年七月  高田川を美しくする会」

      「へえーっ、静御前って大和高田の生まれだったんだ。」
      でも、「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという」、これって違うよね。鎌倉へ連れてこられた静御前は、頼朝の妻、北条政子の口添えで助けられるが、身ごもっていた子供は、頼朝が「女の子なら助けるが、男の子なら殺す」と命じ、結局、男子を産んだため、その赤子は由比ヶ浜に沈められ殺されてしまう。その後、静御前の消息は不明というのが、僕らの知っているストーリー。
      でも、この碑には「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわる」と記されている。
      いったい、どっちが本当なんだろう。

      井園町の町並み「どうせ分からないだろうけど、静御前が住んでいた礒野っていうところへ行ってみよう」、そう思い、案内板を頼りに再び自転車を走らせる。人に聞きながら礒野町という古い町並み(写真)にでるが、何もめぼしいものは見つからない。小さなお寺があって境内を掃除している人が目についた。この人に聞いてみると、近くに「静御前の塚」というのがあるということだ。

      あった! 町の一角が囲われ、そこに「静御前の遺跡」という案内板と「礒野村古図」と題した2種類の説明書きが設置されていた。

      静御前の塚案内板◇「礒野村古図」と説明書き
      「左の写真は、宝暦年間に作られた礒野村の古図で、図の右側の川は旧高田川で、中央の左寄りに環濠のある礒野村が描かれている。現在も中世の防衛設備であった環濠の名残を礒野町の周りの水路に見ることができる。
      右の写真は、礒野村の北側に、田んぼの中に小さく描かれた静御前の塚である。三角形の小山の左側に「古来より、静御前の塚なりと」添え書きしてあり、今から250年以上前からの伝承が伺える貴重なものである。礒野村古図には、そのほかにも、現在の高田高校敷地内の静御前衣掛けの松や現在の春日町付近にあった笠神の社も描かれていて、静御前の古来よりの伝承を知ることができる。」

      ◇「静御前遺跡」という案内板
      「礒野村の古図に、静御前の遺跡が三ヶ所ある。衣掛けの松、住居の跡、静御前の塚が明示されている。衣掛けの松、住居の跡は、いずれもその跡をとどめないが、この一角だけは、静御前の塚として、現在も土地の人々の間で伝承されている。
      なお、大和高田市と、静御前の因縁を記念して、静御前の生涯を語る記念碑が、大中公園に建っている。」
      これですべて。
      後は、「文化財を大切にしましょう 大和高田市教育委員会」の文字があるだけ……。
      結局、何も残っていないし、何も分からないということ。暇が出来たら、高田市の教育委員会へ行って、どっちが本当か聞いてみよう。

      高田川と野外能楽堂

      我が町のお気に入り史跡10選 No.6 鳥谷口古墳

      2009.11.12 Thursday

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         6.鳥谷口古墳

        鳥谷口古墳

        「奈良県指定史跡 鳥谷口(とりたにぐち)古墳
         昭和62年3月10日指定

         場所 當麻町大字染野字鳥谷口679番地(現 葛城市染野字鳥谷口)
         時代 古墳時代末期(7世紀後半頃)

        この古墳は約1300年前に築造された、一辺が7.6mの方墳です。
        墓室は横口式石槨(よこぐちしきせっかく)という構造で、南側に開口部があり、二上山産出の凝灰岩が使用されています。また、底石や北側の側壁には家型石棺の蓋石の未製品を利用するなど、特異な石槨構造となっている。
        鳥谷口古墳案内板の写真
         平成7年3月 當麻町教育委員会

        以上が、案内板の説明である。被葬者が誰であるか、ここには触れられていないが、写真のキャプションにもあげたように、大津皇子の墳墓ではないかという説がある。この説を打ち出したのは、『陰陽五行思想からみた日本の祭』で博士号を取った吉野裕子さん。彼女は、その著『持統天皇』の中で、大津皇子の墳墓について次のように述べておられる。

