ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.3

2015.04.09 Thursday

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    バシー海峡の海氷浴(三)

     甲板上が急に慌ただしくなったように感じて目が醒めた。時計を見なかったので、はっきりした時間はわからないが、後で考えると夜中の一時か二時ごろでなかったかと思う。上体を起こし、暗闇を透かすようにして甲板上を見回すと、機関砲の砲側で水兵が忙しそうに動き回っているようであった。危険が迫っているのを直感した。
     その時であった。
    「ズスーン」
     という鈍い衝撃を感じた。続いてもう一回。魚雷を受けたのでないかと思った。半信半疑のなかで、船員か水兵かが、「やられたぞ!」と叫んでいるのを聞いた。やはり魚雷であったかと思った。なぜか海の中は寒かろうなとの思いが一瞬心をかすめた。怖さはなかった。
     すでに甲板上は騒然、蜂の巣を突っついたようになっていた。極度の緊張感が胸をよぎった。とにかく小隊全員を落ち着かせなければと思った。「全員、甲板上に集合!」と大声で叫び、「各分隊人員点呼、異常の有無を報告せよ」と、これも大声で命じた。
     海軍が気を狂わんばかりに機関砲を打ちまくっていた。敵潜水艦が浮上しているかと、その方向を見たが何も分からなかった。船からは盛んに爆雷を投下しているらしく、爆発音がひっきりなしに聞こえた。
     ようやく各分隊長の人員の掌握が出来とみえ、「第一分隊、異常ありません」と報告を受けた。「第二分隊、気違いが出ました」の報告に続き、「第三分隊も気違いが出ました」と報告された。「しまった」と思った。極度の恐怖感から一時的に錯乱状態に陥ったのだろうが、どうしようにも処置をする暇はなかった。爆雷の投下は相変わらず続いているようだったが、光栄丸はすでに傾きかけていた。海に飛び込むわけにはいかないしと思いながら、大発艇が甲板に積んであるのが目についた。「よし、これだ」と決心し、全員を少しでも落ち着かせるため、「よーし、わかった」と言い、全員大発艇に乗るよう命じた。
     全員が大発艇に乗ったのを確認して、「ロープの横におる者は、船が沈むときにロープを切るのを忘れるな、わかったか」と命じた。大発艇はロープで固定されている。切らなければ船もろとも沈んでしまうからだった。
    「ハーイ」という返事に交じって、「隊長殿、底に穴があいています」と叫ぶ声がした。「穴にはボロきれか何か詰めておけ」と指示し終わらぬうちに、「隊長殿、この大発艇にはガソリンがありません」と叫ぶ声が聞こえた。「よーし、わかった、ガソリンは無くてもいい。浮かぶだけでいいんだ」と大声で叫び、とにかく全員の動揺を抑
    えるのに懸命であった。

    ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.2

    2015.04.09 Thursday

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      バシー海峡の海水浴(二)

       ここで初めてビルマに行くとを知らされ、ビルマの本隊に合流するまでの部隊編成がなされた。私は小隊長を拝命し、約五〇人の初年兵を引率することになった。現役のときは兵卒であり、小隊指揮の経験は無かったが、鉄道教習所専門部では一年の時から小隊指揮者を命ぜられ、教練の時間には約五〇人の電気科生の指揮をとっていた。小隊長を拝命した時、特別に困ることはなかった。
       出発は深夜だった。事前に厳しく注意されていたので極めて静粛に行われ、久留米駅まで行軍して客車に乗り込んだ。門司港駅には翌日の夕方着き、門司港で数人ずつ民家に分宿した。私は夜間の巡察を命ぜられていた関係上、家族の方とゆっくり話をする時間もなく、ひと晩お世話になりながら、どの家のお世話になったのか記憶に残っていない。
       翌朝、門司港の桟橋前広場に集合したわれわれビルマの第五十六連隊の補充要員は、小隊ごとに別々の船に乗船した。輸送途中で敵潜水船等に攻撃され、撃沈された場合を配慮した措置と思われた。
       私が乗船した光栄丸は、排水量一万二〇〇〇トンの新造タンカーで、聞けば処女航海とのことだった。乗船したもののすぐには出航せず、出航は数日後であった。船団の船の数は分からなかったが、かなり大船団のようで、船団の周囲を駆遂艦か駆潜艇が護衛しているのが見えた。光栄丸にも機関砲一門が装備され、海軍軍人が数人乗り込んでいた。戦局の推移や輸送船の装備から考えて、この航海はかなり危険率が高いかもしれないと思われた。

