かつらぎ取材日記/関屋鉄道

2018.08.14 Tuesday

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     香芝市内を関屋鉄道が走っているって?
     大和鉄道100周年記念の取材をしている時、こんな話しを耳にした。
     でも香芝市内に、そんな鉄道が走っているなんて聞いたことがなかった。
     この話を紹介してくれたのは、香芝市で子育て支援の活動をしているNPO法人「T-seed」の多田さん。詳しく聞いてみると、ミニSLを自宅の庭に走らせている人がいるというのだ。それが「関屋鉄道」という次第。調べてみると、サンケイ新聞をはじめ、読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」等々で紹介され、かなりの人気。これはぜひ「かつらぎ探検ガイド」に掲載したいと、まずは現地へ足を運んだ。
     あいにくご主人は不在だったが、奥様から名刺をいただき、後日、電話で取材の許可をいただいた。ただし取材は「運航日にお願いします」と言うことになり、8月の運航日はというと11日の祭日15:00〜17:00となる。このあと9月はお休みになり、次回は10月になるという。

     

    関屋鉄道/取材に先立って村本さんのお宅をまずは訪問させていただく


     

       ウオルト・ディズニーのレイルロード・ストーリー(原著)

     本来なら、取材はT-seedの多田さんと香芝市在住の小学校六年生の西本君にお願いする予定だったが、T-seedの活動日と重なっていたり、サッカーの試合当日だったりで、とりあえず私が取材に行くこととなった。

     運行開始の1時間前に村本さん宅にお伺いし、準備を見学しながらお話しをお伺いすることに――。

      ◇
     村本順三さんがミニSLに関心を持った発端は、ウオルト・ディズニーだという。子どものころ、日曜日の夜の番組で「ディズニーランド」という1時間番組があったが、その中で、ディズニー氏が自宅の庭にミニSLを走らせているシーンがあった。そのシーンが村本少年の脳裏に深く刻まれてしまったのだという。
     調べてみると、ウオルト・ディズニー氏は大変な鉄道オタクだった。自宅の庭にミニSLを走らせるばかりか、そもそもディズニーランド自体も、アメリカの西部開拓時代の風景を再現し、そのなかを蒸気機関車や蒸気船が走るといった「交通博物館」のようなものとして構想されたという。
     ウォルト・ディズニーの夢は、ディズニーランド内を走るサンタフェ鉄道、後のディズニーランド鉄道として形となったが、そればかりか日本の少年の夢の中にまで根を下ろしてしまったようだ。
     ところで東京の銀座に「天賞堂」という鉄道模型の店がある。本来は宝石・時計商だったが、1949年に、当時の社長・新本秀雄さんの趣味が高じて鉄道模型の販売をはじめた。従来、倉庫に使っていた建物の2階部分を改装し、アメリカの大地を模した「第1次オメガ・セントラル鉄道」が作られ、以来、鉄道模型ファンの聖地的存在となっていった。
     村本さんは学生時代、この天賞堂で、一台のミニSLと出会った。レール幅は3インチ半、人間が乗れる最小のミニSLだが、完成品として販売され、当時の金で150万円だったという。当時、大卒の初任給が3万という時代、とても学生の身分では手が出せない。
     その時、村本さんは、「ともかく金さえ出せばミニSLが手に入る時代になったんだ」と、深く感じ入ったという。
     その後、社会人となり、いったんはSLから離れていたが、今から20年ぐらい前のこと、村本さんの会社でイタリア製の板金の機械を購入することとなり、その研修を兼ねて、販売店の社長とともに実際の機械をイタリアに見学に行くことになったという。
     ところが、同行した販売店の社長は無類のSLマニアで、旅行中、オーストリアにSLを見るため立ち寄るなど、村本さんの埋もれていたミニSLへの思いを再びかき立てることとなった。実は、その販売店の社長、SLマニアであるばかりか、ミニSLのマニアでもあったのだ。
     かくして、この社長を師として、村本さんのミニSL修業がはじまったという次第。
     村本さん40代後半のことであった。

     

    猛暑の中、淡々と運行準備を進める村本さん

     

           ミニSLへの思いを語る村本順三さん(上)

     最初は、小さな組み立て式キットのものからはじめたという。小さなキットとはいえ、一台150万円はするという代物なのだが……。
     

     大阪本社の小川精機という会社がある。模型用のエンジンを作る会社なのだが、この小川精機の先代社長が、やはりミニSLにはまっており、ミニSLのキット販売を開始したばかりのことだ。村本さんが最初に購入したキットも、この小川精機の製品だったという。
     その小川精機が、法隆寺工場の裏手にミニSLを走らせるための固定レイアウトを持っており、ここでキットを購入したユーザーは、このレイアウトを使ってミニSLを走らせることができたのだ。
     村本さんも、最初は、この組み立てキットを作っては、月一回の走行会に持ち込んでは走らせていたという。

     しかし、そのうち、もっと大きなものが作ってみたくなった……。
     こうして20年、今、村本さんが走らせているのは5インチというレール幅のもの。つまりレール幅が127mm、これを自宅の庭に敷設し、トンネルあり、鉄橋ありという120メートルの変化に富んだレイアウトを作り出した。

     このレイアウトを作成するため、土地を検討し、更地からレイアウトを設計、家屋もレイアウトに見合った家を建てるという熱の入れよう。

     機関車も、窓枠など細部までこだわって再現した 「C5822」というミニSL。
     これが120メートルにわたる変化に富んだレイアウトを疾駆するという次第で、こうなると、子どもやSLマニアでなくともワクワクしない筈がない。

     

     

     取材した日は、折からの猛暑、その中でミニSLとはいえ、石炭をくべ、窯の圧力を調整する作業はまさに灼熱地獄。そばで撮影させていただいても汗が噴き出してくる始末なのだが、当の村本さんは、淡々と作業をこなしていかれる。

     やがて準備は整ったが、こんな猛暑の中、乗客も少ないのではと勝手に危ぶんでいたのだが、ふと外を見れば、なんと村本家の外には長蛇の列ができているではないか。

     36度という暑さの中、子どもばかりか、若い女性までが、開始時刻の3時を待つ行列に加わっていた。

     

     

     

     

     

     

     

    クジラ・イルカ紀行 vol.018 / モッチーニのこと

    2018.07.29 Sunday

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      モッチーニの母親 O-46 の尾ビレ(小笠原海洋センター提供)

       

       いきなり「モッチーニ」と言われても、分からない方が大半だと思います。まるで「お餅」をイタリア語で言ったような感じで、僕などは、最初に聞いたときは、マジで「お餅の入ったピッツアか?」と思ったくらいです。

       でも、モッチーニといえば、小笠原でもっとも有名なザトウクジラなのです。

       前回、日本で初めてザトウクジラの水中写真を撮った望月昭伸さんのことを紹介しましたが、その写真家の望月昭伸さん(愛称モッチ)が、1992年に、「O-46」と名付けられたザトウクジラの赤ちゃんを撮影しました。そこで、その赤ちゃんクジラの名前を発見者にちなんで「モッチーニ」と名付けたという次第です。

       でもクジラの名前って「O-46」という記号風の名前があったり、「モッチーニ」という愛称風の名前があったり、何か名前を付ける基準みたいなものがあるんでしょうか。

       小笠原ホエールウォッチング協会の言うには、「ザトウクジラは、親子クジラ以外一定のメンバーで群れを作らないことが知られています。そのため、群れのメンバーが出たり入ったりすることも多々あり、調査時に混乱をきたすことも少なくありません。どのクジラがどの群れにいるかを可能な限り正確に見分ける必要があり、アルファベットでクジラを呼びます。しかし、それよりも、人間の瞬間的な記憶の中で、それぞれの尾ビレや背ビレなどの特徴を利用したネーミングが、とても有効な場合が多々あります。例えば、背ビレの先にフジツボがついていれば「フジオ」というように、その場だけでも名前をつけることです。そのうち、何年も続けて見られると、その名前も定着してきます」と言うことだそうです。

       納得です。ではモッチーニって、どんな特徴があるのでしょう? モッチーニを見分けるにはどうしたらいいのでしょうか? その答えが、小笠原ビジターセンターにあるというのでので行ってみることにしました。
       

      小笠原のビジターセンターで「ザトウクジラ展」が開催されていました。

       

       小笠原ビジターセンターで開催されている「ザトウクジラ展」、まずは、その展示を見てみましょう。

       右は、小笠原で見ることのできるおもなクジラとイルカです。筆頭はマッコウクジラ。

       石油が掘り出されるまで、マッコウクジラから採れる油が産業革命を支えていました。このため、マッコウクジラを求めて、太平洋をアメリカやヨーロッパの船が行き来し、日本の鎖国もママならぬようになってきます。

       このため、小笠原へもロシアやアメリカの捕鯨船で寄港する船が増え、ここ小笠原に住み着く欧米人もあらわれるようになりました。この人々が小笠原の欧米系住民の祖先となっていきます。

       次いでおなじみのザトウクジラ。モッチーニも、このザトウクジラの仲間になります。

       ところで、ザトウクジラを知る上で重要な数字があると言います。それが「4メートル」という数字です。

       まず、ザトウクジラの尾ビレ(テール)の幅が約4メートル。胸ビレの長さが約4メートル。生まれたての赤ちゃんの大きさ(頭から尾ビレまでの長さ)が約4メートル。この4メートルを「4倍した」となれば申し分ないのですが、残念ながらここだけが「4倍」でなく「3.5倍した」14メートルが、成長したザトウのだいたいの大きさとなります。

       このほか、イルカでは、ハシナガイルカやミナミハンドウイルカ(ミナミバンドウイルカ)のウォッチングを、小笠原では楽しむことができます。

       でも、今はザトウクジラだけに集中しましょう。

       ザトウクジラのウォッチングをしていますと、時により、彼らのさまざまなアクションと出会うことがあります。下の図では、「ペダンクルスラップ」にはじまる6つのアクションを紹介しています。

      「ペダンクルスラップ」は海面に下腹部を打ち付ける行為。

      「テールスラップ」は尾ひれを海面に打ち付ける仕草。

      「スパイホップ」は頭だけを水面に出し、まわりの状況を観察する仕草。

      「ブリーチ」はウォッチングの最大の見せ場です。ザトウクジラが海面から大きくジャンプし海面に背中から落ちていく様子は圧巻です。背が海面に落ちるや大きな水しぶきが上がり、船からも観客の大きな喚声とため息が上がります。

      「ヘッドスラップ」は頭の打ち付け、「ペックスラップ」は胸ビレの打ち付けですが、これは、先の「テールスラップ」とともに、まるでザトウクジラが我々に挨拶しているような、状況により「サヨナラ」してるような印象を見る者にあたえ、ザトウクジラとの距離がグッと近づいたような印象をあたえます。

       

       このほかに「メイティングポッド」と言って、メスのエスコート役(母子のクジラを助け、子クジラの手が離れたとき、次の交尾権を手に入れる)をめぐってオス同士が争うことが多々ありますが、これは圧巻です。僕も沖縄の座間味で、一頭の母子クジラのエスコート役をめぐって三頭のオスが争うメイティングポッドの真ん中に船が入ってしまうという経験をさせてもらいました。船の名も「エスコート号」、佐野船長の操船が巧みで、危機感はありませんでしたが、よくあれで船が沈まなかったと思わせるぐらい激しいものでした。

       

       

       

       

       このことからも分かるように、ザトウクジラはシャチのように一夫一婦制ではありません。交尾を済ませたオスは離れていき、生まれた子クジラと母クジラを、次の交尾権を持つエスコート役のオスクジラが守るという寸法です。そして子クジラは一年経つと母親から離れていき、母クジラは、エスコートのオスクジラとの間に新たな子をもうけていくという生命のサイクルが続いていきます。

       話を戻しましょう。このようなザトウクジラのさまざまなアクションの中で、水中に潜る寸前にテール(尾ビレ)の形状がよく観察されます。このテールの形状が、ザトウクジラ一頭一頭、みんな違うのです。つまり、ザトウクジラの個体識別は、このテールの形状を観察することからはじまるというわけです。

       

       

       これは、ビジターセンターにパネル展示されていた「モッチーニ」の尾ビレの形状です。尾ビレの右側部分に半円形の切れ込みがあります。これがモッチーニを見分ける大きなポイントになっています。

       いよいよモッチーニのことについて触れるときが来たようです。

       ただし、僕自身はモッチーニを直接見たわけではありません。見たことがないため、恋心が余計にふくらむのかも知れませんが……。

       そうそう、モッチーニは人間にだけに人気があるわけでなく、オスクジラの間でもモテモテの売れっ子のようです。これは小笠原海洋センター(エバーラスティング・ネイチャー小笠原事業所)の研究員・佐藤隆行さんの受け売りですが、以下、その佐藤さんに取材したモッチーニについて語らせていただきます。

