自分のことを振り返ってみたくなりました vol.13(最終)

2010.03.25 Thursday

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    天草コレジオを包む自然
                     (天草コレジオのあった付近の自然)

    五、口之津から天草へ…

    口之津港から天草までフェリーに乗る。
    約四百年前、この口之津の港から加津佐コレジオの印刷機やパードレたち、そして生徒たち学生たちを載せた船が、天草の河内浦へと向かった。秀吉の迫害を逃れ、セミナリオ、コレジオを移転させるためである。
    天草コレジオ跡旅の成り行きというのだろうか、私たちも、何かに動かされるように、その足跡を追う。ただし私たちの場合、河内浦まで船で行くことはできない。口之津とは対岸の鬼池までフェリーで渡り、そこから陸路、河内浦(現河浦町)へと車を走らせることになる。
    Sさんの運転でフェリーに車が入り、私たちは船のデッキに上がる。
    やがて待つほどもなく出航……口之津の港が次第に遠ざかっていく。そして、港の背後に愛宕山がそびえ、右手のほうには北条岳、その向こうには雲仙岳がうっすらと見える。あの愛宕山のふもとに加津佐のコレジオがあった。四百年前、天草に向かう学生や生徒たちも、この同じ景色をながめたことであろう。遠ざかる口之津の風景を眺めていると、あの加津佐町民図書館で感じた感覚が衝き上げてくる。手すりにもたれ景色を眺めている風情を装い、声をこらえて思いッきり泣いた。
    グーテンベルグ印刷機どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。ふと後ろを見やると、Sさんの奥さんも、甲板のベンチに座ったまま涙を流しておられた。
    やがて「間もなく、鬼池港に着岸します」と、アナウンスが流れた。
    鬼池から約一時間半、目的地である天草コレジオ館に到着する。来意を告げると、まず天正遣欧使節のビデオを見せられた。やがて完全なグーテンベルグ印刷機と対面する。その印刷機を中心に、当時、コレジオで使われていた楽器類が展示され、遣欧使節がローマ教皇グレゴリオ13世から送られたという服装や、南蛮人の服装が復元展示されている。
    やがて館長が帰ってきた。昼休みを利用して、健康のため毎日歩いているのだという。館長に展示品の撮影をお願いするが、どうしても許可してもらえなかった。代わりにと、天草学林の資料や研究書を頂くことになった。そのうえ、ある人物を紹介された。
    松崎喜一さんという洋服屋さんだ。天草には、天正遣欧使節が持ち帰ったという楽譜が残されているが、彼とそのグループは、当時の楽器を復元し、その楽譜から当時の音楽をよみがえらせていたのだ。
    でも、会っている時間はなかった。お名前と電話番号を教えてもらい、神奈川へ帰ってから連絡することにする。
    時間が刻々と迫っている。今日の夜七時には、長崎空港へ着かねばならない。帰途、天草のコレジオ跡とされる河浦中学校に立ち寄り、コレジオのあった周りの山や川を見、空気を吸う。
    後は一路、長崎空港を目指すばかり……鬼池から口之津へ、口之津から有馬、有家、島原と走る。原城跡にも立ち寄らず、島原城にも寄ることはなかった。行くべきところに行かされ、見るべきものだけ見せられたという感がする。夕方の島原市内の渋滞を走り抜け、諌早、大村と、ただただ走りに走り、夜七時過ぎ、飛行機に何とか間に合う時間に長崎空港にすべりこんだ。お礼の挨拶もそこそこに搭乗カウンターへと走る。
    Sさん、Nさん、本当にありがとうございました。


    六、シクストゥスの聖書

    最後に天正遣欧使節以後のローマに目を向けてみよう。
    天正遣欧使節を謁見して間もなく、グレゴリオ13世が亡くなった。コンクラーベ(教皇選出のための枢機卿会議)が開かれ、今にも後を追いそうな老枢機卿モンタルトが教皇に選出された。今まで腰の曲がった老人が、教皇に選ばれるや、急に背筋を伸ばし、松葉杖を放り投げるや叫んだ。「さあ、これでわしが皇帝だ」と……。
    「聖なるつむじ風」とあだ名された、シクストゥス5世の誕生である。
    天正遣欧使節は、この教皇にも謁見し、日本布教への援助を約束され、ローマを離れることとなった。使節の少年たちは、二人の法皇に謁見できた幸せを語っているが、果たしてそうであろうか。少なくともシクストゥス5世の存在は、この後、ローマを訪れた日本人トマス荒木にとっては、彼の夢や希望を打ち砕く大きな布石となった。
    シクストゥス5世は、五年間という在位期間に、サンピエトロ大寺院のドーム建設に奔走し、数百人もの人足を使い、オベリスクを一インチずつ動かし、現在のようなサンピエトロ広場の中央に移動させ、さらにバチカン図書館を建てるなど、五十年分の仕事をしたと言われる。
    その中で、最大にして最悪の仕事が、ブルガータ聖書、つまり教会が拠り所とするラテン語版聖書の改訂作業であった。
    四世紀、ヒエロニムスの労作とされるブルガータ聖書は、時代が下るにつれ、写字生の写し違い、読み違いが増え、印刷機が登場すればしたで、印刷するごとに、版を重ねるごとに誤字誤植が多くなってきた。宗教改革が始まるや、プロテスタントは自らの改訂版聖書を持つようになり、カトリックにとっても、信頼に値するブルガータ聖書を持つことが至上命令となっていたのである。
    これをたった一人で行おうとしたのが、このシクストゥス5世であった。在位三年目、学者たちが提出した決定稿が気に入らず、シクストゥス5世は三百語からなる勅書を発し、学者たちを退け「教会が拠り所とすべき聖書に関する問題を決定するにふさわしい唯一の人間は、教皇、すなわちわしである」と宣言したのである。
    シクストゥスはこの仕事をわずか八ヶ月で仕上げた。ただし今までより誤植が多くなり、しかも気紛れな翻訳、勝手な解釈をほどこし、「詩編のタイトルを変更した」ばかりか、聖書の章と句の配列において「おそらく不注意から、すべての章句を落としてしまった」のである。
    シクストゥスは誤植の訂正に更に六ヶ月を要し、この聖書の改訂作業は一段落を見た。シクストゥス5世の大勅書は言う。

    充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は……主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない。
     
    聖書完成後、間もなくして、シクストゥス5世は世を去った。すべての教会に残されたのは、教皇という絶大な権力に破門処置というおまけつきのやっかいな聖書だった。そしてこの聖書は間違えだらけの判じ物になっており、アカデミック界は大混乱に陥ったという。
    この後始末を引き受けたのが、ベラルミーノ枢機卿である。彼はただちに改訂版の準備と、人知れずシクストゥス版の回収作業を急いだ。プロテスタントの手に渡れば、「教皇は己の都合で、聖書まで書き換える」という非難は目に見えていたから……。
    ベラルミーノが何よりも念頭に置いたのは、歴代教皇が前任教皇の教令を非難する姿は見せてはならないということだ。教皇の威信をひどく損なうことになってしまうからであり、とはいっても聖書に対する尊敬は義務である。そして教皇制と同様、聖書は誤ちを犯すことはない。この矛盾を和解させるため、揉み消しが行われた。
    シクストゥス・クレメンテ聖書各地の異端審問所が動き、すでに出回ってしまった聖書の回収に当たった。
    こうしてシクストゥス版聖書の一件も、なんとか収まりを見せたころ、一人の日本人がローマへ留学してきたのである。密かに日本語翻訳のテキストとなる聖書を求めて。
    また、バチカンにおいて最も重要な聖省が完備しつつあった。世界の異端審問所の頂点に当たり、法皇が総裁となる検邪聖省がそれである。
    さて彼は、そのバチカンで一体何を見たのだろうか。
    史書は、トマス荒木のローマでの動静について、ただ一つのことだけを伝えてくれる。
    「枢機卿ロベルト・ベラルミーノは荒木をことのほか愛し、毎日の聖務日課まで一緒に唱えた」と……。
    はたして、この厚遇は愛されたからだろうか。それとも監視されていたに過ぎないのか。ローマで厚遇されたにも関わらず、トマス荒木がマカオへ帰ってきたとき、その地のイエズス会は、彼のことを性格に歪みのある危険な人物のように伝えている。
    そして、禁教下の日本に帰り、トマス荒木は捕えられ背教した。
    何があったかは想像の範疇を出ない。しかし、彼の描いた夢やその挫折を理解することから、彼を受け入れる道が開けているように思える。
    いつかトマスと共に大きな声で言えるだろう。
    「聖書に本当のことは書かれていない」「私たちの心の中に真実がある」と……。 

    自分のことを振り返ってみたくなりました vol.12

    2010.03.24 Wednesday

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      口の津の港
                         (船上から口之津の港を遠望)

      三、国民年金保養所「口之津」で起こったこと

      夕食を済ませ、露天風呂につかる。
      囲いの向こうは遠浅の海になっており、目を閉じれば、ザザーッ、ザザーッと波の音だけが聞こえ、波の音の中にただ一人包まれたような感じになる。
      島原の乱で四万人近い村人たちが死滅し、この地から村人が絶えた。幕府は大名たちに働きかけ、一万石につき一家族の割で、この島原半島への移住を呼びかけたのである。このあたりは小豆島からの移住が多かったといい、この地で有名な素麺は、小豆島素麺だと言われる。
      一揆に参加し、原の城に篭城し、ついにこの地の戻ることのなかった人々。空になり、人の営みが跡絶えてしまったこの地に、波の音だけは変わらず響いていたのだろう。そんなことを考えていると、波の音の中に、死んでいった人たちの思いが込められているように感じた。
      胸奥から嗚咽が込み上げてくる。
      「元の生活の返りたい。耕し、魚を獲る生活が夢のようだ。帰りたい、あの毎日の営みの中に帰りたい。もう人の血も、自分の血も、誰の血も見たくない。ただ帰りたい、元の生活に帰りたい。わしらが一体何をした。一体、何をしたというんじゃ。ああ、帰りたい、帰りたい……」
      そんな思いが、波の音の中に響いているように思えた。
      そう言えば、この地は、島原の乱でただ一人、幕府に内通し助かった男、南蛮絵師・山田右衛門作の出身地でもあった。元の有馬の家臣であったが、有馬家移封に伴い、行を共にすることなく、この口之津に残り、絵師として暮らしを立てていた。それが有馬の後に入った松倉重政の圧政のため、島原の乱が起こり、彼も乱側の指導者の一人として、士気を鼓舞するための陣中旗を描いたり、矢文による通信の責任者として闘っていた。
      そんな右衛門作が、幕府軍に内通の矢文を送り、幕府軍の総攻撃に際し、ただ一人、命を助けられたのである。
      その他は、女も子供も、三万八千人ことごとくが殺戮された。
      仲間を裏切り、ただ一人助かった男の悲しみ。そして千々石湾の名から思い出される「千々石ミゲル」の悲しみ。天正遣欧使節の一人としてローマに渡りながら、帰国後、キリスト教を捨てた男……そんなたくさんの人々の悲しみが、波の音の中に隠され、寄せては返し、寄せては返ししながら打ち寄せてきているかのように思われた。

