◇「孤児たちのルネサンス」を20名の方にプレゼントします

2013.11.02 Saturday

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     60才の還暦を迎えたとき、自分へのご褒美ということで1冊の本を作った。それまでは本を出したいという人の相談に乗り、如何に安く良い本をつくるか、どのようにして読者を集めるか、そのことばかりを考えてきた。

     今度は自分の出したい本を作る。そうして出来たのが「孤児たちのルネサンス」だ。16世紀末、印刷機の普及に伴い、バチカンもルターに対抗し、これまでのラテン語聖書を全面改定し「シクトゥス聖書」が出版された。ところが、これが一冊も残っていない。シクトゥス教皇が亡くなるや、ベラルミーノ枢機卿がヨーロッパ中の異端審問書に号令をかけ回収し焼き払ってしまったのだ。そのうえで、「シクストゥス・クレメンタイン聖書」を大急ぎで発行し、これに換えてしまった。

     このバチカン史上、謎とされる事件と、日本からローマへ渡った留学生トマス荒木の史実を交えて、自分なりの解釈を小説化したものが、「孤児たちのルネサンス」だ。
    テーマは、人の言葉に縛られる怖さ、宗教に縛られる怖さ……果たして我々は、何かをしようとするとき、何かを決断するとき、周りの何ものにも影響されないということが果たしてあるだろうか。本当の自由とは何だろうか? このことを、この本を通して考えてみたかった。

     前置きが長くなったが、この本を、当初1000部つくって、100冊を図書館に寄贈し、残りをボチボチ売ってきたが、在庫整理したとき300冊が残っていた。そこで100冊だけを残し、200冊を廃棄処分にした(それにしてもマイナーな内容にもかかわらず600人の方の手に渡ったことになる。ありがたいことだ)。

     しかし100冊を残したものの、では、どうしようかと思ったが、読みたい人にプレゼントするのがよかろうと思った。そこでまずは試しに20名の方にプレゼントという次第!!

     以下のメールアドレスに「本希望」の旨と、送り先の住所・氏名を書いて送信していただければ、ゆうメールにて送らせていただく。
    kiriu@dep-ebooks.com

    本の詳しい内容は、
    http://www.dep-ebooks.org/orphant_order.htm

    「孤児たちのルネサンス」全ページ閲覧・ダウンロード

    2010.04.03 Saturday

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      このブログで、小説「孤児たちのルネサンス」を発表させていただきましたが、最終章をブログに掲載しないまま終わっています。本として出来あがったものを下記ページから無料で閲覧・ダウンロードが可能です。興味のある方は覗いてみてください。ただしファイルの大きさが84.2mbありますので、ダウンロードに少し時間がかかると思われます。

      ◇「孤児たちのルネサンス」=PDF形式でダウンロード(84.24mb)
        http://uta-book.com/orphans/index.htm 

      荒木村重の子孫の方から

      2010.03.27 Saturday

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        広陵町のサクラ
                         (奈良県広陵町の桜は今七分咲き)

        冬が戻ってきたのかと思うような今朝の冷え込み。その寒さの中、公園の桜はもう七分〜八分咲きという状態。事務所に着けば、庭のチューリップも堅いつぼみにうっすらピンク色をにじませて迎えてくれた。そんななか、朝一番のメールチェックをしてみれば、桜やチューリップ便りにも負けないくらい嬉しい知らせが入っていた。
        「孤児たちのルネサンス」を読んだ、荒木村重の末裔という方が連絡してきてくれたのだ。氏は、遠藤周作氏の「留学」という新潮文庫判について教えてくれた。確かに、僕もこの本は読んだことがあるのだが、その解説を村松剛氏が書いているということには気付かなかった。あわてて本を引きずり出し、その解説を読んでみると、そこにはとんでもないことが書かれていた。その一文を以下に引用する。

        『留学生』は、三部作のうちもっとも完成度のたかい、魅力的な作品と思う。
        織田信長にほろぼされた大名で、荒木摂津守村重という人物がいる。ぼくの姻戚に、その子孫だといういいつたえをもつ家があって、伝説では村重の一族のだれかが、ローマに留学した、ということになっている。そんなはなしを、あるとき遠藤にしたことがある。
        ちょうどそのころ、彼は切支丹の事績を熱心にしらべていた。さっそく文献をあさって、それは荒木トマスのことではないかな、といった。間もなくその荒木トマスを主人公にした小説『留学生』が、雑誌に出た。

