ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」 vol.4 幻の鉄道トンネル

2011.11.05 Saturday

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    亀の瀬・排水トンネル見学のあと、いよいよ2年前に発見された旧国鉄関西線 ・亀の瀬トンネルにはいることになる。昭和7年の亀の瀬地すべりで圧壊され消失したと思われていた鉄道トンネル。それが地下水の排水トンネル建設中に偶然発見されたものだ(左写真はトンネルの発見を伝える平成21年12月10日朝日新聞の記事)。
     まずは、このトンネルの全体像を、JTB発行「地形図でたどる鉄道史」(今尾恵介・著)から見ておこう。

    「広い大和盆地(奈良盆地)を流れる飛鳥川や竜田川、葛城川などすべての川は大和川の1本にまとまり、河内の大阪平野を目指すのだが、その喉の部分にあるのが亀ノ瀬である。ここは生駒と葛城の両山脈の末端部に挟まれた、まさに隘路と呼ぶにふさわしい難所で、大阪府と奈良県の境界(大和・河内国境)もここを通っている。
     明治に入り、大阪と奈良を結ぶ鉄道を計画した私鉄の大阪鉄道(のち関西鉄道、現・関西本線)はここを通すルートに決め、まず明治22年(1889)に大阪ミナミの湊町を起点に柏原までを開通させた。奈良からも翌23年に王寺までを開業、残りは柏原〜王寺間のこの峡谷の隘路だけになったのである。
     亀ノ瀬には当初亀ノ瀬(431m)、芝山(216m)などのトンネルと、大和川に架かる3つの橋梁が建設された。明治22年に着工されたのだが、この地域が厄介な地滑り地帯であったため、これらのトンネルに異常な圧力がかかり、工事完成後に煉瓦に亀裂を生じ、崩壊する危険が出た。大阪鉄道では明治24年(1891)に当局に改築許可願を出しているが、これらのトンネルを掘り直すなどで時間を費やしたためにこの区間だけ開通が遅れてしまった。会社は苦肉の策としてトンネルの西側に亀瀬仮停車場を設置、東口付近に設けた稲葉山仮停車場との間を人力車での連絡を始めた。トンネルはようやく明治25年に改築完成し、同年2月2日に同区間が開通、これで湊町〜奈良間41・2劼ようやく全通した。同時にトンネル東西の仮停車場は廃止となっている。
     その後、この区間は輸送量の増大とともに複線化され、列車が増発されたが、この地城の地質構造が変わったわけではなく、昭和7年(1932)1月に大規模な地滑りが発生、亀ノ瀬トンネル(改築後。上り699m、下り703・5m)が圧潰し、周囲の地形は一変した。
     このため鉄道省はトンネルの東西に、亀ノ瀬西口・亀ノ瀬東口という開業時のような仮駅を昭和7年2月20日に設置、両駅間は徒歩連絡とした。」



     上の写真、まるで合成写真のように見えるが、そうではない。新たに排水トンネルとして掘られたところと、発掘された鉄道トンネルの境目である。



     鉄道トンネルの終点。地すべりによる瓦礫でトンネルが塞がれてしまっている。
     では、以下、例によって大和川河川事務所・平松さんの案内で、トンネルの中を見てまわることにする。

     「けっこう石が大きいですね。破壊力も凄まじかったのかなあと思います。
     ちょっと上の方を見ていただけますか。蒸気機関車が走っていたから真っ黒だろうと思いますが、白いですね。これは何だという話になりませんか。
     カビ? ウーン、これは今ではあまり使われなくなった漆喰(しっくい)……煉瓦と煉瓦をくっつけるための糊みたいなものですね。これが昔の建物の接着剤としては主流だったんです。つまり、そういう時代に造られたトンネルだということです。漆喰が使われなくなって、モルタルが使われるようになったのは、明治24年と言われています。この年、濃尾地震が起こり、煉瓦と漆喰の構造物が弱いということがわかって、漆喰と煉瓦の組み合わせが日本から一斉に消え去っていくことになりました。ですから、このトンネルは、それより前に造られたということになります。ハイ、明治22、3年に完成したといわれています。大阪天王寺から王子を通って奈良をむすぶ鉄道で、ここが最大の難所だったと聞いています。



     この線は、伊賀上野を通って伊勢へ通じ、お伊勢参りの足になっているため、このトンネルが昭和7年に潰れて、昭和9年の正月には、対岸側に線路を付け替えてお伊勢参りの人たちを運ぶということが至上命題になってきます。対岸の線路は大忙しで造られたといわれています。
     ところで足下を見ていただけますか。枕木も線路もないですね。当時、鉄道に使われていた「鉄」というのは非常に貴重なもので、最上級品でした。熱に対しても、膨張率を少なくして形をそのまま維持し、重いものが上を通っても割れたり、ひびが入ったりしないというものでした。地すべりというものは、前にも言いましたようにジワジワと進みます。ですから、このトンネルが地すべりで潰れてしまうと分かったあと、線路を全部撤収したようです。このトンネルが発見されたときも、このまま、なんにもありませんでした。もうちょっと何か残っていたら、私たちもそれを活用しようかと思ったのですが、発見されたときから、このような状態でした。

     あと煉瓦の積み方で、これからご覧になるとき参考にしていただければいいと思いますが、皆さんの目線よりちょっと上ぐらいまでは、線路の進行方向に対して、長い煉瓦と短い煉瓦が段ごとに替わっているところがあります。ところが、あるところより上に行きますと、進行方向に向かって長い煉瓦だけが積み上げられるような形に変わっていますね。これをアーチ積みと言います。また長い方が手前に見えているので、長手積みという言い方をしています。それに対してアーチの部分を支える、私たちの目線より下の部分は、ちょっとした変化、力のひずみを吸収するために、このように長いものと短いものを組み合わせて積むというやり方があります。こういう積み方が当時のオーソドックスなやり方であったわけで、これをイギリス積みと言います。ほかにも積み方があるようですが、これが標準的な煉瓦の積み方だと言います。これから明治時代の煉瓦構造物など見るとき、煉瓦の積み方にも注目していただけたら、昔の技術者のメッセージが読みとれるのかなあと思います。


