クジラ・イルカ紀行 vol.015 / 空を飛んだフジ

2018.06.10 Sunday

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    (座間味島からの午前のフェリーで那覇港へ到着、美ら海水族館を目指す)

     

     美ら海水族館は沖縄の北西部、本部(もとぶ)半島の先端近くにあります。これに対し那覇は沖縄の南部西海岸に位置し、那覇から美ら海水族館に行こうと思うと、南北に長く延びた沖縄島のほぼ3分の2をバス移動しなければなりません。その間、ほぼ3時間ちかくをバスに揺られてやっと記念公園前にたどりつくという寸法です。沖縄の最北端から最南端までほぼ400キロ、どうして鉄道がないのでしょうか。

     戦前は軽便鉄道もあったといいますが、沖縄戦で破壊されてしまいました。戦後はアメリカの統治下に長くあったわけで、その間、米軍は道路網の整備に精力を注ぎ、沖縄を車社会に変えてしまったということです。今は、那覇市内はモノレールが敷かれていますが、これが隣接する浦添市まで延長される予定で、将来は北部の名護まで計画に入っていると言います。沖縄本島の南北がモノレールで結ばれる日も近いと考えていいのでしょうか。

     話が沖縄の交通網の話にそれてしまいましたが、この日、私は、沖縄本島の南、座間味島からフェリーに揺られ、バスに揺られ、揺られ揺られて「美ら海」までやってきたわけです。少しばかり、「なぜ、沖縄には鉄道がないんだ!」と、愚痴っぽくなるのをお許しください。

     いくら「船酔いには強いんだ」と胸を張りましても、やはり疲れました。しかも時間は夕方近く、今日は記念公園近くのホテルで、おとなしく一泊することにしました。

     

    美ら海水族館の誇る展示物(世界で初めて長期飼育に成功したジンベエザメ/メガマウスサメの標本)

     

     翌日、体力も回復し、朝8時半の開館を待ちかねて、美ら海水族館に駆け込みました。

     前日、ホテルから獣医の植田さんに電話連絡したところ、明日は終日那覇に出かけているため不在とのこと。「フジ」のことなら、動物管理チームの古網主任に会うよう勧められていました。植田獣医には、大阪から電話取材していることもあり、あきらめざるを得ません。むしろ「フジ」に尾ビレを付ける訓練を直接担当された古網さんに会える、そのことが自分の中で大きく膨らみ、はやる気持ちを抑えて入館した次第です。

     

     

     ここは「フジ」が存命中に使っていたプールです。このプールで、当時、新米飼育員だった「古網雅也」さんと、尾びれを失ったイルカ「フジ」のドラマが展開しました。そして、まさに、ここが古網さんが指定した待合場所というわけです。

     このプール前で古網さんの仕事が一段落するのをしばらく待ちます。

     ところでこのプール、僕が訪ねた頃は、幼いイルカたちの住みかになっており、こんな看板が出ておりました。

     

     「仔イルカ経過観察中(平成26年6月4日生まれ)

      .ラスをたたかないでください。

      ▲メラ撮影の際にはフラッシュを使用しないでください。

      動物への影響を考慮し、最低限の清掃をおこなっています。」

     

     のぞき窓からは好奇心いっぱいのイルカの子どもたちが、目をキラキラさせながら逆に人間たちを観察していました。なんのことはない、こちらが観察されているわけです。

     しばらくして古網さんがグレーの作業服で現れました。

     本の写真などで見ていた古網さんは、がっちりした精悍な感じの青年でしたが、今、こちらを目指しニコニコしながら歩いてくる姿は、どちらかというと人の良さそうな、ホンワカした温かい感じのおじさんです。写真で見たような、茶目っ気はあるが、どこか「とがった感じ」が抜けない、そんなイメージはまるっきり感じさせません。
     そりゃあ、そうですよね、フジが尾ビレをなくしたのは15年も前の話ですものね。それともイルカとずっと付き合っているせいもあるのでしょうか。そうですね、きっとそうに違いありません。
     こちらがそんなことを思っている間にも、古網さんは、歩きながら「フジ」のことや、今は「フジ」の子どもたちが、「オキちゃん劇場」(イルカやオキゴンドーのショー)で頑張ってくれている話をしてくれています。
     「オキちゃん劇場」では、一頭のイルカが5メートル近くもあるようなターゲットに向かって驚くようなジャンプを披露していました。ひょっとして、あれは「フジ」の娘、「コニー」なのかも――。
     「フジ」のことに話を戻しましょう。
                  
