童謡詩人「金子みすゞ」と「民芸品の店 和」、そして「ネパール」!

2018.11.13 Tuesday

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       日本非破壊検査株式会社のコマーシャル「見えぬものでもあるんだよ」

     「金子みすゞ」をご存じでしょうか?

     

      青いお空のそこふかく、

      海の小石のそのように、
      夜がくるまでしずんでる、

      昼のお星はめにみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、

      見えぬものでもあるんだよ。

     

     最近、テレビのコマーシャルでよく耳にするようになった、彼女の詩「星とタンポポ」のワンフレーズです。詩など縁遠い僕ですが、CMの朗読が耳に入ってくるなり、そこから流れるやさしい言葉の響きに、たちまち「金子みすゞ」のとりこになってしまいました。
     そんな僕が「金子みすゞ」について更に関心を持つようになったのは、山口県長門市の「くじら資料館」へ取材に行ったときのことです。

     資料館の壁に掲げられてある「鯨捕り」という額に、自然と目が行きました。

     

    長門市通(とおり)の「鯨資料館」に飾られている 金子みすゞの「鯨捕り」

     

     「海の鳴る夜は 冬の夜は、栗を焼き焼き 聴きました。
      むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津が浦。
      海は荒海、時季は冬、風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。」

     

     たちまち、この言葉の響きが頭から離れなくなってしまいました。作者は?とみれば「金子みすゞ」とあります。瞬時にテレビのコマーシャルで流れていた「昼のお星はめにみえぬ」の一節が頭によみがえってきました。
     このあと鯨の過去帳があるというので、向岸寺に取材に向かいましたが、ここでも「駆けてあがったお寺の石段……」という彼女の「かたばみ」という詩に出会いました。
     「おまいりすませて 降りかけて、なぜだか、ふっと、おもい出す。」
     彼女の詩のフレーズが、頭の中をリフレーンします。
     だめ押しとばかり長門に帰るバスでも、バスが仙崎という町にさしかかったとき、オープンしたばかりの「金子みすゞ記念館」の建物が車窓に飛び込んできたのです。降りることもできず、ただすれ違っただだけですが、以来、金子みすゞという女性が、僕の心の一角に根を下ろしてしまったようです。

     

     それがです、意外な場所で彼女と再会することになりました。
     この「かつらぎガイドブック」のネタ探しをしているときのことです。自遊空間ゼロによく来られる女性の方から当麻寺の門前にある民芸品の店「和」のことを教えていただきました。この店が驚いたことに、全国で初の「金子みすゞファンクラブ」だと言うのです。
     奈良の片隅が、金子みすゞ発信の原点……?
     ことの真偽を確かめるべく、早速、当麻寺門前にある、民芸品の店「和」を訪問させていただきました。

     


     入り口には筆書きで「金子みすゞ 奈良みすゞの和」という看板が出ています。
     店に入ると、上品そうな奥さんに迎えられました。来意を告げると、アポなしの突然の訪問にもかかわらず、ご主人(植本茂さん)を呼んでくださり、お二人そろって、いろいろとおもしろいお話を聞かせてくださいました。
    お二人が、金子みすゞのことを知るようになったのは、詩人矢崎節夫さんとの出会いがあったからだと言います。
     もとは當麻寺門前で、相撲の祖と言われる当麻蹴速(たいまのけはや)にちなんだ「けはやの忘れもん」というオリジナルの佃煮などを販売していましたが、その店先へ詩人の矢崎節夫さんが訪問されたのです。
     矢崎さんと言えば、当時、無名だった大正の童謡詩人「金子みすゞ」を発掘し、世に送り出したことで有名な先生です。今では仙崎の「金子みすゞ記念館」の館長もされていますが、民芸品店「和」を訪ねられた頃は、まだ、無名だった金子みすゞを取り上げ、その童謡集「わたしと小鳥とすずと」を出版されたばかりの頃でした。
     奥さんが、「普段は本嫌いな孫が、この本だけは勧めないのに読みますねん」と、感慨深そうに話されます。するとご主人が、「それからです、矢崎先生の金子みすゞ童謡集をこの店にも置くようになりました」と相づちを入れられます。
     これが縁となり矢崎節夫さんとのつながりができ、金子みすゞ愛好者の会「奈良みすゞの和」が発足するに至ったというのです。
     今では、その会員数も約200人となっていますが、その「奈良みすゞの和」で、何か社会に役立つことを……そう思ったとき出てきたのが、ネパールに学校をつくろうという動きだったと言います。その頃、ネパールに学校をつくろうという運動が日本でも広がろうとしていた矢先でした。ネパールは貧富の差が激しく、貧しい子供たちはインドに売られる、そんなことが問題にもなっておりました。
     「金子みすゞ」から「ネパールの子供たち」へとつながったのです!
     話をお聞きしたとき、本当にびっくりしました。

     

    みつまたを白皮にして日本に輸出。ネパールの女性に仕事を供給する。


     

     というのも、僕も前職の「大阪官報」時代、ネパールと関係したことがあります。お札の原料の「みつまた」、これが国内だけではまかないきれなくなっており、僕のボスである田中久雄氏が大蔵省印刷局(現国立印刷局)の勧めもあって、ネパールに自生するみつまたを扱いだしたのです。お金を寄付するより、ネパールで産業を興し、ネパール自体を少しでも豊かにしよう、ネパールでみつまた栽培農家を増やし、その利益で学校をつくろうと、「かんぽうネパール」という会社がネパールのパタンにつくられました。

     2016年12月、田中久雄氏は、ネパール赤十字代表のプラダン氏から、ネパールへの多大の貢献を顕彰して賞状とケープが贈られました(写真 右)。
     その「かんぽうネパール」の責任者が、僕の官報時代の友人シュレスタ・ハリ君だったのです。今では、ハリ君は独立し「ネパーミ」という会社を興し、みつまた栽培や手漉き和紙の生産を通して、ネパールの女性や貧しい方々の仕事の場をつくり、一方で紙幣の原料を日本に輸出することでネパール全体を活性化させようと動き出しています。
     この間、「奈良みすゞの和」に集う「みすゞファン」有志の方々も、ネパールの子どもたちのためにと「金子みすゞ小学校」を二校も、ネパールにつくっておられたのです。
     「奈良みすゞの和」と、ハリさんの仕事が、知らず知らずのうちに同時進行していたようにも思います。この話を知ったとき、金子みすゞさんを媒介に、かつらぎ、ネパール、長門市仙崎(みすゞの故郷)がつながったと、強く感じました。
     そんな次第で、「民芸品の店 和」で「矢崎先生お話し会」という催しが開かれたときには、この席へ、ネパールのシュレスタ・ハリ君を連れて行かずにはおれませんでした。
     というのも、金子みすゞさんの詩集を、ネパール語に翻訳し、ネパールの子供たちに届けられないものかと思ったのです。

     

    矢崎先生お話し会
       「ネパーミ」の代表シュレスタ・ハリ氏

     

     「和」のご主人植本茂さんご夫妻のご厚意で、ハリ・シュレスタ君を、詩人であり、金子みすゞ記念館の館長である矢崎節夫さんにつなぐことができました。
     しかしその席で、ネパール語版の童謡集「ほしとたんぽぽ」は、すでに発行されていることを知りました。
     それでも……という思いはありましたが、後日、「金子みすゞ顕彰会」から送っていただいた本を手にし、この本が5000部も作られたことを知った時、もう、その必要はないと感じた次第です。

     しかし、金子みすゞさんを通じて、たくさんの善意と通じ合うことができました。これから先、「金子みすゞさん」と「ネパールの子供たち」、どんな展開をし、どんな芽が顔を出していくのか、本当に楽しみです。
     当麻寺門前にある「民芸品の店 和」。
     そこは「みすゞの会」にとどまることなく、人と人をつなぐ場所でもありました。それも鳴り物入りの大仰な活動ではなく、ひっそりと、でも着実に……。


     店のホームページは、「私共は今後も目に見えないものですが、人と人とのつながりを大切にしていきたいと考えております」と結ばれてありました。 

     

     

    ネパール語版の童謡集「ほしとたんぽぽ」

      

    「Wild-Bullet犬舎」のオオカミ犬

    2018.10.24 Wednesday

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      取材の車と我々の様子を警戒するオオカミ犬のディーガ

       

               ロットワイラー犬のイブちゃん

       ナビを頼りに御所の蛇穴にある「Wild-Bullet犬舎」を訪ねました。ちなみに「蛇穴」は「さらぎ」と読むみますが、「さらぎ」は蛇がとぐろを巻く状態や蛇が巣を作ることを言うらしく、陶器のことを「さらき」というのも、紐状の粘土を巻き上げて造形していくことがとぐろを巻くのに似ているからだと言います。
       ただ蛇という言葉は「水」や「農耕儀礼」と関係しているようですし、「さらぎ」という発音を重視し、「さらぎ」は「今来(さらき)」を意味し、新来の人や帰化人のことを言うという説もあります。
       地名談義はここまでとし、「Wild-Bullet犬舎」を探しますが、ナビの指示通りに来たというのに、そんな看板の掛かったところは見当たりません。
       ふと見ると「東又」さんの表札がかかった大きな敷地の家がありました。その庭にはたくさんのゲージが置かれてあり、その中の犬たちが興味深そうにこちらの様子を窺っているではないですか。
       間違いありません。ここがお目当ての「Wild-Bullet犬舎」です。
       ブザーを鳴らすと、一見、強面、でも実はむちゃ優しい、そんな感じの男性が現れました。この方が、これから取材しようとする「Wild-Bullet犬舎」のオーナー東又安彦さんです。

