かつらぎ取材日記/梅乃宿酒造の挑戦

2018.08.24 Friday

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    樹齢300年の梅の古木。春になるとこの古木にウグイスたちが集うことから「梅乃宿」の社名が起こったという。

     

     葛城市に「梅乃宿」という酒蔵があります。僕が政府刊行物大阪SSに勤務していた頃、近くに「むかし料理 割烹 今昔」という飲み屋さんがありました。そこの酒匠であり女将さんが野村幸子さん(右写真)。僕の大の友人ですが、この「今昔」、ただの飲み屋ではありません。哲学の山折哲雄さん、作家の開高健さん、農学博士の中西喜次さん、天文学の加藤賢一さんと、そうそうたる顔ぶれが常連客という、知る人ぞ知る小さな居酒屋さんなのです。

     今では「今昔」も店をたたまれていますが、お互いがバリバリ頑張っている頃、僕が「肥後橋官報ビル」の空き室を使って、「五絃琵琶の催し」や「三線の催し」等々を、週末の金曜日、「夕べのサロン」として開催したことがあります。ここではメインの催しの合間に、中国茶やお酒の試飲などを楽しむという趣向もあって、結構人気があったものです。この試飲会に野村さんが、梅乃宿さんからの寄贈として、フィリップ・ハーパーさん(イギリス人)が作ったお酒を持ち込まれたことがあります。当時、ハーパーさんは「梅乃宿」の蔵人として働いていました。野村さんは「若いが良いお酒だ」と、この酒を集まった皆さんに紹介するとともに、利き酒の仕方を手ほどきされました。

     これが、僕が「梅乃宿」という酒蔵を知った最初です。30年ほど前のお話しですが、当時、イギリス人が酒造りなどというと、「イギリス人に日本酒の何が分かる!」と一笑に付されたものです。そんな時代に「蔵人」とはいえ、イギリス人に酒を造らせる「梅乃宿」って、どんな進歩的な酒蔵なんだろう? また、日本酒を世界に伝えたいと活動するフィリップ・ハーパーさんってどんな人なんだろう? そんな感想を持ったことがあります。

     そして今、定年退職後も、奈良で気ままに本作りをやっておりますが、その中に「かつらぎ探検ガイド」の企画があります。来年3月の出版を目指し、大阪芸大デザイン学科の有志の諸君や、葛城地区の市民グループ、それに中高生や社会人の若い人たちが協力してくださり、観光ガイドでは伝わらない葛城の魅力を探っていこうとするものです。そこで再浮上してきたのが、葛城の酒蔵「梅乃宿」の記憶です。

     調べてみると、ハーパーさんは京都北部の「木下酒造」の杜氏(酒造りの責任者)となって移っておられましたが、男性中心の酒造りの社会で、「梅乃宿」はトップから社員に至るまで、女性が活動の中心にいるように感じました。やはり「梅乃宿」は、今も伝統にとらわれず、新しい社会への適応を目指しチャレンジし続ける酒蔵のように感じました。

     そこで「梅乃宿」の女性社長 吉田佳代さんに、いきなりインタビューを申し込みましたが、なんと、たちまち快諾いただき、今回の取材となった次第です。

     以下に、吉田社長に取材させていただいたあらましを掲載させていただきます。

     

     

     梅乃宿酒造株式会社は、創業して126年目になると言います。

     一般の社会では「ずいぶん古い会社だねぇ」なんてことになるのですが、日本酒の世界では若い会社ということになるそうです。このため「いつも新参者の気持ちでやってきました」と、吉田佳代社長(右の写真)は言われます。

     社名の由来をお聞きすると、蔵の向かいの本宅庭に樹齢300年の梅の古木があり、毎年春になるとその木にウグイスがやってくることから、「梅乃宿」という名前がつけられたと言います。

     吉田社長が「お酒って冬にしかできないのはご存じですよね?」と問いかけられました。

    「えっ、知りませんでした !」と僕――。
    「日本酒は冬に造るものなんです、逆に言うと冬にしか造れないものなんです。」

     そこで、後日調べてみると、寒造りとは、最も酒造りに適しているといわれている12月〜翌年2月頃までの寒い季節に酒造りを行うことを言います。

     なぜこの季節が酒つくりに向いているかというと、寒いことで雑菌が繁殖しにくい時期であることが第一に上げられるようです。また良いお酒を造るために、低い温度で管理したいことも、寒い冬に造る理由の一つです。
     この寒造りは江戸時代に確立されたと言われ、計器類がない時代に杜氏をはじめとする蔵人は、発酵状態によって変わる香りや味、肌に感じる温度変化などを頼りに、とぎすまされた感覚によって把握し、複雑な酒造りに対応してきたということらしいのです。

