かつらぎ取材日記/植田定信さんと大和鉄道100周年 その2

2018.10.15 Monday

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    はしお元気村で見せていただいた作りかけの状態(左)/完成すると「銭形平次捕物控」の平次に住む長屋に(右)

     

     上の写真(左側)は、はしお元気村にはじめて植田定信さんを訪問したとき、「箸尾駅」のミニチュアとは別に展示されていたものです。江戸時代の長屋を復元しようというものですが、その制作途中のミニチュアです。
     実は、このミニチュアの完成した姿と阪急百貨店(大阪梅田)で出会うことになりました。というのは、阪急百貨店では毎年「ドールハウスフェア」が開催されており、2018年は「ドールハウス名作劇場」として、映画の名場面をドールハウスで再現するという試みが公開されました。「海底二万哩」や「レ・ミゼラブル」「雨に唄えば」等々、おなじみの映画のワンシーンがドールハウスとして再現されており、なかなか見応えのある楽しい催しでしたが、その中に我が植田定信さんの「銭形平次捕物控」が堂々と展示されていたのです。

     見れば「はしお元気村」で出会った、制作途中の長屋のミニチュアです。
     そのときは、完成した姿はどうなるのか教えてもらえなかったのですが、

    「なるほど、これを造っておられたのか」と一人で合点し、ほくそ笑んでおりました。

     この日、植田さんはというと、会場の一角で「ドールハウス体験レッスン」を指導されており、「かつらぎ探検ガイド」のスタッフも、モップづくりに挑戦させてもらった次第です。

     

     ドールハウスフェアが開催されたのが9月12日〜24日、それとオーバーラップするように、我が広陵町で9月22日(土)と23日(日)の両日、「広陵かぐや姫まつり」が開催されました。


     初日9月22日は、午後1時からスタートする予定ですが、朝からすごい雨。

    「大和鉄道100周年記念フェスタ」は台風にたたられ中止、今回「かぐや姫まつり」も豪雨で中止か……とヤキモキしましたが、幸いにも昼前には雨が上がり青空が広がってきました。

     

    雨は上がったものの会場は水たまりだらけ、土砂を運んでの整地作業が続く。

     

     しかし会場の竹取公園は水浸し状態。設営されたテントの間の地面はぬかるんで長靴が要りそうな状態。スタッフの人たちが、そのぬかるんだ地面に土砂を運び込んで修復していきます。開始まで2時間、広陵町役場スタッフの方々の必死の努力で、水浸しだった会場が整地されていき、めでたく予定通り開催されることとなりました。


     ところで「大和鉄道100周年記念」のテントはどうなっているでしょう?
     広陵町立図書館は、この二日間は閉館され、会場の資材や展示物の倉庫代わりに使われます。ここから必要な設備が運び出されますが、「箸尾駅」のジオラマも、「まち調べ」のパネルも、ここからスタッフの人たちの手で運び込まれてきました。

     

    倉庫となった広陵町立図書館から次々と展示品が運び出されてくる。
    設営中、隣のテントのおばさんも見学にやってきて写真を撮っていく。


     設営の風景を撮影し終えて、しばらくして、再び「大和鉄道」のテントを訪れてみると、子供たちがジオラマと、そこを走るミニSLに見入っています。設営の時の真剣なまなざしとは打って変わって、植田さんの楽しさそうな表情が印象的でした。

     

    大和鉄道ジオラマは子供たちの人気の的


     植田さんと話し込んでいると、意外な人の訪問を受けました。
     フェースブック「御所ガール」の人気者、御所市役所商工観光課の宮橋さんです。
     宮橋さんには、御所の取材ではお世話になりっぱなしです。
    「広陵町まで取材ですか?」
    「いや、お誘いいただいて御所市も出展してるんよ。」
     たしかに御所市の展示用テントがありましたので、次の取材先の「油長酒造」さんの話を聞き込み、いったん竹取公園を後にしました。

     

    ドールハウス作家・植田定信さんと、御所市役所商工観光課/御所ボーイ・宮橋秀之さんの初対談


     夜は、広陵金明太鼓の迫力ある演奏を聴き、締めくくりの花火を鑑賞して一日が終わりました。

     紆余曲折はあったものの、「大和鉄道100周年記念行事と植田定信さんの紹介」、これにて一件落着とさせていただきます。

     最後に、植田さんの「箸尾駅」以外の作品および、そのプロフィールを紹介させていただきます。

     

     

    広陵町の「そらみる」に展示されてある植田定信さんの作品

     

    植田定信さんが著述に加わった出版物「ドールハウス名作劇場」「ミニチュア探偵物語」

     

    ◇植田定信さんプロフィール

     工房名/シック・スカート(クラフト工房シックパパ)

     1962年 奈良県に生まれる。

     2011年神戸新聞ジオラマ教室にて吉岡和哉氏に師事。

     2012年全国JMC模型コンテスト「サポーターズ大賞」受賞。

     2013年浜松ジオラマグランプリ「山田卓司賞」受賞。名古屋モノづくりフェスタ「最優秀賞」受賞。

     2015年モデラーズフェスティバル実行委員長就任。

    かつらぎ取材日記/植田定信さんと大和鉄道100周年 その1

    2018.10.06 Saturday

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       大和鉄道というのをご存じでしょうか?
       その変遷をたどっていると話しが長くなるので端折(はしょ)らせていただきますが、要は奈良の北西部から中央部(新王子〜桜井)を走るローカル線で、元をたどると明治45年(1912年)7月14日、田原本鉄道株式会社として設立され、大正6年(1917年)1月に大和鉄道株式会社と社名変更されました。
       そして、その翌1918年(大正7年)には、 新王寺〜田原本(現在の西田原本)間が開業され、今年で100周年を迎えるという次第です。

       

      大和鉄道100周年を記念して復刻塗装列車第2弾のダークグリーン塗装車両が運行


       全盛期には、新王寺から桜井間の17.6kmを鉄路でつなぎ、その駅数も12駅を数えていたのですが、昭和36年(1961年)には信貴山鉄道に吸収され、その2年後には田原本〜桜井町間が廃線となり、昭和39年には近畿日本鉄道株式会社に吸収され、近鉄田原本線として現在に至っています。
       さて、その100周年記念行事が、2018年7月28日 〜29日にかけて、この広陵町でも箸尾駅を中心に、教行寺や旧商店街地域一帯で盛大に開かれることになっていたのです。

       

       ところで、この箸尾駅ですが、現行区間(近鉄田原本線)の「新王寺駅」から「西田原本駅」までのちょうど中間点に位置しています。
       「新王寺駅 - 大輪田駅 - 池部駅 - 箸尾駅 - 但馬駅 - 黒田駅 - 西田原本駅」、こんな感じです。このため「箸尾駅」周辺は、今でこそ落ち着いた町並みに変わっていますが、一昔前は、駅前の商店街を中心に映画館あり、写真館ありと、随分と活気を帯びた町並みだったようです。

       右図は、100周年記念にあわせ、広陵北小学校児童と、畿央大学の有志学生諸君の「まち調べ」のパネルですが、これによると、駅を出て箸尾商店街へ入ったところに「箸尾劇場」という映画館があったようです。この劇場、屋根がトタン張りで、雨の日は「雨の音で映画の音が聞こえなかった」とか、なんとも興味深い記事が紹介されています。

       このほかにも線路をはがして鉄砲に利用した話しや、最初に導入された車両が「ボールドウイン社製の1001蒸気機関車」だったこと、その蒸気機関車から電車運転に切り替えられたのが、戦争が終わって3年後の昭和23年6月25日だったこと等々、なかなか興味深くきめ細かな調査がおこなわれています。

       そして箸尾の町発展の中心となる「箸尾駅」そのものをミニチュアで再現しようと挑戦したのが、ドールハウス作家の植田定信さんです。100年の間には資料も散逸し、古老の話を元に再現するしかないのですが、その復元作業が、広陵町「はしお元気村」の会議室で、約半年にわたっておこなわれました。 

       

      現在の箸尾駅(無人駅舎)とホーム
      大和鉄道100周年の舞台となるはずだった箸尾駅前の商店街と教行寺

       

       こうしてやっと、そのお披露目の日が来るというのに、なんと台風12号が異例の進路をとり近畿地方を直撃したのです。

       100周年記念行事は、「延期」でなく「中止」の決定がされ、植田さんの苦心の復元結果も、広陵北小学校児童と畿央大学学生諸君の「まち調べ」も、無念にも公開できないことになってしまいました。

       ところがです。9月22日、23日の両日、恒例の「広陵かぐや姫まつり」が竹取公園で開催されましたが、ここで「大和鉄道100周年」のテントが設けられ、ようやく、これまでの苦労が日の目を見ることになったのです。

       

       そればかりではありません。「かつらぎ探検ガイド」取材班が追いかけてきた、植田定信さんの「箸尾駅のミニチュア復元」の模様や、彼とその仕事についても、これでやっと紹介できることになったという次第です。

       

      ◎2018年6月13日(はじめての作業現場訪問)
       話を戻しましょう。

       2018年の6月13日、この日、広陵町の広報で、「大和鉄道百周年記念行事」や「箸尾駅のミニチュア復元」のことを知り、「はしお元気村」で作業中の植田定信さんのもとを、はじめて訪問しました。
       はしお元気村は、広陵町が運営する会館施設で、お風呂やリラクゼーション室も併設され、住民の憩いの場となっていますが、その第1会議室で「箸尾駅のミニチュア復元」の作業がおこなわれていました。

       正面入り口を入ったホール正面には「大和鉄道のこと、箸尾鉄道のこと教えてください!」というパネルとともに、植田さんのドールハウス作家としての作品「お好み焼きのさとちゃん」と「小学校の校舎入り口」のミニチュアが展示されていました。

       まずはその精密さに舌を巻くことに……。

      「ツバメがいます。探してください」とありますので、探してみると軒下にツバメの巣が作られ、3匹の赤ちゃんツバメが口を開けてお母さんの帰りを待っています。ツバメばかりか、こちらまで、その精巧さに開いた口がふさがりませんでした。

       目的の第一会議室に入ると、中央のテーブルいっぱいに線路が敷かれていますが、駅舎はまだ作成途中という感じでした。

       テーブルの上のレールには、あの1001型と同タイプの蒸気機関車(ミニチュア)が走っています。

       

       

       

       ミニSLやミニチュアに見とれている場合ではありません。肝心の植田さんはどこなんでしょう。

       ふと横手に目をやると、こちらの反応を楽しむかのように微笑んでいるハンチング姿のお兄さんがいました。

       これが植田定信さんでした。

       

      駅舎の部分は仕上げを待つばかり、宿直室もつくられ、古老の聞き書きが次第に形となっていく。

       

       お話をお聞きすると、植田さんは、もともとはお肉屋さんだったと言います。

       「お肉屋さん」と「ドールハウス」…………? どうもしっくりと結びつきません。

       そんな思いを察したのか、植田さんがドールハウスをはじめたいきさつを話してくれました。

        ◇

       地方に残る民話や言い伝えを「ドールハウス+ジオラマ」で再現したいと夢を
      語る植田定信さん。

       桐生さんはどうか知りませんが、普通の人は、仕事のストレス発散とかで、お酒を飲んだり、パチンコいったりしますよね。でも、僕はお酒がダメだし、パチンコ行っても、ちっともストレス解消にならないし、そこで、元来、ものづくりが好きなもので、プラモデルへ走りました。やってるうちに、よくプラモデルを買いにいく店の店長さんが、僕の作品を見て、『一度、コンテストに出したら』と声をかけてくれたんです。

       では、というので、早速に応募したらこれが優勝してしまった。優勝するって認められるってことでしょう。これがうれしくてうれしくて、ストレス解消どころか、どんどんその世界にのめり込んでいく。そのうち、プラモデルではもの足らず、プラモデルに地面や背景を合わせてつくるジオラマへと進んでいきました。

       これは楽しい……しかし、これにも飽きちゃって、もっと楽しいものはないかと行き着いたのが「ドールハウス」というわけです。プラモは最初から形がありますよね。それより一(いち)から木を削って自由な形を作り出す、このほうが面白いわけです。

       ただドールハウスというのは、部屋の中を作るんですが、僕はもともとジオラマをやっていたから「外」も作れるんです。だから僕のつくるものは「ドールハウス」+「ジオラマ」というわけです。

       今回の箸尾駅を再現する仕事は、資料が、なんにも残ってないんです。当時を知るお年寄りが見取り図のようなメモを描いてくれましたが、この紙切れと、聞き取りだけが頼りです。

       

       

