我が町の地震の先生・菅野耕三さん

2011.09.29 Thursday

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     菅野さんに最初にお目にかかったのは、地区の広報の取材で広陵町図書館を訪問したときのことだ。広報「ふれあい」で、広陵町図書館として「防災関係」の図書を紹介してもらえないかというお願いにあがった。本の紹介だけでなく、各冊ごとに、ちょっとしたコメントももらえないか……という虫の良い話だったが、そこで応対してくれたのが、当時、広陵町の図書館長をされていた菅野耕三さんだった。そのときは菅野さんがどんな方か、まるで分かっていなかった。
     菅野さんは、不躾な申し出にもかかわらず快く引き受けてくださり、担当の司書の方に引き合わせていただいた。司書の方々も、お忙しい中、本の選定からコメントの執筆まで、熱心に取り組んでいただけた。
     あとで知ったことだが、菅野さんは、広陵町の図書館長というだけでなく、大阪教育大学の名誉教授で、地質学、層位・古生物学、地盤工学の権威であるということだった。

     その菅野さんが、今年の8月に広陵町図書館の公開講座で、小学生を対象に「地震の話」をされた。また9月には、大人向けに「広陵町の自然災害」という話をされた。
     僕自身は、9月は仕事の関係で出席できず、8月の小学生向け講座「地震の話」を聴講させていただいたが、そこで、菅野先生の人柄の一端に触れることになった。
     終始ニコニコと興味深そうに話をされる。話をされているときは、偉い学者先生という風ではなく、好奇心にあふれた少年のような雰囲気をあたりに振りまかれていた。

     その教え方も、紙工作を使って、建築における筋交いが如何に重要かを子供たちに体験させたり、人間の目が如何に不正確かを、やはり紙工作の教材を与えることで体感させるというユニークなもの。「この目で確かめて」という言葉があるが、津波が襲ってくるまでの距離感や時間の感覚、「自分の目で確かめて大丈夫」と思う怖さを痛感させられる。
     では、「人間の目が如何に不正確か」、その教材になった紙工作を、この記事の最下段にに掲げておく。これを切り抜き組み立てたとき、平面であるドラゴンの顔が飛び出したり動かないはずの顔が動き出すように見えるかも知れない。ぜひ試してみられたい。
     (なお、以下のURLをクリックしていただければ、実寸大の画像にリンクしていただける。時間と興味のある方は、厚手の紙にカラー印刷したうえで試してみられたらと思う。)
    http://www.uta-book.com/dragon.pdf

     そんな菅野さんが、阪神大震災の直後、震災後の調査団の一員として現地の調査に当たられたことがある。そのとき、ある被災者の方から次のような厳しい言葉が返ってきたという。
     「あんたらは調査、調査というが、こうなる前に、何か私たちに話してくれたことがあるのか。地震に関する知識を知っていれば助かった者もおるはずや。」
     もちろん、この通りに言われたのでなく、菅野さんの話を僕が脚色している部分もあるが、大筋このようなことを言われ、以来、菅野さんは、地震のこと、防災のこと、防災知識のこと等々、話す機会があれば、どこへでも出かけていって話されるようになったという。広陵町図書館の司書の方々に、あんなに熱心に協力いただけたのも、菅野先生の影響があったからだと思えてならない。

     「地震は地球で生活する限り、どこでも起こり、災害は必ず起こる」、また「日本は地震大国、地震に遭遇することを想定して生きていかなければならない。災害に遭うことを前提に備えることで、より被害を少なくできる」とも菅野さんは言われる。

     では、私たちの暮らす広陵町はどうなっているのか? 以下、友人が取材してくれた「広陵町の自然災害」に関する講話内容を、箇条書き的に紹介することとする。

    ・広陵町での災害の恐れ
      奈良県内には京都府南部から奈良市〜天理市〜桜井市付近にわたり奈良盆地東縁断層がほぼ南北に延びている。この断層が動けば町内でも震度6強の地震の恐れがある。
     南海、東南海地震では奈良県内では揺れの恐れはほとんど無いと考えられる。
     D内の地震被害の恐れとしては、液状化現象と地面の陥没、隆起が考えられる液状化現象は、10世紀後半に広陵町でも起こっており危険地域である。(箸尾遺跡で液状化が起こった状況が解る)
     4丁目付近では、馬見北3丁目の調整池を埋立てた跡地の住宅地が液状化の恐れがある。
     液状化が起こり、建物が0.3%傾くと人間は生活できない(三半規管がおかしくなり感覚が麻痺)。
    地面の陥没については、真美ヶ丘ニュータウンは山を削った造成地であるので切土地、盛土地が存在するが、切土地は安全と考えられるが、盛土地は危険が予想される。特に切土地と盛土地の境界が一番危険が予想される。
     また道路については基礎補強などを施せないので、陥没や隆起の危険は大きい。
     た絣嘉の恐れとしては、奈良県の下水道は時間雨量30ミリを予想して作られているので、最近の80〜100ミリの雨量には対応できない。
     (40年前では時間30ミリの雨量でも100年に1度の雨量と想定されていた)

    ・災害への備え
     |録未起きると木造家屋では1階が潰されるので、2階の方が安全。
     一番安全な場所はトイレ(但し、ドアは開けておかないと閉込められる危険がある)。
     倒れそうな物の近くでは寝ない、倒れそうな物は固定する。
     2箸粒阿暴个襪箸は、絶対裸足で逃げない(ケガの危険が大きい)。
     て始に水が溢れた時は逃げずに家の一番高い場所で救助を待つ(道路が水に浸かると状況が解らず危険である。また水面は静かでも水中は流れが速く危険な場合がある。)
     ス埓の避難指示等は非常に遅いので、予め自主避難することも大事。
     θ鯑饐貊蠅詫修甞稜Г靴討く。
     避難の際は、最小限の物だけを持つ。
     津波の発生筒所近くにいた場合は、大阪市であれば地震発生から津波到達までは2時間近く時間があるので、慌てずに避難する。

    ・災害への考え
     )漂劼貌淡薬はない(自然災害は止められない)。
     減災を考えていく(少しの備えで大きく変わる)。
     災害にあう事を前提に生きていかねばならない。
     ぜ分の居住している場所のことを、よく知っておく。
     ィ海弔龍儀
      油断大敵(油断こそが災害の最大の敵)
      用意周到(事前の備えこそが最大の防備)
      自主連携(自助と共に共助(互助)が不可欠)

     人間は天・地・水の動きがある地球に養われている。
     地球からみれば災害も自然論理の一つである。

    久米ひろみさん「中国人の使う中国語…」/紹介HPが中国国内で発禁か?

    2011.08.31 Wednesday

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        (2010年に開かれる上海万博を前に都市整備が進められる上海) 

      僕の若い友人に久米君なる人物がいる。知り合ったときは、大変な跳ねっ返りの青年だったが、その彼も今や堂々たる父親ぶり。
      これから話そうとするのは、その妹の久米ひろみさんの話。大変な才媛だが、一見ボーッとしていて、「能ある鷹は爪をかくす」を地でいったような女性だ。
      彼女と知り合ったのは、全くの偶然、久米君の妹さんと知らずに出会うことになった。
      当時、僕は政府刊行物サービスステーションという土俵で、知名度は低くても、これはという原稿を募集し、著者と一緒に読者探しをした上で出版に踏み切るという「オーダーメイド出版」をスタートさせていた。
      そこへ応募してきたのが、件の久米ひろみさんであった。彼女は中国留学から、同地で就職、結婚までしたが、出産にあたってSARSの大流行。子供は日本で育てたいと、ご主人ともども日本に帰ってくることとなった。
      日本でひろみさんは、中国で知り合った友人から、これから開く「中国語サロン」で教える中国語のエッセー風教材を作ってほしいと依頼される。
      そして出来上がったのが、この本の原稿。内容を見せていただいたが、堂々たる書きっぷり、しかもやたら面白い。中国の裏側を覗きながら知らず知らず中国語に親しめるという代物。
      これがなぜ商業出版物として通らないかと思うのだが、持っていった出版社では「関西弁を標準語に直してくれ」という。彼女は、それに応じない。確かに関西弁だからこそ、面白いし味のある原稿にもなっている。ひろみさんならずとも「それはないだろう」と思ってしまう。