      風呂上がり、ロビーでSさん夫妻と話した後、部屋へ戻る。
      今日の出来事を整理しようと、役所でもらった資料(例のパンフレット)を見ていると、どうしても小さな記事に目が行ってしまう。加津佐町民図書館の記事だ。
      先に天正遣欧使節のことを少し話したが、その使節がバチカンから持ち帰ったものの中に、グーテンベルグ印刷機と鉛の活字一式が存在した。その印刷機が復元されて加津佐町民図書館にあるという。
      この記事が頭から離れなくなった。Sさんに、今日行ってきた加津佐へまた戻ってくれと頼まなければならない。行っても開館していなければ、また行っても、常時、見ることができるとはかぎらない……しかも唐突に、なぜか「天草へ行かなければ」、そんな思いまでが出てくる。
      明日の予定は、口之津から島原半島を北上、南有馬、北有馬、原城跡を経て島原へ出、諌早を抜けて長崎大村空港へ向かう。やはり何も言わず予定通り動くべきだろうか。
      いろんな思いがグルグルと回る。役場へ電話しよう、いや図書館へ電話してみよう、そう思いロビーへおりてみるが、こんな時間にどこも開いているわけがない。結論は、明日、役場へ電話し、記事の内容を確認してからにしよう。自分にそう言い聞かせ、部屋へ戻り寝床を敷いた。
      ………………
      プチプチプチプチ……そんな音に目が覚めた。それとも目が覚めて、この音に気付いたのだろうか。
      部屋のどこかすみのほうから、プチプチプチプチという音が小さいながらもハッキリと途切れることなく続いている。豆電球の灯りで腕時計を見る。午前二時……。
      どこから音が出ているのか、部屋中、探し回る。
      最初は空調の音かと思ったが、どこにも音源が見つからない。でも、部屋の中から、小さくてもハッキリとその音は響いてくる。ずっと大きく波の音は響いているというのに、波の音より、その小さな音が部屋を支配しているかのようだ。
      目が冴えてくるに従い、部屋の異様な空気に気が付き始めた。空気が違う。空気ではなく、部屋中に恐怖がみなぎっており、気を許せば、体の中へその恐怖が忍び込んでくるかのようだ。
      口の津南蛮船来航地探すのをあきらめ、布団の上に座り直すと、自分の中の苦しい思いに語りかけようとする。次第に気分が落ち着いてくる。……と思うと、まるで体に隙間があって、そこから恐怖が忍び込んでくるかのように、あっという間に体中に広まる。
      おまじないじゃない。払うんじゃない。助けてくれじゃない、集まった苦しい思いを受け入れるんだ。受け入れるんだ、受け入れるんだ……ああ、まただ、怖い、怖い、怖くて怖くてたまらない。そうだ、Sさんを起こそう、いやダメだ、自分でやらなきゃ、自分の課題だ。受け入れるんだ、苦しい思いに心を向けてやるんだ……
      そんな繰り返しが続いた。どれぐらいそんなことが続いたのか、いつの間にか眠りに落ちていた。少しウトウトした感じで、次に目が開いたのは明け方の五時過ぎ……空気が変わっていた。あの何とも言えない空気が、すっかり朝のさわやかな空気と入れ替わっていた。
      山田右衛門作住居跡六時前、着替えを済ませ、表へ出る。Sさんとの朝食の約束は八時。二時間ある。私はこの時間を利用し、かつての波止場跡を目指す。この口之津の港は、長崎に先立ってポルトガル船が南蛮文化を運んだ地だ。しかし、現在の波止場は江戸時代末期に埋め立てられたもので、ポルトガル船が到着した港は更に奥へ入ったところ……。
      朝、散歩をする老人に道を訊ねながら、歩くこと十分、口之津の小さな公園にやってきた。途中から、三々五々、その公園に集まってくる子供たちと一緒になる。何のことはない、ラジオ体操に集まってくる子供たちなのだ。そして、その子供たちに導かれるようにしてやってきたこの公園が、南蛮船来港波止場跡だったのである。
      ラジオ体操している子供たちをバックに、記念碑の写真を撮る。
      子供たちや一緒に来ていた父兄の方たちに、山田右衛門作の屋敷跡を知らないか訊ねてみる。でも、知る人は誰もいない。ただ目印になる東大家の駅というのは、道が違うから、一旦、国道へ戻ってからでないと行けないということだった。
      まだ車の数も少ない国道を歩き続ける。
      四十分あまりも歩いただろうか。やっと東大家の駅に着いた。
      駅は無人駅で、その駅のすぐ先に小さな踏切があり、その踏切脇に、山田右衛門作の慰霊碑があった。その背後には「山田右衛門作屋敷跡」の碑が立てられてある。
      彼はどんな思いで幕府軍に内通したのだろう。それより何より、どんな負い目を抱えて、その後の人生を送ったのだろうか。
      この口之津まで来て、どうしても彼の縁りの場所へ来てみたかった。
      トマス荒木、千々石ミゲル、後藤了順、そして山田右衛門作……たくさんの日本人がイエスの教えに出会い、そしてイエスの教えを捨てた。恐怖から、懐疑心から、また利によって洗礼を受け、利によって教えを捨てた人たち。苦しい思いだけが残った。殉教した者も、教えを捨てた人たちも、ただ苦しい思いだけが残った。私は何をしにこの地を訪れたのだろう。私には、その苦しい思いに心を向けることしかできない。苦しい思いが残された地をたどることしかできない。

      東大家の駅から、口之津まで、一駅だけだが電車に乗る。
      七時四十五分、宿舎へ帰り着く。Sさんの部屋に電話すると、まだ寝ておられた。Sさんを起こして、二人で波の音を聞きながら露天風呂につかる。その後、ロビーで役場に電話し、復元印刷機の確認をする。
      今日、見ることができるという。Sさんに打診してみると、予定変更を快く了解してくださる。申し訳ないかぎりだ。本当にSさん、申し訳ありません。

      加津佐町民図書館

      四、加津佐町民図書館

      「ここにグーテンベルグ印刷機があると聞いてきたんですが……」
      図書館に入るなり、司書の女性に勢い込んで訊ねる。
      その女性の視線をたどると、なんのことはないロビーにでんと据えられてあり、すでにSさんが眺めている。すぐにでも印刷機を見にいきたいのだが、司書の方がいろいろと説明してくれる。それによると、この復元機は簡易復元されたもので、精密に復元されたものが天草にあるという。復元したのも、この加津佐ではなく、天草の教育委員会がドイツから図面を取り寄せて復元したのだという。
      写真を撮る許可を得て、さあ現物を見ようとしたとき、その女性が奥から、当時の版を使ってこの印刷機で印刷した一枚の紙片を持って現われた。B4大の紙の中央に「サントスのご作業」の表紙が印刷されてある。インクと紙は違っても、そこに刷り出された絵と文字は、まぎれもなく四百年前と同じものだ。
      その紙片をくれるという。手を出して受け取ったとたん、心の奥底から「オォーオォーッ」と、どうしようもない嗚咽が湧き上がってきた。あふれてくる声をあわてて飲み込むと、今度は涙があふれてくる。あわてて後ろを向き、少し離れたところに行って涙を拭く。深呼吸をして気分を落ち着け、また、女性司書の話に耳を傾けた。
      彼女はただならぬものを感じたのか、ぜひ天草に行くようにと勧めてくれ、案内の地図を用意してくれた。天草へ行きたいと思ったのはこれだったのかと、一人で納得する(すでに宿舎にいる頃から、Sさんには「天草へ行きたい」と無理を言い、予定変更を了解してもらっていた)。
      そんなこんなで、やっと印刷機に近づくことができる運びとなった。図書館に足を入れてから、すでに三十分以上が過ぎていた。

      ところで、一五九○年、グーテンベルグ印刷機は、天正遣欧使節の帰還とともにバチカンから日本にもたらされた。その印刷機が最初に設置されたのが、この加津佐のコレジオである。
      加津佐にあること二年、「サントスの御作業の内抜き書巻第一」が、「どちりな・きりしたん」が、「加津佐物語」が印刷された。
      そして天草にコレジオが移動すると共に、印刷機も移り、「ドチリナ・キリシタン」「ヒデスの導師」「平家物語」「伊曽保(イソップ)物語」「金句集」「ラテン文典」「ラテン・ポルトガル・日本語対訳辞典」などがローマ字で印刷され発行された。
      その後、印刷機はコレジオの移動と共に長崎へ移り、禁教令の中で破却されることとなる。長崎でこの印刷機の設置されていたのは、当初は「トードス・オス・サントス教会」(現・唐土山春徳寺)であり、その後「岬の聖母教会」(現・長崎県庁辺り)へと移るわけだが、これ以外に長崎の島原町にある「後藤宗因印刷所」にも設置され、コリャドの「懺悔録」や、わが国初の二色刷り印刷「サカラメンタ提要」が出版されることとなる。
      この間、トマス荒木は、この加津佐や天草でグーテンベルグ印刷機と出会ったのだろう。そしてこの印刷・出版への興味が、聖書の日本語訳へとふくらんでいったのではないだろうか。彼がローマへ渡った背景には、聖書の日本語版を期待する多くの顔があったように思えてならない。
      印刷が普及したとはいえ、聖書を外国語に訳すことには、まだまだ大きな抵抗があった。ヨーロッパでは、つい昨日まで、聖書を口語訳したことで異端とされるような時代であった。日本のイエズス会がこの企てに「ウン」と言うはずがなかった。イエズス会の中では、日本人の教育が重要視された一方、「日本人にはキリスト教の奥義を伝えるべきではない。たちまち自分のものとしてその姿を変えられてしまうであろう」「日本人はイルマンとして教会の雑用に使うぐらいが適当である」……そんな偏見が大きな勢力を持っていた時代でもあった。
      トマス荒木がローマに渡った目的の中には、ただ単にパードレになるためばかりではなく、聖書翻訳の原典となるテキストを持ち帰ることが暗に潜んでいたのではないだろうか。彼はローマで危険視され、ベラルミーノ枢機卿の監視下に置かれた。厚遇されたのではなく、暗に監視されていたにすぎない。トマス背教の伏線は、このローマにあるように思えてならないのだが……。
      背教してからの彼の周囲には、出版のにおいが立ちこめている。
      背教後、トマスが家光に謁見し、江戸から長崎への帰途、道中を共にしたのが、同じ背教者であり、先に掲げた「天草版・平家物語」を著した不干斎ファビアンであったし、さらに「キリシタン転び証文」にトマスと共に名を連ねる「日本転び伴天連 了順」とは、先に掲げた後藤宗因印刷所のの息子、後藤了順であり、共にクリストバーノ・フェレイラの著とされる「顕偽録」(キリスト教を攻撃する目的で書かれた書)製作に深く関わっていたと思われる。歴史的には「顕偽録」は、元ポルトガル人宣教師クリストバーノ・フェレイラが著したことになっているが、現実には、了伯(トマス荒木)と了順が書いたものを、フェレイラこと沢野忠庵の名で出版したものだという思いが伝わってくる。
      さらには角倉素庵や本阿弥光悦の「嵯峨本」にも、キリシタン版の影響が強く見られると言われており、その角倉素庵は京都の朱印船貿易家であり、トマス荒木の背教後の面倒を見る、長崎代官であり朱印船貿易家である末次平蔵とつながっている。
      と言っても、何も資料や文献に証拠が残されているわけではない。この旅をしてみて、「そう感じた」、しかも「強く感じた」という以外にはないのだが……。
      とりあえず今は、天草への道を急ぐことにしよう。 

      自分のことを振り返ってみたくなりました vol.11

      2010.03.23 Tuesday

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        秋月の風景
                                (秋月の城下町)

        第五章 秋月・加津佐・天草の旅

        一、秋月にて

        秋月城址
        夏期休暇を利用し、福岡ミニセミナーの後、秋月から島原半島を回る旅に出た。
        旅行の目的は、トマス荒木がたどった安土から長崎への道のりの中で、今まで遂に行く機会のなかった島原のセミナリオ(カトリックの初等教育を施す学校)、コレジオ(同高等教育を施す学院)跡を訪ねるためである。
        本能寺の変による安土セミナリオ焼失後、セミナリオは京都から高槻へ、さらに大阪へと移動し、島原半島にある有馬のセミナリオと合流し、島原の加津佐へと移る。またコレジオのほうは、当初、大分に設けられたものが、山口へ移動、さらに島原半島の千々石、有家を転々として加津佐に落ち着く。そして、この加津佐のセミナリオ、コレジオ跡を訪ねるのが今回の旅の大きな目的だった。
        「なぜ、そんなことを」と言われると、ただ行ってみたかった、自分の目と足で、どうしても確認しておきたかったというしかない。
        そして、もう一つの大きな目的地が秋月であった。
        それは、トマス荒木と長崎の豪商末次家の並々ならぬ関係を感じるためであり、その末次家と縁りの深い場所の一つが秋月だったからである。
        セミナー終了後、友人のN夫妻の家に泊めてもらい、翌朝、夫妻の案内で福岡近郊の秋月へと出発する。
        かつてNさんが福岡に引っ越すに当たって、秋月が近くだと聞き、どうしても行ってみてくれないかとお願いしたことがある。
        秋月には、かつて興味があって調べた、長崎代官末次平蔵の父、末次興善の屋敷があったと言われており、しかも、なぜか、トマス荒木がローマへ渡った背景に、末次氏の匂いを感じて仕方がなかった。その末次氏の長崎進出前の拠点が博多であり、堺であり、秋月なのだ。博多、堺が末次氏のビジネス上の拠点とするなら、秋月はビジネスを離れた生活の、もっと言うなら精神的なバックボーンではなかったろうか。
        この地で、末次興善はザビエルを迎え、その宿主となった。
        秋月へ行きいと思った。何も見つからなくても、この足で感じたいと思った。自分ではなかなか行けない。だから中村さんにせっついた。秋月へ行ってほしいと……。
        それが、今年の春になって、中村さんの奥さんから、次のような手紙と写真を頂いた。

