山折哲雄さんの「私の散歩道」

2010.04.14 Wednesday

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    最近、「夕陽さんさんの会」の記事が多くなっているが、山折哲雄さんの珍しい原稿を発見したので、 ついでながら、ここで紹介しておきたい。「夕陽さんさんの会」会報の前身となる冊子で、「今昔ものがたり」なる不定期刊行物がある。やはり「むかし料理 今昔」のおかみ野村さんが発行していたもので、この編集組版も僕が手伝っていた時期がある。そこに山折さんが原稿を下さっていた。前に紹介した「殉教者たちが見た夕陽」とも関係する記事なので、ぜひ、ここに紹介したい。


    私の散歩道
    山折 哲雄

    この四月から京都の下京区に住むようになった。綾小路通りと油小路通りが交叉するあたりである。
    それでよく散歩に出る。このあいだは、その油小路通りを北に歩いていって、昔の本能寺小学校というのにぶつかった。いまは別の施設になっていたが、いわずと知れた織田信長が明智光秀に襲われて自刃して果てたところだ。その旧本能寺小学校を大きく迂回するようにして帰ってきた。

    南蛮屏風に描かれたイエズス会士それからしばらくしてだったと思う。歩き出して数分ほどのところで、「二十六聖人発祥の地」という銘板をみつけて思わず立ちどまった。四条通と堀川通の交わる東南の角である。その銘板にはこんなことが書かれていた。
    一五九四年のことだが、ここから西側百メートルにある妙満寺町に、フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父が聖マリア教会病院学校スペイン使節館というのを建てた。ところがそこで活動していたキリシタンの多くが、その三年後の一五九七年の二月五日に、長崎の地で殉教した。右のペトロ神父をはじめ、五名のフランシスコ会士と、三名の日本人イエズス会士、および十七名の日本人信徒の計二十六聖人だった。それでその場所が、「二十六聖人発祥の地」とされるようになったというのである。

    そのころ私は、たまたま浅田次郎の『壬生義士伝』を読んでいた。東北は南部藩出身の新撰組隊士・吉村貫一郎の話である。私のふるさともその「南部」なので、そこに描かれている吉村のキラキラした人間像に胸をつかれて読んでいた。そのなかに新撰組を裏切った参謀・伊藤甲子太郎とその一味を闇討ちにして血祭りにあげる凄惨な場面がでてくる。慶応三年十一月十八日のことである。かれらは新撰組に入ったものの、近藤勇や土方歳三にうとまれて、裏切る運命をたどったのである。
    その現場が七条油小路通りであった。私のいまの住まいから歩いて三十分ほどのところである。『壬生義士伝』では、さきの南部の義士もその仕事に参画していた。
    そのことを知った数日後、綾小路通りを西へ歩いて、堀川、大宮を越えていった。すると目と鼻の先に、新撰組の壬生屯所あとという遺跡があらわれた。新撰組は、はじめ壬生村に根拠地をおいて分宿していたが、分裂したあとは、近藤、土方などの京都組は京都守護職の配下になって西本願寺に屯所を移している。その西本願寺にも歩いて二十分、現在地に越してきてから私は一度だけお詣りしている。
    じつをいうと大学生二年生のとき、私はその西本願寺の御影堂で剃髪し得度をうけていたのである。
    因果はめぐるというか、このごろ外に出て歩き廻っていると、死者の記憶にぶつかることが多くなった。死の匂いのする場所だけを選んで歩いているような錯覚に襲われるようになったのである。いったいどうしてそんなことになってしまったのだろうか。不思議でならない。
    いちど大阪まで脱出し、「今昔」あたりでお清めの酒でも飲んで厄落としをしなければならないのかもしれない。

    「夕陽さんさんの会」のご案内

    2010.04.13 Tuesday

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      「夕陽さんさんの会」 会報の原稿の中で、これはと思うものを、このブログで紹介しはじめた。僕自身は、この会には入っていないのだが、会を主宰する「むかし料理・今昔」のおかみ野村さち子さんとは大の仲良しで、この縁で会報発行のお手伝いをするようになった。会報自体は年一回1000部ぐらいを発行している。A4中綴じ16ページ程度のものだが、内容がかなり充実している。執筆陣も著名な方が多く、このまま会報だけで紹介するのはもったいいないと、このブログに紹介をはじめた次第。ところが、これが大反響というか、会員の原稿を紹介するたびにアクセス数が跳ね上がる。