       そして、今日の取材のお世話をいただくのが、オーナーの奥さんである東又弥生さんです。
       「嫁は、今、片付け中なんで、少し待って……」と、ゲートを開けて車を敷地へと案内してくれました。
      敷地へ入るや、真っ先に出迎えてくれたのが「イブ」というロットワイラーの雌犬。ムチャクチャ人なつっこく、大きな身体をすり寄せてきて、油断をしていると、その重さでこちらが転びそうになります。その後ろをつかず離れずで、こちらの様子を窺っている犬がいます。

       この子が「ラン」。お母さんは「ホワイトシェパード」、お父さんが「オオカミ犬」で、オオカミの血は薄くなっていると言います。

       しばらくして、オオカミ犬のお母さん的存在とも言える弥生さんがあらわれました。

       これまたご主人に輪をかけたような人の良さそうな方。ただ一点違っているのは、すっごい美形だということ。
       ゲージの中にいるオオカミ犬と、ゲージの外をうろついているオオカミ犬、それらがみんな、こちらの様子を窺っています。警戒している感じの子もいれば、人なつっこそうに好奇心いっぱいでこちらを見ている子もいる、そんな感じです。

       

      お母さんは「ホワイトシェパード」、お父さんが「オオカミ犬」のランちゃん

       

       あまりの多さに頭数をお聞きすると、全部で19頭のオオカミ犬を飼っておられると言います。ロットワイラーを入れると実に20頭になり、あわせて40もの目が、弥生さんに話しかける僕を注視しています。好奇心いっぱいの目もあれば、中には、お母さん(弥生さん)に変なことをしないかと身構えている目も……。
       そんな状況の中、あえてオオカミ犬のほうは見ないようにしながら、「オオカミ犬を繁殖するようになった動機は?」と尋ねてみました。
       弥生さん曰く、元来の動物好きが昂じてオオカミ犬の繁殖をはじめたといいます。


       弥生さんの打ち解けた様子に、警戒していたオオカミ犬たちの視線も幾分やわらいだようです。
       まずは一安心。
       いただいた名刺を見ると、「獣害対策狼犬訓練所」とあります。
       獣害……そう言えば、昨年のことになりますが、知り合いがジビエの関係の仕事をしており、そのツテを使って岡山県美作にある野生鹿の食肉処理場を見学させてもらったことがあります。
       そのとき聞いた話ですが、美作では、いっとき野生の鹿がすっかり姿が見えなくなり、あわや絶滅かと騒がれたことがありました。そんなとき、子鹿を連れた母鹿が発見され、市をあげて保護に乗り出したそうです。
      ところが今度は逆に、野生の鹿が大繁殖、植林の木の皮を食べて枯らしたり、作物を荒らしたりと、人間の生活を脅かすようになりました。
       冬から春に向かうとき、雪解けを促進するために大量の石灰を山に撒くそうですが、そこに含まれる塩分ミネラルが、鹿を繁殖させる引き金になっているのでは……。それでは、というので石灰を撒くのをやめましたが一向に効果はありません。あげく、鹿に賞金をかけ、殺した鹿を集めて食用にすることが考えられました。
      それが、この施設というわけです。


       

       そのとき職員の方に聞いた話ですが、オオカミを輸入し、それを山に放すことで失われた食物連鎖を再構築しようという計画が考えられたことがあるそうです。
       その話しを弥生さんにぶつけてみると、
       「私は反対です」と、即座に答えが返ってきました。
       というのも、オオカミは頭の良い動物で、鹿や猪等の野生動物を狩るだけでなく、安易にえさを獲れることを知れば、人の生活区域を脅かすようにもなる。しかも彼らは犬と交配できるので、管理できないオオカミや野生のオオカミ犬が増え、人間にとって却って危険な存在となるリスクが強いというのです。
       オオカミを導入することで一定の効果が出ているというのは、アメリカのイエローストーンなどの広大な地域で、日本のような狭い土地に人が密集しているような地域では非常に危険なことになるというわけです……。なるほど納得です。

       

       これに対し、管理されたオオカミ犬を、獣害のある場所を散歩させ臭い付けすることで、あるいは狼犬の糞を一定区間に畑の周りに置くことで、猪や鹿等が畑を荒らさなくなり、獣害をなくすことができるというのです。
       オオカミ犬のえさは肉食で、猟で獲った動物の肉を与えるほか、猟仲間の協力で、一頭丸ごとのイノシシや鹿をもらって帰り、それを弥生さんが捌いてからオオカミ犬たちに与えているそうです。鹿なら鹿で、同じ肉ばかり与えていると飽きてしまうため、鶏肉を与えたりもするそうです。

       このように生肉を食べ続けているので、排泄物のにおいが、鹿やイノシシなどの動物に危険を感じさせ近づかないようになるという次第です。
       これが名刺に「獣害対策狼犬訓練所」とある所以です。
       昨今、獣害対策としてジビエへの利活用が盛んになってきていますが、人間が食する「肉」に加工するには、品質管理、衛生管理等々、手間暇がかかりすぎるのと、経済効果が悪く、ジビエの流れが市場とリンクするのは難しく、結局、廃棄される個体が増えていくというのが現状です。
       こうして廃棄される野生の鹿やイノシシの肉が、オオカミ犬の食料となり、新しい生命を生み出すばかりでなく、延いては、その排泄物が害獣避けともなっていけば、どうでしょうか。
       弥生さんは言います。「オオカミ犬を通して、自然のリサイクル(命のリサイクル)の一助となれば」と……。


       こいうして話している間にも、オオカミ犬たちの警戒心も随分やわらいできたようです。
       そこで弥生さんに、ここにいるオオカミ犬の何頭かを紹介していただくことにしました。
       ゲージの外をうろつき、こちらの様子をうかがっていたのが、「ラン」と「ディーガ」。
       「ラン」は先ほども述べましたように、お母さんがホワイトシェパードで、お父さんがオオカミ犬で、オオカミの血は薄くなっています。それといかにもオオカミ犬という感じの「ディーガ」。この子が、弥生さんの様子を心配し、遠巻きに僕を警戒していた子ですが、その警戒心もだいぶ薄らいだのか、弥生さんとの話が終わる頃には、ロットワイラー犬の「イブ」や「ラン」としきりに遊びまわっていました。

       

      東又弥生さんとオオカミ犬カムイ


       ゲージに移って、この犬舎のスター的存在の「カムイ」を紹介されました。
       「カムイ」は、今年2018年2月に公開された映画「東の狼」のオオカミ役を演じた子です。
       「カムイ」は、生まれたとき、授乳がうまく行かず、ロットワイラーの「イブ」が母親代わりになって添い寝したり可愛がったりしたそうですが、そのうち、子どもを産んでいない「イブ」からお乳が出るようになったといいます。
       そんなせいか、「イブ」は弥生さんとともに、ここのオオカミ犬たちの母親的存在となり、オオカミ犬たちは、みんなイブに一目置いているように感じられます。
       その「カムイ」ですが、秋口にさしかかり季候もよかったせいでしょうか、本当に機嫌がよく、新参者の私たちにも甘えて撫でさせてくれ、少し怖かったですが、甘噛みさえしてくれます。このほかにもゲージから鼻先を突き出し甘えた仕草をする子、本当にどの子もかわいい子ばかりでした。
       でも注意してください。それは、ここの「Wild-Bullet犬舎」の子だからということもありますし、ただこのときは機嫌がよかったからということもあります。
       「オオカミ」が「犬」の先祖だというのは間違いなさそうですが、進化の過程で大きな違いが出てきました。
       その一つが、先ほどもあげましたようにオオカミは「肉食動物」だということ。それに対し犬は人間と暮らす中で「雑食動物」として変化してきたということ。
       肉食ですから、オオカミは狩りをします。 狩りをして獲物を確実に捕らえるために、強靭な顎を持っていますし、犬の指先は丸くなっていますが、オオカミは先にいくにつれて細長い形をし、鋭い爪を持っています。
       そして最大の違いが性格です。犬は人間への依存性が強く、飼い主に気に入られようとします。しかし、オオカミは本来警戒心が強く、人に慣れることはありません。

       

      東又安彦さんと東又弥生さんご夫婦


       「オオカミ犬」は、狼と犬の交配種ですから、人なつっこい犬的な性格も持っています。でも、やはり「オオカミ」の面も強く持っており、人に媚びることはなく、機嫌の良いときはいいのですが、いやがっているのを追いかけ回したり、いやがっているのを撫でようとすると、とんでもない事故を起こすことがあります。
       僕がここに書いたように、「オオカミ犬」は毅然としていて、それでいて可愛いので人気がありますが、危険な面もないわけではありません。もし見学されるようなことがあれば、かならずオーナーの指示に従い、無理に追い回したり、無理に撫でようなどとしないでください。
       老婆心ながら申し添えて、この項を終わることにいたします。

       

          

      かつらぎ取材日記/植田定信さんと大和鉄道100周年 その2

      2018.10.15 Monday

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        はしお元気村で見せていただいた作りかけの状態(左)/完成すると「銭形平次捕物控」の平次に住む長屋に(右)