    (トンネルの煉瓦積みで、目線より下の部分は、短い煉瓦と長い煉瓦が一列ずつ交互に組まれているのが分かる。写真には写っていないが、上の部分は長い煉瓦ばかりが組まれている。)

     また、煉瓦積みのところどころに窓が開いています。これは私たちが開けたわけでなく、当時、地すべり観測をするために開けたのかなあと思っています。トンネルの裏側がどうなっているのか、ちょっと見ようと言うことで開けたのではないかと思います。トンネルの厚みも分かりますし、奥の方の煉瓦の組み方も分かります。ここで大体30センチ〜40センチあるでしょうか。
    私もここへ来て教えていただいたのですが、煉瓦と地山の間がくっついていないんです。煉瓦だけで保たしてるんです。ということは、地山の変化に影響されないよう計算されていたんだなあと推測されます。
    (これに対し菅野氏が、トンネルというのは、上側のところと地山の間に隙間があってどうしても埋めることが出来なかった。これが20年ほど前に新しい工法が開発され、コンクリート構造物と地山の隙間をなくすことが出来るようになった。これによって青函トンネルも可能になったということを補足説明される。)
     ところで、このトンネルは40年間使われ、地滑りに遭い、そのあと80年間、誰もこのトンネルが残っているかは分からずに来ました。その間、一向に手を入れていないのにこのまま保たれてきました。阪神・淡路の地震の時も、亀の瀬でも震度4〜5ぐらい揺れましたが、見ての通り形を保っています。これはこれで、すごいものがあります。当時の技術者たちの知恵の結晶と言えるでしょう。
     最後になりますが、このトンネルの利用法、たとえばコンサートをするとか、レストランにするとか、何か良い利用方法があればご連絡ください。」

     という説明で鉄道トンネル跡の見学は終わった。
     ただ地質学者・菅野氏は言う。
     「本当の所は、人が入らないほうが良いのです。この亀の瀬地区の課題は、水を入れないことです。そのために排水トンネルを掘っているのですから……。人が入ると必ず水が入ります。観光客が来るようになると屎尿処理の問題がついて回るのですから。我々は水がないと生きていけませんが、同時に水が災害の原因となっています。災害のないところへ行こうとすれば、水のないところに行くしかないのですから。」

     このあと、亀の瀬地区から、次の高井田横穴古墳群まで、約1時間近くを歩くことになる。この間、案内の菅野先生から、あずき火山灰層や、それを発見された菅野氏の恩師・中世古幸次郎先生の話、磁場の逆転、すなわちこれから先、N極とS極が入れ替わる可能性もあるという興味深い話等々を伺うことになるが、それはまた別の機会ということで、今回の「亀の瀬地すべり地」を歩くは、「完」ということにしたい。

    ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」 vol.3

    2011.10.25 Tuesday

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      (大和川 古代の水上交通で難所といわれた亀の瀬あたり)

      以下は、大和川河川事務所の平松さんの話を要約したものです。

      1.排水トンネルにはいる前に復習=地すべり対策の話
      地すべり対策として、一つは土を取ります。これは斜面の下の土を取ったら上から来ますので、斜面の上の土を取ります。今、我々は斜面の下にいます。上へ行くにはバスを出さなければ行けないので、今日はその現地へ行くことは出来ません。
      2番目は水を抜く。これに今から行きます。水を抜くためには、まず地面に縦に穴を掘ります。井戸を掘るわけです。井戸を掘れば、底に水が溜まるというのは、皆さん、何となくイメージしていただけますよね。その溜まった水を大和川に抜き出すトンネル、これが下水管でなくて排水トンネルで、ここに今日は皆さんに入っていただきます。今日は雨が降りましたので、少し水が増えているかも知れませんが、どれぐらい水が流れているかを見てください。その後、別の鉄道のトンネルのほうに行こうと思います。



      2.トンネルに入って
      真ん中に水が流れている水路があります。別に触っていただいても結構です。飲むことはちょっと出来ませんけど。(笑い)
      冷たいですか、熱いですか、どうですか……? 冷たいですね。地下水ですから年がら年中、温度は変わりません。15℃〜20℃の間です。今はね、気候もそれぐらいになっていますから、あんまりトンネルのありがたみは分からないんですが、これから気温が下がって、冬になっても、この水の温度は保たれますから、空気も15℃〜20℃と、またまた快適な空間になります。冬でも寒くないというところが売りになってきます。
      この後、奥の方へ入っていきますが、真ん中の水路の部分を歩いていただいても結構です。ただし苔が少し生えていますので、地すべりではないですが滑りますので注意してください。(笑い)こちらでは責任を持ちませんので、足下だけはご注意下さい。





      排水トンネルの中の雰囲気については、youtubeに動画を公開しております。照明が悪く見にくいですが、排水トンネルの雰囲気は味わってもらえると思います。

      http://www.youtube.com/user/tk1948jp


      排水トンネルの奥まで来ました。トンネルは続きますが、私たちの入れるのはここまでです。後は来た道を引き返すばかり。
      ところで、平松さんのお話によると、集水ボーリングは約3900本、147kmにおよび、これら井戸やトンネルによって大和川へ排水される水の量は、大体の話ですが、一日に学校のプール4杯分になるということです。

      では最後に、亀の瀬地区における排水トンネル工の全体配置図をいただいた資料から転載しておきます。鉄道トンネルについては、次回に紹介させていただきます。


      ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」 vol.2

      2011.10.24 Monday

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        河内堅上の駅から歩いて20分ぐらいのところに、大和川河川事務所があり、亀の瀬地すべり資料室も、この河川事務所に併設されている。普段なら歩いて20分位で来れるのだろうが、前回でも述べたように、「ここは」という場所へ来ると菅野先生の地質学講座が開かれることになり、10時に河内堅上を出発したというのに、大和川河川事務所に到着したときは、もう11時を回っていた。
        到着するや、河川事務所の平松さんらが待っていたとばかりに、一行を事務所へと誘導する。中は三人掛けのテーブルが整然と並べられ、事務所というより教室。
        まずはアニメーションで、亀の瀬地すべりの概要と、なぜ地すべりを止めなければいけないか、またその取り組みが語られるが、このアニメが浦島伝説をアレンジしたかなりな優れもの。子供用につくられたのだろうが、非常に分かりやすくできている。ではまず、地すべりの起こる仕組みを河川事務所の資料から紹介しておこう。