        前略 お元気ですか。
        春に桜を見に秋月へ行きました。すぐに写真をと思いましたが、両親が二週間ほど来ていまして、忙しく、こんなに遅くなってしまいました。
        秋月は福岡県甘木市秋月町という城下町です。町の中に小川があちこち流れていて、水が清くて、とてもきれいでした。
        郷土館という所で、桐生さんの話していた末次興膳という人の名前を見ましたので、館長さんに話を聞きました。資料にもありますが、この町に生きた人でした。中国人の方で、この地では興膳善入という名で親しまれていました。子孫は興膳という姓で、今もたくさんいるそうです。
        この武家屋敷の縁側に座って、抹茶を飲んだり、日なたぼっこをしていたら、何か胸がいっぱいになりました。
        長生寺という寺に興膳善入の墓というのがあり、百二十四歳まで生きたそうです。墓まで後一○○メートルという札を見たら、心からワーッとあふれてきて、このまま行ったら墓に抱きついてしまいそうで、墓まで行く勇気が出ませんでした。涙だけがあふれてきてしまった……。
        きっと私も主人も、この地で暮らしていたと思います。
        小さな町ですが、なつかしく穏やかでした。小川の水辺に咲く菜の花が美しく、そして、もの悲しさのある町でした。
        桐生さんも是非いらしてみてください。
        きっと郷土館の館長さんと話しも合うと思います。

        興善と興膳……私が知る人物は末次興善。Nさんが秋月で見てきたのは興膳善入。しかも興膳善入は中国人だという。末次興善は平戸の木村氏の出であり、博多の商人末次家に養子に入って末次興善を名乗った。写していただいた写真を見ると、興膳善入の洗礼名は「ドミンゴス」となっている。末次興善の洗礼名は「コスメ」……どうも別人のようだ。
        でも、違うと言い切れない。根拠はないが、何か深い関わりを感じる。どうしても行かずにいられなくなる。
        八月の末に福岡でミニセミナーがある。それに合わせて秋月へ行こう。その後、島原へも足を延ばそう。そう決めてNさんにも連絡をとった。案内してほしいと……。

        こうして、秋月に来た。
        秋月でSさん夫婦と落ち合い、共に、秋月郷土館を訪れ、館長と話し、「秋月史考」をひもとき、興善の屋敷跡を訪ねる。
        結果、長崎代官末次平蔵の義理の兄の存在が浮かび上がってきた。
        貿易商末次興善は明国との関わりが深い。史伝によれば十六世紀初頭、明国は既にその北辺が騒がしくなってきており(やがて十七世紀に入り明国は滅び清の時代を迎えるが)、その動乱に紛れ、明国の王族の子が、貿易のため明国を訪れていた末次興善に託されることとなった。
        末次興善は、この子を長崎に連れて帰り養子とする。
        これが興膳善入だ。
        ところが、やがて興善に実子が誕生し(末次平蔵)、興膳善入は末次家の屋敷があった秋月へと移る。これが興膳家の起りのようだ。
        興膳善入が起した長命寺を訪れる。かつてNさんたちが「墓まで後一○○メートル」というところで、遂に行けなかったという興膳の墓があるところだ。
        Sさんをはじめ、皆、一様に重いものを抱えたようになる。Sさんのご主人が「みんな受け入れんといかんですよ」と明るく話される。私は「受け入れるぞ」「受け入れるぞ」と冗談まじりに話すが、肩に力が入っている。Nさんの奥さんが「そんな……まるでおまじないのようだ」と冗談を言われ、笑った拍子にふーっと肩から力が抜けた。
        長命寺が見えてきた。
        興善善入の墓
        その山門前から道は左へ折れ、山道に沿うように墓が並ぶ。末次家と興膳家の関係を裏付けるように、まず「末次家之墓」があり、それから奥に道をたどると、「興膳家之墓」があった。道標に導かれ、さらに奥へ緩い山道をのぼっていく。Sさんの奥さんと、Nさんの奥さんはここに残ることになった。
        もう少しで興膳善入の墓に着くというそのとき、道の曲がり角に地蔵があった。ところが首がない! あのときもそうだ。
        二十年前、長崎の唐土山に末次平蔵の菩提寺春徳寺を訪ねた。寺の裏山が岩の切り出し場になっており、その山頂近くに末次平蔵の石龕を切り出そうとした場所がある。石工たちが平蔵の戒名を刻もうとしたところ、その戒名から血が流れ出したという。現実には、岩が鉄分を多く含んでいたため、掘った箇所が雨に打たれて錆びが流れ出したものであろう。
        しかし、当時の石工たちは気味悪がって作業を中断した。今も石龕としてくり抜かれた岩塊がそのままに残っており、中に不動が祭られている。そして、その両脇を何体かの地蔵が守っているが、そのどれにも首がない。ただ一人、山を登り詰め、その光景を目にしたとき、思わず全身総毛立ったのを覚えている。
        偶然だろうが、今、また末次家の墓所近くで首のない地蔵を目にした。昔のことが思い出され、またぞろ全身を悪寒が走り鳥肌が立った。と同時に、何か胸奥から、叫び声とも泣き声ともつかぬものがせり上がってくる。叫びは声にならず喉にからみつき、ただ涙だけが流れる。
        やがて興膳善入の墓の前に立った。平静を取り戻し、感情的にならないよう事務的にしゃべっている自分を感じる。
        トマス荒木は、末次興善の口利きで、実際にはこの興膳善入の後ろ楯でローマへ渡ることができたのかも知れない。


        加津佐コレジヨ跡二、加津佐コレジオ跡

        話を戻そう。
        秋月で昼食をとろうとするが休んでいるところが多く、やっと「黒門茶屋」という土産もの屋兼食堂らしきものを見つける。ここでウドンを食べるが、これがなかなか旨い。コシがあるというか、モチモチしているというか、出汁も結構いける。Sさん夫婦の素麺・にゅう麺談義を聞きながら黒門茶屋のウドンに舌鼓をうつ。
        昼食後、Nさん夫妻と別れ、いよいよSさん夫妻の案内で島原へと向かう。
        当初は、Nさんと別れたあと、一人、島原鉄道で島原から北有馬、南有馬を経て口之津へと下っていく予定だったが、Sさんが車で案内してくれることとなり、逆の千々石湾から加津佐、口之津へと向かうこととなった。このルートの変更に大きな意味があった。おかげで見るべきものを見、行くべき場所へ行き、会うべき人に会った気がする。
        ところでボーロという菓子があるのをご存じだろうか。かつて長崎のカステラの製造法を盗みに行った佐賀(?)の人間が、作り方を間違え出来たのがボーロだという。いわばカステラの出来損ないだというが、これがなかなか旨く、名物となったという。
        Sさんが運転しながら話してくれたエピソードだ。
        そこへ奥さんが松露まんじゅうの話を始め、車の中が急に盛り上がった。
        やがて車は諌早を離れ、しばらく行くと唐突に車の右手に青い海が広がった。千々石湾だ。道は高台を走り、蘇鉄の木々の向こうに真っ青な海を見下ろしている。
        突然に別世界が出現した感じだった。
        この海岸線を走ること一時間、最初の目的地である加津佐に到着した。

        「加津佐のコレジオ跡を探しているんですが……」
        角の自転車屋に入り道を尋ねるが、あいにく娘さんしかおらず要領を得ない。
        「父なら知っていると思うんですが」と申しわけなさそうに頭を下げ、「少し先に町役場があるから、そこで訊いてみては……」ということになった。これがよかった。
        なまじ道がわかれば、史跡を訪ねてそれだけで終わったことだろう。
        町役場に行き、事情を話すと二階の観光課に案内された。課員は一人だけ、事情を繰り返し話すと、急に顔がほころんだ。彼は私に椅子を勧めておいて、自身は書架へ行き、資料を持ち出してくるとおもむろに説明を始めた。そして一通り話が終わると、加津佐町役場発行の二種類のパンフレットと一枚の地図ををくれた。一つは五十ページ程(全ページカラー)の、町役場の観光案内にしては豪華すぎるパンフレットだった。
        時計を見ると、もう五時近くだ。探している間に暗くなってはと思い、礼を述べ早々に出発する。
        農協前で道は二手に別れ、教えられたとおりに右へ道をとる。資料によれば愛宕山の中腹にセミナリオやコレジオがあったという。
        セミナリオとはカトリックの初等教育をほどこす全寮制の学校、コレジオは高等教育機関であり、この他にノビシアードという修練院があった。
        日本布教を始めたイエズス会は教育や病院、福祉に力を入れた。まず教会がつくられ、そして病院がつくられた。さらに捨て子を収容する施設ががつくられ、巡察師アレッサンドロ・バリニャーノが日本を訪れるに及んで、各種の教育機関がつくられた。
        まず有馬に、そして安土に……。しかし、有馬に一年遅れて出来た安土セミナリオ(琵琶湖刀岸の安土城下)は、本能寺の変の戦乱で灰燼に帰し、京都から大阪へ、そして高山右近城下の高槻へ、さらに秀吉の禁教政策から逃れるようにして南下、やはり島原各地を転々としていた有馬セミナリオと合体して、既にコレジオのあった、この加津佐に設けられることとなった。
        これら教育機関では、神学のほか、天文学、ラテン語、ローマ字、哲学、音楽などが、その課程において教えられた。特にラテン語は、初等教育から徹底的に教えられた。セミナリオの目的がキリスト教教理学習のための語学習得にあったのだから当然といえば当然のことであろう。
        今、手元に当時のバリニャーノの指示による「セミナリオ生徒時間表」なるものがある。その全文を次に掲げておこう。

        セミナリオ生徒時間表
        一、夏期、四時半起床。司祭たちと共に祈り、五時頃終える。
        冬季も同様にするが、各一時間遅らせる。時間変更は十月中旬から始め、二月中旬まで続ける。
        二、祈祷の後、ただちにミサ聖祭に与り、次いで主祷文を唱え、六時まで残りの時間は座敷の清掃。
        三、六時から七時半頃まで勉強し、学課を覚える。年少の者は教師の指示によってラテン語の単語を学ぶ。
        四、七時半から九時まで、ラテン語の教師と共におり、宿題を見せ、暗唱したことを報告し、教師が読み聞かせることを聞く。その間、年少者は課業を学び、先生から課せられたことをする。教師は年長者も年少者もそれぞれに応じて指導し、混乱を生じたり、時間を無駄に費やさぬように配慮せねばならぬ。その際、彼はすでに高い知識を持っている幾人かの生徒に手伝わせてもよい。それらの生徒は年少者に試問したり、彼等が書いた答えを訂正してやったりする。
        五、九時から十一時まで食事をし、休養する。
        六、十一時から二時まで、日本語の読み書きをする。すでにできる者は、日本語の教師の命令に従って日本文の書状を認める。その教師は、学課を訊ねたり、習字を修正したり、すべてよく秩序立て、彼等が上達するようにする。
        七、二時から三時まで、唱歌や楽器の演奏を練習し、残余の時間は休憩する。音楽においては、才能のある者を選出すべきである。教師は、数名のすでに上達したものを助手とし、これにより一人ずつに教える時間をより多く持つようにしてもよい。
        八、三時から四時半まで、生徒はふたたびラテン語の教師と共にいる。教師はこのときに一つの文章を書かせ、彼等が進歩するのにもっとも適していると思われる、何か他の文章を朗読して聞かせる。教師は、年少者には、その間、ラテン語の文章の読み書きに留めるのが適当と思われる。なお残る夕食前の半時間、
        すなわち五時までは自由時間とする。
        九、五時から七時までに夕食をとり、休息する。
        十、七時から八時まで、ラテン語を学ぶ生徒のために復習が行なわれ、
        年少者は、その間、日本文字、またはローマ字の学習、あるいはこの時間により適していると思われる他のことをする。
        十一、八時に良心の糾明をし、ロレトの聖母の連祷(夕べの祈り)をしてただちに就床する。
        十二、その週に祝日がない場合には、水曜日に二時間だけ日本語の読み書きをし、一時からは自由時間とする。ただし、しばらくは聖歌の合唱、クラヴォ、ヴィオラ、その他の楽器の練習をせねばならぬ。
        十三、土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語の復習に専念する。食事語は二時間、日本語の読み書きをし、一時に学校が終わる。続く自由時間は、入浴や散髪、また告白の時間に充てる。夕食後は休養し、なお残る時間には、前半はこの時間に行なわれる霊的な話を聞き、後半は聞いた説教やキリスト教の教義について語り合う。
        十四、日曜日と祝日には、昼食の後、別荘か野外に行って、休養するか自由にする。雨が降ったり、非常に寒かったり外出できないときには、一日中、屋内で休養する。しかし音楽をする者は、しばらく唱歌や楽器の演奏に時間を充てる。
        十五、夏期、非常に暑いときには、校長の判断に従い、勉学から解放して休暇をとらせ、数日間、休養のためにより多くの時間を与える。
        アレシャンドゥロ(署名)