      それならということで、「夕陽さんさんの会」のことを、もっと詳しく紹介しておかねばと思った。さいわい手元には、名誉会長の山折哲雄さんや、会長の中西喜次さんの活動趣旨に関する原稿もある。主宰者の野村幸子さんも、僕のブログで、会のことを紹介するのを了解していただいている。
      ではということで、まずは「夕陽さんさんの会」とは、というところから。


      夕陽さんさんの会は…/名誉会長・山折哲雄
      夕陽さんさんの会は、夕陽を見ることによって心の安らぎを得ようとする会です。
      夕陽さんさんの会は、夕陽の荘厳な光景に接することによって、人生の感動を確かめようとする会です。
      夕陽さんさんの会は、美しい夕陽の輝きに包まれることによって、人々との共存、自然との一体感を手にしようとする会です。
      夕陽、宇宙的なイメージ
      こんな子守唄があったことを皆さん、ご存知でしょうか。
      親のない子は夕陽を拝む
      親は夕陽の真中に
      親に死なれた子、親に捨てられた子、親はいても捨てられたも同然の子、……そういう子供たちは夕陽を拝んで心を慰めていたのです。今でも「親のない子」は巷にあふれています。
      夕陽は親と子のきずなを強める心の原風景なのです。人間と人間の心を結びつける、宇宙的なイメージなのです。


      次いで活動趣旨について


      活動趣旨/会長・中西喜次
      夕陽さんさんの会の活動趣旨は、次の言葉に尽くされていると思います。
      『夕陽のもつ魅力、伝承、イメージなどを再認識し、人と人、人と自然の共生を見つめ直す』。
      活動の趣旨を話し合った際、「夕陽」そのものに対するイメージがそれぞれ、出されました。いわく、「単純に夕陽が好き」から、「夕陽=西方浄土」、「夕陽=再生(明日、朝日を迎えるために夕陽がある)」、夕焼け小焼けの唄に歌われているように「夕陽=お手々つないで(手を携える、人々の共生イメージ)」等々 、各人各様、千差万別、さまざまな心の動きが反映されています。
      また、会に参加した動機も「みんなが集まってワイワイ、ガヤガヤ、それが楽しい」、「夕陽ヶ丘の地名に象徴されるように、夕陽=大阪、大阪を会の活動を通して活性化させよう」など、人それぞれです。
      要するに、「夕陽」がそれぞれの思い、憶いを媒介する役目、人と人を結ぶ継ぎ手の役目を担っているということです。それが「人と人との共生」につながるのです。会に参加した動機はどうあれ、夕陽が契機となって人の輪が広がる。それでいいのではないでしょうか。
      「夕陽」のイメージもさまざまですが、夕陽が生と死を含めた自然そのものを表していることは確かです。それが「西方浄土」「再生」の言葉にも現れています。「夕陽」は自然、そのシンボルなのです。夕陽に思いを至すことで、「自然との共生」が象徴されるのです。
      これらをまとめたのが、冒頭に掲げた『』の言葉です。夕陽さんさんの会は、これを活動の基本、趣旨としたいと思います。


      プロフィール
      名誉会長/山折哲雄
      (宗教哲学)
      宗教学者 1931年サンフランシスコ生まれ。東北大学インド哲学課卒業。国際日本文化研究センターなどの教授を歴任。 国立歴史民俗博物館、京都造形芸術大学院院長。 著書に『臨死の思想』『生と死のコスモロジー』など多数。

      会長/中西喜次
      (農学博士)  
      1918年、大阪府茨木市に生まれる。京都高等蚕糸学校製糸科卒業、商工省大阪工業試験所入所。第2次大戦中、旧満州、台湾、 マレー半島、ビルマ(現ミャンマー)、 タイなどを転戦。1946年復員後、工業試験所復職。油脂、食品、界面活性剤、チョコレート製造技術研究に従事。1981年、同所退官。日本食品科学学会副会長、日本薬膳研究会会長。日本チョコレート工業史』『日本の米はどうなる』『ジャワ、ビルマの大空』など著書多数。