        「地すべりを調べてみると、動いている土のかたまりの底に粘土の層があることがよくみられます。また岩にひびが入っていたり地層が曲がっていたりもしています。このようなところに雨がしみこむと、すべり台に水を流したように粘土が滑りやすくなって、地面が動くのです。地震で大きく揺られても地すべりは起こります。」

        では、地すべりとは何か、地すべりと土砂崩れはどう違うのか、なぜ地すべりを止めなければならないのかを、河川事務所の平松さんの話から紹介しておきます。



        「地すべりというのは、地面というか土が動く現象の一つです。皆さんがよく耳にされるのは、火山噴火の時、溶岩が流れ落ちてくる、これが皆さんにはニュースなどで馴染みが深いと思います。この溶岩が雪に変わるったらどうなりますか。そうですね、雪崩(なだれ)になります。雪崩対策も、地すべり対策と同じような感じです。
        土で言いますと、土が上から下に動く現象、これを土砂崩れ、崖崩れと言います。地すべりというのは、言葉どおり土が「すべる」ものを言います。どちらかというと、水平に近いゆるーい流れです。ですので、普通に地すべりという時には、最高速度でも一日に50センチ程度です。皆さんが歩く方がずっと速いです。だから地すべりに巻き込まれて亡くなったと言うことはほとんどありません。しかし地面は全部動きますから……この建物の下が全部動くわけです。建物もビクともしないような動き方をしてくれるんだったらいいんですが、右へ左へクネクネしながら高いところから低いところへ下りてくるんです。だから建物が崩れてしまうんです。鉄道のトンネルとか鉄橋とかも崩れてしまいます。川の流れまで変わってしまいます。そればかりか土砂ダムというものまで出来る場合があります。川の流れを防いでしまうという現象です。これが起きてしまうと大変です。土砂ダムが出来て川の流れが止まりますから、池が出来ます。その池の中に住宅地があったらどうなるでしょう。それと土砂ダムは土で出来たものですから、水の圧力に対し、あまり強くありません。たくさん水が溜まってくると、水は乗り越えようとします。
        そうするとこの亀の瀬の場合ですが……皆さん、河内堅上へ来られるのに大阪方面から来られた方が多いと思いますが、一つ手前の駅の高井田とか柏原とか、規模によっては八尾あたりまでが水害になるかも知れません。これは今までのところ実績はありません。しかし、そういうことが実際に起こっては困るということで、この場所で、地すべり、土が動くことを止めてしまおう、という仕事を、昔は建設省と言ってたんですが、今まで50年間やってきたわけです。それがやっと一年前ぐらいに主だった工事が終わりまして、ほぼ安心だろうということになっています。今は、地すべりが完全に止まっているのかという最終判断を下すため、観測等の調査をおこなっている段階ですが、そのOKが出れば後は管理だけの仕事になるわけです。そうなれば、今まで工事で立入禁止になっていましたが、自然も豊かなところですし、皆さんに別の意味で利用していただける空間にしたいなあと思っています。どんな風にしたらいいかも、これから見て歩きながらご意見がいただければと思います。」


        (大和川河川事務所の平松さん)

        亀の瀬地すべり災害の歴史
        亀の瀬地すべりは非常に長い歴史を持っています。移動土中から発見された木片の年代測定では約4万年前という結果が出ており、地すべりはそれ以前から発生していたと見られます。万葉集に出てくる「畏(かしこ)の坂」が亀の瀬あたりの道を指し、その由来が地すべりにあったと考えられているものの、明治以前の地すべりに関する記録は残されていません。(国土交通省 近畿地方整備局 大和川河川事務所「亀の瀬地すべり対策事業」)

        明治以降になると、明治36年の地すべりでは、大和川の川床が隆起し、大雨で大和川がせき上げられ、王子駅南方の張井・三郷にかけて氾濫し、地すべり地内を走る鉄道もトンネル東口が崩壊しました。
        そして昭和6年〜8年にかけての長い期間の地すべりでは、水平30メートル移動し、旧大阪鉄道のトンネルが崩壊(今回、発掘されたその崩壊跡を見学します)。また大和川の川床が9メートル以上隆起し、河道は完全に移動し、これによって大和川は完全に閉塞し、上流に浸水被害が発生しました。
        続いて昭和42年の地すべりでは、水平26メートル移動し、大和川の川幅も1メートル狭まったと言います。



        では、この地すべりを止めるためにはどんな方法があるのでしょうか。地すべりを止める方法として、先のアニメでは次のように紹介していました。

        1.地すべりする上方部の土を取り除いて地すべりを安定させる。
        2.地下水が地すべりの移動と密接に関わっているため、排水トンネルと集水井戸をつくり、地下水を排除する。
        3.最後は力ずくで止める方法。直径3.5m〜4.0m、長さ30〜60mの鉄筋コンクリートの柱をたくさん打ち込んで土砂の動きを止める。昭和61年からは、直径6.5m、長さ100mに及ぶ巨大な柱が打ち込まれました(実際には打ち込むのでなく、地中に真っ直ぐな穴を掘り、そこへ鉄筋を組みコンクリートを流し込んでいくという方法)。これを深礎工と言うのだそうですが、地中に造った深礎工は最大96m、地上30階建てのビルの高さとほぼ同じで、亀の瀬対策工の主力で55本(直径6.5m)を施工したといい、これは世界最大級だということです。



        では次回は、いよいよ排水トンネルの中と、昭和6年〜7年に起こった亀の瀬・峠地区地すべりで崩壊した、旧大阪鉄道(現JR大和路線)トンネル跡に入れてもらったことについて紹介させていただきます。 

        ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」

        2011.10.23 Sunday

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          五位堂から見る葛城山.jpg
          (その日、雨で中止かと思われたが……五位堂駅前から見る葛城山)


          地盤工学会関西支部主催の「ふるさと地盤診断ウォーク・亀の瀬コース」に参加した。
          発端は広陵町に住まいされる菅野耕三先生と知り合いになったことだ。知り合った頃、菅野先生は大阪教育大学名誉教授であり、広陵町立図書館の館長でもあられた。おりから地区の役員の仕事が順番で回ってきており、同じやるなら面白い仕事をしたいと「広報」に名乗りを上げた。そして今年1年は防災意識を高めるテーマに広報を発行することとなったが、その第1号の編集に際し、図書館長である菅野先生のお力をお借りした次第だ。
          菅野先生は、広陵町の図書館長というだけでなく、大阪教育大学の名誉教授で、地質学、層位・古生物学、地盤工学の専門家だった。その菅野先生が、所属しておられるのが、地盤工学会関西支部。そこで氏は、身近な地盤を「知ること」「楽しむこと」「親しむこと」「考えること」をテーマに、ふるさと診断ウォークを指導されている。我が町でも、11月には菅野先生に「地震の話」を地域住民に話してもらうことが決まっている。そんな経緯で、この「ふるさと地盤診断ウォーク・亀の瀬コース」に参加した次第だ。特に「亀の瀬」というところは、黒岩重吾さんの古代史小説にも「大和川の難所」としてよく登場するところだ。地区の用事と自分の趣味を兼ねての参加だったが、土木工学や地質学にはまったくの門外漢。果たして話が分かるだろうかと思いきや、菅野先生の話といい、大和川河川事務所の平松さんの話といい、非常に分かりやすい。そのうえ普通では入れない「亀の瀬地すべり」で埋もれてしまった旧鉄道トンネルにも入れるとあって、ワクワクしながらの参加だった。

          しかし、朝6時に起きると、かなり激しい雨が降っている。今日はてっきり中止だと思っていたが、中止の連絡のはいる7時を過ぎても電話連絡がない。ということは……外を見ると、あれほど激しく降っていた雨もやみ、晴れ間さえ覗いている。

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          (集合地点 JR河内堅上駅の入り口に立てられていた案内板)

          午前9時50分、無事、河内堅上駅に到着した。お話によると定員は30名だったが、倍近い申込があり、抽選ということも考えられたようだが、地震等、自然災害に関する正しい知識を一人でも多くの人に知ってもらいたいと、全員受け入れることが決められたという。参加費は無料。そのうえ、専門家の解説が付くばかりか、貴重な資料までが無料で配布された。
          それというのも、自分一人にとどめず、多くの人に伝えてほしいという意図があるのだと思う。そこで、以下、現場現場で話されたことを、自分の理解の範囲内でお伝えしようと思う。

          まずは、大和川河川事務所「亀の瀬地すべり資料室」に到着するまでに、菅野耕三先生が道中で話されたことを要約しておく。

          地滑りの前兆を話す菅野さん.jpg
          (地すべり現象で石垣が、真ん中部分が膨らんできていることを指摘する菅野耕三氏)


          1.JR河内堅上駅から亀の瀬地すべり資料室へ向かう途中の道で

          東京都と大阪のみ大都市ということで時間雨量60ミリを想定して下水道がつくられた。奈良は30ミリ。30ミリという雨はバケツをひっくり返したような雨で、40年前には30ミリの雨というと、60年に一度起こるか起こらないかの大雨であった。最近では、60、80
          、場合によっては100ミリを超える大雨が降るようになった。そうすると何が起こるか、都会部では川が氾濫して水が来るわけでなく、下水道が満杯になり、マンホールの蓋を吹き飛ばして水が道路にあふれるようになる。そうなると水が濁っているため側溝も見えなくなるため、まずは道に水があふれないうちに逃げることが肝心。もし道に水があふれたら、建物の高いところに避難するようにしてください。水の表面は、空気抵抗があるため、緩やかに流れているが、中はもっと激しく水が流れているため、いとも簡単に人間は流されてしまう。2年前に兵庫県の佐用町で台風9号による水難事故が起こった。今、裁判になっているが、役場が、道に水があふれているにもかかわらず避難命令を出し、それに従って逃げた人が全部水に流されて死んだ。これは天災でなく人災だというので裁判となったという。どんな結果になるか分からないが、少しずつ自分で勉強し自分の身を守っていくことが大事。洪水の場合は、100ミリの雨が降っても、2階建ての2楷部分まで水が来ることはないので、道に水があふれていれば、外へ逃げ出すのでなく、建物の一番高いところへ避難するようにしてください。また、それ以前に「今日の雨は異常だ」と思ったら、避難命令が出る前に自主避難してください。こういう風に自分で自分の身を守ることを心がけてもらいたいと思っています。