      こんな訳で、私めが、この本を手がけることになった。私も学生時代、歴史学を専攻しており、中国語の文献を漢文としてでなく、中国語として読めたら素晴らしいだろうと、学業以外に「愚公会」という日中交流センターで中国語を学んでいた。女房との出会いも、この愚公会でのことだ。そんなわけで、出来はしないのに、中国語にはある種の思い入れがある。
      そこで、「中国語の箇所は、すべてピンインを打ちましょう」と提案をしてしまった。ピンインというのは中国語の発音記号で、これがついていないと知らない言葉に出くわしたとき、読めないで読書の流れが止まってしまう。
      ともかく中国語全文に正しいピンインを打つ。ところが、これが手間も時間もかかる大変な仕事。知り合いの京都国際交流センターのAさんに相談を持ちかけた。彼女は同センターで留学生の相談に当たっているが、彼女の知っている中国人留学生に、この仕事を手伝ってもらおうという次第。

      幸い、大学院卒業後も日本企業に就職が決まった優秀な中国人留学生を紹介してもらい、なんとかピンインの問題もクリアし出版に漕ぎ着けることが出来た。

      何度も言うようだが、この出版システムの特徴は、制作と同時に読者募集をかけるという点にある。本がないのに読者を募集するわけだから、詳しい案内ホームページが必要になってくる。このホームページで、この本が、従来の中国語テキストとどう違うのか、どれだけ内容が面白いのかをPRしないといけないわけだ。当然、ホームページづくりにも力が入るわけだが、あるとき、中国在住の日本の方だと思ったのだが、ホームページについて国際電話で問い合わせをいただいた。
      「中国でも、以前まで案内のホームページは見ることができたのですが、最近になって見ることができなくなりました。ホームページを止められましたか?」という問い合わせだった。
      もちろん、止めるわけがない。日本ではちゃんと見られるのに、中国では最近になって見られなくなったという。何度かやりとりしているうちに中国の政府機関に止められたという結論になった。
      問題は、同書ののコラム欄「すごいぞ中国人」の「北京編」「蘇州編」にあった。上海万博開催をひかえて、中国の素顔をさらけ出すのが憚られたのではないだろうか?!


        (問題のホームページ)

      では、本文から、「すごいぞ中国人」の北京編を紹介して、このブログを終わることにしよう。
      (なお、この「中国人の使う中国語 使わない中国語」は、著者のご厚意で、デジタル版を下記のサイトで全文無料公開しております。中国、中国語に興味のある方は、下記サイトからダウンロードのうえ、この本の面白さをご堪能ください。)
       iPadzine  http://www.ipad-zine.com/b/1259/
        paboo  http://p.booklog.jp/book/33289
        DEPデジタルライブラリー http://uta-book.com/dep/works00.htm



      「すごいぞ中国人」北京編

      ここでは北京の街角で見たすごい中国人を紹介。日本人から見れば「すごい……」と思えることも、中国ではごく普通のこと。

      ・ 白いワンピースに腋毛ボーボー
      故宮を観光し終わって、故宮北にある「景山公園」という小高い丘に登っていた時のこと。前から真っ白なワンピースを着た女性がやってきた。「わぁ、きれい!」と思った瞬間ゲンナリした。ノースリーブの下から腋毛がボーボーに生えてる!白いワンピースやから、それはもう目立つ!
      中国の女性は、腋の下の毛はそのままにしてることが多い。夏は気を使ってほしい。

      ・観光地でパジャマ
      北京の観光地に行ってよく見かけた中国人、それがパジャマを来て観光してる人。時々空港でも見かけたことがある。なんでパジャマなんか着てるんやろう……?

      ・観光地での写真撮影
      中国人は写真撮影に命を掛ける。グラビア写真のようなポーズを取る。例えば、湖のほとりに小さい岩があれば、どんな手段を使ってでも、何としてでもその岩に這い上がろうとする。そして、今まで必死に岩を這い上がってたくせに、カメラを向けられた途端、急にすごいポーズを作る。

      ・赤ちゃん丸裸、自転車の籠の中
      北京の夏は暑い。オーブンの中におるみたい。……かといって、赤ちゃんを丸裸にしとくことはないやろう。しかも驚いたのは、自転車の籠の中に丸裸の赤ちゃんをポーンと入れたまま自転車こいでる。

      ・赤ちゃん股割れズボン
      最近日本のテレビでも紹介されたけど、中国の赤ちゃんは股割れズボンを履いてる。大きい子なら、五歳くらいまでは股が割れたズボンを履いてる。見た目はごっついかっこ悪い。男の子やったら前から見たらおチンチン丸見えやし、後ろから見たらお尻が見えてる。でもこれが優れものと言われる訳は、用を足したくなったら、パンツを脱がんでもそこで屈むだけで用が足せるからや。
      中国におったら何度も目にするのは、スーパーとかお店の出入り口でシーッとおしっこをしてる子供がおること。どこでもかしこでも用を足してる。一番最悪やと思ったのは、北京そごうの店の中で用を足してる子供がおったこと。それも、エルメスという高級ブランドのブースのまん前で!ああ……

      ・スカーフを頭からすっぽり被って自転車運転
      北京や天津は黄砂がある。ひどい日になると、外で喋ることもできへん。いっぺんに口の中が砂だらけになってしまう。それほどひどい黄砂の中で、自転車を運転するのは大変や。そこで中国人が考えたのが、スカーフを頭からすっぽり被って首で巻き付け固定する技。スカーフは半透明やから、頭と顔をすっぽり覆っても前は見える。これはグッドアイディアや。黒っぽいスカーフやったら、一瞬銀行強盗かと思うけどな。

      ・公衆トイレ
      昔、中国の家にはトイレがないところが多く、北京やったらみんなが日常的に公衆トイレを使ってた。そんな街中にある市民の公衆トイレに入っていくと、大抵中は壁で仕切られてブースに区切ってないし、ドアも何もなくて、溝があるだけ。それも、一時間に一回水が流れるだけやから、前の人のものが残ったまま……。
      このトイレ様式にも驚くものがあるけど、トイレ文化にもすごいものがある。既に中で用を足してる最中のおばちゃんがおるのに、後から入ってきたおばちゃん、ズボンをずり下ろしながら入ってきた。そして二人で用を足しながら会話してる(彼女たちは知り合い)。中国人は人前で用を足すのは結構平気らしい。
      でも、最近の観光地とか百貨店とかのトイレは、ちゃんとブースがあるのでご安心を。(但し、鍵をかけないで用を足す人が多いので、ドアを開ける時は要注意。)

      ・男性のズボンまくり上げ
      夏のレストランでよく目にするもの。それが、男性がズボンを太ももまでまくり上げて食事をする姿。結構エリートそうなスーツを着た男性でさえ、ズボンをまくり上げてる。あと外でよく見かけるのは、Tシャツを胸まで捲り上げて、乳首が見えてる人。そんなんでええの?

      ・女性のパンスト
      中国のパンストは質が悪いからたるんでる(フィットしてない)。あと、くるぶしまでのパンストとか、膝までのパンストとか履いて、パンストの切れ目が見え見えや。スカート履いて、靴下的にパンスト履いてる。あれはごっつい格好悪いと思う。

      ・歩きながら本を読む学生
      大学のキャンパス内で、よく歩きながら本を読んでる学生を見る。そんな学生、日本では見たことがない。中国の学生はほんまによく勉強する。すごいと思う。
      なんで部屋とか図書館で勉強せんと、外で歩きながら勉強するんか? 最初は不思議に思ったけど、理由を知って、彼らのことをもっとすごいと思った。中国人の寮は、ものすごく狭い部屋に四人から六人がすし詰めにされてる。部屋にはベッドしかなくて、とても勉強するスペースはない。そしたら図書館はというと、席の空きがほとんどない。ほな、必然的に外で勉強するしかなくなってくる。今の日本では見られへん苦学生の姿や。

      ・国営百貨店、喋りながら仕事する店員
      客がおるのに、台に肘をつきながら喋ってる店員の何と多いこと。百貨店だけとちゃう。中国人は喋りながら仕事するのが普通と思ってる(現在の競争社会で、上海とかの大都会の若者は変わってきてるけど)。「私語」っていう感覚がない。昔、国営企業では個人の能力とか仕事量に関らず給料が一律やったから「サボった者勝ち」みたいな悪い習慣が根付いてた。そのなごりを国営百貨店の服務員の態度で見ることができる。

      ・乗客がおるのにガソリンを入れに行くバス
      バスが路線から外れたと思ったら、ガソリンを入れに行く。乗客はガソリンを入れてる間、ずっとバスの中で文句も言わんと待ってる。なんで乗客乗せる前に行っとかへんねん!でも、こんなバス、私は留学中に何回も乗った。今でもあるんやろうか……?