      主宰/野村さち子
      実は、彼女については、「むかし料理 割烹 今昔」のおかみで、「夕陽さんさんの会」の主宰者だという以外、あまりよく分かっていません。聞き上手で、人の話はよく聞いてくれるのですが、自分のことを話しているのは聞いたことがないのです。そこで彼女の店の所在地と、料理に関する彼女の思いを紹介してプロフィールに代えさせていただきます。

      太陽と水と土を食べる 野村さち子             
      厳しい冬を過ぎて新しい生命芽吹く春、古代人は山菜などの季節の贈り物で命を継なぎ、春の有り難みをしみじみと味わった事でしょう。
      「旬」を食べる事は、新しい季節への身体作りと、病気になりにくい身体作りに役立つのです。辞書で「旬」とは、魚・野菜など、出盛りの最も味の良い時季とあり、季節の贈り物を有り難くいただく事ですね。

      春/コゴミ・タラの芽・ワラビ・山ウドなど、苦味を持った食品で、冬から新陳代謝の高まる春の身体へ作り変えてくれるのです。
      夏/トマト・キュウリ・ナス・トウガンなどは、体内に熱がたまり過ぎないように、利尿効果を持っています。
      秋/温度差が激しく、夏の疲れで体調が崩れやすい季節、秋の野菜や果物で、冬の寒さに負けない体力づくりを、ギンナン・ナシ・秋ダイコンなどで、痛めたのどを潤し、肺を暖めて体調を整えてくれるのです。
      冬/マイモ・ニンジンなど根菜類、肉などのタンパク質、身体を暖めて、寒さに負けない身体作りに役立っています。

      上手に旬のパワーを、体内に取り込みましょう。


      ◇ むかし料理 割烹「今昔」 肥後橋本店
        大阪市西区江戸堀1-9-13
        地下鉄四つ橋線 肥後橋駅 7号出口より 徒歩2分
        電話 06-6445-8455                             
        営業時間  PM5:00〜PM11:00/定休日 日・祝日
        酒匠 野村さち子

      殉教者たちが見た夕陽

      2010.04.11 Sunday

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        26聖人殉教碑

        今回は、「夕陽さんさんの会」に寄せられた原稿の中から、宗教哲学者として著名な山折哲雄さんの原稿「殉教者が見た夕陽」を掲載させていただく。加藤賢一さんの歯切れの良い語り口とは対照的に、心の底にしみこんでくるような、しっとりした語り口を楽しんでいただきたい。(写真は、ブログ掲載時に入れたもので、元原稿にはなかったものです。)


        殉教者たちが見た夕陽
        山折哲雄

        私はいま、京都市の下京区に住んでいる。もう八年になるが、毎年祇園祭の季節になると町内から山車(だし)が出る。芦刈山町だから、芦刈山という山車をくり出す。ただ鉾はたてない。ここは鉾街の一角であるとされてはいるけれども、鉾はたてない。山車を出す。
        その町内の私の住まいから歩いて五分ほどのところに四条病院がある。四条通りと堀川通りの交わった南東の角にそれは建っている。
        近所を散歩していて気づいたのであるが、その四条病院の外壁に一枚の碑銘が打ちつけられていた。注意しなければ見落としてしまうようなところに、それはあった。
        その銘板に、「日本二十六聖人殉難地」という文字が刻まれていたのである。その場所は、かつてキリシタンたちによる宣教運動の中心地だったといわれているのであるが、やがて秀吉の禁教令が出され、捕らえられた二十六人の宣教師と信者たちは、そのまま長崎まで引っ立てられていったのだという。
        一昨年のことだったが、私はたまたま長崎の地を訪れる機会があった。偶然にも、投宿したホテルから歩いて十分ほどの場所に、殉教したキリシタンたちの丘があることを教えられた。それはJR長崎駅の近くに位置し、NHK長崎支局の脇の坂をのぼっていくと、そこが公園になっている。丘の上に立ってふり返ると、眼下に長崎湾を広々見下ろすことができた。
        公園のやや奥まった小高い場所に、等身大に近い二十六人の銅像が横一列に並び、長方形につくられた大きな石の壁のなかにきれいに埋めこまれていた。近づいて仰ぐように見上げると、その多くは日本人の男女の信徒たちであったが、なかにポルトガル宣教師の顔も混じり、さらに背の低い三人の子供たちがいた。

