クジラ・イルカ紀行 vol.013 / 「じゃのひれ」から「しまなみ海道」へ

2018.05.18 Friday

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     スイミングスクールで個人指導を受けたものの、水への恐怖心から挫折、イルカと自由自在に泳ぐという計画は、ものの見事に失敗に終わりました。でも、ものは考えようです。浮くようになったわけだし、まして、イルカさんと泳ぐときはライフジャケットを着けているわけですから、おぼれる心配はまずありません。自分にしては上出来です。

     こんなわけで女房と二人して「淡路じゃのひれアウトドアリゾート」へとやってきました。まずは予約の確認と「ドルフィンスイム」の申込みを済ませ、時間まで海水プールを見学します。何より大事な実験結果はどうなっているでしょう。ここ2週間というもの、まだ見ぬ「もも」に思いを寄せつづけ、ひたすら語りつづけてきました。

     とはいうものの、この場に臨んで、期待は、「そんなわけないよなぁ」「思うだけで通じるわけないよなぁ」と、そんなあきらめムードに変わっていました。

     期待半分あきらめ半分、そんな感じで「もも」のプールを探していると、

    「ありました!」

     中ほどのプールの前に案内表示が出ています。「もも」と、もう一頭「ゆず」と表示されています。

     

     

     ここが「もも」のプールか!

     そう思った瞬間です。背後で「バシャーン」という水しぶき。頭に冷たい水滴が降りかかります。

     あわてて振り返ると――!! 

    「もも」と「ゆず」が、二頭でジャンプをはじめ、それが、なかなか終わらないのです。あわててカメラを取り出しますが、連写モードになっていなかったため、なかなかジャンプのスピードに追いつけず、パチリパチリとシャッターを切り続けます。それでもジャンプは終わりません。

     ついには係の方が驚いて飛び出してくる始末です。

     

     

     ジャンプするのは、餌をほしいときとか、遊んでほしいときらしいのですが、普通は二、三回もすれば終わると言います。それが十回どころか、あわてて数えだしたときからでも二十回以上もジャンプが続いているのです。

     とても威嚇のようには思えません。

    「思いが伝わったんだ!」 とっさにそう思ってしまいました。

     思い込みかも知れませんが、それでも、シャッターを切っていて訳もなく涙が止まりません。大の男が恥ずかしい話ですが、水しぶきと一緒になっているので泣いているのは、何とかごまかせそうです。

     係の人が飛び出してきた頃にはジャンプも下火になり、やがて海面も静かになっていきました。

     ひょっとして何かの偶然かも、そうも思いましたが、この一年後、しまなみ海道にドルフィンファームが新たにオープンしたときのことです。「もも」がしまなみ海道に移されることになり、それを知った僕も、取材という名目で「もも」を訪ねることにしました。

     そのとき、「もも」の対応が偶然ではなかったと確信しました。一度しか会っていない僕を、「もも」はしっかりと覚えてくれていたのです。

     さて、この話は締めくくりのところで取り上げるとして、まずは人生初めての体験、ドルフィン・スイムについて話しを続けていきたいと思います。

    一緒に泳いでくれる「かえで」と「さくら」の見分け方です。

     

     ここでイルカさんについて、少し基本的なことを勉強しておきましょう。

     魚と違い、イルカは尾びれが飛行機の尾翼のように左右に広がっています。魚の場合は尾びれが縦についており、これを左右に振ることで泳ぎます。これに対し、イルカは左右に広がった尾びれを上下に振ることで推進力を作り出します。この違いは、イルカがほ乳類で肺呼吸をするため、頭の上に開いた呼吸孔をすばやく海面に出すためではないかと言われています。その尾びれの強さは並大抵ではなく、いやがる野生のイルカを追い回し、尾びれの一撃で肋骨を折られた人間もいるぐらいです。

     エコロケーションについては前回触れましたので、変わったところで「半球睡眠」について触れておきましょう。イルカの脳は、左右で二つに分かれて活動します。左が眠っているときは右が活動しており、右が眠るときには左が活動している、つまり眠らずに泳ぎ続けることができるという寸法です。

     また代謝が活発で、人間が24時間で肌が再生されるのに対し、イルカは2時間で新しい肌が再生されるということになります。これは早く泳げるよう、いつでも肌をすべすべにしておく必要があるためです。

     スイミングの前には、調教師のやさしくて陽気なお姉さんが、イルカについて、いろいろと勉強させてくれます。ただ残念なことに、今日一緒に泳いでくれるのは「もも」と「ゆず」ではなく、「さくら」と「かえで」という二頭の雌のバンドーイルカということでした。「もも」たちは、まだ人と一緒に泳ぐまでにはトレーニングが進んでいないのだと言います。

     上の図は、その「かえで」と「さくら」の見分け方です。「かえで」は小ぶりで、身体の色は濃く、背びれがとがっており、上部に切れ目があります。これに対し、「さくら」は大柄で、色も浅く、背びれは丸みを帯びています。このようにイルカたちはそれぞれ特徴があり、この特徴を早くつかんで個体差を知ることで、イルカたちとの距離がぐっと縮まると思います。

     一緒に泳いでくれるパートナーのことを知らないなんて失礼ですものね。

     

    胸ビレにつかまらせてもらってのスイミング。これが本当の胸を借りる?なーんて。

     

     さあ、いよいよです。

     まずは「かえで」の背びれにつかまってのスイミング。調教師のお姉さんが言います。

    「背びれを左手で軽く持ち、後は浮かんでいるだけでいいですからねぇ。」

     言われたように、背びれを軽くつかむと、それが合図であるかのように「かえで」が、かなりのスピードで泳ぎだしました。

     すべて、うまくいくはずでした。ライフジャケットは着けているし、おぼれるはずがありませんでした。

     でも、おぼれてしまいました。

     水に浸かったまま顔を上げられないのです。

     水に浮かび、かえでに引っ張ってもらい確かに進んでいるのですが、顔を水面に上げることができません。

     苦しまみれに、とうとう「かえで」の背びれを放してしまいました。

     ゴボゴボゴボゴボッ!

     この状況は間違いなくおぼれていることになるのでしょう。

     

    頭に付けたアクションカメラが、かえでの心配そうな顔を捉えてくれていました。

     

     しかし、スイミングスクールで個人指導を受けた成果は間違いなくあったと言えるでしょう。水の中で、息が苦しいながらも僕は泳いでいました。そばでは「かえで」が、僕の回りを心配そうに付き添ってくれています。あの姿にどれだけ励まされたことでしょうか。僕は彼女に導かれるようにして、プールの縁へたどりつきました。

     ほんの数分のことでしたが、僕の中では一生分の思い出が紡ぎ出されていました。

     

     みんなの心配そうな顔が笑顔に変わり、「ドルフィンスイムもここまで」と思った瞬間、あのかわいい調教師のお姉さんが、

    「次は、かえでちゃんに胸ビレを貸してもらいます。」

    「……もういいです!」

    「ダメでーす! やってもらいます。」

     笑顔こそ素敵ですが、そこには、てこでも動こうとしない気構えがありました。

    「今度は、かえでちゃんにひっくり返ってもらい、その上に乗る格好ですから顔は水に浸かりません。今度は大丈夫です、うまくいきます!」

     

    かえでの胸ビレにつかまってのスイミングです。
    続いてさくらの胸ビレを借りてのスイミング。

     

     今度は大成功!

     かえでに続いて、さくらまでが胸ビレにつかまらせてくれ、広いプールを一周させてくれました。

     先ほどの強烈な体験と相まって、自分の中では、イルカさんに対する絶大な友情と信頼が生まれていました。

     さあ、いよいよラストプログラムです。水中のイルカさんとふれ合います。

    「水の中はもう充分です」と言いましたが、先ほどの調教師のお姉さんが「ダメです! やってもらいます」と、何にもひるまない笑顔で応じてくれました。

     

     

     これも大成功! 泳ぎに自信がない分、水の中でも浮いているしか能がないのですが、それが反って良かったのだと言います。変に泳ぎに自信があって、イルカを追い回したりすると、逆にイルカにいやがられるようです。イルカがこちらに興味を持って近づいてくるまで、ただ浮かんでいるだけでよいそうです。これは野生のイルカさんの場合、特に言えることだそうです。

     今回の体験で、イルカさんへの絶大な友情と信頼を感じたわけですが、同じように、若い調教師の方のイルカさんに向ける友情や信頼をヒシヒシと感じさせてもらいました。

     このことは、新しくできた「しまなみドルフィンファーム」へ、「もも」と「ゆず」が移動させられることになり、その取材させていただいたとき、よりいっそう感じさせてもらった次第です。

     

    調教師の方々の愛情に包まれて元気を取り戻しつつあるゆずちゃん

     

     2016年5月6日、まだオープンして間もない「ドルフィンファームしまなみ」に、淡路から移された「もも」の様子を見に行ってきました。

     なんと、あのやさしくも、言い出したらテコでも動かない調教師のお姉さんがいるではないですか! 一度しか会っていないのに、旧知の友に出会えたようで、うれしくてなつかしくて、僕がアメリカ人なら、さしずめハグしていることでしょう。そこは日本男児のはしくれですから、そんな浅ましい誤解されるようなまねはいたしませんでしたが……。

     彼女にこんな思いを抱いたのは、僕だけでなく、「もも」こそ、彼女が頼りだったに違いありません。陸送の模様は、ほかのイルカの例ですが、アミール動物病院さんが「獣医さんのお仕事―イルカの輸送」として写真を公開されています。それを転載させていただきましたが、こんな感じで「もも」や「ゆず」も運ばれてきたのだと思います。

     調教師のお姉さんに聞くと、「もも」はいやがって暴れ、おかげで到着したときは傷だらけだったと言います。

     

    アミール動物病院さんのブログ「獣医さんのお仕事―イルカの輸送―」から転載

     

     事前に電話で「もも」の移動の話を聞いていましたので、しまなみドルフィンパークに到着するなり、「ももはどこだろう、元気だろうか」と思った瞬間、遠くでジャンプするイルカがいます。まさに、そのイルカが「もも」だったのです。顔をあわせるなり、「大変だったねえ」と心の中で語りかけました。すると「もも」の何とも言えない温もりが伝わってきました。「思い込み」だとか「思い入れ強すぎ」だとか「錯覚」だとか、なんと言われようが、間違いなく「もも」は僕を覚えてくれていて喜んでくれています。