       1992年、望月昭伸さんによって発見されたモッチーニは、1993年、母親から離れる時期になっても、なぜか母親の「O-46」とともに発見されています。

       以後、95年、98年、99年と父島周辺で確認され、2000年に初めて子クジラを伴って確認されました。この時点でモッチーニがメスであることが確認されたということになります。

       

      2000年にモッチーニが子連れで発見され、メスであることが確認された、

       
       モッチーニは、生まれた時からボートなどが周りにいる環境に慣れているせいでしょうか、子クジラを伴っていても、あまり周囲のボートを警戒する様子もなく、湾口や時には湾内で、親子でのんびり水面付近を漂う姿が見られています。

       こんなオットリした性格のためでしょうか、小笠原の人から愛され、ザトウクジラの時期になると、「今年もモッチーニが帰ってきた」と、人々は、モッチーニの出現を心待ちするようになっていきました。

       

       (小笠原海洋センターの佐藤隆行さん)

       以下は、佐藤隆行さんが作成してくれた「モッチーニ」と「O-46」の出現記録です。

       

       ―モッチーニのプロフィール―

        1992 0才 O-46の子供として父島で初確認

        1993 1才 母子一緒に父島で確認

        1995 3才 1頭で父島にいるのを確認

        1998 6才 3年ぶりに父島で確認.ペアでいるところを確認されている

        1999 7才 O-54(♂)一緒にいるのを確認

        2000 8才 子連れを初確認(母島)

        2002 10才 5頭群の中にいるのを確認

        2003 11才 子連れで確認

        2005 13才 子連れで確認

        2007 15才 子連れで確認

        2010 18才 子連れで確認

        2014 22才 子連れで確認

       

       

       ―O-46のプロフィール(モッチーニの母親)―

        1990年 初発見

        1992年 子連れで発見(O-288;モッチーニ)

        1993年 モッチーニといるところを確認される。

        1995年 子連れで確認

        1997年 ペアでいるところを確認される

        2000年 子連れで確認

        2001年 3頭群の中にいるのを確認

        2002年 子連れで確認

        2004年 子連れで確認

        2006年 子連れで確認

        2008年 子連れで確認

        2010年 子連れで確認

        2013年 子連れで確認

       

       

       上の写真は、小笠原海洋センターがモッチーニの消息について最終確認したときの写真です。ただこれ以降もインターネットで検索すると、「このごろの小笠原 blog」で「お帰りモッチーニ」という記事を見つけました。

       2018年1月8日の記事です。

           

        近くにいる1頭が、浮上したまま海面で呼吸を繰り返します。
        このクジラも船を見ているようです。
        連れのもう1頭が上がってくると、並んで尾を上げて潜っていきました。
        と、なんとその連れの尾ビレのフチが半円に欠けています。
        モッチーニです!
        今年も無事に小笠原まで帰ってきてくれました。
        お帰りなさい、会えるのを待っていたよ。
        昨シーズンは子育てをしていたので、今年は恋のシーズンでしょう。

        また、多くのクジラに囲まれたモテモテのモッチーニを見られるのは嬉しいです。

       

        http://sae-tac.sakura.ne.jp/wp-st/dolphin/%E3%81%8A%E5%B8%B0%E3%82%8A%E3%83%A2%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B/

       

       何ともうらやましい限りです。一度は、噂のモッチーニに出会いたいものです。

       今回のブログは「見果てぬ夢」はたまた「未完の恋」ということで終わらせていただきますが、次回は、宝永の大津波で壊滅した鳥羽の石鏡(いじか)漁港を紹介する予定です。

       

      現在の石鏡漁港 宝永津波で壊滅するまでは大木の浜に石鏡漁港はあったという。

       

      クジラ・イルカ紀行 vol.017 / 望月昭伸さんのこと

      2018.07.10 Tuesday

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        小笠原二見港到着。右の写真は宿泊先の「プルメリアヴィレッジ」。

         

         竹橋桟橋を出航して三日目の朝、2016年4月21日早朝6時、おがさわら丸は予定通り、父島二見港に到着いたしました。まずは小笠原滞在中の宿泊先「プルメリアヴィレッジ」に荷を下ろし一休み。施設にはベッドに冷蔵庫、洗面台、トイレとユニットバスが付いており、食事は本館ヴィラシーサイドの食堂を利用します。洗濯機・乾燥機も共用スペースにあり、一般的な3泊(普通は船中2泊、小笠原村での滞在3泊)の滞在には充分です。

         一休みしたあと朝食をとり、いよいよ取材開始です。

         真っ先に向かったのが、二見港のすぐ近くにある小笠原ダイビングセンター。写真家・望月さんが小笠原の鯨類撮影のベースとしたダイビングセンターです。

         ここのオーナー森田康弘さんは、望月昭伸さんが小笠原のクジラを撮影したいと、小笠原を訪問した頃からの盟友です。その森田さんにインタビューした記事を以下に掲げさせていただきます。

         

        小笠原ダイビングセンターとオーナーの森田康弘さん。右上のカメラは望月さんが愛用し、行方不明時も使用していた同機種のカメラ。

         

         森田さんが小笠原へ来たのは30年ほど前(1985年頃)のこと。その同じ頃、望月さんも小笠原へ来てクジラの撮影を始めたと言います。

         この頃、小笠原には、母島にまだ捕鯨基地がありました。ザトウクジラやナガスクジラは早く禁漁になっていましたが、ニタリクジラやイワシクジラについては、母島を基地に捕鯨活動が続けられていたのです。

         それも、1988年には捕鯨活動がすべて終了するに至り、その翌年、小笠原でホエールウォッチング協会が立ち上げられました。小笠原をあげて、「捕るクジラ」から「見せるクジラ」へ方向転換することになったのです。
         ところで、小笠原ダイビングセンターの先代社長の古賀さんと望月さんは知り合いだったようで、その古賀さんを頼って、望月さんが小笠原へとやってきました。
         その頃、望月さんは、マリンダイビング・水中造形センターの専属カメラマンだったのを、2年ほど前に独立したばかりでした。そして自分のライフワークとして「小笠原のクジラ」を撮りたいと、古賀社長を頼って小笠原へやってきたのだと言います。
         当時はまだ、海外のクジラを撮るカメラマンはいましたが、日本のクジラを撮る人間はまだ誰もいませんでした。
         そこへ「日本の鯨類を撮るのに一番いいのは小笠原ではないか」と、望月さんがダイビングセンターの先代社長古賀さんにアプローチしてきたのです。
         古賀社長も、「来年からは、この小笠原でホエールウォッチングがはじまる。ぜひ一緒に盛り立ててほしい」と、望月さんに協力を約束しました。
         これ以降、毎年、一ヶ月から一ヶ月半ぐらい、クジラの生態調査を含めて船を出すことが決められました。その相棒が小笠原ダイビングセンターに勤めたばかりの森田さんだったというわけです。しかも、望月さんが小笠原滞在時は、相棒の森田さんのアパートに居候を決め込むという状態でした。というのも、望月さんは独立してまもなくの頃で、子供さんも小さく、要は取材費用にもこと欠く状態だったのです。森田さんは森田さんで、好きなダイビングで飯を食うため、東京の自動車会社を辞め、小笠原ダイビングセンターで丁稚奉公のように働いていた時期でした。二人ともに金がない。そこで夜は、二人でカップラーメンをすすり、翌早朝には海へ出てザトウクジラを探し撮影するという日々が続きました。

         ところが、先ほども述べましたように、ザトウクジラは禁漁になっていたのですが、ニタリクジラやイワシクジラは、まだ獲られており、母島で解体されていた時期があります。ザトウクジラにしたところで、仲間の殺される叫び声が聞こえてくるわけで、そのせいか、今ほどクジラはフレンドリーではなく、人間や船が近づくとサッサと逃げてしまうことが多かったのです。だからクジラを探すのも大変で、そんな中、望月さんが一人「日本のクジラの水中写真を初めて撮るんだ」と勢い込んでいたのだと言います。

         

        小笠原のホエールウォッチング/右上は陸上からの観察を指導するホエールウォッチング協会の岡本亮介研究員


         そんな頃(1990年)、古賀さんをはじめ小笠原の有志で、ハワイへ先進のホエールウォッチングを学びにに行くということになりました。そして、その翌年には、今度はハワイの学者さんが、WWF(世界自然保護基金)という組織を通じて小笠原にザトウクジラの調査のために訪問してきたのです。個体識別をおこない、ハワイ、カリフォルニアで観察される個体と小笠原に共通しているザトウクジラの個体で合致するものがいるのかを調査するためだと言います。
         そのために尾ビレの撮影や、ザトウクジラの音声調査がおこなわれました。ザトウクジラは、一頭一頭、尾ビレの模様や形が異なります。その尾ビレを観察し、歌うクジラといわれるザトウクジラの歌声を録音し、ハワイ、カリフォルニアと共通の個体がいるかを調べるのです。

         小笠原のホエールウォッチングは、このとき来たハワイの専門家から、ホエールウォッチングの仕方、クジラへのアプローチの仕方を教えてもらい著しい進歩を遂げました。望月さんもその一行に同行してクジラへのアプローチの仕方を学んだのです。ただ結論を言うと、小笠原にはハワイ、カリフォルニアと合致する個体は非常に少なく、むしろ沖縄と小笠原で共通する個体が多いことが、今では分かっています。

         こうして、スキルアップした望月さんは、その言葉通り、世界ではじめて日本のザトウクジラの水中撮影に成功し、「クジラは天からあたえられた被写体」とばかり、鯨類撮影の草分けとなっていくのです。

         

         以下の文章は、生前、望月昭伸さんご自身が書かれた文章です。望月さんが亡くなった同じ年の7月、「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年 コアラブックス発行)に付録として挟み込まれて公開されました。今回、小笠原ダイビングセンターの森田オーナーに取材させていただいた記事を裏付ける内容になっています。

         

        望月昭伸さんが撮られたザトウクジラの写真(「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年発行)から転載

         

         「私が初めて小笠原のザトウクジラの撮影に取りくんだのは、1987年のことだった。当時、日本では、まだだれもホエルウォッチングをやったことがなく、どうやってクジラを探したらいいのかもわからなかった。地元のダイビングサービスの人と、ほんとうにゼロから始めて、クジラヘの近づき方や、撮影の仕方を体得したのである。父島の西側の崖の上で私がクジラを探していたら、“自殺志願者がいる”と通報され、警察官が駆けつける騒ぎとなった。なつかしい思い出である。
         私はクジラの撮影ではひじょうにツイていて、初めの年から6頭の交尾集団の撮影に成功した。巨大なクジラの雄たちが雌を争ってくりひろげる戦いのすさまじい迫力。そのときの強い印象が、クジラの撮影が私のライフワークとなるきっかけだったのだと思う。クジラの撮影をしていて、彼らの巨大さを思い知らされるような体験を何度もしている。
         あるとき、クジラが私たちの小さなボートの真下で鳴いていた。歌うような不思議な鳴き声が海面から響いていた。水中マイクを通さずにじかに声が聞こえるのはひじょうに珍しいことである。潜水具をつけて水中に入ると、クジラの鳴き声が電気のような衝撃となって、ビリビリと足の先から頭まで走った。まるで海全体が鳴いているようだった。
         母クジラの巨体に接触してしまったこともある。私は子クジラが1頭で泳いでいるのを水中撮影していた。好奇心旺盛な子クジラがどんどん私に近づいてきてしまった。そのとき、突然、足の下の深い海から、わーっと母クジラが浮上してきて、私と子クジラの間に割りこんできた。私も初めてクジラに対するほんとうの恐怖を感じて、思わず後ずさりをした。しかし、私も、母クジラも避けきれず、母クジラの胸ビレが私の足の裏にふれた。やわらかくしなる、しかし固い感触が、いつまでも私の足の裏に残っていた。」

         

        陸揚げして整備中の「韋駄天掘廚反硬珍ツ垢料狒イ垢襦幟蠡姪鍬掘

         

         翌日、森田さんの持ち舟「韋駄天掘廚望菫イ気擦討發蕕ぁ⊂笠原の海へ乗り出しました。そこで、望月さんの遭難について興味深いお話しをお聞きすることとなったのです。

         望月さんが撮ったザトウクジラの母子の写真が、小笠原ダイビングセンターに飾られています。この写真も、望月さんの死後発行された「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年発行)に収録されており、このブログにも転載させていただきました。セーリング中、この写真について森田オーナーから、我々素人が聞いても「なるほど」と胸落ちする話しをうかがいました。