        26聖人殉教碑部分視線を移動させていって、私は驚いた。かれらがいずれも、両足のつま先を下に垂れていたからである。十字架に吊されて処刑された当時の生々しい姿を、その垂れ下がったままの両足があらわしていた。さらに目を近づけると、足袋をはいているのや、はだしのままのがあった。伝承によると、かれらは京都から歩きずめに歩かされ、両足が血だらけのありさまで長崎にたどりついたのだったという。その行程にいったいどのくらいの日数がかかったのだろうか。聖人たちの記念像は、惨酷な歴史の記憶を静かに告発しているようにみえたのである。
        その聖人像からやや離れた公園の隅に石碑が建っていた。そこに、二人の俳人の作品が刻まれているのが目に入った。
         
          天国の夕陽を見ずや地は枯れるとも    水原秋桜子 
          たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる    下村ひろし 
         
        秋桜子の方は、長崎湾のはるか西の海に沈む夕陽をみながら処刑された殉教者たちの姿を蘇らせている。それにたいして下村ひろしは、殉教者たちのぼろぼろになった足袋の足、血だらけになったはだしの足に目をこらしているのである。
        (「夕陽さんさんの会」 会報 第10号掲載)

        宇宙に沈む夕陽??

        2010.04.09 Friday

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          夕陽と富士山

          今回も「夕陽さんさんの会」会報に寄せられた、天文学・加藤賢一さんの歯切れのよいエッセーを、前回に引き続き掲載したい。今回は「月」や「宇宙」から見る夕陽はどのようにわれわれの目に映るのか、という興味の尽きないエッセー。


          宇宙に沈む夕陽??
          加藤 賢一(大阪市立科学館)

          1.江ノ島と富士と夕陽
          「知らざあ言って聞かせやしょう
          浜の真砂と五右衛門が歌に残した盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の,くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりかたり、名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺のことだぁ!」

          −ご存知、黙阿弥の白波五人男の一場面である。振袖姿に変装して呉服屋にゆすりに入った弁天小僧菊之助、かたりに来たのを見破られ、諸肌脱いで啖呵をきったところの見せ場である。
          この白波五人男もそうだし、三人吉三でも黙阿弥は登場人物に盛んに生い立ちから始まる自らの人となりを語らせる。弁天小僧には江ノ島の弁財天に由来することを言わしめ、そこに七里ヶ浜、稚児が淵、上の宮、岩本院など江ノ島周辺の地名を織り交ぜ、観客に親しみを覚えさせる配慮を見せている。
          この場面となった江ノ島とその周辺からは富士山が美しく見える。以前、この会で、江ノ島から相模湾を挟んで対岸に位置する富士山に沈む夕日を紹介したことがあった。確かにお話はしたのだが、実は、その場面を直接は目にしたことがなく、密かにその機会を狙っていたところ、このたび目出度く実現の運びとなった。
          場所は江ノ島を目前に望む新江ノ島水族館。お天気は上々、夕方が待ち遠しい。刻々とその時が迫ってきて、心がせく。しかし、困った! 簡単に抜け出せそうにない。そう、会議が続き、今、佳境にさしかかっている。水族館に来たのは魚を見るためでもなく、もちろん、レクリエーションでもない。関係博物館の会議の会場がたまたま江ノ島水族館だったからで、私にはれっきとした仕事なのだ。間の悪いことに、夕日が見える時刻は一番大事な協議の最中であった。あーあ、とうとう、間に合わなかった! 次がその残念写真である。
          いやー、それにしても富士山は絵になる。大阪湾や通天閣の比ではない、悔しいけど。何と言っても人工のものとは違った美がある。相模湾の向こうに富士、夕陽がそれを彩る。なんとも言えぬ夕空の情景に、単純に、感動する。夕陽が沈む場面に立ち会えなかったのは残念だったが、それでも十分満足した。この光景を目にした後で弁天小僧のせりふを口ずさむと、呉服屋の場面に夕陽の富士が書割のごとく重なった。