    オキちゃん劇場はフジのプールのすぐ横手にある。
            
     2003年2月、ブリヂストンは「フジ」の人工尾ビレ開発の意思決定をし、これに伴い、加工品技術開発本部の加藤信吾さん、斉藤真二さんの二人が、神奈川県の八景島シーパラダイスを訪ねました。イルカの皮膚を体感するためです。このときの触感で、二人はイルカの皮膚を、ゴムの硬さでは70度くらいと判断したそうです。
     そして、その5ヶ月後の7月5日、ブリヂストンの加藤さんと斉藤さんが、「フジ」の尾ビレの型どりのため、初めて美ら海水族館を訪ねることになりました。
     このとき、フジの尾びれの型どりが海獣課のスタッフ総出でおこなわれました。
     これより古網さんと「フジ」の接触がはじまります。人工尾びれの完成を待つ間、フジが人工尾びれの装着をいやがらないよう「異物の装着訓練」が開始されたのです。
     スタッフの一人がテープでリングを作り、それを「フジ」の尾っぽに装着する。次には布をふんどし状にして着けてみる。こうして少しずつ「フジ」が人工尾ビレをいやがらないよう訓練していくという寸法です。
     しかし、この訓練に携わった古網さん、頑固な「フジ」に水をかけられたり、なかなかすんなりと言うことを聞いてはくれませんでした。
     そして2003年9月20日、人工尾びれ第一号が到着しました。このときは、「フジ」のプールの水を抜いて、人工尾ビレを装着しやすいようにし、装着した後にプールに水を満たすという作戦がとられました。
     古網さんが人工尾ビレの装着にチャレンジしますが、水をかけられ反撃される始末。
     「まだ古網には無理だ」、そんな声がスタッフの間から起こります。
     そこで古参のスタッフが「これ、怖くないよ」と、人工尾ビレを着ける前に、まず「フジ」の目の前に持っていき笑顔で説明します。すると「フジ」は納得したのか、おとなしくしているではないですか。そこですかさず古網さんが古参のスタッフを手伝い、人工尾ビレを靴のようにして履かせ、ベルトで固定しました。
     「フジ」は、おとなしくじっとしています。
     装着が完了し、プールに海水が戻されます。
     ところで普通の水族館では、プールに張る水を消毒して何度も循環させて使いますが、美ら海水族館は、海に面して作られているため、プールに張る海水には苦労しません。文字どおり「湯水のように」海水を使います。このためプールがいつも清潔で、「フジ」の手術後も、傷口から「ばい菌」が感染することもなく順調に回復することができました。
     今、その海水が、「フジ」のプールに満たされていきます。
     果たして「フジ」は泳ぐことができるのでしょうか?
     大成功です。「フジ」が、尾びれを失ってから初めてのドルフィンキック。尾ビレを上下に振りながら泳いでいます。
     ただ問題点が見つかりました。
     人工尾ビレ1型の問題点
      〜澗里妨すぎて水の抵抗が大きくなります。
      ▲侫犬糧びれに傷が付いてしまいました。
      ゴムが硬すぎて水となじみにくいようです。
      ぜ茲衂佞韻バンドを巻き付ける方式で、時間がかかりすぎました。
     たしかに見た目でも、洗練された「イルカの尾ビレ」とは縁遠いようなフォルムです。
     これら反省点を踏まえて、早速、2型の製作にかかります。
     それから約二ヶ月近くたった2003年10月の末、早くも人工尾びれの2型が、ブリヂストンの加藤さん、斉藤さんによって持参されました。
     これは大失敗!
     1型よりも、もっと激しく尾びれを振らないと前へ進まないのです。ゴムの硬さをもっと研究の必要があるようです。さらに人工尾びれがフィットしていないため、隙間に水が入り込み泳ぎにくくなっています。これは型どりの時、「フジ」が暴れたのが原因で、実際のものより大きな型ができてしまったためだと言います。
     型から作り直す必要がありました。そこで、獣医の上田さんの友人で大阪の造形家・薬師寺一彦さんが型どりをすることになりました。薬師寺さんは、造形化としての繊細な感覚で、実際にフジの尾びれを手で探りながら彼女にピッタリとフィットする型を作り上げてくれました。
     こうして2004年3月19日、ブリヂストンタイヤの加藤さんらが、改良型の尾びれを持って水族館を訪問してくれました。今回は、水族館で亡くなった「フジ」の仲間「トク」の標本を参考にして作った自信作を携えています。ゴムの硬さも40度のものと70度のものの2種類を用意してきたのですが、どちらも水の中でしなりすぎ、うまく前へ進めませんでした。
     このあと、取り付け方法もバンド方式からクロスバンド方式へ。さらに肩当てのパットを付けるカウリング型(かぶせるという意味)へ、ゴムの硬さも一様ではなく、部分的に芯を入れることで硬くしたりと改良が繰り返され試されますが、同時にフジの回復も目覚ましく、病み上がりの弱々しいフジではうまくいっても、完全に勢いを取り戻したフジが思いっきり泳いだりジャンプすると壊れてしまうことが多くなってきました。
      
    (映画「ドルフィンブルー」の1シーンです。この中に飼育員の古網さんがエキストラ参加しています。どれが古網さんかおわかりになるでしょうか? 正解は末尾に)
      