     くだんの調教のおねえさんと、新しく知り合った、ここ「しまなみ」のリーダーのお姉さんと、お二人から「もも」の話を聞きました。「ゆず」が比較的おとなしかったのに、「もも」はいやがって傷だらけになった話。到着したとき、「もも」は弱り切っていて、この方たちが付きっきりで面倒を見てくれた話。

     今日の「もも」は、とっても元気だと言います。

     今、イルカを水族館やレジャー施設に置くことの是非が問われています。

     インドでは、イルカを「Non human Person」、つまり「他の動物と比べて非常に稀なその知的能力の高さは『ヒト科以外の人間』としてみなされるべきであり、彼らには特別の権利を付与すべきである」とし、水族館やレジャー施設からイルカを解放することが義務づけられるようになりました。

     日本でも遠からず、水族館やレジャー施設から「イルカ」が消える日が来るのかも知れません。

     ただ、今現在の日本では、水族館で生まれたイルカやシャチがおり、この子たちや、もとは野生であっても、今は人間と深い絆で結ばれるようになったイルカやシャチがいます。

     以前に触れたシャチのケイコのことを考えると、「種」として考えるのでなく、「個」として考えたとき、何が彼らの幸せなのかを考えて判断してほしいものです。

     水族館やレジャー施設にいるイルカたちは、今は少なくとも、彼らをお世話する人間と友情や信頼関係を築いています。イルカを「人」として扱うのであれば、個人としての幸せを無視してほしくないと切に思います。

     

     今回の実験で感じたのは、イルカは海へ帰ったほ乳類として独自の進化を遂げたという点です。ある意味、人間以上に優れた生きものだと思います。特に、言葉に頼らず「思い」を「波動」として伝え、感じることができる能力――人間が、はるか昔に放棄した能力を進化させ続けてきた生物だと強く感じました。

     この「もも」「ゆず」「かえで」「さくら」に出会って、また、そのお世話をする若い方々と出会って、今、僕は、イルカやその他のクジラの仲間のことが忘れられなくなりました。

     

     さて次回は、人と深く関わったイルカとして、沖縄の美ら海(ちゅらうみ)水族館へ、「フジ」(尾びれをなくしたイルカ)の足跡をたどることにします。

     

    美ら海水族館所蔵「フジ」の人口尾びれの動画から転載。

    クジラ・イルカ紀行 vol.012 / じゃのひれの「もも」

    2018.05.12 Saturday

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      南あわじ市にある「じゃのひれ ドルフィンファーム」。下は「ふれあいコース」プール前の表示。

       

       上の写真は、兵庫県南あわじ市阿万塩屋町にあるレジャー施設「ドルフィンファーム」のイルカプールです。

       この「ドルフィンファーム」は湾の一角をイカダと網で仕切ることで、巨大なプールを作り、その海水プールで「イルカ」と「人」が一緒に泳いだり、触れあうことができるようにしたというレジャー施設です。

       本来は、「陸」と「海」という違った環境で暮らし、漁師の方やダイビングを趣味とされる方は別として、ふれ合うことのなかった二種の「陸」と「海」の」ほ乳類が出会える場所でもあります。それは人間の「癒やし」や「楽しみ」のために、一方的にイルカに犠牲を強いる結果となるわけですが……。

       しかし、そんな環境でも、いや、そんな環境だからこそなのかも知れませんが、「イルカ」とその世話をする「人」の間には、友情や信頼が育まれているように感じます。

       実は、僕が、イルカと初めて接触したのも、このドルフィンファームなのです。以来、ここでの強烈な体験がイルカやクジラにどっぷりはまり込んでしまう結果となりました。

       でもその体験に触れる前に、まずは、泳げない僕が、なぜ、イルカと一緒に泳ごうなどと思うようになったのか、その辺の経緯(いきさつ)から話させてください。

       

       

       写真の人物は、大阪府南河内郡河南町大宝に住む田池留吉というお爺さんです。

       住むというよりか住んでいたと言うべきでしょうか。この田池先生、一昨年の2015年12月、90才でお亡くなりになりました。若い頃は、大変な秀才だったようで、家が貧しかったため、大阪府立市岡中学校(旧制)卒業後は、経済的な理由で陸軍士官学校に入学されたといいます。正確に言うと「陸軍予科士官学校60期」に入学し、卒業後、「陸軍航空士官学校」に配属されたということになります。終戦が近づくや特攻隊を率いて出撃するはずでしたが、そのための訓練もままならないまま、終戦となってしまいました。

       価値観が一変しました。一時は特攻隊を率い死を覚悟し、「何のために死ぬのか」を自分に問い続けた青春時代でした。それが終戦の詔勅(しょうちょく)以降、まったく価値観が変わってしまいました。そんな中、田池さんは大阪高等学校(今の大阪大学)へ再入学され、教師の道を歩き出すことになったのです。

       大阪市立西中学校の補欠要因を皮切りに、母校である大阪府立市岡高校で数学を教え、やがて教頭となり、大阪府立東百舌高等学校の校長職を辞し教職生活にピリオドを打たれました。

       僕が田池先生を知ったのは、この東百舌高等学校の校長先生だった頃です。こんな関係で「先生」が代名詞みたいになってしまいましたが、その田池先生、出会った翌年、定年まであと一年を残して校長職を依願退職されてしまったのです。僕が出会った頃には、まだ校長職をしながら「人間はなぜ生まれてくるのか」「人間の本質は肉体ではなく心」「他人や社会を変えるのでなく、自分が抱えている闇に気づき、自分を変えていこうとしないかぎり何も変わらない」……、それらのことを手弁当で伝え続けておられました。

       そんな田池先生のもとへ、お子さんや家族のことで相談に来られたり、話を聞きに来られたりする方が次第に増え、田池先生も、たくさんの方に本当のことを知ってもらおうと、定年を待たず校長職を辞された次第です。

       僕も最初は反発していましたが、否定できないことが次々と自分の中で起こり、以来、お亡くなりになるまで、三十年以上、勝手に「師」と決め、お付き合いすることになりました。その辺の経緯は、拙著「時を越えて伝えたいこと」(2007年6月刊 絶版のためPDFで無料公開しています)の中に詳述していますので、興味のある方は、お読みください。

       その田池さんがお亡くなりになる前年だったと思うのですが、「イルカ」や「クジラ」について「人間に近い存在で私も興味を持っている」と話されたことがあり、「言葉でなく意識で通じ合える存在だ」とも言われました。まあ、すべての生き物がそうなのだと思うのですが、特にイルカやクジラにはそう感じさせる「何か」があるようです。このときは、たくさんの人の前で話されていたのですが、いきなり「なあ桐生さん、頼んだで……」と、なぜか名指しで頼まれてしまうことになりました。

       長くなりましたが、これが、僕が「イルカ」や「クジラ」に」興味を持つようになった最初です。

       

       ところで、人間は言葉を使います。だから言葉を信じがちです。でも、言葉で「あなたは良い人だ」と言っても、心では「おまえは嫌なやつだ」と思っているかもしれません。そうだとすれば、どちらが本当の姿でしょう。「良い人だ」という言葉とは裏腹に、その人からは「嫌なやつだ」という思いが流れています。思いはエネルギーですから、表面うまく行っているように見えても、いつか破綻を来すという事態が起こってきたりします。

       これに対し、動物は言葉でなく、鳴き声や吠え声に、喜びや怒り、悲しみの波動を乗せます。その最たるものがイルカやクジラたちのように感じます。高度に発達した知能を持ちながらも、鳴き声に何とも言えない優しい波動を感じさせます。僕の知人に「イルカの学校」を主催されている岩重慶一さんと言われる方がおられます。この方は、不定期ですが、子供たちを御蔵島で野生のイルカと遊ばせるということをされています。この岩重さんの体験ですが、イルカの発するクリック音(超音波)を正面から受けたことがあるそうです。そのときは、水中めがねがビリビリ震えたかと思うと、お腹のあたりがカーッと温かくなり、次には何とも言えない充足感に包まれ、胎児に戻ったかのような安心感に包まれたと言います。

       

      イルカがエコロケーションのために発する超音波、その時に発する音をクリック音と言います(ドルフィンファームの案内書から転載) 。

       

       クリック音というのは、イルカがエコロケーション(反響定位と訳され、つまり超優秀なソナーのようなものです)のために超音波を発しますが、その時に出す音のことです。イルカの目を見てみると身体の両サイドに付いていて前を見ることが出来ないのが分かります。しかも暗い海の中で、前方のものを確認する方法がエコロケーションということです。人間がイルカの出す超音波の直撃を受けたとき、なぜ、このような現象が起こるのか、僕にはその原因を説明できるような知識を持ち合わせません。

       これ以外にも、須磨水族館と京都大学が共同で行ったテストでは、これも理由はわかりませんが、イルカの画像を見た被験者の脳波は、多の動物の画像を見た、あるいは何の画像も見なかった被験者より、情緒の安定度が非常に高くなっているというテスト結果があります。アニマルケアという言葉がありますが、イルカは、犬や猫など、多の動物と比べ、ダントツにケア度が高いと言われています。

       誤解しないでください。だからといって、イルカは人間のケアのために存在している訳ではないのです。

       ただ近年、イルカやクジラが人間と接触する機会が増えていることは事実です。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンをザトウクジラが救った話、網に絡まったイルカ、クジラを人間が網を切って助けた話、そのほかネットを検索すれば、たくさんの事例がこれでもかと言うほどヒットしてきます。

       

      「ドルフィンファーム」で配られている手作りの案内書の一部

       

       前置きがずいぶんと長くなってしまいました。

       さてと、この写真は、ドルフィンファームで、スイムコースに参加した人に配られる手作りの案内書の一部です。所属するイルカさんたちが、その性格を表す一言ともに紹介されています。僕の姪っ子がドルフィン・スイム(イルカと泳ぐプログラム)に参加し、もらってきたものです。それを、また僕が借り受けたという次第です。

       この紹介ページを使って、僕の実験がスタートしました。まだ見ぬイルカさんと思いを通じ合えるのかという実験です。まずターゲットとなる特定の一頭を選びます。選ぶ根拠はありません。若い頃、ミヒャエル・エンデという作家にのめり込んだことがあります。彼の作品の中でも特に好きだったのが「モモ」。そこで選んだのが「もも」というイルカです。写真の下には「性格:食いしん坊、頑張り屋」さんとあります。

      「もも」の写真を携帯に取り込み、ことあるごとに開いては、その「もも」の写真に心の中で語りかけました。「こんにちわ」にはじまり、自己紹介をしてみたり、「今度、会いに行きますので、よろしく」だったり、写真を開かなくても、「もも」と、ただ思ってみたり、そんな他愛もない繰り返しを2週間近くもやったでしょうか。