        「つまり大津は二上山に移葬されたといわれるが、二上山は大和平野における東方の神の山、三輪山に対し、日没方向の西の山、死者の山である。
        『易』の先天易において
        ●東は『陽』の火を意味する『離』
        ●西は『陰』の水を意味する『炊』で、『炊』は暗い穴である。
        大津の死後の世界は時間的にも空間的にも徹底的に『地』、それも暗い穴に閉じこめられた永遠の闇なのである。
        なお大津の墓は二上山山頂と伝えられ、現に大津はそこに祀られている。しかし考古学的にみて山頂に古墳の形跡はなく、また、西は易の炊卦を象徴するが、その『炊』の象徴は凹だから山頂ではあり得ない。
        従って二上山といっても恐らくその東麓(大和からみて二上山の向側の西麓は落ちた陽が東から再び上ることが期待される地点だから、西麓に葬られるはずはない。こちら側の東麓と思われる)で、しかも沼などの畔りということになる。これらの條件をみたすものに最近、発見された鳥谷口古墳がある。この古墳は二上山雄岳の東麓、その石棺は家形、しかも奇妙なことに古い石材の寄せ集めから成り、いかにも刑死者にふさわしい粗末な出来である。
        未だ確定はされていないが、二上山頂の陵墓比定地よりこちらの方が呪術的にはよほど理かなに適っている。」

        以上が、鳥谷口古墳こそが大津皇子の墓ではないかという吉野裕子さんの論拠である。説得力もある上、妙に胸落ちするところがあり、まず間違いないのないところだと思う。
        それにしても、反乱罪とはいえ、よくもここまで落とされたものである。そのうえ反乱罪と言うが、大津皇子は、すでに即位していたという説もある。即位していたとなると、自身が最高権力者の座にあるわけだから、誰に対しての反乱罪なのかという疑問が当然起こってくる。
        大津皇子は、いったい何のために刑死しなければならなかったのだろう。


        広陵町とその周辺・我が町のお気に入り史跡10選 vol.1

        2009.11.11 Wednesday

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           1.牧野(ばくや)古墳
          牧野古墳

          所在地:奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目
          「丘陵の南斜面に築かれた円墳で、径約55メートル、何面に横穴式石室が開口している。石室は巨大な花崗岩を使用して構築している。羨道(せんどう)は長さ10メートル、高さ2.0メートル、幅1.8メートル、玄室は長さ7.0メートル、幅3.3メートル、高さ4.5メートルに及ぶ。玄室内には刳抜家型石棺があり、また組合石棺もあったが完全に破壊されていた。当古墳は馬見丘陵では数少ない横穴式石室を有する古墳として重要であるばかりでなく、県下でも最大級の巨大な横穴式石室として学術上きわめて古墳である。なお古墳の被葬者は敏達天皇(538〜585 即位572〜585)の皇子、押坂彦人大兄王(おしさかひこひとおおえのおう)であろうとする説がある。」
          以上が、左写真の案内板に書かれてある解説だ。

          ここで気になるのは、被葬者が押坂彦人大兄王であるということ。彼は、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、用明天皇の崩御(587年)後、厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子と共に王位継承者として候補に挙がった人物である。しかし、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたという説もある。

          これに対し、広瀬満さんという民間の研究者の方が、WEB上で大変魅力的な説を展開されている。結論だけ言うと、従来言われている説とはまるで反対の意見で、「押坂彦人大兄王」と「蘇我馬子」は同一人物だというのである。
          一件、突拍子もない説に思えるが、その論旨を読むと、「なるほど」と頷かせる説得力がある。興味のある方は、彼のサイトhttp://www.ookuninushiden.com/newpage59.html(「日本神話と古代史」)にアクセスすることをお勧めする。
          それにしても、蘇我馬子という人物、聖徳太子と同一人物説を説く研究者もいる程で、興味が尽きないというか魅力的というか、その反面、何か底の知れない薄気味悪さも感じる。この牧野古墳も「馬さん公園」という、何ともかわいい別名がついているが、行かれた方はわかると思うが、石室付近に近付くと、どんよりした薄気味悪い雰囲気が漂っている。
          ただ、この古墳の頂きに立って眺める夕陽は、結構すばらしい。古墳の頂きを通って東側へおりる遊歩道があるので、散歩にはちょうどいいコースだが、頂きに立つと、西に二上山が見渡せ、そこに陽が落ちていく。この景色が素晴らしい。ただ、この時期は4時半頃にこの場所に立たないと日没は観賞できない。