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          2.明神山の前で

          前にあるのが明神山という山ですが、今から1700万年〜1300万年ぐらい前に、この付近に現在の瀬戸内海の原形、私達の言葉では第一瀬戸内海というのですが、そういった海がありました。そしてこの頃には、あちらこちらで海底火山が噴出してきたと言われています。二上山もそうですし、私が勤めていました大阪教育大学近くの寺山もそうですし、この明神山もそうです。二上山の場合は、マグマが上がってきた柱が二つあるので、お山も二つあるということです。明神山は一つでしたので、こんな形になっています。もちろん、人間はまだ誕生していませんし、ここは海底火山でしたので、噴火したとき、どんなお山だったかは分かっていません。
          昔は、活火山、休火山、死火山という分け方がありました。理科年表にも載っていますが、実は、休火山と死火山というのが分からないのです。現に、今から二十数年前になりますが、木曽の御嶽山が爆発したのです。その当時の考え方では、この山は死火山、二度と爆発することのない山として見られていました。しかも信仰の山ということで入山されている方もおられ、何人かが被害に遭われることとなりました。以来、死火山、休火山という分け方は分からないので、こういう分け方はやめましょうと言うことになりました。そのかわり、火山が噴火したときの姿が分かるような状態、原形をとどめているものを火山と言いましょうということになりました。すると、この明神山は、昔、火山であったことは間違いないのですが、もう1600万年前の海底火山ですから、もう噴火することも考えられず、火山から除外しましょうという訳です。かつて富士山が間もなく噴火するというような本を書かれ、噴火しなくて夜逃げした先生もおられますが、実際のところ、分からないのです。火山の一生は、人間のスケールではなく、何十万年という活動が続きます。
          阿蘇山というのは、七万年前に噴火したものが一番大きな噴火だったと言われますが、大阪湾をボーリングしますと、「阿蘇4」と言われる火山灰が出ます。厚さが40センチあります。今、地球はものすごく穏やかなんです。東北の大震災の陰に隠れて報道されていませんが、九州の新燃岳の噴火は今も治まっていませんし、雲仙普賢岳の噴火もたくさんの犠牲者が出て話題になりましたが、考えてみれば、そんな噴火でも、火山灰が関西に降るというようなことはありません。七万年前、九州阿蘇で噴火した火山灰が大阪で降ったわけです。また大阪の丘陵地をつくっている地層を調べていくと、今から87万年前の小豆(あずき)火山灰層という地層が出てきます。これは実は大阪周辺の地層でも1メーターあります。それから琵琶湖の堅田丘陵に喜撰川というのがありますが、その河床へ行くと4メーターあります。しかも一回の噴火で飛んできたということが分かっており、この火山灰がどこから飛んできたかというと、大分県から飛んできたということが分かっています。雲仙普賢岳にしても、今、活動をやめていますが、いつ活動をはじめるか分からない。火山というのは、そういうものだと思ってください。これから行く亀の瀬地すべり地も、二上山の火山活動で降った火山灰が悪いことをしているわけです。火山灰があるところが、大体、地すべりを起こすわけです。では先へ進みましょう。

          (次回は、大和川河川事務所の平松さんの話を中心に、「地すべり」と「崖崩れ」の違い、なぜ「亀の瀬」の地すべりが太古以来起こり続けているのか。また巨額な費用と年月をかけてこれを防止することの意味は何かということを紹介していきます。)


          (昭和初期、亀の瀬の大規模な地すべりで埋もれてしまった国鉄関西本線のトンネルが、平成21年に発見された。今回は、そのトンネル跡にも入ることが出来た。)

          熱海七湯めぐり

          2011.07.16 Saturday

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            2001年11月、熱海のつるやホテルが閉館した。熱海温泉の中では「老舗中の老舗」と言える旅館だ。我々も関東方面でのセミナーでよく利用したが、その間、色んな思い出があった。夜間、子供たちの姿が見えないというので、ご両親と共に、車で熱海の町を探し回った。あげく見つかったのは熱海の突堤の上、釣りをしているうちに寝込んでしまったらしい。一歩間違えば海へ落ちていたかも知れない。かと思えば、セミナーが終了し、ホテルの裏口から機材を車に積み込んでいると、廃品回収の業者の方から「桐生さーん」と声をかけられた。見れば、以前お世話になっていたホテルの支配人だった。ホテルが潰れて、今はこの仕事をしているという。明るく快活で、以前知っていた方とは別人のようだ。「今は伸び伸びやっています」という言葉どおり、清々しい感じだ。たしかに暗く落ち込んでいるなら声をかけてもらえなかっただろう。声をかけてもらったこちらまでが嬉しくなった。
            話しだせば、思い出話が後を絶たなくなるが、なかでも朝の散歩は楽しかった。上の写真は朝の散歩の時に撮った「ヤコブス・ラダー」という現象(チンダル現象ともいう)。雲から光の帯が無数に出来、ヤコブス・ラダー(ヤコブのハシゴ)のオンパレード。本当に別世界にいるようだった。
            また朝の散歩で、熱海の源泉七湯めぐりをしたこともあった。パソコンで他の資料を探しているとき、その時に携帯で撮った写真が出てきた。懐かしさも手伝って、仕事の手を休めて写真整理を始めてしまった。以下の文章は、七湯の湯めぐりの現地に立てられていた案内板を書き写したモノ。

            佐治郎の湯.jpg


            ◇佐治郎(さじろう)の湯(目の湯)
            佐治郎という者の邸内にあったことから「佐治郎の湯」といわれました。 また、この源泉は明治のころには上杉助七という者の邸内にあり、のち新かど旅館の所有になったので「新かどの湯」ともいわれました。
            この湯は火傷にも良いが眼病にもよく効くといわれ、別名を「目の湯」ともいいました。


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            ◇風呂の湯・水の湯
            「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。 今の福島屋旅館の西側です。
            この湯は外傷によいといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました。
            「風呂の湯」の傍ら1.5メートルほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。
            明治11年、大内青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。


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            ◇小沢の湯
            沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。
            「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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            ◇大湯
            古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
            「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。 明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。 しかし、その後も噴出回数は減少をつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。
            昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至っています。


            野中の湯.jpg


            ◇野中の湯
            野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。
            この辺一帯は、泥の中に湯がプクプク噴いて、杖で突くと湧き出したといわれています。また、このあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。
            江戸時代までは、この「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴には利用されなかったようで、そのため、湯をためる湯桝をもうけなかったといわれています。

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            ◇清左衛門の湯
            昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壺に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。
            明治までは、昼夜常に湧き出て絶えることがありませんでした。
            人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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            ◇河原湯
            このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。
            湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。
            寛文6年(1666年)小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。
            この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。

            七湯めぐり地図.jpg

            以上、熱海の七湯めぐりの紹介ですが、今はもう熱海に行くことも少なくなりました。
            「つるやホテル」の消滅とともに、熱海は遠い世界になってしまったようです。
            今は、熱海に二人の知人が居ます。一人は熱海を拠点に、アメリカのニューヨークに足繁く通い、ニューヨークをルポし続ける「工藤明子」さん。今一人は、熱海に居を構え、東京でジャズ活動を続ける傍ら、映画や出版活動を通して「孤児」の問題を訴え続ける「中塚睦子」さん。この二人の方が、僕を熱海につないでくれています。