         

         上の写真(左側)は、はしお元気村にはじめて植田定信さんを訪問したとき、「箸尾駅」のミニチュアとは別に展示されていたものです。江戸時代の長屋を復元しようというものですが、その制作途中のミニチュアです。
         実は、このミニチュアの完成した姿と阪急百貨店(大阪梅田)で出会うことになりました。というのは、阪急百貨店では毎年「ドールハウスフェア」が開催されており、2018年は「ドールハウス名作劇場」として、映画の名場面をドールハウスで再現するという試みが公開されました。「海底二万哩」や「レ・ミゼラブル」「雨に唄えば」等々、おなじみの映画のワンシーンがドールハウスとして再現されており、なかなか見応えのある楽しい催しでしたが、その中に我が植田定信さんの「銭形平次捕物控」が堂々と展示されていたのです。

         見れば「はしお元気村」で出会った、制作途中の長屋のミニチュアです。
         そのときは、完成した姿はどうなるのか教えてもらえなかったのですが、

        「なるほど、これを造っておられたのか」と一人で合点し、ほくそ笑んでおりました。

         この日、植田さんはというと、会場の一角で「ドールハウス体験レッスン」を指導されており、「かつらぎ探検ガイド」のスタッフも、モップづくりに挑戦させてもらった次第です。

         

         ドールハウスフェアが開催されたのが9月12日〜24日、それとオーバーラップするように、我が広陵町で9月22日(土)と23日(日)の両日、「広陵かぐや姫まつり」が開催されました。


         初日9月22日は、午後1時からスタートする予定ですが、朝からすごい雨。

        「大和鉄道100周年記念フェスタ」は台風にたたられ中止、今回「かぐや姫まつり」も豪雨で中止か……とヤキモキしましたが、幸いにも昼前には雨が上がり青空が広がってきました。

         

        雨は上がったものの会場は水たまりだらけ、土砂を運んでの整地作業が続く。

         

         しかし会場の竹取公園は水浸し状態。設営されたテントの間の地面はぬかるんで長靴が要りそうな状態。スタッフの人たちが、そのぬかるんだ地面に土砂を運び込んで修復していきます。開始まで2時間、広陵町役場スタッフの方々の必死の努力で、水浸しだった会場が整地されていき、めでたく予定通り開催されることとなりました。


         ところで「大和鉄道100周年記念」のテントはどうなっているでしょう?
         広陵町立図書館は、この二日間は閉館され、会場の資材や展示物の倉庫代わりに使われます。ここから必要な設備が運び出されますが、「箸尾駅」のジオラマも、「まち調べ」のパネルも、ここからスタッフの人たちの手で運び込まれてきました。

         

        倉庫となった広陵町立図書館から次々と展示品が運び出されてくる。
        設営中、隣のテントのおばさんも見学にやってきて写真を撮っていく。


         設営の風景を撮影し終えて、しばらくして、再び「大和鉄道」のテントを訪れてみると、子供たちがジオラマと、そこを走るミニSLに見入っています。設営の時の真剣なまなざしとは打って変わって、植田さんの楽しさそうな表情が印象的でした。

         

        大和鉄道ジオラマは子供たちの人気の的


         植田さんと話し込んでいると、意外な人の訪問を受けました。
         フェースブック「御所ガール」の人気者、御所市役所商工観光課の宮橋さんです。
         宮橋さんには、御所の取材ではお世話になりっぱなしです。
        「広陵町まで取材ですか?」
        「いや、お誘いいただいて御所市も出展してるんよ。」
         たしかに御所市の展示用テントがありましたので、次の取材先の「油長酒造」さんの話を聞き込み、いったん竹取公園を後にしました。

         

        ドールハウス作家・植田定信さんと、御所市役所商工観光課/御所ボーイ・宮橋秀之さんの初対談


         夜は、広陵金明太鼓の迫力ある演奏を聴き、締めくくりの花火を鑑賞して一日が終わりました。

         紆余曲折はあったものの、「大和鉄道100周年記念行事と植田定信さんの紹介」、これにて一件落着とさせていただきます。

         最後に、植田さんの「箸尾駅」以外の作品および、そのプロフィールを紹介させていただきます。

         

         

        広陵町の「そらみる」に展示されてある植田定信さんの作品

         

        植田定信さんが著述に加わった出版物「ドールハウス名作劇場」「ミニチュア探偵物語」

         

        ◇植田定信さんプロフィール

         工房名/シック・スカート(クラフト工房シックパパ)

         1962年 奈良県に生まれる。

         2011年神戸新聞ジオラマ教室にて吉岡和哉氏に師事。

         2012年全国JMC模型コンテスト「サポーターズ大賞」受賞。

         2013年浜松ジオラマグランプリ「山田卓司賞」受賞。名古屋モノづくりフェスタ「最優秀賞」受賞。

         2015年モデラーズフェスティバル実行委員長就任。

        かつらぎ取材日記/植田定信さんと大和鉄道100周年 その1

        2018.10.06 Saturday

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           大和鉄道というのをご存じでしょうか?
           その変遷をたどっていると話しが長くなるので端折(はしょ)らせていただきますが、要は奈良の北西部から中央部(新王子〜桜井)を走るローカル線で、元をたどると明治45年(1912年)7月14日、田原本鉄道株式会社として設立され、大正6年(1917年)1月に大和鉄道株式会社と社名変更されました。
           そして、その翌1918年(大正7年)には、 新王寺〜田原本(現在の西田原本)間が開業され、今年で100周年を迎えるという次第です。

           

          大和鉄道100周年を記念して復刻塗装列車第2弾のダークグリーン塗装車両が運行


           全盛期には、新王寺から桜井間の17.6kmを鉄路でつなぎ、その駅数も12駅を数えていたのですが、昭和36年(1961年)には信貴山鉄道に吸収され、その2年後には田原本〜桜井町間が廃線となり、昭和39年には近畿日本鉄道株式会社に吸収され、近鉄田原本線として現在に至っています。
           さて、その100周年記念行事が、2018年7月28日 〜29日にかけて、この広陵町でも箸尾駅を中心に、教行寺や旧商店街地域一帯で盛大に開かれることになっていたのです。

           

           ところで、この箸尾駅ですが、現行区間(近鉄田原本線)の「新王寺駅」から「西田原本駅」までのちょうど中間点に位置しています。
           「新王寺駅 - 大輪田駅 - 池部駅 - 箸尾駅 - 但馬駅 - 黒田駅 - 西田原本駅」、こんな感じです。このため「箸尾駅」周辺は、今でこそ落ち着いた町並みに変わっていますが、一昔前は、駅前の商店街を中心に映画館あり、写真館ありと、随分と活気を帯びた町並みだったようです。

           右図は、100周年記念にあわせ、広陵北小学校児童と、畿央大学の有志学生諸君の「まち調べ」のパネルですが、これによると、駅を出て箸尾商店街へ入ったところに「箸尾劇場」という映画館があったようです。この劇場、屋根がトタン張りで、雨の日は「雨の音で映画の音が聞こえなかった」とか、なんとも興味深い記事が紹介されています。

           このほかにも線路をはがして鉄砲に利用した話しや、最初に導入された車両が「ボールドウイン社製の1001蒸気機関車」だったこと、その蒸気機関車から電車運転に切り替えられたのが、戦争が終わって3年後の昭和23年6月25日だったこと等々、なかなか興味深くきめ細かな調査がおこなわれています。

           そして箸尾の町発展の中心となる「箸尾駅」そのものをミニチュアで再現しようと挑戦したのが、ドールハウス作家の植田定信さんです。100年の間には資料も散逸し、古老の話を元に再現するしかないのですが、その復元作業が、広陵町「はしお元気村」の会議室で、約半年にわたっておこなわれました。 

           

          現在の箸尾駅(無人駅舎)とホーム
          大和鉄道100周年の舞台となるはずだった箸尾駅前の商店街と教行寺

           

           こうしてやっと、そのお披露目の日が来るというのに、なんと台風12号が異例の進路をとり近畿地方を直撃したのです。

           100周年記念行事は、「延期」でなく「中止」の決定がされ、植田さんの苦心の復元結果も、広陵北小学校児童と畿央大学学生諸君の「まち調べ」も、無念にも公開できないことになってしまいました。

           ところがです。9月22日、23日の両日、恒例の「広陵かぐや姫まつり」が竹取公園で開催されましたが、ここで「大和鉄道100周年」のテントが設けられ、ようやく、これまでの苦労が日の目を見ることになったのです。

           

           そればかりではありません。「かつらぎ探検ガイド」取材班が追いかけてきた、植田定信さんの「箸尾駅のミニチュア復元」の模様や、彼とその仕事についても、これでやっと紹介できることになったという次第です。

           

          ◎2018年6月13日(はじめての作業現場訪問)
           話を戻しましょう。

           2018年の6月13日、この日、広陵町の広報で、「大和鉄道百周年記念行事」や「箸尾駅のミニチュア復元」のことを知り、「はしお元気村」で作業中の植田定信さんのもとを、はじめて訪問しました。
           はしお元気村は、広陵町が運営する会館施設で、お風呂やリラクゼーション室も併設され、住民の憩いの場となっていますが、その第1会議室で「箸尾駅のミニチュア復元」の作業がおこなわれていました。