      2018年7月24日(二回目の作業現場訪問)

       今回は二回目の現場訪問ですが、駅舎全体が形をなし、その精巧さに唖然としてしまいました。前回、古老の記憶とメモだけを頼りに「箸尾駅」のミニチュア再現に取り組んでいると聞いていましたが、それにしては実にリアルに再現されています。当時のポスターから、自販機の形、何から何まで調べて形を組み立てていく。ドールハウス作家というより、歴史考証に取り組む学者の仕事+職人技、そんな感じを受けました。

       以下に、その精緻な仕事結果を写真で紹介し、この稿を閉じることに致します。

       

       

      全体が姿を現した箸尾駅のミニチュア

       

      ホームを飾るポスターや看板類がなつかしい。

       

       次回は、いよいよ「広陵かぐや姫まつり」でお披露目される「大和鉄道100周年」と「箸尾駅ミニチュア」の公開模様をレポートさせていただきます。

      かつらぎ取材日記/かぐや姫ミステリー

      2018.09.29 Saturday

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        広陵町は箸尾元気村に造られた「かぐや姫」の像。里中満智子さんの画をもとに造られていますが、なぜかエキゾチックに感じられます。

         

        かぐや姫のお話はみんなが知っています。その元となった「竹取物語」についても知らぬ人はいないでしょう。ところが、では「かぐや姫のモデルは?」とか「何のために書かれたの」ということになると、諸説入りみだれて、これぞという決定打がありません。暗に藤原氏の専横を批判するために書かれたとも、道徳的な啓蒙書とも言われ、「香久山」と「かぐや姫」を結びつけ、天照大神との関連を匂わせたり、かぐや姫の前世譚まで登場し、賑々しいことこのうえもありません。
        藤原氏批判の書ととらえ、「光明皇后(光明子)」や「県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)」の姿を浮かび上がらせ、「かぐや姫」ばかりか「中将姫」のお話も、当時の女性たちの悲劇を反映していると説く「関裕二説」には説得力があります。
        しかし、ここでは、ことの真偽を云々するのではなく、もっとも突拍子もないお話しを一つ紹介させていただきたいと思います。
        「かぐや姫のモデルはペルシャの姫君だった!」
        これが本当に根拠のない絵空事なのか、あり得る話なのか、読者に「あんがい否定できない話かも?!」、そこまで思っていただければよいのですが……判断は読者にお任せするしかありません。

         

        広陵町三吉にある讃岐神社の境内

         

        さて僕の仕事場ですが、そこは「自遊空間ゼロ」という名称で、子どもと親のフリースペースだったり、僕の気に入った「本」を編集するアトリエだったりするのですが、この事務所の前に「竹取公園」という大きな公園があります。公園ばかりか、裏手には「讃岐神社」までがあり、地名まで「広陵町三吉」と呼ばれています。「三吉」は今では「ミツヨシ」と発音しますが、その昔は「散吉」と書いて「サンキ」とか「サルキ」と呼ばれていました。ご想像の通り「サンキ」や「サルキ」は「讃岐」の転訛であり、「讃岐神社」があるのも四国の「讃岐氏」がこの地に移り住み、飛鳥の朝廷に竹を献上していた、そこから「竹取物語」が生まれたということになります。
        「竹取物語」の舞台となったと言われる場所は日本に数多くありますが、登場人物としてあげられる五人の貴公子、彼らは「壬申の乱」前後を生きた実在の人物であり、その彼らが「かぐや姫」のもとに通っていたとなると、地理的にも広陵町が最有力候補に掲げられる所以であります。
        ところがです。
        散吉神社の由来とかぐや姫について、最近、とんでもない異説を唱える出版物と出会いました。この出版物の中から、我が広陵町と関わる、最も気になる一文を以下に転載いたします。

         

        「およそ三百年前、飛鳥時代のことである。大和国のこの社(やしろ)の辺りにトカラから来たという人々が住んでいた。そこに、ある日突然、どこからとも知れず美しいトカラ人の娘が住むようになったという。その美しさは、今まで誰も見たことがないほど異様で、まるで伝説の天女が舞い降りたかのようであった。しかも天女の伝説のように、トカラ人は徐々に豊かになっていった。その異様さの評判を目の当たりにした隣村百済に住む大将兄弟(大伴氏か?)が、娘のあまりの美しさと異形に、宮中参内の手配をしてしまった。異形は神のお印であり、めでたいことである。ところが参内の前日、娘は急死してしまった。大将さしまわしの一行が迎えに来ると、家人は、娘は死んだと言う。が、遺体もない。瑞祥の天覧は、死体でもよいのだが、家の主は、娘は天に帰ったと空を指すばかりである。命令を受けていた迎えの使者は、せっぱつまり、家主であるトカラ人の翁と、止めに入ったもう一人を斬ってしまった。そして、その年より天変地異が起こり始め、三年後、大将兄弟が相次いで亡くなるまで続いた。人々は、口々に祟りだと言い合い、畏れて、祠を建て、この二人のトカラ人の御霊をご祭神として祀った。以後、神社は村人により守られ、国からは幣帛を受けている。ご祭神の神階は、二柱とも従五位下である。」(孫崎紀子著「かぐや姫誕生の謎―渡来の王女と道真の祟り―」より転載)

         

        これは菅原道真の孫にあたる菅原文時が、内記の時代、全国の五畿七道の神社およびその祭神について調べ、その位階や訛りをただす仕事をしていたときに、散吉(サルキ)神社から寄せられた資料なのだと言います。
        ここでは「散吉」は「サンキ」ではなく「サルキ」と発音されていたようです。
        これがどこから出た資料なのか詳らかではありませんが、トカラ人というと、確かに日本書紀に記載があります。まずは、その訳文を抜き出してみましょう。

         

        近鉄飛鳥駅前の須彌山石(レプリカ)

         

        ◎孝徳天皇の白雉五年(654年)四月の条
        「吐火羅(トカラ)国の男二人、女二人、舎衛女一人、風に遭い日向(宮崎)に流れ来たる。」
        次いで、斉明天皇の三年七月三日(657年)の条に
        「覩貨邏(トカラ)国の男二人、女四人、 筑紫(福岡)に漂泊す。彼らは初め海見(あまみ)島に漂泊したという。すぐに駅馬を使って召す。」
        さらに「七月十五日 須彌山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西に造る。また、孟蘭盆会(うらぼんえ)を設ける。暮に覩貨邏(トカラ)人に饗(あえ)たまう。或本(あるほん)に云わく堕羅(たら)人という。」


        ◎斉明天皇五年(659年)三月十日には
        「吐火羅人(トカラびと)、妻の舎衛婦人と共に来る。
        斉明天皇六年(660年)七月十六日には
        覩貨邏人(トカラびと)乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)、 本土(もとのくに)に帰ることを欲して、送使を求めて請いていう、「願わくは、後に大国(やまと)の朝廷に仕えたい。このゆえに、妻を留めて私の意志を表明したい」と。

         

        ◎天武天皇四年(675)正月一日
        大学寮の諸学生、陰陽(おんよう)寮、外薬(とのくすり)寮および舎衛の女、 堕羅の女、百済(くだら)王善光(ぜんこう)、新羅(しらぎ)の仕丁(しちょう)等、薬および珍異な物などを捧げ進上する。

         

        654年に宮崎に漂白したトカラ人がどうなったかは記載がありませんが、ここで漂白した人たちが、再び船出し、657年に奄美に流れ着いたと考えることも出来ます。彼らは福岡へ呼び寄せられ、さらに飛鳥の朝廷まで旅をすることになります。
        飛鳥では、彼らを遇するため、飛鳥寺の西に須彌山(しゅみせん)の像を造ったと言います。今、近鉄電車で飛鳥の駅に降り立つと、この須彌山のレプリカに迎えられますが、多くの人が、その歴史的な背景については知ることがありません。
        またトカラ人を遇するに盂蘭盆会(うらぼんえ)を催したとあります。これはお盆の行事のことです。ところで日本では、先祖の霊がお盆に帰ってきて、それを迎え、送り出す行事がお盆となっていますが、本来、仏教にはこのような習慣はありません。たしかに「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)という仏教の経典はありますが、これは餓鬼道に堕ちた母親を、その子モクレン(ブッダの弟子)が供養して救うという話しです。毎年、定期的に帰ってくる祖先の霊を迎え、ともに過ごし送り出すという行事ではありません。これはゾロアスター教の行事で、日本に漂着したトカラ人がもたらし、飛鳥の朝廷も、彼らを遇するために、わざわざ孟蘭盆会を設けたということになるのです。

         

        トカラ人の顔を写したのではないかと言われる人面石(左が本物で右はレプリカですが、噴水として使用されていたのが分かります)


        同じように、お水取りの行事も、仏教の行事でなく、ゾロアスターに起源を発し、奈良時代もしくは飛鳥時代に日本に伝えられたものと思われます。
        では、日本に漂着した、このゾロアスター教を信奉する「トカラ人」の正体は?ということになるのですが、当時の世界状況から考え、同じ頃に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族と考えるのが妥当ということになっています。
        アジアとヨーロッパの接点とも言える地域、中央アジア、古くは「バクトリア」とも「トハリスタン(吐火羅、覩貨邏)」とも呼ばれ、そこはペルシャ人とスキタイ人(遊牧騎馬民族)によって共同統治された地域でした。それが7世紀に入って、アラビア半島に起こったイスラム勢力によって滅ぼされることになります。その際、故国復興を願い逃亡した王族が中国や日本にもやってきたというのです。この辺の考証は繁雑になりますので、興味のある方は調べていただくとして、そのトカラ人が住まいしたのが、なんと、我が事務所のある広陵町の三吉だというのです。
        日本書紀では、このトカラの王族は、失われた王国再建を目指し、660年7月に日本を離れることになりますが、その際、妻や娘、その付き人たちを「将来、大和朝廷に仕えたいので、その証として」残していくということになるのです。
        トカラの王妃は、その娘とともに朝廷に人質として残り、他のトカラ人たちが暮らしたのが、「サルキ」、つまり「散吉」(今の三吉)となるというのです。
        この娘も十五才の成人を迎えるまでは、母とともに朝廷に残っていたのですが、成人してからは母から引き離され、「サルキ(散吉)」へ移されることになります。
        ここでいよいよ「かぐや姫」の登場となるわけです。
        「サルキ」の村に突然、エキゾチックな美貌の娘が現れたのです。この噂を聞きつけた大伴氏が、彼女を奇瑞として朝廷に参内させようとしますが、娘が早く亡くなったため、願いを果たせず、怒りにまかせて、世話をしていた付き人の老夫婦を斬り殺してしまいました。以来、さまざまな天変地異が続き、関わった大伴兄弟が亡くなるまで、この異変は続いたというのです。
        村では、異国の人の祟りであると畏れ、その霊を鎮めるため出来たのが「サルキ(散吉)神社」だということになります。
        孫崎紀子説は、このお話を元に、菅原道真の孫、菅原文時が、このかぐや姫の物語を生み出したのだと言います。文時は、神社の名前こそ「讃岐神社」としたものの、物語に登場する翁(おきな)の名を「さるきのみやっこ」として、「さるき」の音を後世に残したというのです。
        この説が成立するためには、菅原の文時が見たという「サルキ神社」の由緒書きが存在しなければなりません。今、著者の孫崎紀子さんに手紙で、その辺の経緯を問い合わせしておりますが、はたして手紙が著者の元へ届くのかどうか、また届いたとしてお返事をいただけるのかどうか、現時点では定かではありません。
        言えるとすれば、この時代に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族が日本の飛鳥までやってきたようだということ、その王族は、日本を離れるに際し、その妻と娘を日本に残していったこと、これだけは、ほぼ間違いなく言えることだと思います。
        母親は、人質の身として亡くなりますが、残された娘がどんな人生を歩んだか、今となっては知るよしもありませんが、そこから「かぐや姫」のモデルではという話も起こってきたということになります。と同時に、このペルシャのお姫様が、大津皇子の妃、山辺皇女(やまのべのひめみこ)ではないかという説(小林惠子著「西域から来た皇女」)まで起こってくるのです。
        もし読者が「広陵町立図書館」や「竹取公園」に来られる機会があれば、ぜひ、今から1300年以上も前、はるばる極東の地を目指し、その地で亡くなっていった人たちに心を向けてみてください。

         

        竹取公園に隣接してある広陵町立図書館

         

        ※このブログを書き終えて気づいたのですが、飛鳥駅前の須弥山石(レプリカ)の最頂部に描かれた女性の顔(菩薩だと思うのですが)と、我が町広陵町のかぐや姫像(原画は里中満智子)の顔が非常によく似ているのです。偶然だとは思うのですが、おもしろいので画像を追加しておきます。