        以上のような内容だ。しかも荒木一族の末裔の方が言われるには、遠藤周作氏の母方の先祖「竹井氏」も、荒木村重の家臣であり、それもあって遠藤氏は、荒木村重を主人公にした『反逆』を書いたという。作品中、遠藤氏の先祖は、村重の家臣・竹井藤蔵として描かれている。
        この方の家の家系図には、初代は「荒木村重」と書かれてあり、家には伝荒木村重の陣刀や鎧の一部が伝わっているという。そんな関係で、トマス荒木についても関心が深く、数多くの文献を読みあさってこられたという。「孤児たちのルネサンス」には、彼の出自を荒木久左衛門の孫という設定にしているが、これはどこかの文献に記されていることなのか、記されているならその文献を教えてほしいというのがご連絡いただいた主旨だ。
        残念ながら、トマス荒木の出自について書かれた史料については僕自身知らない。トマスの出自については、完全な僕の創作であり、氏が衝撃を受けたという「トマス荒木がカタリ派の影響で棄教した」という設定も、僕の創作であって、歴史的な事実を証明するような史料をもとに書かれたものでは決してない。確かにトマス荒木がローマに行ったこと、同じ時期にジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられたこと、チェンチ一族が親殺しの罪で過酷な刑に処せられたこと、シクストゥス五世が聖書の改訂を行い、その死後、ベラルミーノ枢機卿がその聖書をあつめ処分し、新たに次の教皇との連名で「シクストゥス・クレメンテ聖書」を出したこと、これらはすべて事実なわけだが、それをつなぐ因果関係については創作だということをここにお断りしておく。
        それにしても、荒木村重の子孫の方、ひいてはトマス荒木の縁の方に、この本が読まれたということ、これに勝る喜びはない。
        ご連絡いただいた方、本当にありがとうございました。

        事務所のチューリップ

        ある天文学者から寄せられた感想

        2010.03.08 Monday

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          「孤児たちのルネサンス」 の感想を寄せていただいた中に、ある科学技術館の研究者からのものがありました。お名前は伏せさせていただき、嬉しかったので内容だけを以下に紹介させていただきます。

          拝啓
          このたびは御著書「孤児たちのルネサンス」をご恵贈賜り、ありがとうございました。本日、拝読させていただきました。
           
          私は天文を教えている関係で改暦にちなんでグレゴリオ13世、無限宇宙論にからんでブルーノ、ガリレオ裁判にからんでベラルミーノ枢機卿などの名前には親しみ、彼らの動きはプロテスタントにバチカンが対抗するための運動の中での出来事であったこと、同時代のドイツの天文学者ケプラーはプロテスタントだったため不本意な生涯を送らねばならなかったこと、江戸時代に盛んになった和算の起源がどうもコレジオでの数学の講義にあったらしいこと、などを語り、巷間言われていることとは違い、ガリレオ裁判が必ずしもコペルニクス的宇宙観の弾圧を目的としたわけではなかったことなどを語ってきました。しかし、こうした知識はことごとく書物から得たもので、決して自分で獲得したものではありませんでしたから、そこに何となく後ろめたいものを感じてきました。もっとも、専門が科学の歴史であればそうは言っておれませんが、そうではないことをいいことに目を瞑ってきました。
           
          このたび御著書を拝読し、よくお調べになっておられる様子がわかり、いかに自分の知識が薄っペらなものであったかに改めて気づかされ、頭を一撃されたような思いをしました。そこで、挨拶文を再度読み返してみたところ、「30有余年あたためてきた」とありましたので、納得がいきました。おそらく天正少年使節団やキリシタン弾圧については小説を含む関係書籍がたくさん出ているんだろうとは思いますが、私はこれまでこうした分野に接する機会がありませんので、本書により、おかげさまでたくさんのことを学ぱせていただきました。厚く御礼申し上げます。ストーリーを通すためにフィクションも入っているのでしょうが、大筋では史実をっなぎ合わせて構成されているものと推察致しました。その上、こうして小説・物語の形をとると実に人間味が出て、フィクションのはずなのに妙にリアリティが増してくるのが面白く感じました。
           
          本書で特にありがたかったのは、ブルーノと、南仏・スペイン南部と北の方のパリあたりに漂う雰囲気の違いの背景にある抗争が必ずしもイスラム文化圏との衝突だけではなかったこと、を教えていただいたことでした。そして、今、カトリックはこの時代に似たような危機の中にあるのではないかとの思いを強くしました。当時はプロテスタント運動が、今は、現在の風潮が大きな敵として立ち塞がっているように見えます。もっとも、カトリック離れではなく、宗教離れなのかも知れませんが。本書は宗教に殉じた人たちの物語ですが、現在の宗教の位置を考える上でも大いに役立つのではないかと思いました。
           
          そして、何にも増してありがたかったのは突っかからずに読み終えることができたことです。こなれた文章を書くのは容易ではありません。文章に接するお仕事をされて来られたことがよく分かりました。(中略)本書はきっと大きな評価を受けるのではないかと思います。しかるべき人たちに出会え、正当な評価を得ることができますよう祈っております。