        たどり着いたコレジオ跡は、山を切り開いたような住宅造成地の中にあった。正面に山(愛宕山だろう)を見、左手は住宅地、右手に畑地があって、その畑地の向こうが海になっている。この畑地に古い石組みが残っており、この一帯にコレジオやセミナリオがあったのだろうか。
        今となっては当時を偲ぶ何ものも残されてはいないが、周りを取り囲む山や海は、今も変わりはないだろう。海を眺めながら、しばし歩いてみる。
        夏の暑い時期には、セミナリオの生徒たちが、この海ではしゃいだのだろうか。海に向かいグレゴリア聖歌を練習する子供たちの声が、この高台に響いていたのだろうか。オルガンやクラブサンの響きが……と思いきや、付近の小学校のチャイムが響いてきた。
        時計を見ると、もう五時を過ぎていた。
        Sさんと車へ戻る。今日の予定はこれまでだろう。今日の泊りを予約している口之津の国民年金保養所へと向かう。 

        自分のことを振り返ってみたくなりました vol.10

        2010.03.21 Sunday

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          キリシタン転び書物(全体)
                       キリシタン転び書物(複製) 長崎県立図書館蔵


          6 「光のなかへ」

          政府刊行物大阪サービスステーションで働くようになって十三年が過ぎ、田池先生のもとで学ぶようになって、すでに三年が過ぎようとしていました。
          その頃、田池先生から本を書いてみないかという話が起こったのです。最初は冗談半分に聞いていたのですが、いつしか自分がなぜこの学びをするようになったか、自分の気持ちを整理する意味もあって、本気でこの話を考えるようになりました。
          ほぼ一年がかりで原稿ができました。
          この学びに反対していた自分の心がなぜ変わったのか、いろいろ理由はあげられますが、その決定的なものは、やはり「わからない」というのが実情でした。ただ私の心の中には、やはり浅間山の麓で起こった事件が尾を引いていたのです。人のできることが、なぜ、自分にはできないのか。あの恐怖心や不安はどこから来るのか……。
          私が坐禅をしていた心の裏には、そんな弱い自分を変えたい、ものに動じない自分をつくりたいという思いがありました。悟ることで自分が変わり、すべてが明らかになるのでは、という思いもあったのです。
          それがこの学びと出会い、チャネリングを通して間違いだったという答えが突きつけられたのです。
          田池先生の家を訪れたその日、先生から佐藤博子さんというチャネラーに紹介されました。チャネラーは、人の思いを言葉としてでなく波動としてキャッチする。それをチャネリングと呼んでいますが、私が坐禅に心を向けたとき、私の心の中から語り出した思いは、自らを白蛇と信じた僧侶の思いでした。悟りすら、もののように執着する「欲の心」が自らを白蛇と信じた僧侶の意識として語られていたのです。
          それが、私が坐禅を通して求めたものの答えでした。
          こうして坐禅に向けてきた自分の心は、チャネリングを通して教えてもらったのですが、肝心の浅間での件はわからずじまいでした。やはり浅間山でのことは、自分が心を見ていかねば、決してわからないことでしょう。自分は弱い人間なのか。女性でもやっていることが、俺にはなぜ我慢できなかったのか……。その解答は預けられたまま、ともあれ原稿は書き進められました。そこには浅間で起こったことは触れられることはなく、いつか自分の口から語られる日まで、自分の心の中に課題として残されたままにされたのです。

          こうして不完全ではありますが「光のなかへ」は完成し、私はその原稿を抱えて出版社回りの日が始まりました。というのも、「せっかく書かれた原稿だから、人の目に止まるようにしないと……」というのが田池先生の考えであり、私もその通りだと思ったからです。
          まず、原稿とその「あらすじ」を、幾組かコピーをつくり出版社あてに送付します。しばらくして、その出版社に電話を入れ様子を探る。少しでも可能性がありそうなところは約束を取り付け訪問します。そんな繰り返しがしばらく続きました。その中で東京にある二社が興味を示し、T社が、しぶしぶですが出版を引き受けてくれることになったのです。
          初版は三千部とし、初版分には印税は付けない。二版目印刷からは定価の十パーセントの印税が著者に渡される。ただし、発売時にする新聞広告は著者が費用負担するという厳しい条件でした。さんざん悩んだ末、条件を飲み、契約が交されることになりました。
          ところがです。お互いが契約書に印を捺した後になって、出版社が「契約を取り消したい」と訳のわからないことを言い出したのです。
          どういう理由かわかりません。当初は「契約書がどういうものかわかっているのか」と腹を立てました。でも、田池先生とも相談した上、クレームを付けることなく契約書を同時に破棄することで、この話を白紙に戻しました。
          これで出版の話は振り出しに戻ったわけですが、田池先生は、その後の処置として、「これからまた新しい出版社を探すのではなく、自費出版したらどうか」と勧めてくれました。
          仕事の取引先に、柳々堂書店という建築書専門の老舗があります。この社長が田池先生の教え子であり、彼女(社長)が話を聞いて創元社という出版社を紹介してくれました。早速、創元社に相談に行くことになりました。話はスムーズに運びましたが、自費出版ということになれば、それなりの費用が必要となってきます。しかし、安サラリーマンの私には、それだけの経済的余力はありません。
          どうしたものかと悩んでいたとき、千里中央駅で、ある人物から声をかけられました。同じ千里に住んでいる、この学びを共にする先輩であり、年上の友人でした。妻は、この方の奥さんの家に「朝起き会」を勧めに行って、却って田池先生に出会う道を示唆されることになったのです。
          以来、社会的にも経済的にも段違いの、このMさんとの友好関係ができました。そのMさんが、通勤途上、千里中央駅で電車を待つ私の後ろ姿を見かけ、「何か心配ごとでもあるのか」と声をかけてくれたのです。
          話を聞くと、彼は鷹揚に、「なんだ、金のことか」と、即座に費用を立て替えてくれることになりました。
          やがて二人して契約のため、創元社を訪れる日が来ました。あの日の朝、空は澄み渡り、Mさんは「こんな清々しい気分は初めてだ。気持ちのいい日だ」と、誰に言うともなくつぶやかれました。
          こうしてMさんのお陰で、「光のなかへ」は陽の目を見ることになったのです。ところが、次なる問題が流通の問題でした。書店に並べるためには、名前だけでも出版社名が必要です。
          その頃、私は今勤める会社を辞め、一人でもやっていこうと関東へ出るつもりをしていました。それを受け止めてくれたのが、今のエルの久保社長夫妻だったのです。当時、お二人は、本業の鉄工関係の仕事のほか、洗心堂という画廊を経営されており、その画廊をもとに、エルという会社をつくって本の出版にあたろうということになったのです。
          結果は、好きな画廊をやめさせる羽目になってしまいました。
          ともかくこうして、株式会社エルが発足し、この学びに関する印刷物を刊行するほか、学びの中心となるセミナーのお世話をさせていただくことになったのです。


          7 再びトマス荒木について

          こうして五年ばかりが過ぎました。
          その頃、私は「アトランティスの浮上」という本を編集しておりました。編集しながら、私は、そこにアトランティスではなく、むしろ江戸時代初頭のキリシタン迫害の匂いを感じていたのです。いきおい学生時代のことが思い出されてきました。そんなせいか、編集の参考資料にと図書館で借りた本の中に、一冊だけ日本のキリシタン時代を扱ったものが混じっていたのです。
          結局、この本は開くこともなく返却する日がやってきたのですが、返却に行く途中の電車の中で、パラパラとその本をめくっていると、ほんの数行でしたが、トマス荒木について書かれた箇所が目に止まったのです。
          不思議な気がしました。
          「トマスが追っかけてきたぞ」と、戯れに自分自身に語りかけていました。でも戯れではなくなってきたのです。「アトランティスの浮上」も編集が終わり、一息ついて、その新刊の営業に都内の書店を歩いているときのことです。
          ある本屋で「鈴田の囚人」を見つけたのです。かつて所蔵していた本です。16世紀末から17世紀初頭を生きたスペイン人宣教師カルロス・スピノラが、長崎西坂の丘で火あぶりになるまで、鈴田の牢内から書いた手紙を集めた史料集です。昔、長崎を訪れたとき、買い求めたもので、当時(昭和42年に長崎文献社から発行)は三百五十円で売られていました。
          その本が古本屋ではなく、新刊書店に並んでいたのです。しかも復刻版や新たにつくられたものではなく、初版のまま値段も同じ三百五十円なのです。信じられませんでした。ほぼ三十年前に発行された本が、増刷することもなく初版のままで、しかも新刊書店に残っていることが不思議でしたが、それ以上に「鈴田の囚人」なる本が、トマス荒木についての数少ない資料、しかも同時代、トマスと同じ牢に入れられていたイエズス会神父の書き表した飛びッきりの一級史料だったからです。
          トマス荒木は背教後も、態度が一貫せず、ためにスピノラ等が収容されている鈴田牢内に入れられました。それは、折りから「平山常陳事件」というキリシタン絡みの、オランダ、イギリス、スペイン、ポルトガルを巻き込んでの紛争が発生しており、そのキリシタン側の反応を探るための情報収集活動の一端でもありました。
          その狭い牢内で、スピノラ神父は背教者トマス荒木を見続け、そして心で責め続けました。その思いが牢内で書き綴られた書簡からにじみ出ています。
          かつて「平山常陳事件」を調べていたときには、この「鈴田の囚人」と、ディエゴ・コリャドの「日本キリシタン教会史補遺」が、キリスト教会側の同時代の史料として随分参考になったものです。特に「鈴田の囚人」は、その編者である二十六聖人記念館館長ディエゴ・パチェコ神父(現在日本に帰化され結城了悟と改名)のもとを訪れ、直接に取材さえしていたのです。
          その本が、かつて捨てたその本が、今、当時と何ら変わることなく目の前に並んでいました。トマスが追いかけてきた……そう思いました。今度は戯れでなく、本気でそう思ったのです。トマス荒木を嫌い、何度も心の中で握りつぶしてきました。でも、嫌っても嫌っても追いかけてきます。自分がそう思っているだけで、全部、偶然なのかもしれません。また、追いかけられているのでなく、逆に自分の心が追いかけているのかもしれません。
          「それならそれでよし、ひとつトマスと正面からぶつかってみよう。これだけひっかかってくるからには何かある。自分の心が知っているからこそ、これだけ形として現れてくるんだ」……そう思ったのです。
          それから本気になってトマス荒木のことを調べました。
          調べれば調べるほど、びっくりするようなことがわかってきました。
          大学在学中、そして卒業後この学びに出会うまでの十二年間、私は長崎代官末次平蔵のことを調べているつもりでいました。それを自分のライフワークにしようと思っていたのです。ところが、トマス荒木のことを調べ出すと、私が末次平蔵の取材のつもりで訪れた場所は、ほとんどトマス荒木と関わりの深い場所だったのです。
          滋賀県安土のセミナリオ跡、京都南蛮寺跡、大阪市内越中井戸近辺、大阪高槻の高山右近関係の史跡、堺のザビエル公園等、大村の鈴田牢跡、平戸松浦屋敷ほか、長崎桜町牢跡や岬の聖母教会跡・長崎奉行所跡等々、山口ザビエル記念教会……
          並べてみると、末次平蔵関係地というより、トマス荒木の歩いた道のりそのものでした。また、その地を訪ねたときの状況や思いを振り返っていく中で、絶対的な資料不足の中、トマス荒木の足取りが奇妙に埋まっていくのを不思議にを感じさえしていたのです。
          おまけに、昔撮った古文書の写真の中に、トマス荒木が背教後に名乗った了伯の署名がなされている「キリシタン転び証文」の写真が見つかったのです。この写真はポルトガル人宣教師クリストバーノ・フェレイラ(背教後の日本人名沢野忠庵)の署名が掲げられており、それが珍しくて、「まあ、撮っておこう」ぐらいの軽い気持ちで撮影してきたものでした。
          トマス荒木について調べているとき、何気なしに開いた人名辞典に「トマス荒木=荒木了伯(改宗後の名)」と出ていたのです。了伯という名前に覚えがあります。苦労して「キリシタン転び証文」を読んだとき、確か了伯という名前も出ていたことを思い出したのです。古文書類を撮影した写真は処分していましたが、ネガが一部残っています。早速、ネガアルバムをひっくり返して調べました。
          ありました。目的のネガが残っていました。面倒くさいのでネガをプロジェクターにかけて大きく映し出しました。「南蛮人転び伴天連忠庵」と署名された後ろに、確かに「日本人転び伴天連了順」そして「日本人転び伴天連了伯」の二人の名前があがっていました。
          それと気付かず、私はトマス荒木が署名したキリシタン転び証文を撮影し保存していたのです。訳もなく興奮してしまいました。あんなに嫌っていたトマス荒木なのに、知らず知らずここまで関わっていたのかと思うと、何かうれしくてたまらず、他人のような気がしなくなってきました。 