         

        かつらぎ取材日記/梅乃宿酒造の挑戦

        2018.08.24 Friday

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          樹齢300年の梅の古木。春になるとこの古木にウグイスたちが集うことから「梅乃宿」の社名が起こったという。

           

           葛城市に「梅乃宿」という酒蔵があります。僕が政府刊行物大阪SSに勤務していた頃、近くに「むかし料理 割烹 今昔」という飲み屋さんがありました。そこの酒匠であり女将さんが野村幸子さん(右写真)。僕の大の友人ですが、この「今昔」、ただの飲み屋ではありません。哲学の山折哲雄さん、作家の開高健さん、農学博士の中西喜次さん、天文学の加藤賢一さんと、そうそうたる顔ぶれが常連客という、知る人ぞ知る小さな居酒屋さんなのです。

           今では「今昔」も店をたたまれていますが、お互いがバリバリ頑張っている頃、僕が「肥後橋官報ビル」の空き室を使って、「五絃琵琶の催し」や「三線の催し」等々を、週末の金曜日、「夕べのサロン」として開催したことがあります。ここではメインの催しの合間に、中国茶やお酒の試飲などを楽しむという趣向もあって、結構人気があったものです。この試飲会に野村さんが、梅乃宿さんからの寄贈として、フィリップ・ハーパーさん(イギリス人)が作ったお酒を持ち込まれたことがあります。当時、ハーパーさんは「梅乃宿」の蔵人として働いていました。野村さんは「若いが良いお酒だ」と、この酒を集まった皆さんに紹介するとともに、利き酒の仕方を手ほどきされました。

           これが、僕が「梅乃宿」という酒蔵を知った最初です。30年ほど前のお話しですが、当時、イギリス人が酒造りなどというと、「イギリス人に日本酒の何が分かる!」と一笑に付されたものです。そんな時代に「蔵人」とはいえ、イギリス人に酒を造らせる「梅乃宿」って、どんな進歩的な酒蔵なんだろう? また、日本酒を世界に伝えたいと活動するフィリップ・ハーパーさんってどんな人なんだろう? そんな感想を持ったことがあります。

           そして今、定年退職後も、奈良で気ままに本作りをやっておりますが、その中に「かつらぎ探検ガイド」の企画があります。来年3月の出版を目指し、大阪芸大デザイン学科の有志の諸君や、葛城地区の市民グループ、それに中高生や社会人の若い人たちが協力してくださり、観光ガイドでは伝わらない葛城の魅力を探っていこうとするものです。そこで再浮上してきたのが、葛城の酒蔵「梅乃宿」の記憶です。

           調べてみると、ハーパーさんは京都北部の「木下酒造」の杜氏(酒造りの責任者)となって移っておられましたが、男性中心の酒造りの社会で、「梅乃宿」はトップから社員に至るまで、女性が活動の中心にいるように感じました。やはり「梅乃宿」は、今も伝統にとらわれず、新しい社会への適応を目指しチャレンジし続ける酒蔵のように感じました。

           そこで「梅乃宿」の女性社長 吉田佳代さんに、いきなりインタビューを申し込みましたが、なんと、たちまち快諾いただき、今回の取材となった次第です。

           以下に、吉田社長に取材させていただいたあらましを掲載させていただきます。

           

           

           梅乃宿酒造株式会社は、創業して126年目になると言います。

           一般の社会では「ずいぶん古い会社だねぇ」なんてことになるのですが、日本酒の世界では若い会社ということになるそうです。このため「いつも新参者の気持ちでやってきました」と、吉田佳代社長(右の写真)は言われます。

           社名の由来をお聞きすると、蔵の向かいの本宅庭に樹齢300年の梅の古木があり、毎年春になるとその木にウグイスがやってくることから、「梅乃宿」という名前がつけられたと言います。

           吉田社長が「お酒って冬にしかできないのはご存じですよね?」と問いかけられました。

          「えっ、知りませんでした !」と僕――。
          「日本酒は冬に造るものなんです、逆に言うと冬にしか造れないものなんです。」

           そこで、後日調べてみると、寒造りとは、最も酒造りに適しているといわれている12月〜翌年2月頃までの寒い季節に酒造りを行うことを言います。

           なぜこの季節が酒つくりに向いているかというと、寒いことで雑菌が繁殖しにくい時期であることが第一に上げられるようです。また良いお酒を造るために、低い温度で管理したいことも、寒い冬に造る理由の一つです。
           この寒造りは江戸時代に確立されたと言われ、計器類がない時代に杜氏をはじめとする蔵人は、発酵状態によって変わる香りや味、肌に感じる温度変化などを頼りに、とぎすまされた感覚によって把握し、複雑な酒造りに対応してきたということらしいのです。

           

           

          今は機械化され、電子制御される梅乃宿の製麹室。

           

          (吉田社長のお話に戻りましょう。)

           従ってお酒をどんな人たちが造っていたかというと、半年雇用、つまり地方の豪雪地帯のお百姓さんが、冬の間、出稼ぎで住み込んでお酒を造っていたんです。
           伝統的な杜氏(酒造りの技術的責任者)は、夏場は自分の村で農業を営んで、秋に刈り入れが終わると、杜氏は自分の村の若い者や、近隣で腕に覚えのある者に声をかけて、その冬のための、いわば酒造りチームを組織します。杜氏は彼らを秋に引率して蔵元へ連れていき、酒造りが終わる春まで、約半年間寝起きをともにして働くことになります。
           これが昔から日本酒を造っていた人たちの姿です。
           梅乃宿では、かつては但馬杜氏(兵庫県)、20年ほど前からは南部杜氏(岩手県)が、この酒造りを請け負ってくれていましたが、最近では杜氏の率いる酒造り集団が高齢化し、かといって、これまでの雇用形態では、若い人の参入も難しいという状況になってきました。若い人で専業農家をする人がいないこと、たとえあったとしても、半年間、奥さんや子どもと離れ、他人の家で住み込みで働く、こんな働き方は今の時代に合わないとなってきたのです。こうして酒造りの設備も販路もあるのに、作り手が高齢化でいなくなる、そんな状態になってきました。
           今から約20年前と言いますから、ちょうど21世紀に入るか入らない頃になるのでしょうか、冬場の半年雇用では人が集まらないため、この頃から年間雇用に切り替え、地元で人を採用するようにされたと言います。この人たちが、冬場にやってくる杜氏集団の人たちと一緒に働き技術の習得に励むようになった訳ですが、ここで困ったのが、冬場の酒造り以外の期間、余剰労働力をどうするかということです。
           そこで思いついたのが「梅酒」なんです。梅の実は、5月、6月、7月に実が採れますので、ちょうど酒造りの閑散期に「梅酒」が造れるということになったわけです。
           普通、「梅酒」は焼酎やホワイトリカーで漬けるんですが、酒蔵でやるんだから、同じ造るなら日本酒仕込みで梅酒を造ろうということになったわけです。
           最初の年は試しにタンク一本分を造りました。これがあっという間に売れ、翌年は思い切ってタンク2本分を造りました。これも、またあっという間に売れ、先代が「来年はタンク20本分造るんや」とムチャクチャを言い出したそうです。みんなの止める声も聞かず、3年目は「鶴の一声」で、梅の実も購入済みだからとタンク20本分の梅酒が造られることになりました。

           ちなみにタンク一本分がどれほどの量か、吉田社長に教えていただいたところでは、「梅乃宿」の梅酒タンクでは、タンク1本で梅酒の原酒が7,000リットル出来、これを製品にすると、1.8リットル換算で、約6,500本分になるそうです

           これが20本分のタンクとなると、1.8リットルの梅酒が130,000本分! となります。

           これって素人が見たって、何が何でも無茶苦茶な数字ですよね。
           ところがです! この年、全国的に梅酒の大ブームが起こったんです。ほかにも日本酒仕込みで梅酒を作っていたところはあったのですが、急激なブームでどこも在庫がない。梅酒造りは時期が限られており、しかも仕込みの期間が長いため、品切れしてしまうと品切れの期間も長くなってしまう。そんなとき、奈良の「梅乃宿」が大量に梅酒の在庫を持っているというので、一躍「梅乃宿」が注目を集めるようになったと言います。
           これに輪をかけたのが、漬け込んだあとの梅の実の再利用です。何十トンという大量の梅の実を廃棄するのがもったいないと、種を取り、すりつぶして一緒に入れてしまうことを考案しました。こうして「あらごし梅酒」が誕生しました。これが梅酒ブームに乗って更なる大ヒットを生み出したというわけです。
           梅酒をはじめた頃は、伝統的な清酒づくりの酒蔵が、家庭でもできる「梅酒」に手を出したというので、蔵仲間からは批判され、バカにもされてきたのですが、今では多くの酒蔵が梅酒造りに参入しているという現状です。

           

           

          「全国で、どれぐらいの酒蔵があるかご存じですか?」

           またまた吉田社長からの難問です。

           予習して来なかったことを後悔して、ガマの脂汗よろしくタラーリタラリ……。

           私と来た日には適当に答えるにも根拠がないと答えられないという困った性分。「葛城で6件だから、奈良全体では何件かなあ……」と、しどろもどろのありさま。

           見かねた社長が「全国で1700件もあるんですよ。かたやビールは大手4社で造っているんです。最近クラフトビールもありますが、99.9%ぐらいは、この4社で造っているんです」と助け船。

           このあと調べたところでは、全国にある酒蔵の数は、新潟の88件がトップで、奈良は31件あり、三重と並んで21番目ということになります。

           では社長の話に戻りましょう。

          「次に日本国内のアルコール消費量を100としたら、だいたい6〜7割がビール。これをほぼ4社で作っている。これに比べお酒は、日本の国酒と言われているんですが、7%を切って6・数%としか飲まれていないんです。それなのに日本の酒蔵はいまだに1700件あるんです。これも少なくなっての数字で、最盛期の江戸時代には1万件を超えていたんです。これから酒蔵の数はまだ減っていくでしょうが……。

           では、これから日本酒は伸びるのかというと、日本の人口は減少傾向で、文化レベルが上がれば上がるほど一人ひとりのアルコールを飲む量が減っていくという傾向にある。そこへ飲まれるアルコールの種類が増え、日本酒を選んでいただくパーセントが減っていく、いわば三重苦という状況の中で、日本国内の日本酒を見たとき伸びる要素は全くないというのが本当のところです。」

           そこで考えられるのが、海外へ日本酒をひろめていくという方向になる訳ですが、これについて吉田社長は次のような話をしてくれました。

          「いざ世界に目を向けてみると、和食がユネスコ無形文化遺産に認定されたことで、日本酒にとっては追い風になっています。その中で私たちは輸出に力を注いでおり、今、全体の売り上げの2割ぐらいが海外への輸出になっているんです。多いのは、香港、台湾、中国、アメリカで、ほぼこの4つのエリアで輸出の8割ぐらいを占めています。実は、この売り上げの2割が輸出で占めているという数字は、大手さんも含め、ほぼベスト5に入るという状態で、梅乃宿が日本酒の輸出という面で大成功していると言えるでしょう。」

           上の写真は、「新しい酒文化」を世界に拡げていこうとする「梅乃宿」さんの意気込みが感じられるパネル展示ですが、そこに一枚のレポート用紙が貼り付けられてありました。

           読みにくいと思いますので、その全文を以下に掲げ、このレポートの締めくくりにしたいと思います。

           挑戦状
           いま、日本酒が世界的な人気とはいえ、世界を舞台にワインに匹敵する存在になることは容易ではありません。

           しかし、私たちは挑戦します。
           世界中、どこでも日本酒が味わえることを目指したいのです。
           そのために大事なのは、前向きな姿勢。
           たとえば日本酒を飲む習慣のない国に降り立ったとき、
           「誰も飲んだことがないので日本酒の市場はない。売れるわけがない。」と思う人と、
           「日本酒の魅力が伝われば、市場は無限大だ。」と思う人。


            私たちはいつだって挑戦者。
            後者のような前向きな考え方をもって一歩を踏み出し世界に日本酒を提供していきたいと考えています。

           このあと、吉田社長自ら酒蔵を案内していただき、お酒造りの細かな興味深いお話をしていただきましたが、それはまた別の機会とさせていただきます。

           

          チャーミングな吉田社長に酒蔵を案内していただき、恐縮するやらうれしいやら、感謝です。

           

          製麹室(左上)とヤブタ式搾り機(左下)、右は麹菌です。

           

          梅乃宿の店舗部分です。奈良漬けが並んでいますが、清酒発祥の地は奈良で、酒を造った後の酒かすで漬けたのが奈良漬けというわけ。

           

          ※後日談になりますが、この「梅乃宿」取材直後数日して、我が「自遊空間ゼロ」で陶芸教室が開かれました。ここへイタリア人グループ4人の方が、突然ゲストで参加されることになったのです。ナポリの南東に隣接するポテンツァ在住の二組のカップルなのですが、この方々に、梅乃宿の原種「風香」を飲んでみていただきました。口々に「ボーノ」と喜んでいただきましたが、そのなかに一人、日本人の奥さんがおられ、彼女から貴重なお話を聞かせていただきました。

           ポテンツァはイタリアの南にある田舎町ですが、こんな田舎町でも3件の日本料理店があります。どの店も日本人の経営でなく、イタリア人の経営だったりインドネシアの人だったりで、名前だけの日本料理店のようですが、これらの店でも「日本酒」が置いてあります。ただ「日本酒」というだけで、どの銘柄とか何を飲まされているかは分かりません。ここポテンツァでは「和食」「日本酒」という名前だけがヒットしているという状態だと思います。

           このご夫婦は、今回は時間がなく帰られることになったが、酒蔵に興味があり、次回必ず来るので、その時は「梅乃宿」に連れて行ってほしいと頼まれた次第であります。

           

          ポテンツァから参加されたイタリア人グループに「梅乃宿」の原酒「風香」を楽しんでいただきました。

          かつらぎ取材日記/天覧相撲のはじまり

          2018.08.16 Thursday

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            香芝市「腰折田」伝承地に飾られる野見宿禰(のみのすくね) の画(京田信太良)

             

             (天皇来臨の関係で、当麻相撲館は、東西が逆になっています。)

            「天覧相撲」ってご存じでしょうか?