       そうする一方で、スイミングスクールの個人レッスンを申込み、イルカと自由自在に泳げるようになろうとしました。

       ……が、これは失敗でした。水に対する恐怖心が抜けず、身体が硬くなり、あげくは頭がガンガン痛みだす始末。ともかく浮いて前へ進むぐらいはできるようになりましたが、イルカさんと自由自在に泳ぎ回るなんて、夢のまた夢のことです。

       でも、めげてはいられません。泳げないイルカの学者さんだっているんだから……そう、自分に言い聞かせ、女房と二人、ドルフィンファームのスイムコースに予約を取った次第です。

       

       次回は、いよいよ「もも」との衝撃的な出会いのことや、「かえで」に助けられるという、忘れることのできないイルカさんたちとの体験を語ります。

       

      ももでーす!(みなみあわじ、じゃのひれの「ドルフィンファーム」にて)

       

      クジラ・イルカ紀行 vol.011 / 釧路沖のシャチ

      2018.05.04 Friday

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        右図は北海道釧路総合振興局商工労働観光課発行の小冊子「シャチが来る海」から転載

         

         新得へ行く途中のことです。私は、JR北海道の社内広報誌で、「さかまた組」が釧路沖のシャチ観測船に、はじめて一般市民の乗船を受け入れることを知りました。そこで大阪へ帰るなり、早速、受付の窓口になっているJTBと連絡を取り、スケジュールを検討し、11月5日の観測船に乗せていただくことになりました。

         こうして10月初めの新得行きに引き続き、11月4日、再度、北海道を訪れることになった次第です。もちろん、北のイルカさんのその後の様子も気になり、釧路からの帰りには新得共働学舎へ立ち寄るよう計画していました。

         さて、ここで話を進める前に、シャチ観測船ツアーを主催する「さかまた組」と、「釧路沖」の環境について少し勉強しておきましょう。

         右上の写真は、参加者全員に配られた「シャチが来る海〜くしろ沖の魅力〜」というA5判20ページの小冊子です。これが釧路沖の魅力と特異性について非常に分かりやすく説明してくれています。そこで、これによって釧路沖について予備知識を身につけておきましょう。

         毎年9月下旬から11月上旬にかけて、釧路沖にはたくさんの海洋生物が姿を見せます。というのは、釧路沖の海底は、沖合15キロメートルあたりから急激に深い谷のようになっています。これを釧路海底谷(くしろかいていこく)と言うそうです。最も深いところで、水深は5000メートルにも達すると言います。

         秋口になると、流れが変わった「寒流(親潮)」と「暖流(黒潮)」が、この海底谷でぶつかります。その結果、海水が湧き上がる湧昇流(ゆうしょうりゅう)が発生し、深い海底に生息していたプランクトンなどの豊富な栄養が、この湧昇流にのって海面近くまで昇ってくるというわけです。

         このプランクトンを餌とする小魚が集まり、小魚を餌とするイルカやクジラや海鳥が集まり、そして、イルカやクジラを餌とするシャチがやってくるという次第です。

         この時期、釧路沖は「食物連鎖」の一大舞台となるわけです。

         この釧路沖を中心に、海洋環境や生態系に関する研究成果を一般に普及し、自然の貴重さを伝えることを目的に「さかまた組」が結成されました。「さかまた」とは、漁師が使う「シャチ」の別名だそうです。そして、今回2015年秋、この目的達成の一環として、「さかまた組」が、釧路沖の海洋生物と生態系を調査する観測船に、釧路市民をはじめ一般の乗船希望者を募ったということです。

         

        JR釧路駅/日没時の釧路川とホテル「La Vista 釧路川」

         

         さて私ですが、乗船の前日、2015年11月4日PM4:00、スーパーおおぞら5号で釧路駅に到着しました。

         この日は、釧路港を見下ろすホテル「La Vista 釧路川」で一泊し、翌早朝の乗船に備えることにします。ここなら観測船が出船する港まで歩いて5分で行けるというわけです。

         ホテルでチェックインを済ませ、夕食を兼ねて、明日の集合場所である「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」を下見に出かけることにしました。MOOで夕食を済ませたあと、河畔に出て、釧路へと帰ってくる漁船を眺めて時を過ごそうというわけです。

         親爺が船乗りだった関係で、幼い頃から船に乗せられ、そのおかげでしょうか、船酔いというものを知りません。しかし、明日の海は荒れそうです。MOOで夕食をとっているとき、店のマスターと明日の天候について話しましたが、マスターも「明日は荒れそうだ」と同意見。最後には「船が出ればいいのだが……」と言葉を濁す始末です。

         てきめんホテルに帰るなり、JTBの担当者から電話が入りました。明日は欠航の可能性もある、船が出るとしても時間が遅れそうなので、明日の朝は連絡するまで、ホテルで待機してほしいということです。

         釧路まで来て、観測船にも乗れずに帰るなんて最悪です! 

         そう思う尻から、今度は、船が出ても、かなりの揺れが予想され、「これが初めての船酔い」なんてことにならなければいいが……そんな不安まで湧き上がってきます。ホテルのフロントで聞いても「酔い止め」は置いていないということ。仕方なく、夜の釧路の町に出かけ薬局を探す始末です。

         

        ホテルの部屋から見るフィッシャーマンズワーフMOO/乗船準備を済ませ待機する私

         

         そんなこんなで、いろいろとありましたが、翌朝、予定より約1時間遅れで船が出ることになりました。

         支度を済ませ、我ながら物々しい出で立ちと思いましたが、仕方がありません。ぎこちない足取りで集合場所へ向かいます。カメラを抱えた一般客やスタッフの人たちも既に集まっておられました。

         さかまた組の代表・笹森琴絵さんから乗船時の注意事項や、釧路沖の生物について説明があります。

         笹森さんは、室蘭市に住まいされ、さかまた組代表として、はたまた海洋生物調査員として、大学の非常勤講師をされたり、海洋生物の写真家として活躍しておられますが、かつては学校の教員をしておられたことがありました。それが交通事故が元で重い膵臓炎となり、教員生活を辞めざるを得なくなりました。そんなとき、室蘭沖のイルカの群れと遭遇し、以来、彼女の第二の人生がはじまったと言います。

         動物好きの笹森さん、これ以降、室蘭沖のイルカガイドとなり、さらに海洋生物調査や環境教育など、海の専門家の道を進むことになるのです。

         そうこうするうち、我々を釧路沖の海洋へと運んでくれる船が、知床を出船し釧路川河口へと入ってきました。

         

         

         

         いよいよ出船です。

         予想どおり、風が強く、揺れはかなりなものです。高速走行しているときはいいのですが、速度を緩めたり停船したときは、手すりにしがみついていないと立っていられないほどです。そんなときもクルーの若い女性が、何に動じることもなく船首に仁王立ちしているのを見ると、妙に安心感が湧いてきます。彼女が船首に立っているだけで安心感があり、彼女の存在自体が、この船そのものにさえ感じられます。船主の娘さんだと聞いていますが、実に頼もしい女性です。

         船首には彼女のほか、さかまた組のスタッフでしょうか、若い男性や女性が、長い竿の先にカメラを付け、これから現れる海洋生物の撮影の準備を進めています。

         船の司令塔となる2階の操舵室には船長のほか笹森さんが詰め、船内放送で現れた動物の解説をしてくれています。ただ船の進行に伴い移っていく景色に目をとられているのと、船の揺れに自分をなじませるのに気を取られ、せっかくの解説の声も、なかなか頭には入ってきませんが……。

         

         まず目についたのは海鳥です。僕にはカモメやアホウドリとしか分かりませんでしたが、このほかにも「クロアシアホウドリ」や「コアホウドリ」「ウミネコ」「ミツユビカモメ」などが、この航海で観測されていました。

         また荒れた海をものともせず、アザラシなのかオットセイなのか、愛嬌たっぷりにプカプカ浮かんでいる姿を見つけました。水族館で見るのとは違い、自然の中で、まるで見る人間を意識しているかのように愛嬌を振りまいてくれる姿は、一見の価値があります。

        https://1drv.ms/v/s!AilYHjP2WaAkgs4DpGraNVfwA5q-7A

         

         シャチの群が遠望されました! 船が群れを目指しスピードをあげます。

         シャッターを切る音、乗客の喚声、船全体が一つの思いに包まれたかのように、シャチの群にと集中していきます。

         笹森さんのアナウンスが船内に響きます。

         「普通は、こんなに簡単にシャチの群れを見られるとは思わないでください。一航海で、まったく逢えないこともありますし、遠くにブロー(潮吹き)しか見えないことだってあります。きょうはラッキーでした。」

         シャチのポッド(群れ)と遭遇したこと、この体験については言葉が役に立ちません。その時に撮った写真を並べておくことにします。

         

         

         

         

         

         

         シャチとの遭遇の中で、もっとも印象的だったのは、子どもを守るように泳ぐシャチの家族の姿でした。

         シャチは海のギャングのように言われています。たしかに、シャチのハンティングは、狡猾と言えるほどに巧みでチームプレーに長けています。子連れのクジラを狙い、親子を分離させた上で、子クジラの両サイドをかため、上からもう一匹のシャチがのしかかるようにして子クジラを窒息死させる、そんな様子をテレビで見たりすると、シャチが狡猾な悪者のように思われてしまいます。

         しかし反面、家族思いということでは、シャチの右に出る者はいないでしょう。クジラの仲間の中で、一夫一婦制で最後まで添い遂げるのはシャチだけです。シャチは、仲間の痛みを共有できる存在とも言われます。

         映画オルカ(1977)では、シャチを「本能で行動する獰猛な野生動物」ではなく、家族愛にあふれ、妻を人間に殺されたシャチが、その人間に復讐するという設定になっていました。

         またその後1993年に作られた「フリーウイリー」では、母親に捨てられた少年と、家族から引き離されたシャチが心を通わせるというストーリーになっていました。

         「フリーウイリー」映画化に当たって、主役のウイリーを演じたのはメキシコの水族館に所属する「ケイコ」というオスのシャチでしたが、映画が公開されるや、世界中の子どもたちから、「ケイコを海に返して!」という運動が起こりました。撮影終了後、狭い水槽の中で、皮膚病にかかり苦しむケイコの姿を、世界中の子どもたちが知ってしまったためです。