           正面入り口を入ったホール正面には「大和鉄道のこと、箸尾鉄道のこと教えてください!」というパネルとともに、植田さんのドールハウス作家としての作品「お好み焼きのさとちゃん」と「小学校の校舎入り口」のミニチュアが展示されていました。

           まずはその精密さに舌を巻くことに……。

          「ツバメがいます。探してください」とありますので、探してみると軒下にツバメの巣が作られ、3匹の赤ちゃんツバメが口を開けてお母さんの帰りを待っています。ツバメばかりか、こちらまで、その精巧さに開いた口がふさがりませんでした。

           目的の第一会議室に入ると、中央のテーブルいっぱいに線路が敷かれていますが、駅舎はまだ作成途中という感じでした。

           テーブルの上のレールには、あの1001型と同タイプの蒸気機関車(ミニチュア)が走っています。

           

           

           

           ミニSLやミニチュアに見とれている場合ではありません。肝心の植田さんはどこなんでしょう。

           ふと横手に目をやると、こちらの反応を楽しむかのように微笑んでいるハンチング姿のお兄さんがいました。

           これが植田定信さんでした。

           

          駅舎の部分は仕上げを待つばかり、宿直室もつくられ、古老の聞き書きが次第に形となっていく。

           

           お話をお聞きすると、植田さんは、もともとはお肉屋さんだったと言います。

           「お肉屋さん」と「ドールハウス」…………? どうもしっくりと結びつきません。

           そんな思いを察したのか、植田さんがドールハウスをはじめたいきさつを話してくれました。

            ◇

           地方に残る民話や言い伝えを「ドールハウス+ジオラマ」で再現したいと夢を
          語る植田定信さん。

           桐生さんはどうか知りませんが、普通の人は、仕事のストレス発散とかで、お酒を飲んだり、パチンコいったりしますよね。でも、僕はお酒がダメだし、パチンコ行っても、ちっともストレス解消にならないし、そこで、元来、ものづくりが好きなもので、プラモデルへ走りました。やってるうちに、よくプラモデルを買いにいく店の店長さんが、僕の作品を見て、『一度、コンテストに出したら』と声をかけてくれたんです。

           では、というので、早速に応募したらこれが優勝してしまった。優勝するって認められるってことでしょう。これがうれしくてうれしくて、ストレス解消どころか、どんどんその世界にのめり込んでいく。そのうち、プラモデルではもの足らず、プラモデルに地面や背景を合わせてつくるジオラマへと進んでいきました。

           これは楽しい……しかし、これにも飽きちゃって、もっと楽しいものはないかと行き着いたのが「ドールハウス」というわけです。プラモは最初から形がありますよね。それより一(いち)から木を削って自由な形を作り出す、このほうが面白いわけです。

           ただドールハウスというのは、部屋の中を作るんですが、僕はもともとジオラマをやっていたから「外」も作れるんです。だから僕のつくるものは「ドールハウス」+「ジオラマ」というわけです。

           今回の箸尾駅を再現する仕事は、資料が、なんにも残ってないんです。当時を知るお年寄りが見取り図のようなメモを描いてくれましたが、この紙切れと、聞き取りだけが頼りです。

           

           

          2018年7月24日(二回目の作業現場訪問)

           今回は二回目の現場訪問ですが、駅舎全体が形をなし、その精巧さに唖然としてしまいました。前回、古老の記憶とメモだけを頼りに「箸尾駅」のミニチュア再現に取り組んでいると聞いていましたが、それにしては実にリアルに再現されています。当時のポスターから、自販機の形、何から何まで調べて形を組み立てていく。ドールハウス作家というより、歴史考証に取り組む学者の仕事+職人技、そんな感じを受けました。

           以下に、その精緻な仕事結果を写真で紹介し、この稿を閉じることに致します。

           

           

          全体が姿を現した箸尾駅のミニチュア

           

          ホームを飾るポスターや看板類がなつかしい。

           

           次回は、いよいよ「広陵かぐや姫まつり」でお披露目される「大和鉄道100周年」と「箸尾駅ミニチュア」の公開模様をレポートさせていただきます。

          かつらぎ取材日記/かぐや姫ミステリー

          2018.09.29 Saturday

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            広陵町は箸尾元気村に造られた「かぐや姫」の像。里中満智子さんの画をもとに造られていますが、なぜかエキゾチックに感じられます。

             

            かぐや姫のお話はみんなが知っています。その元となった「竹取物語」についても知らぬ人はいないでしょう。ところが、では「かぐや姫のモデルは?」とか「何のために書かれたの」ということになると、諸説入りみだれて、これぞという決定打がありません。暗に藤原氏の専横を批判するために書かれたとも、道徳的な啓蒙書とも言われ、「香久山」と「かぐや姫」を結びつけ、天照大神との関連を匂わせたり、かぐや姫の前世譚まで登場し、賑々しいことこのうえもありません。
            藤原氏批判の書ととらえ、「光明皇后(光明子)」や「県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)」の姿を浮かび上がらせ、「かぐや姫」ばかりか「中将姫」のお話も、当時の女性たちの悲劇を反映していると説く「関裕二説」には説得力があります。
            しかし、ここでは、ことの真偽を云々するのではなく、もっとも突拍子もないお話しを一つ紹介させていただきたいと思います。
            「かぐや姫のモデルはペルシャの姫君だった!」
            これが本当に根拠のない絵空事なのか、あり得る話なのか、読者に「あんがい否定できない話かも?!」、そこまで思っていただければよいのですが……判断は読者にお任せするしかありません。

             

            広陵町三吉にある讃岐神社の境内

             

            さて僕の仕事場ですが、そこは「自遊空間ゼロ」という名称で、子どもと親のフリースペースだったり、僕の気に入った「本」を編集するアトリエだったりするのですが、この事務所の前に「竹取公園」という大きな公園があります。公園ばかりか、裏手には「讃岐神社」までがあり、地名まで「広陵町三吉」と呼ばれています。「三吉」は今では「ミツヨシ」と発音しますが、その昔は「散吉」と書いて「サンキ」とか「サルキ」と呼ばれていました。ご想像の通り「サンキ」や「サルキ」は「讃岐」の転訛であり、「讃岐神社」があるのも四国の「讃岐氏」がこの地に移り住み、飛鳥の朝廷に竹を献上していた、そこから「竹取物語」が生まれたということになります。
            「竹取物語」の舞台となったと言われる場所は日本に数多くありますが、登場人物としてあげられる五人の貴公子、彼らは「壬申の乱」前後を生きた実在の人物であり、その彼らが「かぐや姫」のもとに通っていたとなると、地理的にも広陵町が最有力候補に掲げられる所以であります。
            ところがです。
            散吉神社の由来とかぐや姫について、最近、とんでもない異説を唱える出版物と出会いました。この出版物の中から、我が広陵町と関わる、最も気になる一文を以下に転載いたします。

             

            「およそ三百年前、飛鳥時代のことである。大和国のこの社(やしろ)の辺りにトカラから来たという人々が住んでいた。そこに、ある日突然、どこからとも知れず美しいトカラ人の娘が住むようになったという。その美しさは、今まで誰も見たことがないほど異様で、まるで伝説の天女が舞い降りたかのようであった。しかも天女の伝説のように、トカラ人は徐々に豊かになっていった。その異様さの評判を目の当たりにした隣村百済に住む大将兄弟(大伴氏か?)が、娘のあまりの美しさと異形に、宮中参内の手配をしてしまった。異形は神のお印であり、めでたいことである。ところが参内の前日、娘は急死してしまった。大将さしまわしの一行が迎えに来ると、家人は、娘は死んだと言う。が、遺体もない。瑞祥の天覧は、死体でもよいのだが、家の主は、娘は天に帰ったと空を指すばかりである。命令を受けていた迎えの使者は、せっぱつまり、家主であるトカラ人の翁と、止めに入ったもう一人を斬ってしまった。そして、その年より天変地異が起こり始め、三年後、大将兄弟が相次いで亡くなるまで続いた。人々は、口々に祟りだと言い合い、畏れて、祠を建て、この二人のトカラ人の御霊をご祭神として祀った。以後、神社は村人により守られ、国からは幣帛を受けている。ご祭神の神階は、二柱とも従五位下である。」(孫崎紀子著「かぐや姫誕生の謎―渡来の王女と道真の祟り―」より転載)

             

            これは菅原道真の孫にあたる菅原文時が、内記の時代、全国の五畿七道の神社およびその祭神について調べ、その位階や訛りをただす仕事をしていたときに、散吉(サルキ)神社から寄せられた資料なのだと言います。
            ここでは「散吉」は「サンキ」ではなく「サルキ」と発音されていたようです。
            これがどこから出た資料なのか詳らかではありませんが、トカラ人というと、確かに日本書紀に記載があります。まずは、その訳文を抜き出してみましょう。

             

            近鉄飛鳥駅前の須彌山石(レプリカ)

             