         

        南島周辺、まるで昔観たミュージカル映画「バリハイ」を思わせるような風景

         

         以下は森田さんにお話を伺った要約です。

          ◇

         望月さんはクジラに対して恐怖心を持っていました。潜るときも「気合いを入れないと怖くて撮れない」と常々語っていました。僕は何度も彼と一緒に海の中へ入っていますが、生きものに対してソフトにアプローチする人と、ワイルドに接する人がおり、望月さんは後者だと思います。

         望月さんはクジラに対する恐怖心を押し殺し、自分を奮い立たせ果敢にクジラに向かっていくんです。泳ぎ方も非常に早いのです。僕なんかはスピードを上げるとクジラにプレッシャーをかけてしまうと思い、できるだけゆっくりと泳ぎ、クジラが寄ってきてくれたらオーケーだくらいに思っています。クジラに向かう角度も、我々はクジラと平行に泳ぎ、クジラにプレッシャーをかけないようにします。これに対し、望月さんは、クジラに対し向かっていくんです。クジラの歌声を真似たりもします。それをやると、ワーッと寄ってくるクジラがいたりします。

         こういったことを「おもしろがる」クジラも確かにいるし、こういうクジラに出会ったときは、実にいい写真が撮れるんです。
         この写真(中程に掲載したザトウクジラの母子の写真)なんかもそうですが、ちょっと考えてほしいんです。これ、ザトウクジラの親子なんですけど、4メーターぐらいの距離まで近づいて撮っています。水中の鯨を撮るときはクジラとの距離が遠くても10メートルが限度です。これ以上離れると、写真として使い物になりません。
         水中では地上みたいに望遠レンズが使えないんです。水の透明度もその年によって違うんですが、透明なときでも水の中は深くなるほど暗いし、望遠を使っていたら、泡や浮遊物ばかりが写って肝心のクジラを撮ることができないんです。だから望遠ではなくワイドレンズを使い、思いっきり寄っていって撮るんです。
         思いっきり寄って撮れた写真は、クジラの描写が、今まで見たことのないような鮮明さで写るんです。それが彼が使っていたカメラとレンズの特性です。
         ところが、いつも彼のようなやり方を「おもしろい」と思うようなクジラばかりとは限らないんです。

          ◇
         ところで望月さんの遭難時は、森田さんは同行していませんでした。それでもあえてお話をうかがうと、望月さんの最後の模様を次のように推測してくれました。
         「彼は寄り添って撮るカメラマンではない。思いっきりワイドレンズを使い、思いっきり近づいて撮るタイプのカメラマンです。クジラは、足びれを止め浮いているだけの者は敵とみなさないが、スピードを上げ近づいてくる存在は敵とみなす習性がある。遊び心のあるクジラで、それを許すクジラもいるが、執拗に付きまとわれると、胸ビレを大きく振って追い払われる場合だってある。そのときは、ゆっくりな動きなのですが、それでも海の中で電信柱を振り回しているようなもので、しっかり目を開いていれば避けられるのだが、撮影に夢中になっていたりすると、この胸ビレの直撃を受ける場合もある。おそらく望月さんの事故はこういう状況だったのでは、と思われます。」

         

        カメラを船体に沿っておろし、船体を共鳴体として、クジラの発する音を録音しました。

         

         「韋駄天掘廚望菫イ気擦討發蕕ぁ∨招遒気鵑虜粘の様子も、おぼろげながら想像できるようになりました。船上ではザトウクジラを観察したり、水中カメラを船体に沿っておろし、船体を共鳴体にしてクジラの音を録音することもできました。

         小笠原の海は、まるで夢のなかの出来事のようで、気づけば5時間近くセーリングしていたことになります。

         いよいよ下船――現実に帰る時間がせまってきたようです。

         明日は、小笠原海洋センターやホエールウォッチング協会を訪ね、望月さんにちなんで名付けられた、ザトウクジラ「モッチーニ」の足取りを追うことにします。

         

         

        セーリングを終え、父島二見港入港間近

         

        クジラ・イルカ紀行 vol.016 / 鳥島を経て小笠原・父島へ

        2018.06.22 Friday

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          東京竹橋桟橋から小笠原諸島・父島を目指し出稿準備中の「おがさわら丸」。白枠内は、乗船を待つ船客と2等船室の模様。

           

           1966年、ザトウクジラおよびシロナガスクジラが、国際捕鯨取締条約に基づき禁漁となりました。禁漁以降、小笠原諸島へは次第にザトウクジラが戻ってくるようになり、そして1987年、写真家・望月昭伸さんが小笠原ではじめてザトウクジラの水中撮影に成功するにいたったのです。

           以来、望月さんは、クジラを「天からあたえられた被写体」として、世界のクジラやイルカたちを撮り続けてこられました。

           その望月さんが、1999年3月20日、小笠原の母島沖でザトウクジラの水中撮影中に行方不明となったのです。事故当初は生存の可能性も伝えられたのですが、結局は、遺体はおろか、愛用のカメラさえ見つけることができず、その生存は絶望視されるに至りました。

           今回は、小笠原に、望月さんが無名時代だったころからの盟友森田さん(小笠原ダイビングセンター)や、ホエールウォッチング協会を訪ね、望月昭伸さんのこと、彼の名前が付けられたザトウクジラ「モッチーニ」のこと等々を紹介していきたいと思います。

           

          おがさわら丸船内レクチャーでのスライド

           

           2016年4月19日21時40分、竹島桟橋発の「おがさわら丸」に乗船、いざ小笠原の父島を目指します。乗ってみて教えられたのですが、今回は通常の航路ではなく、「鳥島」や「孀婦(そうふ)岩」へと立ち寄り、それら島の周囲を一回りし、その後、小笠原へ向かうというのです。このため、通常25時間30分の航路が、32時間20分かかるといいます。予約時点から「随分時間がかかるなあ」とは思っていましたが、まさか、こんな特別プログラムになっていたとは気付きませんでした。

           おかげで「鳥島」の「アホウドリ」についても、船内のレクチャーや、遠望ではありますが貴重な観察をさせていただき、自然と人間の向き合い方についても深く考えさせらた次第です。

           昔、北大路欣也主演の「漂流」という映画を観たことがあります。鳥島に漂着した主人公が、生きるために「すまぬ、すまぬ」と口走りながら「アホウドリ」を棒きれで撲殺していくシーンが忘れられません。この無人島では水にしろ、食料にしろ、無数に生息するアホウドリを殺して手に入れるしかなかったのです。

           人間に対する警戒心もなく、おまけに陸ではヨチヨチ歩きしかできないアホウドリは、飢えた漂流者の格好の餌食となりました。

           ところが漂流者だけならまだいいのですが、明治にはいるや、羽毛の原料として「アホウドリ」がターゲットになりました。ヨーロッパの羽毛布団の原料として、集団で営巣するアホウドリに目が向けられたのです。こうして「アホウドリ」は日本にとって貴重な外貨獲得手段となり、鳥島だけで推定500万羽の「アホウドリ」が、人間の欲の犠牲になっていきました。 

           

          船からかつての集落跡が観察されます。

           

           明治期、鳥島にはアホウドリの羽毛採取のため、125人ほどの島民がこの仕事に従事していましたが、1902(明治35)年の鳥島噴火により全員が死亡するという悲惨な事故が起こりました。この後も、牧牛を主体としながらアホウドリの羽毛採取の事業が続けられていましたが、これも1939(昭和14)年の噴火で壊滅します。

           やがて太平洋戦争が終わり、1949年、アメリカの鳥類学者が鳥島を調査した結果、一羽のアホウドリも見つけることができませんでした。

           これにより、いわゆる「アホウドリ絶滅宣言」がなされたのです。

           ――――――

           ところがです。1951年になって、鳥島で繁殖しているアホウドリが再発見されたのです。

           乱獲から転じて「アホウドリ」は、今度は保護される対象になりました。それもつかの間、1965年の火山性群発地震により、保護観察をおこなっていた測候所が鳥島を撤退することになり、この活動も休止することとなってしまったのです。

           

          アホウドリの営巣地が遠望できます。

           

           おがさわら丸は予定通り、翌12時40分頃、鳥島の見える海域に到着しました。

           いよいよ、これから1時間かけて鳥島を周回します。

           鳥島は全島面積4.79㎢、直径2.7km、標高は硫黄山で394メートルという小さな火山島です。ここにアホウドリの大群が生息し、その羽毛を目当てに、人々が移り住み小さな集落を作っていました。

           明治、昭和の噴火活動で、今は無人島になっていますが、周回途中、溶岩が海へ流れ落ちた痕を見たり、かつて島民が住んでいた集落跡を遠望したりと、あっという間に時間が過ぎていきました。

           鳥島に残されたアホウドリの営巣地も視認しましたが、昔、映画で見た驚くようなアホウドリの大群とはちがい、群れが細々と生き残っている、そんな感じでした。

           このアホウドリの群れを、火山噴火の恐れのある鳥島から安全な地域に移住させようとする計画があります。

           選ばれたのは、鳥島から南に約350辧⊂笠原諸島の聟島(むこじま)です。計画は2008年から開始され、5年間で、のべ70羽のひなを移送し、死んだ1羽をのぞく69羽すべてが巣立ったと言われています。さらに2016年には、人工飼育個体が初めて聟島での繁殖に成功したと言います。

           

           

           アホウドリたちは、日本の経済発展という人間の都合で殺戮されていきました。それを今度は絶滅から救おうと立ち上がった人たちがいます。それはそれで、すごく感動的で素晴らしいことだと思うのですが、ここへ来る少し前、岡山県美作の鹿の処理場へ行ってきたことがあり、その時のことを思うと素直に喜ぶことができないのです。

           鹿肉を処理する工場ですが、そこで美作市の職員の方のお話しを聞かせていただきました。

           そのお話しによると、野生の鹿の個体数が減り、美作でも鹿の姿が山から消えてしまったことがあるそうです。そんなとき、子連れの母親鹿があらわれ、やれ保護だ、やれ繁殖だと、県をあげて野生の鹿を保護する取り組みがおこなわれました。そうして起こったのが、野生の鹿が増えすぎ、植林を食い荒らすという「食害」という問題です。その被害は捨てておけず、今度は、保護どころか、鹿に賞金をかけて捕殺するという結果になってしまいました。

           アホウドリは、人のいない無人島で繁殖してきました。そこへ人さまが人間の都合で割り込み殺戮の限りを尽くしました。

           新たな移住地も、人に荒らされない無人島です。でも逆に、アホウドリが、人の生活する町や村で大繁殖したらどうなるのでしょうか? 人間の生活を脅かさないという暗黙裏の了解のうえに「保護」があるのでしょうか?