         といって、そのまま海に返しては死ぬしかありません。野生のイルカやシャチは水族館に連れてこられても、死んだエサは食べません。まず最初にするトレーニングは、人間があたえる死んだエサを食べられるようにすることです。こうして訓練されたイルカやシャチは、今度は自分でエサを採れなくなってしまいます。イルカやシャチは、水分をエサから採るため、エサを食べないと脱水症状になって死んでしまうのです。

         ケイコのために巨大なプールが用意され、ここで皮膚病を治療し、エサを自分で採れるようにして海へ返すのです。子どもたちの声が一頭のシャチを救うという奇跡が、今度は映画の中ではなく、実社会の中で起こりました。

         こうしてケイコは、世界で最も有名なシャチになりました。ただ結末を言うと、ケイコは野生の群れに入れず、何度も人間のもとに帰ってきました。それでも、あきらめず野生へ戻そうとする人たち。結局、ケイコは2003年12月12日、急性肺炎にかかり、野生にも戻れず、人間のもとへもかえってこれず、ノルウェーの海で命を落としました。ケイコの遺骸は海岸に引き上げられて埋められ、ノルウェーの子供たちの手で葬られたと聞いています。

         こんなことを考えると、イルカやシャチを水族館やレジャー施設に置くこと自体、人間の奢りのように感じてしまいます。かといって一度人間のもとに置いたイルカやシャチを、野性に返れないと分かっていながら無責任に海へ返してしまうのもどうかと思います。

         人間は「食物連鎖」の輪から飛び出し、今や自然の管理者になった気でいます。でも人間の関わった自然は、いつか歪みを見せ、崩壊へと転がっていくのではないでしょうか。

         本当に救うべきは、自然や野生動物ではなく、文明という袋小路にはまり込んだ自分たちではないでしょうか?

         

         

         野生のシャチとの遭遇、その感動の後に、自然に対しての後ろめたさが襲ってきました。

         新得の共働学舎へと向かう車中、そんなことを考えており、列車を降りてからも、共働学舎へ向かう足どりも重くなりがちです。

         途中、北のイルカさんに到着した旨、電話を入れました。

         まもなくして学舎の入り口あたりにきた時です。向こうから北のイルカさんが、笑顔いっぱいで走ってきます。そして差し出されたクッキー。自分で焼いたのだと言います。

         僕は焼き菓子があまり好きではないのですが、あのクッキーの美味しかったこと。

         イルカさんの笑顔とクッキーの味が忘れられません。

         

         次回は、僕が勝手に友人と決めてしまった、レジャー施設(南あわじ・じゃのひれ)のイルカさんたち。かえでちゃん、さくらちゃん、それにももちゃんを紹介します。

        クジラ・イルカ紀行 vol.010 / 新得から釧路へ

        2018.04.23 Monday

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          北海道にある新得共働学舎とその農場

           

          イルカやクジラの話から少し外れますが、まずは僕が、北海道の新得共働学舎へ出向くようになった経緯から聞いてください。

          今から3年前のことになりますが、僕は、仕事の事務所を、大阪からもとの古巣である奈良県の広陵町へ移すようになりました。広陵町といえば、靴下の町ということ、それに日本で古墳が一番多い市町村ということで有名です。

          ますますクジラの話から遠ざかってきましたが、その広陵町で、「編集工房DEP」兼「自遊空間ゼロ」というフリースペースを運営するようになったのです。このフリースペースというのは、子どもが自由に時間を過ごせる、子どもと親が、ともに陶芸をしたり、お話を読み聞かせたり、ともに遊んだりと、親と子が時間を共有できる、そんな場所であります。サラリーマン時代からの長年の夢である、子どもが自由に創作活動が出来る「子ども工房」をつくりたいと、その思いが一歩を踏み出した、大げさに言えばそういう場所でもあります。

          まず、活動のシンボルになるような、子どものための本作りを考えました。何を作ろうかと考えたとき、思い浮かんだのが、北海道の「寧楽(ねいらく)共働学舎」の子どもたちのことです。

          サラリーマン時代、ボスが自由学園の理事を兼務していた関係で、これから紹介する北海道の共働学舎ともつながりがありました。自由学園とは、「真の自由人を育てる」ことを目的に、女性思想家、羽仁もと子さんと羽仁吉一さん夫婦によって1921年に創設されたキリスト教系の学校です。その関係で、僕も在職中、社員旅行で北海道を訪れたおり(これはボスが企んだことですが)、この寧楽共働学舎に滞在することになりました。

          その滞在中の日曜日のことです。

          当時、この寧楽共働学舎には、不登校の子どもたちが10人近くおり、その子どもたちと日曜日を利用して、留萌駅へSLすずらん号を見学に行くことになったのです。

            留萌線を走る「SLすずらん号」と19年前の私(寧楽で)

          当時、NHKの朝の連続ドラマ「すずらん」の放映が終了したばかりで、ドラマに登場した蒸気機関車「すずらん号」が留萌線で不定期運行されるようになっていました。これを見学しようというのです。寧楽から留萌駅までは車で約40分の道のり。学舎のマイクロバスに子どもたちと乗り込み、ピクニック気分で、ワイワイ言いながら留萌駅を目しました。

          子どもたちといっても、小学生から中学生、高校生ぐらいの幅広い子どもたちが一台のマイクロバスに乗り合わせています。中には口もとにピアスをした、いかにも不良然とした男の子も混じっていました。

          車中では、年長の女の子がリーダー役をつとめていましたが、雑談も、いつしか身の上話的になり、僕にも何か話すように促してきます。

          僕としては、あまり話したくないことでしたが、若い頃、映画を志し、PR映画やコマーシャルフィルムの製作進行の仕事をしていたことを話しました。そして、なぜ映画の仕事を辞め、志を捨てたのかも話さざるを得なくなりました。才能がないからとか――そんな格好の良いものではありません。北軽井沢の長期ロケで、突然、訳の分からない不安感に襲われ、撮影現場から蒸発してしまったのです。取り返しのつかないことをしてしまい、その後、プロダクションに帰ったものの、みんなの目がいたたまれず、プロダクションを辞め、大学へ入学することになりました。当時は、自分のしたことの原因がつかめておらず、「誰でも出来ることが、なぜ、自分に出来ないのか」、そんな自問自答を繰り返している毎日でした。

          この話をし終えた途端、子どもたちみんなが「話したくないだろうに、話してくれてありがとう」と泣いてくれるのです。こんなにやさしい子どもたちがいるのかと思いました。ピアスの男の子まで、僕を慰めてくれる始末です。そうこうするうち、バスは留萌駅に着きましたが、すずらん号は発車した後でした。

          みんなのがっかりした顔――。

          突然、運転手をしてくれている木工工芸のお兄さんが、車内のみんなのほうを振り向くや、「追いかけるぞ」の一声。その号令一下、次の停車駅を目指して、マイクロバスが発進します。そして、途中、留萌川に沿って走るすずらん号を見つけたときは、車中が喚声に湧きたちました。

          子どものための本を作りたい、そう思ったとき、まず思い浮かんだのが、そんな寧楽共働学舎の子どもたちの喚声でした。

          とりあえず寧楽共働学舎に電話しましたが、当然のことながら、あの頃の子どもたちは、みんな元気になって巣立っていったということです。今は、在籍している子どもたちもいないとのことです。そこで、「一度、新得共働学舎へ行ってみては」と、提案を受けました。

          早速、新得へも電話を入れますが、ここも似たような状況でした。

          ところがです。数日して、新得共働学舎から連絡が入りました。

          私が電話がした後、札幌の女子中学生から電話が入り、共働学舎に置いてほしいというのです。

          その子が、今、新得共働学舎におり、僕の話をしたところ、ぜひ会いたいと言っているという次第です。

          翌週、早速、ジェットスターで新千歳空港へ飛び、南千歳から釧路行き「スーパーおおぞら」で新得を目指しました。その列車の中で、車内誌「The JR Hokkaido」に目が行きました。

          そこには、釧路で、「しゃちの観測船」に、はじめて一般の乗船希望者を受け入れるという記事が出ておりました。早速、電話番号をメモした次第です。

           

          南千歳駅でスーパーおおぞらに乗り新得を目指す/右上の写真は、トマムの駅を過ぎた辺りの景色

           

          シャチの話はひとまず置くとして、新得共働学舎に着くや、オーナーの奥さんが出迎えてくれ、

          「桐生さんから電話があって、すぐ、あの娘(こ)から連絡があったんです。不思議なものですねえ。今、呼んできますから待っててくださいね。」

           

          やがて事務室の一角で、彼女と出会いました。

          彼女の提案で、翌朝、彼女の好きな牧場の散歩を一緒にすることになり、そこで話したいということになったのです。その日は、共働学舎のゲストルームに泊めてもらい、翌早朝6時、朝食前に二人で牧場が見渡される丘へと散歩することになりました。

           

          この朝、「どうして自分は学校へ行けないのか」「どうしてみんなとうまくやっていけないのか」等々、彼女が抱える疑問の数々を聞かせてもらいましたが、最後に、「ほかにも、いろんな疑問を抱えている子どもたちがいるのかなあ、いたら話してみたい、会ってみたい」――彼女のその問いかけから、自遊空間ゼロの出版第一作「僕のナゼ、私のナゼ」が生まれることになりました。

          北海道から帰るなり、早速、協力してくれる子どもたちを探しました。結局、北海道の彼女以外に、岐阜大垣の子どもが3人、大阪の子どもが3人、あわせて7人の子どもが協力してくれ、自分の中に抱えている「ナゼ」と向かいあってくれることになりました。

          こうして出てきた「ナゼ」は、子どもたちの「本音」が詰まっており、想像以上にシリアスなものでした。このまま公開するより、イルカの子どもたちに置き換えたストーリーを作ろうということになりました。

          これは、僕のクジラ好きを知った、北海道の女の子が提案してくれたもので、以来、彼女から来る手紙には、必ず最後に「北のイルカより」と書かれてありました。

          以下は、彼女を主人公にした「僕のナゼ、私のナゼ」の結末部分です。

              「僕のナゼ、私のナゼ」、表紙と本文から

          目覚めたのは病院の一室だった。
          そこは、先ほどまでの透明感のある真っ青な世界とはちがう、まっ白な世界だった。
          窓から入りこむ朝のまぶしげな光が、普段はもっとくすんでいるだろう白い病室を輝やかせていた。
          おきあがろうとしたかえでは、腕に小さな痛みを感じた。
          左腕に注射針が固定されていた。
          「目を覚まされました。」
          耳もとで看護婦の声がひびき、見わたすと、ぼんやりと、父と母の心配げな顔が浮かびあがってきた。