     2004年9月23日には、尾びれを失ってからできなかったジャンプに初めて成功します。しかし、着水したと同時に新型人工尾びれはバラバラに砕け散り、フジもその破片で傷つくという事故が起こってしまいました。

     計画は暗礁に乗り上げます。

     古網さんの心の中に、「俺たちは、フジにジャンプを強制していないだろうか」「これでフジがつぶれたら元も子もない」「人工尾ビレが本当にフジのためになっているのだろうか」、そんな疑問が次々と湧き上がってきて、一時は植田獣医に開発の中止を進言したほどでした。

     しかし、そんな疑問を吹き飛ばすように、「フジ」は、娘の「コニー」がジャンプする姿を見て、無いはずの尾をしきりに振りジャンプしようとするのです。
     獣医の上田さんは決断しました。ジャンプは自発的だ。フジは飛びたがっている。それならジャンプでも壊れない尾びれを目指そう! 古網さんの疑問も吹っ飛び、今度は、古網さんが「フジ」の直接の担当となって、人工尾ビレの開発と平行し「フジ」のトレーニングが続きます。

     2004年10月16日、カーボンファイバーとグラスファイバーを組み合わせてつかってみましたが、これもジャンプでヒビが入り壊れてしまいました。
     2004年11月21日のテストでも壊れしまいました。

     「フジのパワーに負けない尾びれを」、この言葉を合い言葉に開発が続き、ついに2004年12月18日、今回は今までにないまったく新しい材料を芯に使った尾ビレが誕生しました。

     しかし、今回の尾ビレが、成功してもダメでも、開発は一応切り上げるという決断がされています。

     いよいよ最後のチャレンジです。

     今では、「フジ」は古網さんを信じ切っており、二人の意気もピッタリ、尾ビレの装着もスムーズに進みます。

     スタッフが固唾をのんで見守るなか、まずはツイスト、続いて回転、そしていよいよ

     「ハイジャンプ、行きまーすッ!」

     古網さんの声があたりに響き、ついでハイジャンプのターゲットが空高く掲げられました。

     「フジ」はいったん水中深く潜るや、勢いをつけ水面を目指します。やがて、水面を割り「フジ」の頭が顔を出したかと思うや、水滴をまき散らしながら灰色のからだ全体が宙空を駆けのぼっていきました。
     大成功です。ターゲットを目指し「フジ」の会心のジャンプが披露されました!

     開発の開始から実に1年と10ヶ月、とうとう壊れない「フジ」にフィットした人工尾びれが完成したのです。     

       

       
     この後、「フジ」は10年生き続け、子どもたちや障害者たちを励まし続けました。
     そして、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。
     果たして彼女の人生は幸せだったのでしょうか? そんなことは人間に分かるはずはありませんが、少なくとも人間や社会を恨んでいたわけではなく、彼女の生きた環境の中で「子どもたち」を育て、「人」との友情を育み、彼女にあたえられた人生を精一杯生き切ったと感じるのです。
     イルカと人との関わりについては、ただ「かわいい」だけでは済まされない複雑な問題が絡んでいます。しかし、だからこそ、「人間」が「自然」とどう接し、どう向き合っていったらいいのか、そのヒントをイルカさんが投げかけてくれているように感じてしまいます。
         
     次回は、クジラを撮り続け小笠原で消息を絶った水中写真家・望月昭伸さんの足取りを追って、小笠原を訪問します。
        
    小笠原港に入港した「おがさわら丸」
      
    (解答:エキストラとして「ドルフィンブルー」に参加した「古網さん」は、一人だけ濃いめのオレンジ色の作業衣を着ています。)

    私のブックレビューPage.1/お気に入りの絵本を教えてください

    2018.06.07 Thursday

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      会場となった「自遊空間ゼロ」のセミナースペースです。

       

       2018年6月6日、自遊空間ゼロで、かねがねやってみたいと思っていた「読書会」が開かれました。

       その名も「私のブックレビュー Page 1」。第一回目ということでPage 1なのですが、当然Page 2、Page 3と続いていくのですが、Page 1のテーマは「絵本」。そこでサブタイトルは「お気に入りの絵本を教えてください」となりました。

       開催に当たっては、専修学校で国語を教えておられる「井上玲奈」さん、香芝市で子育て支援のNPO法人「T-seed」を運営されている「多田みさ」さんにお力添えいただき開催できる運びとなりました。

       当日はあいにくの雨でしたが、絵本作家の「杉浦つかさ」さんをはじめ、7人の方がそれぞれ「これぞ」と思う絵本を持って集まり、すわ「絵本版ビブリオバトル」開戦かと思いきや、「バトル」でなく、それぞれが時間を決めて持ち寄った絵本の良さを紹介する、つまり「チャンプ本」を選出しない(ゲーム感覚を廃することで)、ある意味、充実した本来の読書会が開かれたようにも感じます。