           今、「動物愛護」という「上から目線」でなく、「動物の権利」を考えるという新たな発想が芽生えはじめていると言います。クジラやイルカの問題、鹿の問題、アホウドリの保護等々、これから人間は、自然とどう接していくのかを、本当に考えていく時期に来ているように感じます。

           まだ「答え」は霧の中ですが……。

           

           そんなことを思っている内に、おがさわら丸は、鳥島海域を離脱し(14:00)、次なる目的地「孀婦(そうふ)岩」へと向かっていきます。孀婦岩へ到着するのは、2時間後ということです。

           ところで、この孀婦岩というのは、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの孤立した岩の柱です。これを調査したイギリス人は、旧約聖書で神の指示に背き「塩の柱」に変えられた女性に似ていると、「ロトの妻」と名付けました。確かに、映画「ソドムとゴモラ」で見た「塩の柱」に似ています。この命名を意訳し「孀婦岩=そうふがん」という名称があたえられました。

           なお、この孀婦岩、気象庁により活火山とされているそうです。

           さて、この孀婦岩への到着、島の周回で二日目のプログラムが終了し、明日の朝は、いよいよ小笠原到着です。

           

           

          孀婦(そうふ)岩から離脱するなり、陽が太平洋に沈んでいった。

           

           次回は、望月昭伸さんの足取りを追って小笠原・父島へ上陸します。

          クジラ・イルカ紀行 vol.015 / 空を飛んだフジ

          2018.06.10 Sunday

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            (座間味島からの午前のフェリーで那覇港へ到着、美ら海水族館を目指す)

             

             美ら海水族館は沖縄の北西部、本部(もとぶ)半島の先端近くにあります。これに対し那覇は沖縄の南部西海岸に位置し、那覇から美ら海水族館に行こうと思うと、南北に長く延びた沖縄島のほぼ3分の2をバス移動しなければなりません。その間、ほぼ3時間ちかくをバスに揺られてやっと記念公園前にたどりつくという寸法です。沖縄の最北端から最南端までほぼ400キロ、どうして鉄道がないのでしょうか。

             戦前は軽便鉄道もあったといいますが、沖縄戦で破壊されてしまいました。戦後はアメリカの統治下に長くあったわけで、その間、米軍は道路網の整備に精力を注ぎ、沖縄を車社会に変えてしまったということです。今は、那覇市内はモノレールが敷かれていますが、これが隣接する浦添市まで延長される予定で、将来は北部の名護まで計画に入っていると言います。沖縄本島の南北がモノレールで結ばれる日も近いと考えていいのでしょうか。

             話が沖縄の交通網の話にそれてしまいましたが、この日、私は、沖縄本島の南、座間味島からフェリーに揺られ、バスに揺られ、揺られ揺られて「美ら海」までやってきたわけです。少しばかり、「なぜ、沖縄には鉄道がないんだ!」と、愚痴っぽくなるのをお許しください。

             いくら「船酔いには強いんだ」と胸を張りましても、やはり疲れました。しかも時間は夕方近く、今日は記念公園近くのホテルで、おとなしく一泊することにしました。

             

            美ら海水族館の誇る展示物(世界で初めて長期飼育に成功したジンベエザメ/メガマウスサメの標本)

             

             翌日、体力も回復し、朝8時半の開館を待ちかねて、美ら海水族館に駆け込みました。

             前日、ホテルから獣医の植田さんに電話連絡したところ、明日は終日那覇に出かけているため不在とのこと。「フジ」のことなら、動物管理チームの古網主任に会うよう勧められていました。植田獣医には、大阪から電話取材していることもあり、あきらめざるを得ません。むしろ「フジ」に尾ビレを付ける訓練を直接担当された古網さんに会える、そのことが自分の中で大きく膨らみ、はやる気持ちを抑えて入館した次第です。

             

             

             ここは「フジ」が存命中に使っていたプールです。このプールで、当時、新米飼育員だった「古網雅也」さんと、尾びれを失ったイルカ「フジ」のドラマが展開しました。そして、まさに、ここが古網さんが指定した待合場所というわけです。

             このプール前で古網さんの仕事が一段落するのをしばらく待ちます。

             ところでこのプール、僕が訪ねた頃は、幼いイルカたちの住みかになっており、こんな看板が出ておりました。

             

             「仔イルカ経過観察中(平成26年6月4日生まれ)

              .ラスをたたかないでください。

              ▲メラ撮影の際にはフラッシュを使用しないでください。

              動物への影響を考慮し、最低限の清掃をおこなっています。」

             

             のぞき窓からは好奇心いっぱいのイルカの子どもたちが、目をキラキラさせながら逆に人間たちを観察していました。なんのことはない、こちらが観察されているわけです。

             しばらくして古網さんがグレーの作業服で現れました。

             本の写真などで見ていた古網さんは、がっちりした精悍な感じの青年でしたが、今、こちらを目指しニコニコしながら歩いてくる姿は、どちらかというと人の良さそうな、ホンワカした温かい感じのおじさんです。写真で見たような、茶目っ気はあるが、どこか「とがった感じ」が抜けない、そんなイメージはまるっきり感じさせません。
             そりゃあ、そうですよね、フジが尾ビレをなくしたのは15年も前の話ですものね。それともイルカとずっと付き合っているせいもあるのでしょうか。そうですね、きっとそうに違いありません。
             こちらがそんなことを思っている間にも、古網さんは、歩きながら「フジ」のことや、今は「フジ」の子どもたちが、「オキちゃん劇場」(イルカやオキゴンドーのショー)で頑張ってくれている話をしてくれています。
             「オキちゃん劇場」では、一頭のイルカが5メートル近くもあるようなターゲットに向かって驚くようなジャンプを披露していました。ひょっとして、あれは「フジ」の娘、「コニー」なのかも――。
             「フジ」のことに話を戻しましょう。
                          
            オキちゃん劇場はフジのプールのすぐ横手にある。
                    
             2003年2月、ブリヂストンは「フジ」の人工尾ビレ開発の意思決定をし、これに伴い、加工品技術開発本部の加藤信吾さん、斉藤真二さんの二人が、神奈川県の八景島シーパラダイスを訪ねました。イルカの皮膚を体感するためです。このときの触感で、二人はイルカの皮膚を、ゴムの硬さでは70度くらいと判断したそうです。
             そして、その5ヶ月後の7月5日、ブリヂストンの加藤さんと斉藤さんが、「フジ」の尾ビレの型どりのため、初めて美ら海水族館を訪ねることになりました。
             このとき、フジの尾びれの型どりが海獣課のスタッフ総出でおこなわれました。
             これより古網さんと「フジ」の接触がはじまります。人工尾びれの完成を待つ間、フジが人工尾びれの装着をいやがらないよう「異物の装着訓練」が開始されたのです。
             スタッフの一人がテープでリングを作り、それを「フジ」の尾っぽに装着する。次には布をふんどし状にして着けてみる。こうして少しずつ「フジ」が人工尾ビレをいやがらないよう訓練していくという寸法です。
             しかし、この訓練に携わった古網さん、頑固な「フジ」に水をかけられたり、なかなかすんなりと言うことを聞いてはくれませんでした。
             そして2003年9月20日、人工尾びれ第一号が到着しました。このときは、「フジ」のプールの水を抜いて、人工尾ビレを装着しやすいようにし、装着した後にプールに水を満たすという作戦がとられました。
             古網さんが人工尾ビレの装着にチャレンジしますが、水をかけられ反撃される始末。
             「まだ古網には無理だ」、そんな声がスタッフの間から起こります。
             そこで古参のスタッフが「これ、怖くないよ」と、人工尾ビレを着ける前に、まず「フジ」の目の前に持っていき笑顔で説明します。すると「フジ」は納得したのか、おとなしくしているではないですか。そこですかさず古網さんが古参のスタッフを手伝い、人工尾ビレを靴のようにして履かせ、ベルトで固定しました。
             「フジ」は、おとなしくじっとしています。
             装着が完了し、プールに海水が戻されます。
             ところで普通の水族館では、プールに張る水を消毒して何度も循環させて使いますが、美ら海水族館は、海に面して作られているため、プールに張る海水には苦労しません。文字どおり「湯水のように」海水を使います。このためプールがいつも清潔で、「フジ」の手術後も、傷口から「ばい菌」が感染することもなく順調に回復することができました。
             今、その海水が、「フジ」のプールに満たされていきます。
             果たして「フジ」は泳ぐことができるのでしょうか?
             大成功です。「フジ」が、尾びれを失ってから初めてのドルフィンキック。尾ビレを上下に振りながら泳いでいます。
             ただ問題点が見つかりました。
             人工尾ビレ1型の問題点
              〜澗里妨すぎて水の抵抗が大きくなります。
              ▲侫犬糧びれに傷が付いてしまいました。
              ゴムが硬すぎて水となじみにくいようです。
              ぜ茲衂佞韻バンドを巻き付ける方式で、時間がかかりすぎました。
             たしかに見た目でも、洗練された「イルカの尾ビレ」とは縁遠いようなフォルムです。
             これら反省点を踏まえて、早速、2型の製作にかかります。
             それから約二ヶ月近くたった2003年10月の末、早くも人工尾びれの2型が、ブリヂストンの加藤さん、斉藤さんによって持参されました。
             これは大失敗!
             1型よりも、もっと激しく尾びれを振らないと前へ進まないのです。ゴムの硬さをもっと研究の必要があるようです。さらに人工尾びれがフィットしていないため、隙間に水が入り込み泳ぎにくくなっています。これは型どりの時、「フジ」が暴れたのが原因で、実際のものより大きな型ができてしまったためだと言います。
             型から作り直す必要がありました。そこで、獣医の上田さんの友人で大阪の造形家・薬師寺一彦さんが型どりをすることになりました。薬師寺さんは、造形化としての繊細な感覚で、実際にフジの尾びれを手で探りながら彼女にピッタリとフィットする型を作り上げてくれました。
             こうして2004年3月19日、ブリヂストンタイヤの加藤さんらが、改良型の尾びれを持って水族館を訪問してくれました。今回は、水族館で亡くなった「フジ」の仲間「トク」の標本を参考にして作った自信作を携えています。ゴムの硬さも40度のものと70度のものの2種類を用意してきたのですが、どちらも水の中でしなりすぎ、うまく前へ進めませんでした。
             このあと、取り付け方法もバンド方式からクロスバンド方式へ。さらに肩当てのパットを付けるカウリング型(かぶせるという意味)へ、ゴムの硬さも一様ではなく、部分的に芯を入れることで硬くしたりと改良が繰り返され試されますが、同時にフジの回復も目覚ましく、病み上がりの弱々しいフジではうまくいっても、完全に勢いを取り戻したフジが思いっきり泳いだりジャンプすると壊れてしまうことが多くなってきました。
              
            (映画「ドルフィンブルー」の1シーンです。この中に飼育員の古網さんがエキストラ参加しています。どれが古網さんかおわかりになるでしょうか? 正解は末尾に)
              

             2004年9月23日には、尾びれを失ってからできなかったジャンプに初めて成功します。しかし、着水したと同時に新型人工尾びれはバラバラに砕け散り、フジもその破片で傷つくという事故が起こってしまいました。

             計画は暗礁に乗り上げます。

             古網さんの心の中に、「俺たちは、フジにジャンプを強制していないだろうか」「これでフジがつぶれたら元も子もない」「人工尾ビレが本当にフジのためになっているのだろうか」、そんな疑問が次々と湧き上がってきて、一時は植田獣医に開発の中止を進言したほどでした。

             しかし、そんな疑問を吹き飛ばすように、「フジ」は、娘の「コニー」がジャンプする姿を見て、無いはずの尾をしきりに振りジャンプしようとするのです。
             獣医の上田さんは決断しました。ジャンプは自発的だ。フジは飛びたがっている。それならジャンプでも壊れない尾びれを目指そう! 古網さんの疑問も吹っ飛び、今度は、古網さんが「フジ」の直接の担当となって、人工尾ビレの開発と平行し「フジ」のトレーニングが続きます。

             2004年10月16日、カーボンファイバーとグラスファイバーを組み合わせてつかってみましたが、これもジャンプでヒビが入り壊れてしまいました。
             2004年11月21日のテストでも壊れしまいました。

             「フジのパワーに負けない尾びれを」、この言葉を合い言葉に開発が続き、ついに2004年12月18日、今回は今までにないまったく新しい材料を芯に使った尾ビレが誕生しました。

             しかし、今回の尾ビレが、成功してもダメでも、開発は一応切り上げるという決断がされています。

             いよいよ最後のチャレンジです。

             今では、「フジ」は古網さんを信じ切っており、二人の意気もピッタリ、尾ビレの装着もスムーズに進みます。

             スタッフが固唾をのんで見守るなか、まずはツイスト、続いて回転、そしていよいよ

             「ハイジャンプ、行きまーすッ!」

             古網さんの声があたりに響き、ついでハイジャンプのターゲットが空高く掲げられました。

             「フジ」はいったん水中深く潜るや、勢いをつけ水面を目指します。やがて、水面を割り「フジ」の頭が顔を出したかと思うや、水滴をまき散らしながら灰色のからだ全体が宙空を駆けのぼっていきました。
             大成功です。ターゲットを目指し「フジ」の会心のジャンプが披露されました!