      ・よく故障するバス
      街でよく故障して止まってるバスを見る。私もたまに、乗ってるバスが途中で故障するのに遭遇したことがあった。黙ってバスから降りて故障を直しに行く運ちゃんもおれば、「お〜い、みんな乗り換えてくれ〜!」と言ってくれる運ちゃんもおった。「シャオフーズ!(兄ちゃん!)」と叫んで若者を外に出し、みんなでバスを動かす指揮を取った運ちゃんもおった。普通、客使うか?


        (陽朔のタクシー運転手のおばさんと一緒に……桂林)

      工藤明子さん「18パターンの英会話」「NY古着屋物語」

      2011.08.10 Wednesday

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        (工藤明子さんの撮影したマンハッタン)

        工藤明子さんの新作の見本誌が送られてきた。
        題して「セックス.イン.ニューヨーク」、サブタイトルが「SATCの嘘とセックスと真実の恋」だという。テレビで評判になった『セックス・アンド・ザ・シティ』(Sex and the City、SATC)の解説本だという。本の冒頭にも、「この本は「セックス・アンド・ザ・シティ(以下SATC)」をより深く理解できるように詳細なストーリーラインに加えて、字幕には出ない場所や名前などの固有名詞を取り上げて説明しています。NY、引いてはアメリカ文化の勉強にもなる内容となっています。さらに、私自身のNYでの体験に加えてSATC流英会話まで学べるという、ファンに取ってはもちろん、まだファンでない方、ドラマを見ていない方でも楽しめる画期的なファンブック兼解説本です」と、うたわれている。
        そもそも、僕がこの本とかかわるようになったのは、彼女から「出版したいが出版費用がないので、印刷できるように組み版を助けて欲しい」と依頼があったからだ。
        彼女とは、ハリウッド映画を総なめにし、しゃれたジョークを拾い出した「18パターンの英会話」という本で初めて付き合うこととなった。その後、彼女のアメリカでの体験を綴った「ニューヨーク古着屋物語」を出し、かんぽうでの最後の仕事「ソウルフル! A列車に乗ってハーレムへ行こう」と3本の作品を助けることとなった。
        ニューヨークに魅せられ、アルバイトで金を稼いでは取材にNYへ飛んでいく。NYの何が彼女をそこまで惹きつけるのだろうか。僕自身も、彼女のNYへの思いの強さに惹かれ、彼女の出版を助けてきたようにも思う。そんな経緯もあって、今回も断ることは出来なかった。出版までは助けられないが、原稿が出来ているなら、それを本の形に組み上げる、いわゆる組み版という仕事はお手伝いしようということになった次第だ。

        そのとき、交換条件といっては何だが、かつて手がけた「18パターンの英会話」「NY古着屋物語」の2本を電子化させてほしい旨を打診した。
        かたい英会話本ではなく、彼女の体験談をまじえながら、NYへの思いが語られたり、しゃれた英語の使い方が語られていたり、英語がわからない僕も、思わず英語の世界へ引き込まれてしまう。
        特に「18パターンの英会話」、正式には、「誰も教えてくれなかった 日本一ぜいたくな 18パターンの英会話」というのだが、直木賞作家の常盤新平さんをして「映画のジョークをよくこれだけ集めたものだ」と舌を巻かせ、「著者はそれを分析分類して、英語や英会話を学ぶのが楽しくなる、じつに面白い本を書いた。繰り返し読む価値がある。ジョークを声に出して、何度も読んでみるといい」と言わせた、実に愉快な本だ。僕も、今回電子化に携わりながら、読み込んでしまったり、思わず大笑いしたり、苦笑いしたりと、映画ファン・英語ファンにはたまらない1冊となっている。

        「かんぽう」で出したときは、政府刊行物の肩書きが邪魔をして、本の面白さを伝えることが出来なかったが、電子の世界ではどうだろうか。ぜひ、試してみたい本であった。

        電子化に当たっては「無料」ということも考えたが、自分の場合をみても、安くても「有料」のものは最後まで読み通す。また、NYの取材費用で四苦八苦している著者に、少しでも還元できるかもしれない。そんな思いもあって有料とした。

        「18パターンの英会話」は、
        http://p.booklog.jp/book/32103

        「ニューヨーク古着屋物語」は、
        http://p.booklog.jp/book/32069

        どちらも「パブー」のサイトで公開しているので、英語と映画、それにNYに興味のある方はのぞいてほしい。ちなみに「18パターンの英会話」は、本文イラストと、表紙画は、当時、声優をしていた西前忠久さんにお願いした。彼は劇団前進座から声優への道へと進んだが、本来は画学生として「絵画」を志したこともあった。いずれ彼の描いた漫画「帰去来 −特攻に散った投手・石丸進一」(A5 全19ページ)もデジタルで公開したい。彼の許可が取れての話だが……。

        以上、宣伝臭くなったが、あとは工藤明子さんがNYで撮り続けてきた写真の一部をお楽しみください。

        溝上雄文さんの遺稿「渋谷おでんや物語」

        2011.04.11 Monday

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          今、自分が本づくりに関わったほぼ200タイトルの中から、これというものを選び出し、無料公開するデジタル・ライブラリーをつくっている。自分なりに「選考」を進める中で、妙に気になる一本がある。どうしても「本」のほうで「早く、こっち見ろよ!」とばかりに、しきりに袖を引っ張ってくるのだ。 
          それが溝上雄文さんの「渋谷おでんや物語」だ。未完の原稿ながら、思い入れの強い作品だ。なぜ思い入れが強いのか、少し湿っぽい話になるが、僕がその本の「あとがき」に書いたものがあるので紹介させてほしい。

          今年(2005年)明けて早々に、水俣総合病院に入院中の溝上さんから電話が入った。
          氏は既に、当社のオーダーメイド出版(読者予約を募って、その結果から出版に踏み切るかどうかを決めるという自費出版システム)から、「悪童たちと先生」「談合受注」という、二冊の本を出されている。
          氏とはそのときからの付き合いだ。昨年末、割烹「今昔」の女将野村さんから、氏が末期ガンで入院し、「故郷水俣で死にたい」と水俣の総合病院へ移られたと聞いたばかりだった。
          その溝上さんから電話だという。
          (なんて声をかけたらいいんだろう……)体がにわかに緊張していくのが分かる。
          「だいじょうぶですか」という間の抜けた僕の第一声に、受話器の向こうから、意外と元気そうな声が返ってきた。
          「桐生さん、次の本を出したいんだ」
          「………………?」
          「末期ガンで、死後の献体の手続きも、今、済ませたところなんだ。もう長くないから、僕が死んでから本にしてほしいって思ってネ。原稿のフロッピーを送ったから後は頼むよ。」
          「洒落たことしますネ。じゃあ、見舞いがてら一度打ち合わせに行きますよ」と、明るく答えたものの、そういう僕を制して
          「全部、そちらでやってほしい。みんな任せたいんだ。僕はもう限界だよ。引き受けてくれよ……」と、さっさと言うことだけ言って電話を切ってしまわれた。


          翌日、「熊本県水俣市天神町一丁目二番地一号 西四病棟四六一号内 溝上文雄」さん差し出しの宅急便が届いた。
          早速、開けてみた。
          氏が東京在住中によく通ったおでんやさんに集まってくる人たちのことを書いたものだ。元気な頃に書き出したものを、病床で仕上げようとしたものだろう。
          「其の一」「其の二」「其の三」と書き進め、「其の三」まで来て力尽きたという感じだ。
          そんな中にこんな文章があった。

          やや西に傾き始めた太陽が、高く蒼く晴れ上がった空の向こうから、夏を惜しむように精一杯の輝きと熱気を伝えてくる。私たちは吹き出る汗をハンカチで拭きながら、ぼんやりと晴海通りを行き交う車と、人の流れを眺めていた。時の流れが少しずつ遅くなっていくような気になる。
          「いつの間にか秋になったのねえ……何だか今年も、あと少しでお正月が来てしまうわ。一年が、あっという間に終わるような歳になってしまった」
          「もうお互いに若くないからね。……何時までものんびりしていられない、もう残りが少なくなったんだよ」
          「そうね、もう若い時みたいな、煌くような楽しい時はないのよね……街路樹の葉っぱが一枚ずつ散って行くように、人生も少しずつ終わるのね。……きっとそうなんだわ、悲しいけど……」
          「そうだよ、昔から人生五十年と言うしね。もう俺たちの活躍できる表舞台は、二度と来ないのかも知れないね」
          「でも悲しいわね。このまま歳を取っていくだけなんて」
          「悲しいさ。でも、所詮人の一生なんて〈下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり〉でしかないのさ。まあ、死ぬのはまだ多少先だろうから、生きていることを精一杯に楽しむしかないね」と、私は直実になったつもりで慰める。安っぽく扱われた敦盛が、何だか墓の中で怒っている気がする。
          人間はどう頑張っても、誰でも死ぬことは避けられないし、逃げ廻ることにも限度がある。それなら、死を恐れることも無益だし、死を軽んじることも勿体ない。