            ◎孝徳天皇の白雉五年(654年)四月の条
            「吐火羅(トカラ)国の男二人、女二人、舎衛女一人、風に遭い日向(宮崎)に流れ来たる。」
            次いで、斉明天皇の三年七月三日(657年)の条に
            「覩貨邏(トカラ)国の男二人、女四人、 筑紫(福岡)に漂泊す。彼らは初め海見(あまみ)島に漂泊したという。すぐに駅馬を使って召す。」
            さらに「七月十五日 須彌山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西に造る。また、孟蘭盆会(うらぼんえ)を設ける。暮に覩貨邏(トカラ)人に饗(あえ)たまう。或本(あるほん)に云わく堕羅(たら)人という。」


            ◎斉明天皇五年(659年)三月十日には
            「吐火羅人(トカラびと)、妻の舎衛婦人と共に来る。
            斉明天皇六年(660年)七月十六日には
            覩貨邏人(トカラびと)乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)、 本土(もとのくに)に帰ることを欲して、送使を求めて請いていう、「願わくは、後に大国(やまと)の朝廷に仕えたい。このゆえに、妻を留めて私の意志を表明したい」と。

             

            ◎天武天皇四年(675)正月一日
            大学寮の諸学生、陰陽(おんよう)寮、外薬(とのくすり)寮および舎衛の女、 堕羅の女、百済(くだら)王善光(ぜんこう)、新羅(しらぎ)の仕丁(しちょう)等、薬および珍異な物などを捧げ進上する。

             

            654年に宮崎に漂白したトカラ人がどうなったかは記載がありませんが、ここで漂白した人たちが、再び船出し、657年に奄美に流れ着いたと考えることも出来ます。彼らは福岡へ呼び寄せられ、さらに飛鳥の朝廷まで旅をすることになります。
            飛鳥では、彼らを遇するため、飛鳥寺の西に須彌山(しゅみせん)の像を造ったと言います。今、近鉄電車で飛鳥の駅に降り立つと、この須彌山のレプリカに迎えられますが、多くの人が、その歴史的な背景については知ることがありません。
            またトカラ人を遇するに盂蘭盆会(うらぼんえ)を催したとあります。これはお盆の行事のことです。ところで日本では、先祖の霊がお盆に帰ってきて、それを迎え、送り出す行事がお盆となっていますが、本来、仏教にはこのような習慣はありません。たしかに「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)という仏教の経典はありますが、これは餓鬼道に堕ちた母親を、その子モクレン(ブッダの弟子)が供養して救うという話しです。毎年、定期的に帰ってくる祖先の霊を迎え、ともに過ごし送り出すという行事ではありません。これはゾロアスター教の行事で、日本に漂着したトカラ人がもたらし、飛鳥の朝廷も、彼らを遇するために、わざわざ孟蘭盆会を設けたということになるのです。

             

            トカラ人の顔を写したのではないかと言われる人面石(左が本物で右はレプリカですが、噴水として使用されていたのが分かります)


            同じように、お水取りの行事も、仏教の行事でなく、ゾロアスターに起源を発し、奈良時代もしくは飛鳥時代に日本に伝えられたものと思われます。
            では、日本に漂着した、このゾロアスター教を信奉する「トカラ人」の正体は?ということになるのですが、当時の世界状況から考え、同じ頃に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族と考えるのが妥当ということになっています。
            アジアとヨーロッパの接点とも言える地域、中央アジア、古くは「バクトリア」とも「トハリスタン(吐火羅、覩貨邏)」とも呼ばれ、そこはペルシャ人とスキタイ人(遊牧騎馬民族)によって共同統治された地域でした。それが7世紀に入って、アラビア半島に起こったイスラム勢力によって滅ぼされることになります。その際、故国復興を願い逃亡した王族が中国や日本にもやってきたというのです。この辺の考証は繁雑になりますので、興味のある方は調べていただくとして、そのトカラ人が住まいしたのが、なんと、我が事務所のある広陵町の三吉だというのです。
            日本書紀では、このトカラの王族は、失われた王国再建を目指し、660年7月に日本を離れることになりますが、その際、妻や娘、その付き人たちを「将来、大和朝廷に仕えたいので、その証として」残していくということになるのです。
            トカラの王妃は、その娘とともに朝廷に人質として残り、他のトカラ人たちが暮らしたのが、「サルキ」、つまり「散吉」(今の三吉)となるというのです。
            この娘も十五才の成人を迎えるまでは、母とともに朝廷に残っていたのですが、成人してからは母から引き離され、「サルキ(散吉)」へ移されることになります。
            ここでいよいよ「かぐや姫」の登場となるわけです。
            「サルキ」の村に突然、エキゾチックな美貌の娘が現れたのです。この噂を聞きつけた大伴氏が、彼女を奇瑞として朝廷に参内させようとしますが、娘が早く亡くなったため、願いを果たせず、怒りにまかせて、世話をしていた付き人の老夫婦を斬り殺してしまいました。以来、さまざまな天変地異が続き、関わった大伴兄弟が亡くなるまで、この異変は続いたというのです。
            村では、異国の人の祟りであると畏れ、その霊を鎮めるため出来たのが「サルキ(散吉)神社」だということになります。
            孫崎紀子説は、このお話を元に、菅原道真の孫、菅原文時が、このかぐや姫の物語を生み出したのだと言います。文時は、神社の名前こそ「讃岐神社」としたものの、物語に登場する翁(おきな)の名を「さるきのみやっこ」として、「さるき」の音を後世に残したというのです。
            この説が成立するためには、菅原の文時が見たという「サルキ神社」の由緒書きが存在しなければなりません。今、著者の孫崎紀子さんに手紙で、その辺の経緯を問い合わせしておりますが、はたして手紙が著者の元へ届くのかどうか、また届いたとしてお返事をいただけるのかどうか、現時点では定かではありません。
            言えるとすれば、この時代に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族が日本の飛鳥までやってきたようだということ、その王族は、日本を離れるに際し、その妻と娘を日本に残していったこと、これだけは、ほぼ間違いなく言えることだと思います。
            母親は、人質の身として亡くなりますが、残された娘がどんな人生を歩んだか、今となっては知るよしもありませんが、そこから「かぐや姫」のモデルではという話も起こってきたということになります。と同時に、このペルシャのお姫様が、大津皇子の妃、山辺皇女(やまのべのひめみこ)ではないかという説(小林惠子著「西域から来た皇女」)まで起こってくるのです。
            もし読者が「広陵町立図書館」や「竹取公園」に来られる機会があれば、ぜひ、今から1300年以上も前、はるばる極東の地を目指し、その地で亡くなっていった人たちに心を向けてみてください。

             

            竹取公園に隣接してある広陵町立図書館

             

            ※このブログを書き終えて気づいたのですが、飛鳥駅前の須弥山石(レプリカ)の最頂部に描かれた女性の顔(菩薩だと思うのですが)と、我が町広陵町のかぐや姫像(原画は里中満智子)の顔が非常によく似ているのです。偶然だとは思うのですが、おもしろいので画像を追加しておきます。

             

            かつらぎ取材日記/梅乃宿酒造の挑戦

            2018.08.24 Friday

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              樹齢300年の梅の古木。春になるとこの古木にウグイスたちが集うことから「梅乃宿」の社名が起こったという。

               

               葛城市に「梅乃宿」という酒蔵があります。僕が政府刊行物大阪SSに勤務していた頃、近くに「むかし料理 割烹 今昔」という飲み屋さんがありました。そこの酒匠であり女将さんが野村幸子さん(右写真)。僕の大の友人ですが、この「今昔」、ただの飲み屋ではありません。哲学の山折哲雄さん、作家の開高健さん、農学博士の中西喜次さん、天文学の加藤賢一さんと、そうそうたる顔ぶれが常連客という、知る人ぞ知る小さな居酒屋さんなのです。

               今では「今昔」も店をたたまれていますが、お互いがバリバリ頑張っている頃、僕が「肥後橋官報ビル」の空き室を使って、「五絃琵琶の催し」や「三線の催し」等々を、週末の金曜日、「夕べのサロン」として開催したことがあります。ここではメインの催しの合間に、中国茶やお酒の試飲などを楽しむという趣向もあって、結構人気があったものです。この試飲会に野村さんが、梅乃宿さんからの寄贈として、フィリップ・ハーパーさん(イギリス人)が作ったお酒を持ち込まれたことがあります。当時、ハーパーさんは「梅乃宿」の蔵人として働いていました。野村さんは「若いが良いお酒だ」と、この酒を集まった皆さんに紹介するとともに、利き酒の仕方を手ほどきされました。

               これが、僕が「梅乃宿」という酒蔵を知った最初です。30年ほど前のお話しですが、当時、イギリス人が酒造りなどというと、「イギリス人に日本酒の何が分かる!」と一笑に付されたものです。そんな時代に「蔵人」とはいえ、イギリス人に酒を造らせる「梅乃宿」って、どんな進歩的な酒蔵なんだろう? また、日本酒を世界に伝えたいと活動するフィリップ・ハーパーさんってどんな人なんだろう? そんな感想を持ったことがあります。

               そして今、定年退職後も、奈良で気ままに本作りをやっておりますが、その中に「かつらぎ探検ガイド」の企画があります。来年3月の出版を目指し、大阪芸大デザイン学科の有志の諸君や、葛城地区の市民グループ、それに中高生や社会人の若い人たちが協力してくださり、観光ガイドでは伝わらない葛城の魅力を探っていこうとするものです。そこで再浮上してきたのが、葛城の酒蔵「梅乃宿」の記憶です。