             開発の開始から実に1年と10ヶ月、とうとう壊れない「フジ」にフィットした人工尾びれが完成したのです。     

               

               
             この後、「フジ」は10年生き続け、子どもたちや障害者たちを励まし続けました。
             そして、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。
             果たして彼女の人生は幸せだったのでしょうか? そんなことは人間に分かるはずはありませんが、少なくとも人間や社会を恨んでいたわけではなく、彼女の生きた環境の中で「子どもたち」を育て、「人」との友情を育み、彼女にあたえられた人生を精一杯生き切ったと感じるのです。
             イルカと人との関わりについては、ただ「かわいい」だけでは済まされない複雑な問題が絡んでいます。しかし、だからこそ、「人間」が「自然」とどう接し、どう向き合っていったらいいのか、そのヒントをイルカさんが投げかけてくれているように感じてしまいます。
                 
             次回は、クジラを撮り続け小笠原で消息を絶った水中写真家・望月昭伸さんの足取りを追って、小笠原を訪問します。
                
            小笠原港に入港した「おがさわら丸」
              
            (解答:エキストラとして「ドルフィンブルー」に参加した「古網さん」は、一人だけ濃いめのオレンジ色の作業衣を着ています。)

            私のブックレビューPage.1/お気に入りの絵本を教えてください

            2018.06.07 Thursday

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              会場となった「自遊空間ゼロ」のセミナースペースです。

               

               2018年6月6日、自遊空間ゼロで、かねがねやってみたいと思っていた「読書会」が開かれました。

               その名も「私のブックレビュー Page 1」。第一回目ということでPage 1なのですが、当然Page 2、Page 3と続いていくのですが、Page 1のテーマは「絵本」。そこでサブタイトルは「お気に入りの絵本を教えてください」となりました。

               開催に当たっては、専修学校で国語を教えておられる「井上玲奈」さん、香芝市で子育て支援のNPO法人「T-seed」を運営されている「多田みさ」さんにお力添えいただき開催できる運びとなりました。

               当日はあいにくの雨でしたが、絵本作家の「杉浦つかさ」さんをはじめ、7人の方がそれぞれ「これぞ」と思う絵本を持って集まり、すわ「絵本版ビブリオバトル」開戦かと思いきや、「バトル」でなく、それぞれが時間を決めて持ち寄った絵本の良さを紹介する、つまり「チャンプ本」を選出しない(ゲーム感覚を廃することで)、ある意味、充実した本来の読書会が開かれたようにも感じます。

               以下に持ち寄られた本を紹介いたしますが、実は録画がうまくいかず、記憶に頼って紹介いたしますので、聞き違い、記憶違いがあると思いますがご容赦ください。

              (また絵本の紹介にあたっては、絵本作家の杉浦つかささんや主催者の方々は別として、発表者のお名前は基本的に伏せさせていただきます。)

               

              どちらも「内田倫太郎」さんの作品。暗い色調の「まねっこでいいから」と、ナンセンス絵本「たまたまタヌキ」

               

               まずは進行役の「井上玲菜」さんのおすすめ本です。

               内田倫太郎さんといえば、「たまたまタヌキ」のようなナンセンスな絵本が多いのですが、「まねっこでいいから」は異色な作品で暗い色調でおおわれています。

               幼児虐待を受け、母親の愛情を知らずに育った女性。彼女は母親になっても、自分が抱っこされたこともないから、我が子をどう抱っこしてよいか分からない。でも、子どもから「まねっこでいいからだっこして」と、我が子に言われておそるおそる抱っこしていく――。

               

               

               

               絵本作家「杉浦つかさ」さんのおすすめ本は「おやすみ、ぼく」。

               

               「おやすみ、ぼくのあしさん。

               きょうも うーんと はしったね。」

               

               絵本のあらましを朗読される杉浦さん。

               そのあと、ご自身がスランプになって本が描けなくなったときの体験を「がかフランソワさん」として発表された経緯を話されました。

               自分の中にある暗い思い、これを見つめて変えていったとき、まわりの世界も明るく変わっていった――。

               

               

               

               

               「わたしがあかちゃんだったとき」

               これは、共同主催者の「ただみさ」さんのおすすめ。

               

               「それ なあに?」

               「あかちゃんのおようふくよ」

               「あたしが あかちゃんだったときの?」

               「そうよ。こんなに ちっちゃかったのよ。」

               

               多田さんは、朗読することで、この絵本のすばらしさを伝えてくれました。

               

               

              「ぼちぼちいこか」

               この絵本を紹介されたお母さんは、子どもたちが大好きな絵本だからと言います。何度もせがまれて読むそうですが、そのたびに、いっつも子どもたちは大笑い。楽しくてたまらない、そんな様子がお母さんの語り口から想像されてしまいます。参加者の一人は「お母さんのやさしさが、子どもたちに伝わるのでは――」、そんな感想をもらしていました。

               「絵本」も「お母さん」も素敵だと感じました。

               

               

               紹介者の説明によると、二作ともに、作者は台湾の方だと言います。

               そのうち「地下鉄」は、盲目の少女が、地下鉄に乗って「自分探し」の旅に出るお話しだと言います。

               紹介者によると、主人公は「出口を見つけられていない」と一言。

               この一言が気になり、どんな結末なのか、ぜひ読んでみたいと思いました。

               ※後日談ですが、この「地下鉄」は中国で映画化されていました。

               トニー・レオン主演で「サウンド・オブ・カラー/地下鉄の恋」というタイトルで公開されたと言います。

               

               

               少女時代、宮本武蔵に入れあげたというお母さん。今では素敵で穏やかで「宮本武蔵」とのつながりが、まるで想像できないのですが――。

               そのお母さんが選んだ一冊が「てん」。読む度に涙ぐんでしまうと言います。

               お話しは、お絵かき大嫌いな少女の話。

               何も描けないままの真っ白な紙。それを見た先生は

               「ふぶきのなかのほっきょくぐまね」「なにかしるしをつけてみて」。

               少女は苦しまぎれに、白い紙に「てん」をうち「これでどう――?」

               次の週、彼女の絵が「金色の額」に飾られてありました。

               話しを聞いていて、僕の中学時代のことを思い出しました。作文が苦手でみんなと同じように書けないのがイヤでした。いっつも作文となると、誰かに見られないように、ノートを腕で覆い隠すようにして、その暗がりの中で文章を綴っていました。誰かにみんなと違うものを書いていると知られるのが怖かったのです。

               そのノートを、いきなりすくい上げた国語の先生。ノートに目を走らせるや、

               「みんな、桐生君のを読ませてもらいなさい。同じことを違った視点で捉えていて大変おもしろい!」

               そのとき、はじめて違っていいんだと思いました。

               「てん」のお話を聞いていて、自分の中に眠っていた「国語の先生」が目を覚ましました。

               

               

               最後は僕のおすすめ本です。

               僕が選んだのはマック・バーネットの処女作「ビリーツイッターとシロナガスクジラ問題」です。邦訳こそされていませんが、この面白さは著者も言っているように、子供に突拍子もない嘘をつく、その堂々とした嘘つきぶりです。
               「ビリー、部屋を片付けないとシロナガスクジラを買ってくるわよ。」「ビリー、勉強しないとシロナガスクジラを買ってくるわよ。」
               ママは、ことあるごとに、シロナガスクジラを買ってくるとビリーを脅して言うことを聞かせようとします。そんなわけないとたかを括っているビリー宛に、ある日、宅急便でシロナガスクジラが届けてこられるという奇想天外なストーリーがページを開くと溢れ出てきます。
               しかも、この嘘つきぶりは、絵本の中にとどまらず、本の表紙にまで溢れ出てきます。それが以下のような嘘広告です。
               「安心の30日間トライアル、シロナガスクジラを飼育できます。希望者は、切手を貼った自分宛の封筒を同封してください。」
               この嘘広告に対し、ニコという子供がシロナガスクジラ希望の封筒を送りました。すると彼の元にノルウェーの法律事務所から手紙が届きました。関税法の関係で、君のところへシロナガスクジラを送れません。君のクジラはフィヨルドで保護されています。さびしがっているので、彼に電話してやってください。
               案内された電話番号に連絡すると、クジラの鳴き声に続いて応答メッセージが流れます。
               ニコは自分のクジラであるランドルフに話しかけます。
               ニコは4年にわたり25回のメッセージをランドルフに送り続けました。
               ものがたりが絵本の中からこぼれて、現実世界に流れ出し、もうひとつのものがたりが作りだされました。

               

               いよいよ締めくくりは、「ちいさなあなたへ」の動画を観てお開きとなりました。

               さて次回「私のブックレビュー」は、「Page.2 児童読み物の世界」となります。子ども向けの小説、絵本、漫画を対象に、これというものを一冊お持ちいただき、その魅力を語っていただきます。

               日時は、2018年7月13日(金)、午前10:00〜12:00の予定です。

               インターネットでの参加も可能です。インターネットで参加される方は、下記のメールアドレス宛てに「私のブックレビュー インターネット参加」と書いてお申し込みください。

               折り返しURLを知らせします。ただしインターネット枠は最大3名ですので、定員になりましたら締め切らせていただきます。

               

              dep1948@zeus.eonet.ne.jp

              クジラ・イルカ紀行 vol.014 / 美ら海(ちゅらうみ)水族館のフジ

              2018.05.27 Sunday

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                 上の写真はすべて、「フジ」という一頭のイルカのためにつくられた「人工尾ビレ」です。失敗しては改造し、壊れてはまた改造し、飽きることなく造り続け、改造し続けられた人工の尾ビレ。この尾ビレを付けて元気に泳いでいた「フジ」も、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。

                 

                 ところで、じゃのひれドルフィンファームで、バンドーイルカの「もも」や「かえで」と知り合って以来、イルカやクジラに――と言ってもイルカもクジラの仲間なのですが――のめり込んでしまった私は、「本」やら「DVD」やら、「グッズ」やら、ともかくクジラやイルカと名の付くものは、手に入る範囲で集め回っていました。

                 その収集品の中に、「イルカと少年」(アメリカ)という2011年に映画化された作品のDVDがありました。

                 カニを捕らえる罠にかかり、尾ビレを失ったバンドーイルカの「ウインター」と、父親に蒸発された「孤独な少年」が心を通い合わせるというストーリーです。これは実際にあった話しをもとに組み立てられており、映画の中のウインターも彼女自身が演じています。そのウインターは、今も、クリアウォーター水族館で元気に暮らしており、彼女の姿を見ようと思えば、クリアウォーター水族館のホームページを開けば、ライブ映像だって見ることができてしまいます。

                 ところが、もっと驚いたことには、日本にも同じように人工尾ビレのバンドーイルカがいたのです。それが「美ら海水族館」の「フジ」です。しかも、ウインターが尾ビレを失う事故を起こしたのが2005年のことですから、それより3年も早くに「フジ」の事故が起こっています。

                 早ければ良いという話しではありませんが、重要なのは「フジ」が世界で初めて「人工尾ビレ」を付けたイルカとなったということです。つまり、参考にできる事例がまったくなく、すべてが手探りで進められたということなのです。冒頭の写真に掲げた人工尾ビレの試作品、そのおびただしい数が、このプロジェクトに関わった人たちの苦労を物語っています。素材、形、取り付け方法、すべて試行錯誤で、問題点をつぶしながら、ついには「フジ」にピッタリの人口尾ビレを完成させたのです。

                 

                フジの人工尾ビレの最終的な形。素人が見ても実にきれいなフォルムです。

                 

                「フジ」に人口尾ビレをプレゼントするため、ブリヂストンタイヤの研究チーム、造形家、飼育スタッフ、獣医の人たちが知恵を絞り合いました。その詳細は、松山ケンイチさん主演で映画化された「ドルフィンブルー」をはじめ、NHK制作のドキュメンタリー「ひれをもらったイルカ」、さらには映像作品ばかりでなく、「しっぽをなくしたイルカ」(岩貞るみこ)、「とべ!人口尾ビレのイルカ『フジ』」(真鍋和子)などの子供用ノンフィクションにも詳しく描かれています。

                 かくいう私も、これらの情報を得て、はじめて「フジ」の存在を知ったという次第です。

                 

                 2016年2月、沖縄の座間味へ「エスコート号」(ホエールウォッチング船)と、そのオーナー佐野さんご夫婦の取材にうかがった私は、その足で「美ら海水族館」と連絡を取り訪問することにしました。ところが、「フジ」は昨年の11月1日に亡くなったと言います。

                 4ヶ月早くフジのことを知っていれば、彼女の姿だけでも見ることができたと思うのですが、未練がましく「フジ」のことを聞いていると、電話に出られた方が、「しばらくお待ちください」と、獣医の植田啓一さんに繋いでくれることになりました。

                 植田さんは、壊死していく「フジ」の尾ビレを手術された医師で、その後、落ち込んで浮いているだけの「フジ」に人工尾ビレをつくろうと、ブリヂストンタイヤに働きかけた人物です。

                 人工尾ビレの話は次回に譲るとして、ここでは、「フジ」というバンドーイルカについて、また、どのようにして尾ビレを失ったのか、その辺の話を紹介していきたいと思います。

                 

                美ら海水族館内で放映されているビデオ動画より

                 

                 1975年7月20日から開催された沖縄海洋博は、183日間の会期を経て、翌年1月18日にその幕を閉じました。海洋博の会期終了に伴い、海洋生物の展示館は「国営沖縄記念公園水族館」として海洋博公園内の敷地で再出発することになります。そして、その再出発に伴い、内田詮三館長のふるさとである伊豆の海から、7才(推定)雌のイルカが移されてくることになったのです。