          氏は、この文章を書いたとき、自分が「ガン宣告」を受け、死と真向かいにならざるを得なくなることを予想していたのだろうか。
          溝上氏とはあまり深い付き合いではなかったが、氏とは肝心なところで思考が妙に絡み合っている気がする。実は氏から出版の電話を頂いたとき、私自身も、このことで思い悩んでいた。実際に自分がガン宣告を受けたわけではないが、自分の周りで、身近な人が死を迎えていくのを次々に聞かされ、「死」って一体なんだろう。「死 」とはどういうことなんだろうとよく考えるようになった。
          幼い頃はよく死ということを考えた。死んだらどうなるんだろう。死んだらどこへ行くんだろう。死ぬとき痛いのかなあ。痛いのはいやだなあ。そんなことを取り留めもなく考え、結論がでないままに、考えることをやめようとした。
          考えるのをやめても、突然わき上がってくる想い。寝るとき、明日、目がちゃんと醒めるのかって思い出すと、怖くて眠れないこともよくあった。
          それが長じるに従って、死は遠いものになっていった。実際にはどんどん死が近づいてきているというのに、なぜか自分は死なない、自分には死は縁遠いものと思うようになっていって、死は逆に遠いものになってしまった。
          それがあるとき、死に向かって歩いているという現実に気付かされる。
          氏の言うように「逃げ廻ることにも限度がある。それなら、死を恐れることも無益だし、死を軽んじることも勿体ない」。まさにその通りだと思う。
          思い悩むぐらいなら、自分で自分に「ガン宣告」しようと思った。
          自分の命は六十まで。現在、五十七歳だから、あと三年の命だ。
          そう勝手に決めてしまった。そう決めてしまったら、おちおち仕事なんかしている場合ではなくなった。女房と二人、食うぐらいならなんとかなる。あと三年で自分の人生に答えを出したい。人の世話をするより、自分の世話をしよう。今まで生きてきた中で出してきた暗い想いを見つめ直し、自分をもとある姿に修正したい。
          そう思って、会社側に今年いっぱいで仕事を辞めたいと宣言したところだった。
          そこへ溝上さんから電話を頂き、この原稿を受け取ることとなったのだ。
          しかし「渋谷おでんや物語」自体は完結しないまま終わっている。文の最後、私達は寄席の追い出し太鼓に追われるようにして「渋谷おでんや物語」の世界から追い出される。
          テケテケ、テケテケと、追い出し太鼓が賑やかに鳴り渡るが、寄席を出た私達はいったいどこへ帰ればいいのだろう。
          本の完成を見ることなく、溝上さんも逝ってしまった。

          本の奥付を見ると、2005年の4月15日になっている。奥付年月日は、少し先の日を設定していたので、6年前のちょうど今頃、本が出来上がってきたことになる。溝上さんが、あの世から「何やってんだ、俺の本を無視するなよ!」と言ってるような気がした。
          大慌てで、PDFを書き出しアップすることにした。

          DEP デジタル・ライブラリーのURL http://www.uta-book.com/dep/

          阪神淡路大震災/うわさ話

          2011.03.19 Saturday

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            ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


            食事をとらない車イス
            「あの隅の教室に当初おられた車イスのご夫婦、いつの間にかいなくなったわネ」
            「地震の時は装具をつけていないで寝ていたので、隣の人が背負って、この学校に連れてきたらしいの。でもこの学校のトイレでは用を足せないので、時々半壊の自分のアパートに帰ってするというの」
            「そうね。学校のトイレは健常者向きたものネ。こんなときは困るわ」
            「毎日帰ることは負担なので、どうなったと思う、トイレに行くのが恐ろしくなって、とうとう一日中水を飲まなかったり、弁当を食べなかったりしていたそうよ」
            「でもそんなに長く持つ筈ないよネ」
            「そこで、自力で障害者施設の何とかというところに、やっと収容してもらったそうよ」
            「学校を去るとき、近くの人にお礼をいいながら、健常者自身が大変なときは、私たちのようなものは後廻しになるのネといったそうよ」
            久子はそれ以上聞く気になれず、廊下を出ていった。そして考え込んで了った。──この世の設備は凡そ健常者を前提に作られている。段階なんかは、障害者でなくても老人である私たちにもつらい時がある。その人の立場になって設計されていないということかしら──私はこれらの公共施設を設計する人が、健常者ばかりであるところに原因があるように思う。健常者にその目を持てといっても、つい忘れて了うのが人間の弱さである。答は障害者の設計者を採用することだと思う。

            会社は頼りになるが、女泣かせ
            被災四週目に入ろうとしている週末の、ある寒い夜だった。夕食を終え、校庭にいつものように焚火されるが、この日は一段と燃え盛かり、囲む円陣の輪も大きく、仲々火から離れようとしていなかった。その円陣の中のある主婦がやや高潮した面もちで喋り出した。
            「うちの人たら、この三週間のうち、二回しか帰って来ないの。いくら会社か忙しいからといっても、あんまりだワ!」
            「会社に電話をしたの?」
            「したけど、出張中とかいって、一回ぐらいしか話してないワ。当初は、すぐ単身寮の世話をしてくれて、自治体よりも頼りになるなあと思ってたけど、家族寮を世話する気配は全然ないんだから──」
            「奥さん、本音はそばに亭主がいなくて、淋しいんじゃないの」
            と三十代のある男が茶々を入れる。
            「そんなんじゃないの。子どもが夜中に熱出して、大変だったんだから──」
            「大変だったって?」
            「水をローソンに夜中買いに走ったの。途中真暗らなところを走って、なんとか目的達して、やれやれと同じ道を歩いてきたら、暗闇の中から、一人男の子がヌッと出てきた。何が欲しいか知らないけど、ハッと身を交わして、何とか逃げられたのよ」
            また茶々が入る。
            「奥さんは若いから、無理もないよ」
            この会話をきいていた田口夫妻は、隣の焚火の輪に移り、火を前にして先ほどの会話の感想を述べあった。
            「いろいろ考えさせられるネ、おじいちゃん。会社って、社員は大事にするけど、その家族は大事にしないのかしら。昔なら分るけど」
            家族は亭主が扶養するという考え方は、また基本的にあるようだネ。夫婦は経済的主従関係という見方か強いかもしれない。給与明細でも、家族手当という欄があるものな」
            「すると亭主は外を守り、内は妻が守るというパターンは変っていないわけネ。避難生活の場合は内なる妻が孤軍奮闘も当たり前ということですかネ」
            「少くとも避難生活という非日常的な生活を強いられている場合は、亭主の生活への参加は配慮すべきかもしれないネ。会社も本人も」
            「まだまだ昔の意識が依然として残っていることが再発覚されたことになるわけネ」
            「先ほどの奥さんは病人の氷で恐い思いをしたが、女としてつらい生活の最たるものは何だと思う?」
            「さあ」
            「この前、救援物資の受付のところである奥さんが話していたけど、マンションの水汲みだって。産後の娘がマンション十階に住み、毎日の水汲み(給水車)のための昇降が大変で、娘のコールで応援に行ったけど、エレベーターも動かないマンション十階は、水汲みに難儀したそうよ」
            「昇り降りは腰にくるからネ。それに寒い時期なら、先々腰痛が心配になるわね。」
            「ところでさっきの話に戻るけど、会社からあまり帰ってこない話、どうしてだと思う?」
            「避難生活は辛く、美しくないから、帰りたがらないといいたいのだろう?」
            「そう、男の人の狡さよ。私だって覚えあるからネ。年末の大掃除、何回逃げられたか」
            「あの奥さんはまだその辺が分っていないから、カッカッしている訳かな。その他にもう一つあるよ理由は──」
            「なに?」
            「当時、交通網が悪いから、何時間も掛かるので、疲れることと欠勤だろうな」
            「欠勤って、そのために有給休暇があるのじゃないの?」
            「俺もそう思っていたけど、誰かがいってたよ。遅刻や電話かかけられなくて欠勤扱いにされ、その上それが理由で解雇になったというところもあったらしいぞ」
            「信じられない。それは大きな会社じゃないだろうけど、無茶な経営者もいるものネ」
            「多分、バブル崩壊後、人員整理しなければならない状況にあって、整理するキッカケが見付からなかった社長さんかもしれんな」
            「この地震で揺すられたのは、家や橋だけでなく、表に出ていない水面下の、社会の恥部までに及んだということですか。見方を変えれば二十世紀末の大掃除になるわけネ」
            「その大掃除がどう掃かれ、掃かれた後をどうするかが問題だ。そんなこと思い巡らしていると、後十年いや二十年は死ねないネ」
            「そんなに生き延びたら、世の厄介者になるから、ほどほどにしないと──」
            田口夫妻の会話は核心に触れる部分があってなかなか含蓄がある。年を重ねることは知を重ねることだと気づかされた会話たった。