          2.大気圏外で見たい
          昨年末、本会の会合で「宇宙に沈む夕陽??」と題してお話をさせていただいた。正直、これは困った。そもそも題の設定に無理がある。地上で寝起きしているから、朝日、夕陽なのであって、宇宙に出てしまっては成立しない概念ではないかと思われたからである。そこで、無理やりこじつけてお話させていただいた最初の項目が「大気圏外で見たい」で、スペースシャトルに乗れば約90分で地球を周回しているので、1日に15回ほど日の出入りがあり、忙しいことおびたただしい。それに曇ったり、雨が降ったりということがないから、毎回、確実に夕陽が見えるといった紹介をさせていただいた。
          スペースシャトルから捕らえた朝日・夕陽をとらえた映像があり、それを見ると結構きれいで、素晴らしい。それにはもちろん空気、大気の存在が大きく効いている。上空に行くにしたがって薄くなっていく大気の向こうに太陽が隠れていくにつれ、青から赤からへ、透き通った微妙な色合いが変化していく。
          最近、宇宙旅行を体験したお金持ちがいた。これまではいくらお金を払おうと体験できるものではなかったことを思えば、これは時代の進歩と言うべきか。

          3.月で夕陽を見たい
          ここしばらく、人間による月面訪問は休止状態であるが、月から夕陽を見ようという話は決して非現実的ではない。もっとも素人の出る幕ではないが。
          もし月に降り立ったら太陽はどんな動きを見せるだろうか? 月も地球のように自転しているので(軸の向きは地球とほぼ同じ)、朝、昼、晩が同様にある。ただし、長さが違っていて、月の1日は地球の29.5日分にあたる。つまり、月の1日=地球の1ヶ月、である。したがって、朝日が出て14日(地球の)ほどすれば夕方になり、ぎらぎらと輝くその姿のまま西の地平線に没して行く。空気のない月面では雲に邪魔されて夕陽が見えないというようなことはないし、空気がないので別に赤くなるわけではなく、情緒のないこと甚だしい。
          スペースシャトルからは地球が丸ごと見えることはないが、月まで行けば、地球がぽっかりと浮かんで見える。地球から見る月の4倍の大きさだ。この丸い大きな地球に太陽が隠れていくことがある。月食の時である。これはどう見えるか? 想像するしかないが、きっと、地球から見る日食のようなもので、徐々に太陽が隠されていくだけで、地球大気の効果はさほどないのではないか? しかし、いったん太陽が地球の向こうに隠されると地球を取り巻く輪のように大気が浮き上がり、それはそれはきれいに彩られるのではないかと想像される。これはなかなかの光景だと思う。

          4.惑星で見たい
          視点を水星、金星、火星などに移したら夕陽はどのように見えるだろうか?
          水星の1日、1年の長さは地球の59日、88日の時間数に相当する。ざっと60日:90日、つまり3:2というきれいな関係になっている。その原因はさておき、こうなるとある夏から次の夏までが昼、それからさらに次の夏までが夜ということになり、言うなれば水星では2年が1日、となる。
          金星にも同様の美しい数値的な関係があり、春〜夏まで昼、夏〜秋まで夜、秋〜冬まで昼、冬〜春まで夜、となっている。これは1年が2日、ということである。
          このように、水星、金星では夕陽はゆっくり沈んでいく。もっとも水星には大気なし、金星には厚い大気のため夕陽が見えない、というおまけがついている。
          私の夕陽の話もとうとう惑星まで来てしまった。これでいよいよ千秋楽か。

          「今昔」と「夕陽さんさんの会」

          2010.04.08 Thursday

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            「むかし料理 今昔」のおかみ野村さんしばらく硬い話題というか、怖い話題が続いたので、少しだけくだけた話がしたくなった。
            僕の知人に酒匠の資格を持つ野村さんという女性がいる。 「むかし料理 割烹・今昔」という店を大阪市西区で開いている。昔ながらの技法と割烹の本質。そして酒匠のおかみの厳選した日本酒を味わえる、気軽な極上美食の店……という触れ込みの小さな店だが、ここに集まる顔触れがすごい。