               調べてみると、ハーパーさんは京都北部の「木下酒造」の杜氏(酒造りの責任者)となって移っておられましたが、男性中心の酒造りの社会で、「梅乃宿」はトップから社員に至るまで、女性が活動の中心にいるように感じました。やはり「梅乃宿」は、今も伝統にとらわれず、新しい社会への適応を目指しチャレンジし続ける酒蔵のように感じました。

               そこで「梅乃宿」の女性社長 吉田佳代さんに、いきなりインタビューを申し込みましたが、なんと、たちまち快諾いただき、今回の取材となった次第です。

               以下に、吉田社長に取材させていただいたあらましを掲載させていただきます。

               

               

               梅乃宿酒造株式会社は、創業して126年目になると言います。

               一般の社会では「ずいぶん古い会社だねぇ」なんてことになるのですが、日本酒の世界では若い会社ということになるそうです。このため「いつも新参者の気持ちでやってきました」と、吉田佳代社長(右の写真)は言われます。

               社名の由来をお聞きすると、蔵の向かいの本宅庭に樹齢300年の梅の古木があり、毎年春になるとその木にウグイスがやってくることから、「梅乃宿」という名前がつけられたと言います。

               吉田社長が「お酒って冬にしかできないのはご存じですよね?」と問いかけられました。

              「えっ、知りませんでした !」と僕――。
              「日本酒は冬に造るものなんです、逆に言うと冬にしか造れないものなんです。」

               そこで、後日調べてみると、寒造りとは、最も酒造りに適しているといわれている12月〜翌年2月頃までの寒い季節に酒造りを行うことを言います。

               なぜこの季節が酒つくりに向いているかというと、寒いことで雑菌が繁殖しにくい時期であることが第一に上げられるようです。また良いお酒を造るために、低い温度で管理したいことも、寒い冬に造る理由の一つです。
               この寒造りは江戸時代に確立されたと言われ、計器類がない時代に杜氏をはじめとする蔵人は、発酵状態によって変わる香りや味、肌に感じる温度変化などを頼りに、とぎすまされた感覚によって把握し、複雑な酒造りに対応してきたということらしいのです。

               

               

              今は機械化され、電子制御される梅乃宿の製麹室。

               

              (吉田社長のお話に戻りましょう。)

               従ってお酒をどんな人たちが造っていたかというと、半年雇用、つまり地方の豪雪地帯のお百姓さんが、冬の間、出稼ぎで住み込んでお酒を造っていたんです。
               伝統的な杜氏(酒造りの技術的責任者)は、夏場は自分の村で農業を営んで、秋に刈り入れが終わると、杜氏は自分の村の若い者や、近隣で腕に覚えのある者に声をかけて、その冬のための、いわば酒造りチームを組織します。杜氏は彼らを秋に引率して蔵元へ連れていき、酒造りが終わる春まで、約半年間寝起きをともにして働くことになります。
               これが昔から日本酒を造っていた人たちの姿です。
               梅乃宿では、かつては但馬杜氏(兵庫県)、20年ほど前からは南部杜氏(岩手県)が、この酒造りを請け負ってくれていましたが、最近では杜氏の率いる酒造り集団が高齢化し、かといって、これまでの雇用形態では、若い人の参入も難しいという状況になってきました。若い人で専業農家をする人がいないこと、たとえあったとしても、半年間、奥さんや子どもと離れ、他人の家で住み込みで働く、こんな働き方は今の時代に合わないとなってきたのです。こうして酒造りの設備も販路もあるのに、作り手が高齢化でいなくなる、そんな状態になってきました。
               今から約20年前と言いますから、ちょうど21世紀に入るか入らない頃になるのでしょうか、冬場の半年雇用では人が集まらないため、この頃から年間雇用に切り替え、地元で人を採用するようにされたと言います。この人たちが、冬場にやってくる杜氏集団の人たちと一緒に働き技術の習得に励むようになった訳ですが、ここで困ったのが、冬場の酒造り以外の期間、余剰労働力をどうするかということです。
               そこで思いついたのが「梅酒」なんです。梅の実は、5月、6月、7月に実が採れますので、ちょうど酒造りの閑散期に「梅酒」が造れるということになったわけです。
               普通、「梅酒」は焼酎やホワイトリカーで漬けるんですが、酒蔵でやるんだから、同じ造るなら日本酒仕込みで梅酒を造ろうということになったわけです。
               最初の年は試しにタンク一本分を造りました。これがあっという間に売れ、翌年は思い切ってタンク2本分を造りました。これも、またあっという間に売れ、先代が「来年はタンク20本分造るんや」とムチャクチャを言い出したそうです。みんなの止める声も聞かず、3年目は「鶴の一声」で、梅の実も購入済みだからとタンク20本分の梅酒が造られることになりました。

               ちなみにタンク一本分がどれほどの量か、吉田社長に教えていただいたところでは、「梅乃宿」の梅酒タンクでは、タンク1本で梅酒の原酒が7,000リットル出来、これを製品にすると、1.8リットル換算で、約6,500本分になるそうです

               これが20本分のタンクとなると、1.8リットルの梅酒が130,000本分! となります。

               これって素人が見たって、何が何でも無茶苦茶な数字ですよね。
               ところがです! この年、全国的に梅酒の大ブームが起こったんです。ほかにも日本酒仕込みで梅酒を作っていたところはあったのですが、急激なブームでどこも在庫がない。梅酒造りは時期が限られており、しかも仕込みの期間が長いため、品切れしてしまうと品切れの期間も長くなってしまう。そんなとき、奈良の「梅乃宿」が大量に梅酒の在庫を持っているというので、一躍「梅乃宿」が注目を集めるようになったと言います。
               これに輪をかけたのが、漬け込んだあとの梅の実の再利用です。何十トンという大量の梅の実を廃棄するのがもったいないと、種を取り、すりつぶして一緒に入れてしまうことを考案しました。こうして「あらごし梅酒」が誕生しました。これが梅酒ブームに乗って更なる大ヒットを生み出したというわけです。
               梅酒をはじめた頃は、伝統的な清酒づくりの酒蔵が、家庭でもできる「梅酒」に手を出したというので、蔵仲間からは批判され、バカにもされてきたのですが、今では多くの酒蔵が梅酒造りに参入しているという現状です。

               

               

              「全国で、どれぐらいの酒蔵があるかご存じですか?」

               またまた吉田社長からの難問です。

               予習して来なかったことを後悔して、ガマの脂汗よろしくタラーリタラリ……。

               私と来た日には適当に答えるにも根拠がないと答えられないという困った性分。「葛城で6件だから、奈良全体では何件かなあ……」と、しどろもどろのありさま。

               見かねた社長が「全国で1700件もあるんですよ。かたやビールは大手4社で造っているんです。最近クラフトビールもありますが、99.9%ぐらいは、この4社で造っているんです」と助け船。

               このあと調べたところでは、全国にある酒蔵の数は、新潟の88件がトップで、奈良は31件あり、三重と並んで21番目ということになります。

               では社長の話に戻りましょう。

              「次に日本国内のアルコール消費量を100としたら、だいたい6〜7割がビール。これをほぼ4社で作っている。これに比べお酒は、日本の国酒と言われているんですが、7%を切って6・数%としか飲まれていないんです。それなのに日本の酒蔵はいまだに1700件あるんです。これも少なくなっての数字で、最盛期の江戸時代には1万件を超えていたんです。これから酒蔵の数はまだ減っていくでしょうが……。

               では、これから日本酒は伸びるのかというと、日本の人口は減少傾向で、文化レベルが上がれば上がるほど一人ひとりのアルコールを飲む量が減っていくという傾向にある。そこへ飲まれるアルコールの種類が増え、日本酒を選んでいただくパーセントが減っていく、いわば三重苦という状況の中で、日本国内の日本酒を見たとき伸びる要素は全くないというのが本当のところです。」

               そこで考えられるのが、海外へ日本酒をひろめていくという方向になる訳ですが、これについて吉田社長は次のような話をしてくれました。

              「いざ世界に目を向けてみると、和食がユネスコ無形文化遺産に認定されたことで、日本酒にとっては追い風になっています。その中で私たちは輸出に力を注いでおり、今、全体の売り上げの2割ぐらいが海外への輸出になっているんです。多いのは、香港、台湾、中国、アメリカで、ほぼこの4つのエリアで輸出の8割ぐらいを占めています。実は、この売り上げの2割が輸出で占めているという数字は、大手さんも含め、ほぼベスト5に入るという状態で、梅乃宿が日本酒の輸出という面で大成功していると言えるでしょう。」

               上の写真は、「新しい酒文化」を世界に拡げていこうとする「梅乃宿」さんの意気込みが感じられるパネル展示ですが、そこに一枚のレポート用紙が貼り付けられてありました。

               読みにくいと思いますので、その全文を以下に掲げ、このレポートの締めくくりにしたいと思います。

               挑戦状
               いま、日本酒が世界的な人気とはいえ、世界を舞台にワインに匹敵する存在になることは容易ではありません。

               しかし、私たちは挑戦します。
               世界中、どこでも日本酒が味わえることを目指したいのです。
               そのために大事なのは、前向きな姿勢。
               たとえば日本酒を飲む習慣のない国に降り立ったとき、
               「誰も飲んだことがないので日本酒の市場はない。売れるわけがない。」と思う人と、
               「日本酒の魅力が伝われば、市場は無限大だ。」と思う人。