          2.百済寺


          百済寺

          所在地:奈良県北葛城郡広陵町大字百済1168
          「『日本書紀』舒明天皇11年(639)12月の条に『是の月百済川の側に九重塔を建つとあり聖徳太子が平群郡熊凝(へぐりぐんくまぎ)に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。
          その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し大官大寺と称したと伝えられるが明確ではない。現存している三重塔は鎌倉中期の建築(昭和5年解体修理)と考えられ明治39年国の重要文化財に指定されている。本堂は大職官と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで、内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。』

          以上が、百済寺の敷地にたてられた案内表示の全文です。
          ただ「ウィキペディア」でも紹介されているように、『現・百済寺周辺からはその時代の古瓦は出土せず、官寺らしき寺跡もなく、当時の政治の中心であった飛鳥とも地理的に離れており、この地に「百済大寺」が所在したことは早くから疑問視されて』おり、今では桜井市吉備の吉備池廃寺こそが百済大寺だったのではないかと言われています。

          それはさておき、僕が注目しているのは、建物よりも、この「百済」という地名。司馬遼太郎氏が言うように、日本中至る所に、この「百済」という地名はあるようですが、元をただせば朝鮮半島に存在し1500年前に滅んだ国のこと。それがなぜ、日本中至る所に、この地名が残っているのか。韓国語では「百済」は「ベクテェ」というらしく、「伯太」→「博多」も、「百済」ということになるらしいのです。
          結論を言ってしまえば、日本の国自体が、1500年前に滅んだ「百済国」をそのまま承継しているのでは……ということになるのです。これも突飛な話ではなく、今では歴史学者や文学者をはじめ、かなり広い分野で指示されている説だと言うことです。天智天皇も百済の王族と言われており、なぜ、彼が蘇我氏を滅ぼしたのか……クダラないと一笑に付さず、頭の体操と思って、思いを巡らせてみてはいかがでしょう。違った日本の姿、違った日本の歴史が見えてくるのではないでしょうか。


          3.南郷環濠集落


          南郷環濠集落

          所在地:奈良県広陵町南郷
          広陵町役場のすぐ南側にある集落で、南北約700m、東西約550mの規模で南郷の村を環濠がめぐっている。環濠集落の一部は公園として整備されており、石畳に沿った水の流れが心地よい景観を作り出している。もともと南郷の地は、室町時代に形成された環濠集落で、環濠内に在地豪族南郷氏の居館南郷城が築かれていたという。その後、近世に入り徳川時代には、南郷は徳川幕府直轄領となり、関ヶ原の合戦の翌年、北見五郎左衛門が代官として代官陣屋を築き2万石を支配したという。環濠の南東角が、「城の内」と呼ばれ南郷氏の居館があったところで、現在、この一角に南郷城の石碑が建っている。



          4.藤ノ木古墳

          藤ノ木古墳
          藤ノ木古墳石室見取り図
          所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目

          「藤ノ木古墳は、昭和60年の第1次調査により、未盗掘のくり抜き式家形石棺を有する6世紀後半の大型横穴式石室であることが確認され、さらに世界でも類例のない装飾性豊かな金銅製馬具が出土したことにより、一躍世界で有名となりました。また昭和63年には、第3次調査として石棺の開棺調査が実施され、石館内からは二体の被葬者とともに、金銅製履や冠に代表される豊富な副葬品が埋葬当時のままで発見されました。そしてその日々明らかとなる調査内容は、みなさんをテレビや新聞に釘付けにし、この現象は『藤ノ木フィーバー』と称され、世間の注目を浴びたところであります。」
          (図は、斑鳩町教育委員会「国史跡 藤ノ木古墳」−整備事業完了記念図録ーから転載)