          過分な評価をありがとうございました。

          小説「トマスのものがたり」−孤児たちのルネサンスー

          2009.12.08 Tuesday

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            トマス荒木について、勝手気ままな紀行文(海外編)が一応終了した。国内編も書こうと思ったが、肝心の小説の原稿整理が進んでいない。一応、おおまかな形は出来ているのだが、紀行文を書きながら、小説のほうは「ここも変えたい」「ここもこうしたい」「ここは違うだろう」……そんな思いだけは浮かんでくるのだが、原稿に手を入れることは疎かになっている。
            それなら、と思いついたのが、このブログ。原稿整理を兼ねて、順次、ブログに「小説」自体も載せていったらいいのでは……。ブログ「トマスのものがたり」が完成したとき、「本」も完成するという次第。どうせ「売る」ことは、頭から考えていないのだから、隠すこともない。また、ここまで闇を出したのだから、恥も外聞もあるものかと、なかばやけくそ状態で、引き続き、このブログに小説も発表していくことにした。思いついたが吉日で、早速、今夜からでも、ツノだせ、ヤミだせ、ホコリだせ……と、人の迷惑顧みず、あることないこと書き散らかして、嘘八百つき放題、その中から一分の真実にでも巡り会えたら勿怪の幸い。

            そんなわけですから、心ある方は、読まないほうがよろしいかと心得ます。

            「トマス荒木を歩く」 vol.20  旅の終わりに

            2009.12.07 Monday

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              長崎のキリシタンからバチカンへの書状
                   (1621年 長崎のキリシタンからバチカンへ迫害の窮状を訴える書状)

              穴吊りの図これでトマス荒木の足どりを追って、ローマ、フィレンツェ、マカオと歩いた旅の記録は終わりです。日本へ帰ったトマスは、四年間の潜伏活動の後、捕らえられ、拷問の末、棄教しました。そればかりか長崎の支配権をめぐる争いの中で、長崎代官である村山等安一家を陥れる駒として使われます。キリシタン追放令が出された際、村山一家は何人かの宣教師を洋上で奪取し、密かに日本に再潜入させ、折から大坂の陣において、大坂城に彼ら宣教師を送り込んだばかりか、大坂方の武器弾薬まで調達した疑いです。その証人として使われたのがトマスでした。

              トマスは、キリスト教を棄てることに何の負い目も感じはしませんでした。しかし、彼が妹のようにかわいがったマリアの夫や家族を死に追いやったこと、そのマリアさえも、一六二二年、長崎の大殉教の時、トマスの見守る中、殺されていき、結果として親しかった日本人キリシタンを死に追いやる片棒を担いだことが、彼の苦しむ原因となります。
              元和の大殉教当時の状況は、ただ彼一人がキリスト教を棄てて済む、そんな状況ではありませんでした。背教は裏切りを意味し、仲間の死を意味しました。彼に残された道は、キリシタン詮議役人の道しかなかったのです。
              やがてトマスの勧めでローマへ旅だったカスイ岐部神父が日本へと帰ってきます。彼は東北の水沢地区で潜伏活動中に捕らえられ、江戸のキリシタン屋敷で、役人となったトマスと再会することになります。彼の凄惨な殉教を目の当たりにしたトマスは、再び「自分はキリシタンだ」と言い出しますが、このときも穴吊りの拷問に堪えきれませんでした。
              監視された生活の中で、自分の人生について考え、神について考え、考えては苦渋の中ですべてを否定する生活が続きます。……が、最後の最後、病に倒れた中で、母の声を聞きます。本当の自分の声を聞きます。
              キリスト教でもなく、仏教でもなく、自分を生かす力、自分を自分たらしめるものの存在を、外にではなく自分の中に感じていきます。
              そのとき、トマスの口から、本当の神を求める言葉が口をついて出ます。役人たちは、このことを長崎奉行に伝えます。
              訳の分からぬ言葉を洩らすトマスを
              「老いて耄碌したのであろう。そのままに捨て置け。」
              こうして、トマスは狂人扱いされたまま、息を引き取りました。彼の最期を看取ったのは、ローマ以来、彼と行動を共にしてきた印刷業者後藤宗因の息子後藤ミゲル一人でした。一六四六年(正保三年)、トマス荒木、六十九歳を迎えた年のことです。 

              「トマス荒木を歩く」 vol.19  マカオ サンパウロ天主堂

              2009.12.07 Monday

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                サンパウロ砲台跡
                                  (サン・パウロ要塞 砲台跡)