          自分のことを振り返ってみたくなりました vol.9

          2010.03.21 Sunday

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            叡福寺山門
                            (聖徳太子廟のある叡福寺)


            5 心を見る学び

            この二、三年、おかしいことが続出していました。
            毎年、右足、左足、交互に骨折するのです。最初は、妻に誘われ朝起き会に無理やり参加したとき。正座していて立ち上がろうとしたとき、左足甲の骨を骨折。
            次の年は、徹夜禅に参加しようと計画していたところ、その一週間前、自転車のペダルが折れて右足甲の骨を骨折。その骨折もようよう治った頃に、今度は、先の憑依事件です。
            妻は、その頃、田池先生のところで、自分の心を見るという学びをしておりました。が、そうこうするうち、霊道を開いたとかなんとかで、訳の分からないことを言い出したのです。自分の心の中から、思いが響いてくるというのです。
            俺には構わないでほしいと思っているのに、その思いは妻を通して、私に「心が狭い」と語りかけてくるのです。まるで妻でない別の人格が、私に語りかけているようで、それが繰り返される日が続きました。
            これには参りました。一体、どういう現象なのか、鉄眼寺の鈴木住職にも相談しました。シャーリー・マックレーンの本や、高橋信二の本を読んで自分なりに理解しようとも努めました。でも分かりませんでした。
            今では、妻が語ってきた思いは、あれは私自身の心が語っていたのだと思えます。他でもない私の心が、私の肉体に「本当のことに気付け」と語りかけていたのです。人は口にしなくても、絶えず思いを発しています。肉に近い思いもあれば、自分でも気付かない本当の心が思いを発している場合もあります。
            本当の思いが、肉に溺れている私に「苦しい」とSOSを発していたのです。「本当のことに気付いてほしい」と叫んでいたのです。
            その頃は、そんなことは分かりませんでしたが、こういうことがあるのかも知れないとは漠然と思うようになりました。それでも何か釈然としない日々が続き、とうとう悩むぐらいなら、張本人の田池先生に会ってみようと思い立ったのです。

            その日、田池先生の住む家を訪ねようと近鉄喜志の駅に降り立ちました。
            なかなか決心がつかず、田池先生の家に向かうはずが、近くの聖徳太子廟に向かってしまう自分がいました。太子廟の前に来れば来たで、することもなく歌を考えている自分があります。

            耳によし 書きてなおよし 
            和すことの 行うことの むずかしきかな

            訳もなく、歌を手帳に書き付けている自分がいます。
            「おかげで聖徳太子の廟を訪ねることができたし、今日はこれで帰ろう。約束もなくいきなり訪ねるのは失礼だ。日を改めよう。」
            そんなことを考えている自分もいます。
            再び喜志の駅に出ましたが、家へは帰らず、折りから来ていたバスに乗ってしまいました。
            目指す停留所に着き、田池先生の家に電話します。留守を願いながら……。

            その頃、田池先生はまだ府立高校の校長先生をしていました。
            先生と呼ばれるのもそのためです。いきなりの訪問に、田池先生は、
            「大阪の北の端から南の端まで来たんだ。何か言いたいこともあるだろう。上がって話していけ。」
            そう言ってくれました。
            あれから、もう十年が経ちました。
            「自分の心を見る」という、この学びをするに当たって、いろんなものを自分の心の中から捨てようとしました。
            鉄眼寺坐禅会もその一つです。悟りをもののように欲しがる心、肉的な人生に利用しようとする心、それが自分の心の中に闇となって巣くっていました。当初、チャネリングで出てきた「自分を白蛇だと思っていた僧侶の霊」、あれはよそから来たものでなく、まさしく私の心そのものでした。
            家族中を怖がらせた、あの憑依事件も、三田の方廣寺の僧侶が憑依していたのではなく、私の心そのものが苦し紛れに表れていたに過ぎなかったのです。
            みんな自分の心でした。
            もう一つ捨てようとしたのが本でした。
            そのほとんどが近世海外交流史に関する史資料と、最近になって集めた禅宗関係の本です。「大乗起信論」や「臨斎録」などの禅関係の本は、こうなった経緯を手紙に書き、その手紙と共に鉄眼寺に寄贈しました。方廣寺古文書は、整理できた目録や読みかけの訳と共に、やはり鉄眼寺に返却しました。
            キリシタン関係の図書、海外交流史関係の図書は、三回に分けて、梅田新道の古書店、高尾書店に引き取りに来てもらいました。総額で五十万円を越える額になりましたが、これは一部を小遣いにし、残りは妻に進呈しました。
            本を処分するとき、トマス荒木のことがチラッと心をよぎりました。処分した本の中に、スピノラ神父の書簡集(鈴田の囚人)やオルファネルの「日本教会史補遺」など、トマス荒木について書き残された数少ない同時代の史料が含まれていたのです。いやな奴ですが、捨てきることもできず、いつか彼については真剣に調べ直そうと思っていたのですが、それも、もう終わりです。
            何かほっとしたようにも感じたのですが、心に引っかかるものもありました。
            このときは、再びトマス荒木が追いかけてくるなど、想像もつきませんでしたから……。
             

            自分のことを振り返ってみたくなりました vol.8

            2010.03.20 Saturday

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              人魚のミイラ
                    (鉄眼寺に伝わる人魚のミイラ 難病に効く薬種として輸入されたのだろう)


              3 鉄眼寺墨跡チャリティ

              私の余暇活動は、たちまち忙しいものになりました。週二回の座禅会、週末の「無門関」購読会、「古文書学」の聴講。それに仕事の合間を見つけては、郷土史研究賞に応募するため、末次平蔵の原稿もまとめなければなりません。
              しばらくは、そんな状態が続きました。
              座禅会のほうは、すっかりはまってしまいました。
              住職の鈴木龍珠氏とも親しくなり、休みの日なども寺に押しかけ、鉄眼の書簡(弟子の写したもの)や、その他の古文書類を撮影させてもらえる仲になっていました。
              ある日のことです。住職は座禅会が終わった後、私に残るよう指示しました。何事かと思い待っていると、奥から出てきた住職が、会場の隅に置かれた机の前に私を誘います。そして机の上に置かれた平べったい箱を指し、その蓋を開けるよう促します。
              長さは一メートル五十センチ位、高さは七十センチ位、厚みは十センチ位といったところでしょうか。何だろうと思って開けてみると、横長の額で、そこには額からあふれんばかりの勢いで「清浄心」と、墨跡もあざやかに書かれてありました。
              驚いたことに、書の右側には縦に「為桐生氏」と為書きがなされ、立派に表装までされています。
              大変なことになった。こんな立派な額……高いんじゃないだろうか。金なんか持っていないし、どうしよう……?
              そんな私の思いを察したのか、鈴木住職が口を開きました。
              「あなたに上げようと思って書いたんや」
              「ありがとうございます」「でも、表装の費用ぐらいは……」
              「そんなもんはいらん。持って帰ってください」
              ほっとすると同時に、うれしくなり、なぜ、もらうのか、理由もわからないまま、重い額を抱えるようにして地下鉄に乗りました。
              少し得意でした。額の重ささえあまり感じません。他の乗客は、これが額だとわかるだろうか。それも僕のために書かれたものだ。誰かに見てもらいたい。そうだ、早く帰って女房に見せてやろう。それとなく自慢してやろう。
              この日から、この額は私の部屋に掲げられ、私の部屋は「起信庵」と名付けられたのです。ただし、私以外、誰もこの部屋にそんな名前がついているとは知りませんでしたが……。

              その年の末、郷土史研究賞に応募していた出版社から連絡が入りました。優秀賞受賞が決まったというのです。賞金は十万円です。当時としてはかなりな額で、すっかり舞い上がってしまいました。半分は妻にやり、半分は、古書を処分した金と共に鉄眼寺を通して年末のチャリティに寄贈することにしました。
              鉄眼寺では、毎年末、大阪、京都の僧侶が集まりチャリティの墨跡展が開かれます。その際、鉄眼寺座禅会有志もお手伝いすることになるのですが、そのとき、書を頂いたからということでもないのですが、お役に立ててもらえればと、思い切って寄贈することにしたのです。
              ところで、このチャリティの手伝いが、なかなかおもしろいのです。
              まず準備です。この鉄眼寺には奇妙なお宝があります。人魚のミイラ、龍のミイラです。江戸時代、中国からの輸入品にミイラがありました。これは唐船舶載貨物の一覧にもちゃんと「木乃伊(ミイラ)」とあがっていますから間違いありません。
              ライ病ほか、難病に効く薬種として輸入されたようです。江戸時代に中国から入った黄檗宗の寺ならではのお宝といえるでしょう。
              手伝いは、まず、このミイラを三階にある倉庫からおろすことから始まります。
              見れば、人魚のミイラは、上半身は猿のようです。その猿のミイラに大きな魚の下半身を縫い合わせてあるように見えます。龍のほうはよくわからないのですが、何かの動物に鱗を張り付けてあるような感じです。
              龍のほうは、どうということもないのですが、人魚がいけません。気持ち悪くてたまりません。ガラスケースに入っているとはいえ、運ぶとき、その頭の部分を持つことになってしまったのです。私の目の下で、人間のような顔をしたミイラが、口をあんぐり開け、もの問いたげににこちらを睨んでいます。
              やがてこの二体は、客寄せの道具として、入り口近くにセットされました。
              幕が張られ、寺院ごとにコーナーが設けられ、いよいよチャリティの開始です。次々と書画が売れていきます。私たちの仕事は、これを荷造りしたり包装したりすることです。
              やがて休憩の時間、この舞台裏が大変です。
              近畿のいろんな宗派の僧侶が集まるのですが、とても人を指導する僧侶や人格者の集まりとは思えません。女性の話、遊びの話、「こんな衣着てたら、帰りに飲みにも、遊びにも行かれへん」、そんな会話が飛び交います。
              それでいて表では神妙な顔で、書の説明とかをやっているのですから、鉄眼寺の住職ならずとも眉をひそめたくなるというものです。
              そんなこんなで、ばたばたした一日が過ぎ、やがて店じまいの時間……。
              帰り際、鈴木住職に、例の用意した寄付金を、「今日の売り上げと一緒にに役立ててほしい」と手渡しました。そのときの気持ちは何とも言えません。気恥ずかしいような、誇らしいような、少し惜しいという気持ちに優越感まで入り交じり、早く渡してこの場から離れたいと思うばかりでした。
              それから一月ほどして、住職が、「あなたの気持ちを考え、架空名義で寄付しといたから」と、その領収書を渡してくれました。
              名前が表面に出ない……。
              口では「よかった」と言いながらも、残念がっている自分がありました。
              なんとか自然な形で、自分の寄付行為が表面化しないものかと、まるで漫画を地で行っているようなちっぽけな自分が見えました。