     

     

    今は機械化され、電子制御される梅乃宿の製麹室。

     

    (吉田社長のお話に戻りましょう。)

     従ってお酒をどんな人たちが造っていたかというと、半年雇用、つまり地方の豪雪地帯のお百姓さんが、冬の間、出稼ぎで住み込んでお酒を造っていたんです。
     伝統的な杜氏(酒造りの技術的責任者)は、夏場は自分の村で農業を営んで、秋に刈り入れが終わると、杜氏は自分の村の若い者や、近隣で腕に覚えのある者に声をかけて、その冬のための、いわば酒造りチームを組織します。杜氏は彼らを秋に引率して蔵元へ連れていき、酒造りが終わる春まで、約半年間寝起きをともにして働くことになります。
     これが昔から日本酒を造っていた人たちの姿です。
     梅乃宿では、かつては但馬杜氏(兵庫県)、20年ほど前からは南部杜氏(岩手県)が、この酒造りを請け負ってくれていましたが、最近では杜氏の率いる酒造り集団が高齢化し、かといって、これまでの雇用形態では、若い人の参入も難しいという状況になってきました。若い人で専業農家をする人がいないこと、たとえあったとしても、半年間、奥さんや子どもと離れ、他人の家で住み込みで働く、こんな働き方は今の時代に合わないとなってきたのです。こうして酒造りの設備も販路もあるのに、作り手が高齢化でいなくなる、そんな状態になってきました。
     今から約20年前と言いますから、ちょうど21世紀に入るか入らない頃になるのでしょうか、冬場の半年雇用では人が集まらないため、この頃から年間雇用に切り替え、地元で人を採用するようにされたと言います。この人たちが、冬場にやってくる杜氏集団の人たちと一緒に働き技術の習得に励むようになった訳ですが、ここで困ったのが、冬場の酒造り以外の期間、余剰労働力をどうするかということです。
     そこで思いついたのが「梅酒」なんです。梅の実は、5月、6月、7月に実が採れますので、ちょうど酒造りの閑散期に「梅酒」が造れるということになったわけです。
     普通、「梅酒」は焼酎やホワイトリカーで漬けるんですが、酒蔵でやるんだから、同じ造るなら日本酒仕込みで梅酒を造ろうということになったわけです。
     最初の年は試しにタンク一本分を造りました。これがあっという間に売れ、翌年は思い切ってタンク2本分を造りました。これも、またあっという間に売れ、先代が「来年はタンク20本分造るんや」とムチャクチャを言い出したそうです。みんなの止める声も聞かず、3年目は「鶴の一声」で、梅の実も購入済みだからとタンク20本分の梅酒が造られることになりました。

     ちなみにタンク一本分がどれほどの量か、吉田社長に教えていただいたところでは、「梅乃宿」の梅酒タンクでは、タンク1本で梅酒の原酒が7,000リットル出来、これを製品にすると、1.8リットル換算で、約6,500本分になるそうです

     これが20本分のタンクとなると、1.8リットルの梅酒が130,000本分! となります。

     これって素人が見たって、何が何でも無茶苦茶な数字ですよね。
     ところがです! この年、全国的に梅酒の大ブームが起こったんです。ほかにも日本酒仕込みで梅酒を作っていたところはあったのですが、急激なブームでどこも在庫がない。梅酒造りは時期が限られており、しかも仕込みの期間が長いため、品切れしてしまうと品切れの期間も長くなってしまう。そんなとき、奈良の「梅乃宿」が大量に梅酒の在庫を持っているというので、一躍「梅乃宿」が注目を集めるようになったと言います。
     これに輪をかけたのが、漬け込んだあとの梅の実の再利用です。何十トンという大量の梅の実を廃棄するのがもったいないと、種を取り、すりつぶして一緒に入れてしまうことを考案しました。こうして「あらごし梅酒」が誕生しました。これが梅酒ブームに乗って更なる大ヒットを生み出したというわけです。
     梅酒をはじめた頃は、伝統的な清酒づくりの酒蔵が、家庭でもできる「梅酒」に手を出したというので、蔵仲間からは批判され、バカにもされてきたのですが、今では多くの酒蔵が梅酒造りに参入しているという現状です。