                サンパウロ天主堂とサンパウロ要塞その後、サン・パウロ天主堂へと向かった。
                外へ出れば、またも引いていた汗が吹き出してくる。回りを見れば、みんな涼しげに歩いている。私一人が汗みどろという状態だ。
                ……やっと見えてきた。長い階段の向こうに、焼け残ったサンパウロ教会の前壁がそびえている。追放された日本人の多くが、この教会に施された壁面の彫刻に携わったという。残された前壁の高みに残された彫刻、それを刻んだ日本人の手があった。天主堂は、一八三五年、隣にあったセミナリオから出火し、折からの台風のため飛び火し、前壁と階段を残して焼失してしまった。
                今は焼けてしまった、このセミナリオと教会に、日本から追放されたキリシタンたちが収容された。追放はマカオとマニラの二組に分けられ、総勢百四十八名に達したが、マカオ組は二十三人の神父と、その大半が日本人からなる二十九人の修道士、信者の世話を助けた五十三人の同宿、計百五名の多きに上った。収容しきれない人たちは、市内のポルトガル人商人の家に分宿したが、二台の印刷機については、セミナリオに運び込まれたことは間違いがない。追放キリシタンたちがマカオに到着したとき、トマスはすでにマカオにあって、これを迎えることとなった。
                この時、多くの再会と出会いがあった。グーテンベルグ印刷機との再会、天正遣欧使節の一人、原マルチノ神父との再会、将来、ローマへ向かうことになるカスイ岐部との出会い。
                トマスは岐部に、ローマへ行って教区司祭になる可能性を示唆した。ポルトガル人宣教師に不審の念を抱く岐部は、やがてマカオを脱出し、船員となったり、聖地を目指す巡礼の仲間になったりしながら、日本人として初めて聖地巡礼を果たした上、徒歩でローマへと入る。
                原マルチノは、日本の事情をトマスに伝える。天草のコレジオで指導を受け、印刷のことでは仲間でもあった原マルチノの口から、追放令のこと、そのとき長崎で起こった幕府への抗議デモの如き聖行列の模様、そこで活躍した一日本人婦人のこと。その婦人というのが、実は、天草のコレジオに末次興善に伴われ出入りしていた木村マリアであること。また追放される宣教師の何人かを洋上で救出し、再び日本に潜入させた時も、等安や徳安に混じってマリアが活躍していた……等々を、おもしろそうに語るマルチノだった。
                サンパウロ天主堂正面そういえば、当時、マリアはまだ十才だった。失敗した印刷物の断片を使ってはラテン語を教えた娘、そのマリアが、今では長崎代官村山等安の子、アンドレア徳安の妻として、キリシタンから頼られる女性に成長している。
                「絶対パードレになって帰ってきてね」
                「帰ってきたらマリアがお手伝いするからね……」
                マリアの幼い言葉がよみがえってきたとき、トマスの心にローマでの苦い思い出が込み上げてきた。
                「キリスト教に命を懸ける価値があるのか?」
                「みんな、ヨーロッパで起こっていることを知らない。キリシタン同士が殺し合っている事実。日本ではキリシタンが火炙りにされるが、ローマでは法皇の名の下に火炙りが行われる。」
                「日本へ帰って、俺はどうしたらいいのだ?」
                トマスの心の中で、マリアの幼い顔がいつまでも笑いかけていた。

                サン・パウロ教会の裏手にあるモンテの砦へと登った。間もなく陽が沈もうとしている。砦の入り口に記念品を売る事務所然とした建物があり、そこに、まるで番人のようなお婆さんがいた。閉まってはいけないと思い、「まだ大丈夫ですか」と声をかけた。「ああ、早く行ってきな」。言葉は聞き取れなかったが、そういうふうに自分の中では響いた。
                城壁に整然と並ぶ砲列。その向こうにマカオの海が広がっている。その海に、今、陽が沈もうとしている。この夕景の中で、トマスと岐部が語り合ったかもしれない。また、トマスと原マルチノが語り合ったのかも知れない。自分の中を陽が沈んでいくような感覚。トマスは、どんな気持ちで、この夕暮れを見ただろうか。
                ちょっと感傷的になりすぎたかも知れない。いつの間に来たのか、先ほどの老婆が横に立っていた。中国語で挨拶をすると、老婆は「中国語かい……」と、さびしそうに笑った。香港に次いで、マカオも何年か先には中国に返還されるが、決してそれを喜んでいる風ではなかった。
                老婆は、ポツリポツリと話しかけてくれる。内容も覚えていないような、たわいのない話ではあったが、そのときの様子が、心に焼き付いて離れない。そんな時間を、この老婆が運んできてくれた。
                明日の今頃は、東京へ向かう飛行機の中だろう。お婆ちゃんに、心の底から言った。
                「再見(ツァイチェン)……」 

                「トマス荒木を歩く」 vol.17  マカオへ

                2009.12.06 Sunday

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                  マカオ サンマロ通り