            運のない人──ダブルショック
            日曜日の朝はやはり人が多い。廊下の隅に設けてある電話の近くは若い人で一杯である。ここに揚げるのはOL二、三年生の会話である。
            「私の友だちに電話したら、しょげてるの。その訳きいたら、私までショックたワ」
            「ねね、どうしたの?」
            「加古川の子だけど、御影のスポーツクラブて水泳のインストラクターをやってたの。地震で崩壊して、失職したわけ。でも本人は正式に言われていないので、営業再開を待ってたみたい」
            「のんきね、馬鹿みたい。私だったら確認して、失業保険もらうように手続きするなあ」
            「不安になって確認したら、復旧の見込みなしと言われて、泣き泣きマネキンクラブに紹介依頼にいったわけ。一カ月後に、エアロビクスのスタッフの仕事があり、喜んで芦屋にある教室へ向う途中のこと、即ち初出勤の日、事故を起したの」
            「どんな事故?」
            「工事現場の脇を通るときに、そこに止めてあったクレーン車と、ピカピカの自転車が激突し、肩から膝までの左半分を打撲して、今自宅で療養中だって!」
            「どこか、よそ見でもしてたのかな。それにしてもついてない話ネ」
            このような似た話は他にも一杯あったと思う。思わぬことで人生プランか狂い、必死にプランの修復に努めたが、心の中の修復まではいかなかったので、チャンスを生かすことができなかったのであろう。幸い若いので、療養中に精神力も培養されて、再度チャレンジされることを祈るばかりである。

            やはりレイプ事件が──
            貞夫が自治会の副会長になってからしばらくの後、午後七時から始った運営委員会の雑談の時の話である。
            「外国では地震、洪水などの天災があると、必ず盗難やレイプなどが横行するが、日本ではそれがない。阪神大震災では住民みな紳士的であると報道されているが、どうも横行しているらしいネ」
            「加害者がその気になるなら、街は暗く、人影も少いので条件は揃っているもんな」
            「どうも崩壊した民家を昼間ボランティアに来て下見し、真夜中に盗難に入るらしいぞ。確かめた話じゃないが──」
            「やはりあったのか。これだけ飽食の時代といわれても、金目のものが欲しいのは、誰でも、いつの時代でも一緒だからネ」
            「そういえば、自治会単位で、パトロール班を結成し、当番制て夜廻わりしているところも時々見かけますな」
            「通勤するOLや通学する女学生を狙って、暗い解体現場に引きずり込み、複数犯で犯すケースか多いようだ」
            「どんな手口で誘うのかネ」
            「噂の話だから確かじゃないけど、『お風呂に入りたくない?』とか言って、ワゴン車を準備しているらしい」
            「実に計画的だね。若いもんは衝動的だが、レイプになると計画的になる訳か。それで被害者届けは出していないのかな」
            「どうも泣き寝入りらしい」
            「今の女性でも昔の倫理感に縛られて、耐えている面があるんですなあ」
            不幸にして、レイプの経験がないので解説できないか、誰でも精神的ストレスや生理的なうっ積がつもると、自分で解放することができないと、他人の力を頼ることになる。そのやり方か強制で、害を与えることになるので社会的な問題になる。しかし社会的問題にしたがらない被害者が多いだけに、問題が深いのである。ここで対策を述べる気はないが、被害者に対する温かい目を持つ社会にならなければならない事だけは確かと思う。
            話を戻そう。運営委員会の雑談は更に続いた。
            「ところでオチついでの話になるが、ここの話ではなく外の話だが、亭主の暴力やセックスが問題になっているらしいネ」
            「今度は家庭内レイプか。地震で亭主のこころまで揺さぶり、不安定にしてしまったのかもしれないな」
            「しかし、ストレスが溜って暴力になるのは分かる気もするが、セックスはその気になるかな。暴力は一方通行でもセックスの一方通行は成立しないものね」
            「正にレイプ家庭版だな。これは奥さんが被害者になる訳だ」
            「奥さんの方はOLや学生と違って、泣き寝入りする事は少いんじゃないかな」
            「最近の奥さんはみな勉強しているから、意識が高いですよ。裁判も辞さないのでは──」
            「だから、最近特に離婚訴訟が激増してるらしい。詳しい数字は知らないけど──」
            「その話はよく聞くネ、最近。離婚を密かに考えていた奥さんが、地震で亭主の本心を確認し、決意が早まったという話を家内からも聞いたな。いろいろな事が表面化しますネ」
            「お宅ではそんな事ないでしょ?」
            「いや、いつ思わぬボロが出てくるか分かりませんワ。ハッハッ──」
            最後には冗談まじりの言葉が入って、会議の本論に入ったが、副会長の貞夫は離婚という言葉が心につかえていた。彼は今まで離婚という言葉は遠い縁のないものと決めつけていたが、一度久子に離婚の心が潜んでいるか聞いてみたくなった。これを聞くことがお互いの絆を深めるキッカケになるかもしれないと思うからである。その後、彼からその後日談はきいていない。

            阪神淡路大震災/避難生活者の言えない話

            2011.03.18 Friday

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              ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


              避難生活者の言えない話

              貞夫と久子はいつも奉仕の姿勢で、その任務にいつも没頭していたが、冷静な目も忘れていなかった。物事がうまくいかない場合には必ずその底に隠れている原因がある。原因である本音を捉えないと、人の賛同を得られないことを痛いほど教えられていたからである。貞夫の目はいや応なしに冷静になり、本音の追究に明け暮れた。当時を振り返り、本音のいくつかをご披露願った。

              一、神戸に戻りたい。隣の人と話したい。
              被災当初の一週間ぐらいの間は、自分たちの住む家さえあればと思い、寒さもひもじい思いも耐えてきたが、数週間も経ち、具体的に行政側から仮設住宅の案内がでると、既に不満に変っていた。
              「こんなところでは、勤め先がない」
              「あそこでは、会社までの通勤時間が遠くて、とても住む気にならない」
              などの言葉に代表されて、折角供給した住宅が、なかなか埋まらなかったとのこと。人間の欲望というのは日毎に変わり、一つの望みが叶うとそれが不満に変わり、常に上を向いて広がっていくものである。これがあるから人間は努力し、成長していくのかもしれない。行政の方たちも予想外の思いを抱いただろうが、本音がつかめきれていなかったのだと思わざるを得ない。商売の世界だけでなく、行政の世界にも人の心を捉えたマーケティング発想を要求するのは酷な話だろうか。この場合の本音は、「今までのように、隣近所の人たちと心おきなくお喋りしたい」のである。従ってできるだけ神戸市内に仮設住宅を計画する努力が求められよう。それも個人別抽せんでなく、隣近所一緒になって抽せんを受付ける計らいか求められる。人間、孤独に耐えられず、孤独死を恐れているのである。

              二、罹災証明に疑心暗鬼
              被災程度によって、行政からの見舞金が違うだけに、全壊・半壊・一部壊の行政判断は、被災者にとって関心の的である。その判断基準が一般の人に分かるように明示されないために、疑い深くなるのは人情である。それを裏付けるような噂も聞いていたので、貞夫の耳もそば立った。ある人の洩らしを聞いた。
              「私んとこ、全壊にしてもらった。現場をみている暇ないから、分らないかもネ」
              行政側からみれば、集中的に申請されるのであるから、現場確認ができないかもしれない。できないなら誰でも判るような基準を発表したら、少くともゴネ得を自慢気に喋る人はいないだろう。公平を旨とする行政は、もう少しオープンにする毅然たる姿勢が欲しいところである。バブルのツケともいえる住専問題や非加熱血製剤問題でも、行政の隠密主義が明かであり、江戸屋敷の官史と全く変っていない。