          かえでは、いつからか中学校へ行かなくなった。

          というより、行けなくなったというのが本当のところだ。
          みんなが自分のことをどう思っているのか、そう思うと学校へ行くのが不安でしかたなくなってきた。
          勉強は嫌いではない。むしろ好きなほう。

          本の虫で、教科書にしろ参考書にしろ、新しい知識、新しい世界にみちびいてくれる本の世界が、かえでには学校だった。
          そんなわけで学校に行かなくても、成績は、学年で常に十番以内に入っていた。
          お母さんからも、進学のことを言われると、学校へ行かないことも不安の種になり、試験の時だけは学校へ行った。
          それがまた、みんなから白い目で見られる原因になった。
          「あの子、普通じゃないのよ」
          「みんなのことバカにしてるのよ」
          「ちょっと成績がいいからって、私たちのこと無視ししている」
          「試験の時だけ出てきて、格好つけすぎよ」
          「私たち、頭が悪いって言われてるみたいじゃない!」
          「みんなと一緒にやれないネクラ少女よ!」
          みんなの思いが聞こえてくるようで、気になりだすと、ますます学校へ行けなくなった。
          でも家にいると、母とぶつかることが多くなった。
          いい子であろうと必死しになったが、それがまた苦しくて、だれにも迷惑にならずにいたい。

          いっそ死んでしまおうと思い、自殺も考えたが、父や母を悲しませるし……
          あれやこれや考えるうち、ご飯が食べられなくなった。
          食事がとれない状態が続くと、不思議に頭がさえきって、なんでも見通せるような感覚になってくる。
          そんななか、自分を知る人が誰もいない世界に身を置きたいと思うようになり、インターネットで「不登校の中学生でも入れるような住みこみの施設」を探すようになった。

          記憶はそこまでだ。
          かえでは摂食障害でたおれ、救急車で病院へ運ばれた。
          かえでは思った。
          (イルカさんとの体験は、私の空想が生みだした世界なんだろうか?)

          ……………………

          「僕のナゼ、私のナゼ」制作中も、スーパー大空の車中で知った釧路のシャチ観測船のことが忘れられず、新得へ彼女の様子を見に行きたいということもあって、11月初旬、「新得」から更に先の「釧路」を目指すことになったという次第です。

           

          「北のイルカさん」との出会いが、「北のオルカさん」ファミリーと出会うきっかけとなりました。

          次回は、いよいよ釧路港発「シャチ観測船」に乗り込みます。

           

          新得共働学舎の朝/右上の写真はゲストルーム内部

          クジラ・イルカ紀行 vol.009 / 天草のミナミバンドーイルカ

          2018.04.09 Monday

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            沿岸部を泳ぐミナミバンドーイルカ
            天草通詞島沿岸部を泳ぐミナミバンドーイルカ

             

            私たちが普通イルカと言って、水族館やレジャー施設で出会う種類はバンドーイルカが圧倒的に多いのです。というのも、バンドーイルカが、もっとも頭が良く人にも良く慣れる性質があると言われているからです。一頃、映画「ザ・コーブ」が日本でも公開され、これによって和歌山県太地のイルカ追い込み漁が問題になりましたが、その中で、入江に追い込まれたイルカを、水族館やレジャー施設の学芸員の方が選んで買い付けていくシーンがありました。 これは何を選んでいるかというと、バンドーイルカのメスを選んでいるのです。これもバンドーイルカ、特にメスのバンドーイルカが、頭が良く、人にも良く慣れ、調教しやすいと言われているためです。

            イルカブームの火付け役となったアメリカのテレビドラマ「わんぱくフリッパー」(1966年〜1968年にかけて放映)の主人公もバンドーイルカでした。

            このようにバンドーイルカは、我々にもっともなじみの深いイルカなのですが、では、今ここで取り上げているミナミバンドーイルカとはどう違うのでしょうか?

            前回でも触れましたように、2000年までは、ミナミバンドーイルカもバンドーイルカの亜種と思われていました。それほどよく似ているわけで、我々素人には見分けがつきませんし、どちらでも良いようにも思えてしまいます。

            でも、もうちょっと頑張って、その違いを勉強しておきましょう。

            まず大きさですが、バンドーイルカは成長して約4m前後になると言われていますが、ミナミバンドーイルカは約2.5m前後、つまりバンドーイルカよりも小ぶりな訳です。

            ついで吻(ふん)――これは動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指して言う言葉ですが――これが、どちらも突き出しているのですが、バンドーイルカのほうが丸っぽくてぽっちゃりしている感じがあります。これに対しミナミバンドーイルカは、ほっそり長く突き出しているような感じなのです。

            ほかに外面的な特徴として、ミナミバンドーイルカは、成長すると腹部にまだら模様ができると言われています。これは僕も見たことがないし、船からのウォッチングでは確認することが難しいと思います。ただ背びれが、バンドーイルカが丸みを帯びた三角形なのに対し、ミナミバンドーイルカはとがった三角形に近いと言われています。うーん、これも個体差があって、実際には背びれだけで判断は難しいと思います。総合的に判断するしかないと思います。

            さて最後に、これが最も重要な違いなのですが、住む場所が違うのです。

            バンドーイルカが沖合を長距離移動しているのに対し、ミナミバンドーイルカは、沿岸部に群れをなして住み着く性質があります。

            日本での分布は、伊豆諸島、なかでも御蔵島の野生イルカ、それに石川県の七尾湾、そして今回行く天草の五和町通詞島の沿岸が最も有名ということになるでしょうか。

             

            産交バス旧二江小学校前を海のほうへ下っていくとイルカウォッチング発着所に着く。

             

             (ミナミバンドーイルカの群れが沿岸部にいることがよく分かる)

            さて、今回は熊本から天草までを長距離バスで向かうことにしました。海辺の景色を楽しみながら約2時間半、バスはやがて、終点の本渡バスセンターへと到着します。ここからは富岡港行き路線バスに乗り換えますが、本数が少ないので事前に調べておいた方がよいでしょう。無事バスに乗れましたら「旧二江小学校前」で下車し、ここから海を目指して下っていくと約5分でイルカウォッチング発着所に着きます。

            発着所には、「平成27年度イルカの絵コンクール」の入賞作品が展示されていました。幼稚園、保育園の子供たちが描いたイルカの絵ばかり。ウォチング船が出るまでの待ち時間、一枚一枚の絵を眺めていますと、天草の「イルカ」と「人」の関係が端的に表れているように感じました。

            イルカ(自然)と獲物を取り合うのでなく、イルカ(自然)と共に生きている、そんな感じを受けるのです。

            そうこうするうち、もう一人、ウォッチング船に乗る若い女性が発着所の待合に入ってきました。さわやかな感じの女性で、見れば、モータードライブのすごいカメラを抱えています。

            受付の男性に紹介され、彼女が長崎大学水産学部の研究室の学生さんで、定期的にミナミバンドーイルカを観察しに来られているのだと知りました。

            出発の時間です。

            乗船する船は、入江一徳船長の操船する「天神丸」。ほかにも「大潮丸」「久栄丸」の2船がともに出船することになっています。乗船客を観察していますと、何組みかの親子連れのほかに、車椅子の障害者の方もおられ、同じ車椅子の方でも、ご老人の方もおられるようで、クルーの方たちが車椅子の積み込みに精を出しておられました。

             

            (入江船長と天神丸/出船準備のクルーたち)

             

            いよいよ出船となり、船長や長崎大学の学生さんと話すうち、早くもイルカの群れと出会いました。

            いくつかの群れが次々と現れ、船の舳先や舷側をブロー(潮吹き)しながら泳ぎ回り、たちまち海を覆っていきます。これがバンドーイルカのウォッチングや、クジラのウォッチング、はたまたシャチ(オルカ)のウォッチングであれば、こう簡単にはいきません。まるで出会えないときもありますし、出会えても、遠くからブローが見えただけというときもあります。沿岸部を拠点に群れで生息するミナミバンドーイルカならではの壮観です。

            石川の能登島では、一つの群れでしたが、ここでは無数の群れが生息しているため、ウォッチングでイルカと遭遇できる確率は、ほぼ100%と言っても過言ではありません。

            僕の横手では、モータードライブのカメラが、シャッターを押すたび「ウォーン、ウォーン」と、小気味よい音を立て続け、僕も負けじとHDムービーカメラを回します。

             

            出船するや、たちまち現れたミナミバンドーイルカの群れ

             

            もう話を聞いている間もありません。いったん海が静かになったと思っても、すぐ横に「ブオッ」という音とともにイルカが群れで顔を出す。船の先頭を行ったかと思うと、船の下をくぐり横切っていく。子供たちのはしゃぐ声。ブローの音、イルカの声。ウォッチング船も含め、周囲一帯が、一つの興奮状態に包まれている、そんな感じです。イルカたちも、そんな雰囲気を楽しんでいるかのようで、人とイルカと海が、まるで一つになったような時間が連続していきます。

             

             

             

             

            そろそろ話をまとめなければなりません。

            そこで、NHKの番組「ニッポンの里山/イルカと生きる里の海」(熊本県天草市)に話を戻しましょう。そこには天草の漁師たちの思いが隠されていました。彼らは海を豊かにするため、一日の漁獲量を制限し、さらに手の空いた時間には海へ潜り海藻を植えて回っていたのです。

            海が豊かになれば、イルカたちも住み着く。漁師さんたちは言います。

            「イルカが泳ぎまわる海は、海が豊かになってきた証し」だと。

             

            前々回、壱岐のイルカ事件を紹介しました。そこで言われるように、イルカたちが漁師さんたちの獲物を横取りする、いわゆる「食害」になっていたことは間違いありません。しかし、イルカが来なくなっても、漁獲量は回復せず減少する一方だと聞いています。イルカの食害は、表面的な問題で、実は海が豊かでなくなってきている、それが根本的な原因だったように感じられます。

            海の豊かさを取り戻そうとする天草の漁師の人たち、同様に1000キロ離れた能登島の漁師の人たちも、糸もずくの採集を通して、海藻を大事にすることで海の豊かさを守ろうとしています。

            海藻が茂ることにより、小さな海の生きものが集まり、それをエサとするイルカたちも集まってくる。

            海を豊かにしようとする能登島の漁師の人たちの思いが、はるか南のイルカたちを呼び寄せたのではないでしょうか。能登島ではミナミバンドーイルカの新たなポッド(群れ)が成長しつつあります。それと平行するように、能登島の海も豊かになっていく。「やさしい思いが豊かな海を育てる」、その優しさに導かれ、南のイルカが北の海へとやってきた、そんな印象を、天草通詞島と石川能登島の取材で感じた次第です。