              4 古文書の怪

              それからというもの、鈴木住職とはこれまで以上に親しくなりました。
              鉄眼の弟子が書き写したとされる、鉄眼最後の手紙も、全文、写真に撮らせてもらい、このほかにも、鈴木氏が住職を兼ねる、兵庫県三田にある方廣寺(別名花の寺)に伝わる数々の古文書も、預からせてもらえることになったのです。
              約束の日、方廣寺を訪ねました。
              父親の車で、妻や子供たちを伴っての訪問です。方廣寺境内の石庭は、名園として県下に知られており、折りから満開の枝垂桜が、掃き清められた真っ白い庭園に映えて輝いていました。その庭を掃除をする和服姿の上品そうな女性。この女性が鈴木住職の娘さんで、この寺の管理をされている方でした。
              私たちは寺の中へ招じ入れられ、お茶をご馳走になりました。
              やがて一抱えもある風呂敷包みが運んで来られました。ほどいてみると、古文書の山です。写真や模写ではなく、本物の古文書……それも一枚や二枚でなく、一抱えもある束を、いつまででもいいからと委ねられたのです。
              この古文書の束を整理し、目録を作り、その主なものを解読して読み下し文を付ける。聞けば、まだ誰も手をつけたことがないと言います。私の余暇活動に、また一つ大きな仕事が加わったのです。
              まず目録づくり。いつ、誰が、誰に宛てた書状か。その一覧表ができると、その主なものを写真に撮ります。その上で、古文書を開き、読めるところを別の紙に書き写していきます。この時点では読めないところが虫食い状に残ります。その読めないところを写真を常に持ち歩き、暇があれば、その写真とにらめっこをするのです。すると不思議と、あるとき急にひらめいたように読めるようになるのです。
              そんな繰り返しが続きました。
              さて、そんな頃、妻は既に田池先生と出会っておりました。
              「死後の世界はある」「人間は霊である」……
              古文書を読むかたわら、こんなことを盛んに聞かされる日が続いたのです。
              私は猛反対でした。朝起き会や、中心会や、高橋信二や、どうせ、またすぐ飽きるとは思っていましたが、せっかくの日曜日に、一日中、家を空けているというのが不満でした。それを一泊二日で勉強会があると聞いて、怒りを爆発させたこともありました。そんなとき、あの事件が起こりました。
              あの日、私はいつものように、会社から帰ると、早々に食事を済ませ、机に向かって古文書を開いていました。それは江戸時代後期の古文書と記憶しております。
              書き手はこの寺の住職。宛先は本山である黄檗山万福寺。内容は病に伏した住職が、時折り訪れる村人のほか、面倒を看てくれる者も、後を託せる者もなく、一人心細い日々を送っている。どうか、この寺を託せる者を一刻も早く送ってほしいという、あまりにも侘しく寂しい書状でした。
              どれぐらいその古文書とにらめっこしていたでしょう。
              私は眠くなって、机にうつ伏せになり、少しの時間まどろんだように覚えております。ところが、その間にとんでもないことが起こっていたのです。
              目が覚めると、子供や妻の様子が変です。
              子供は泣き出しそうになっています。妻が恐る恐る声をかけました。
              「大丈夫……?」
              私には何のことか、さっぱり分かりません。
              話を聞くと、急に私の目の色が変わり、狂ったように訳の分からないことを喚き出したというのです。まるで何かにとりつかれたようだったと言います。子供は怖がるし、救急車を呼ぼうということになり電話をかけようとしたところ正気に戻ったというのです。
              最初、家族で自分を騙そうとしていると思いました。
              だって何も覚えていないのです。私自身、少しウトウトしたことしか覚えていません。まさか!という思いでした。でも、子供の怖そうな様子といい、どうも嘘ではなさそうです。あわてて古文書に目をやりました。
              まさか……?
              ほかに考えようがありません。
              古文書を読んでいて憑依されたのでしょうか。 

              自分のことを振り返ってみたくなりました vol.7

              2010.03.20 Saturday

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                鉄眼書状
                      (鉄眼寺に残された鉄眼の書状 飢饉の難民救済のための借金申込)


                第四章 大阪で(鉄眼禅寺と心を見る学び)

                1、妻との宗教戦争

                大学生活二年目で結婚した私は、生活のため、やむなく三回生のとき夜間部へ移籍しました。やがて長女が生まれ、大学に残りたいという私のささやかな夢も消えたのです。妻子を犠牲にしてでも、そんな勇気は、とてもありませんでした。
                卒業後の新しい仕事は、政府刊行物の店舗で「官報」公告を取り扱うという、映画の世界からは思いもつかないほどの堅い仕事でした。せめて本の背中を見られ、しかもせかせかしない仕事を、そんな思いで選んだ職場でした。
                ただ人生後半にして知った歴史のおもしろさは忘れようもなく、未練がましく、週に一度は古文書学の授業を聴講するため、母校へ通っておりました。古文書学の授業を担当するのは、私よりも歳の若い助教授です。うらやましくもありましたが、ともかく、この助教授と友達になり、会社勤めの合い間を見つけては、古文書調査の仕事を手伝わせてもらい、史学の現場にかかわっているという自己満足を得ておりました。
                もちろん、長崎行きもまだ続いています。未だに末次平蔵からは卒業できず、彼の足跡を追い続けておりました。
                妻はと言うと、やれ書道、やれアートフラワー、やれ宗教と、何かいそがしく走り回っています。書道やアートフラワーなら、こちらに影響はないので安心なのですが、宗教的なものはいけません。こちらを巻き込みにかかるからです。
                まずは妻の母が熱心に通う日蓮宗の道場。年老いた女性の行者が護摩を焚き、先祖供養をしてくれるのですが、ここへ連れていかれるのです。いやだと言うと、夫婦喧嘩の種になります。結局は私が負けて、しぶしぶ連れていかれるのです。
                ついで朝起き会。毎朝、早朝四時過ぎにドアがノックされます。設定された会場へ車で送ってくれるべく、係の方が会員の家を回って歩くのです。もちろん、私は寝たフリ。ところがこの会、勧誘が激しいのです。妻は一回でいいから顔を出してくれとせっつきます。仕方なく一度だけと顔を出すと、今度は、妻の仲間の亭主連中が、「大会があるので是非出席を」と、団体で説得に現われます。
                これには頑強に抵抗しました。でも妻との喧嘩の果て、やはり一度だけと念押しして顔を出している自分があります。この他にも、日の丸道場とか言う占いの先生の家にも連れていかれました。その先生、言うにことかいて、私を宗教的だと言い、将来、宗教的な仕事をするとも言ったのです。
                私はその頃は、自分が無神論者のつもりでいました。実際、私が育ったのは、神仏を敬うような、そんな環境ではありませんでした。最近こそ、父母は仏壇を置くようになりましたが、私が小中学生の頃は、父母ともに、神や仏など口に出したことなどなく、私が中学生の頃、教会へ行きたいと言い出すと、「宗教は弱い人間のやるもんだ。特にキリスト教はそうだ。あんな十字架にかけられた人間に手を合わせて、気持ちの悪い」と、一笑に付されてしまいました。
                私自身、それ以後、神などいない、あると思うのが錯覚だと決めてかかるようになりました。だから、この占いの先生の言には、どこをどう突ついたら、そんな言葉が出てくるのかと、頭をひねったものです。
                それはさておき、このままでは、いいように女房に振り回される。何か方法はないかと思いついたのが、こちらも宗教を始めることでした。勧誘されても、「やってますから」と断わることができる。
                かといって女房と同じものをする気にはなりません。
                「格の違うものを」と思いました。あんな訳のわからない新興宗教でなく、私の無神論も満足させてくれるようなやつ……、そう、禅宗です。銀行員時代、二泊三日で、黄檗禅宗の本山「萬福寺」へ社員研修と言って放り込まれましたが、皆のいやがる中、私自身、何かピッタリ来るものを感じていました。
                これだと思いました。
                無理なく続けられるよう、大阪近辺で座禅会を開いている寺を探し回りました。
                まず思いついたのが、泉屋博古館です。寺ではありません。住友グループの施設で、江戸時代は住友の銅精練所として使われていた建物です。江戸時代、貿易の決済は、初期は銀が主流でしたが、その後、銅が中心となっていきます。国内流通用には円板状に加工したものを使いますが、オランダ貿易には、桿銅といって細長く棒状にしたものを使います。この銅が、この住友灰吹き所で精練され、淀屋橋にある銅会所(現在は愛珠幼稚園として現存)を通じて、堂島川を船で下り、海路、長崎へと運ばれていったのです。
                おもしろいエピソードがあります。
                江戸時代、幕府の貿易統制策は、薩摩をはじめとして大小様々な密貿易を生み出しました。長崎でも、オランダ船が入港すると、体中にこの桿銅を縛りつけ、オランダ船に泳ぎ渡ろうとした人間がいたようです。その重みのため溺れ死んだ男の死骸が見つかったということが、長崎の「犯科帳」に記録されています。
                話を戻しましょう。
                私は、江戸時代の生糸貿易を調べていたおり、この銅の灰吹き所の建物が住友の施設(泉屋博古館)として今も残り、月に何度か、禅の「無門関」の講読会に使われいるのを知っておりました。座禅をはじめようとして、当然、まずここを思いついたのです。
                早速、連絡を取り、月に二度、土曜日の午後、「無門関」の講読会へ足を運ばせることになりました。そして、そこで鉄眼寺座禅会を知ったのです。


                2 鉄眼寺座禅会

                そんな折もおり、朝日新聞の心のページにも鉄眼寺座禅会の案内が掲載されました。週二回、場所は地下鉄四ツ橋線なんば駅。私の勤める会社は四ツ橋線肥後橋駅にありますから、南へ二つ目の駅……すぐ近くです。しかも参加費は百円と超破格値。
                早速、調べてみました。
                鉄眼寺、正式には瑞龍禅寺といい、江戸時代初頭、中国から隱元が伝えたという黄檗禅宗の一寺です。本山は宇治黄檗山萬福寺。私が銀行の社員研修に放り込まれたところです。まず、そのことに心が動きました。次いで鉄眼という人物に心が動いたのです。
                彼は、自らが大悟の器でないことを悟ったのでしょうか、当時、まだまだ普及していなかった仏教経典のすべて(一切経とか大蔵経とかいう)を、日本で版木にすることに一生をかけたのです。日本に仏教が伝わって千年以上が経とうというのに、未だ、日本で印刷された経典の数は少なく、仏典を学ぼうにも、経典自体、やすやすと目にすることができないのです。
                手に入れるには、大枚な金額をはたいて中国から輸入するしかありません。絶対数が不足しているので、学僧はそれを写経するしかなく、ときには写経の写経となり、最後には不完全なものでしか学べなくなってきます。それでも目にすることができるのは、幸運というべきでしょうか。
                仏典を日本で出版することで、そんな状態を改善しようとしたのが鉄眼でした。
                彼の一生は、自らが悟る道よりも、仏典を普及させることで、他者の悟りへの道を開こうとした一生だったようです。自らを大悟の器でないとしたところに引かれました。
                「小人、閑居して不善をなす」という諺がありまが、当時、私は、この諺を逆手にとって、小人である自分が、不善をなさず、小人の分をまっとうする生き方をするにはどうしたらよいか。自分のできる仕事があるはずだと思っていました。生活のための仕事ではなく、自分にとっての本当の仕事。給与生活者がその収入をつぎ込んでもやろうとする仕事。そんな生き方を求めていました。
                だから鉄眼に引かれました。間違っていようが何だろうが、自分が信じて進める人生。そのために地獄に墜ちるなら、それも本望だと思っていました。飢饉と闘って死んだ鉄眼の最期にさえ……共感を覚えました。
                彼は、大蔵経の印刷のほか、当時、西国を襲った飢饉の救済のためにも駆けずり回りました。仕上がってくる経典を担保に金を借り、粥を炊き出します。間に合わなければ米をじかに紙に包んで配ります。それでも間に合わなければ、銭を包んで配りました。そして金も尽きました。
                鉄眼寺施行門に並ぶ飢民の群れは日を追うごとに増えるばかり。飢民の群れは後を断つことがありません。与えれば与えるほど、飢民の群れは増え続けます。「米を、粥を」という怨嗟の声を聞きながら、過労に倒れ、病床にあった鉄眼は息を引き取ったと言われています。
                残された彼の最後の手紙は、飢民救済のため「拙僧施行やめ候えば、ことごとく餓死に及び申し候ゆえ、たとい指を刻み、骨を折りて施し候ともこの施行やめ申すまじく……」という、悲壮な借金依頼の書状でした。その書簡が鉄眼寺に残されています。彼の弟子が書き写したものです。自筆の物は京都にありますが、でも、私はその写しにひかれたのです……。