              三、義援金の皮算用
              全国から神戸市に集まった義援金は千五百億はあるだろうとみている。しかしこのうち、見舞金として被災者の手に渡ったのは百億円足らず。残り千四百億円は、どう使うのだろうか。民間と公共に使用されるだろうが、民間一人当りの取り分は、少くとも普賢岳や奥利尻島の場合よりは少いだろうと、避難生活している教室での食後の話題になっていたという。いづれの日かオープンにしなければならないだろう。これまで株式会社神戸市の開発力の恩恵を受けてきたので、市民はどちらかといえば肯定的な態度をとってきたが、震災後の役所としての対応ぶりに、市民はうんざりし、その仕返しは選挙でと、一度は心に刻んだと思う。二十一世紀の未来都市・神戸を目ざすなら、今回の教訓を忘れず、しっかり心に刻んで、新しい神戸魂をもった行政と市民に生まれ変って欲しいと思う。そして文明と文化が調和した都市になると思うのである。

              阪神淡路大震災/自衛隊のテント風呂

              2011.03.18 Friday

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                ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


                自衛隊のテント風呂

                救援活動のためここ東灘小学校へ自衛隊が着いたのは、震災一週後の一月二十四日であった。多淵夫妻も歓迎して、校門入口の運動場側に立った。外地で戦争した経験を持つ貞夫にとっては、彼らに何ができるかと半信半疑な印象を持っていた。到着するなり、校門正前奥の校舎寄りの運動場にテントを張り始めたので、野営テントかなと思っていたところ、炊事場だった。炊事場にプロパンガスの火がともり、夕餉の匂いともいうべき、ご飯の炊き上がる米の匂い、ダシを取る鰹節の香りが鼻を突き、空いていたお腹を刺戟してきた。忘れていた別のホルモンが動き出したのであろうか、炊き出されたご飯、味噌汁、お漬物を手にした多淵夫妻は異口同音に、
                「まあ、美味しい。熱いって、こんなに美味しいものだったかしら、じいちゃん。」
                「ご飯も汁も、丁度花が咲き始めたころって感じだな。この味、もう少しで忘れるところやった。」
                「心が伝わってくるような気がするワ。」
                「やはり出来たては美味しいなあ。」
                一週間振りに、空腹を超えた味わいを覚えたのである。自衛隊は予め決められた役割を黙々と続けて、被災者の列に応えていった。その列には近くの住民の人たちも混じっていた。我が家に住んでいるとはいえ、ガス、水道などのライフラインを止められた生活には、自衛隊の炊き出しは何とも嬉しかったようである。
                「思い切り火を燃して出来たご飯は、やはりおいしわネ。電気炊飯器と違うみたい。」
                「これ、コシヒカリかしら、おいしいもの。」
                「みんなで、食べるからおいしいのよ。」
                「炊き上って、蒸らし加減が丁度いいのよ。」
                とさまざまな感想を述べなから、校門を出ていった。
                こんな風景が当り前のようになった一週間後の一月三十一日、校門入口の右側に新たなテントを張り出した。校門入口の左側には、貞夫が仕切っている物資本部のテントがあり、運動場の中央奥には自衛隊の炊事テントがあり、右側奥には、避難テントが大小十個ほど陣取っていた。このテントは校舎の教室や講堂、廊下に避難することを嫌い、プライベートを保ちたい家族が多かったようだ。その後仮設住宅や転出先の決った方から教室を空けていくが、このテントは最後まであったという。
                運動場の残り少いスペースに立ちつつあるテントをじっとみていた貞夫は、「野営テントでもないのに、今更なんだろう」とつぶやいた。ややしばらくしていると、水を入れる大きな、腰高の、布製の槽を目にした。
                「風呂場を作るのか。」
                貞夫の忘れていた暮らしの場面である。この二週間、パンや弁当の荷降しや配布にすっかり心を奪われていたことを振り返りながら、自分の暮らしを見廻した。夕食を終えたあとのひとときや寝る前の瞬間に、誰のものともいえぬ体臭を感じたことが、何回もあったことを思い出した。
                目の前に、見る見るうちに、テント風呂が出来上がり、貞夫も年甲斐もなく狂喜した。同じように目を凝らしていた人たちが、たちまち列を作った。しかし隊員の行動は規律正しく、紳士的で、番台代わりの担当者は
                「この看板に書いてありますように、男湯、女湯に分けられませんので、一日交代とさせていただきます。皆さま全員にご利用いただくため、お一人十五分程度でお願いします。なお、下着等のお洗濯はご遠慮願います。」
                と丁重に言葉を繰り返していた。貞夫と久子は彼らの行動に感心し、すぐ甘える気になれなかった。
                「おじいちゃん! 今まで私たちが思っていた自衛隊と違うネ。みな物静かで、余分なことを何一ついわず、なかなかの好青年ばかりネ。」
                「皆が欲しがる頃合いをよく知ってるよ。お腹の心配がなくなったら、次は身の廻りの清潔、さしずめ洗濯だもの、風呂はグットタイミングだ。」
                「私たちの番はいつごろになるかしら。」
                「テント村も入れて、千二百人、それに近所の住民もいるから、大分先になるな。」
                こんな会話を物資本部の隅でしているところへ、隣の教室に避難されている本山さんの奥さんが、顔から湯気を出しながらお風呂談義。
                「ああいいお風呂だったワ。一度に二十人位入れるかしら。何しろ銭湯のようで、生き返った感じ! 久しぶりにジャブジャブとお湯を使ったけど、お水さまさまという感じだったワ!」
                普段何の苦労もなく蛇口をひねると、すぐ使えることに馴れ切った私たちには、自然の恵みに感謝するよい機会でもあった訳である。多淵夫妻がこのお風呂に入ったのは、二月の十日ごろだった。それまで待てなかった二人は意を決して、二月早々神戸脱出を図った。
                阪神電車の復旧は遠く、自分の足だけが頼りだった二人は、道を拾い拾いしながらJR芦屋まで歩いた。芦屋から尼崎まで乗り、駅から徒歩十分ほどのところに、目ざした尼湯ヘルスセンターがあった。同じようなお客で賑っていた。普段は入浴料干九百円のところ、震災価格三百円で開放していたから大繁盛である。それだけに浴舟に浸かっている暇も少なかったが、十八日ぶりのお風呂は、まさに本山さんの奥さんの言葉通りだった。風呂上がりに飲んだサイダーと明石焼が殊の外おいしかったという。多分震災のツメ跡もなく、別世界だったのだと思う。
                風呂の心地良さを知った貞夫が、自衛隊のテント風呂に入ったのは尼崎から帰って一週間後の二月十一日。六帖ほどの大きさの湯槽が二つ、重油を燃して流れ出る豊かな水の量、ほど良いぬくもりを含んだ真綿のような抱擁に酔うほど十五分、生きていればこそ味わえるこの幸せだった。こんな幸せを届けた自衛隊のテント風呂は、近くに銭湯が開業されるまでのニケ月以上続いた。
                満州に出征した当時の軍隊生活と比較しながら、隊員を温く、頼もしくながめていた貞夫は、運動場の片隅で思ったという。
                「自衛隊の役割としてODAの海外派遣は増えていくだろうが、その前に国内に目を傾けなければならない。文明が発達すればするほど、天災、人災の規模は大きくなる。これを助ける組織も、各自治体を超えた国レベルの組織が必要になってくる。それも単なる情報や行政の一元化だけでなく、行動がついてこないといけない。ヨー口ッパのようなレスキュー隊がない日本では、自衛隊しかない」と。そう思うと今回の働きは将来の役割を示唆するものであると貞夫は妙に嬉しさがこみ上げてきた。もし満州でこのような震災が起きたとしたら、当時の軍隊はどうしたであろうかと思うと、隔世の感があった。
                愛される軍隊、頼もしい軍隊と見直した自衛隊を、貞夫は旧日本軍と比較して次のように分析していた。

                一、上官(上司)が威張り散らさない。
                二、私的制裁(リンチ)がない。
                三、紳士的で、無駄口を吐かない。
                四、女性隊員の物事をわきまえた活躍の場(例えば女湯の案内など)。