            小説家の童門冬二さん、宗教哲学の山折哲雄さん、天文学の加藤賢一さん、農学博士の中西喜次さん、立体画家の森康亘さん等々、すごいメンバーが集まる。
            すごいメンバーが集まるだけでなく、おかみの野村さんが変わった集まりを主宰している。名付けて「夕陽さんさんの会」という。沈む夕陽の美しさを愛でる会とでもいうのだろうか。名前からして中高年の参加者が多いが、山折哲雄さんが名誉会長となり、中西喜次さんが会長となって、毎年夕陽と文化に関わる数々の催しを行っている。発会当時は、夕陽を観賞するために集まったものの、当日は雨や曇りの日が多く、僕などは「夕陽さんさん」でなくて「夕陽さんざん」ですね、と悪口を言ったものだ。ひょうんなことから、その「夕陽さんさんの会」会報の編集・組版を、僕が仰せつかることとなった。土台が「今昔」に集まるメンバーだから、執筆者は、小さな会の会報とは思えないすごい顔ぶれ。内容も簡易印刷で刷るのが惜しいような名エッセーばかり。会報だけで紹介するのはもったいない。そこで、会を主宰する野村さんの許しを得て、これから折を見ては、「夕陽さんさんの会」に寄せられた名エッセーを、このブログに紹介していくことにした。

            第一回目は、天文学者であり大阪市立科学館の館長でもある加藤賢一さんのエッセーから紹介していこう。


            「夕陽は西風、夕焼け雲に」/加藤賢一(大阪市立科学館)

            1. 夕焼け雲
            昨年末、一心寺での会合で山折哲雄先生(当会名誉会長、1931-)が美空ひばり(1937-1989)と彼女の歌について夕陽をからめて話された。インドや中国での豊富な体験に裏打ちされたその話は軽妙でかつ展開がみごとで、静かな語り口とは裏腹に熱い想いに満ちていた。宗教を研究対象とする哲学者が世俗まみれとも言える流行歌の世界に(と言うか、美空ひばり、に)歌舞いてるという意外性が私には何とも微笑ましく、「先生、これで点数稼いでいるな」と思った。まさか、あの山折先生の口から「真っ赤に燃えた太陽だから…」のせりふが出てこようとは!
            私はラジオをつけっ放しで寝ることがある。この12月、明け方近くの時間帯に作家の五木寛之氏(1932-)が出演していて、歌謡曲を解説している場面に出くわした。ふだんは夢うつつの中で聞くともなしに聞いているので、目覚めと共に話の中身はすっかり霧散してしまうが、この日ばかりは記憶に残った。千昌夫(1947-)が歌うところの「夕焼け雲」(1976)を話題にしていた。西方浄土がどうのという微かな記憶から調べてみると、五木寛之という作家は「蓮如」について書いているし、その前には仏教を勉強し「21世紀仏教への旅」なんてシリーズも出版していた。道理で源信やら西方浄土といった用語が自然に出てきたわけだ。あまつさえ、五木ひろし(1948-)の「ふりむけば日本海」なんて歌の作詞までしていた! 歌謡曲の専門家でもあった。
            それはさておき、「夕焼け雲」の歌詞を見ていたら、これが結構、聞かせる中身で、ぐぐっときた。一番を紹介しておこう。

            夕焼け雲に 誘われて/別の橋を越えてきた 帰らない/花が咲くまで帰らない 帰らない/誓いのあとの せつなさが/杏の幹に 残る町

            短い歌詞だから作者の意図を明確に汲み取ることは難しいが、きれいな夕焼け空とせつない別れが裏腹にあって、見事な対照を見せており、作詞者の非凡さが十分感じられる。で、この作詞者だが、横井弘(1926-)という方だそうだ。寡聞にして知らず、調べてみると、大変な作詞家で、伊藤久男が歌った『あざみの歌』(1951年)、三橋美智也の『哀愁列車』(1956年)や『達者でナ』(1960年)、倍賞千恵子の『下町の太陽』(1962年)や『さよならはダンスのあとに』(1965年)、仲宗根美樹の『川は流れる』(1961年)、中村晃子の『虹色の湖』(1967年)などなど、私でさえ知っている往時のヒット曲の数々を作っていた。「夕焼け雲」(1976)は50歳位の時の作である。人生の紅余曲折が織り込まれているような気がしたのも間違いではなかったようだ。「親父と同じ生年だが、全然違うなあ」などと、しばし、妙に感心したが、もとより詮無きことであった。