     

     

    「全国で、どれぐらいの酒蔵があるかご存じですか?」

     またまた吉田社長からの難問です。

     予習して来なかったことを後悔して、ガマの脂汗よろしくタラーリタラリ……。

     私と来た日には適当に答えるにも根拠がないと答えられないという困った性分。「葛城で6件だから、奈良全体では何件かなあ……」と、しどろもどろのありさま。

     見かねた社長が「全国で1700件もあるんですよ。かたやビールは大手4社で造っているんです。最近クラフトビールもありますが、99.9%ぐらいは、この4社で造っているんです」と助け船。

     このあと調べたところでは、全国にある酒蔵の数は、新潟の88件がトップで、奈良は31件あり、三重と並んで21番目ということになります。

     では社長の話に戻りましょう。

    「次に日本国内のアルコール消費量を100としたら、だいたい6〜7割がビール。これをほぼ4社で作っている。これに比べお酒は、日本の国酒と言われているんですが、7%を切って6・数%としか飲まれていないんです。それなのに日本の酒蔵はいまだに1700件あるんです。これも少なくなっての数字で、最盛期の江戸時代には1万件を超えていたんです。これから酒蔵の数はまだ減っていくでしょうが……。

     では、これから日本酒は伸びるのかというと、日本の人口は減少傾向で、文化レベルが上がれば上がるほど一人ひとりのアルコールを飲む量が減っていくという傾向にある。そこへ飲まれるアルコールの種類が増え、日本酒を選んでいただくパーセントが減っていく、いわば三重苦という状況の中で、日本国内の日本酒を見たとき伸びる要素は全くないというのが本当のところです。」

     そこで考えられるのが、海外へ日本酒をひろめていくという方向になる訳ですが、これについて吉田社長は次のような話をしてくれました。

    「いざ世界に目を向けてみると、和食がユネスコ無形文化遺産に認定されたことで、日本酒にとっては追い風になっています。その中で私たちは輸出に力を注いでおり、今、全体の売り上げの2割ぐらいが海外への輸出になっているんです。多いのは、香港、台湾、中国、アメリカで、ほぼこの4つのエリアで輸出の8割ぐらいを占めています。実は、この売り上げの2割が輸出で占めているという数字は、大手さんも含め、ほぼベスト5に入るという状態で、梅乃宿が日本酒の輸出という面で大成功していると言えるでしょう。」

     上の写真は、「新しい酒文化」を世界に拡げていこうとする「梅乃宿」さんの意気込みが感じられるパネル展示ですが、そこに一枚のレポート用紙が貼り付けられてありました。

     読みにくいと思いますので、その全文を以下に掲げ、このレポートの締めくくりにしたいと思います。

     挑戦状
     いま、日本酒が世界的な人気とはいえ、世界を舞台にワインに匹敵する存在になることは容易ではありません。

     しかし、私たちは挑戦します。
     世界中、どこでも日本酒が味わえることを目指したいのです。
     そのために大事なのは、前向きな姿勢。
     たとえば日本酒を飲む習慣のない国に降り立ったとき、
     「誰も飲んだことがないので日本酒の市場はない。売れるわけがない。」と思う人と、
     「日本酒の魅力が伝われば、市場は無限大だ。」と思う人。


      私たちはいつだって挑戦者。
      後者のような前向きな考え方をもって一歩を踏み出し世界に日本酒を提供していきたいと考えています。

     このあと、吉田社長自ら酒蔵を案内していただき、お酒造りの細かな興味深いお話をしていただきましたが、それはまた別の機会とさせていただきます。

     

    チャーミングな吉田社長に酒蔵を案内していただき、恐縮するやらうれしいやら、感謝です。

     

    製麹室(左上)とヤブタ式搾り機(左下)、右は麹菌です。

     

    梅乃宿の店舗部分です。奈良漬けが並んでいますが、清酒発祥の地は奈良で、酒を造った後の酒かすで漬けたのが奈良漬けというわけ。

     

    ※後日談になりますが、この「梅乃宿」取材直後数日して、我が「自遊空間ゼロ」で陶芸教室が開かれました。ここへイタリア人グループ4人の方が、突然ゲストで参加されることになったのです。ナポリの南東に隣接するポテンツァ在住の二組のカップルなのですが、この方々に、梅乃宿の原種「風香」を飲んでみていただきました。口々に「ボーノ」と喜んでいただきましたが、そのなかに一人、日本人の奥さんがおられ、彼女から貴重なお話を聞かせていただきました。