       以下に持ち寄られた本を紹介いたしますが、実は録画がうまくいかず、記憶に頼って紹介いたしますので、聞き違い、記憶違いがあると思いますがご容赦ください。

      (また絵本の紹介にあたっては、絵本作家の杉浦つかささんや主催者の方々は別として、発表者のお名前は基本的に伏せさせていただきます。)

       

      どちらも「内田倫太郎」さんの作品。暗い色調の「まねっこでいいから」と、ナンセンス絵本「たまたまタヌキ」

       

       まずは進行役の「井上玲菜」さんのおすすめ本です。

       内田倫太郎さんといえば、「たまたまタヌキ」のようなナンセンスな絵本が多いのですが、「まねっこでいいから」は異色な作品で暗い色調でおおわれています。

       幼児虐待を受け、母親の愛情を知らずに育った女性。彼女は母親になっても、自分が抱っこされたこともないから、我が子をどう抱っこしてよいか分からない。でも、子どもから「まねっこでいいからだっこして」と、我が子に言われておそるおそる抱っこしていく――。

       

       

       

       絵本作家「杉浦つかさ」さんのおすすめ本は「おやすみ、ぼく」。

       

       「おやすみ、ぼくのあしさん。

       きょうも うーんと はしったね。」

       

       絵本のあらましを朗読される杉浦さん。

       そのあと、ご自身がスランプになって本が描けなくなったときの体験を「がかフランソワさん」として発表された経緯を話されました。

       自分の中にある暗い思い、これを見つめて変えていったとき、まわりの世界も明るく変わっていった――。

       

       

       

       

       「わたしがあかちゃんだったとき」

       これは、共同主催者の「ただみさ」さんのおすすめ。

       

       「それ なあに?」

       「あかちゃんのおようふくよ」

       「あたしが あかちゃんだったときの?」

       「そうよ。こんなに ちっちゃかったのよ。」

       

       多田さんは、朗読することで、この絵本のすばらしさを伝えてくれました。

       

       

      「ぼちぼちいこか」

       この絵本を紹介されたお母さんは、子どもたちが大好きな絵本だからと言います。何度もせがまれて読むそうですが、そのたびに、いっつも子どもたちは大笑い。楽しくてたまらない、そんな様子がお母さんの語り口から想像されてしまいます。参加者の一人は「お母さんのやさしさが、子どもたちに伝わるのでは――」、そんな感想をもらしていました。

       「絵本」も「お母さん」も素敵だと感じました。

       

       

       紹介者の説明によると、二作ともに、作者は台湾の方だと言います。

       そのうち「地下鉄」は、盲目の少女が、地下鉄に乗って「自分探し」の旅に出るお話しだと言います。

       紹介者によると、主人公は「出口を見つけられていない」と一言。

       この一言が気になり、どんな結末なのか、ぜひ読んでみたいと思いました。

       ※後日談ですが、この「地下鉄」は中国で映画化されていました。

       トニー・レオン主演で「サウンド・オブ・カラー/地下鉄の恋」というタイトルで公開されたと言います。

       

       

       少女時代、宮本武蔵に入れあげたというお母さん。今では素敵で穏やかで「宮本武蔵」とのつながりが、まるで想像できないのですが――。

       そのお母さんが選んだ一冊が「てん」。読む度に涙ぐんでしまうと言います。

       お話しは、お絵かき大嫌いな少女の話。

       何も描けないままの真っ白な紙。それを見た先生は

       「ふぶきのなかのほっきょくぐまね」「なにかしるしをつけてみて」。

       少女は苦しまぎれに、白い紙に「てん」をうち「これでどう――?」

       次の週、彼女の絵が「金色の額」に飾られてありました。

       話しを聞いていて、僕の中学時代のことを思い出しました。作文が苦手でみんなと同じように書けないのがイヤでした。いっつも作文となると、誰かに見られないように、ノートを腕で覆い隠すようにして、その暗がりの中で文章を綴っていました。誰かにみんなと違うものを書いていると知られるのが怖かったのです。

       そのノートを、いきなりすくい上げた国語の先生。ノートに目を走らせるや、

       「みんな、桐生君のを読ませてもらいなさい。同じことを違った視点で捉えていて大変おもしろい!」

       そのとき、はじめて違っていいんだと思いました。

       「てん」のお話を聞いていて、自分の中に眠っていた「国語の先生」が目を覚ましました。

       

       