       
      編集部註=前年の昭和十八年二月一日、ガダルカナル島から日本軍が撒退した。同島方面での巻き返しをはかる日本海軍は四月七日から「い号作戦」を展開した。ラバウルに赴き、自らこの作戦の指揮をとっていた山本五十六連合船隊司令長官は四月十八日朝、最前線部隊の状況視察のためラバウルからブーゲンビル島南方のバラレ蓄地に向かったが、アメリカ軍に暗号を解読されており、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。
      十九年七月七日にはサイパン島の日本軍守備隊残存兵力約三〇〇〇名が玉砕した。前年末から二月にかけ中部太平洋の島々を陥落させたのち、六月十五日約七万一〇〇〇名の兵力をサイパン島に上陸させた米軍に対し、約四万四〇〇〇名の日本軍守備隊は懸命に応戦したが、十九、二十日のマリアナ沖海戦で連合艦隊が敗北したため、大本営は二十四日同島の放棄を決定した。次第に島の北端に追い詰められた日本軍は七月六日、戦闘を指揮していた斉藤義次陸軍中将と南雲忠一海軍中将らが自決、残りの守備隊も七日から八日にかけて万歳攻撃を敢行、玉砕した。その際、約一万人の一般住民もその多くが手榴弾や毒物で自決、あるいは断崖から身を投げ自ら命を断った。

       しかし台湾の高雄までは別段異常はなかった。高雄に停泊している間、小隊長には上陸許可がおりたので、初年兵らが郷里に出す手紙と、あらかじめ注文を受けた待望の食料、バナナ、砂糖を買い求める資金を集めて上陸した。預かった手紙を投函し、高雄の街を見て回りながら蛇皮の財布を私個人用に購入し、バナナと砂糖を一篭ずつ光栄丸に積み込むようにした。所定の時間に帰船するとすでにバナナと砂糖は積み込まれていた。内地では甘味品に飢えていた時であり、全員大いに喜んだ。積み込んだ食料品も毎日平等に分配した。
       高雄に何日か停泊した後、船団はマニラに向かった。乗船以来われわれの船室は船倉に造られていたが、タンカーを改造したもので、船室は暑くて換気もよくなかった。しかし日中は甲板上に出るのを禁止され、日が沈んでからしか許されなかった。
       高雄出航後は特に船室の温度が高くなったような気がする。甲板に上がって満天の星を跳めながら、大きく深呼吸したときの壮快さは、表現の言葉もないほどいい気分だったが、機関砲の砲側に配備の水兵の数は増えてきたように思え、なんとも不気味だったのも確かである。
       夜も次第に更けて、肌にあたる夜風が幾分涼しくなると、甲板上で皆、思い思いに横になった。すでに白河夜船をきめている者もいた。私も異常がないのを確かめて、今日も無事に終わったと思いながら横になった。遭難に備えて軍装を解くことは禁じられている。帯剣を締めたまま、銃は右手に抱いて横になるのが習慣だった。星の輝やきがことのほか鮮やかに思え、これが南の空かとロマンチツクな気分で、うとうとと浅い眠りについた。

      ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」

      2015.03.29 Sunday

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        バシー海峡の海水浴(一)
         

         昭和十九年七月六日、東京・池袋の鉄道教習所専門部電気科二年生として寮生活しているとき召集令状がきた。あとでわかったことだが、ビルマ(ミヤンマー)の日本軍が、世界戦史にも例を見ない悲劇的退却戦を始めた四日後のことである。
         
        編集部註=昭和十七年八月、当初破竹の勢いだった日本軍は、一たんビルマ全域を占領したが、その後、英印軍や米中連合軍の、インド側からの侵攻に悩まされた。第十五軍指令官牟田口廉也中将は、英印軍の拠点、ビルマ国境に近いインドのインパール攻略を主張、大本営もこれを認め、三月に作戦は開始された。しかし当初から補給や制空権の確保は無視されており、弾薬と食糧の補給のない日本軍は苦戦に陥り、七月二日インパール作戦は中止された。
        結局、この作戦で日本軍は参加兵士約九万名のうち約三万名が戦死、退却の途上飢えと病気で約四万二〇○○名の戦傷病死者を出した。