            京都大学屯鶴峰地震観測所を訪ねて

            2011.06.29 Wednesday

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              屯鶴峰地震観測所坑内.jpg

              屯鶴峰地震観測所入り口00.jpg6月半ば、屯鶴峰にある京都大学地震観測所を訪ねた。正確には京都大学防災研究所屯鶴峰地かく変動観測所という。近々ここは規模を縮小し無人化するというので、以前から見学を希望しており、個人的ならということで便宜を図っていただいた次第だ。
              そもそもなぜ縮小するかというと、地震予知が当たらないからだという。案内してくださった研究員の方は、「地震予知は難しい。何と言っても結果を出さないことには……」としみじみ言われた。
              この方とは、屯鶴峰公園入り口で待ち合わせをし、山道の茂みをかき分けながら観測所への道を進んだ。茂みを突き抜けたところは、工事のため山が切り開かれたような空き地になっており、そのさき左手の茂みに観測所の入り口が白く顔を出していた。
              もともとは本土決戦に備え防空壕があったところだという。防空壕というと小さな規模のものを想像しがちだが、防空壕というより地下要塞と言った方が当たっている。後で知ったことだが、朝鮮人兵士が厳しい条件で掘削にあたったと言われ、多くの犠牲者が出たようだ。このため、この辺りは心霊スポットになっているともいう。
              また、この二上山周辺にはこの地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在していたようである。高射砲台、機関銃座、燃料貯蔵用地下壕。いわば、この周辺が陸軍航空部隊・航空総軍の一大拠点となろうとしていたように思える。そして、屯鶴峯地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されようとしていた。韓国最後の皇太子李垠(イ・ウン)も航空総軍の指揮官として、この屯鶴峯地下壕に滞在していていたことも間違いのない事実のようだ。
              屯鶴峰地震観測所入り口.jpg
              話がとんでもないほうに逸れてしまった。しかし、なぜ防空壕跡に地震観測所があるのだろうか? 案内いただいた研究員の方に訊いてみた。要は、坑の中は湿度も温度も一定なので、外気に影響されずに観測されるのだという。そうこう話しているうちに入り口へと着いた。入り口の事務所らしきところで懐中電灯を手渡され、坑道へつながる鉄の扉が開かれる。中からヒンヤリした空気が流れ出し、汗が引いていく。
              ところで近畿には、この屯鶴峰の他、茨木・高槻にまたがる阿武山観測所、滋賀県大津市にある逢坂山観測所の3箇所の観測所がある。
              阿武山が昭和5年に、屯鶴峯観測所は,大地震と地殻変動の関係を明ら屯鶴峰地震観測所機器.jpgかにし,地震予知の手掛かりを得ることを目的として昭和40年に、逢坂山観測所は、昭和45年に地震予知研究を目的として設立された。
              ところで、この3箇所の観測所で2003年3月頃から地殻杯の顕著な変化が報告されている。2004年9月、2005年1月には、地下水位の急激な変化も観測されており、このことは近畿地方の地殻活動に変化が生じていることを表しており、規模の大きな地震が発生する可能性もあるという。現にこの現象は、阪神淡路大震災の数ヶ月前にも認められている。すわ大地震の前兆かと思われたが、この報告がなされたのが平成17年4月のこと。今現在、2011年(平成23年)になるが6年経っても、近畿で大きな地震は起こっていない。
              このことについて、これから先近畿で大地震が起こる可能性があるのか、案内いただいた研究員の方に尋ねてみた。しかし、いけないことを訊いたようで、「これについては自分としては何とも言えない。分からないとしか答えられません」ということであった。

              どちらにせよ、このような地殻変動が観測されているなら、用心に越したことはない。
              千利休いわく「降らぬ間に雨の用意」。いたずらに恐怖心をあおるのでなく、今こそ防災意識を高め、何があっても気持ちだけは対処できるようにしたいものだ。

              古代ミルクロードの遺産「蘇」

              2011.05.28 Saturday

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                古代チーズ蘇01.jpg

                暗い話題が続いたところで今日は気分直し。
                さて、一体なんでしょう?  カステラ? 蒸しパン? 外郎(ういろう)……?

                古代チーズ蘇02.jpgみんな違います。
                左の写真のように、こんな可愛い箱に入って売られていました。
                箱の外寸は9センチ四方というところ、厚みは3センチ程度。
                では蓋をかぶせてみましょう。
                箱の表に答が書いてありました。

                「古代の蘇(そ) ラッテたかまつ」

                では、「蘇」とはなんでしょうか?
                「ラッテたかまつ」は、奈良県葛城市にある牧場の名前です。先週、孫二人を連れ、女房と初めての「乳搾り体験」に行ってきました。僕の目当ては、この「蘇」といわれる古代チーズ。飛鳥でも販売されていますが、乳搾り体験なら、孫も遊ばせられるというモノです。

                最近、東京出張のときに行った牛嶋神社であるとか、堺の天牛書店であるとか、牛頭神社であるとか、やたら牛に縁があります。
                つい先日も、「聖徳太子の命日」に、法隆寺から叡福寺まで歩いたあと、「古代日本のミルクロード」−聖徳太子はチーズを食べたか−(中公新書)なる本を読んだばかり。結論から言うと、食べたかどうかは分からないが、食べることは出来たということになります。

                それが、この「蘇」というもの。
                どういう風にしてつくっているかというと、「搾り立ての牛乳だけを煮詰め、水分だけをとった自然食品」だと言います。添加物は一切使われず、白い粉のようなモノは乳糖。商品についている説明書によると、
                「奈良、天平時代には薬や供物として使われ『蘇』よみがえるという字でも分かるように薬効も期待されていたものと思われます。日本最古の医術書である『医心方』には『五臓』の気を補給し、蘇は乳糖が多く含まれており、甘みを持たなかった古代の人たちにとって乳を濃縮した自然の甘みを持つ蘇は貴重品として扱われていたそうです。同時に美容と不老長寿も期待されました。薄く切ってお召し上がりください」、ということらしい。
                実際の味は、何かキャラメルのような味わいで、チーズのような滑らかさはなく、なんとなくザラッとした感じ。切り分けて家族で楽しんだが、誰も2枚目をほしいという声もなく、結局一人で食べてしまった。