                  6月5日(木)朝7時10分、香港に到着する。
                  空港にはベレー帽に自動小銃を抱えた兵士の姿が目立つ。いつもこうなのだろうか、それとも中国返還を目前に控えているから、警戒が厳重なのだろうか?
                  大急ぎで入国審査を終えると、フェリー埠頭に行くべくバスに乗り込んだ。その途端、ザーッと雨が降りだしたが5分ぐらいで青空に戻った。と、思ったら、またも空が真っ暗に曇り、しのつくような大雨……。後で知ったことだが、この後、香港は雨の被害で大変だったようだ。マカオで見たテレビのニュース番組で、雨で川のようになった香港の街が映し出されていた。
                  しばらく走るとバスは通勤客でいっぱい、バスの外も二階建てバスや乗用車でごったがえしている。香港返還まで後一カ月……でも街は何ら変わった様子もなく、忙しそうに動いている。活気があるというのか、忙しそうと言うのか、香港は本当にザワザワとした喧噪の中にあった。
                  小一時間も走ったろうか、いつしか車中も静けさを取り戻し、フェリー埠頭へと到着した頃は乗客もまばらになっていた。
                  フェリーの出発時間は9時15分だと言う。5分しかない。エスカレータを駆け上がり、桟橋へ出、走りに走って何とか時間までに滑り込んだ。2等船室に案内されると同時に、出発を知らせるサイレンが鳴った。これから、いよいよマカオへと向かう。
                  おさまっていた雨が、またも降り出し、窓の外はみるみる真っ暗な海へと変わっていく。停船していた時は、あんなに揺れていたジェットフェリーだが、走り出すや、嘘のように揺れはなくなっていた。

                  マカオに着きフェリーターミナルを一歩出るや、タクシーやペティキャブ(輪タク)の運転手たちが次から次と声をかけてくる。「足があるから歩くよ」「ウォーキング、ウォーキング」と叫びながら自分の脚を叩いて見せる。ペティキャブの若い運転手が笑って手を振ってくれた。
                  ところが、いざ歩き始めたものの、その選択が間違いであったことを間もなく思い知らされた。
                  ともかく暑い。カラッとした地中海性気候に馴染んだ身体に、マカオの気候は、何とも厳しいものがあった。少し歩いただけで、汗が溢れるように吹き出してくる。その上、道に迷ってしまった。
                  若い女学生をつかまえて道を訊ねる。中国語が通じる。これが香港なら、こうはいかない。香港の人にはこちらの話を聞こうとする余裕がないのだろうか。広東語も、英語も話せない人間を完全に無視している。そうとしか思えない。中国語(普通話)を話しても、まるで聞こうとしてくれない。それが、ここマカオでは違う。こちらの言うことをじっくり聞こうとしてくれる。少なくとも、その思いが感じられる。だから広東語でなく、下手な片言の中国語でも通じる。それがうれしい。彼女もじっくり辛抱強く私の言うことを聞いてくれ、汗びっしょりの私の顔を見つめながら、歩くのは無理だからと、バス停まで私を引っ張ってきてくれた。
                  しかし、バスは来ない。
                  しかたなくタクシーを止め、彼女に礼を言って別れる。
                  私はタクシーに乗り込むや、「ハイシー・ポウウークワン(海事博物館)」と行き先を告げた。だが、通じない。ショックだ。慌てて手帳に行き先を書き付け、差し出した。
                  …………通じた。
                  それから先は、何とか、片言でも話が通じるようになった。
                  やがて最初の目的地である「マカオ海事博物館」へと到着した。
                  タクシーを降りる時、運転手が笑いながら「留心(気をつけて)」と中国語で声をかけてくれた。 

                  「トマス荒木を歩く」 vol.16  ローマの美貌の幽霊

                  2009.12.06 Sunday

                  0
                    サンタンジェロ城壁の内側
                                     (サンタンジェロ城壁 内側から)

                    ベアトリーチェ・チェンチローマはサンタンジェロ橋に、薄幸の美少女の幽霊が出るという。小生は、なんとか無事イタリアを離れマカオへ向かう事となったが、ローマを離れる前に どうしてもこの人物のことを紹介しておきたい。人物と言うより幽霊と言うべきかも知れないが……。それはローマっ子なら誰でも知っているベアトリーチェ・チェンチという美少女。彼女もまた、トマスと同時代をローマに生き、父親殺しの罪で、ブルーノと同じサンタンジェロ牢獄に入れられ、ブルーノよりやや早く兄弟や継母とともに処刑された。
                    トマスの物語では、重要な役割をはたす人物なのだが、これについては小説のほうで読んでいただくとして、ここではスタンダールの書いた「チェンチ一族」をもとに、事件の概略だけを紹介しておくことにしよう。
                    右の写真は、グイド作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」と言われる作品だが、最近はこれに対する疑問の声が起こってきている。グイドがローマへ来たのが、1600年に入ってからのことで、ベアトリーチェが処刑されたのが1599年秋のことだから、グイドはベアトリーチェのことを知らない。しかも、この肖像画は「女占い師」と呼ばれていて、シビラの神殿に仕える巫女を題材としたものだというのだ。勿論、これに反対する声もあるが、真偽のほどはともかく、この事件の悲劇性とベアトリーチェの美しさ故に、芸術家たちの想像力をかき立て、その都度、この絵がイマジネーションの源となってきた。