            「相撲」は「すもう」ですから、日本の国技なわけで、日本人なら子どもだって知ってますよね。では「天覧」とは、一体、なんでしょうか?

             これは天皇がご覧になっているという意味です。

            「東〜○○山、西〜△△海」っていう相撲の呼び出しにもあるように、相撲は東西戦になります。今では「東西」というと「関東」と「関西」と考えられがちですが、これは近世のお話しで、この「天覧相撲」がおこなわれた3世紀から4世紀の頃って、「東京」とか「江戸」とか、なかったわけです。では「東西」とは、どことどこ? となるわけですが……。

             ここでヒントになるのが天皇です。中国では「天子南面」と言って、「天子様」(日本では天皇)は南に面して存在するという考え方があります。そこで「天覧相撲」の場合、天皇は「北」に座して南で対戦する相撲をご覧になるという寸法です。そうすると「東」と「西」の取り組みになるわけです。

             これが後になると、天皇がいる場所が「北」となって、当麻(葛城市)の相撲館に見られるように、実際の東西とは逆になる場合もあるということです。

             これは当麻相撲館の小池館長から聞いた「相撲の東西」のお話です。これともう一つ大事な「東西」のお話しがあります。広陵町文化財保存センター・河上所長にお聞きした話ですが、当時(3〜4世紀)の奈良は、曽我川を挟んで東西に真っ二つに分かれていたというのです。

             東が「磐余(いわれ)」を中心にした大和朝廷発祥の地、西が大和朝廷にまつろわぬ人々の住む「葛城(かつらぎ)」という地です。「まつろわぬ」とは「従わない」とか「反抗している」というぐらいの意味で、こういった人々は大和朝廷側からは「土ぐも」と総称されていました。

             

            曽我川にかかる磐余橋から二上山を見ています。

             

             上の写真は曽我川にかかる磐余橋(いわればし)から二上山を見ていますが、古くは神武天皇が、この地で大和に敵対する「土ぐも」を如何に処理するかを、帰順したニギハヤヒと策を練ったと伝えられています。

             こういった当時の情勢を把握しておいた上で、日本初と言われた「天覧相撲」について考えてみましょう。これについては、葛城市にある「当麻相撲館 けはや座」の小池館長が非常に詳しいので、お話をお聞きしました。

             以下、小池館長(右の写真)のお話を要約しておきます。

              ◇

             まず対戦したのは、「当麻蹴速(たいまのけはや)」(葛城市当麻)と「野見宿禰(のみのすくね)」(桜井市出雲)の二人ですが、この名前については象徴的に使われているように思います。「宿禰(すくね)」という「名」は大和朝廷初期の役職名というか、天皇の配下の位を表す言葉です。当時、制定された「八色(やくさ)の姓(かばね)」のうち、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ3番目の位が「宿禰(すくね)」になるわけです。しかも「宿禰」は武人とか行政官を表す称号でもあるわけで、これから見ても、「野見宿禰」は、大和朝廷側の重要ポストにある人物と考えてよいでしょう。

             これに対し、「当麻蹴速」は、被征服豪族である「葛城氏」の一族で、力自慢で蹴り技が得意な無頼漢、そんな風に位置づけられています。

             つまり、この勝負、最初から「野見宿禰」が勝つことが決められているのです。

             日本書紀に書かれていることを思いっきり意訳すると、

             時は垂仁天皇の7月7日のこと、天皇は、かねがね「俺より強い者はいない」と力自慢を鼻にかける「当麻蹴速」が煩わしくてなりません。「誰か、こいつの鼻を叩き折る者はいないのか」ということで、出雲国の「野見宿禰」が「即日」呼ばれ、垂仁天皇の前で相撲を取ることになります。この頃は、相撲はスポーツというより「戦闘」つまりは殺し合いです。土がついたら負けということではなく、どちらかが死ぬか、動けなくなるまで戦うというものです。

             こうして筋書き通り、「当麻蹴速」はあばら骨を踏み折られ殺されてしまいました。勝者である「野見宿禰」は、葛城にある「蹴速」の土地を天皇から与えられることになります。それが今も香芝市に「腰折田(こしおれだ)」として語り伝えられていますし、「当麻蹴速」を悼んで建てられた「蹴速塚」も、葛城市の相撲館「けはや座」の近くに残されています。

             

            香芝市に残る「腰折田」伝承地。ここからの二上山の眺めは格別に美しい。

             

            葛城市の相撲館「けはや座」の近くに、今も残る「蹴速塚」

             

             では、東西の話しに戻って、この天覧相撲を眺めなおしてみましょう。

             日本初の天覧相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇7年の7月7日、おそらく3〜4世紀のことと考えられます。

             この頃、葛城はまだ大和朝廷に完全に服従しているとは考えられません。それが雄略天皇4年の日本書紀の記事(5世紀の半ば)では、葛城の神「一言主(ひとことぬし)」つまりは葛城氏そのものを指すわけですが、その「一言主」が雄略天皇の一行を曽我川まで見送ったというのです。このことは、葛城と大和朝廷の境界線が「曽我川」だということを物語ると同時に、雄略天皇が葛城氏の懐柔に成功したことをも物語っているのではないでしょうか。

             同じ頃、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっています。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那(みまな)に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻である稚媛(わかひめ)を自分の妃にしてしまったのです。

             その稚媛というのが葛城氏の娘でした。
             要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになり、同時に葛城の血の中に、天皇一族の血を残そうとしたことになります。

             つまり、これまでは、「大和」は「葛城」を抑え込むため、なりふり構わず策を弄しているように思えるのです。

             こう考えると、この天覧相撲、大和朝廷が、葛城氏の不穏な動きを封じ込めるための「見せしめ」だったような気がしてきます。つまり当麻蹴速は、葛城氏の中で、大和朝廷に抵抗する過激派のリーダーだったのでは……。

             想像をたくましくすれば、捕らえた蹴速を天覧相撲という公開の場所でやっつけてしまう。当時の相撲は、先ほども述べたように、スポーツではなく、戦闘そのものであり、相手が死ぬか動けなくなるまで続けられました。葛城氏の不穏分子を踏み殺すことで、大和朝廷の力を見せつける――天覧相撲とは、天皇臨席の公開処刑だったのではないでしょうか

             そこで、「野見宿禰」について見てみましょう。日本書紀では「出雲国」に「野見宿禰」という力自慢がおり、これを呼び寄せ「蹴速」をやっつけさせ、勝った報償に大和朝廷に召し抱えたと言っています。

             冒頭にも述べましたように、「宿禰」は「八色の姓(やくさのかばね)」という位階制度の上から三番目にあたる重要なポストです。いきなり相撲に勝ったからと言って手に入れられるようなものではありません。

             「野見宿禰」は、名前からして、もとより大和朝廷側の重要なポストにある人間だったと思われるのです。

             そう考えると、「出雲国」とは島根県の「出雲」でなく、大和朝廷の勢力圏である桜井市の「出雲」と考えるのが妥当です。書記にも「即時に召す」とあり、島根県では「即時」に呼び寄せることは不可能です。

             現に桜井市の「出雲」という地には、「十二柱神社」の敷地内に「野見宿禰」の墓と言われる五輪塔が残されています。もともとは、やはり「出雲」の「太田」というところにあったものが、明治に、この「十二柱神社」の境内に移されたということです。

             

            十二柱神社の境内には野見宿禰の墓と言われる五輪塔が移設されている。
            桜井市 相撲神社、すっかり緑に覆われている。

             

             さて、この稿を閉じるにあたって、「当麻蹴速」「野見宿禰」、この二人の決戦の場と思われる、桜井市の「相撲神社」を紹介しておきましょう。

             我が町、広陵町から自転車で1時間半、山辺の道から少し外れたところに「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)伝承地」の案内板があります。このあたりが垂仁天皇が宮を営んだ地と言われ、ここから自転車でさらに数分奥へ入ったところに、日本で最初に天覧相撲が開かれた場所「相撲神社」があります。

             穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の入り口近くにあって、祭神は「野見宿禰」、境内には新たに置かれたと思われる「力士像」と「勝利之聖 野見宿禰」の祈念碑が建てられています。

             ここで気になるのが、右の案内板。「国技発祥の地」ではじまる案内文はすべて無視していただいてかまいません。ただ「赤」のラインで囲まれた文字にだけ注目してください。「カタヤケシ」ゆかりの土俵において……

             では、この「カタヤケシ」とは一体、何のことでしょうか?

             当麻相撲館「けはや座」の小池館長に質問をぶつけてみました。

             館長の言うには、「カタヤ」というのは、相撲の土俵のことを言うそうです。「ケシ」は「消し」と考えてもいいのでは……。

             館長のお話を聞いて、つまりは「土俵でやっつけてしまえ」「土俵で殺しちゃえ」みたいなニュアンスにも取れる、そう思ってしまいました。やはり日本初の「天覧相撲」とは、天皇臨席の「公開処刑」! そんな印象を強くした次第です。

             なお、この考えは、相撲館「けはや座」の小池館長や、広陵町文化財保存センターの河上所長のお考えではなく、お話しをお聞きしているうちに浮かんできた編者の「白日夢」のようなものとお考えください。

             それはさておき、これ以降、7月7日が「相撲節会」という行事となり、全国の力自慢が奈良に集められることとなります。それは、ただ単なる「相撲大会」のようなお遊びでなく、大和朝廷の「軍事力強化」という一面をもっていました……。

             今で言えば「自衛官募集」、それも強制徴募みたいなものでしょうか。

             それはさておき、神武以来、大和朝廷に歯向かってきた葛城という地は、5世紀の雄略天皇以降、大和朝廷に組み込まれていったように感じます。

             

            纒向日代宮伝承地

             

            相撲神社横手の澱み 吸い込まれそうなほど緑がきれいでした。

             

            かつらぎ取材日記/関屋鉄道

            2018.08.14 Tuesday

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               香芝市内を関屋鉄道が走っているって?
               大和鉄道100周年記念の取材をしている時、こんな話しを耳にした。
               でも香芝市内に、そんな鉄道が走っているなんて聞いたことがなかった。
               この話を紹介してくれたのは、香芝市で子育て支援の活動をしているNPO法人「T-seed」の多田さん。詳しく聞いてみると、ミニSLを自宅の庭に走らせている人がいるというのだ。それが「関屋鉄道」という次第。調べてみると、サンケイ新聞をはじめ、読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」等々で紹介され、かなりの人気。これはぜひ「かつらぎ探検ガイド」に掲載したいと、まずは現地へ足を運んだ。
               あいにくご主人は不在だったが、奥様から名刺をいただき、後日、電話で取材の許可をいただいた。ただし取材は「運行日にお願いします」と言うことになり、8月の運行日はというと11日の祭日15:00〜17:00となる。このあと9月はお休みになり、次回は10月になるという。