       最後は僕のおすすめ本です。

       僕が選んだのはマック・バーネットの処女作「ビリーツイッターとシロナガスクジラ問題」です。邦訳こそされていませんが、この面白さは著者も言っているように、子供に突拍子もない嘘をつく、その堂々とした嘘つきぶりです。
       「ビリー、部屋を片付けないとシロナガスクジラを買ってくるわよ。」「ビリー、勉強しないとシロナガスクジラを買ってくるわよ。」
       ママは、ことあるごとに、シロナガスクジラを買ってくるとビリーを脅して言うことを聞かせようとします。そんなわけないとたかを括っているビリー宛に、ある日、宅急便でシロナガスクジラが届けてこられるという奇想天外なストーリーがページを開くと溢れ出てきます。
       しかも、この嘘つきぶりは、絵本の中にとどまらず、本の表紙にまで溢れ出てきます。それが以下のような嘘広告です。
       「安心の30日間トライアル、シロナガスクジラを飼育できます。希望者は、切手を貼った自分宛の封筒を同封してください。」
       この嘘広告に対し、ニコという子供がシロナガスクジラ希望の封筒を送りました。すると彼の元にノルウェーの法律事務所から手紙が届きました。関税法の関係で、君のところへシロナガスクジラを送れません。君のクジラはフィヨルドで保護されています。さびしがっているので、彼に電話してやってください。
       案内された電話番号に連絡すると、クジラの鳴き声に続いて応答メッセージが流れます。
       ニコは自分のクジラであるランドルフに話しかけます。
       ニコは4年にわたり25回のメッセージをランドルフに送り続けました。
       ものがたりが絵本の中からこぼれて、現実世界に流れ出し、もうひとつのものがたりが作りだされました。

       

       いよいよ締めくくりは、「ちいさなあなたへ」の動画を観てお開きとなりました。

       さて次回「私のブックレビュー」は、「Page.2 児童読み物の世界」となります。子ども向けの小説、絵本、漫画を対象に、これというものを一冊お持ちいただき、その魅力を語っていただきます。

       日時は、2018年7月13日(金)、午前10:00〜12:00の予定です。

       インターネットでの参加も可能です。インターネットで参加される方は、下記のメールアドレス宛てに「私のブックレビュー インターネット参加」と書いてお申し込みください。

       折り返しURLを知らせします。ただしインターネット枠は最大3名ですので、定員になりましたら締め切らせていただきます。

       

      dep1948@zeus.eonet.ne.jp

      クジラ・イルカ紀行 vol.014 / 美ら海(ちゅらうみ)水族館のフジ

      2018.05.27 Sunday

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         上の写真はすべて、「フジ」という一頭のイルカのためにつくられた「人工尾ビレ」です。失敗しては改造し、壊れてはまた改造し、飽きることなく造り続け、改造し続けられた人工の尾ビレ。この尾ビレを付けて元気に泳いでいた「フジ」も、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。

         

         ところで、じゃのひれドルフィンファームで、バンドーイルカの「もも」や「かえで」と知り合って以来、イルカやクジラに――と言ってもイルカもクジラの仲間なのですが――のめり込んでしまった私は、「本」やら「DVD」やら、「グッズ」やら、ともかくクジラやイルカと名の付くものは、手に入る範囲で集め回っていました。

         その収集品の中に、「イルカと少年」(アメリカ)という2011年に映画化された作品のDVDがありました。

         カニを捕らえる罠にかかり、尾ビレを失ったバンドーイルカの「ウインター」と、父親に蒸発された「孤独な少年」が心を通い合わせるというストーリーです。これは実際にあった話しをもとに組み立てられており、映画の中のウインターも彼女自身が演じています。そのウインターは、今も、クリアウォーター水族館で元気に暮らしており、彼女の姿を見ようと思えば、クリアウォーター水族館のホームページを開けば、ライブ映像だって見ることができてしまいます。

         ところが、もっと驚いたことには、日本にも同じように人工尾ビレのバンドーイルカがいたのです。それが「美ら海水族館」の「フジ」です。しかも、ウインターが尾ビレを失う事故を起こしたのが2005年のことですから、それより3年も早くに「フジ」の事故が起こっています。

         早ければ良いという話しではありませんが、重要なのは「フジ」が世界で初めて「人工尾ビレ」を付けたイルカとなったということです。つまり、参考にできる事例がまったくなく、すべてが手探りで進められたということなのです。冒頭の写真に掲げた人工尾ビレの試作品、そのおびただしい数が、このプロジェクトに関わった人たちの苦労を物語っています。素材、形、取り付け方法、すべて試行錯誤で、問題点をつぶしながら、ついには「フジ」にピッタリの人口尾ビレを完成させたのです。

         

        フジの人工尾ビレの最終的な形。素人が見ても実にきれいなフォルムです。

         

        「フジ」に人口尾ビレをプレゼントするため、ブリヂストンタイヤの研究チーム、造形家、飼育スタッフ、獣医の人たちが知恵を絞り合いました。その詳細は、松山ケンイチさん主演で映画化された「ドルフィンブルー」をはじめ、NHK制作のドキュメンタリー「ひれをもらったイルカ」、さらには映像作品ばかりでなく、「しっぽをなくしたイルカ」(岩貞るみこ)、「とべ!人口尾ビレのイルカ『フジ』」(真鍋和子)などの子供用ノンフィクションにも詳しく描かれています。

         かくいう私も、これらの情報を得て、はじめて「フジ」の存在を知ったという次第です。

         