     ポテンツァはイタリアの南にある田舎町ですが、こんな田舎町でも3件の日本料理店があります。どの店も日本人の経営でなく、イタリア人の経営だったりインドネシアの人だったりで、名前だけの日本料理店のようですが、これらの店でも「日本酒」が置いてあります。ただ「日本酒」というだけで、どの銘柄とか何を飲まされているかは分かりません。ここポテンツァでは「和食」「日本酒」という名前だけがヒットしているという状態だと思います。

     このご夫婦は、今回は時間がなく帰られることになったが、酒蔵に興味があり、次回必ず来るので、その時は「梅乃宿」に連れて行ってほしいと頼まれた次第であります。

     

    ポテンツァから参加されたイタリア人グループに「梅乃宿」の原酒「風香」を楽しんでいただきました。

    かつらぎ取材日記/天覧相撲のはじまり

    2018.08.16 Thursday

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      香芝市「腰折田」伝承地に飾られる野見宿禰(のみのすくね) の画(京田信太良)

       

       (天皇来臨の関係で、当麻相撲館は、東西が逆になっています。)

      「天覧相撲」ってご存じでしょうか?

      「相撲」は「すもう」ですから、日本の国技なわけで、日本人なら子どもだって知ってますよね。では「天覧」とは、一体、なんでしょうか?

       これは天皇がご覧になっているという意味です。

      「東〜○○山、西〜△△海」っていう相撲の呼び出しにもあるように、相撲は東西戦になります。今では「東西」というと「関東」と「関西」と考えられがちですが、これは近世のお話しで、この「天覧相撲」がおこなわれた3世紀から4世紀の頃って、「東京」とか「江戸」とか、なかったわけです。では「東西」とは、どことどこ? となるわけですが……。

       ここでヒントになるのが天皇です。中国では「天子南面」と言って、「天子様」(日本では天皇)は南に面して存在するという考え方があります。そこで「天覧相撲」の場合、天皇は「北」に座して南で対戦する相撲をご覧になるという寸法です。そうすると「東」と「西」の取り組みになるわけです。

       これが後になると、天皇がいる場所が「北」となって、当麻(葛城市)の相撲館に見られるように、実際の東西とは逆になる場合もあるということです。

       これは当麻相撲館の小池館長から聞いた「相撲の東西」のお話です。これともう一つ大事な「東西」のお話しがあります。広陵町文化財保存センター・河上所長にお聞きした話ですが、当時(3〜4世紀)の奈良は、曽我川を挟んで東西に真っ二つに分かれていたというのです。

       東が「磐余(いわれ)」を中心にした大和朝廷発祥の地、西が大和朝廷にまつろわぬ人々の住む「葛城(かつらぎ)」という地です。「まつろわぬ」とは「従わない」とか「反抗している」というぐらいの意味で、こういった人々は大和朝廷側からは「土ぐも」と総称されていました。

       

      曽我川にかかる磐余橋から二上山を見ています。

       

       上の写真は曽我川にかかる磐余橋(いわればし)から二上山を見ていますが、古くは神武天皇が、この地で大和に敵対する「土ぐも」を如何に処理するかを、帰順したニギハヤヒと策を練ったと伝えられています。

       こういった当時の情勢を把握しておいた上で、日本初と言われた「天覧相撲」について考えてみましょう。これについては、葛城市にある「当麻相撲館 けはや座」の小池館長が非常に詳しいので、お話をお聞きしました。

       以下、小池館長(右の写真)のお話を要約しておきます。

        ◇

       まず対戦したのは、「当麻蹴速(たいまのけはや)」(葛城市当麻)と「野見宿禰(のみのすくね)」(桜井市出雲)の二人ですが、この名前については象徴的に使われているように思います。「宿禰(すくね)」という「名」は大和朝廷初期の役職名というか、天皇の配下の位を表す言葉です。当時、制定された「八色(やくさ)の姓(かばね)」のうち、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ3番目の位が「宿禰(すくね)」になるわけです。しかも「宿禰」は武人とか行政官を表す称号でもあるわけで、これから見ても、「野見宿禰」は、大和朝廷側の重要ポストにある人物と考えてよいでしょう。