         当時、専門部の「有隣寮」が改築のため、寮生は全部「有朋寮」に住んでいた。非常に南京虫が多い寮で、夜は睡眠どころでなく、皆困り果てていた。
         その日も寝つかれない夜だった。寝台よりはましかもしれないと思い、長腰掛けの上に横になっていた。その時、電話の知らせを受け、寮長室に行ったが、遠くて全然聞きとれなかった。
         電話交換に聞いてもらったところ、「召集令状がきているので、明後日十一時までに久留米の西部○○部隊に入隊せよ。召集令状は小倉駅で渡すので、列車の小倉駅通過時刻を知らせよ。電報も打っておいたが、電報では間に合わないと思い電話をしている」とのことだった。
         当時、特急列車はなく、一日数本の急行列車があったが、電話を受けてから最も早い急行に乗っても、決められた時刻に入隊することは不可能であった。飛行機についても問い合わせてみたが、便があるはずもなかった。
         やむなく同室の同僚の一人に、憲兵隊に行って入隊遅延の理由について証明書を貰ってくれるよう依頼する一方、同僚の加勢で小倉の自宅に送り返す荷物を梱包した。
        翌七日、荷物の発送は同僚に頼み、教習所長や配属将校等に挨拶のあと、池袋駅から東京駅へ向かった。それぞれの駅で多数の同僚が見送ってくれた。証明書を依頼した同僚は憲兵隊で、証明書は東京駅長に貰うように言われ、東京駅長の証明書を駅まで届けてくれた。別の同僚は、東京から久留米まで二十四時間かかるため、食堂に無理をお願いし、当時常食にしていた豆粕入りの握り飯二個を用意してくれた。
         列車は始発時からかなり混雑していたが、応召タスキをかけていたので座席に掛けられた。時間の経過につれて腹が減ったが、長い道中を考え、夜までは手をつけずに辛抱した。つとめて眠ることにしたが、目が醒めるといろいろなことを考えた。
         現役の時、四度満州の冬を経験しているので、満州なら嫌だなと思った。また、昭和十七年五月、現役を満期除隊後は、父がしきりと結婚を薦めていた。父は専門部の受験にも反対だった。合格のあと父に話したが、これに対し何も言わなかったものの、召集されてみると、父の意向に添えなかった済まなさが心をよぎった。しかし応召の身では妻子がいないのに越したことはないと、自分自身に言い聞かせたり複雑だった。
         このほか現役時代のことなど思い浮かべているうちに列車は八日朝、小倉駅に到着した。
         小倉駅では父と弟とが召集令状と弁当を持って乗り込んできた。早速、弁当を思いきり食べようとしたが、腹は減っているのに半分も食べられなかった。母や兄弟のこと、商売や空襲のことなど車中での話は、ほとんど聞き役に回った。
         父と弟とは久留米連隊の営門の前で別れた。所定の時間を過ぎていたので、ごく手短かく、「からだだけは気をつけろよ」、「お父さんもな」と言っただけで別れた。父は戦争体験があり、負傷もしていたので未練がましいことは嫌いであった。営内で担当の将校から入隊時間の遅れを一応やかましく叱責されたが、処罰はされなかった。
        あまり覚えていないが久留米連隊には十日間ぐらい居たように思う。その間、各人に兵器や被服が支給され、私物の服や靴などは家に送り返した。

        ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」連載にあたって

        2015.03.29 Sunday

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           福岡の友人から1冊の冊子が送られてきた。
           表紙には「太陽は未だ真上にあった」の表題があり、「ビルマ敗戦記」の副題がつけられている。著者名を見ると、松尾剛(まつおこわし)とある。
           同封されていた手紙を見ると、
          「お手数をおかけしますが、私の国鉄時代の大先輩《松尾剛》鳥栖機関区長の戦争体験の手記です。戦争の実態を後世に残したいと思いお願いいたします。」
          「お願いいたします」とあるのは、「たくさんの人の目に触れるようにし、戦争の実態を風化させないようにしてほしい」という思いのようだ。
           そこで、しばらく休んでいた私のブログ「徒然漫歩計」に連載しようということになった。たまたま中西喜次(なかにしよしつぐ)農学博士の書かれた「ジャワ・ビルマの大空 一気象隊士官の手記」と題された出版物も、大阪の友人からお預かりしている。ビルマで戦った二人の無名戦士の記録が手元にあるわけだ。
           とても偶然とは思えない。福岡の友人を通して、あるいは大阪の友人を通して、戦争で亡くなった方たちの思いが、僕のもとへ届けられたと考えるしかない。ならば、この二つの戦記を八月の終戦記念日に向けて「徒然漫歩計」に連載し、連載が完結した暁には、電子図書として後世に残すようにしよう。これで私に託され届けられた「思い」には、幾分なりとも応えることができるかもしれない。
          そう思い、この連載を始めることにした次第である。

           そこで、まずは「太陽は未だ真上にあった ビルマ敗戦記」から始めさせていただく。
           ところで福岡の友人というのは、JR博多車両区を、たしか七年前に退職し、今は悠々自適の生活を送る竹下博氏である。彼の手紙を読むと、松尾さんというのは、彼が国鉄時代世話になった大先輩だという。
           その松尾剛さんの思い出を、竹下氏自身が綴ったものがあるので、ここに紹介し、松尾さんの紹介に換えたい。