                隊員にこんな感情を持ったのは貞夫ばかりではなかった。それをはっきり証明させてくれたのが、お別れの日だった。取り立てて退去スケジュールを宣伝しないのに、少しずつ去っていく隊員の仕種をかぎつけて、被災者や近くの住民の輪や列が自然にでき、手を上げて
                「ありがとう、ご苦労さま。」
                「お風呂がよかったよ。」
                「味噌汁がおいしかった。」
                「おやつの焼きいも、子供、喜んでたわよ。」
                「きれいにしてもらって、ありがとう。」
                それぞれの思いをぶつけて別れを惜しんだ。これを受ける隊員は慢ることなく、目に微笑を浮べながら、黙々と目礼して車の中に消えていった。貞夫もその中にあったが、このシーンを貞夫は沈黙の万才だと名付けた。 

                阪神淡路大震災/避難所の中での奉仕生活

                2011.03.17 Thursday

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                  「東日本大震災」が起こって一週間が過ぎようとしている。僕が「かんぽう」、いわゆる政府刊行物サービスステーションで出版活動を始めたのは、「阪神淡路大震災」が直接の原因だった。
                  阪神淡路大震災は1995年1月17日に発生したのだが、それから5年以上も経った2000年の秋、関西国際大学の熱田親憙(あつたちかよし)教授が、「かんぽう」の僕のもとを訪ねてこられた。お話を聞くと、阪神淡路大震災の際、避難所生活を取材した本を書こうと取材活動を続けてきた。本もある出版社から発行される予定になっていた。ところがやっと原稿が完成した頃は、震災後のプレハブ住宅も撤去された後。出版社側も、この時期、この本を出しても売れないと判断し、出版を下りることになったのだという。自費出版も手が出ない、取材された人たちは、本になるのを待っている。「かんぽう」で何とかならないかというのだ。
                  もともと「かんぽう」というのは、政府刊行物を書店に卸す業務、政令・法令公布紙である「官報」の取扱、「官報」への法定公告の掲載取次を主な業務とする会社だった。この業務の中に「出版」は含まれていない。
                  しかし、国の出した出版物を書店に卸すだけというのも面白くない。せっかく書店への卸しをやっているのだから、独自の出版物を出せないか、そう思っていた矢先だった。
                  没になったという原稿を読ませてもらって愕然とした。大地震という異常事態が発生したとき、それ以前の地域活動というか人と人との付き合いが如何に大きな意味を持ってくるか、また避難所生活という団体生活の中で「食べること」「排泄すること」をめぐる様々な葛藤。エゴもむき出しになれば、善意もクローズアップされる。
                  この本は、将来、我々が直面する震災といった異常事態にどう対処していくかのヒントが本文中にちりばめられている。ぜひ出版しなければと思った。
                  そこで考えたのが、読者をまず募集しようということだ。著者と出版社が協力して予約購読者を募る。たとえ製作費が全部でなくても、著者も出版社も、費用面でのリスクは大幅に下げられる。

                  早速、著者の熱田教授に提案したところ、熱田さんも「面白い、やりましょう!」となり、こうして草の根出版活動とでもいうべき「オーダーメイド出版」がスタートしたのだ。
                  そこへ、「神戸新聞」「読売新聞」「サンケイ新聞」「日経新聞」が「面白い」と記事にしてくれた。中でもサンケイ新聞のS記者は、「調べてみましたが、この出版方式、ありそうなのに、今までどこもやっていません」と応援してくれた。(上の写真は、2000年11月26日サンケイ新聞朝刊の記事)

                  前置きが長くなったが、こうして「阪神淡路大震災・避難生活から学ぶ心の震災防備」は無事完成した。今では、この本も絶版品切れ状態だが、この機会に、著作権の関係で全文は無理だが、その一部を何度かにわけて紹介していこうと思う。


                  避難所の中での奉仕生活

                  昨年(九四年)十月、神戸の文化ホールで合同金婚式に出席、市や県の方々から祝辞をいただきながら、多淵夫妻は話し合った。
                  「これまで元気にやってこれたのは、皆さんのお陰よ。それにおじいちゃんにも感謝してるワ。これからは感謝の気持を持って、日々暮したいものネ」と久子の提言。
                  「改まると照れ臭いが、人間として原点に戻って暮せるといいね」と貞夫の応答。
                  こんな会話を交わして、口も乾かぬ三ケ月後の今、地震の被災者として、この東灘小学校の一階の木村教室に、四世帯同居の一員となった。避難できる空間を得、食べるものが支援物資として三食得られるようになると、心も落着きを取戻しつつあった。久子も同じだった。姑の教育で清潔好きになっていた久子は、避難生活三日後の朝、廊下を通ってトイレに入ったら、ウンチの山。流そうにも水がないので、溜まる一方。これ以上になったら用もたせなくなると思うと、本来のきれい好きと金婚式の誓いの言葉が蘇り、
                  「おじいちゃん。私、今日からトイレの掃除婦になるワ。地震で生きながらえさせてもらったのだから、感謝しなくちゃ。いつまでも避難生活者になっていたら、バチが当るワ。」
                  「そうだな。人の為にする最後のチャンスかもしれんな。お前らしい役目を選んだが、俺は何をやろうかな?」
                  「毎日、どうしてもやらねばならないのは、弁当やパンなどの食料の配布だね。力仕事は無理だけど、いろいろな手配、段取り、チェックなどあるから、その方を中心としたマネージャーになったら? おじいちゃん。」
                  決ったらすぐ実行に掛かった。フットワークの良い久子は、ゴム手袋、タワシや薬品などを買って、自分たちの使うトイレ、男性用、女性用とも、約二時間半かけて、ウンチの山を袋詰めにして処理した。
                  きれいにした満足感はすぐ傍の洗面所にも及び、約三時間で元のトイレ・洗面所に戻った。あとで久子は振り返っていう。
                  「とにかく小学生の学び舎を、大人たちが住み家として奪ってしまったのだから、申し訳ないという気持が強かった。それに子供たちにトイレを汚す大人たちと笑われないようにしょうと、年配者である私が率先せねばならないという気持が強かったね。」
                  こんな久子の働きぶりをみた同室の宮城さん。四十才前後の大学の先生であるが、早目に学校を引き上げて、自から清掃の役を買って出てくれた。そして同居する四人組全員が掃除婦になって、トイレは勿論、廊下まで水打ちできるようになった。心に余裕のあるときは、学校から足をのばして、ガレキの陰に咲く野の花を摘み、殺ばつとした教室に潤いを生けることも忘れなかった。
                  きれいになったトイレでもまだ水洗は使えない。やはり用をたして、そのままの人がいる。責めても仕方ないので、四人の掃除婦は考えた。――徹底的にきれいにして、汚すことが咎められるようにしよう。そして入口に水桶と柄杓と小さなバケツを用意し、トイレに入るときは、バケツに水を汲んで入り、その後は流してもらうよう注意書きを貼ろう。――これを実行するとなると、水の確保と水洗が使用可能かどうかのチェックが必要だった。苦労したのは水洗のチェックである。流れるようにするため、便器の奥まで手を入れたり、棒を入れたりの苦戦の連続。この甲斐あって、以降汚す人はいなくなり、一階から二階・三階と徐々に広がっていった。
                  「当初、飢えへの恐れから、人間の食欲のすごさを見てきましたが、排泄のエネルギーのすごさも、同じように感じたワ」と久子は述懐する。私の知人が震災まもなく、現地ボランティアで、温かいおでんを持参し、テントに住むお婆さんに勧めたら
                  「おいしそうネ。食べたいけど、近くにトイレがないから―――」と耐えている姿をみて、暮らしの原点を気づかされたという話が思い出された。東灘小学校はまだまだ恵れていたのである。
                  一方、食料班のマネージャーを決意した貞夫は、毎朝六時、校門から入ってくるトラックからパンや弁当を降して、皆さんに配るマネジメントをした。一日三回、一回が初めの千二百食。小学校へ避難した人ばかりでなく、学校附近の住民全員が集まったから、人数が読めなくて苦労したという。初めの二〜三日は、食料確保が最大の関心事だったので、一人で二食分、三食分を備蓄する人(比較的若い人)がいたので、年寄りは当らないときもあったという。これらの食料難も解消されると、被災者の関心は、今の避難共同生活をどうやって行くか、将来の自分たちの家はどうなるのかという点に移っていた。そのために自治会が発足、貞夫は副会長、会長はパチンコ店などを経営している事業家の松木さん。自治会の運営は十二ブロックの班長が中心となった。運営のポイントは三つあった。
                  一つは今の避難共同生活のルールづくり、二つ目は被災者の要望に対する市対策本部、自衛隊、学校、児童側の回答の引き出し、三つ目は被災者のトラブルである。
                  トラブルはいろいろあるが、多いものを上げると、まずは仮設住宅の件で、当選率が低い、場所が遠くて会社に通えないなどだった。次が弁当配給の不公平、人により二個三個確保するものがあるということ。三番目が勤め人の態度の問題。会社の無理解や本人の性格などから、とにかく会社第一。早朝出勤して夜遅く帰る。避難生活の共同活動に何も協力せず、申し訳ないの詫びもせずに、被災者として夜の弁当にありつける。昼間、清掃したり、整理整頓したりして疲れている老人や女の方からみれば、面白くないのは当然である。
                  ここにも会社人間の人間像や会社像が浮かび上がってくる。伝え聞きであるが、十八日から平常勤務となったある会社は、神戸から通勤できない、連絡とれない社員を無断欠勤扱いしたという。このような会社の社員は、いつクビになるかもしれないと、家庭より会社を第一にするのは当然である。それにしても詫びる心の余裕だけは持って欲しいと思う。
                  四番目が、朝から酒を飲んでいるグータラ男。何もしないで、被災者気取りが皆のひんしゅくを買っているのである。
                  五番目が行政当局に対する苦情である。直後は空腹を充すためのパンやおにぎりも歓迎されたが、来る日も来る日も同じものが支給されるので飽きてしまう。そのため「ただ、支給したらいいというもんじゃない」と風当りは強かった。
                  この点については自治会も反論できなかったが、往々にして、不平の多い人ほど行動が伴わないので、快く取り上げる気にもなれなかったこともあったという。これはいずれの社会でも同じである。不平不満の多い人は、自分で解決する力がないために不満になるのであるから、受け流してでも、聞いて上げること自体で、解決するかもしれない。
                  貞夫は四月下旬、この東灘小学校で、副会長として約百日間頑張ったのである。今は悔いのない日々だったという。