       これに対し、「当麻蹴速」は、被征服豪族である「葛城氏」の一族で、力自慢で蹴り技が得意な無頼漢、そんな風に位置づけられています。

       つまり、この勝負、最初から「野見宿禰」が勝つことが決められているのです。

       日本書紀に書かれていることを思いっきり意訳すると、

       時は垂仁天皇の7月7日のこと、天皇は、かねがね「俺より強い者はいない」と力自慢を鼻にかける「当麻蹴速」が煩わしくてなりません。「誰か、こいつの鼻を叩き折る者はいないのか」ということで、出雲国の「野見宿禰」が「即日」呼ばれ、垂仁天皇の前で相撲を取ることになります。この頃は、相撲はスポーツというより「戦闘」つまりは殺し合いです。土がついたら負けということではなく、どちらかが死ぬか、動けなくなるまで戦うというものです。

       こうして筋書き通り、「当麻蹴速」はあばら骨を踏み折られ殺されてしまいました。勝者である「野見宿禰」は、葛城にある「蹴速」の土地を天皇から与えられることになります。それが今も香芝市に「腰折田(こしおれだ)」として語り伝えられていますし、「当麻蹴速」を悼んで建てられた「蹴速塚」も、葛城市の相撲館「けはや座」の近くに残されています。

       

      香芝市に残る「腰折田」伝承地。ここからの二上山の眺めは格別に美しい。

       

      葛城市の相撲館「けはや座」の近くに、今も残る「蹴速塚」

       

       では、東西の話しに戻って、この天覧相撲を眺めなおしてみましょう。

       日本初の天覧相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇7年の7月7日、おそらく3〜4世紀のことと考えられます。

       この頃、葛城はまだ大和朝廷に完全に服従しているとは考えられません。それが雄略天皇4年の日本書紀の記事(5世紀の半ば)では、葛城の神「一言主(ひとことぬし)」つまりは葛城氏そのものを指すわけですが、その「一言主」が雄略天皇の一行を曽我川まで見送ったというのです。このことは、葛城と大和朝廷の境界線が「曽我川」だということを物語ると同時に、雄略天皇が葛城氏の懐柔に成功したことをも物語っているのではないでしょうか。

       同じ頃、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっています。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那(みまな)に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻である稚媛(わかひめ)を自分の妃にしてしまったのです。

       その稚媛というのが葛城氏の娘でした。
       要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになり、同時に葛城の血の中に、天皇一族の血を残そうとしたことになります。

       つまり、これまでは、「大和」は「葛城」を抑え込むため、なりふり構わず策を弄しているように思えるのです。

       こう考えると、この天覧相撲、大和朝廷が、葛城氏の不穏な動きを封じ込めるための「見せしめ」だったような気がしてきます。つまり当麻蹴速は、葛城氏の中で、大和朝廷に抵抗する過激派のリーダーだったのでは……。

       想像をたくましくすれば、捕らえた蹴速を天覧相撲という公開の場所でやっつけてしまう。当時の相撲は、先ほども述べたように、スポーツではなく、戦闘そのものであり、相手が死ぬか動けなくなるまで続けられました。葛城氏の不穏分子を踏み殺すことで、大和朝廷の力を見せつける――天覧相撲とは、天皇臨席の公開処刑だったのではないでしょうか

       そこで、「野見宿禰」について見てみましょう。日本書紀では「出雲国」に「野見宿禰」という力自慢がおり、これを呼び寄せ「蹴速」をやっつけさせ、勝った報償に大和朝廷に召し抱えたと言っています。

       冒頭にも述べましたように、「宿禰」は「八色の姓(やくさのかばね)」という位階制度の上から三番目にあたる重要なポストです。いきなり相撲に勝ったからと言って手に入れられるようなものではありません。

       「野見宿禰」は、名前からして、もとより大和朝廷側の重要なポストにある人間だったと思われるのです。

       そう考えると、「出雲国」とは島根県の「出雲」でなく、大和朝廷の勢力圏である桜井市の「出雲」と考えるのが妥当です。書記にも「即時に召す」とあり、島根県では「即時」に呼び寄せることは不可能です。

       現に桜井市の「出雲」という地には、「十二柱神社」の敷地内に「野見宿禰」の墓と言われる五輪塔が残されています。もともとは、やはり「出雲」の「太田」というところにあったものが、明治に、この「十二柱神社」の境内に移されたということです。

       