         2016年2月、沖縄の座間味へ「エスコート号」(ホエールウォッチング船)と、そのオーナー佐野さんご夫婦の取材にうかがった私は、その足で「美ら海水族館」と連絡を取り訪問することにしました。ところが、「フジ」は昨年の11月1日に亡くなったと言います。

         4ヶ月早くフジのことを知っていれば、彼女の姿だけでも見ることができたと思うのですが、未練がましく「フジ」のことを聞いていると、電話に出られた方が、「しばらくお待ちください」と、獣医の植田啓一さんに繋いでくれることになりました。

         植田さんは、壊死していく「フジ」の尾ビレを手術された医師で、その後、落ち込んで浮いているだけの「フジ」に人工尾ビレをつくろうと、ブリヂストンタイヤに働きかけた人物です。

         人工尾ビレの話は次回に譲るとして、ここでは、「フジ」というバンドーイルカについて、また、どのようにして尾ビレを失ったのか、その辺の話を紹介していきたいと思います。

         

        美ら海水族館内で放映されているビデオ動画より

         

         1975年7月20日から開催された沖縄海洋博は、183日間の会期を経て、翌年1月18日にその幕を閉じました。海洋博の会期終了に伴い、海洋生物の展示館は「国営沖縄記念公園水族館」として海洋博公園内の敷地で再出発することになります。そして、その再出発に伴い、内田詮三館長のふるさとである伊豆の海から、7才(推定)雌のイルカが移されてくることになったのです。

         それが「フジ」―― 富士山の見える海から来たので「フジ」と名付けられたバンドーイルカです。

         フジは2年後の1978年、長男の「リュウ」を出産しました。その11年後の1989年には、長女「コニー」を、1995年には次男「チャオ」を出産し、3頭のお母さんとなったのです。

         フジは水族館では、結構、気ままでへそ曲がりのイルカだったようです。これも人間から見ての話しですが、新米飼育員などは「フジ」にからかわれ、言うことを聞いてもらえないこともしばしばだったようです。したがって芸をするには向いていませんでした。ところが子育ての面では、しっかり者の母さんという感じで、いつも子どもたちのそばに付き添って泳ぎ、狭い水族館の壁に子どもたちがぶつからないようガードしている、そんな頼もしいお母さんぶりを発揮していました。

         さて2002年11月1日 「国営沖縄記念公園水族館」は「美ら海水族館」としてリニューアルオープンすることになりますが、そのオープンを半月後に控えた10月16日、フジの尾ビレが壊死を起こしていることが判明しました。壊死の進行は速く、「このままでは」というので、原因の分からないまま、10月25日 、第1回目の手術が実施されました。壊死した尾びれを削除する手術でしたが、それでも壊死の進行は止められなかったそうです。

         植田獣医は、沖縄県立北部病院の嘉陽医師に協力を仰ぎ、11月7日、第2回目の切除手術に臨みました。植田獣医と嘉陽医師の二人で、「フジ」の左右の尾ビレの4分の3を思い切って切除するというものです。

         結果、手術は成功し、壊死の進行を止めることができました。ただ尾ビレの4分の3を失い、「フジ」は泳ぐことのできない、ただ浮いているだけのイルカになってしまったのです。

         

        美ら海水族館内で放映されているビデオ動画より作成

         

         植田獣医は、イルカに感情移入しすぎるのは間違いのもとだと言います。もっとドライになってイルカを見つめるべきだと言います。その植田獣医の目にも、「フジ」の落ち込みようは歴然としていたようです。

         なんとか「フジ」に元気を取り戻してやれないものか、植田獣医は、連日、遅くまで世界中の文献や事例を読みあさり、アメリカでサメに手ビレを食いちぎられたウミガメの事例に行きついたのです。なんと、そのウミガメのために、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」が動き、人工の手ビレを開発したというのです。

         ウミガメにできたのなら、イルカにもできるはず、そう考えた植田獣医は、日本のブリヂストンタイヤに「フジ」の人口尾ビレを開発してもらえないだろうか、そう思いつきました。

         縁故を頼り、ブリヂストンタイヤと渡りを付けた植田獣医は、「フジ」の窮状を訴え、イルカの人工尾ビレの開発が「世界ではじめて」ということを強調し、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」がウミガメの人工手ビレをつくった話しを持ち出し、懸命にブリヂストンの首脳陣の説得に当たりました。

         植田獣医の熱意に、天下のブリヂストンが動きました。

         化工品材料開発部の加藤信吾部長と、その部下でスポンジ技術を専門にする斉藤真二さんが、「フジ」の人工尾ビレ開発の責任者となったのです。
         こうして「フジ」の人工尾ビレ開発プロジェクトが始動をはじめました。

         

         次回は、美ら海水族館を訪ね、「フジ」の担当となった海獣飼育課の古網リーダーにお話を伺います。

         