             

            天草エアラインの新しいプロペラ機 MIZOKA ATR2-600

             

            行きはバスでしたが、帰途は天草空港から、イルカさんの飛行機に乗って天草を離れることにいたします。

            次回は、能登島よりずっとずっと北へ。北海道は釧路の海で、シャチ(オルカ)探査船に皆さんを招待することにいたします。

            クジラ・イルカ紀行 vol.008 / 能登島のミナミバンドーイルカ

            2018.04.04 Wednesday

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                   NHK「ニッポンの里山 イルカが暮らす里の入江」

              NHKの朝の番組に全国各地の里山を紹介する「ニッポンの里山」という長寿番組があります。そのシリーズの中で「海の里山」として紹介された二つの場所、それが熊本県の天草と石川県の能登島です。

              2013年 1月28日に放送された「イルカと生きる里の海(熊本県天草市)と、2014年9月29日放送された「イルカが暮らす里の入り江」(石川県七尾市)が、それです。

              そして、この二つの地域をつないでいるのが、天草のミナミバンドウイルカなのです。

               

              ところで、石川県の能登島にイルカが住み着いていると言えば、本来は「カマイルカ」のことだと思ってしまいます。ところが、この北の海に住み着いているのは意外なことに「ミナミバンドーイルカ」の群れなのです。

              ミナミバンドーイルカについては、従来、バンドーイルカの亜種であるとされていましたが、2000年の国際捕鯨委員会 (IWC) 科学委員会により別の種とされました。

              そして、その生息地の北限が、石川県七尾市能登島の七尾湾ということになるそうです。

              さらに驚くことには、この七尾湾のイルカ、もとは天草沖合に2000頭以上のミナミバンドーイルカが暮らしていますが、その中の2頭のつがいが移り住んだものだといわれています。

              ちなみに天草市五和町から七尾市能登島まで、およそ1000キロメートル。その距離を2頭のイルカ夫婦が北上し、能登島で新たな群れの始祖となったという次第です。

              大克丸と大橋克礼船長(石川県七尾市能登島)

               

              上の写真は、僕が能登島に、南バンドーイルカの取材に訪れた際、ウォッチングの船を出してくれた大橋克礼船長と、その持ち舟・大克丸です。大橋船長は、もともとはこの能登島で郵便局に勤めておられました。それが定年退職後、退職金で、この大克丸を手に入れ、イルカのウォッチングと釣りイカダのレンタルを生業とするようになりました。大橋船長は、ミナミバンドーイルカが、この七尾湾に住み着くようになってこのかた、イルカ夫婦が一族をなしていく変遷を垣間見てこられた方なのです。

              その大橋船長に、「本当に天草のバンドーイルカなのですか」と尋ねてみました。

              船長が言うには、七尾湾にイルカが住み着くようになって騒がれ出した頃、長崎大学の水産学部の先生が調べに来られ、間違いなく天草のイルカだと断定したというのです。というのも、長崎大学水産学部では、長年、天草のミナミバンドーイルカの個体識別をおこなっており、背びれや尾びれの形、胴体の傷や特徴から、天草のイルカは、ほぼ特定できるようになっているのだと言うことです。

               

              沖合でなく沿岸部まできて遊ぶ南バンドーイルカの群れ

               

              さて、このイルカのことで、「まだ面白いことが……」というか、わからないことがあります。

              それはイルカ社会がメス社会で、一夫一婦制ではないということです。クジラの仲間で、一夫一婦制なのはシャチだけだと言われています。シャチは夫婦の絆が強く死ぬまでともに暮らすと言われています。これに反しイルカはオスは種付けをするだけで群れには残りません。そうして生まれてくる子も、メスならグループに残りますが、オスの子は成長すると群れを離れていきます。こうしてイルカグループは、大お婆さんをリーダーとして、その娘、そのまた娘とが連なりグループを形成していくというわけです。グループに子供が生まれると、メス同士が助け合って育てていきます。もし子育て中の親子イルカを見ることがあっても、二頭のイルカは夫婦でなく、お母さんイルカとそれを助けるおばさんイルカというわけです。

              それが意外なことに、天草から遠く離れ、石川県は能登島の七尾湾まで旅をしたイルカ夫婦なのですが、大橋船長が言うに、今も夫婦で、オスはグループに残っていると言うのです。七尾湾で新たに生まれた子供たちは、ルール通りオスの子は群れを離れていっているようです。ところが、群れの始原の二頭は、今もオスがグループにとどまっていると言うことです。

              ことの真偽を確かめるべく、長崎大学水産学部の天野教授へ電話を入れたところ、大橋船長の話は間違いなさそうです。不思議に思い「どうしてこんなことが起こるんですか? イルカ社会はメス社会で、オスは離れていくと、どのイルカの解説書にも書かれているんですが……」

              「そんなことを言っても、現にあるんやからしょうがない!」

              これは当事者である能登島のミナミバンドーイルカ夫婦に訊いてみるより仕方がなさそうです。

              イルカが話せたら、いったい、どんなロマンスを語ってくれるのでしょう?


              さて次回は、この七尾湾のイルカ夫婦のふるさと「天草」を紹介させていただきます。

              「石川」と「熊本」、1000キロ離れた北と南の二つの海域には、いったい、どのような共通点があるのでしょうか? 人間と自然、その関係に新たな視点を見つけることが出来るのかも知れません。

               

              クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」

              2018.03.07 Wednesday

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                デクスター氏が壱岐に滞在中、宿泊した「ふくや荘」

                 

                 デクスター・ロンドン・ケイトさんについては、グリーンピースの運動家ということ以外、あまり分かっていません。

                 壱岐イルカ事件当時(1980年)は36才と言いますから、生きておられれば、今年で74才になられるのでしょうが、事件後、ダイビングの事故で亡くなられたと聞いています。

                 ケイトさんが最後に壱岐へ来られたときは、奥さん子供連れで、壱岐の「ふくや荘」に泊まられたようです。僕も、壱岐の辰の島取材のおり、辰の島への渡船や遊覧船のガイドをしておられるMさんから、ケイトさんが泊まられたのが「ふくや荘」だということを教えていただきました。

                 辰の島取材の後、その足でふくや荘を訪問させていただいたのですが、あいにく、この日は島をあげての運動会の日、旅館はもぬけのカラという状態。近所の方が見かねて「呼んできてあげましょうか?」と、親切に声をかけていただいたのですが、せっかくのお孫さんの運動会を邪魔する訳にもいかずお断りした次第です。

                 

                壱岐から辰の島への渡船場/観光船「KATSUMOTO」/船長(上)とガイドのMさん

                 

                 ところで、辰の島取材に当たっては、壱岐市役所観光課を通して「当時の模様を知る人に」ということで取材の申込みをしていました。取材当日は、今は勝本町漁港で観光船の船長をしておられる方が話してくださることになっていたのですが、やはりお孫さんの運動会ということで、辰の島へ渡る船が出るまでの時間、大急ぎで次のようなことを話してくれました。

                「イルカを追い込んだのは昭和52年と53年のことで、2000頭ちかくを辰の島海水浴場に追い込んで網で囲ったんですよ。それを聞いた愛護団体のケイトという人が夜中に網を切って、約300頭ほどを逃がし、それが裁判沙汰になったんですよね。

                 でも、これが爆発したのは一日や二日のことではないんですよ。何年も何年もかかって、あげくの果ての爆発なんですよ。

                 ここ勝本はイカやブリを獲って生活しておったんですよ。それをイルカが食べに来るんですよね。だから何年も何年も、どうしたらよいか、どうしたらよいかと悩んだあげく、仕方なく、昭和52年と昭和53年に追い込みに踏み切ったわけです。

                 殺生は、しとうなかとですもん、どうしても生活がかかっとりますもんね。

                 イカ漁というのは、油代が一日何万もかかるんですよ。イルカは頭が良いけん、集魚灯を焚いて、高い燃料代つこうて、イカが寄ってきたと思う時分にやってくるですもんね。そうなると、その日はまるまる赤字――それが一年や二年やないんです。何年も何年も続いてきたとですよ。悩んだあげくに殺すことになったとです。」

                 ――――――――

                「お客さん、辰の島へ渡る船が出るけん……」

                 女性の受付けの方が、船の出航を知らせに来てくれた。このあとは、船のガイドをしているMさんという男性が、船長に引き続き、当時の話や案内をしてくれることになった。

                 

                辰の島へは、壱岐の勝本漁港を出港して10分あまりで到着。

                 

                 イルカの大量屠殺で問題となった壹岐の無人島、辰の島へ到着です。

                 船長から話を引き継ぎ、辰の島を案内してくれるのは遊覧船でガイドをするMさん。
                 Mさんは、事件当時は中学生で、イルカの屠殺にアルバイトとして駆り出された一人です。今から40年近く前の話ですが、このアルバイト、時給800円の高額バイトだったそうです。

                 そのMさんの言うには、

                「浜辺に並べられたイルカが涙流すんよ。」

                 さらに聞くと、涙を流すだけでなく、声を上げて泣くのだともいいます。

                「叫ぶような、助けを求めているような、あの声を聞くと切のうてたまらん……」

                 

                事件現場で、当時のことをつらそうに話してくれるMさん

                 

                 Mさんの話では、今もときどき沖から2〜3マイルの所にイルカの群れがあらわれるときがあるそうです。

                「そのときはどうするのですか」と聞いてみると、「爆弾で追い払うんよ! 殺すんやないよ、追っ払うんじゃ」との答えが返ってきました。

                 あとで調べたところでは、これは「爆弾」ではなく「爆竹」で追っ払っているということらしいです。

                 このあと、迎えの船は、辰の島周辺の蒼く澄み切った海を遊覧し、勝本漁港へと帰ることとなりました。

                 

                 

                 

                 さて、辰の島の取材を終えるに当たって、最後に、デクスター・ケイトさんの人となりを「ふくや荘」のご主人や奥さんの証言を紹介しておきたいと思います。僕自身は、ふくや荘の方々とは、ついにお会いすることができませんでしたが、川端裕人さんの著書「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」(2010年刊)から引用させていただきます。