      十二柱神社の境内には野見宿禰の墓と言われる五輪塔が移設されている。
      桜井市 相撲神社、すっかり緑に覆われている。

       

       さて、この稿を閉じるにあたって、「当麻蹴速」「野見宿禰」、この二人の決戦の場と思われる、桜井市の「相撲神社」を紹介しておきましょう。

       我が町、広陵町から自転車で1時間半、山辺の道から少し外れたところに「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)伝承地」の案内板があります。このあたりが垂仁天皇が宮を営んだ地と言われ、ここから自転車でさらに数分奥へ入ったところに、日本で最初に天覧相撲が開かれた場所「相撲神社」があります。

       穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の入り口近くにあって、祭神は「野見宿禰」、境内には新たに置かれたと思われる「力士像」と「勝利之聖 野見宿禰」の祈念碑が建てられています。

       ここで気になるのが、右の案内板。「国技発祥の地」ではじまる案内文はすべて無視していただいてかまいません。ただ「赤」のラインで囲まれた文字にだけ注目してください。「カタヤケシ」ゆかりの土俵において……

       では、この「カタヤケシ」とは一体、何のことでしょうか?

       当麻相撲館「けはや座」の小池館長に質問をぶつけてみました。

       館長の言うには、「カタヤ」というのは、相撲の土俵のことを言うそうです。「ケシ」は「消し」と考えてもいいのでは……。

       館長のお話を聞いて、つまりは「土俵でやっつけてしまえ」「土俵で殺しちゃえ」みたいなニュアンスにも取れる、そう思ってしまいました。やはり日本初の「天覧相撲」とは、天皇臨席の「公開処刑」! そんな印象を強くした次第です。

       なお、この考えは、相撲館「けはや座」の小池館長や、広陵町文化財保存センターの河上所長のお考えではなく、お話しをお聞きしているうちに浮かんできた編者の「白日夢」のようなものとお考えください。

       それはさておき、これ以降、7月7日が「相撲節会」という行事となり、全国の力自慢が奈良に集められることとなります。それは、ただ単なる「相撲大会」のようなお遊びでなく、大和朝廷の「軍事力強化」という一面をもっていました……。

       今で言えば「自衛官募集」、それも強制徴募みたいなものでしょうか。

       それはさておき、神武以来、大和朝廷に歯向かってきた葛城という地は、5世紀の雄略天皇以降、大和朝廷に組み込まれていったように感じます。

       

      纒向日代宮伝承地

       

      相撲神社横手の澱み 吸い込まれそうなほど緑がきれいでした。

       

      かつらぎ取材日記/関屋鉄道

      2018.08.14 Tuesday

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         香芝市内を関屋鉄道が走っているって?
         大和鉄道100周年記念の取材をしている時、こんな話しを耳にした。
         でも香芝市内に、そんな鉄道が走っているなんて聞いたことがなかった。
         この話を紹介してくれたのは、香芝市で子育て支援の活動をしているNPO法人「T-seed」の多田さん。詳しく聞いてみると、ミニSLを自宅の庭に走らせている人がいるというのだ。それが「関屋鉄道」という次第。調べてみると、サンケイ新聞をはじめ、読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」等々で紹介され、かなりの人気。これはぜひ「かつらぎ探検ガイド」に掲載したいと、まずは現地へ足を運んだ。
         あいにくご主人は不在だったが、奥様から名刺をいただき、後日、電話で取材の許可をいただいた。ただし取材は「運行日にお願いします」と言うことになり、8月の運行日はというと11日の祭日15:00〜17:00となる。このあと9月はお休みになり、次回は10月になるという。

         

        関屋鉄道/取材に先立って村本さんのお宅をまずは訪問させていただく


         

           ウオルト・ディズニーのレイルロード・ストーリー(原著)

         本来なら、取材はT-seedの多田さんと香芝市在住の小学校六年生の西本君にお願いする予定だったが、T-seedの活動日と重なっていたり、サッカーの試合当日だったりで、とりあえず私が取材に行くこととなった。