                ラッテ高松牧場01.jpg

                はじめての乳しぼり.jpgさて肝心の乳搾りだが、牧場のおじさんの指導よろしく大成功。
                まずは親指と人差し指で輪を作り、ついで中指、薬指、小指と順に握るような形にする。これの繰り返しで、少し黄色みを帯びた温かな白い牛乳が水鉄砲のように飛び出してくる(写真)。

                ところが大喜びで乳搾りをしていると、いきなり「ザーッ」という音と共に水しぶきが飛んでくる。隣の牛君が放尿におよんだ次第。その勢いたるや、水のいっぱい入った風船に、鉛筆を差し込んだというような按配。人間のように「チョロチョロ流れる御茶ノ水」なんて言ってられる状態ではない。
                見ようによってはなかなかの迫力であった。

                無事、乳搾りを体験したところで、喫茶室で搾り立ての牛乳(無料)を頂き、ソフトクリームを食べ、ついでにモッツァレラチーズたっぷりのピザと、やはりモッツァレラチーズ入りのお好み焼きを孫たちと共に食べ、帰路に着いた。

                いつか、古代日本のワインロードを調べてみたい。
                そんなものがあればの話だが……、しかし聖徳太子がチーズを食べることができたように、同じように聖徳太子はワインを飲めた可能性もあるということだ。
                正倉院に残されたワイングラス、当然ながらワインも日本に入っていたというべきであろう。



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                孫と登る二上山/古代石切場へ

                2011.03.22 Tuesday

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                  石切場01.jpg

                  東日本大震災の影響で、関東にいる孫たちが奈良のわが家へ避難してきている。学校を休んでの避難とあって、毎日が日曜日。そこへもってきて春分の日の3連休。元から同居している孫たちも休みとあっては、どこかへ連れて行かざるを得ない。
                  近くに二上山があるが、僕も雄岳へは何度か登ったことがあるが、なぜか雌岳へは登ったことがない。
                  そこで孫たちを率い二上山・雌岳へのハイキングとしゃれこんだ。娘が弁当を作ってくれ、これを背負って「いざ出発」という次第。僕が車の運転が出来ないため、娘や息子を巻き込んで、まずは竹ノ内街道を万葉の森公園まで進む。ついでながら竹ノ内街道は、古代の国道1号線とも言える道。ここを中国や新羅・百済の使節が飛鳥の宮へと向かった。
                  万葉の森公園無料駐車場に車を止め、いよいよ歩き出すわけだが、古代池をすぎたところに、なぜか書家「榊莫山」の「花アルトキハ花ニ酔イ 風アルトキハ風ニ酔ウ」の石碑がある。不思議に思い、帰ってから調べてみると、榊莫山先生、大の二上山びいきだとか。こよなく二上山を愛し、来山記念として揮毫したのがこの句と、馬の背近くにある「トロイデ火山ハ静マリテ 女岳雄岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」の二句だという。どちらの句も、なにか不思議と心の琴線に響いてくる。

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                  古代池からかなり急な登りが続くが、登り切ったところで、登山道から左へ逸れる道がある。標識によれば古代の「石切場」へ向かう道だという。
                  実は、私がここへ来た目的が、この古代石切場を見ておきたかったためだ。
                  ここから切り出された石が、奈良の多くの古墳造営のために使われた。藤ノ木古墳しかり、わが家のすぐ近くにある牧野(ばくや)古墳しかり、有名な高松塚しかり、もっと大物では、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳またしかりである。箸墓古墳が、卑弥呼の墓かどうかは別として(僕自身は、卑弥呼の墓は北九州にあると思っているが)、この古墳を造営するのに、二上山の石切場から、櫻井市の纒向まで、人がズラッと並んでバケツリレーよろしく、石を手送りで運んだという。下の写真は、箸墓古墳の近くにある檜原神社から二上山を写したものだが、数字的なデータは持ち合わせていないが、感覚的に、どれだけの人力が動員されたのか分かってもらえるのではないかと思う。またもう一枚は、箸墓古墳そのものの写真だが、手前の古灯籠の火袋は、太陽に半月をデザインした日月紋に見える。最近、新旧とりまぜ半月から三日月まで、太陽(円)と組み合わせた日月紋を火袋にデザインした石灯籠と良く出会う。これについては、またの機会に紹介したい。ここでは二上山から箸墓古墳までの距離を実感していただき、この間を人のリレーで石を手送りしたという大和政権の動員力の凄さを感じていただきたい。




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                  「石切場跡
                  ここから産した石材は、二上山凝灰岩です。
                  古墳時代終末期に奈良県明日香村高松塚古墳、マルコ山古墳の横口式石棺の石槨材として利用されています。
                  また、古墳や石棺のほかにも寺院や宮殿の基壇化粧石にも利用されています。
                  二上山の岩屋、鹿谷寺もかつて凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものと言われています。この石切場跡は、凝灰岩の露頭が剥き出しになっており、岩塊には矢の跡が多く残り、方形の切り出し痕跡が認められます。」

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                  めでたく古代の石切場を、この目で見られたのは良かったが、息子や孫どもは、山が深そうだと行くのを嫌がり、私一人での寄り道となった。さて孫どもと合流すべく、もと来た道を引き返したのだが、いっこうに孫たちの姿に追いつけない。急な山道をひたすら上り詰め、とうとう雌岳山頂へ到着してしまった。しかし、山頂にも姿はない。どうしたのかと心配していると、逆の方からフーフー言いながら孫たちが現れたではないか。どうやら、勾配の少ない別のコースを登ってきたようだ。

                  山頂で持参した弁当を広げ、しばし山頂で遊んだ後、下山する。

                  行きしなには気付かなかったが、古代池(下の写真)の所に、手書きの看板が出ている。
                  そこには「粥(かゆ)」の起源について、「光明皇后が病気やひもじさに苦しむ人々のために悲田院や施薬院を建て、そこで施されたのがはじまりという」と記されてある。
                  文末に「万葉朝がゆ会」 という名が出ているが、これは「毎月第一日曜日に、朝6時30分から雌岳山頂に登り下山の頃に、この古代池付近でおいしい炊きたての茶がゆが振る舞われるという集まりらしい。入会金は年千円になっている。
                  退職以来、出張したり書店回りしたりする以外は事務所にこもりっきり。またぞろ腹の出具合が気になりだしており、ぜひ参加したいと心が動いたが、万葉の森までの足がない。
                  車を出してもらうわけにも行かず、かといって自転車となると、竹ノ内峠の坂を上れるのかと、それを考えると急にやる気も失せていく。
                  なんとも情けない話だが、この4月1日、自転車でチャレンジしてみようと思っている。
                  成功した暁には、このブログで自慢たらしく紹介することにしよう。

                  死火山と思われていた二上山の麓から大噴火!?