                  「侍Women」と「藍い月」 vol.2

                  2010.12.17 Friday

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                    左の写真は、中塚睦子(なかつかちかこ)さんが、友人とたった二人で中国へ渡り、中国国営映画社と共に製作した日中合作映画「藍い月」の一部分である。
                    日中合作映画とは言え、日本側のバックがあるわけでなく、制作費の半分5000万円を出したのは、中塚睦子さん一人だ。
                    このため、製作にあたっては、企画から撮影に入るまでも、また撮影に入ってからも、ハプニングやアクシデントの連発。その裏話を「本」にして、各地での映画公開との相乗効果で、作者がこの映画を製作した意図(世界の孤児の問題) を広く伝えていこうという寸法。

                    本のタイトルは、題して「侍Women」(仮題)! その本をつくるにあたって、実は、僕に白羽の矢が立ってしまった。
                    前回のブログでは、その顔合わせに、僕が著者の住む熱海へ向かったわけだが、そこで意外な事実に突き当たってしまった。
                    個人で本をつくるのに一番大きな問題が製作費。それが一銭もないと言う。お金がないとは聞いていたが、普通、「ない」といっても、ある程度は用意されている場合が多い。ところが今回の場合は、打ち合わせで大阪へ出てくる費用さえないと言う。みんな、映画製作につぎ込み、文字通りの一文無しという訳だ。

                    次の問題が、出来てから、どうして本を売っていくのかという販売上の問題。いくらお金があっても、個人で本をつくった場合、売るというより、プレゼントしてしまうケースが多く、残りは押入にデッドストックとして積まれる場合がほとんど。大々的に書店展開する訳にもいかず、一部の書店で扱ってもらっても、宣伝力がなければ、ほとんどが返品されてくる。一度返品されると、書店への再配本は難しい。

                    この二つの問題を、どうクリアするかということになる。

                    昔、政府刊行物のサービスステーションに籍を置いていた僕は、国の作った本だけを書店に卸したり、販売するだけでなく、自社独自の商品を持ちたいと、オーダーメイド出版ということを始めた。

                    どういうシステムかというと、企画の段階から、出版社と著者が、まず市場調査と製作費づくりを兼ねて、予約集めをする。紹介のホームページと、予約者獲得のためのフライヤー(チラシ)が主な武器になる。こうして予約の段階で、ある程度の製作費がカバーできるようになった時点で、実際の製作に踏み切ろうという寸法だ。

                    当初、このやり方が面白いと、神戸新聞、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、日本経済新聞等々でとりあげられ、当時は結構話題になり、このやりかたで、政府刊行物在籍中、200点近い作品を世に送り出した。

                    中塚さん(右の写真)の話を聞いて、またぞろ、この方法でやってみようと、提案した。
                    「お金がないなら、それを強みにしてやっていこう」というワケ。こと自費出版に関するかぎり、お金のある人は、本が出来て、それで終わりになってしまうケースが多い。予約者を募るため、さまざまな知恵を使い、人間関係を使い、そうするなかで、一つの話題性を作り出していく。映画の公開も、上海万博での公開と、日本では沖縄・九州の一部の地区でしか公開していないという。ならば本の制作に向けてのPR活動、予約者募集活動の中で、映画についても全国各地での公開へ向けて気運を盛り上げていけるのではないかという提案だ。
                    もちろん時間もかかるし、労力もかかるが、お金がなく、しかも大手出版社が企画出版として乗り出さないのなら、この方法しかないと思う。

                    というわけで、早速、告知用のホームページを製作した。
                    ホームページでは「映画」の一部も観ていただける。ぜひ覗いてみていただきたい。そして面白いと思ったら、1冊でも2冊でも、著者に成り代わり、予約をお願いする次第であります。
                     http://uta-book.com/dep/samurai_women/

                       中国「東方時報」に紹介された、中塚睦子さん(上)と、「藍い月(中国題 藍月亮)」

                    「侍Women」と「藍い月」

                    2010.12.13 Monday

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                                         (熱海の夜景 南明ホテル前)
                      彼女とは、16時の待ち合わせだった。
                      彼女というのは、以前にも紹介したことがあるが、友人と二人中国に渡り、中国の国営映画社と力を合わせ、映画「藍い月」を製作した中塚睦子さんのことだ。映画は、日中戦争当時、国籍を隠し戦争孤児を育てた日本人女性が主人公で、彼女自身、その主役を演じており、そこには中塚さんが上海で知った中国の孤児たちの現実がある。この孤児たちに手をさしのべたい。その思いがスタートだった。お金を寄附してその場しのぎをするより、映画化することで、多くの人にメッセージを送りたかったという。
                      今回は、映画が出来るまでの奮闘記を「本」にするという。そのための顔合わせのようなもので、「本」と「映画」の相乗効果で、彼女のメッセージをたくさんの人に知ってもらおうというわけだ。

                      待ち合わせ場所は、なつかしい熱海の「南明ホテル」前。昔は年に何回かは、あるセミナー参加のため、熱海を訪れていた。中塚さんの強引な呼びかけに応じたのも、懐かしさが手伝ってのことだったように思う。

                      16時の待ち合わせだったが、午前中、母親の介護のことで別の打ち合わせがあり、これが思わぬ時間を食って、熱海に着いたときはもう4時半近くになっていた。彼女には新幹線の中から遅れる旨を連絡してあった。しかし待ち合わせ場所に着いても、彼女の姿はなかった。
                      彼女自身からも用事で遅れる旨の連絡があったので、懐かしい南明ホテルの前で時間をすごす。見れば「南明ホテル」前に「豆相人車鉄道」の記念碑が立っている。なんでも、この南明ホテル前が、その「熱海駅舎」跡になるのだという。写真が小さくて、読めないと思うので、以下にその碑文を書き写しておく。

                      「豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道は雨宮敬次郎氏と、地元の有志20余名の努力によって、明治29年(1896)3月、熱海―小田原間(25km)全線が開通した。所要時間は4時間ほどであった。この人車鉄道は定員6名あるいは8名の客車を3名の人夫が押すという、きわめて原始的なものであった。明治29年当時の運賃は熱海から小田原まで、下等40銭、中等60銭、上等1円、3歳未満は無料、10歳未満は半額というものであった。
                      豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道は日本最初のもので、明治40年(1907)12月、軽便鉄道にかわるまでの12年間、貴重な交通として利用された。」

                      こんなものがあったとは意外だった。当時は、気付くだけの余裕がなかったのかも知れない。そんなとりとめのない思いに心を向けていると、携帯で何やら話しながら近づいてくる女性がいる。写真でしか見たことがないが、確かに見覚えがある。中塚さんに間違いない。

                      こうして中塚さんとのコンタクトに成功し、最寄りの中華料理店で、老酒片手に8時過ぎまで話し込むことになるが、話すに連れ、意外な事実が明らかになっていく。(続)