                 デクスター・ケイトはひょろりとした長身の白人で、髪を後ろに束ねたヒッピー風の風貌だった。物腰が柔らかく優しい目をしていた。肉食をきらい、魚を喜んで食べた。
                「動物好きで、穏やかな人だった。子どもにも人気があった。息子ともよく遊んでくれた」
                 ケイトの最後の壱岐訪問の際、例の事件が起こるまでの一週間、彼は毎日何をするでもなく過ごしていた。つれづれなるままに、近所の子どもたちとよく遊んだ。イルカが出てくる映画を見せてくれて、子どもたちが喜んだり、宿の主人もおばさんも、動物が好きでわざわざここまでやってきた人として、好意すら抱いていたという。
                 ある朝、漁協から電話がかかってきた。
                「そっちのガイジンさんどうなってる。いるか?」と聞かれ、
                「ああ、いるよ」と答えた。朝食前の時間である。当然、いると思ったのだという。
                 ところが部屋を訪ねてみると、奥さんと子どもしかいない。言葉が通じないから分からないが、奥さんもなにか慌てている。そうこうするうちに、刑事がやってくるやら、漁協の幹部がやってくるやらで、大変なことになった。
                 前夜のうちにケイトは単身、辰ノ島に渡ってイルカの囲い網を切ってしまったというのだ。

                 ケイトは、今までの努力がすべて無駄だったと悟りました。

                 後は実力行使あるのみ。ケイトは、せめて今囲い込まれているイルカだけでも救おうと、皆が寝静まるのを待ってゴムボートで辰の島を目指したのです。

                 ケイトは、無事、囲い込みの網は切ったものの、折からの春の嵐に遭遇しゴムボートでは勝本へ戻れなくなってしまいました。そこでケイトは、網を切り、イルカたちを逃がすだけでなく、今度は浜にあげられたイルカたちを、一頭一頭引きずり、海へ戻す作業を始めたのです。

                 夜が明けて、イルカの処理作業に戻ってきた漁師たちは、網を切り、浜のイルカを引きずるようにして海へ戻しているケイトを見つけたのでした。

                 ケイトは「威力業務妨害」の罪で逮捕され、これより6回にわたって「動物の権利」が法廷で論議されることになりました。しかし、ケイトの思いは無視され、結局、ケイトの国外追放で、壱岐イルカ事件は幕を閉じたのです。

                 後日談ですが、漁獲量減少の張本人とされたイルカも、この海域には来なくなったのですが、それでも漁獲量が回復することはありませんでした。イルカの食害があったには違いありませんが、それ以上に乱獲による資源の枯渇が、問題の根本にあったようです。

                 

                 次回は、この問題に別の取り組みをする「天草」に渡り、ミナミバンドーイルカと人間の関わりを取材します。

                 さらに北の海を目指したミナミバンドーイルカのカップルを追って、石川県能登島へと向かいます。

                 

                天草のミナミバンドーイルカ

                クジラ・イルカ紀行 vol.006 / 壱岐・辰の島「イルカ受難」

                2018.03.06 Tuesday

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                   動物に育てられたり、動物と一緒に暮らしたりした人間の子供の話をよく耳にします。実話だったり、お話しだったりしますが、そのいずれもが猿だったり、オオカミだったり、ヒョウだったりと陸上のほ乳類に限られています。変わったところではニワトリ小屋に閉じ込められ、ニワトリと一緒に育った子供の話が紹介されたりもしました。しかし、海洋生物となるとなかなか難しいものがあります。ザトウクジラやイルカは「母性愛」が人間以上に強い動物だと言われています。以前にも紹介しましたように、子クジラをおとりに母クジラを仕留めるという捕鯨の方法があるくらいで、母親クジラは自分の生命が危険にさらされても、決して子供のそばを離れようとしません。母性愛ではありませんが、ザトウクジラは、危険に陥った違った種類の生きものさえ助けようとします。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンを、ザトウクジラが助けた話。シャチに狙われたコククジラの子供を、ザトウクジラが助けた話。シャチに襲われたアザラシをザトウクジラが助け、胸びれに乗せて海岸まで運んだ話。

                   しかし、如何に同じ「ほ乳類」とはいえ、水中で暮らす彼らが人間の子供を育てられるはずはありません。

                  「イルカは人間の赤ちゃんにおっぱいをあげられるか?」

                   いま書こうとしている「石鏡ものがたり」では、刃刺しの銑吉が、自ら定めた禁を破り、子クジラをおとりに母親クジラを仕留めます。その直後に起こった宝永地震と大津波によって石鏡(いじか)の浦は壊滅しますが、母親クジラを殺した後悔に苛まれていた刃刺しの銑吉には、この地震も、津波も、自分の過ちにあたえられた罰のように感じてしまいます。その矢先に子供をかばって死んだ母親の遺がいを見つけてしまうのです。津波で崩壊した浦で、自分には育てられないと分かっていながら、銑吉は、母親の遺がいが発する思いに呼び止められ、その思いに背けず、子供を拾い上げてしまいます。自分が殺した母クジラに、この子どもを託されたように感じたからなのです。

                   乳児を連れ、小舟で石鏡の浦を離れる銑吉。小舟の上で腹をすかせ泣き叫ぶ子供。

                   その声に惹かれるようにしてイルカの母親があらわれ小舟の周りを回り出します。

                   

                  鳥羽水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景

                   

                   イルカは海で暮らすほ乳類です。したがって、えら呼吸でなく、肺呼吸をするわけで、酸素の取り入れ口である鼻が頭の上に着いています。

                   イルカは水中で出産しますが、子供を産むと、すぐに、その子を下から持ち上げ海面へ押し上げます。呼吸することを教えるのです。授乳は水の中です。左上の写真は、和歌山マリンランドのバンドーイルカさんに、おなかを見せてもらったときのものです。下腹のあたりに中央に生殖腺があり性器が納められています。メスの場合は、その左右横手に乳腺があり、おっぱいが納められています。速く泳ぐため、邪魔なものはみんな内部に納められています。

                   子どもにおっぱいを飲ませるときは、子どもが舌先を丸め、お母さんイルカの先ほどの溝に突っ込み、おっぱいを、その舌先にとらえます。するとお母さんイルカは、ミルクを搾るように押しだすという寸法です。

                   下の写真や右横の写真は、鳥羽の水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景です。泳ぎながら子どもイルカが上手におっぱいを飲んでいます。そのとき、勢いよく出たおっぱいが口からあふれ、白いもやのように水中を漂っています。

                   さて銑吉と母性愛の強いお母さんイルカが、いかにしてお腹をすかせた人間の赤ちゃんにおっぱいを与えるかは「石鏡ものがたり」の完成を待っていただくとして、そのイルカと人間との関係が悪化し、1000頭近いイルカが、一時に殺戮されるという事件が壱岐で起こりました。

                   俗に「壱岐イルカ事件」と呼ばれる一件です。では、その事件の起こった「壱岐郡・辰の島」という無人島へ、皆さんをご案内させていただきましょう。

                   

                  無人島・辰の島の砂浜。夏は海水浴場としてにぎわっている。


                   事件の顛末はこうです。

                   今手元に勝本漁港の石井敏夫さんが書かれた「勝本港の『みなと文化』」という小冊子があります。勝本漁港と言えば、まさに「壱岐イルカ事件」の当事者そのものの存在。右の写真も、その「勝本港の『みなと文化』」から転載させていただきました。

                   まずは事件の顛末を、この小冊子から一部抜粋させていただきます。

                   「ルカが壱岐海区で急増し、漁業被害が続発したのは昭和40年頃からである。当時イルカの生態調査が行なわれ、その結果2月〜3月にかけて壱岐近海には30万頭のイルカが回遊していると発表された。イルカの被害というのは、漁船が操業している漁場にイルカが回遊して来ると魚群は逃げてしまい、釣り上げ途中の魚は横取りされ、漁具は傷められ、イルカが漁場に滞在している間は漁獲ゼロの毎日が続く。
                   そこで漁業者は団結して、イルカが多量に勝本近海に近づいた時には、約500隻の漁船が操業中止して円陣を幾重にも描き、船腹に取り付けた鉄筒の発音器をハンマーで叩きながら、海岸に追い込む捕獲作戦を行なうが、当初は途中で逃げられて失敗の連続であった。その後、水中花火が考案されイルカの群れの一部を追い込むことに成功した。
                   昭和53年1回で約1,000頭のイルカを追い込んだ時、動物愛護団体の外国人がきてイルカ囲い網を切断し、一部のイルカを逃がした事件もあった。
                   現在では、極少量のイルカが現れる程度で、あれ程いたイルカが何処で回遊しているのか七不思議の現象である。」

                   

                   文中、「動物愛護団体の外国人」というのが、もう一方の当事者である「デクスター・ロンドン・ケイト」さん。彼はハワイのヒロ市から、「動物の権利擁護」という新しい倫理観をひっさげてやってきました。

                   「動物愛護」とは違います。「動物愛護」には人間優位の姿勢が示されています。しかし「動物の権利擁護」とくると、動物に対しても人間と同じ権利を認め、それを擁護していくという姿勢となり、当時は(今も)あまり知られていない概念でした。それだけにケイト氏の言い分は、勝本漁民には、突拍子もない言いがかりに聞こえたことでしょう。

                   「ああ、あいつね、あの時、オレは漁協の青年部長だったんだ。あいつのおかげで大迷惑だ。まったく気でも違っていたんじゃないのかね。」(川端裕人「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」)

                   当時、壱岐の勝本町ではブリ漁、イカ漁が盛んでしたが、イルカの回遊時期になると、イルカがやってくるだけで、イカもブリも漁場から姿を消してしまいます。そればかりか夜中に仕掛けたイカ釣りの仕掛け、そこにかかった獲物を、人間が回収するより早く、イルカの群れが食い散らかしてしまいます。

                   これでは勝本の漁民の生活が成り立たなくなります。そこでイルカを駆除すべく、和歌山県の太地や静岡県の富戸(ふと)の漁民に教えを請い、追い込み漁が開始されるに至りました。

                   ではケイトさんの言い分に耳を傾けてみましょう。

                  ^躊瑤竜師たちが自分のものだとする漁場は、何千年もの間、イルカのエサとり場だった。人間が後からやってきて、イルカを邪魔者扱いすることはおかしい。

                  漁獲量の減少はイルカのせいではなく、漁場自体が乱獲により貧しい海域になってきている。

                  イルカは利口な動物で、人間と共生することが可能。うまくリードすれば、イルカも人間も、モーリタニア沿岸の例にあるように共同作業をして、ともに獲物を得ることが可能となる。