           私は昭和四十五年四月一日に日本国有鉄道九州支社に入社しました。
           六ヶ月間の研修を終えた後、十月一日付で鳥栖機関区車両係を拝命し機関士助手見習・機関助士・電気機関士見習・電気機関士となり、ある日、電気機関士として乗務し門司機関区の常務後点呼に行ったところ、
          「オイ若僧! おまえは組合バッジを付けていないが何処の組合だ」
           と問われ、私はまだ組合に組合に所属してなかったので、
          「私はまだ組合に入っていません」と答えたところ、
          「組合に入ってない者に、我々が勝ち取った乗泊に泊めることはできない」と言われました。
           仕事で来て寝るところがないというのはスジが通らないので、管理者である当直助役に交渉しようとしたところ、その助役はスーッと席をはずし私の要求を聞き入れてくれません。
           困っていると、後ろからポンポンと肩を叩いてくれる人がいて
          「泊まるところがないのなら、私共の確保した宿泊所に泊まりませんか?」と声をかけてくださいました。
           私は、その方の好意に甘え、その夜は紹介してくれた宿泊所に泊めてもらいました。
           当時の国鉄はオープンシップ制であり、組合に入ろうが入るまいが自由に選択ができる制度でしたが、現実と理想ではこのように違っていました。後で分かったことですが、当時の組合は大きく分けて総評系(官公労主体)の組合、国鉄労働組合(国労)と動労(動力車労働組合)の二大勢力と、同盟系(民間の労働組合系)とに分かれていました。
           私は翌日機関区に帰り指導室に行き、指導の方々に昨日のことを話したところ、指導の方から、
          「竹下君、一応国鉄はオープンショップ制を取り入れているが、現実にはどこかの組合に入らないと仕事ができないよ」と言われ、 イジワルをされた組合に入るよりは助けてくれた組合に入ろうと決め、その日から鉄道労働組合に所属しました。
           その翌年の春闘のことだったと思いますが、機関区の便所で用を足していたところ、若い男性と女性が一人ずつ入ってきて便所の壁にビラを貼り出しました。そのビラの内容は「要求貫徹」とか「スト権奪還」とかいうビラを所構わずベタベタと貼り出しました。
           私は、掃除のオバチャンが毎日きれいにしてくれる便所、おまけに花まで飾ってくれる便所に、そのような無法が許されてよいものではないと思い、その若い青年と女性に
          「おい、やめろ! 今貼ったビラをはがせ」と言いましたところ、二人は逃げてしまいました。
           そこで私は、安部政敏という後輩と二人で、そのビラを剥がしてまわりました。
           それから十分後、二、三十人のモサクレどもが徒党を組んで私を取り囲みました。彼らも上手いもので、手は出さず、腕組みをして足でボコボコと蹴るのです。
           その時の管理者(助役)達は見て見ぬふり。何もしてくれません。その時です、二階の区長室から、私が初めて赴任した現場長(松尾剛)がタッタッタッ と階段を駆け下りてきて、その二、三十人をかき分けて
          「竹下! 区長室へ上がれ!」と助けてくれました。
           区長室に入ると、そこに動労の支部長 立石某なる者がいて、
          「オイ若僧!」と声をかけてきましたが、私も腹が立っていましたので、
          「若僧があるか! 俺には竹下博という名前があるんじゃ」とやり返しました。

           その後、区長室で動労の支部長と区長が話し合いを持ち、立石支部長から「そんなに便所をキレイにしたいのなら今から便所掃除をしてこい」と言われ、私も「よし分かった、今から便所掃除に行く」と言って立ち上がろうとしたところを、松尾区長から止められ、区長室を出るようにに言われ退室しました。
           その後、この事件は門司鉄道管理局まで上がり、当時は組合が権力を持っていたため、松尾区長は五十四才の若さで退職、私は新幹線大阪運転所へ転勤が命じられ、この一件は終了しました。組合が権力を持っていたため区長は首を切られ、私は九州支社から大阪へ左遷されました。松尾区長は自分の首を差し出し私をかばってくれたのです。この区長は二回も戦争に行き、軍隊では「牛殺しの松」の異名を持つ勇気ある区長でした。初任地で、このような男気のある区長に巡り会えたことは、私にとって記憶に残る感謝すべき巡り合わせでした。

           竹下氏と松尾氏の出会いは、このようであった。
           しかし「牛殺しの松」の異名を持つ松尾さん、どんな強面の人かと思ったが、娘さんから送っていただいた写真を見ると、がっしりとした、やさしそうな、それでいて少しはにかみやさんのような印象を受ける。
           娘さんの記憶によれば、松尾さんは、大正七年二月四日に生まれ、昭和九年に小倉中学校を卒業、その後、鉄道専門学校に進み、卒業後、国鉄に入社、昭和四十七(一九七二)年、五十四歳で退職したという。この間、二度の招集で戦地に赴いた。

           では、「ビルマ敗戦記 太陽は未だ真上にあった」―― いよいよ、はじまりです。
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