                その日、初めて鉄眼寺を訪ねました。
                夕方六時、座禅会の始まる三十分前です。陽はまだまだ明るかったので、多分、六月頃のことだったように思います。
                境内はひっそりと静まりかえっていました。四ツ橋筋を走るまばらな車の音も、その静けさの邪魔をせず、かえって静けさを引き立てているかのようです。
                空襲で新しく建て換えられたのでしょう。こざっぱりした建物は二階が本堂になっており、そこに誘う大きな階段が正面にありました。階段の上がり口には、布袋さんの像……後になって、よく住職が言っていました。
                「こんなもんに手を合わせたってしゃあないで。すがりついても何の助けにもならん。溺れて死ぬのがせいぜいや……」と。
                その階段の裏手に一階への入り口があります。座禅会の会場です。
                建物に足を入れるや、一層の静けさと冷ややかな空気が体を包みました。側面に下足棚が並び、正面には、上のほうから「脚下照顧」の偏額が見下ろしています。
                思わず「頼もう」とでも声をかけたくなるような雰囲気ですが、そこは常識的に「ごめんください」と声をかけました。でも、声が喉に張り付いたようで、内にこもったような小さな声しか出てきません。
                案の定、館内はシーンと静まりかえったままで、なんの応答もありません。
                もう一度、大きな声で、
                「ごめんくださーい…………」と、声をかけました。
                自分の声が静けさの中へ染み込んでいきます。
                ……また何の応答もありません。
                一瞬、間違ったかなあと思いました。三十分前に誰も来ていないのがおかしい。今日は違ったのかもしれない。
                そう思い、帰ろうとしたときです。
                恰幅のよい、おだやかそうな老僧が現われました。
                まるで入り口の布袋さんがきっちり僧衣を着けて入ってきたかのようです。
                「何かご用かな?」
                「新聞で座禅会の案内を見て来たんですが……」
                「まだ誰も来ませんでな。中に入って、少しお待ちくだされや」
                そう言って、住職は奥へと消えていきました。
                中はよく磨かれた板敷きの会場で、新しいせいか、寺というより公民館の集会所といった風情です。横手に並べられた机には、墨の色も鮮やかに、まだ書き終えたばかりと見える何枚かの書が乾かされています。その横の机には、大蔵経の版木の一部が無造作に飾られてあり、入り口側面の壁には、鉄眼寺施行門を取り巻く無数の飢民の群れと鉄眼を描いた板絵がかけられてあります。
                板絵に見入っていると、一人のおだやかそうな青年が入ってきました。こちらに軽く会釈すると、この人も奥へ消えていきます。
                やがて先程の住職にともなわれ、その青年が現われました。
                聞くと、この青年が、参加者の中で座禅会のリーダーをしておられる方だと言います。住職は、坐り方や注意事項などを教えるよう、その青年に指示してくれました。
                会は週二回。会費は百円は、テーブルの上にある空き缶の中に各自入れる。その金で、座禅が終わったあとに出される茶菓が買われる。それ以外、規則らしい規則はない。来るも来ないも自由……。
                坐り方は、まず二枚の座布団を用意する。まず一枚目の座布団を敷き、その上に二つ折りした座布団を端のほうに重ねて置く。これは早く来たものが準備する。
                坐ろうとする者は、一枚目の座布団の上に坐り、二枚目の二つに重ねた座布団を尻の下に入れる。足は、右足かかとを左太股の上に乗せ、左足かかとを右太股の上に乗せる。こうすることで尻を中心に、両膝がつっかえ棒となり、床に対し三脚をひろげたような状態となり安定がよくなる。これを結迦臥坐という。つらいようであれば、略式の半迦臥坐でもよいし正座でもよい。ただし、正座は長時間坐るのに向かない。
                やがて、人が集まりました。
                横二列に充分な間隔を取り、向かい合って坐ります。
                まず般若心経を全員で唱えます。
                読経が終わるや明りが落とされ、途端、吸い込まれるような静けさが漂います。
                目は半眼、つまり半開きの状態で、視線は自分の組んだ足より少し先のところに落とします。時間が経つに連れ、静けさがどんどん深まってきます。
                どれぐらいの時間が経ったでしょう。右端に坐っていた一人が立ち上がったようです。静かに、静かに、足をすべらすようにして列の間を歩いていく様子……。
                やがて、続けさまにパンパンパンッと甲高い音が響きました。
                警策(きょうさく)で背中を打たれる音です。眠気を催したときや、緊張で固くなった体をほぐすために打たれるのですが、静かな中、あの足音が近づいてくると、却って体がこわばります。
                私の後ろで足音が止まりました。
                警策が軽く肩に触れます。私は合掌すると、体を折るように前に倒します。
                警策がパンパンパンッと肩から背中にかけて振り下ろされます。このとき、決して体を動かしてはいけません。警策が振り下ろされたとき、体が動くと、誤って耳を削いでしまうこともあるそうです。
                足音は、また静かに遠ざかっていきます。
                体のこわばりは取れましたが、背中のほうは、しばらくジーンと痺れておりました。
                こうして私の座禅修行の真似事がはじまったのです。 

                自分のことを語ってみたくなりました/番外編その2

                2010.03.20 Saturday

                0

                  本論に戻る前に脱線ついでに、「第4回郷土史研究賞」の選評 と詳細を紹介しておきたい。

                  第四回郷土史研究賞(昭和五十三年度)発表

                  ◎第四回郷土史研究特賞(一名)賞金三十万円
                    該当者なし

                  ◎郷土史研究賞優秀賞(二名)賞金各十万円(敬称略)
                    「備前社軍隊」吉崎志保子
                    「背教者ジョアン末次平蔵とアントニオ村山当安の対立」桐生敏明

                  ◎郷土史研究功労賞(五名)新人物往来者図書券各一万円
                    「十三塚私考」竹田芳満子
                    「実録京都見廻組史−秘められた歴史と人物」万代修
                    「上代駿河国蒲原駅の研究」結城儀郷
                    「伝南朝長慶天皇仮御所(行宮)阿瀬川荘日光神社の調査と考察」中側昭
                    「近江商人の郷土史研究」寺井秀七郎

                  選評
                  〔審査員〕
                  櫻井徳太郎、末永雅雄、中田祝夫、楢崎宗重、由良哲次(五十音順)

                  いうまでもなく郷土史研究の対象領域は地域共同体であり、そこで暮らす人びとがどのような生き方をしながら歴史をつくってきたかに焦点を当てるべきであろう。この点を逸脱して徒らな紀年論や陰陽説や政権抗争史を展開してもはじまらない。そこを十分に理解していない応募者の少なくないのは反省を要する。
                  本年度もまた数多くの投稿があり、年とともに増加しているのは、郷土史に対する関心がいよいよ高まっている証拠であろう。それだけに多くの歴史書が読まれ史実の検討に情熱をかける雰囲気がうかがわれる。けれども既成の研究や論説をそのまま盗用したり借用して、独自の見解であるかのように擬装するものもないわけでない。両者は明確に区別されなくてはならない。また新説を提示する場合には、万人をして十分に納得させるだけの証拠資料を揃えて論ずるべきである。
                  今回選に入ったものはいずれも相当な努力を傾けられたことを示す力作であるが、遺憾ながら一頭地を抜き感銘を深くさせる篇は見当らなかった。そのなかでも幕末維新期岡山藩で活躍した民兵隊の組織や活躍の状況を史料に即して綿密にトレースした吉崎志保子「備前杜軍隊」と、同じキリシタンでありながら血みどろになって相対抗争した長崎内町支配の末次平蔵と外町支配の村山当安の人物像や宗教的背景を丹念に分祈した桐生敏明「背教者ジョアン末次平蔵とアントニオ村仙当安の対立」の二篇は秀逸であった。ただ両篇とも、説くがごとき状況を惹起せしめるにいたった歴史的意味を十分に洞察するところまでには到達していない。今後の努力目標といえよう。(後略)

                  審査員の方は、ほとんどの方が現在お亡くなりになっているが、今になってどんな方か調べてみるとすごい方ばかり(Wikipediaとkotobank.jpによってweb上で調べた)、自分ほど偉いものはないと思っていた自分の傲慢さが我ながら鼻についてきた。

                  桜井 徳太郎(さくらい とくたろう)
                  1917年4月1日〜2007年8月27日 民俗学者。新潟県生まれ。
                  1944年に東京文理科大学文学部史学科を卒業。東京高等師範学校、東京教育大学、駒澤大学の教授を務め、駒澤大学では文学部長、学長を歴任し、後には同大学名誉教授。日本民俗学会会長や日本風俗史学会会長も務めた。
                  柳田國男の最晩年期に門下に入り、1962年には第一回柳田國男賞、2002年には第十二回南方熊楠賞を受賞。専門は、シャーマニズム、民間信仰、他界観など。
                  東京都板橋区在住で、所蔵の書物を板橋区公文書館に寄贈(桜井徳太郎文庫)。
                  1981年に紫綬褒章、1990年に勲三等瑞宝章を受章。
                  平成14年にその業績を顕彰した櫻井賞が開設された。

                  末永 雅雄(すえなが まさお)
                  1897年6月23日〜1991年5月7日 日本考古学の巨頭。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学、1948年(学位論文「近畿古文化の研究」))。大阪府南河内郡狭山村(現・大阪狭山市)生まれ。1976年日本学士院会員。大阪狭山市名誉市民。明日香村名誉村民。大学は卒業していないものの、京都帝国大学の考古学研究室員として、濱田耕作に師事する。その後、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託として研究を行う。1950年に関西大学の講師となってからも、高松塚古墳を初め、大和地方の古墳を多く手掛ける。また、航空機による古墳観察を初めて実践する。多くの考古学者を育てたことでも知られる。

                  中田祝夫(なかだのりお)
                  昭和〜平成時代の国語学者。
                  大正4年11月30日生まれ。東京教育大教授をへて昭和49年筑波大教授、のち愛知大教授。古代から近世までの古文献を国語学的・書誌学的に研究。奈良県出身。東京文理大卒。筆名は中田蒼山(そうざん)。著作に「古点本の国語学的研究」、「日本霊異記」(訳注)、編著に「古語大辞典」など。

                  楢崎宗重(ならざき むねしげ)
                  美術史学者・文学博士。佐賀県生。東大卒。『浮世絵芸術』『大和絵研究』等の雑誌編集に従事した後、立正大学・千葉大学・東洋大学・国学院大学・青山学院大学等の講師を兼任する。又『国華』の編集にも携わっていた。日本浮世絵協会常任理事・風俗史学会顧問・立正大学名誉教授・浮世絵太田記念美術館名誉館長。『北斎論』『美術と史学』『浮世絵史話』等の著書がある。勲四等旭日小授章受章。平成13年(2001)歿、97才。

                  由良 哲次(ゆら てつじ)
                  1897年〜979年3月 奈良県出身の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。
                  奈良市丹生町にて、丹生神社の神官の家系に生まれる。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に学ぶ。大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学。三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修める。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。西田幾多郎と田辺元のもとで哲学を修め、哲学雑誌『理想』に論文を発表。1928年7月、シベリア鉄道経由でドイツに留学。ベルリンでドイツ語を学んだ後、ハンブルク大学に入学。エルンスト・カッシーラーのもとで博士論文『精神科学と意志法則』を完成。このころ、ハイデガーやフッサールを訪問している。1931年、日本に帰国。東京高等師範学校で哲学を教える。1939年、『政界往来』の懸賞論文に応募して第一席となり、近衛公爵賞を受ける。1940年、日本大学芸術科教授に就任。国家主義哲学者としてナチスドイツに範を求め、日本固有の道徳思想に基づく民族教育の徹底を主張していたが、日本の敗戦により教職を辞し、1946年、東京都練馬区石神井の自宅に富士書店という出版社を設立。戦後は在野の研究者として古代中世の日本史と近世の日本美術史に関する論文を執筆した。葛飾北斎と東洲斎写楽の同一人説を主張。1976年、伊賀上野公園内に「横光利一 青春の碑」を建立。利殖の道に明るく、奈良県新沢千塚群集墳保護のため奈良県に私財1億円を寄付した他、奈良県立橿原考古学研究所に3億円の寄付をおこない、由良大和古代文化研究基金を設置した。1979年、食道癌のため東京大学医学部附属病院で死去。彼が蒐集した美術品の数々は、死後、奈良県立美術館に寄贈された。遺産の総額は時価10億円を超す。

                  自分のことを振り返ってみたくなりました vol.6

                  2010.03.16 Tuesday

                  0

                    長崎春徳寺裏山からの景観
                                (末次平蔵の菩提寺 春徳寺裏山からの長崎の景観)


                    末次平蔵の石棺3 村山等安と末次平蔵

                    こうして私の長崎通いが始まりました。
                    中国側の史料も読みたい。それも漢文としてではなく、中国語としてとらえたい。そんな思いで、授業だけでは足りないと、日中友好協会主催の中国語の学習サークルに参加しました。そこで知り合ったのが、現在の妻です。彼女とは一年後に学生結婚することになりますが、その新婚旅行もまた長崎でした。
                    結婚してからも、費用を工面して長崎に通い続けました。史料を読み、古文書とにらめっこし、ときには研究者に話を聞き、現地を自分の足で歩いてみる。歩いてみて初めて分かったこともいくつかありました。それを歴史雑誌に投稿すると、いくばくかの金になる。その金でまた長崎へ行く。そんな繰り返しでした。
                    調べれば調べるほど、当時の長崎は複雑な様相を呈しています。その複雑さの正体は、突き詰めてみればカネです。長崎の内町と外町の商人間の対立、旧教国ポルトガル・スペインと新教国オランダ・イギリスの対立、それにイエズス会と他修道会間の争い、幕府の思惑と南蛮貿易に投資する西国大名の思惑……、様々な利害が長崎で輻輳し、衝突していたのです。
                    そんな勢力関係を背景に、前述の末次平蔵と村山等安の訴訟事件が起こりました。
                    イエズス会が後押しするジョアン末次平蔵が、ドミニコ会やフランシスコ会が後押しする長崎代官アントニオ村山等安を、その数々の不正を原因として訴えたのです。
                    この訴訟は、長崎の利権をめぐっての争いであったわけですが、先にも上げた、ポルトガル宣教師とスペイン系宣教師の対立、ひいては長崎の内町と外町の対立と、さまざまな思惑を抱え込んで複雑な様相を呈することとなり、あげくは、平蔵が、等安をキリシタンとして、しかも大坂の陣に際し等安の息子が大坂方に与したことを訴えることで結末を見ることとなったのです。
                    以後、長崎代官の職は末次平蔵に移りましたが、このことは、平蔵の背教を意味し、これ以後、平蔵は苛酷な迫害者としてキリシタンの前に登場することになります。
                    ところで末次家は平戸の木村氏から出ており、一族からは日本人として最初の宣教師となるセバスチャン木村(前述の鈴田牢の碑に、木村神父として紹介)を出しています。しかも平蔵の父興善(こうぜん)は、ザビエルの博多での宿主となったキリシタンの名門中の名門であり、平蔵の背教はイエズス会には信じがたいことであり、且つ受け入れがたいことでもありました。しかし、彼の目指すところが、宗教的救いではなく貿易の利潤であってみれば、それも致し方ないことでしょう。
                    江戸幕府は、オランダ、イギリスの日本貿易参入により、次第に長崎貿易からキリスト教の影響を拭い取りにかかっていたのですから……。