        国営沖縄記念公園

        クジラ・イルカ紀行 vol.013 / 「じゃのひれ」から「しまなみ海道」へ

        2018.05.18 Friday

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           スイミングスクールで個人指導を受けたものの、水への恐怖心から挫折、イルカと自由自在に泳ぐという計画は、ものの見事に失敗に終わりました。でも、ものは考えようです。浮くようになったわけだし、まして、イルカさんと泳ぐときはライフジャケットを着けているわけですから、おぼれる心配はまずありません。自分にしては上出来です。

           こんなわけで女房と二人して「淡路じゃのひれアウトドアリゾート」へとやってきました。まずは予約の確認と「ドルフィンスイム」の申込みを済ませ、時間まで海水プールを見学します。何より大事な実験結果はどうなっているでしょう。ここ2週間というもの、まだ見ぬ「もも」に思いを寄せつづけ、ひたすら語りつづけてきました。

           とはいうものの、この場に臨んで、期待は、「そんなわけないよなぁ」「思うだけで通じるわけないよなぁ」と、そんなあきらめムードに変わっていました。

           期待半分あきらめ半分、そんな感じで「もも」のプールを探していると、

          「ありました!」

           中ほどのプールの前に案内表示が出ています。「もも」と、もう一頭「ゆず」と表示されています。

           

           

           ここが「もも」のプールか!

           そう思った瞬間です。背後で「バシャーン」という水しぶき。頭に冷たい水滴が降りかかります。

           あわてて振り返ると――!! 

          「もも」と「ゆず」が、二頭でジャンプをはじめ、それが、なかなか終わらないのです。あわててカメラを取り出しますが、連写モードになっていなかったため、なかなかジャンプのスピードに追いつけず、パチリパチリとシャッターを切り続けます。それでもジャンプは終わりません。

           ついには係の方が驚いて飛び出してくる始末です。

           

           

           ジャンプするのは、餌をほしいときとか、遊んでほしいときらしいのですが、普通は二、三回もすれば終わると言います。それが十回どころか、あわてて数えだしたときからでも二十回以上もジャンプが続いているのです。

           とても威嚇のようには思えません。

          「思いが伝わったんだ!」 とっさにそう思ってしまいました。

           思い込みかも知れませんが、それでも、シャッターを切っていて訳もなく涙が止まりません。大の男が恥ずかしい話ですが、水しぶきと一緒になっているので泣いているのは、何とかごまかせそうです。

           係の人が飛び出してきた頃にはジャンプも下火になり、やがて海面も静かになっていきました。

           ひょっとして何かの偶然かも、そうも思いましたが、この一年後、しまなみ海道にドルフィンファームが新たにオープンしたときのことです。「もも」がしまなみ海道に移されることになり、それを知った僕も、取材という名目で「もも」を訪ねることにしました。

           そのとき、「もも」の対応が偶然ではなかったと確信しました。一度しか会っていない僕を、「もも」はしっかりと覚えてくれていたのです。

           さて、この話は締めくくりのところで取り上げるとして、まずは人生初めての体験、ドルフィン・スイムについて話しを続けていきたいと思います。

          一緒に泳いでくれる「かえで」と「さくら」の見分け方です。

           

           ここでイルカさんについて、少し基本的なことを勉強しておきましょう。

           魚と違い、イルカは尾びれが飛行機の尾翼のように左右に広がっています。魚の場合は尾びれが縦についており、これを左右に振ることで泳ぎます。これに対し、イルカは左右に広がった尾びれを上下に振ることで推進力を作り出します。この違いは、イルカがほ乳類で肺呼吸をするため、頭の上に開いた呼吸孔をすばやく海面に出すためではないかと言われています。その尾びれの強さは並大抵ではなく、いやがる野生のイルカを追い回し、尾びれの一撃で肋骨を折られた人間もいるぐらいです。

           エコロケーションについては前回触れましたので、変わったところで「半球睡眠」について触れておきましょう。イルカの脳は、左右で二つに分かれて活動します。左が眠っているときは右が活動しており、右が眠るときには左が活動している、つまり眠らずに泳ぎ続けることができるという寸法です。

           また代謝が活発で、人間が24時間で肌が再生されるのに対し、イルカは2時間で新しい肌が再生されるということになります。これは早く泳げるよう、いつでも肌をすべすべにしておく必要があるためです。

           スイミングの前には、調教師のやさしくて陽気なお姉さんが、イルカについて、いろいろと勉強させてくれます。ただ残念なことに、今日一緒に泳いでくれるのは「もも」と「ゆず」ではなく、「さくら」と「かえで」という二頭の雌のバンドーイルカということでした。「もも」たちは、まだ人と一緒に泳ぐまでにはトレーニングが進んでいないのだと言います。

           上の図は、その「かえで」と「さくら」の見分け方です。「かえで」は小ぶりで、身体の色は濃く、背びれがとがっており、上部に切れ目があります。これに対し、「さくら」は大柄で、色も浅く、背びれは丸みを帯びています。このようにイルカたちはそれぞれ特徴があり、この特徴を早くつかんで個体差を知ることで、イルカたちとの距離がぐっと縮まると思います。