                 それが「フジ」―― 富士山の見える海から来たので「フジ」と名付けられたバンドーイルカです。

                 フジは2年後の1978年、長男の「リュウ」を出産しました。その11年後の1989年には、長女「コニー」を、1995年には次男「チャオ」を出産し、3頭のお母さんとなったのです。

                 フジは水族館では、結構、気ままでへそ曲がりのイルカだったようです。これも人間から見ての話しですが、新米飼育員などは「フジ」にからかわれ、言うことを聞いてもらえないこともしばしばだったようです。したがって芸をするには向いていませんでした。ところが子育ての面では、しっかり者の母さんという感じで、いつも子どもたちのそばに付き添って泳ぎ、狭い水族館の壁に子どもたちがぶつからないようガードしている、そんな頼もしいお母さんぶりを発揮していました。

                 さて2002年11月1日 「国営沖縄記念公園水族館」は「美ら海水族館」としてリニューアルオープンすることになりますが、そのオープンを半月後に控えた10月16日、フジの尾ビレが壊死を起こしていることが判明しました。壊死の進行は速く、「このままでは」というので、原因の分からないまま、10月25日 、第1回目の手術が実施されました。壊死した尾びれを削除する手術でしたが、それでも壊死の進行は止められなかったそうです。

                 植田獣医は、沖縄県立北部病院の嘉陽医師に協力を仰ぎ、11月7日、第2回目の切除手術に臨みました。植田獣医と嘉陽医師の二人で、「フジ」の左右の尾ビレの4分の3を思い切って切除するというものです。

                 結果、手術は成功し、壊死の進行を止めることができました。ただ尾ビレの4分の3を失い、「フジ」は泳ぐことのできない、ただ浮いているだけのイルカになってしまったのです。

                 

                美ら海水族館内で放映されているビデオ動画より作成

                 

                 植田獣医は、イルカに感情移入しすぎるのは間違いのもとだと言います。もっとドライになってイルカを見つめるべきだと言います。その植田獣医の目にも、「フジ」の落ち込みようは歴然としていたようです。

                 なんとか「フジ」に元気を取り戻してやれないものか、植田獣医は、連日、遅くまで世界中の文献や事例を読みあさり、アメリカでサメに手ビレを食いちぎられたウミガメの事例に行きついたのです。なんと、そのウミガメのために、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」が動き、人工の手ビレを開発したというのです。

                 ウミガメにできたのなら、イルカにもできるはず、そう考えた植田獣医は、日本のブリヂストンタイヤに「フジ」の人口尾ビレを開発してもらえないだろうか、そう思いつきました。

                 縁故を頼り、ブリヂストンタイヤと渡りを付けた植田獣医は、「フジ」の窮状を訴え、イルカの人工尾ビレの開発が「世界ではじめて」ということを強調し、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」がウミガメの人工手ビレをつくった話しを持ち出し、懸命にブリヂストンの首脳陣の説得に当たりました。

                 植田獣医の熱意に、天下のブリヂストンが動きました。

                 化工品材料開発部の加藤信吾部長と、その部下でスポンジ技術を専門にする斉藤真二さんが、「フジ」の人工尾ビレ開発の責任者となったのです。
                 こうして「フジ」の人工尾ビレ開発プロジェクトが始動をはじめました。

                 

                 次回は、美ら海水族館を訪ね、「フジ」の担当となった海獣飼育課の古網リーダーにお話を伺います。

                 

                国営沖縄記念公園

                クジラ・イルカ紀行 vol.013 / 「じゃのひれ」から「しまなみ海道」へ

                2018.05.18 Friday

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                   スイミングスクールで個人指導を受けたものの、水への恐怖心から挫折、イルカと自由自在に泳ぐという計画は、ものの見事に失敗に終わりました。でも、ものは考えようです。浮くようになったわけだし、まして、イルカさんと泳ぐときはライフジャケットを着けているわけですから、おぼれる心配はまずありません。自分にしては上出来です。

                   こんなわけで女房と二人して「淡路じゃのひれアウトドアリゾート」へとやってきました。まずは予約の確認と「ドルフィンスイム」の申込みを済ませ、時間まで海水プールを見学します。何より大事な実験結果はどうなっているでしょう。ここ2週間というもの、まだ見ぬ「もも」に思いを寄せつづけ、ひたすら語りつづけてきました。

                   とはいうものの、この場に臨んで、期待は、「そんなわけないよなぁ」「思うだけで通じるわけないよなぁ」と、そんなあきらめムードに変わっていました。

                   期待半分あきらめ半分、そんな感じで「もも」のプールを探していると、

                  「ありました!」

                   中ほどのプールの前に案内表示が出ています。「もも」と、もう一頭「ゆず」と表示されています。

                   

                   

                   ここが「もも」のプールか!

                   そう思った瞬間です。背後で「バシャーン」という水しぶき。頭に冷たい水滴が降りかかります。

                   あわてて振り返ると――!! 

                  「もも」と「ゆず」が、二頭でジャンプをはじめ、それが、なかなか終わらないのです。あわててカメラを取り出しますが、連写モードになっていなかったため、なかなかジャンプのスピードに追いつけず、パチリパチリとシャッターを切り続けます。それでもジャンプは終わりません。

                   ついには係の方が驚いて飛び出してくる始末です。

                   

                   

                   ジャンプするのは、餌をほしいときとか、遊んでほしいときらしいのですが、普通は二、三回もすれば終わると言います。それが十回どころか、あわてて数えだしたときからでも二十回以上もジャンプが続いているのです。

                   とても威嚇のようには思えません。

                  「思いが伝わったんだ!」 とっさにそう思ってしまいました。

                   思い込みかも知れませんが、それでも、シャッターを切っていて訳もなく涙が止まりません。大の男が恥ずかしい話ですが、水しぶきと一緒になっているので泣いているのは、何とかごまかせそうです。

                   係の人が飛び出してきた頃にはジャンプも下火になり、やがて海面も静かになっていきました。

                   ひょっとして何かの偶然かも、そうも思いましたが、この一年後、しまなみ海道にドルフィンファームが新たにオープンしたときのことです。「もも」がしまなみ海道に移されることになり、それを知った僕も、取材という名目で「もも」を訪ねることにしました。

                   そのとき、「もも」の対応が偶然ではなかったと確信しました。一度しか会っていない僕を、「もも」はしっかりと覚えてくれていたのです。

                   さて、この話は締めくくりのところで取り上げるとして、まずは人生初めての体験、ドルフィン・スイムについて話しを続けていきたいと思います。

                  一緒に泳いでくれる「かえで」と「さくら」の見分け方です。

                   

                   ここでイルカさんについて、少し基本的なことを勉強しておきましょう。

                   魚と違い、イルカは尾びれが飛行機の尾翼のように左右に広がっています。魚の場合は尾びれが縦についており、これを左右に振ることで泳ぎます。これに対し、イルカは左右に広がった尾びれを上下に振ることで推進力を作り出します。この違いは、イルカがほ乳類で肺呼吸をするため、頭の上に開いた呼吸孔をすばやく海面に出すためではないかと言われています。その尾びれの強さは並大抵ではなく、いやがる野生のイルカを追い回し、尾びれの一撃で肋骨を折られた人間もいるぐらいです。

                   エコロケーションについては前回触れましたので、変わったところで「半球睡眠」について触れておきましょう。イルカの脳は、左右で二つに分かれて活動します。左が眠っているときは右が活動しており、右が眠るときには左が活動している、つまり眠らずに泳ぎ続けることができるという寸法です。

                   また代謝が活発で、人間が24時間で肌が再生されるのに対し、イルカは2時間で新しい肌が再生されるということになります。これは早く泳げるよう、いつでも肌をすべすべにしておく必要があるためです。

                   スイミングの前には、調教師のやさしくて陽気なお姉さんが、イルカについて、いろいろと勉強させてくれます。ただ残念なことに、今日一緒に泳いでくれるのは「もも」と「ゆず」ではなく、「さくら」と「かえで」という二頭の雌のバンドーイルカということでした。「もも」たちは、まだ人と一緒に泳ぐまでにはトレーニングが進んでいないのだと言います。

                   上の図は、その「かえで」と「さくら」の見分け方です。「かえで」は小ぶりで、身体の色は濃く、背びれがとがっており、上部に切れ目があります。これに対し、「さくら」は大柄で、色も浅く、背びれは丸みを帯びています。このようにイルカたちはそれぞれ特徴があり、この特徴を早くつかんで個体差を知ることで、イルカたちとの距離がぐっと縮まると思います。

                   一緒に泳いでくれるパートナーのことを知らないなんて失礼ですものね。

                   

                  胸ビレにつかまらせてもらってのスイミング。これが本当の胸を借りる?なーんて。

                   

                   さあ、いよいよです。

                   まずは「かえで」の背びれにつかまってのスイミング。調教師のお姉さんが言います。

                  「背びれを左手で軽く持ち、後は浮かんでいるだけでいいですからねぇ。」

                   言われたように、背びれを軽くつかむと、それが合図であるかのように「かえで」が、かなりのスピードで泳ぎだしました。

                   すべて、うまくいくはずでした。ライフジャケットは着けているし、おぼれるはずがありませんでした。

                   でも、おぼれてしまいました。

                   水に浸かったまま顔を上げられないのです。

                   水に浮かび、かえでに引っ張ってもらい確かに進んでいるのですが、顔を水面に上げることができません。

                   苦しまみれに、とうとう「かえで」の背びれを放してしまいました。

                   ゴボゴボゴボゴボッ!

                   この状況は間違いなくおぼれていることになるのでしょう。

                   

                  頭に付けたアクションカメラが、かえでの心配そうな顔を捉えてくれていました。

                   

                   しかし、スイミングスクールで個人指導を受けた成果は間違いなくあったと言えるでしょう。水の中で、息が苦しいながらも僕は泳いでいました。そばでは「かえで」が、僕の回りを心配そうに付き添ってくれています。あの姿にどれだけ励まされたことでしょうか。僕は彼女に導かれるようにして、プールの縁へたどりつきました。

                   ほんの数分のことでしたが、僕の中では一生分の思い出が紡ぎ出されていました。

                   

                   みんなの心配そうな顔が笑顔に変わり、「ドルフィンスイムもここまで」と思った瞬間、あのかわいい調教師のお姉さんが、

                  「次は、かえでちゃんに胸ビレを貸してもらいます。」

                  「……もういいです!」

                  「ダメでーす! やってもらいます。」

                   笑顔こそ素敵ですが、そこには、てこでも動こうとしない気構えがありました。

                  「今度は、かえでちゃんにひっくり返ってもらい、その上に乗る格好ですから顔は水に浸かりません。今度は大丈夫です、うまくいきます!」

                   

                  かえでの胸ビレにつかまってのスイミングです。
                  続いてさくらの胸ビレを借りてのスイミング。

                   

                   今度は大成功!