         運行開始の1時間前に村本さん宅にお伺いし、準備を見学しながらお話しをお伺いすることに――。

          ◇
         村本順三さんがミニSLに関心を持った発端は、ウオルト・ディズニーだという。子どものころ、日曜日の夜の番組で「ディズニーランド」という1時間番組があったが、その中で、ディズニー氏が自宅の庭にミニSLを走らせているシーンがあった。そのシーンが村本少年の脳裏に深く刻まれてしまったのだという。
         調べてみると、ウオルト・ディズニー氏は大変な鉄道オタクだった。自宅の庭にミニSLを走らせるばかりか、そもそもディズニーランド自体も、アメリカの西部開拓時代の風景を再現し、そのなかを蒸気機関車や蒸気船が走るといった「交通博物館」のようなものとして構想されたという。
         ウォルト・ディズニーの夢は、ディズニーランド内を走るサンタフェ鉄道、後のディズニーランド鉄道として形となったが、そればかりか日本の少年の夢の中にまで根を下ろしてしまったようだ。
         ところで東京の銀座に「天賞堂」という鉄道模型の店がある。本来は宝石・時計商だったが、1949年に、当時の社長・新本秀雄さんの趣味が高じて鉄道模型の販売をはじめた。従来、倉庫に使っていた建物の2階部分を改装し、アメリカの大地を模した「第1次オメガ・セントラル鉄道」が作られ、以来、鉄道模型ファンの聖地的存在となっていった。
         村本さんは学生時代、この天賞堂で、一台のミニSLと出会った。レール幅は3インチ半、人間が乗れる最小のミニSLだが、完成品として販売され、当時の金で150万円だったという。当時、大卒の初任給が3万という時代、とても学生の身分では手が出せない。
         その時、村本さんは、「ともかく金さえ出せばミニSLが手に入る時代になったんだ」と、深く感じ入ったという。
         その後、社会人となり、いったんはSLから離れていたが、今から20年ぐらい前のこと、村本さんの会社でイタリア製の板金の機械を購入することとなり、その研修を兼ねて、販売店の社長とともに実際の機械をイタリアに見学に行くことになったという。
         ところが、同行した販売店の社長は無類のSLマニアで、旅行中、オーストリアにSLを見るため立ち寄るなど、村本さんの埋もれていたミニSLへの思いを再びかき立てることとなった。実は、その販売店の社長、SLマニアであるばかりか、ミニSLのマニアでもあったのだ。
         かくして、この社長を師として、村本さんのミニSL修業がはじまったという次第。
         村本さん40代後半のことであった。

         

        猛暑の中、淡々と運行準備を進める村本さん

         

               ミニSLへの思いを語る村本順三さん(上)

         最初は、小さな組み立て式キットのものからはじめたという。小さなキットとはいえ、一台150万円はするという代物なのだが……。
         

         大阪本社の小川精機という会社がある。模型用のエンジンを作る会社なのだが、この小川精機の先代社長が、やはりミニSLにはまっており、ミニSLのキット販売を開始したばかりのことだ。村本さんが最初に購入したキットも、この小川精機の製品だったという。
         その小川精機が、法隆寺工場の裏手にミニSLを走らせるための固定レイアウトを持っており、ここでキットを購入したユーザーは、このレイアウトを使ってミニSLを走らせることができたのだ。
         村本さんも、最初は、この組み立てキットを作っては、月一回の走行会に持ち込んでは走らせていたという。

         しかし、そのうち、もっと大きなものが作ってみたくなった……。
         こうして20年、今、村本さんが走らせているのは5インチというレール幅のもの。つまりレール幅が127mm、これを自宅の庭に敷設し、トンネルあり、鉄橋ありという120メートルの変化に富んだレイアウトを作り出した。

         このレイアウトを作成するため、土地を検討し、更地からレイアウトを設計、家屋もレイアウトに見合った家を建てるという熱の入れよう。

         機関車も、窓枠など細部までこだわって再現した 「C5822」というミニSL。
         これが120メートルにわたる変化に富んだレイアウトを疾駆するという次第で、こうなると、子どもやSLマニアでなくともワクワクしない筈がない。

         

         

         取材した日は、折からの猛暑、その中でミニSLとはいえ、石炭をくべ、窯の圧力を調整する作業はまさに灼熱地獄。そばで撮影させていただいても汗が噴き出してくる始末なのだが、当の村本さんは、淡々と作業をこなしていかれる。

         やがて準備は整ったが、こんな猛暑の中、乗客も少ないのではと勝手に危ぶんでいたのだが、ふと外を見れば、なんと村本家の外には長蛇の列ができているではないか。

         36度という暑さの中、子どもばかりか、若い女性までが、開始時刻の3時を待つ行列に加わっていた。

         

         

         

         

         

         

         

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