          以上は平成20年5月、史跡藤ノ木古墳整備事業の完了に伴い、斑鳩町長 小城利重さんが「藤ノ木古墳 記念図録」の巻頭言に寄せた一文である。
          ところが僕自身は、この時期、近世の海外交流史に夢中で、古代史には全く興味がなかった。藤ノ木フィーバーがあったことすら覚えていない。それが奈良に住むようになり、最近は、運動を兼ねて法隆寺まで自転車を転がすことが多くなった。自転車で片道40分程度の法隆寺は、朝の運動にピッタリだったのだ。そこで、聖徳太子に興味を持ち、そのブレーンだった秦氏に興味を持つようになった。世界観が変わった。この時代は、僕が考えているよりもっと国際性豊かな世界だったのだ。帰化人というと、漢字の名前が付いているため、みんな中国や韓国の人達だと思いがちだが、その中には秦氏のようにシルクロードの西から来た青い目の人たちも多くいたようなのだ。急に古代が身近な世界になっていった。そんななかで、この藤ノ木古墳のことを知った。斑鳩町教育委員会の人に話をお聞きし、調査資料や関係図録を分けていただき、俄然、藤ノ木古墳興味を持つようになった。
          というのも、藤ノ木古墳が造営されたのは、6世紀後半、聖徳太子の時代とも重なる時代だということ。この時代は、「日本史」というより「東アジア史」と考えていいような時代。おまけに被葬者は2名。当初は男性2名と発表されていたが、2009年9月14日の朝日新聞に意外な記事が発表された。

          記事の内容は、「透かし彫り入りの金銅製鞍(くら)金具など超一級の副葬品が見つかり、内外の注目を集めた奈良県の藤ノ木古墳。墓のあるじは、人骨を調べた人類学者の研究に基づき、『男2人』とされてきたが、考古学者の側から『遺物の特徴からみる限り、男女』との説が発表された。」
          さらに「藤ノ木古墳の被葬者については、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説など様々な説があるが、これらは『男2人』という前提に基づいてのこと。男女であれば、論争は振り出しに戻ってしまう」と、結論のでないまま、このことで「人類学者と考古学者が、深く議論を交わすきっかけになれば」と締めくくっている。

          未だ被葬者は定できないままだが、またもや蘇我馬子や聖徳太子が絡んでいそうな状況だ。古代史への興味は尽きることがない。
          (写真のキャプションに「藤の木古墳」とありますが、「藤ノ木古墳」の誤りです。)



          5.唐古遺跡

          唐古移籍

          唐古・鍵遺跡所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古

          「唐古・鍵遺跡の楼閣(復元)
          平成3年秋、唐古・鍵遺跡の弟47次調査において楼閣の描かれた土器が出土し、古代建築史上、画期的な発見として大きく取り上げられました。この土器は弥生時代中期(紀元1世紀)のものです。すでにこの時代に大陸文化を取り入れた建築文化があったことを証明する資料となりました。1つの土器片には2層の屋根、大きな渦巻き状の棟飾り、3羽の鳥と考えられる波線が、また、もう1つの土器片には2本の柱と刻み梯子が描かれています。この建物の表現から、宗教的な建造物でないかと考えられています。また、魏志倭人伝(3世紀)には卑弥呼の宮室は『楼観(ろうかん)、城柵(じょうさく)をおごそかに設け…」と記されています。卑弥呼の住む邪馬台国にはこのような高い建物がそびえていたのでしょう。
          この楼閣は、高さ12.5m、柱の間隔4×5m、柱の太さ0.5mの規模です。屋根は茅葺きで、藤蔓(ふじつる)製の棟飾り、窓はつきあげ窓、一枚板製の扉、刻み梯子などで復元しました。
          平成6年4月1日 田原本町」

          上の写真にある「案内板」には、このようなことが書かれてあった。更に調べてみると、遺跡面積は約30万平方メートルもあり、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、出土物から考え、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

          実は、この唐古遺跡には、目的があって行ったのではなく、アマテラスに一歩近づいてみようと、田原本の「鏡作坐天照御魂神社」へ自転車で出かけたことがある。そして、その帰り道、道に迷って、この唐古・槍遺跡へ出てしっまたのだ。「唐古・槍遺跡」の表示に惹かれ、何だろうと溜め池沿いに自転車を進ませると、いきなり写真の楼閣が出現した。予備知識もなく対面したわけで、それだけに強烈な印象となって残っている。