                私たちはいつだって挑戦者。
                後者のような前向きな考え方をもって一歩を踏み出し世界に日本酒を提供していきたいと考えています。

               このあと、吉田社長自ら酒蔵を案内していただき、お酒造りの細かな興味深いお話をしていただきましたが、それはまた別の機会とさせていただきます。

               

              チャーミングな吉田社長に酒蔵を案内していただき、恐縮するやらうれしいやら、感謝です。

               

              製麹室(左上)とヤブタ式搾り機(左下)、右は麹菌です。

               

              梅乃宿の店舗部分です。奈良漬けが並んでいますが、清酒発祥の地は奈良で、酒を造った後の酒かすで漬けたのが奈良漬けというわけ。

               

              ※後日談になりますが、この「梅乃宿」取材直後数日して、我が「自遊空間ゼロ」で陶芸教室が開かれました。ここへイタリア人グループ4人の方が、突然ゲストで参加されることになったのです。ナポリの南東に隣接するポテンツァ在住の二組のカップルなのですが、この方々に、梅乃宿の原種「風香」を飲んでみていただきました。口々に「ボーノ」と喜んでいただきましたが、そのなかに一人、日本人の奥さんがおられ、彼女から貴重なお話を聞かせていただきました。

               ポテンツァはイタリアの南にある田舎町ですが、こんな田舎町でも3件の日本料理店があります。どの店も日本人の経営でなく、イタリア人の経営だったりインドネシアの人だったりで、名前だけの日本料理店のようですが、これらの店でも「日本酒」が置いてあります。ただ「日本酒」というだけで、どの銘柄とか何を飲まされているかは分かりません。ここポテンツァでは「和食」「日本酒」という名前だけがヒットしているという状態だと思います。

               このご夫婦は、今回は時間がなく帰られることになったが、酒蔵に興味があり、次回必ず来るので、その時は「梅乃宿」に連れて行ってほしいと頼まれた次第であります。

               

              ポテンツァから参加されたイタリア人グループに「梅乃宿」の原酒「風香」を楽しんでいただきました。

              かつらぎ取材日記/天覧相撲のはじまり

              2018.08.16 Thursday

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                香芝市「腰折田」伝承地に飾られる野見宿禰(のみのすくね) の画(京田信太良)

                 

                 (天皇来臨の関係で、当麻相撲館は、東西が逆になっています。)

                「天覧相撲」ってご存じでしょうか?

                「相撲」は「すもう」ですから、日本の国技なわけで、日本人なら子どもだって知ってますよね。では「天覧」とは、一体、なんでしょうか?

                 これは天皇がご覧になっているという意味です。

                「東〜○○山、西〜△△海」っていう相撲の呼び出しにもあるように、相撲は東西戦になります。今では「東西」というと「関東」と「関西」と考えられがちですが、これは近世のお話しで、この「天覧相撲」がおこなわれた3世紀から4世紀の頃って、「東京」とか「江戸」とか、なかったわけです。では「東西」とは、どことどこ? となるわけですが……。

                 ここでヒントになるのが天皇です。中国では「天子南面」と言って、「天子様」(日本では天皇)は南に面して存在するという考え方があります。そこで「天覧相撲」の場合、天皇は「北」に座して南で対戦する相撲をご覧になるという寸法です。そうすると「東」と「西」の取り組みになるわけです。

                 これが後になると、天皇がいる場所が「北」となって、当麻(葛城市)の相撲館に見られるように、実際の東西とは逆になる場合もあるということです。

                 これは当麻相撲館の小池館長から聞いた「相撲の東西」のお話です。これともう一つ大事な「東西」のお話しがあります。広陵町文化財保存センター・河上所長にお聞きした話ですが、当時(3〜4世紀)の奈良は、曽我川を挟んで東西に真っ二つに分かれていたというのです。

                 東が「磐余(いわれ)」を中心にした大和朝廷発祥の地、西が大和朝廷にまつろわぬ人々の住む「葛城(かつらぎ)」という地です。「まつろわぬ」とは「従わない」とか「反抗している」というぐらいの意味で、こういった人々は大和朝廷側からは「土ぐも」と総称されていました。

                 

                曽我川にかかる磐余橋から二上山を見ています。

                 

                 上の写真は曽我川にかかる磐余橋(いわればし)から二上山を見ていますが、古くは神武天皇が、この地で大和に敵対する「土ぐも」を如何に処理するかを、帰順したニギハヤヒと策を練ったと伝えられています。

                 こういった当時の情勢を把握しておいた上で、日本初と言われた「天覧相撲」について考えてみましょう。これについては、葛城市にある「当麻相撲館 けはや座」の小池館長が非常に詳しいので、お話をお聞きしました。

                 以下、小池館長(右の写真)のお話を要約しておきます。

                  ◇

                 まず対戦したのは、「当麻蹴速(たいまのけはや)」(葛城市当麻)と「野見宿禰(のみのすくね)」(桜井市出雲)の二人ですが、この名前については象徴的に使われているように思います。「宿禰(すくね)」という「名」は大和朝廷初期の役職名というか、天皇の配下の位を表す言葉です。当時、制定された「八色(やくさ)の姓(かばね)」のうち、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ3番目の位が「宿禰(すくね)」になるわけです。しかも「宿禰」は武人とか行政官を表す称号でもあるわけで、これから見ても、「野見宿禰」は、大和朝廷側の重要ポストにある人物と考えてよいでしょう。

                 これに対し、「当麻蹴速」は、被征服豪族である「葛城氏」の一族で、力自慢で蹴り技が得意な無頼漢、そんな風に位置づけられています。

                 つまり、この勝負、最初から「野見宿禰」が勝つことが決められているのです。

                 日本書紀に書かれていることを思いっきり意訳すると、

                 時は垂仁天皇の7月7日のこと、天皇は、かねがね「俺より強い者はいない」と力自慢を鼻にかける「当麻蹴速」が煩わしくてなりません。「誰か、こいつの鼻を叩き折る者はいないのか」ということで、出雲国の「野見宿禰」が「即日」呼ばれ、垂仁天皇の前で相撲を取ることになります。この頃は、相撲はスポーツというより「戦闘」つまりは殺し合いです。土がついたら負けということではなく、どちらかが死ぬか、動けなくなるまで戦うというものです。

                 こうして筋書き通り、「当麻蹴速」はあばら骨を踏み折られ殺されてしまいました。勝者である「野見宿禰」は、葛城にある「蹴速」の土地を天皇から与えられることになります。それが今も香芝市に「腰折田(こしおれだ)」として語り伝えられていますし、「当麻蹴速」を悼んで建てられた「蹴速塚」も、葛城市の相撲館「けはや座」の近くに残されています。

                 

                香芝市に残る「腰折田」伝承地。ここからの二上山の眺めは格別に美しい。

                 

                葛城市の相撲館「けはや座」の近くに、今も残る「蹴速塚」

                 

                 では、東西の話しに戻って、この天覧相撲を眺めなおしてみましょう。

                 日本初の天覧相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇7年の7月7日、おそらく3〜4世紀のことと考えられます。

                 この頃、葛城はまだ大和朝廷に完全に服従しているとは考えられません。それが雄略天皇4年の日本書紀の記事(5世紀の半ば)では、葛城の神「一言主(ひとことぬし)」つまりは葛城氏そのものを指すわけですが、その「一言主」が雄略天皇の一行を曽我川まで見送ったというのです。このことは、葛城と大和朝廷の境界線が「曽我川」だということを物語ると同時に、雄略天皇が葛城氏の懐柔に成功したことをも物語っているのではないでしょうか。

                 同じ頃、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっています。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那(みまな)に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻である稚媛(わかひめ)を自分の妃にしてしまったのです。

                 その稚媛というのが葛城氏の娘でした。
                 要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになり、同時に葛城の血の中に、天皇一族の血を残そうとしたことになります。

                 つまり、これまでは、「大和」は「葛城」を抑え込むため、なりふり構わず策を弄しているように思えるのです。

                 こう考えると、この天覧相撲、大和朝廷が、葛城氏の不穏な動きを封じ込めるための「見せしめ」だったような気がしてきます。つまり当麻蹴速は、葛城氏の中で、大和朝廷に抵抗する過激派のリーダーだったのでは……。

                 想像をたくましくすれば、捕らえた蹴速を天覧相撲という公開の場所でやっつけてしまう。当時の相撲は、先ほども述べたように、スポーツではなく、戦闘そのものであり、相手が死ぬか動けなくなるまで続けられました。葛城氏の不穏分子を踏み殺すことで、大和朝廷の力を見せつける――天覧相撲とは、天皇臨席の公開処刑だったのではないでしょうか

                 そこで、「野見宿禰」について見てみましょう。日本書紀では「出雲国」に「野見宿禰」という力自慢がおり、これを呼び寄せ「蹴速」をやっつけさせ、勝った報償に大和朝廷に召し抱えたと言っています。

                 冒頭にも述べましたように、「宿禰」は「八色の姓(やくさのかばね)」という位階制度の上から三番目にあたる重要なポストです。いきなり相撲に勝ったからと言って手に入れられるようなものではありません。