            ラランデ著「天文学」2. 風は西から
            手元にAstronomie、つまり「天文学」と題する本が置いてある。書いたのはLa Lande ラランデ(1732-1807)というフランス・パリ天文台の台長だった人で、出版年はM.DCC.LXXI.、つまり1771年である。これは第2版で、初版はその7年前の1764年だから結構よく売れたらしい。全4冊から成り、1冊あたり850ぺージもあるから、読めたとしてもそれはそれは大変だ。だから、書く方はもっと大変だったろうが、やがて労苦が実り、オランダ語を初め、ドイツ語、ロシア語等々、各国語に訳された。そして、なんと日本語訳(1803)もあるというから畏れ入る。江戸時代のことである。
            日本語へ翻訳したのは大阪の人。大阪城の城番という、今で言えぱガードマンのような警護役の下級武士だった人で、その上、オランダ語が読めないのにオランダ本から極めて正確に訳したというから、びっくりだ。この天才は名を高橋至時(よしとき)(1764-1804)と言う。極めて精緻な日本地図を作った伊能忠敬(1745-1818)に測量術や天測術を授けた人で、シーボルトにその伊能作日本地図を渡したというシーボルト事件の中心人物高橋景保(かげやす)(1785-1829)は至時の長男である。
            大阪城の城番の子として生まれた至時は15歳でその役を受け継いだ。算学に秀で、1787年、麻田剛立(1734-1799)の門に入り、天文暦学を学んだ。その頃は、八代将軍吉宗(1684-1751)によって禁書令が緩和されていて、麻田一門は中国経由で伝わってきたヨーロッパの天文学を研究していた。つまり、漢文でサインやコサインなどを扱っていたのである。麻田は医者、弟子は下級武士や商人達で、山片幡桃なども出入りしていた。
            当時の天文学は、いつ満月になるとか、いつ頃、どんなふうに日食が起こるかと言った天体運行予測が中心課題だった。これは暦(旧暦、太陰太陽暦)を作成する上で欠かせない技術であり、江戸幕府にはそれを専門とする天文方というお役人がいて、計算結果を伊勢暦などとして出版していた。問題はそれが時々ずれることだった。幕府公認の暦が合わないのは困る。幕府は新しい計算法を採用しようとしたが、天文方にはその力がなく、目に止まったのが大阪の麻田一門だった。こうして一番弟子の高橋至時は1795年、天文方に取り立てられ、江戸に下った。ガードマンから一気に東大教授になったようなものである。伊能忠敬が20歳も年下の至時を師と仰いだことが理解できよう。至時はそれほど秀才だった。
            1803年、至時はラランデのAstronomieのオランダ語本に出会い、腰を抜かしてしまう。ヨーロッパの天文学には中国経由で接していたが、このラランデの本は極めて高度かつ内容豊富で、明らかに格が違っていた。至時は寝食を忘れて翻訳に没頭し、そして、約1年後、「ラランデ暦書管見」11巻を残し、死去してしまった。肺結核に侵されていたとは言え、この翻訳作業が命を縮めたのは間違いない。
            「ラランデ暦書管見」と原書を比較してみると、いくつかの事項を除き、極めて正しく理解していたことが分るという。しかし、これは奇妙なことだ。なぜなら、この当時、まだオランダ語辞書はなかったし、至時はオランダ語を知らなかった! それがどうして解読、翻訳できたのか? 実は、杉田玄白あたりが手探りでオランダの解剖書を訳したように、至時もそれまでの知識を総動員し、未知なる言語で綴られたこの大部の著書に手探りで挑んでいたのだった。
            手元にあるのはそのオランダ本の元になったフランス語の原著である。私はフランス語が分らないので、この点は至時に同じだ。天体運行論についても素人だが、時代が進んでいる分勝っているから、まあ良い勝負になるかなと思ってぱらぱらとめくってみたが、あえなく討ち死にであった。情けないことに、至時の足元にも及ばない! がっくり! だが、それだけに、この書に初めて接したちょん髭姿のご先祖様がどれほど驚き、西洋の息吹を感じたことか、分るような気がした。
            西欧の風は夕焼け空の向こうから船に乗ってやってきた。明治維新まで60余年という頃だった。(2009.2.3.)

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