                    パラッツィオ・チェンチのバルコニーベアトリーチェという少女の美しさは、当時の資料にくどいまでに繰り返されてきた。たとえば、彼女を助けようと、ローマ駐在の外交使節たちが、ローマ教皇宛て助命嘆願をおこなったり、サンタンジェロ牢獄の副所長が彼女の美しさに惹かれ、結局実行できなかったとはいうものの、彼女を脱出させる計画を練ったことを書き残しているし、彼女の死刑が行われたとき、ローマ市民の暴動さえ起こっている。各国外交使節に助命嘆願を出させ、ローマ市民に暴動をおこさせ、後世には文豪スタンダールをして「チェンチ一族」を書かしめたベアトリーチェ。彼女は一体どんな罪を犯したというのだろう。

                    父親殺し……家族共謀しての父親殺しがその罪状である。
                    ベアトリーチェの父クリストフォーロ・チェンチは女癖が悪く、後妻に迎えようとした女性も亭主のある身を強引に誘惑したと言われている。そのうえ家族への暴力も絶えない。娘のベアトリーチェさえ手込めにしようとした、そんな典型的な悪人。そんな父親を、継母や兄と共謀して殺害した、これがベアトリーチェの罪状である。しかし不思議なことがある。バチカン自ら調査に当たり、貴族には拷問が科せられない事になっているにもかかわらず、過酷な拷問が無実を主張するベアトリーチェや兄弟に科せられた。各国使節からバチカン宛ての嘆願書も、世論も無視し、強引に処刑へ持っていった、そんな感じがするのだ。口さがないローマっ子たちは、バチカンがチェンチ家の財産目当てに仕組んだことだと噂しあった。
                    大いにあり得ることだが、まだ、もう一つの可能性がある。ベアトリーチェの父親がが、バチカンの秘密を握っており、その口封じに彼を暗殺し、その家族も父親殺しの罪を着せて葬り去った、そう考えることも、あながち突飛な推測ではないと思う。クリストフォーロは、シクストゥス5世の時、バチカンの事務に深く関わりを持っていたのだから……。もし彼がシクストゥス聖書の成立と、その抹消に関わる秘密を握っていたとしたら……。
                    ローマ教皇は、カソリック教会のトップであり、どんな間違いがあってもならない。また聖書もおなじであり、これにどのような誤謬があってもならない。教皇と聖書に関するゴシップは、カソリック世界全体を揺るがす問題になりかねない。

                    サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋ともあれ、ベアトリーチェ等は、投獄から9ヶ月後、1599年9月11日の朝、サンタンジェロ城前の広場で処刑された。継母ルクレツィアは未亡人としての黒服、ベアトリーチェは対照的に白い衣装だったという。この時の様子をメディチ家の使者は、次のように記している。

                    「少女の遺体は、市民たちの手によって、モントリオの聖ピエトロ教会に運ばれたが、市民たちはすっかり同情し、まわりを蝋燭の光で囲まれた死体にすがって、夜中までやってきては泣いていた。それは、彼女の証言に耳を貸さず、弁護しようともせず、死へと追いやった法王クレメンテに抗議し、神の復習を願いながらのものだった。彼女の死は、あまりにも神聖なる死だった」(島村菜津 訳)

                    ところで中ほどに掲載した「パラツォ・チェンチのバルコニー」の写真は、同朋舎出版発行、地球・街角ガイド「ローマ」から掲載させていただいたものだが、その本文には、「この館は、魔術を使って非道な実父を殺したかどで、兄弟と継母とともに告発されたベアトリーチェ・チェンチの一家のものだった。彼女は死刑を言い渡され、1599年にサンタンジェロ橋で打ち首になった。現在の建物は1570年代に建て替えられたものだが、どことなく中世的な不気味さを漂わせている。プログレッソ通りに面する正面は半月の紋章で飾られ、反対側正面には美しいバルコニーがある。館のなかにはイオニア式涼み廊下を備えた伝統的な中庭があり、部屋の多くは、悲運のベアトリーチェが子どものころに親しんでいたであろう16世紀の装飾をいまでもそのままに残している」と、紹介されているが、残念ながら、この建物は現在非公開で、遂に覗くことが出来なかった。心残りではあるが、次の機会があればということで、マカオへ移動することにする。

                    「トマス荒木を歩く」 vol.15 エレオノーラとビアンカ大公女

                    2009.12.05 Saturday

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                      フィレンツェ アルノ川
                                          (フィレンツェ アルノ川)