                   一時は漁師たちもケイトの熱意に動かされ、イルカとの共同作業に臨むべく船を出しましたが、当のイルカたちがその時はおらず、二度の試みも結局は失敗に終わりました。

                   残された最後の手段とばかり、ケイトは、イカ漁、ブリ漁に代わる「養殖漁業の育成計画」や、痩せた漁場を復活させるため「ブリ資源の増殖計画」などを提言しますが、こと既に遅く、最後に壱岐を訪問したときは、すでにイルカの追い込み漁が開始されていたのです。

                   辰の島の浜辺には2000万円以上する巨大なイルカ粉砕機が据え付けられ、既に稼働を始め、壱岐の海はイルカの血で真っ赤に染まったといわれています。

                   (次回、クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」に続きます。)

                   

                  当時、高校生でイルカ処理のアルバイトに参加したMさんが、今回、僕の辰の島行の案内をしてくれた。

                   

                  湾がくびれ一番狭くなっている箇所。イルカを追い込んだ後、ここから対岸まで網が張られた。

                  クジラ・イルカ紀行 vol.005 / 沖縄県座間味島「メイティングポット」

                  2018.03.03 Saturday

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                     三度目の座間味、今日が最終日となります。

                     昨日はレンタサイクルで稲崎の展望台まで出かけたものの、午後からの大雨でずぶ濡れ状態。

                     実は、あんな大雨にならなければ、昨夕4時出船のエスコート号に乗せてもらうことになっていたのですが、昨夕のホエールウォッチングは中止となり、僕は今日の10時に出るクィーン座間味に乗船して那覇へ帰ることになっています。それを佐野船長の計らいで、早朝7時に、臨時でエスコート号を出してもらえることになりました。これならホエールウォッチング終了後、予定通り、座間味10時発のクイーン座間味で、そのまま那覇港を目指すことができます。何ともお礼の言いようがありません。

                     とはいえ、昨夜の荒天でウォッチング船が出せるのかどうかが、まず心配の種。さらにエスコートが無事出船できたとしても、ザトウクジラと出会えるかも、これまた心配の種。

                     港で佐野船長と落ち合うや、船長からのゴーサイン! しかも早朝から回遊くんが稲崎展望台へ出張りザトウクジラの位置を確認してくれているといいます。

                     その回遊くんが稲崎から車で駆けつけ、いよいよ出船の運びとなりました。

                     港を出て10分近く走ったでしょうか、早くもザトウクジラのブロー(潮吹き)発見! 現場へ駆けつけます。エンジンを止めるや、クジラの「キリキリキリッ」というクリック音や「ウォーンッ、ウォーンッ」という啼き声が海中から響いてきます。

                     一頭ではありません。船長の話では二頭のオスと一頭のメス、それに子クジラのあわせて四頭がいるといいます。

                     

                    (ザトウクジラのテールがあがる。現場を目指すエスコート号と佐野船長。)

                     

                     ザトウクジラは、一夫一婦制ではありません。一頭のメスがめでたく出産を終えると、続いて、そのメスの二番手のハズバンド(エスコートという)の座をめぐってオス通しの争いが起こります。その争いの現場をメイティングポットと呼ぶのですが、めでたくエスコートの座を獲得したオスクジラは、このメスと結ばれるまで、この親子を助けていく役割を担うことになる訳です。

                     メイティングポットでは、船がそばにいようが関係なしで、オス同士、何も目に入らないかのように争いに夢中となります。派手なアクションが続くので、ホエールウォッチングの最大の見せ場なのですが、こんな現場に出くわすのは稀と言ってもよいらしいのです。

                     「桐生さんの思いの強さが呼び寄せたんでしょうね!」

                     佐野船長がうれしいことを言ってくれますが、こちらはそれどころではありません。吠え声、ブロー、船の揺れ。騒然とした中でクジラがどこへ上がってくるのか。右に出たかと思うと、次は左にと、間断なくクジラが荒れ回り動き回ります。この際、言葉は不要で、まずは写真を見ていただくことにしましょう。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     写真でも何が何だか分かりませんが、ともかく激しいことだけはお分かりいただけたかと思います。

                     最後の写真は、負けた一頭が遠ざかっていくところですが、僕も、この航海を終えて那覇へ帰り、そこからさらに大阪へと帰ることになります。

                     三度の座間味滞在中、出会った方々にはご迷惑のかけっぱなしでお礼の言葉もありません。次はいつ座間味へ訪問できるか分かりませんが、またよろしくお願いいたします。

                     最後に、僕のわがままに最後まで付き合い、ザトウクジラを体感するという大きな機会を作っていただいた佐野船長および奥さん、クルーの回遊くん、本当にありがとうございました。

                     下記のサイトで、素人のビデオで見苦しくはありますが、座間味でのホエールウォッチングの模様を動画でアップしておりますので、興味のある方はご覧ください。

                     

                    https://youtu.be/vz5x5EpCfZU?list=LLZWgXZUlFUA0qBzt7LieuGw

                     

                    なお次回からは、不幸な壱岐イルカ事件を追って、壱岐の無人島「辰の島」取材の模様をお届けします。

                     

                    クジラ・イルカ紀行 vol.004 / 沖縄県座間味島「エスコート号」

                    2018.02.26 Monday

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                      (稲崎の見張り台からの情報で、ザトウクジラを目指して進むホエールウォッチングの船団。右端が佐野船長のエスコート号)

                       

                       座間味でのウォッチングは二年にわたって三度挑戦しましたが、最初の二回はザトウクジラは見ることが出来たものの、遠望するという感じで、クジラを体感するまでには至りませんでした。

                       佐野船長の奥さん優美さんは言います。

                      「私たちはホエールウォッチングをご案内する上で、座間味を訪れた方々に、ありのままを見てほしいと思っています。ウォッチングの船を出していると、どうしてもお客様に、派手なクジラのアクションを見せてあげたいと思ってしまい無理をしがちになります。

                       でもクジラは自然です。いつもいつも、派手な動きに出あえるとは限らないのです。クジラを見られないときだってあります。自然を演出するのでなく、ありのままを見てほしい、ありのままを感じてほしい、そう思って皆様をご案内しています。」

                       たしかにホエールウォッチングという時間は、クジラに出会えようが出会えまいが、茫々たる海原に船をはしらせ、太陽を感じ、風を感じ、海を感じ、自然と一体になる、そんな至福感に包まれる。何よりの贅沢な時間だと思います。

                       しかしです。僕は、クジラやイルカに取材した「ものがたり」を生み出したいのです。クジラを間近に見、クジラの息吹きを感じ、クジラを体感したいのです。

                       こんな次第ですから、佐野船長には無理を言って、三回目のウォッチングのときは、前日が土砂降りの雨で当日もウォッチングがあるかどうかも分からない状態でしたが、佐野船長は、通常のウォッチングよりも早い時間帯に、乗客は僕一人という状態で船を出してくれました。

                       乗組員は、佐野船長のほかに「回遊くん」も乗り組んでくれました。

                       ところで、僕が彼に「回遊くん」と名付けた経緯ですが、彼は神奈川の出身なんですが、クジラが大好きで、冬はこの座間味へ来てホエールウォッチングの船に乗り組み、シーズンが終わると、ザトウクジラと同じように北の海を目指し沖縄を離れます。

                       北の海ってどこかって? 

                       ―――― 知床です。

                       冬は沖縄の座間味でウォッチング船に乗り組みザトウクジラを追いかけ、夏は知床でヒグマやマッコウクジラのガイドをしているという寸法です。まるでザトウクジラの回遊そのものです。

                       これが、僕が彼を「回遊くん」と呼ぶ所以であります。

                       

                       

                       前回、座間味の宿泊事情についてお話ししましたように、座間味島では土地者以外が島で働くのをいやがります。にもかかわらずです。僕が座間味へ来て関わった人たちは、全部が全部と言っていいほど、内地の人間が多いのです。

                       見るからに沖縄の人って感じの佐野船長ですが、実は鹿児島県人であります。琉球大学を出て一般会社へ就職しましたが、大学時代、シーカヤックにはまり、会社を辞めて座間味の「ハートランド」というマリンショップで働き出しました。

                       

                       

                       そこへ同じく奥さんの優美さんが、この店の募集に応募してやってきたという次第です。

                       優美さんは名古屋でバスガイドのお仕事をされていましたが、慶良間の海にあこがれ、ダイビングの資格を取って座間味に渡ってきたと言います。そこで佐野さんと知り合い結婚の運びとなりました。

                       その後、お二人で独立し「ネーチャーランド・カヤックス」のお店を持たれるようになり、ホエールウォッチングのための船「エスコート号」も持つことができるようになったと言います。

                       

                      (佐野優美さんとネーチャーランド・カヤックス)

                       

                       優美さんに、ザトウクジラに関し、何かおもしろい話題がないかせっついてみました。

                       すると言ってみるものですね。とてつもなく素敵なエピソードをお聞かせいただくことになりました。

                       お二人には「あゆみちゃん」というお子さんがおられますが、そのあゆみちゃんが生まれるのと前後して、ご主人の佐野船長が、座間味の海で、ザトウクジラの赤ちゃん誕生を目撃されたのです。

                       このクジラの赤ちゃんにも「あゆみ」という名前が付けられました。

                       ところで、このクジラの「あゆみちゃん」には大きな特徴がありました。背びれがなくツルンとしているのです。ですから、「あゆみ」が北の海から座間味の海に帰ってくるとすぐに分かるわけです。

                       でも、なぜか3年続けて帰らないときがありました。それがひょっこり帰ってきたときは、座間味の人たちが「あゆみが帰ってきた」と大喜びになりました。

                       座間味の人たちがザトウクジラに向ける温かい思いが感じられる、本当に素敵なエピソードです。

                       

                      (ザトククジラの背びれ、あゆみは、この背びれがなく背中がツルンとしている。)

                       

                       さて座間味にもうひとり、忘れてならない名古屋人がいます。

                       座間味ホエールウォッチング協会立ち上げ時からの猛者、大坪弘和さん。彼はクジラ好きが昂じて座間味島に渡り、ここで様々な仕事を経ながら、ホエールウォッチング協会の立ち上げに参画した人物です。座間味ホエールウォッチング協会の責任者であるとともに、日本クジライルカウォッチング協議会の副会長でもあります。

                       座間味で出会った人の紹介が終わったところで、次回は、いよいよ僕の座間味での三度目のウォッチングについて話させていただきます。

                       

                      (ウォッチングを始める前、乗客に注意事項やクジラの解説をする大坪さん)