                   かえでに続いて、さくらまでが胸ビレにつかまらせてくれ、広いプールを一周させてくれました。

                   先ほどの強烈な体験と相まって、自分の中では、イルカさんに対する絶大な友情と信頼が生まれていました。

                   さあ、いよいよラストプログラムです。水中のイルカさんとふれ合います。

                  「水の中はもう充分です」と言いましたが、先ほどの調教師のお姉さんが「ダメです! やってもらいます」と、何にもひるまない笑顔で応じてくれました。

                   

                   

                   これも大成功! 泳ぎに自信がない分、水の中でも浮いているしか能がないのですが、それが反って良かったのだと言います。変に泳ぎに自信があって、イルカを追い回したりすると、逆にイルカにいやがられるようです。イルカがこちらに興味を持って近づいてくるまで、ただ浮かんでいるだけでよいそうです。これは野生のイルカさんの場合、特に言えることだそうです。

                   今回の体験で、イルカさんへの絶大な友情と信頼を感じたわけですが、同じように、若い調教師の方のイルカさんに向ける友情や信頼をヒシヒシと感じさせてもらいました。

                   このことは、新しくできた「しまなみドルフィンファーム」へ、「もも」と「ゆず」が移動させられることになり、その取材させていただいたとき、よりいっそう感じさせてもらった次第です。

                   

                  調教師の方々の愛情に包まれて元気を取り戻しつつあるゆずちゃん

                   

                   2016年5月6日、まだオープンして間もない「ドルフィンファームしまなみ」に、淡路から移された「もも」の様子を見に行ってきました。

                   なんと、あのやさしくも、言い出したらテコでも動かない調教師のお姉さんがいるではないですか! 一度しか会っていないのに、旧知の友に出会えたようで、うれしくてなつかしくて、僕がアメリカ人なら、さしずめハグしていることでしょう。そこは日本男児のはしくれですから、そんな浅ましい誤解されるようなまねはいたしませんでしたが……。

                   彼女にこんな思いを抱いたのは、僕だけでなく、「もも」こそ、彼女が頼りだったに違いありません。陸送の模様は、ほかのイルカの例ですが、アミール動物病院さんが「獣医さんのお仕事―イルカの輸送」として写真を公開されています。それを転載させていただきましたが、こんな感じで「もも」や「ゆず」も運ばれてきたのだと思います。

                   調教師のお姉さんに聞くと、「もも」はいやがって暴れ、おかげで到着したときは傷だらけだったと言います。

                   

                  アミール動物病院さんのブログ「獣医さんのお仕事―イルカの輸送―」から転載

                   

                   事前に電話で「もも」の移動の話を聞いていましたので、しまなみドルフィンパークに到着するなり、「ももはどこだろう、元気だろうか」と思った瞬間、遠くでジャンプするイルカがいます。まさに、そのイルカが「もも」だったのです。顔をあわせるなり、「大変だったねえ」と心の中で語りかけました。すると「もも」の何とも言えない温もりが伝わってきました。「思い込み」だとか「思い入れ強すぎ」だとか「錯覚」だとか、なんと言われようが、間違いなく「もも」は僕を覚えてくれていて喜んでくれています。

                   くだんの調教のおねえさんと、新しく知り合った、ここ「しまなみ」のリーダーのお姉さんと、お二人から「もも」の話を聞きました。「ゆず」が比較的おとなしかったのに、「もも」はいやがって傷だらけになった話。到着したとき、「もも」は弱り切っていて、この方たちが付きっきりで面倒を見てくれた話。

                   今日の「もも」は、とっても元気だと言います。

                   今、イルカを水族館やレジャー施設に置くことの是非が問われています。

                   インドでは、イルカを「Non human Person」、つまり「他の動物と比べて非常に稀なその知的能力の高さは『ヒト科以外の人間』としてみなされるべきであり、彼らには特別の権利を付与すべきである」とし、水族館やレジャー施設からイルカを解放することが義務づけられるようになりました。

                   日本でも遠からず、水族館やレジャー施設から「イルカ」が消える日が来るのかも知れません。

                   ただ、今現在の日本では、水族館で生まれたイルカやシャチがおり、この子たちや、もとは野生であっても、今は人間と深い絆で結ばれるようになったイルカやシャチがいます。

                   以前に触れたシャチのケイコのことを考えると、「種」として考えるのでなく、「個」として考えたとき、何が彼らの幸せなのかを考えて判断してほしいものです。

                   水族館やレジャー施設にいるイルカたちは、今は少なくとも、彼らをお世話する人間と友情や信頼関係を築いています。イルカを「人」として扱うのであれば、個人としての幸せを無視してほしくないと切に思います。

                   

                   今回の実験で感じたのは、イルカは海へ帰ったほ乳類として独自の進化を遂げたという点です。ある意味、人間以上に優れた生きものだと思います。特に、言葉に頼らず「思い」を「波動」として伝え、感じることができる能力――人間が、はるか昔に放棄した能力を進化させ続けてきた生物だと強く感じました。

                   この「もも」「ゆず」「かえで」「さくら」に出会って、また、そのお世話をする若い方々と出会って、今、僕は、イルカやその他のクジラの仲間のことが忘れられなくなりました。

                   

                   さて次回は、人と深く関わったイルカとして、沖縄の美ら海(ちゅらうみ)水族館へ、「フジ」(尾びれをなくしたイルカ)の足跡をたどることにします。

                   

                  美ら海水族館所蔵「フジ」の人口尾びれの動画から転載。

                  クジラ・イルカ紀行 vol.012 / じゃのひれの「もも」

                  2018.05.12 Saturday

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                    南あわじ市にある「じゃのひれ ドルフィンファーム」。下は「ふれあいコース」プール前の表示。

                     

                     上の写真は、兵庫県南あわじ市阿万塩屋町にあるレジャー施設「ドルフィンファーム」のイルカプールです。

                     この「ドルフィンファーム」は湾の一角をイカダと網で仕切ることで、巨大なプールを作り、その海水プールで「イルカ」と「人」が一緒に泳いだり、触れあうことができるようにしたというレジャー施設です。

                     本来は、「陸」と「海」という違った環境で暮らし、漁師の方やダイビングを趣味とされる方は別として、ふれ合うことのなかった二種の「陸」と「海」の」ほ乳類が出会える場所でもあります。それは人間の「癒やし」や「楽しみ」のために、一方的にイルカに犠牲を強いる結果となるわけですが……。

                     しかし、そんな環境でも、いや、そんな環境だからこそなのかも知れませんが、「イルカ」とその世話をする「人」の間には、友情や信頼が育まれているように感じます。

                     実は、僕が、イルカと初めて接触したのも、このドルフィンファームなのです。以来、ここでの強烈な体験がイルカやクジラにどっぷりはまり込んでしまう結果となりました。

                     でもその体験に触れる前に、まずは、泳げない僕が、なぜ、イルカと一緒に泳ごうなどと思うようになったのか、その辺の経緯(いきさつ)から話させてください。

                     

                     

                     写真の人物は、大阪府南河内郡河南町大宝に住む田池留吉というお爺さんです。

                     住むというよりか住んでいたと言うべきでしょうか。この田池先生、一昨年の2015年12月、90才でお亡くなりになりました。若い頃は、大変な秀才だったようで、家が貧しかったため、大阪府立市岡中学校(旧制)卒業後は、経済的な理由で陸軍士官学校に入学されたといいます。正確に言うと「陸軍予科士官学校60期」に入学し、卒業後、「陸軍航空士官学校」に配属されたということになります。終戦が近づくや特攻隊を率いて出撃するはずでしたが、そのための訓練もままならないまま、終戦となってしまいました。

                     価値観が一変しました。一時は特攻隊を率い死を覚悟し、「何のために死ぬのか」を自分に問い続けた青春時代でした。それが終戦の詔勅(しょうちょく)以降、まったく価値観が変わってしまいました。そんな中、田池さんは大阪高等学校(今の大阪大学)へ再入学され、教師の道を歩き出すことになったのです。

                     大阪市立西中学校の補欠要因を皮切りに、母校である大阪府立市岡高校で数学を教え、やがて教頭となり、大阪府立東百舌高等学校の校長職を辞し教職生活にピリオドを打たれました。

                     僕が田池先生を知ったのは、この東百舌高等学校の校長先生だった頃です。こんな関係で「先生」が代名詞みたいになってしまいましたが、その田池先生、出会った翌年、定年まであと一年を残して校長職を依願退職されてしまったのです。僕が出会った頃には、まだ校長職をしながら「人間はなぜ生まれてくるのか」「人間の本質は肉体ではなく心」「他人や社会を変えるのでなく、自分が抱えている闇に気づき、自分を変えていこうとしないかぎり何も変わらない」……、それらのことを手弁当で伝え続けておられました。

                     そんな田池先生のもとへ、お子さんや家族のことで相談に来られたり、話を聞きに来られたりする方が次第に増え、田池先生も、たくさんの方に本当のことを知ってもらおうと、定年を待たず校長職を辞された次第です。

                     僕も最初は反発していましたが、否定できないことが次々と自分の中で起こり、以来、お亡くなりになるまで、三十年以上、勝手に「師」と決め、お付き合いすることになりました。その辺の経緯は、拙著「時を越えて伝えたいこと」(2007年6月刊 絶版のためPDFで無料公開しています)の中に詳述していますので、興味のある方は、お読みください。

                     その田池さんがお亡くなりになる前年だったと思うのですが、「イルカ」や「クジラ」について「人間に近い存在で私も興味を持っている」と話されたことがあり、「言葉でなく意識で通じ合える存在だ」とも言われました。まあ、すべての生き物がそうなのだと思うのですが、特にイルカやクジラにはそう感じさせる「何か」があるようです。このときは、たくさんの人の前で話されていたのですが、いきなり「なあ桐生さん、頼んだで……」と、なぜか名指しで頼まれてしまうことになりました。

                     長くなりましたが、これが、僕が「イルカ」や「クジラ」に」興味を持つようになった最初です。

                     

                     ところで、人間は言葉を使います。だから言葉を信じがちです。でも、言葉で「あなたは良い人だ」と言っても、心では「おまえは嫌なやつだ」と思っているかもしれません。そうだとすれば、どちらが本当の姿でしょう。「良い人だ」という言葉とは裏腹に、その人からは「嫌なやつだ」という思いが流れています。思いはエネルギーですから、表面うまく行っているように見えても、いつか破綻を来すという事態が起こってきたりします。

                     これに対し、動物は言葉でなく、鳴き声や吠え声に、喜びや怒り、悲しみの波動を乗せます。その最たるものがイルカやクジラたちのように感じます。高度に発達した知能を持ちながらも、鳴き声に何とも言えない優しい波動を感じさせます。僕の知人に「イルカの学校」を主催されている岩重慶一さんと言われる方がおられます。この方は、不定期ですが、子供たちを御蔵島で野生のイルカと遊ばせるということをされています。この岩重さんの体験ですが、イルカの発するクリック音(超音波)を正面から受けたことがあるそうです。そのときは、水中めがねがビリビリ震えたかと思うと、お腹のあたりがカーッと温かくなり、次には何とも言えない充足感に包まれ、胎児に戻ったかのような安心感に包まれたと言います。

                     

                    イルカがエコロケーションのために発する超音波、その時に発する音をクリック音と言います(ドルフィンファームの案内書から転載) 。

                     

                     クリック音というのは、イルカがエコロケーション(反響定位と訳され、つまり超優秀なソナーのようなものです)のために超音波を発しますが、その時に出す音のことです。イルカの目を見てみると身体の両サイドに付いていて前を見ることが出来ないのが分かります。しかも暗い海の中で、前方のものを確認する方法がエコロケーションということです。人間がイルカの出す超音波の直撃を受けたとき、なぜ、このような現象が起こるのか、僕にはその原因を説明できるような知識を持ち合わせません。

                     これ以外にも、須磨水族館と京都大学が共同で行ったテストでは、これも理由はわかりませんが、イルカの画像を見た被験者の脳波は、多の動物の画像を見た、あるいは何の画像も見なかった被験者より、情緒の安定度が非常に高くなっているというテスト結果があります。アニマルケアという言葉がありますが、イルカは、犬や猫など、多の動物と比べ、ダントツにケア度が高いと言われています。

                     誤解しないでください。だからといって、イルカは人間のケアのために存在している訳ではないのです。

                     ただ近年、イルカやクジラが人間と接触する機会が増えていることは事実です。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンをザトウクジラが救った話、網に絡まったイルカ、クジラを人間が網を切って助けた話、そのほかネットを検索すれば、たくさんの事例がこれでもかと言うほどヒットしてきます。

                     

                    「ドルフィンファーム」で配られている手作りの案内書の一部

                     

                     前置きがずいぶんと長くなってしまいました。

                     さてと、この写真は、ドルフィンファームで、スイムコースに参加した人に配られる手作りの案内書の一部です。所属するイルカさんたちが、その性格を表す一言ともに紹介されています。僕の姪っ子がドルフィン・スイム(イルカと泳ぐプログラム)に参加し、もらってきたものです。それを、また僕が借り受けたという次第です。

                     この紹介ページを使って、僕の実験がスタートしました。まだ見ぬイルカさんと思いを通じ合えるのかという実験です。まずターゲットとなる特定の一頭を選びます。選ぶ根拠はありません。若い頃、ミヒャエル・エンデという作家にのめり込んだことがあります。彼の作品の中でも特に好きだったのが「モモ」。そこで選んだのが「もも」というイルカです。写真の下には「性格:食いしん坊、頑張り屋」さんとあります。

                    「もも」の写真を携帯に取り込み、ことあるごとに開いては、その「もも」の写真に心の中で語りかけました。「こんにちわ」にはじまり、自己紹介をしてみたり、「今度、会いに行きますので、よろしく」だったり、写真を開かなくても、「もも」と、ただ思ってみたり、そんな他愛もない繰り返しを2週間近くもやったでしょうか。

                     そうする一方で、スイミングスクールの個人レッスンを申込み、イルカと自由自在に泳げるようになろうとしました。

                     ……が、これは失敗でした。水に対する恐怖心が抜けず、身体が硬くなり、あげくは頭がガンガン痛みだす始末。ともかく浮いて前へ進むぐらいはできるようになりましたが、イルカさんと自由自在に泳ぎ回るなんて、夢のまた夢のことです。

