韓国映画「青燕」を見て

2010.01.06 Wednesday

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    青燕墜落現場 玄岳
                       (青燕の墜落現場 静岡県玄岳)

    映画「「青燕」のDVDパッケージ年末に「青燕」 という韓国映画を見た。劇場ではなく、DVD化されたものをツタヤでレンタルしての観賞だ。もっとも日本では劇場公開されなかったから日本の映画館で見るというのは不可能な話なのだが……。
    韓国では2006年の正月映画として公開されたらしい。しかし「親日的だ」という理由で興行的には今ひとつパッとしなかったようだ。日本の航空映画は、お家芸の「特撮」に邪魔され、見せ物的になってしまいドラマとして深化したものが育ってこなかったと思う。そういう意味では韓国版航空映画「青燕」は見応えがあった。
    韓国で最初の女性パイロット「朴敬元」のお話。普通ならサクセスストーリーで終わる話なのだろうが、不幸にも彼女の生きた時代が激動の時代だった。彼女が9才の頃、日本による韓国併合があり、彼女が事故死した前年、満州事変を経て満州国が成立した。
    しかも彼女の留学先が、蒲田にあった東京日本飛行学校。女性として初めての日本海横断飛行に挑んだが、「日満親善」がオモテ看板にあり、しかも日の丸を振りながら「青燕(あおつばめ)」と名付けたサルムソン2A2型複葉単発機に乗り込む姿は、同胞の韓国人女性から「民族の魂を失ってしまったんですね」と評されても仕方のないものだったのだろう。

    映画では、このため大きな脚色がされている。彼女に恋人がいる。韓国の財閥の息子であり、彼は父親の政治的配慮から日本陸軍に入隊させられている。ところが、彼の友人の新聞記者がテロ事件を起こし、彼もまた「朝鮮赤色団」の一味として拷問の末、処刑される。彼の恋人であった朴も取り調べのため拷問を受けるが、国際世論への配慮から「無実」と判明し釈放される。
    かくして朴敬元は、「祖国とも日本とも関係なく君は空を飛べ」という恋人の遺言を胸に、恋人の遺骨を抱えて、女性初の「日本海横断飛行」に挑む。しかし折からの台風接近に「回航せよ」との命令をも無視し、「決行する」という言葉を残し、静岡県にある「玄岳」に激突し、その一生を終えるという筋書きだ。
    映画を見ているときは、史実の再現と思い、思わず叫び出しそうになってしまった。

    しかし、何かひっかるものがあり、調べてみた。
    飛行機で最初に空を飛んだ女性は、フランス人レイモン・ド・ラロッシュだ。彼女は、1909年10月22日、骨組みむき出しの翼を持つ飛行機で、5メートルの高さを2300メートル飛んだ。ライト兄弟によって飛行機が発明されて6年後の話だという。
    日本で最初に空を飛んだのも女性だったという。
    1910年9月9日、山田猪三郎考案による飛行船の浮揚実験に、報知新聞記者・磯村春子が記者魂をかきたてられ乗り組んだという。飛行船制作に携わった山田の弟子を除けば、彼女が最初に空を飛んだ日本人になるらしい。
    以上は、加納実紀代さんの「越えられなかった海峡 −女性飛行士朴敬元の生涯−」の受け売りだが、実際には江戸時代中期(天明年間)に凧を使って空を飛んだ紙屋幸吉という人物が、日本で最初に空を飛んだ人物ということになる。彼について話し出すと、話がどこへ行くか分からないので、朴敬元に話を戻すことにしよう。

    朴敬元(パクキョンウォン)、これまでは1901年生まれで「女の厄年である33才に死んだ」とされていたが、加納実紀代さんの執拗な調査の結果、彼女は1897年6月24日に生まれ、36才で事故死したことが判明した。彼女は1925年1月、東京蒲田の日本飛行学校に入学して操縦を習い、1927年1月3等飛行士の免許を取得。翌28年7月には、木村シゲノ、今井小まつに続いて日本で3人目の女性2等飛行士になった。当時、日本では、1等飛行士には男性以外なれなかったという。世界中探しても、女性飛行士は数十人しかいない時代だった。それも儒教思想の強い韓国の女性が、植民地の支配国である日本にわたって飛行士になるなど、それだけでも驚嘆に値する。
    当時、日本で操縦練習するには莫大な費用がかかる。500円あれば家一軒が建つ時代に、3等飛行士になるだけで2000円がかかるとされていた。このため、これまで、朴のことは「金持ちのお嬢様の遊び」だとか、「韓国の某大臣の2号さん」だとか言われてきた。しかし実際は、映画で紹介されたように貧しい家の出だったようだ。加納実紀代さんの調査によれば、韓国の貧しい家具職人の家に5番目に生まれた娘だったらしい。しかも5人が5人とも娘で、敬元は最初、願桶(ウォントン)という名前を付けられた。韓国語で、「残念だ」とか「恨めしい」とかいう意味だという。つまり待ち望んだ男の子でなくて、またも女の子が産まれ「残念だ、悔しい」ということらしい。彼女もこの名を嫌い、自らの意志で敬元(キョンウォン)と改名している。
    1917年夏に父親が死ぬや、敬元は、その年9月、信明女学校を退学している。退学理由は「財政無故」、つまり学費が払えなかったということだ。
    そんな貧しい家に生まれた娘が、日本に留学したという。「横浜技芸学校」だと言われてきたが、実際は、職工養成を目的としてつくられた「笠原工芸講習所」に入ったということらしい。やがて28才になって日本飛行学校に入学。当時の28才と言えば、中年を越えている。加納実紀代さんは言う。
    「28才と言えばもう立派な中年、一時の飛行熱に浮かされるという年ではない。熟慮の末に、不退転の決意をもって朴敬元は飛行学校に入った。」
    日満親善飛行に飛び立つ朴敬元映画では、タクシーの運転手をしながら学費を稼いだことになっているが、実際は、日本の職工養成所を出た後、韓国に戻り、慶尚道大邱の看護学校に入り、看護婦をしていたらしい。女性の職業が限られていた時代、看護婦は、女性が経済的に自立できる数少ない専門職の一つだったようだ。日本の女性飛行家の中にも、飛行学校に入る前に看護婦をしていたという女性が何人もいるらしい。親からの仕送りに頼らないで、なんとか自力で飛行家になろうとした女性たちだったという。

    さて朴敬元の遺稿に「青空礼賛」と「わが女流飛行家は何故伸展しないか?」の2編があるが、そのなかで朴は「過去を顧みれば苦しい錬磨の連続。楽しい日は幾日あったろう。(略)再び勇気を奮い起こして男と肩を並べつつ油服を身に纏って、その日その日の飛行場生活。こうして幾年月を重ねて来た自分であったろう」と、その思いを語り、そして言い切る。

    「何物も欲しくない。ただ自分の足跡を残したい一心だけだ」

    ここに彼女の思いが集約されているように思う。日本帝国主義の犠牲者としてでなく、激動の時代の中にあって、「自分の足跡を残したい!」という思い。これこそ彼女の、心の底からの叫びのように思う。この言葉に出会ったとき、映画を見ながら感動しつつも、「何か違う」と感じた違和感から解放された。

    リサーチに当たっては、加納実紀代著 「越えられなかった海峡 −女性飛行士朴敬元の生涯−」を参考にさせていただきました。加納さんの執念が、朴敬元という女性の心の叫びを掘り起こしたように感じています。ありがとうございました。
    なお熱海にある「韓国庭園」に、朴敬元さんの記念碑があるそうです。機会があれば一度行ってみたいと思っています。
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