                 「野見宿禰」は、名前からして、もとより大和朝廷側の重要なポストにある人間だったと思われるのです。

                 そう考えると、「出雲国」とは島根県の「出雲」でなく、大和朝廷の勢力圏である桜井市の「出雲」と考えるのが妥当です。書記にも「即時に召す」とあり、島根県では「即時」に呼び寄せることは不可能です。

                 現に桜井市の「出雲」という地には、「十二柱神社」の敷地内に「野見宿禰」の墓と言われる五輪塔が残されています。もともとは、やはり「出雲」の「太田」というところにあったものが、明治に、この「十二柱神社」の境内に移されたということです。

                 

                十二柱神社の境内には野見宿禰の墓と言われる五輪塔が移設されている。
                桜井市 相撲神社、すっかり緑に覆われている。

                 

                 さて、この稿を閉じるにあたって、「当麻蹴速」「野見宿禰」、この二人の決戦の場と思われる、桜井市の「相撲神社」を紹介しておきましょう。

                 我が町、広陵町から自転車で1時間半、山辺の道から少し外れたところに「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)伝承地」の案内板があります。このあたりが垂仁天皇が宮を営んだ地と言われ、ここから自転車でさらに数分奥へ入ったところに、日本で最初に天覧相撲が開かれた場所「相撲神社」があります。

                 穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の入り口近くにあって、祭神は「野見宿禰」、境内には新たに置かれたと思われる「力士像」と「勝利之聖 野見宿禰」の祈念碑が建てられています。

                 ここで気になるのが、右の案内板。「国技発祥の地」ではじまる案内文はすべて無視していただいてかまいません。ただ「赤」のラインで囲まれた文字にだけ注目してください。「カタヤケシ」ゆかりの土俵において……

                 では、この「カタヤケシ」とは一体、何のことでしょうか?

                 当麻相撲館「けはや座」の小池館長に質問をぶつけてみました。

                 館長の言うには、「カタヤ」というのは、相撲の土俵のことを言うそうです。「ケシ」は「消し」と考えてもいいのでは……。

                 館長のお話を聞いて、つまりは「土俵でやっつけてしまえ」「土俵で殺しちゃえ」みたいなニュアンスにも取れる、そう思ってしまいました。やはり日本初の「天覧相撲」とは、天皇臨席の「公開処刑」! そんな印象を強くした次第です。

                 なお、この考えは、相撲館「けはや座」の小池館長や、広陵町文化財保存センターの河上所長のお考えではなく、お話しをお聞きしているうちに浮かんできた編者の「白日夢」のようなものとお考えください。

                 それはさておき、これ以降、7月7日が「相撲節会」という行事となり、全国の力自慢が奈良に集められることとなります。それは、ただ単なる「相撲大会」のようなお遊びでなく、大和朝廷の「軍事力強化」という一面をもっていました……。

                 今で言えば「自衛官募集」、それも強制徴募みたいなものでしょうか。

                 それはさておき、神武以来、大和朝廷に歯向かってきた葛城という地は、5世紀の雄略天皇以降、大和朝廷に組み込まれていったように感じます。

                 

                纒向日代宮伝承地

                 

                相撲神社横手の澱み 吸い込まれそうなほど緑がきれいでした。

                 

                かつらぎ取材日記/関屋鉄道

                2018.08.14 Tuesday

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                   香芝市内を関屋鉄道が走っているって?
                   大和鉄道100周年記念の取材をしている時、こんな話しを耳にした。
                   でも香芝市内に、そんな鉄道が走っているなんて聞いたことがなかった。
                   この話を紹介してくれたのは、香芝市で子育て支援の活動をしているNPO法人「T-seed」の多田さん。詳しく聞いてみると、ミニSLを自宅の庭に走らせている人がいるというのだ。それが「関屋鉄道」という次第。調べてみると、サンケイ新聞をはじめ、読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」等々で紹介され、かなりの人気。これはぜひ「かつらぎ探検ガイド」に掲載したいと、まずは現地へ足を運んだ。
                   あいにくご主人は不在だったが、奥様から名刺をいただき、後日、電話で取材の許可をいただいた。ただし取材は「運行日にお願いします」と言うことになり、8月の運行日はというと11日の祭日15:00〜17:00となる。このあと9月はお休みになり、次回は10月になるという。

                   

                  関屋鉄道/取材に先立って村本さんのお宅をまずは訪問させていただく


                   

                     ウオルト・ディズニーのレイルロード・ストーリー(原著)

                   本来なら、取材はT-seedの多田さんと香芝市在住の小学校六年生の西本君にお願いする予定だったが、T-seedの活動日と重なっていたり、サッカーの試合当日だったりで、とりあえず私が取材に行くこととなった。

                   運行開始の1時間前に村本さん宅にお伺いし、準備を見学しながらお話しをお伺いすることに――。

                    ◇
                   村本順三さんがミニSLに関心を持った発端は、ウオルト・ディズニーだという。子どものころ、日曜日の夜の番組で「ディズニーランド」という1時間番組があったが、その中で、ディズニー氏が自宅の庭にミニSLを走らせているシーンがあった。そのシーンが村本少年の脳裏に深く刻まれてしまったのだという。
                   調べてみると、ウオルト・ディズニー氏は大変な鉄道オタクだった。自宅の庭にミニSLを走らせるばかりか、そもそもディズニーランド自体も、アメリカの西部開拓時代の風景を再現し、そのなかを蒸気機関車や蒸気船が走るといった「交通博物館」のようなものとして構想されたという。
                   ウォルト・ディズニーの夢は、ディズニーランド内を走るサンタフェ鉄道、後のディズニーランド鉄道として形となったが、そればかりか日本の少年の夢の中にまで根を下ろしてしまったようだ。
                   ところで東京の銀座に「天賞堂」という鉄道模型の店がある。本来は宝石・時計商だったが、1949年に、当時の社長・新本秀雄さんの趣味が高じて鉄道模型の販売をはじめた。従来、倉庫に使っていた建物の2階部分を改装し、アメリカの大地を模した「第1次オメガ・セントラル鉄道」が作られ、以来、鉄道模型ファンの聖地的存在となっていった。
                   村本さんは学生時代、この天賞堂で、一台のミニSLと出会った。レール幅は3インチ半、人間が乗れる最小のミニSLだが、完成品として販売され、当時の金で150万円だったという。当時、大卒の初任給が3万という時代、とても学生の身分では手が出せない。
                   その時、村本さんは、「ともかく金さえ出せばミニSLが手に入る時代になったんだ」と、深く感じ入ったという。
                   その後、社会人となり、いったんはSLから離れていたが、今から20年ぐらい前のこと、村本さんの会社でイタリア製の板金の機械を購入することとなり、その研修を兼ねて、販売店の社長とともに実際の機械をイタリアに見学に行くことになったという。
                   ところが、同行した販売店の社長は無類のSLマニアで、旅行中、オーストリアにSLを見るため立ち寄るなど、村本さんの埋もれていたミニSLへの思いを再びかき立てることとなった。実は、その販売店の社長、SLマニアであるばかりか、ミニSLのマニアでもあったのだ。
                   かくして、この社長を師として、村本さんのミニSL修業がはじまったという次第。
                   村本さん40代後半のことであった。

                   

                  猛暑の中、淡々と運行準備を進める村本さん

                   

                         ミニSLへの思いを語る村本順三さん(上)

                   最初は、小さな組み立て式キットのものからはじめたという。小さなキットとはいえ、一台150万円はするという代物なのだが……。
                   

                   大阪本社の小川精機という会社がある。模型用のエンジンを作る会社なのだが、この小川精機の先代社長が、やはりミニSLにはまっており、ミニSLのキット販売を開始したばかりのことだ。村本さんが最初に購入したキットも、この小川精機の製品だったという。
                   その小川精機が、法隆寺工場の裏手にミニSLを走らせるための固定レイアウトを持っており、ここでキットを購入したユーザーは、このレイアウトを使ってミニSLを走らせることができたのだ。
                   村本さんも、最初は、この組み立てキットを作っては、月一回の走行会に持ち込んでは走らせていたという。

                   しかし、そのうち、もっと大きなものが作ってみたくなった……。
                   こうして20年、今、村本さんが走らせているのは5インチというレール幅のもの。つまりレール幅が127mm、これを自宅の庭に敷設し、トンネルあり、鉄橋ありという120メートルの変化に富んだレイアウトを作り出した。

                   このレイアウトを作成するため、土地を検討し、更地からレイアウトを設計、家屋もレイアウトに見合った家を建てるという熱の入れよう。

                   機関車も、窓枠など細部までこだわって再現した 「C5822」というミニSL。
                   これが120メートルにわたる変化に富んだレイアウトを疾駆するという次第で、こうなると、子どもやSLマニアでなくともワクワクしない筈がない。

                   

                   

                   取材した日は、折からの猛暑、その中でミニSLとはいえ、石炭をくべ、窯の圧力を調整する作業はまさに灼熱地獄。そばで撮影させていただいても汗が噴き出してくる始末なのだが、当の村本さんは、淡々と作業をこなしていかれる。

                   やがて準備は整ったが、こんな猛暑の中、乗客も少ないのではと勝手に危ぶんでいたのだが、ふと外を見れば、なんと村本家の外には長蛇の列ができているではないか。

                   36度という暑さの中、子どもばかりか、若い女性までが、開始時刻の3時を待つ行列に加わっていた。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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