               

              関屋鉄道/取材に先立って村本さんのお宅をまずは訪問させていただく


               

                 ウオルト・ディズニーのレイルロード・ストーリー(原著)

               本来なら、取材はT-seedの多田さんと香芝市在住の小学校六年生の西本君にお願いする予定だったが、T-seedの活動日と重なっていたり、サッカーの試合当日だったりで、とりあえず私が取材に行くこととなった。

               運行開始の1時間前に村本さん宅にお伺いし、準備を見学しながらお話しをお伺いすることに――。

                ◇
               村本順三さんがミニSLに関心を持った発端は、ウオルト・ディズニーだという。子どものころ、日曜日の夜の番組で「ディズニーランド」という1時間番組があったが、その中で、ディズニー氏が自宅の庭にミニSLを走らせているシーンがあった。そのシーンが村本少年の脳裏に深く刻まれてしまったのだという。
               調べてみると、ウオルト・ディズニー氏は大変な鉄道オタクだった。自宅の庭にミニSLを走らせるばかりか、そもそもディズニーランド自体も、アメリカの西部開拓時代の風景を再現し、そのなかを蒸気機関車や蒸気船が走るといった「交通博物館」のようなものとして構想されたという。
               ウォルト・ディズニーの夢は、ディズニーランド内を走るサンタフェ鉄道、後のディズニーランド鉄道として形となったが、そればかりか日本の少年の夢の中にまで根を下ろしてしまったようだ。
               ところで東京の銀座に「天賞堂」という鉄道模型の店がある。本来は宝石・時計商だったが、1949年に、当時の社長・新本秀雄さんの趣味が高じて鉄道模型の販売をはじめた。従来、倉庫に使っていた建物の2階部分を改装し、アメリカの大地を模した「第1次オメガ・セントラル鉄道」が作られ、以来、鉄道模型ファンの聖地的存在となっていった。
               村本さんは学生時代、この天賞堂で、一台のミニSLと出会った。レール幅は3インチ半、人間が乗れる最小のミニSLだが、完成品として販売され、当時の金で150万円だったという。当時、大卒の初任給が3万という時代、とても学生の身分では手が出せない。
               その時、村本さんは、「ともかく金さえ出せばミニSLが手に入る時代になったんだ」と、深く感じ入ったという。
               その後、社会人となり、いったんはSLから離れていたが、今から20年ぐらい前のこと、村本さんの会社でイタリア製の板金の機械を購入することとなり、その研修を兼ねて、販売店の社長とともに実際の機械をイタリアに見学に行くことになったという。
               ところが、同行した販売店の社長は無類のSLマニアで、旅行中、オーストリアにSLを見るため立ち寄るなど、村本さんの埋もれていたミニSLへの思いを再びかき立てることとなった。実は、その販売店の社長、SLマニアであるばかりか、ミニSLのマニアでもあったのだ。
               かくして、この社長を師として、村本さんのミニSL修業がはじまったという次第。
               村本さん40代後半のことであった。

               

              猛暑の中、淡々と運行準備を進める村本さん

               

                     ミニSLへの思いを語る村本順三さん(上)

               最初は、小さな組み立て式キットのものからはじめたという。小さなキットとはいえ、一台150万円はするという代物なのだが……。
               

               大阪本社の小川精機という会社がある。模型用のエンジンを作る会社なのだが、この小川精機の先代社長が、やはりミニSLにはまっており、ミニSLのキット販売を開始したばかりのことだ。村本さんが最初に購入したキットも、この小川精機の製品だったという。
               その小川精機が、法隆寺工場の裏手にミニSLを走らせるための固定レイアウトを持っており、ここでキットを購入したユーザーは、このレイアウトを使ってミニSLを走らせることができたのだ。
               村本さんも、最初は、この組み立てキットを作っては、月一回の走行会に持ち込んでは走らせていたという。

               しかし、そのうち、もっと大きなものが作ってみたくなった……。
               こうして20年、今、村本さんが走らせているのは5インチというレール幅のもの。つまりレール幅が127mm、これを自宅の庭に敷設し、トンネルあり、鉄橋ありという120メートルの変化に富んだレイアウトを作り出した。

               このレイアウトを作成するため、土地を検討し、更地からレイアウトを設計、家屋もレイアウトに見合った家を建てるという熱の入れよう。

               機関車も、窓枠など細部までこだわって再現した 「C5822」というミニSL。
               これが120メートルにわたる変化に富んだレイアウトを疾駆するという次第で、こうなると、子どもやSLマニアでなくともワクワクしない筈がない。

               

               

               取材した日は、折からの猛暑、その中でミニSLとはいえ、石炭をくべ、窯の圧力を調整する作業はまさに灼熱地獄。そばで撮影させていただいても汗が噴き出してくる始末なのだが、当の村本さんは、淡々と作業をこなしていかれる。

               やがて準備は整ったが、こんな猛暑の中、乗客も少ないのではと勝手に危ぶんでいたのだが、ふと外を見れば、なんと村本家の外には長蛇の列ができているではないか。

               36度という暑さの中、子どもばかりか、若い女性までが、開始時刻の3時を待つ行列に加わっていた。

               

               

               

               

               

               

               

              クジラ・イルカ紀行 vol.018 / モッチーニのこと

              2018.07.29 Sunday

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                モッチーニの母親 O-46 の尾ビレ(小笠原海洋センター提供)

                 

                 いきなり「モッチーニ」と言われても、分からない方が大半だと思います。まるで「お餅」をイタリア語で言ったような感じで、僕などは、最初に聞いたときは、マジで「お餅の入ったピッツアか?」と思ったくらいです。

                 でも、モッチーニといえば、小笠原でもっとも有名なザトウクジラなのです。

                 前回、日本で初めてザトウクジラの水中写真を撮った望月昭伸さんのことを紹介しましたが、その写真家の望月昭伸さん(愛称モッチ)が、1992年に、「O-46」と名付けられたザトウクジラの赤ちゃんを撮影しました。そこで、その赤ちゃんクジラの名前を発見者にちなんで「モッチーニ」と名付けたという次第です。

                 でもクジラの名前って「O-46」という記号風の名前があったり、「モッチーニ」という愛称風の名前があったり、何か名前を付ける基準みたいなものがあるんでしょうか。

                 小笠原ホエールウォッチング協会の言うには、「ザトウクジラは、親子クジラ以外一定のメンバーで群れを作らないことが知られています。そのため、群れのメンバーが出たり入ったりすることも多々あり、調査時に混乱をきたすことも少なくありません。どのクジラがどの群れにいるかを可能な限り正確に見分ける必要があり、アルファベットでクジラを呼びます。しかし、それよりも、人間の瞬間的な記憶の中で、それぞれの尾ビレや背ビレなどの特徴を利用したネーミングが、とても有効な場合が多々あります。例えば、背ビレの先にフジツボがついていれば「フジオ」というように、その場だけでも名前をつけることです。そのうち、何年も続けて見られると、その名前も定着してきます」と言うことだそうです。

                 納得です。ではモッチーニって、どんな特徴があるのでしょう? モッチーニを見分けるにはどうしたらいいのでしょうか? その答えが、小笠原ビジターセンターにあるというのでので行ってみることにしました。
                 

                小笠原のビジターセンターで「ザトウクジラ展」が開催されていました。

                 

                 小笠原ビジターセンターで開催されている「ザトウクジラ展」、まずは、その展示を見てみましょう。

                 右は、小笠原で見ることのできるおもなクジラとイルカです。筆頭はマッコウクジラ。

                 石油が掘り出されるまで、マッコウクジラから採れる油が産業革命を支えていました。このため、マッコウクジラを求めて、太平洋をアメリカやヨーロッパの船が行き来し、日本の鎖国もママならぬようになってきます。

                 このため、小笠原へもロシアやアメリカの捕鯨船で寄港する船が増え、ここ小笠原に住み着く欧米人もあらわれるようになりました。この人々が小笠原の欧米系住民の祖先となっていきます。

                 次いでおなじみのザトウクジラ。モッチーニも、このザトウクジラの仲間になります。

                 ところで、ザトウクジラを知る上で重要な数字があると言います。それが「4メートル」という数字です。

                 まず、ザトウクジラの尾ビレ(テール)の幅が約4メートル。胸ビレの長さが約4メートル。生まれたての赤ちゃんの大きさ(頭から尾ビレまでの長さ)が約4メートル。この4メートルを「4倍した」となれば申し分ないのですが、残念ながらここだけが「4倍」でなく「3.5倍した」14メートルが、成長したザトウのだいたいの大きさとなります。

                 このほか、イルカでは、ハシナガイルカやミナミハンドウイルカ(ミナミバンドウイルカ)のウォッチングを、小笠原では楽しむことができます。

                 でも、今はザトウクジラだけに集中しましょう。

                 ザトウクジラのウォッチングをしていますと、時により、彼らのさまざまなアクションと出会うことがあります。下の図では、「ペダンクルスラップ」にはじまる6つのアクションを紹介しています。

                「ペダンクルスラップ」は海面に下腹部を打ち付ける行為。

                「テールスラップ」は尾ひれを海面に打ち付ける仕草。

                「スパイホップ」は頭だけを水面に出し、まわりの状況を観察する仕草。

                「ブリーチ」はウォッチングの最大の見せ場です。ザトウクジラが海面から大きくジャンプし海面に背中から落ちていく様子は圧巻です。背が海面に落ちるや大きな水しぶきが上がり、船からも観客の大きな喚声とため息が上がります。

                「ヘッドスラップ」は頭の打ち付け、「ペックスラップ」は胸ビレの打ち付けですが、これは、先の「テールスラップ」とともに、まるでザトウクジラが我々に挨拶しているような、状況により「サヨナラ」してるような印象を見る者にあたえ、ザトウクジラとの距離がグッと近づいたような印象をあたえます。

                 

                 このほかに「メイティングポッド」と言って、メスのエスコート役(母子のクジラを助け、子クジラの手が離れたとき、次の交尾権を手に入れる)をめぐってオス同士が争うことが多々ありますが、これは圧巻です。僕も沖縄の座間味で、一頭の母子クジラのエスコート役をめぐって三頭のオスが争うメイティングポッドの真ん中に船が入ってしまうという経験をさせてもらいました。船の名も「エスコート号」、佐野船長の操船が巧みで、危機感はありませんでしたが、よくあれで船が沈まなかったと思わせるぐらい激しいものでした。

                 

                 

                 

                 

                 このことからも分かるように、ザトウクジラはシャチのように一夫一婦制ではありません。交尾を済ませたオスは離れていき、生まれた子クジラと母クジラを、次の交尾権を持つエスコート役のオスクジラが守るという寸法です。そして子クジラは一年経つと母親から離れていき、母クジラは、エスコートのオスクジラとの間に新たな子をもうけていくという生命のサイクルが続いていきます。

                 話を戻しましょう。このようなザトウクジラのさまざまなアクションの中で、水中に潜る寸前にテール(尾ビレ)の形状がよく観察されます。このテールの形状が、ザトウクジラ一頭一頭、みんな違うのです。つまり、ザトウクジラの個体識別は、このテールの形状を観察することからはじまるというわけです。

                 

                 

                 これは、ビジターセンターにパネル展示されていた「モッチーニ」の尾ビレの形状です。尾ビレの右側部分に半円形の切れ込みがあります。これがモッチーニを見分ける大きなポイントになっています。

                 いよいよモッチーニのことについて触れるときが来たようです。

                 ただし、僕自身はモッチーニを直接見たわけではありません。見たことがないため、恋心が余計にふくらむのかも知れませんが……。

                 そうそう、モッチーニは人間にだけに人気があるわけでなく、オスクジラの間でもモテモテの売れっ子のようです。これは小笠原海洋センター(エバーラスティング・ネイチャー小笠原事業所)の研究員・佐藤隆行さんの受け売りですが、以下、その佐藤さんに取材したモッチーニについて語らせていただきます。

                 1992年、望月昭伸さんによって発見されたモッチーニは、1993年、母親から離れる時期になっても、なぜか母親の「O-46」とともに発見されています。

                 以後、95年、98年、99年と父島周辺で確認され、2000年に初めて子クジラを伴って確認されました。この時点でモッチーニがメスであることが確認されたということになります。

                 

                2000年にモッチーニが子連れで発見され、メスであることが確認された、

                 
                 モッチーニは、生まれた時からボートなどが周りにいる環境に慣れているせいでしょうか、子クジラを伴っていても、あまり周囲のボートを警戒する様子もなく、湾口や時には湾内で、親子でのんびり水面付近を漂う姿が見られています。