                      コジモ1世その日、エレオノーラは許されて一人の客と面談した。姦通の罪で修道院に幽閉のように閉じこめられ、既に二十年が過ぎようとしている。
                      その客とは、遙か日本から来たトマス荒木。二人は中庭をめぐる回廊を歩きながら話した。
                      ロレンツォの時代から百年が過ぎ、共和制都市国家フィレンツェは解体し、トスカナ大公国として再生していた。一度はフィレンツェの街から追放されたメディチ家だが、今ではトスカナ大公国の君主として返り咲いている。しかし、メディチ家に往時の勢いはなく、むしろ熟れたザクロのごとく退廃の極みに達し、トスカナ大公国を興したコスモ一世(初代コスモとは別人)からして、自ら実の娘と実の息子を殺す羽目に陥り、自らの血が招いた忌まわしい出来事の連続に、英昧な領主の気性も失われ、次から次へと女性を漁る、さびしくも哀れな男になり果てていた。
                      そんな父の摂政を勤め、やがて父の後を襲うフランチェスコ一世も、弟であるフェルディナンド一世に夫婦ともに毒殺される始末であり、まさにこの時代のメディチ家は地獄のまっただ中を漂っていた。
                      ここにいるエレオノーラも、そんな男たちの犠牲者の一人だったのかも知れない。父親ほども年の違うコスモ一世に見初められ、その愛人となり、さらにはコスモの息子ピエロに犯され、その事実を隠すために、コスモの部下と結婚させられた。あげくは、その夫から姦通者としてこの修道院に幽閉された。
                      ビアンカ大公女そんなエレオノーラを訪ねてくれる唯一の人物が、フィレンツェ大公女ビアンカ・カッペロであった。
                      ビアンカは、ベネツィアの名家カッペロ家の令嬢だ。それが一介の銀行書記ピエトロと駆け落ちをした。ピエトロはベネツィアでも名うてのプレイボーイ。ビアンカは、その美貌とカッペロ家という家柄ゆえに、ベネツィア中の男性から熱い目で見られていた女性だった。
                      女性の処女性が、政治や経済上の駆け引きにも高い商品性を持つ時代であり、ビアンカもいずれはヨーロッパの名家と縁組みする運命だったろう。その大事な駒を横手からかっさらわれたのだから、カッペロ家としては腹の虫がおさまらない。たちまちピエトロの首に懸賞金がかけられ、たくさんの刺客が二人の足どりを追った。
                      捕らえられれば、ピエトロは即刻死刑、ビアンカは修道院に幽閉される。
                      そんなピエトロが、ビアンカを連れ、逃げ込んだのが、フィレンツェの両親のもとだ。フィレンツェはベネツィアとは対抗関係にあり、常に熾烈な争いを繰り返している。それだけにビアンカの扱いも難しいわけだが、それ以上にフィレンツェの民衆は、この二人にやんやの喝采をおくった。
                      二人の話題は、たちまちフィレンツェ中を駆けめぐる。フィレンツェの若い男たちは、命がけで深窓の令嬢を勝ち取ったピエトロに拍手を惜しまない。と同時に、垂涎の眼差しを隠そうともしなかった。当時はまだ摂政の地位にあったフランチェスコ一世も、ビアンカに興味を覚え、彼女を一目見ようと彼女の家をそっと訪れる始末だ。
                      フランチェスコ1世将来フィレンツェの大公となるべきフランチェスコ一世がビアンカを見た。そのときから、またまたビアンカの運命が大きく動いた。フランチェスコはビアンカを見初め、彼女を愛人として自らの屋敷に迎え入れた。ピエトロにしても、彼女に飽きてきたところだ。フィレンツェでの貴族の地位と交換に、ビアンカをフランチェスコに譲ることになった。
                      フランチェスコは、この時代、メディチの人間としては家庭的な人間だと思う。確かに、父のような英雄的で非凡な人間ではなかった。ただ彼は、ビアンカという一人の女を愛し続け、彼女もこれに応えた。
                      ただ彼にはハプスブルグ家から嫁いできた妻ヨアンナがいた。妻ヨアンナにとっては悲劇だったに違いない。美貌、教養、やさしさ、どれをとってもビアンカにはかなわなかった。浮気ならまだ許せるだろうが、フランチェスコは、ビアンカしか目に入らなかった。どれだけ二人を呪ったかしれない。時にはビアンカに刺客を向けることもあった。……が、すべて失敗に終わり、あげくは自分の方が先に死ぬ羽目に陥った。
                      こうしてトスカーナ大公女となったビアンカだったが、この時代、ヨアンナや自分をはじめ、たくさんの女の苦しみをその目にしてきた。エレオノーラにしてもそうだ。男の身勝手に振り回され、修道院に監禁同様の身の上……まかり間違えば、自分が修道院に幽閉されていたかも知れない。ビアンカは夫フランチェスコに何度、彼女の赦免を願い出たか知れない。
                      それが叶わないと知った時、せめて彼女を慰めようとその修道院へ訪ねる日が多くなった。
                      そんなエレオノーラが、唯一、修道院から出た日がある。
                      遥か日本から四人の少年たちが、ピサの港に着いたときのことだ。ビアンカのたっての願いで、少年たちの歓迎パーティへの出席が認められたのだ。少年たちがローマ法王への宗教的な使節だったことが、修道女であるエレオノーラの参加をたやすくしたのかも知れない。
                      エレオノーラにとっては夢のような毎日だった。ピサへの旅行。華やかな舞踏会の雰囲気。見たこともない東洋へのあこがれ。初めて踊るダンスに、ステップを間違えながらもぎこちなく最後まで踊った日本の少年たち、ビアンカの抱擁に耳まで真っ赤にした日本の少年……。
                      そして、この翌々年、フランチェスコ一世とその妻ビアンカは、実の弟であるフェルディナンド枢機卿に毒殺され、もはやエレオノーラを訪ねてくれる人は誰もいなくなった。
                      その後、エレオノーラは終生、修道院から出ることはなかったが、何かにつけ思い出すのは、あの歓迎舞踏会のことであった。