                     でも、めげてはいられません。泳げないイルカの学者さんだっているんだから……そう、自分に言い聞かせ、女房と二人、ドルフィンファームのスイムコースに予約を取った次第です。

                     

                     次回は、いよいよ「もも」との衝撃的な出会いのことや、「かえで」に助けられるという、忘れることのできないイルカさんたちとの体験を語ります。

                     

                    ももでーす!(みなみあわじ、じゃのひれの「ドルフィンファーム」にて)

                     

                    クジラ・イルカ紀行 vol.011 / 釧路沖のシャチ

                    2018.05.04 Friday

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                      右図は北海道釧路総合振興局商工労働観光課発行の小冊子「シャチが来る海」から転載

                       

                       新得へ行く途中のことです。私は、JR北海道の社内広報誌で、「さかまた組」が釧路沖のシャチ観測船に、はじめて一般市民の乗船を受け入れることを知りました。そこで大阪へ帰るなり、早速、受付の窓口になっているJTBと連絡を取り、スケジュールを検討し、11月5日の観測船に乗せていただくことになりました。

                       こうして10月初めの新得行きに引き続き、11月4日、再度、北海道を訪れることになった次第です。もちろん、北のイルカさんのその後の様子も気になり、釧路からの帰りには新得共働学舎へ立ち寄るよう計画していました。

                       さて、ここで話を進める前に、シャチ観測船ツアーを主催する「さかまた組」と、「釧路沖」の環境について少し勉強しておきましょう。

                       右上の写真は、参加者全員に配られた「シャチが来る海〜くしろ沖の魅力〜」というA5判20ページの小冊子です。これが釧路沖の魅力と特異性について非常に分かりやすく説明してくれています。そこで、これによって釧路沖について予備知識を身につけておきましょう。

                       毎年9月下旬から11月上旬にかけて、釧路沖にはたくさんの海洋生物が姿を見せます。というのは、釧路沖の海底は、沖合15キロメートルあたりから急激に深い谷のようになっています。これを釧路海底谷(くしろかいていこく)と言うそうです。最も深いところで、水深は5000メートルにも達すると言います。

                       秋口になると、流れが変わった「寒流(親潮)」と「暖流(黒潮)」が、この海底谷でぶつかります。その結果、海水が湧き上がる湧昇流(ゆうしょうりゅう)が発生し、深い海底に生息していたプランクトンなどの豊富な栄養が、この湧昇流にのって海面近くまで昇ってくるというわけです。

                       このプランクトンを餌とする小魚が集まり、小魚を餌とするイルカやクジラや海鳥が集まり、そして、イルカやクジラを餌とするシャチがやってくるという次第です。

                       この時期、釧路沖は「食物連鎖」の一大舞台となるわけです。

                       この釧路沖を中心に、海洋環境や生態系に関する研究成果を一般に普及し、自然の貴重さを伝えることを目的に「さかまた組」が結成されました。「さかまた」とは、漁師が使う「シャチ」の別名だそうです。そして、今回2015年秋、この目的達成の一環として、「さかまた組」が、釧路沖の海洋生物と生態系を調査する観測船に、釧路市民をはじめ一般の乗船希望者を募ったということです。

                       

                      JR釧路駅/日没時の釧路川とホテル「La Vista 釧路川」

                       

                       さて私ですが、乗船の前日、2015年11月4日PM4:00、スーパーおおぞら5号で釧路駅に到着しました。

                       この日は、釧路港を見下ろすホテル「La Vista 釧路川」で一泊し、翌早朝の乗船に備えることにします。ここなら観測船が出船する港まで歩いて5分で行けるというわけです。

                       ホテルでチェックインを済ませ、夕食を兼ねて、明日の集合場所である「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」を下見に出かけることにしました。MOOで夕食を済ませたあと、河畔に出て、釧路へと帰ってくる漁船を眺めて時を過ごそうというわけです。

                       親爺が船乗りだった関係で、幼い頃から船に乗せられ、そのおかげでしょうか、船酔いというものを知りません。しかし、明日の海は荒れそうです。MOOで夕食をとっているとき、店のマスターと明日の天候について話しましたが、マスターも「明日は荒れそうだ」と同意見。最後には「船が出ればいいのだが……」と言葉を濁す始末です。

                       てきめんホテルに帰るなり、JTBの担当者から電話が入りました。明日は欠航の可能性もある、船が出るとしても時間が遅れそうなので、明日の朝は連絡するまで、ホテルで待機してほしいということです。

                       釧路まで来て、観測船にも乗れずに帰るなんて最悪です! 

                       そう思う尻から、今度は、船が出ても、かなりの揺れが予想され、「これが初めての船酔い」なんてことにならなければいいが……そんな不安まで湧き上がってきます。ホテルのフロントで聞いても「酔い止め」は置いていないということ。仕方なく、夜の釧路の町に出かけ薬局を探す始末です。

                       

                      ホテルの部屋から見るフィッシャーマンズワーフMOO/乗船準備を済ませ待機する私

                       

                       そんなこんなで、いろいろとありましたが、翌朝、予定より約1時間遅れで船が出ることになりました。

                       支度を済ませ、我ながら物々しい出で立ちと思いましたが、仕方がありません。ぎこちない足取りで集合場所へ向かいます。カメラを抱えた一般客やスタッフの人たちも既に集まっておられました。

                       さかまた組の代表・笹森琴絵さんから乗船時の注意事項や、釧路沖の生物について説明があります。

                       笹森さんは、室蘭市に住まいされ、さかまた組代表として、はたまた海洋生物調査員として、大学の非常勤講師をされたり、海洋生物の写真家として活躍しておられますが、かつては学校の教員をしておられたことがありました。それが交通事故が元で重い膵臓炎となり、教員生活を辞めざるを得なくなりました。そんなとき、室蘭沖のイルカの群れと遭遇し、以来、彼女の第二の人生がはじまったと言います。

                       動物好きの笹森さん、これ以降、室蘭沖のイルカガイドとなり、さらに海洋生物調査や環境教育など、海の専門家の道を進むことになるのです。

                       そうこうするうち、我々を釧路沖の海洋へと運んでくれる船が、知床を出船し釧路川河口へと入ってきました。

                       

                       

                       

                       いよいよ出船です。

                       予想どおり、風が強く、揺れはかなりなものです。高速走行しているときはいいのですが、速度を緩めたり停船したときは、手すりにしがみついていないと立っていられないほどです。そんなときもクルーの若い女性が、何に動じることもなく船首に仁王立ちしているのを見ると、妙に安心感が湧いてきます。彼女が船首に立っているだけで安心感があり、彼女の存在自体が、この船そのものにさえ感じられます。船主の娘さんだと聞いていますが、実に頼もしい女性です。

                       船首には彼女のほか、さかまた組のスタッフでしょうか、若い男性や女性が、長い竿の先にカメラを付け、これから現れる海洋生物の撮影の準備を進めています。

                       船の司令塔となる2階の操舵室には船長のほか笹森さんが詰め、船内放送で現れた動物の解説をしてくれています。ただ船の進行に伴い移っていく景色に目をとられているのと、船の揺れに自分をなじませるのに気を取られ、せっかくの解説の声も、なかなか頭には入ってきませんが……。

                       

                       まず目についたのは海鳥です。僕にはカモメやアホウドリとしか分かりませんでしたが、このほかにも「クロアシアホウドリ」や「コアホウドリ」「ウミネコ」「ミツユビカモメ」などが、この航海で観測されていました。

                       また荒れた海をものともせず、アザラシなのかオットセイなのか、愛嬌たっぷりにプカプカ浮かんでいる姿を見つけました。水族館で見るのとは違い、自然の中で、まるで見る人間を意識しているかのように愛嬌を振りまいてくれる姿は、一見の価値があります。

                      https://1drv.ms/v/s!AilYHjP2WaAkgs4DpGraNVfwA5q-7A

                       

                       シャチの群が遠望されました! 船が群れを目指しスピードをあげます。

                       シャッターを切る音、乗客の喚声、船全体が一つの思いに包まれたかのように、シャチの群にと集中していきます。

                       笹森さんのアナウンスが船内に響きます。

                       「普通は、こんなに簡単にシャチの群れを見られるとは思わないでください。一航海で、まったく逢えないこともありますし、遠くにブロー(潮吹き)しか見えないことだってあります。きょうはラッキーでした。」

                       シャチのポッド(群れ)と遭遇したこと、この体験については言葉が役に立ちません。その時に撮った写真を並べておくことにします。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       シャチとの遭遇の中で、もっとも印象的だったのは、子どもを守るように泳ぐシャチの家族の姿でした。

                       シャチは海のギャングのように言われています。たしかに、シャチのハンティングは、狡猾と言えるほどに巧みでチームプレーに長けています。子連れのクジラを狙い、親子を分離させた上で、子クジラの両サイドをかため、上からもう一匹のシャチがのしかかるようにして子クジラを窒息死させる、そんな様子をテレビで見たりすると、シャチが狡猾な悪者のように思われてしまいます。

                       しかし反面、家族思いということでは、シャチの右に出る者はいないでしょう。クジラの仲間の中で、一夫一婦制で最後まで添い遂げるのはシャチだけです。シャチは、仲間の痛みを共有できる存在とも言われます。

                       映画オルカ(1977)では、シャチを「本能で行動する獰猛な野生動物」ではなく、家族愛にあふれ、妻を人間に殺されたシャチが、その人間に復讐するという設定になっていました。

                       またその後1993年に作られた「フリーウイリー」では、母親に捨てられた少年と、家族から引き離されたシャチが心を通わせるというストーリーになっていました。

                       「フリーウイリー」映画化に当たって、主役のウイリーを演じたのはメキシコの水族館に所属する「ケイコ」というオスのシャチでしたが、映画が公開されるや、世界中の子どもたちから、「ケイコを海に返して!」という運動が起こりました。撮影終了後、狭い水槽の中で、皮膚病にかかり苦しむケイコの姿を、世界中の子どもたちが知ってしまったためです。

                       といって、そのまま海に返しては死ぬしかありません。野生のイルカやシャチは水族館に連れてこられても、死んだエサは食べません。まず最初にするトレーニングは、人間があたえる死んだエサを食べられるようにすることです。こうして訓練されたイルカやシャチは、今度は自分でエサを採れなくなってしまいます。イルカやシャチは、水分をエサから採るため、エサを食べないと脱水症状になって死んでしまうのです。

                       ケイコのために巨大なプールが用意され、ここで皮膚病を治療し、エサを自分で採れるようにして海へ返すのです。子どもたちの声が一頭のシャチを救うという奇跡が、今度は映画の中ではなく、実社会の中で起こりました。

                       こうしてケイコは、世界で最も有名なシャチになりました。ただ結末を言うと、ケイコは野生の群れに入れず、何度も人間のもとに帰ってきました。それでも、あきらめず野生へ戻そうとする人たち。結局、ケイコは2003年12月12日、急性肺炎にかかり、野生にも戻れず、人間のもとへもかえってこれず、ノルウェーの海で命を落としました。ケイコの遺骸は海岸に引き上げられて埋められ、ノルウェーの子供たちの手で葬られたと聞いています。

                       こんなことを考えると、イルカやシャチを水族館やレジャー施設に置くこと自体、人間の奢りのように感じてしまいます。かといって一度人間のもとに置いたイルカやシャチを、野性に返れないと分かっていながら無責任に海へ返してしまうのもどうかと思います。

                       人間は「食物連鎖」の輪から飛び出し、今や自然の管理者になった気でいます。でも人間の関わった自然は、いつか歪みを見せ、崩壊へと転がっていくのではないでしょうか。

                       本当に救うべきは、自然や野生動物ではなく、文明という袋小路にはまり込んだ自分たちではないでしょうか?

                       

                       

                       野生のシャチとの遭遇、その感動の後に、自然に対しての後ろめたさが襲ってきました。

                       新得の共働学舎へと向かう車中、そんなことを考えており、列車を降りてからも、共働学舎へ向かう足どりも重くなりがちです。

                       途中、北のイルカさんに到着した旨、電話を入れました。

                       まもなくして学舎の入り口あたりにきた時です。向こうから北のイルカさんが、笑顔いっぱいで走ってきます。そして差し出されたクッキー。自分で焼いたのだと言います。

                       僕は焼き菓子があまり好きではないのですが、あのクッキーの美味しかったこと。

                       イルカさんの笑顔とクッキーの味が忘れられません。

                       

                       次回は、僕が勝手に友人と決めてしまった、レジャー施設(南あわじ・じゃのひれ)のイルカさんたち。かえでちゃん、さくらちゃん、それにももちゃんを紹介します。