          相撲の開祖 當麻蹶速(たいまのけはや)の塚を訊ねる

          2009.11.03 Tuesday

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            マイ自転車

            今日は、まず僕の奈良散策の大事なアシスタントを紹介しておきたい。
            1台目は、「グリーン」と名付けたMUGELLO-M700というイタリア出身の自転車。イタリア出といっても高価なものでなく、今の広陵町へ引っ越してきたとき通販で買った大衆車だ。一度、ひどい転び方をして前輪が歪んでしまったことがある。顔見知りの自転車屋で修理を頼んだが、国産のホイールでは合わずイタリアから取り寄せになるという。自転車屋は「高い買い物になるから、新しいモノを買った方が気が利いている」ともいう。しかし、この自転車、そのときだけ通販用につくられたモノらしく同じマシンは手に入らない。そこで無理を言って、なんとか修理できないかと頼み込んだところ、気がやさしい彼は、自分に言い聞かせるように「お孫さんの自転車も買ってもらってるし……」というと、丸二日間かかって、曲がったホイールを真っ直ぐにし、スポークを一本一本はずして、これも歪みを直したうえで組み立てなおすという荒技をこなしてくれた。さぞ高い修理代を言われるかと思ったが、「タイヤのチューブを換えたから、チューブ代だけ頂きます」と、修理代は決して受け取ろうとしなかった。今時、こんな青年がいるのかと感動したものだ。

            コシモ・デ・メディチところで、なぜ、この自転車に、ここまでこだわるかというと、その名前のせいだ。MUGELLO……おそらくメーカー名だと思うのだが、マニアでもない僕には、いいのか悪いのかも分からない。ただイタリアのMUGELLO(ムジェロ)という地名には大いに興味がある。フィレンツエの北およそ30kmの地点にあるムジェロ、今ではサーキット場があることで有名だが、実はルネッサンスを支えた金融資本家メディチ家の出自と大いに関係があるようなのだ。ある文献は、「メディチ家は13世紀に入るや、フィレンツェ社会の中で急速に頭角をあらわしてくるが、それ 以前のこととなるとまるで分からない。一説にムジェッロで炭焼きをしていたと言われており、それがなぜフィレンツェ社会でどのようにして身を起こしたのか、まるで中世 の霧の中から忽然と現れてきたとしか言いようがない」と、メディチ家の出自がムジェロにあることをほのめかしている。
            真偽のほどはともかく、メディチ家に興味のある僕としては、偶然通販で買った自転車のフレームに「MUGELLO-M700」とプリントされているのを知り、まるで運命の出会いのように思ったものだ。

            2台目の自転車「イエロー」は、DOPPELGANGER-CROSS。これも名前が気にいって1年前に購入した。ドッペルギャンガーといえば、普通は「自己像幻視」と訳される心霊的な現象のことを言う。自分は別の場所にいるにも関わらず、他人が違う場所で自分を見たとか、自分が違う自分と出くわした等という現象のことをいうらしいが、ドイツ語でdoppel(英語ではdoubleになるが)というと、自分と瓜二つではあるが邪悪なものだという意味を含んでいるらしい。自分で、この現象を体験したら死ぬ前兆だという伝承さえあるという。そんな現象名を、自転車のメーカー名に付けている。そのことににまず惹かれた。メーカーのホームページを開いてみると、DOPPELGANGERをいい意味で「自分の分身」ととらえ、持ち物はその人の分身だから……というような感覚らしい。
            どちらにせよ気に入った。邪悪なものをも包み込んだ自分という存在に気づかせてくれるような名前だ。河内山の台詞ではないが「悪に強けりゃ善にもと……」というところか。

            古風な交番とサンドバギー愛車の紹介も終わったところで、早速、奈良散策に出かけてみよう。今日は我が広陵町の隣町に当たる当麻町、目指すは相撲の開祖といわれる「當麻蹶速(たいまのけはや)」の塚、お供はイエローことDOPPELGANGER-CROSS。
            まずは近鉄下田駅まで南下し、大和高田バイパスへと出、ここを右に二上山を見ながら当麻の交差点まで走る。交差点には「右、当麻寺」の標識がある。これを反対の左へ折れると「相撲館けはや座」の幟が迎えてくれる。角には古風な交番が、レトロな雰囲気を醸し出しているが、いきなり妙な乗り物が飛びだしてきた。農耕用トラクターではない、サンドバギーだ。古い町並みに、妙にマッチしているから面白い。
            それはさておき、この古風な交番の向かいが「葛城すもう館 けはや座」だ。館内には本場所の土俵や桟敷が再現されているほか、江戸時代の番付表など相撲資料が数多く展示されている。
            そして、この建物の隣が、當麻蹶速(たいまのけはや)塚ということになる。
            塚の横には、當麻蹶速についての説明書きが金属板に彫られて展示されている。まずは一緒に読んでみることにしよう。