                  2010.08.01 Sunday

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                    二上山の麓が噴火.jpg
                         (2010年8月1日 19:45 馬見丘陵公園南エリア展望台から撮影)

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                         (2010年8月1日 20:00 馬見丘陵公園南エリア展望台から撮影)

                    上の写真は、死火山と思われていた二上山、その麓あたりが大噴火を起こした瞬間をとらえた一大スクープ写真である。

                    ……そんな訳ないだろうって。その通り、二上山の噴火などとと大嘘。
                    二上山は、約2000万年前の大噴火により形作られたと言われているが、その最終活動時期は、約1400万年前と推定されている。今や、どこをつついても火山の「か」の字も出てこない。

                    では、上の写真は何かというと、種明かしをすればPLランドの花火。8月1日は、PLすなわち宗教団体パーフェクト・リバティ、教祖様の誕生日だという。「PLの花火」とは、それを祝って行われる純然たる宗教行事ということになる。

                    しかし、見る者は、そんなことは知ったことじゃない。夏の風物詩ととらえ楽しめばいいわけだが、交通規制の敷かれた中、無理をして行くほどのものでもないだろう。我が町広陵町で見えるモノか、見えないモノか、物好きの虫がおこってグーグルマップと眺めっこ。

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                    ここなら見えるだろうと割り出したところが、馬見丘陵公園の南エリア展望台。正確に言うと、馬見丘陵公園南エリアと竹取公園をつなぐ高架橋兼展望台、ここなら二上山の右側にPLの打ち上げ花火が遠望できるはず。そう思い夜になるのを待って自転車を走らせてみた。
                    狙い通り見えるには見えたが、遠いのと、風向きのせいで煙が前面を漂い、最初は花火というよりもまるで、二上山の麓が火を噴いているように見えた。
                    やがて、大きな花火が打ち上げられるようになると、それでも瞬間、花火らしい姿を撮影することができた。でも、やっぱり僕には大地の怒りのように見えてしまった。

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                    平城京の衛士/首里城の衛士

                    2010.07.02 Friday

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                      衛士隊の交代16.jpg奈良の近鉄西大寺駅前に啓林堂書店西大寺店がある。店長とは前日に電話で話しており、午後の2時過ぎに会う約束を取り付けていた。
                      当日、西大寺駅には12時過ぎに着いた。少し早く来たのは、お目当てがあるから。平城遷都1300年祭の会場に寄り道しようというわけだ。西大寺駅北口へ出れば、「啓林堂書店」は目と鼻の先。それを逆の南口に出ると、「平城遷都1300年祭」の会場に向かうシャトルバスがピストン運転している。5月には、僅かな時間を利用し大極殿を見に行った。今日は、午後1時から平城京南門前で行われる「衛士の交代式」を撮影に行こうというわけ。セレモニーは約20分。その後、再びシャトルバスに乗れば西大寺には2時前に着けるという寸法だ。
                      平城京では、朝9時には朱雀門で衛士が警衛配置に着くセレモニーがある。午後1時には南門で衛士の交代式があり、午後4時には再び朱雀門で、閉門に伴う衛士の警衛終了のセレモニーがある。 
                      同じなら、朱雀門を背景にしたセレモニーのほうが、写真的には見栄えが良いわけだが、これはこれでかなり迫力があった。


                      衛士隊の交代10.jpg

                      沖縄_首里城02.jpgそういえば、沖縄へ出張したときも、飛行機の待ち時間を利用し、タクシーで首里城へ走ったことがあった。このときは、朝の9時前に首里城に着いたが、9時のオープンを待っていると、やはり衛士が門前に配置され、「開門」のセレモニーの後、城内へ入れてもらえたことを覚えている。
                      このときはカメラがなく、携帯電話のカメラで撮ったため写りが悪いが、平城京の衛士とは、また違った趣があり、ここにあわせて写真を紹介させていただく。
                      平城京の場合、衛士の服装は、「養老衣服令」により、儀式の際に用いられたという黒服に鎧を着けたスタイル。隊長は、6位の武官の朝服で、冠は柔い黒絹製。紐をあごで結んでいる。位襖(いおう)と呼ばれる衣服は6位相当の深緑色のもの、下に半臂を重ねて白袴をはき、烏油(くろぬり)の腰帯をしめて、黒漆の横刀を組紐の緒で吊り木製の笏を持っている。足は白の襪(しとうず)という足袋に烏皮(くろかわ)の履(くつ)をはくという出で立ち。

                      これに対し、不勉強なため、琉球の衛士の方たちの服装については、まるで分かっていない。指揮官は黄色いかぶり物に黄色い帯。兵士達は紫のかぶり物に白だすきという出で立ち。武具は六尺棒といったところか。そういえば、琉球古武道の発祥は、その昔、表だった武具を持たなかった琉球人が、それでも四方八方を海で囲まれた自らの国を守るため漁猟器具、農耕器具をもちいて編み出した武術であると言われている。琉球武術では、主に六尺棒を用いるともいう。形状は流派によって中央が若干太くなるタイプ、端・中央とも均一のタイプの両方があり、攻撃法の型は一般に「……の棍(こん)」というような呼び方がされるが、操作法自体は「棒術」と言われ「棍術」とは呼ばないようだ。

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