                      フランチェソコ1世飛び安価の柩
                       (フランチェスコ1世と妻ビアンカがほぼ同時に死亡。弟フェルディナンド1世の毒殺説)

                      そんなエレオノーラの前に、またも日本からの来訪者が訪れた。エレオノーラは、トマスを前に、驚きを隠そうとはしなかった。というのも、彼女の知っている日本の少年たちは、まるで人形のようにぎこちなく、神父たちの言いなりに動いているように見えた。しかし、今、目の前に立つ青年は、自分の意志で、とんでもないものを探そうとしている。
                      「シクストゥスの聖書……」
                      エレオノーラはビアンカ大公女を通じて、その間の事情をすべて知っていた。ノストラダムスによって知らず知らずユダヤ神秘主義の影響を受けたシクストゥス五世のこと、そしてその編纂した「シクストゥス聖書」のこと、この聖書を異端として秘かに回収処分し新たに改訂版を出したベラルミーノ枢機卿のこと、そして、ものの本質や、その存在の秘密を探り出そうとするユマニストたちとバチカンの対立のこと……。
                      フランチェスコ1世の書斎フィレンツェは神秘主義研究の拠点であった。それはトスカナ大公国に変わってからも変わることがない。初代大公コスモ一世自体、ユマニストの擁護者であり、化学の研究者でもあり、出版事業のプロデューサでもあったのだから。
                      トマスは彼女を通し、フィレンツェで神秘主義と出会い、大きくその影響を受けることとなった。そして、彼女の口から意外な事実を知る。ただ一冊、残された「シクストゥス聖書」の行方を知る人物がいるという。それもローマに……。
                      その人物というのが、最後のユマニストと呼ばれたジョルダーノ・ブルーノであった。彼は、異端者として告発され、ヴェニスで捕らえられ、
                      今はカステル・サンタンジェロの牢獄にいるという。彼に会えば、「シクストゥスの聖書」の行方もわかるだろうと……。
                      トマスは、「シクストゥス聖書」もさることながら、それより何よりブルーノという人物に会ってみたかった。

                      私は今、ロレンツィアーナ図書館の奥間で、メディチ家が集めた古文献の中にいる。今ではガラスケースの向こうにしか見ることができない数多くの資料。でも、あの紙の手触り、あの紙のにおい、大型本の頁をめくるときの音と感触が、自分の中でよみがえってくる。

                      フ¥フィレンツェの城門
                                            (フィレンツェの城門)

                      トマスはローマへ帰った。
                      そして、カステル・サンタンジェロの闇の中で、ブルーノと出会い、カンポ・デ・フィオーレの青空の下、ブルーノの火刑に立ち会わされた。ブルーノの処刑に立ち会った五人の修道士──深々と顔を覆うそのフードの下に、一人の日本人の顔が隠されていたとしたら……。
                      処刑後、呼び出された異端審問所で、トマスは神秘主義への関心を断ち切られた。と同時に、トマスは自らの心の底からキリスト教を閉め出した。日本へ帰る日まで、トマスはベラルミーノの監視下に置かれ、やがて教区司祭という形だけを引きずり日本への帰路についたのである。

                      ホテルへ帰り着くと、キャセイ航空から香港へ帰る飛行機便が遅れる旨、連絡が入っていた。その便でOKなら連絡は不要だという。一抹の不安が残り、メモにある電話番号のところへ電話を入れるが、どうしてもつながらない。伝言を聞いてくれたフロントの男性もやってみてくれるが、それでもつながらない。彼は責任を感じたのか、フィウミチノ空港の電話番号を調べ、何とか連絡を取ろうとしてくれるのだが、それでもうまくいかない。面倒くさくなり、念のため、明日は早立ちすることに決め
                      「明日は朝食はいらない」と伝え、部屋に入った。
                      いよいよ明日はイタリアを離れる。一時退避のつもりで来たフィレンツェで長居してしまった。ローマでまだ行かなければならないところを残したままだ。でも、今のまま、またローマへ戻る気にはなれない。
                      いつになるか、また日を改めることにしよう。
                      明日は空港へ直行し、予定通り、香港を経由してマカオへと向かうことにする。明朝、ホテルのカプチーノが飲めないのも残念だが……。