            当麻蹶速について相撲開祖 當麻蹶速の塚
            日本書紀によると「當麻の村に、大変勇ましく強い人がいてその名を當麻の蹶速という。その性格は大変な怪力で、動物の角を引き欠いたり曲がっている鉄の筒を引き伸ばしたりします。そして、いつも人に語るのに、日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者にあって、命がけで力比べをしたいものだ、と語っていました。」このことを天皇がお聞きになり、臣下に仰せられた。「もし誰かこの男にかなうような強い者がほかにはいないだろうか」と。すると一人の臣下が進み出ていうのに、「私は出雲の国に野見の宿禰(のみのすくね)と言う力の強い人がいると言うことを聞いています。それでこの人をよびよせて蹶速と力比べをさせてみてはどうか」と言った。そこで、垂仁天皇の七年七月七日を期して、當麻の蹶速と野見の宿禰とに日本国技として初の天覧相撲を取らせることになった。二人は互いに向かいあって立ち上がり、おのおのの足を高くあげて蹴り合い、力闘の末、當麻の蹶速は野見の宿禰にあばら骨を踏み折られ、またその腰を踏み折られてしまい、敗者となってしまった。當麻の蹶速は高慢な人のようですが、実際には都ずれしない素朴で野性的な性格のため、朝廷の人々と相いれなかったと想像されます。そのため、当地の人々からはかえって親しみをもたれた。石塔は田畑の中に鋤かれることなく、現在まで貴重な遺跡として残されているのです。

            要は、当麻に“けはや”という勇ましい人物がいた。彼は自分ほど強い者はないと思っているような高慢ちきな男で、天皇はそれが気に入らない。なんとか“けはや”の鼻をくじく者はいないのかと探していると、出雲に“野見のすくね”という力自慢の者がいるという。では、というので、天覧相撲とあいなり、天皇の期待通り、“けはや”はあばらや腰の骨を踏み折られ亡くなってしまうという筋書き。
            しかし、この解説を書いた人物も、何かおかしいと思っているようだ。“けはや”のことを都ずれしない素朴な性格のため、朝廷とは相いれなかったが、土地の人々からは慕われていたと付け加えている。

            けはや記念碑03

            そこで違った見方をしてみよう。
            葛城氏や當麻氏は、大和朝廷からみれば被征服民族であり、いずれも、まつろわぬ人々だったわけで、“けはや”というのは、そんな一族のリーダー的存在だったのではないか。しかも征服されたとはいえ、大和朝廷に対し決して従順ではなかった。何かあれば反旗を翻しかねない、そんな火種を抱えていたのではないだろうか。出雲族も同じように、大和朝廷に支配されたとはいえ、鬱々としたものを抱えていたのではないだろうか。しかも葛城・當麻・出雲は元々同族の可能性も指摘されている。當麻氏は葛城氏に属するわけだが、その葛城の地には、出雲の神々が多数祀られているのだ。
            つまり垂仁天皇は、同族同志を争わせ、その牙を抜いておこうとしたのではないだろうか。その象徴的な話として「歴史上初の天覧相撲」があるのではないか。

            他にも、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっている。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻稚媛を自分の妃にしてしまったのだ。その稚媛というのが葛城氏の娘だった。
            要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになる。

            葛城=出雲連合が、「當麻蹶速事件」でつぶされ、葛城=吉備連合が、「稚媛強奪事件」でつぶされた。いずれも大和朝廷の統一政権確立の中でおこった出来事と考えても決しておかしくはないだろう。
             (写真は、相撲開祖 當麻蹶速の塚)

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