                 こんなオットリした性格のためでしょうか、小笠原の人から愛され、ザトウクジラの時期になると、「今年もモッチーニが帰ってきた」と、人々は、モッチーニの出現を心待ちするようになっていきました。

                 

                 (小笠原海洋センターの佐藤隆行さん)

                 以下は、佐藤隆行さんが作成してくれた「モッチーニ」と「O-46」の出現記録です。

                 

                 ―モッチーニのプロフィール―

                  1992 0才 O-46の子供として父島で初確認

                  1993 1才 母子一緒に父島で確認

                  1995 3才 1頭で父島にいるのを確認

                  1998 6才 3年ぶりに父島で確認.ペアでいるところを確認されている

                  1999 7才 O-54(♂)一緒にいるのを確認

                  2000 8才 子連れを初確認(母島)

                  2002 10才 5頭群の中にいるのを確認

                  2003 11才 子連れで確認

                  2005 13才 子連れで確認

                  2007 15才 子連れで確認

                  2010 18才 子連れで確認

                  2014 22才 子連れで確認

                 

                 

                 ―O-46のプロフィール(モッチーニの母親)―

                  1990年 初発見

                  1992年 子連れで発見(O-288;モッチーニ)

                  1993年 モッチーニといるところを確認される。

                  1995年 子連れで確認

                  1997年 ペアでいるところを確認される

                  2000年 子連れで確認

                  2001年 3頭群の中にいるのを確認

                  2002年 子連れで確認

                  2004年 子連れで確認

                  2006年 子連れで確認

                  2008年 子連れで確認

                  2010年 子連れで確認

                  2013年 子連れで確認

                 

                 

                 上の写真は、小笠原海洋センターがモッチーニの消息について最終確認したときの写真です。ただこれ以降もインターネットで検索すると、「このごろの小笠原 blog」で「お帰りモッチーニ」という記事を見つけました。

                 2018年1月8日の記事です。

                     

                  近くにいる1頭が、浮上したまま海面で呼吸を繰り返します。
                  このクジラも船を見ているようです。
                  連れのもう1頭が上がってくると、並んで尾を上げて潜っていきました。
                  と、なんとその連れの尾ビレのフチが半円に欠けています。
                  モッチーニです!
                  今年も無事に小笠原まで帰ってきてくれました。
                  お帰りなさい、会えるのを待っていたよ。
                  昨シーズンは子育てをしていたので、今年は恋のシーズンでしょう。

                  また、多くのクジラに囲まれたモテモテのモッチーニを見られるのは嬉しいです。

                 

                  http://sae-tac.sakura.ne.jp/wp-st/dolphin/%E3%81%8A%E5%B8%B0%E3%82%8A%E3%83%A2%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B/

                 

                 何ともうらやましい限りです。一度は、噂のモッチーニに出会いたいものです。

                 今回のブログは「見果てぬ夢」はたまた「未完の恋」ということで終わらせていただきますが、次回は、宝永の大津波で壊滅した鳥羽の石鏡(いじか)漁港を紹介する予定です。

                 

                現在の石鏡漁港 宝永津波で壊滅するまでは大木の浜に石鏡漁港はあったという。

                 

                クジラ・イルカ紀行 vol.017 / 望月昭伸さんのこと

                2018.07.10 Tuesday

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                  小笠原二見港到着。右の写真は宿泊先の「プルメリアヴィレッジ」。

                   

                   竹橋桟橋を出航して三日目の朝、2016年4月21日早朝6時、おがさわら丸は予定通り、父島二見港に到着いたしました。まずは小笠原滞在中の宿泊先「プルメリアヴィレッジ」に荷を下ろし一休み。施設にはベッドに冷蔵庫、洗面台、トイレとユニットバスが付いており、食事は本館ヴィラシーサイドの食堂を利用します。洗濯機・乾燥機も共用スペースにあり、一般的な3泊(普通は船中2泊、小笠原村での滞在3泊)の滞在には充分です。

                   一休みしたあと朝食をとり、いよいよ取材開始です。

                   真っ先に向かったのが、二見港のすぐ近くにある小笠原ダイビングセンター。写真家・望月さんが小笠原の鯨類撮影のベースとしたダイビングセンターです。

                   ここのオーナー森田康弘さんは、望月昭伸さんが小笠原のクジラを撮影したいと、小笠原を訪問した頃からの盟友です。その森田さんにインタビューした記事を以下に掲げさせていただきます。

                   

                  小笠原ダイビングセンターとオーナーの森田康弘さん。右上のカメラは望月さんが愛用し、行方不明時も使用していた同機種のカメラ。

                   

                   森田さんが小笠原へ来たのは30年ほど前(1985年頃)のこと。その同じ頃、望月さんも小笠原へ来てクジラの撮影を始めたと言います。

                   この頃、小笠原には、母島にまだ捕鯨基地がありました。ザトウクジラやナガスクジラは早く禁漁になっていましたが、ニタリクジラやイワシクジラについては、母島を基地に捕鯨活動が続けられていたのです。

                   それも、1988年には捕鯨活動がすべて終了するに至り、その翌年、小笠原でホエールウォッチング協会が立ち上げられました。小笠原をあげて、「捕るクジラ」から「見せるクジラ」へ方向転換することになったのです。
                   ところで、小笠原ダイビングセンターの先代社長の古賀さんと望月さんは知り合いだったようで、その古賀さんを頼って、望月さんが小笠原へとやってきました。
                   その頃、望月さんは、マリンダイビング・水中造形センターの専属カメラマンだったのを、2年ほど前に独立したばかりでした。そして自分のライフワークとして「小笠原のクジラ」を撮りたいと、古賀社長を頼って小笠原へやってきたのだと言います。
                   当時はまだ、海外のクジラを撮るカメラマンはいましたが、日本のクジラを撮る人間はまだ誰もいませんでした。
                   そこへ「日本の鯨類を撮るのに一番いいのは小笠原ではないか」と、望月さんがダイビングセンターの先代社長古賀さんにアプローチしてきたのです。
                   古賀社長も、「来年からは、この小笠原でホエールウォッチングがはじまる。ぜひ一緒に盛り立ててほしい」と、望月さんに協力を約束しました。
                   これ以降、毎年、一ヶ月から一ヶ月半ぐらい、クジラの生態調査を含めて船を出すことが決められました。その相棒が小笠原ダイビングセンターに勤めたばかりの森田さんだったというわけです。しかも、望月さんが小笠原滞在時は、相棒の森田さんのアパートに居候を決め込むという状態でした。というのも、望月さんは独立してまもなくの頃で、子供さんも小さく、要は取材費用にもこと欠く状態だったのです。森田さんは森田さんで、好きなダイビングで飯を食うため、東京の自動車会社を辞め、小笠原ダイビングセンターで丁稚奉公のように働いていた時期でした。二人ともに金がない。そこで夜は、二人でカップラーメンをすすり、翌早朝には海へ出てザトウクジラを探し撮影するという日々が続きました。

                   ところが、先ほども述べましたように、ザトウクジラは禁漁になっていたのですが、ニタリクジラやイワシクジラは、まだ獲られており、母島で解体されていた時期があります。ザトウクジラにしたところで、仲間の殺される叫び声が聞こえてくるわけで、そのせいか、今ほどクジラはフレンドリーではなく、人間や船が近づくとサッサと逃げてしまうことが多かったのです。だからクジラを探すのも大変で、そんな中、望月さんが一人「日本のクジラの水中写真を初めて撮るんだ」と勢い込んでいたのだと言います。

                   

                  小笠原のホエールウォッチング/右上は陸上からの観察を指導するホエールウォッチング協会の岡本亮介研究員


                   そんな頃(1990年)、古賀さんをはじめ小笠原の有志で、ハワイへ先進のホエールウォッチングを学びにに行くということになりました。そして、その翌年には、今度はハワイの学者さんが、WWF(世界自然保護基金)という組織を通じて小笠原にザトウクジラの調査のために訪問してきたのです。個体識別をおこない、ハワイ、カリフォルニアで観察される個体と小笠原に共通しているザトウクジラの個体で合致するものがいるのかを調査するためだと言います。
                   そのために尾ビレの撮影や、ザトウクジラの音声調査がおこなわれました。ザトウクジラは、一頭一頭、尾ビレの模様や形が異なります。その尾ビレを観察し、歌うクジラといわれるザトウクジラの歌声を録音し、ハワイ、カリフォルニアと共通の個体がいるかを調べるのです。

                   小笠原のホエールウォッチングは、このとき来たハワイの専門家から、ホエールウォッチングの仕方、クジラへのアプローチの仕方を教えてもらい著しい進歩を遂げました。望月さんもその一行に同行してクジラへのアプローチの仕方を学んだのです。ただ結論を言うと、小笠原にはハワイ、カリフォルニアと合致する個体は非常に少なく、むしろ沖縄と小笠原で共通する個体が多いことが、今では分かっています。

                   こうして、スキルアップした望月さんは、その言葉通り、世界ではじめて日本のザトウクジラの水中撮影に成功し、「クジラは天からあたえられた被写体」とばかり、鯨類撮影の草分けとなっていくのです。

                   

                   以下の文章は、生前、望月昭伸さんご自身が書かれた文章です。望月さんが亡くなった同じ年の7月、「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年 コアラブックス発行)に付録として挟み込まれて公開されました。今回、小笠原ダイビングセンターの森田オーナーに取材させていただいた記事を裏付ける内容になっています。

                   

                  望月昭伸さんが撮られたザトウクジラの写真(「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年発行)から転載

                   

                   「私が初めて小笠原のザトウクジラの撮影に取りくんだのは、1987年のことだった。当時、日本では、まだだれもホエルウォッチングをやったことがなく、どうやってクジラを探したらいいのかもわからなかった。地元のダイビングサービスの人と、ほんとうにゼロから始めて、クジラヘの近づき方や、撮影の仕方を体得したのである。父島の西側の崖の上で私がクジラを探していたら、“自殺志願者がいる”と通報され、警察官が駆けつける騒ぎとなった。なつかしい思い出である。
                   私はクジラの撮影ではひじょうにツイていて、初めの年から6頭の交尾集団の撮影に成功した。巨大なクジラの雄たちが雌を争ってくりひろげる戦いのすさまじい迫力。そのときの強い印象が、クジラの撮影が私のライフワークとなるきっかけだったのだと思う。クジラの撮影をしていて、彼らの巨大さを思い知らされるような体験を何度もしている。
                   あるとき、クジラが私たちの小さなボートの真下で鳴いていた。歌うような不思議な鳴き声が海面から響いていた。水中マイクを通さずにじかに声が聞こえるのはひじょうに珍しいことである。潜水具をつけて水中に入ると、クジラの鳴き声が電気のような衝撃となって、ビリビリと足の先から頭まで走った。まるで海全体が鳴いているようだった。
                   母クジラの巨体に接触してしまったこともある。私は子クジラが1頭で泳いでいるのを水中撮影していた。好奇心旺盛な子クジラがどんどん私に近づいてきてしまった。そのとき、突然、足の下の深い海から、わーっと母クジラが浮上してきて、私と子クジラの間に割りこんできた。私も初めてクジラに対するほんとうの恐怖を感じて、思わず後ずさりをした。しかし、私も、母クジラも避けきれず、母クジラの胸ビレが私の足の裏にふれた。やわらかくしなる、しかし固い感触が、いつまでも私の足の裏に残っていた。」

                   

                  陸揚げして整備中の「韋駄天掘廚反硬珍ツ垢料狒イ垢襦幟蠡姪鍬掘

                   

                   翌日、森田さんの持ち舟「韋駄天掘廚望菫イ気擦討發蕕ぁ⊂笠原の海へ乗り出しました。そこで、望月さんの遭難について興味深いお話しをお聞きすることとなったのです。

                   望月さんが撮ったザトウクジラの母子の写真が、小笠原ダイビングセンターに飾られています。この写真も、望月さんの死後発行された「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年発行)に収録されており、このブログにも転載させていただきました。セーリング中、この写真について森田オーナーから、我々素人が聞いても「なるほど」と胸落ちする話しをうかがいました。

                   

                  南島周辺、まるで昔観たミュージカル映画「バリハイ」を思わせるような風景

                   

                   以下は森田さんにお話を伺った要約です。

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                   望月さんはクジラに対して恐怖心を持っていました。潜るときも「気合いを入れないと怖くて撮れない」と常々語っていました。僕は何度も彼と一緒に海の中へ入っていますが、生きものに対してソフトにアプローチする人と、ワイルドに接する人がおり、望月さんは後者だと思います。