                    4 大嫌いなトマス荒木

                    ところで、この末次氏と村山氏のことを調べていると、どうしても一人の人物がちらほらと顔を出します。それがトマス荒木です。ローマへ渡りパードレとなって禁教令下の日本へ戻ったのですが、間もなく捕らえられ、その教えを捨てました。
                    彼は背教するや、キリシタン名簿を長崎奉行所へ提出し、江戸で末次平蔵と村山等安の公事(裁判)が取り結ばれた際、証人として出席し村山等安に不利な証言をしたと思われるのです。
                    しかし彼の態度は、終始、揺れ動いています。キリスト教会を非難したかと思えば、次には自分はキリシタンだと言い出したりします。棄教前から、その懐疑的な態度は教会側からも問題視されており、帰日前、マカオ滞在中も、イエズス会から危険視されておりました。
                    荒木に比べれば、平蔵のほうが余程すっきりしていて気持ちがよいと思うのです。荒木のようなウジウジした生き方だけはしたくない。この人物だけはいやだ。こんな人物だけにはなりたくない。そんな思いが出てくるのです。
                    彼の弱さが身にしみて、浅間山麓の事件を思い出させるのです。彼の弱さを忌み嫌う心は、そっくり自分を嫌う心につながってきます。
                    何度も、自分は違う、こんなにひどくない。自分はこんなにも弱くない。そう思おうとしました。でも、見たくない、知りたくない、こんな男のこと……そう思えば思うほど、トマス荒木が追いかけてくるように思います。
                    彼が資料に出てくる箇所は、大急ぎで通りすぎようとしました。
                    それでも出てくるのです。扱う史資料、どれにも、どんなところにも顔を出してくるのです。トマス荒木と言えば、イエズス会を裏切った人間として、資料が極端に少ない人間なのです。イエズス会は、殉教者については詳細な報告を残しました。途中の紛失を恐れ、何通もの日本通信が様々なルートで送られました。しかし、背教者、特に裏切り者の記録については何も語ろうとしません。
                    だから、彼の資料は探すほうが難しいぐらいなのに、まるで追いかけてくるように、いやがればいやがるほど、資料が追いかけてくる感じです。そんな繰り返しが続き、それでも、末次平蔵と村山等安の訴訟事件を素材にした卒業論文は無事完成しました。
                    ただし、その内容にトマス荒木については一言一句も触れることはありませんでしたが……。

                    自分のことを振り返ってみたくなりました vol.5

                    2010.03.15 Monday

                    0

                      鈴田のキリシタン牢跡
                                     (大村湾に面して立つ鈴田のキリシタン牢跡)

                      鈴田牢井戸跡と旧道入り口第三章 長崎で…

                      1 鈴田牢跡に立って

                      極寒の二月、私は大阪を朝一番に発つ全日空機に飛び乗るようにして、この長崎へとやってきた。長崎での最初の目的地は、空港のすぐ近くにある鈴田というところ。
                      私は客待ちをしていたタクシーに乗り込むと、いきなり「鈴田に江戸時代のキリシタン牢の跡があるそうですが……」と、運転手に声を掛けた。運転手の怪訝そうな顔がバックミラーに映る。私はポケットから史跡案内の本を取り出すと、ページの折り込んだ箇所を開き、それを差し出しながら、「鈴田の宮崎というところにあるはずなんですが……」と問い掛ける。
                      運転手は、差し出されたページをしばらく見ていましたが、「そう言えば、それらしきもんが道路沿いにあったとですね」と、顔に似合わぬ穏やかな口振りで答えてくれ、「でも、なんもなかとですよ。ただ丘のごたるところに、十字架が立っとるだけですたい……行かれるとですか?」と問い返してくる。
                      私はただ「お願いします」とだけ答えた……。

                      途中、この人のよさそうな運転手になにか話しかけたいと思うのだが、胸の中に重いものがつっかえているようで、どうしてもその気になれない。運転手のほうも、そんな私の様子を察したのか、とうとう二人とも何も話さぬまま目的地へと着いた。
                      過ぎ去るタクシーを見送って、道路の右側を見ると、小高い丘のようなところに、木々の間から白い十字架が見える。逆に道路の左側は一段低くなっており、狭い畑のようなものがあって、案内書によると、どうもこの辺りが「牢屋の井戸」と呼ばれたところのようだ。道路から下りてみると、狭い畑の向こうに干拓地らしきものが広がっており、その向こうには、海を隔てて長崎空港が見える。おりしも一機の飛行機が滑走路から飛び立っていった。
                      再び道路に上がり、さきほどの十字架の丘へ登る道を捜す。すぐに丘の裏手に出る地道が見つかった。道はゆるやかな登りになっており、少し行くと、左手に目的地である鈴田牢遺跡の入口が待ち構えていた。

                      入口の短い階段を上がると、七、八坪程度の狭い広場に出る。ここが鈴田のキリシタン牢があったところだ。今では、その広場の真ん中に十字架が据えられているだけ……その台座の銘板に次のような言葉が記されていた。

                      「鈴田牢の碑
                      一六一七年七月から一六二二年九月まで、ここにキリシタン牢があった。広さ二六平方メートル(八坪)の小屋である。神父と修道者、信者ら三五人がこの牢にいた。
                      肉体に加えられた迫害と苦しみをよそに、聖なる囚人たちは神への 愛に満ち足り、悲惨極まりない牢獄も、敬虔な修道院の如くであったという。
                      一六二二年九月十日、囚人のうち木村神父ら二十五人は長崎の西坂で殉教、十二日にはフランコ神父、ズマラガ神父ら八人が大村の放虎原で信仰に殉じた。牢内で帰天した者二人……。」

                      この鈴田牢に囚われていた、ほとんどすべてのキリシタンが死んだ。斬首された者、あるいは牢内で病死した者。またある者たちは、長崎の西坂刑場で生きながら焼き殺された。五年にわたる鈴田牢の歴史は、長崎の大殉教、そしてそれに続く放虎原での火炙りという形で幕を閉じる。
                      この牢に囚われていたキリシタンの中で、ただ一人、トマス荒木だけが、背教者という汚名とともに生きてこの牢を出た。
                      私がはるばるこの鈴田牢を訪ねてきたのは、今にして思えば、殉教者たちの栄光を偲ぶためではなく、イエズス会のスピノラ神父が、侮蔑の思いを込めて呼んだ、「ローマの聖職者」トマス荒木と出会うためであったと頷ける。
                      ただ、そのころは、この鈴田牢を訪れた意味もよく分かってはいなかったが……。


                      2 「折りたく柴の木」

                      私が初めて、この「トマス荒木」という人物に出会ったのは、大学生活も二年目を迎えた頃でした。その頃の私は日本の近代史に夢中になっていました。一方に岡倉天心の「アジア主義」、一方に伊藤博文の「脱亜論」を抱えた近代日本が、その両面をときに使い分けながら、軍ファシズム運動に走っていく過程を、アジア史の中でとらえてみたいというのが、私が日本史を専攻した目的でした。
                      そのため、年下の友人たちと同人誌を作り、友人の下宿を根城に気を吐いていたのがこの頃の私であり、いつしか、浅間山の麓で起こったことは忘れ去っていました。
                      当時の私の頭にあるのは、大陸浪人の宮崎滔天であり、石原莞爾であり、北一輝、大川周明でした。二年目を迎え、東洋史特殊講義を受講しようとしたのも、東洋史の中で日本をとらえなおすのに、何か多少でも参考になるのではという漠然とした思いからでした。
                      ところが、東洋史特殊講義を担当した大庭教授は、当時、江戸時代中国舶載貨物の研究で有名になられた方で、授業のテキスも、新井白石の「折りたく柴の木」……
                      これでは自分の目的とはあまりにも縁遠いように思われました。
                      最初、受講をやめようかと思いましたが、授業で取り扱われたテーマが圧倒的に私を魅了してしまい、日本の近代史どころではなくなってきたのです。
                      そのテーマというのが、中国と日本の生糸貿易でした。

                      この頃、日本はまだ鎖国はしておりません。
                      それどころか十六世紀から十七世紀初頭は、日本人の海外進出の全盛期でした。その頃、日本が欲したものは中国産の絹であり、武家と言わず商人と言わず、こぞって絹を求め、ために生糸の値段が物価を左右したほどでした。しかし、日本ではまだまだ上質の生糸はできず、かといって中国は、倭寇対策を理由に日本に対し「海禁令」と称し、国を閉ざしています。そこに登場したのが、大航海時代を経て極東にまで進出してきたポルトガルだったのです。
                      ポルトガルはマカオを拠点に中国産の生糸を長崎へ持ち込みました。日本の朱印船貿易家も、東南アジア各地で冒険的中国商人と出会い、生糸を仕入れはしましたが、日本の需要を賄えるほどではありませんでした。いきおいポルトガルの南蛮貿易が重要視されるようになります。そしてポルトガル人から生糸を購入するためには、どうしてもイエズス会宣教師の斡旋が必要とされたのです。
                      このため、貿易に携わる人間はこぞってキリシタンとなりました。家康もキリスト教を歓迎はしませんでしたが、当初、貿易上の政策からこれを利用する方向に動いたのです。しかし、家康の最終目標は、長崎貿易からキリスト教を分離し、その主導権を幕府が掌握することにほかなりません。これを可能にしたのが、新興国オランダ、イギリスの日本貿易への参入だったのです。やがて禁教令が発布され、教会領長崎は幕府に接収され、じわりじわりとカトリック勢力の日本からの追い出しが推進されていきました。

                      このようにして、講義は、生糸貿易からはじまり、キリシタンの迫害へ、そして最後に日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチと新井白石の関係へと及んでいきます。その舞台となった江戸のキリシタン屋敷は、シドッチ以前にも数々のキリシタンたちが、その苦しい思いを吐いた場所であり、実は、現在私が仕事でよく行く書籍取次店星雲社のすぐそばが、かつて、このキリシタン屋敷があった場所なのです。
                      それはさておき、私はたちまち、生糸貿易とキリシタンというテーマに夢中になっていきました。鎖国前の一時期、日本が世界に向かって手を広げようとした時代があったのです。航海術や造船術が進歩し、西洋型帆船と中国ジャンクの長所を併せた大型朱印船が、この日本で建造されました。
                      聖地エルサレムを訪れた最初の日本人がいたかと思うと、キリシタン追放でロシアまで流れていき、その地でロシア聖教会から異端とされ火灸りにされた日本人キリシタンがいます。かと思えば、東南アジア各地で、奥地に入っては現地の人に金を渡し養蚕業への転向を奨励していった日本人商人たち。オランダやポルトガルに傭兵として雇われた日本の侍たち。明朝に味方し、清朝を倒そうと南京攻略に参加した鉄兵と呼ばれた日本の義友軍……この時代、興味は尽きることなく広がっていきます。
                      やがて興味は一人の人物に収斂していきました。
                      長崎代官、末次平蔵政直です。
                      朱印船貿易家であり長崎内町乙名(おとな)であった彼は、同じキリシタンである長崎代官村山等安を幕府に訴え、自ら長崎代官となりました。以来、イエズス会最大のパトロンと言われた末次平蔵は、イエズス会の最大の敵と言われる迫害者となったのです。
                      私は、なぜかこの人物に惹かれるのです。調べれば調べるほどこの人物に魅せられ、次第に末次平蔵の足跡を追いかけることに、自分の生きがいを見い出すようになってきたのです。