                   望月さんはクジラに対する恐怖心を押し殺し、自分を奮い立たせ果敢にクジラに向かっていくんです。泳ぎ方も非常に早いのです。僕なんかはスピードを上げるとクジラにプレッシャーをかけてしまうと思い、できるだけゆっくりと泳ぎ、クジラが寄ってきてくれたらオーケーだくらいに思っています。クジラに向かう角度も、我々はクジラと平行に泳ぎ、クジラにプレッシャーをかけないようにします。これに対し、望月さんは、クジラに対し向かっていくんです。クジラの歌声を真似たりもします。それをやると、ワーッと寄ってくるクジラがいたりします。

                   こういったことを「おもしろがる」クジラも確かにいるし、こういうクジラに出会ったときは、実にいい写真が撮れるんです。
                   この写真(中程に掲載したザトウクジラの母子の写真)なんかもそうですが、ちょっと考えてほしいんです。これ、ザトウクジラの親子なんですけど、4メーターぐらいの距離まで近づいて撮っています。水中の鯨を撮るときはクジラとの距離が遠くても10メートルが限度です。これ以上離れると、写真として使い物になりません。
                   水中では地上みたいに望遠レンズが使えないんです。水の透明度もその年によって違うんですが、透明なときでも水の中は深くなるほど暗いし、望遠を使っていたら、泡や浮遊物ばかりが写って肝心のクジラを撮ることができないんです。だから望遠ではなくワイドレンズを使い、思いっきり寄っていって撮るんです。
                   思いっきり寄って撮れた写真は、クジラの描写が、今まで見たことのないような鮮明さで写るんです。それが彼が使っていたカメラとレンズの特性です。
                   ところが、いつも彼のようなやり方を「おもしろい」と思うようなクジラばかりとは限らないんです。

                    ◇
                   ところで望月さんの遭難時は、森田さんは同行していませんでした。それでもあえてお話をうかがうと、望月さんの最後の模様を次のように推測してくれました。
                   「彼は寄り添って撮るカメラマンではない。思いっきりワイドレンズを使い、思いっきり近づいて撮るタイプのカメラマンです。クジラは、足びれを止め浮いているだけの者は敵とみなさないが、スピードを上げ近づいてくる存在は敵とみなす習性がある。遊び心のあるクジラで、それを許すクジラもいるが、執拗に付きまとわれると、胸ビレを大きく振って追い払われる場合だってある。そのときは、ゆっくりな動きなのですが、それでも海の中で電信柱を振り回しているようなもので、しっかり目を開いていれば避けられるのだが、撮影に夢中になっていたりすると、この胸ビレの直撃を受ける場合もある。おそらく望月さんの事故はこういう状況だったのでは、と思われます。」

                   

                  カメラを船体に沿っておろし、船体を共鳴体として、クジラの発する音を録音しました。

                   

                   「韋駄天掘廚望菫イ気擦討發蕕ぁ∨招遒気鵑虜粘の様子も、おぼろげながら想像できるようになりました。船上ではザトウクジラを観察したり、水中カメラを船体に沿っておろし、船体を共鳴体にしてクジラの音を録音することもできました。

                   小笠原の海は、まるで夢のなかの出来事のようで、気づけば5時間近くセーリングしていたことになります。

                   いよいよ下船――現実に帰る時間がせまってきたようです。

                   明日は、小笠原海洋センターやホエールウォッチング協会を訪ね、望月さんにちなんで名付けられた、ザトウクジラ「モッチーニ」の足取りを追うことにします。

                   

                   

                  セーリングを終え、父島二見港入港間近

                   

                  クジラ・イルカ紀行 vol.016 / 鳥島を経て小笠原・父島へ

                  2018.06.22 Friday

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                    東京竹橋桟橋から小笠原諸島・父島を目指し出稿準備中の「おがさわら丸」。白枠内は、乗船を待つ船客と2等船室の模様。

                     

                     1966年、ザトウクジラおよびシロナガスクジラが、国際捕鯨取締条約に基づき禁漁となりました。禁漁以降、小笠原諸島へは次第にザトウクジラが戻ってくるようになり、そして1987年、写真家・望月昭伸さんが小笠原ではじめてザトウクジラの水中撮影に成功するにいたったのです。

                     以来、望月さんは、クジラを「天からあたえられた被写体」として、世界のクジラやイルカたちを撮り続けてこられました。

                     その望月さんが、1999年3月20日、小笠原の母島沖でザトウクジラの水中撮影中に行方不明となったのです。事故当初は生存の可能性も伝えられたのですが、結局は、遺体はおろか、愛用のカメラさえ見つけることができず、その生存は絶望視されるに至りました。

                     今回は、小笠原に、望月さんが無名時代だったころからの盟友森田さん(小笠原ダイビングセンター)や、ホエールウォッチング協会を訪ね、望月昭伸さんのこと、彼の名前が付けられたザトウクジラ「モッチーニ」のこと等々を紹介していきたいと思います。

                     

                    おがさわら丸船内レクチャーでのスライド

                     

                     2016年4月19日21時40分、竹島桟橋発の「おがさわら丸」に乗船、いざ小笠原の父島を目指します。乗ってみて教えられたのですが、今回は通常の航路ではなく、「鳥島」や「孀婦(そうふ)岩」へと立ち寄り、それら島の周囲を一回りし、その後、小笠原へ向かうというのです。このため、通常25時間30分の航路が、32時間20分かかるといいます。予約時点から「随分時間がかかるなあ」とは思っていましたが、まさか、こんな特別プログラムになっていたとは気付きませんでした。

                     おかげで「鳥島」の「アホウドリ」についても、船内のレクチャーや、遠望ではありますが貴重な観察をさせていただき、自然と人間の向き合い方についても深く考えさせらた次第です。

                     昔、北大路欣也主演の「漂流」という映画を観たことがあります。鳥島に漂着した主人公が、生きるために「すまぬ、すまぬ」と口走りながら「アホウドリ」を棒きれで撲殺していくシーンが忘れられません。この無人島では水にしろ、食料にしろ、無数に生息するアホウドリを殺して手に入れるしかなかったのです。

                     人間に対する警戒心もなく、おまけに陸ではヨチヨチ歩きしかできないアホウドリは、飢えた漂流者の格好の餌食となりました。

                     ところが漂流者だけならまだいいのですが、明治にはいるや、羽毛の原料として「アホウドリ」がターゲットになりました。ヨーロッパの羽毛布団の原料として、集団で営巣するアホウドリに目が向けられたのです。こうして「アホウドリ」は日本にとって貴重な外貨獲得手段となり、鳥島だけで推定500万羽の「アホウドリ」が、人間の欲の犠牲になっていきました。 

                     

                    船からかつての集落跡が観察されます。

                     

                     明治期、鳥島にはアホウドリの羽毛採取のため、125人ほどの島民がこの仕事に従事していましたが、1902(明治35)年の鳥島噴火により全員が死亡するという悲惨な事故が起こりました。この後も、牧牛を主体としながらアホウドリの羽毛採取の事業が続けられていましたが、これも1939(昭和14)年の噴火で壊滅します。

                     やがて太平洋戦争が終わり、1949年、アメリカの鳥類学者が鳥島を調査した結果、一羽のアホウドリも見つけることができませんでした。

                     これにより、いわゆる「アホウドリ絶滅宣言」がなされたのです。

                     ――――――

                     ところがです。1951年になって、鳥島で繁殖しているアホウドリが再発見されたのです。

                     乱獲から転じて「アホウドリ」は、今度は保護される対象になりました。それもつかの間、1965年の火山性群発地震により、保護観察をおこなっていた測候所が鳥島を撤退することになり、この活動も休止することとなってしまったのです。

                     

                    アホウドリの営巣地が遠望できます。

                     

                     おがさわら丸は予定通り、翌12時40分頃、鳥島の見える海域に到着しました。

                     いよいよ、これから1時間かけて鳥島を周回します。

                     鳥島は全島面積4.79㎢、直径2.7km、標高は硫黄山で394メートルという小さな火山島です。ここにアホウドリの大群が生息し、その羽毛を目当てに、人々が移り住み小さな集落を作っていました。

                     明治、昭和の噴火活動で、今は無人島になっていますが、周回途中、溶岩が海へ流れ落ちた痕を見たり、かつて島民が住んでいた集落跡を遠望したりと、あっという間に時間が過ぎていきました。

                     鳥島に残されたアホウドリの営巣地も視認しましたが、昔、映画で見た驚くようなアホウドリの大群とはちがい、群れが細々と生き残っている、そんな感じでした。

                     このアホウドリの群れを、火山噴火の恐れのある鳥島から安全な地域に移住させようとする計画があります。

                     選ばれたのは、鳥島から南に約350辧⊂笠原諸島の聟島(むこじま)です。計画は2008年から開始され、5年間で、のべ70羽のひなを移送し、死んだ1羽をのぞく69羽すべてが巣立ったと言われています。さらに2016年には、人工飼育個体が初めて聟島での繁殖に成功したと言います。

                     

                     

                     アホウドリたちは、日本の経済発展という人間の都合で殺戮されていきました。それを今度は絶滅から救おうと立ち上がった人たちがいます。それはそれで、すごく感動的で素晴らしいことだと思うのですが、ここへ来る少し前、岡山県美作の鹿の処理場へ行ってきたことがあり、その時のことを思うと素直に喜ぶことができないのです。

                     鹿肉を処理する工場ですが、そこで美作市の職員の方のお話しを聞かせていただきました。

                     そのお話しによると、野生の鹿の個体数が減り、美作でも鹿の姿が山から消えてしまったことがあるそうです。そんなとき、子連れの母親鹿があらわれ、やれ保護だ、やれ繁殖だと、県をあげて野生の鹿を保護する取り組みがおこなわれました。そうして起こったのが、野生の鹿が増えすぎ、植林を食い荒らすという「食害」という問題です。その被害は捨てておけず、今度は、保護どころか、鹿に賞金をかけて捕殺するという結果になってしまいました。

                     アホウドリは、人のいない無人島で繁殖してきました。そこへ人さまが人間の都合で割り込み殺戮の限りを尽くしました。

                     新たな移住地も、人に荒らされない無人島です。でも逆に、アホウドリが、人の生活する町や村で大繁殖したらどうなるのでしょうか? 人間の生活を脅かさないという暗黙裏の了解のうえに「保護」があるのでしょうか?

                     今、「動物愛護」という「上から目線」でなく、「動物の権利」を考えるという新たな発想が芽生えはじめていると言います。クジラやイルカの問題、鹿の問題、アホウドリの保護等々、これから人間は、自然とどう接していくのかを、本当に考えていく時期に来ているように感じます。

                     まだ「答え」は霧の中ですが……。

                     

                     そんなことを思っている内に、おがさわら丸は、鳥島海域を離脱し(14:00)、次なる目的地「孀婦(そうふ)岩」へと向かっていきます。孀婦岩へ到着するのは、2時間後ということです。

                     ところで、この孀婦岩というのは、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの孤立した岩の柱です。これを調査したイギリス人は、旧約聖書で神の指示に背き「塩の柱」に変えられた女性に似ていると、「ロトの妻」と名付けました。確かに、映画「ソドムとゴモラ」で見た「塩の柱」に似ています。この命名を意訳し「孀婦岩=そうふがん」という名称があたえられました。

                     なお、この孀婦岩、気象庁により活火山とされているそうです。

                     さて、この孀婦岩への到着、島の周回で二日目のプログラムが終了し、明日の朝は、いよいよ小笠原到着です。

                     

                     

                    孀婦(そうふ)岩から離脱するなり、陽が太平洋に沈んでいった。

                     

                     次回は、望月昭伸さんの足取りを追って小笠原・父島へ上陸します。

                    クジラ・イルカ紀行 vol.015 / 空を飛んだフジ

                    2018.06.10 Sunday

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                      (座間味島からの午前のフェリーで那覇港へ到着、美ら海水族館を目指す)

                       

                       美ら海水族館は沖縄の北西部、本部(もとぶ)半島の先端近くにあります。これに対し那覇は沖縄の南部西海岸に位置し、那覇から美ら海水族館に行こうと思うと、南北に長く延びた沖縄島のほぼ3分の2をバス移動しなければなりません。その間、ほぼ3時間ちかくをバスに揺られてやっと記念公園前にたどりつくという寸法です。沖縄の最北端から最南端までほぼ400キロ、どうして鉄道がないのでしょうか。

                       戦前は軽便鉄道もあったといいますが、沖縄戦で破壊されてしまいました。戦後はアメリカの統治下に長くあったわけで、その間、米軍は道路網の整備に精力を注ぎ、沖縄を車社会に変えてしまったということです。今は、那覇市内はモノレールが敷かれていますが、これが隣接する浦添市まで延長される予定で、将来は北部の名護まで計画に入っていると言います。沖縄本島の南北がモノレールで結ばれる日も近いと考えていいのでしょうか。

                       話が沖縄の交通網の話にそれてしまいましたが、この日、私は、沖縄本島の南、座間味島からフェリーに揺られ、バスに揺られ、揺られ揺られて「美ら海」までやってきたわけです。少しばかり、「なぜ、沖縄には鉄道がないんだ!」と、愚痴っぽくなるのをお許しください。

                       いくら「船酔いには強いんだ」と胸を張りましても、やはり疲れました。しかも時間は夕方近く、今日は記念公園近くのホテルで、おとなしく一泊することにしました。

                       

                      美ら海水族館の誇る展示物(世界で初めて長期飼育に成功したジンベエザメ/メガマウスサメの標本)

                       

                       翌日、体力も回復し、朝8時半の開館を待ちかねて、美ら海水族館に駆け込みました。

                       前日、ホテルから獣医の植田さんに電話連絡したところ、明日は終日那覇に出かけているため不在とのこと。「フジ」のことなら、動物管理チームの古網主任に会うよう勧められていました。植田獣医には、大阪から電話取材していることもあり、あきらめざるを得ません。むしろ「フジ」に尾ビレを付ける訓練を直接担当された古網さんに会える、そのことが自分の中で大きく膨らみ、はやる気持ちを抑えて入館した次第です。

                       

                       

                       ここは「フジ」が存命中に使っていたプールです。このプールで、当時、新米飼育員だった「古網雅也」さんと、尾びれを失ったイルカ「フジ」のドラマが展開しました。そして、まさに、ここが古網さんが指定した待合場所というわけです。

                       このプール前で古網さんの仕事が一段落するのをしばらく待ちます。

                       ところでこのプール、僕が訪ねた頃は、幼いイルカたちの住みかになっており、こんな看板が出ておりました。

                       

                       「仔イルカ経過観察中(平成26年6月4日生まれ)

                        .ラスをたたかないでください。

                        ▲メラ撮影の際にはフラッシュを使用しないでください。

                        動物への影響を考慮し、最低限の清掃をおこなっています。」

                       

                       のぞき窓からは好奇心いっぱいのイルカの子どもたちが、目をキラキラさせながら逆に人間たちを観察していました。なんのことはない、こちらが観察されているわけです。

                       しばらくして古網さんがグレーの作業服で現れました。

                       本の写真などで見ていた古網さんは、がっちりした精悍な感じの青年でしたが、今、こちらを目指しニコニコしながら歩いてくる姿は、どちらかというと人の良さそうな、ホンワカした温かい感じのおじさんです。写真で見たような、茶目っ気はあるが、どこか「とがった感じ」が抜けない、そんなイメージはまるっきり感じさせません。
                       そりゃあ、そうですよね、フジが尾ビレをなくしたのは15年も前の話ですものね。それともイルカとずっと付き合っているせいもあるのでしょうか。そうですね、きっとそうに違いありません。
                       こちらがそんなことを思っている間にも、古網さんは、歩きながら「フジ」のことや、今は「フジ」の子どもたちが、「オキちゃん劇場」(イルカやオキゴンドーのショー)で頑張ってくれている話をしてくれています。
                       「オキちゃん劇場」では、一頭のイルカが5メートル近くもあるようなターゲットに向かって驚くようなジャンプを披露していました。ひょっとして、あれは「フジ」の娘、「コニー」なのかも――。
                       「フジ」のことに話を戻しましょう。
                                    
                      オキちゃん劇場はフジのプールのすぐ横手にある。
                              
                       2003年2月、ブリヂストンは「フジ」の人工尾ビレ開発の意思決定をし、これに伴い、加工品技術開発本部の加藤信吾さん、斉藤真二さんの二人が、神奈川県の八景島シーパラダイスを訪ねました。イルカの皮膚を体感するためです。このときの触感で、二人はイルカの皮膚を、ゴムの硬さでは70度くらいと判断したそうです。
                       そして、その5ヶ月後の7月5日、ブリヂストンの加藤さんと斉藤さんが、「フジ」の尾ビレの型どりのため、初めて美ら海水族館を訪ねることになりました。
                       このとき、フジの尾びれの型どりが海獣課のスタッフ総出でおこなわれました。
                       これより古網さんと「フジ」の接触がはじまります。人工尾びれの完成を待つ間、フジが人工尾びれの装着をいやがらないよう「異物の装着訓練」が開始されたのです。
                       スタッフの一人がテープでリングを作り、それを「フジ」の尾っぽに装着する。次には布をふんどし状にして着けてみる。こうして少しずつ「フジ」が人工尾ビレをいやがらないよう訓練していくという寸法です。
                       しかし、この訓練に携わった古網さん、頑固な「フジ」に水をかけられたり、なかなかすんなりと言うことを聞いてはくれませんでした。
                       そして2003年9月20日、人工尾びれ第一号が到着しました。このときは、「フジ」のプールの水を抜いて、人工尾ビレを装着しやすいようにし、装着した後にプールに水を満たすという作戦がとられました。
                       古網さんが人工尾ビレの装着にチャレンジしますが、水をかけられ反撃される始末。
                       「まだ古網には無理だ」、そんな声がスタッフの間から起こります。
                       そこで古参のスタッフが「これ、怖くないよ」と、人工尾ビレを着ける前に、まず「フジ」の目の前に持っていき笑顔で説明します。すると「フジ」は納得したのか、おとなしくしているではないですか。そこですかさず古網さんが古参のスタッフを手伝い、人工尾ビレを靴のようにして履かせ、ベルトで固定しました。
                       「フジ」は、おとなしくじっとしています。
                       装着が完了し、プールに海水が戻されます。
                       ところで普通の水族館では、プールに張る水を消毒して何度も循環させて使いますが、美ら海水族館は、海に面して作られているため、プールに張る海水には苦労しません。文字どおり「湯水のように」海水を使います。このためプールがいつも清潔で、「フジ」の手術後も、傷口から「ばい菌」が感染することもなく順調に回復することができました。
                       今、その海水が、「フジ」のプールに満たされていきます。
                       果たして「フジ」は泳ぐことができるのでしょうか?
                       大成功です。「フジ」が、尾びれを失ってから初めてのドルフィンキック。尾ビレを上下に振りながら泳いでいます。
                       ただ問題点が見つかりました。
                       人工尾ビレ1型の問題点
                        〜澗里妨すぎて水の抵抗が大きくなります。
                        ▲侫犬糧びれに傷が付いてしまいました。
                        ゴムが硬すぎて水となじみにくいようです。
                        ぜ茲衂佞韻バンドを巻き付ける方式で、時間がかかりすぎました。
                       たしかに見た目でも、洗練された「イルカの尾ビレ」とは縁遠いようなフォルムです。
                       これら反省点を踏まえて、早速、2型の製作にかかります。
                       それから約二ヶ月近くたった2003年10月の末、早くも人工尾びれの2型が、ブリヂストンの加藤さん、斉藤さんによって持参されました。
                       これは大失敗!
                       1型よりも、もっと激しく尾びれを振らないと前へ進まないのです。ゴムの硬さをもっと研究の必要があるようです。さらに人工尾びれがフィットしていないため、隙間に水が入り込み泳ぎにくくなっています。これは型どりの時、「フジ」が暴れたのが原因で、実際のものより大きな型ができてしまったためだと言います。
                       型から作り直す必要がありました。そこで、獣医の上田さんの友人で大阪の造形家・薬師寺一彦さんが型どりをすることになりました。薬師寺さんは、造形化としての繊細な感覚で、実際にフジの尾びれを手で探りながら彼女にピッタリとフィットする型を作り上げてくれました。
                       こうして2004年3月19日、ブリヂストンタイヤの加藤さんらが、改良型の尾びれを持って水族館を訪問してくれました。今回は、水族館で亡くなった「フジ」の仲間「トク」の標本を参考にして作った自信作を携えています。ゴムの硬さも40度のものと70度のものの2種類を用意してきたのですが、どちらも水の中でしなりすぎ、うまく前へ進めませんでした。
                       このあと、取り付け方法もバンド方式からクロスバンド方式へ。さらに肩当てのパットを付けるカウリング型(かぶせるという意味)へ、ゴムの硬さも一様ではなく、部分的に芯を入れることで硬くしたりと改良が繰り返され試されますが、同時にフジの回復も目覚ましく、病み上がりの弱々しいフジではうまくいっても、完全に勢いを取り戻したフジが思いっきり泳いだりジャンプすると壊れてしまうことが多くなってきました。
                        
                      (映画「ドルフィンブルー」の1シーンです。この中に飼育員の古網さんがエキストラ参加しています。どれが古網さんかおわかりになるでしょうか? 正解は末尾に)
                        

                       2004年9月23日には、尾びれを失ってからできなかったジャンプに初めて成功します。しかし、着水したと同時に新型人工尾びれはバラバラに砕け散り、フジもその破片で傷つくという事故が起こってしまいました。

                       計画は暗礁に乗り上げます。

                       古網さんの心の中に、「俺たちは、フジにジャンプを強制していないだろうか」「これでフジがつぶれたら元も子もない」「人工尾ビレが本当にフジのためになっているのだろうか」、そんな疑問が次々と湧き上がってきて、一時は植田獣医に開発の中止を進言したほどでした。

                       しかし、そんな疑問を吹き飛ばすように、「フジ」は、娘の「コニー」がジャンプする姿を見て、無いはずの尾をしきりに振りジャンプしようとするのです。
                       獣医の上田さんは決断しました。ジャンプは自発的だ。フジは飛びたがっている。それならジャンプでも壊れない尾びれを目指そう! 古網さんの疑問も吹っ飛び、今度は、古網さんが「フジ」の直接の担当となって、人工尾ビレの開発と平行し「フジ」のトレーニングが続きます。

                       2004年10月16日、カーボンファイバーとグラスファイバーを組み合わせてつかってみましたが、これもジャンプでヒビが入り壊れてしまいました。
                       2004年11月21日のテストでも壊れしまいました。

                       「フジのパワーに負けない尾びれを」、この言葉を合い言葉に開発が続き、ついに2004年12月18日、今回は今までにないまったく新しい材料を芯に使った尾ビレが誕生しました。

                       しかし、今回の尾ビレが、成功してもダメでも、開発は一応切り上げるという決断がされています。

                       いよいよ最後のチャレンジです。

                       今では、「フジ」は古網さんを信じ切っており、二人の意気もピッタリ、尾ビレの装着もスムーズに進みます。

                       スタッフが固唾をのんで見守るなか、まずはツイスト、続いて回転、そしていよいよ

                       「ハイジャンプ、行きまーすッ!」

                       古網さんの声があたりに響き、ついでハイジャンプのターゲットが空高く掲げられました。

                       「フジ」はいったん水中深く潜るや、勢いをつけ水面を目指します。やがて、水面を割り「フジ」の頭が顔を出したかと思うや、水滴をまき散らしながら灰色のからだ全体が宙空を駆けのぼっていきました。
                       大成功です。ターゲットを目指し「フジ」の会心のジャンプが披露されました!

                       開発の開始から実に1年と10ヶ月、とうとう壊れない「フジ」にフィットした人工尾びれが完成したのです。     

                         

                         
                       この後、「フジ」は10年生き続け、子どもたちや障害者たちを励まし続けました。
                       そして、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。
                       果たして彼女の人生は幸せだったのでしょうか? そんなことは人間に分かるはずはありませんが、少なくとも人間や社会を恨んでいたわけではなく、彼女の生きた環境の中で「子どもたち」を育て、「人」との友情を育み、彼女にあたえられた人生を精一杯生き切ったと感じるのです。
                       イルカと人との関わりについては、ただ「かわいい」だけでは済まされない複雑な問題が絡んでいます。しかし、だからこそ、「人間」が「自然」とどう接し、どう向き合っていったらいいのか、そのヒントをイルカさんが投げかけてくれているように感じてしまいます。
                           
                       次回は、クジラを撮り続け小笠原で消息を絶った水中写真家・望月昭伸さんの足取りを追って、小笠原を訪問します。
                          
                      小笠原港に入港した「おがさわら丸」
                        
                      (解答:エキストラとして「ドルフィンブルー」に参加した「古網さん」は、一人だけ濃いめのオレンジ色の作業衣を着ています。)