           一緒に泳いでくれるパートナーのことを知らないなんて失礼ですものね。

           

          胸ビレにつかまらせてもらってのスイミング。これが本当の胸を借りる?なーんて。

           

           さあ、いよいよです。

           まずは「かえで」の背びれにつかまってのスイミング。調教師のお姉さんが言います。

          「背びれを左手で軽く持ち、後は浮かんでいるだけでいいですからねぇ。」

           言われたように、背びれを軽くつかむと、それが合図であるかのように「かえで」が、かなりのスピードで泳ぎだしました。

           すべて、うまくいくはずでした。ライフジャケットは着けているし、おぼれるはずがありませんでした。

           でも、おぼれてしまいました。

           水に浸かったまま顔を上げられないのです。

           水に浮かび、かえでに引っ張ってもらい確かに進んでいるのですが、顔を水面に上げることができません。

           苦しまみれに、とうとう「かえで」の背びれを放してしまいました。

           ゴボゴボゴボゴボッ!

           この状況は間違いなくおぼれていることになるのでしょう。

           

          頭に付けたアクションカメラが、かえでの心配そうな顔を捉えてくれていました。

           

           しかし、スイミングスクールで個人指導を受けた成果は間違いなくあったと言えるでしょう。水の中で、息が苦しいながらも僕は泳いでいました。そばでは「かえで」が、僕の回りを心配そうに付き添ってくれています。あの姿にどれだけ励まされたことでしょうか。僕は彼女に導かれるようにして、プールの縁へたどりつきました。

           ほんの数分のことでしたが、僕の中では一生分の思い出が紡ぎ出されていました。

           

           みんなの心配そうな顔が笑顔に変わり、「ドルフィンスイムもここまで」と思った瞬間、あのかわいい調教師のお姉さんが、

          「次は、かえでちゃんに胸ビレを貸してもらいます。」

          「……もういいです!」

          「ダメでーす! やってもらいます。」

           笑顔こそ素敵ですが、そこには、てこでも動こうとしない気構えがありました。

          「今度は、かえでちゃんにひっくり返ってもらい、その上に乗る格好ですから顔は水に浸かりません。今度は大丈夫です、うまくいきます!」

           

          かえでの胸ビレにつかまってのスイミングです。
          続いてさくらの胸ビレを借りてのスイミング。

           

           今度は大成功!

           かえでに続いて、さくらまでが胸ビレにつかまらせてくれ、広いプールを一周させてくれました。

           先ほどの強烈な体験と相まって、自分の中では、イルカさんに対する絶大な友情と信頼が生まれていました。

           さあ、いよいよラストプログラムです。水中のイルカさんとふれ合います。

          「水の中はもう充分です」と言いましたが、先ほどの調教師のお姉さんが「ダメです! やってもらいます」と、何にもひるまない笑顔で応じてくれました。

           

           

           これも大成功! 泳ぎに自信がない分、水の中でも浮いているしか能がないのですが、それが反って良かったのだと言います。変に泳ぎに自信があって、イルカを追い回したりすると、逆にイルカにいやがられるようです。イルカがこちらに興味を持って近づいてくるまで、ただ浮かんでいるだけでよいそうです。これは野生のイルカさんの場合、特に言えることだそうです。

           今回の体験で、イルカさんへの絶大な友情と信頼を感じたわけですが、同じように、若い調教師の方のイルカさんに向ける友情や信頼をヒシヒシと感じさせてもらいました。

           このことは、新しくできた「しまなみドルフィンファーム」へ、「もも」と「ゆず」が移動させられることになり、その取材させていただいたとき、よりいっそう感じさせてもらった次第です。

           

          調教師の方々の愛情に包まれて元気を取り戻しつつあるゆずちゃん

           

           2016年5月6日、まだオープンして間もない「ドルフィンファームしまなみ」に、淡路から移された「もも」の様子を見に行ってきました。

           なんと、あのやさしくも、言い出したらテコでも動かない調教師のお姉さんがいるではないですか! 一度しか会っていないのに、旧知の友に出会えたようで、うれしくてなつかしくて、僕がアメリカ人なら、さしずめハグしていることでしょう。そこは日本男児のはしくれですから、そんな浅ましい誤解されるようなまねはいたしませんでしたが……。

           彼女にこんな思いを抱いたのは、僕だけでなく、「もも」こそ、彼女が頼りだったに違いありません。陸送の模様は、ほかのイルカの例ですが、アミール動物病院さんが「獣医さんのお仕事―イルカの輸送」として写真を公開されています。それを転載させていただきましたが、こんな感じで「もも」や「ゆず」も運ばれてきたのだと思います。

           調教師のお姉さんに聞くと、「もも」はいやがって暴れ、おかげで到着したときは傷だらけだったと言います。

           

          アミール動物病院さんのブログ「獣医さんのお仕事―イルカの輸送―」から転載

           

           事前に電話で「もも」の移動の話を聞いていましたので、しまなみドルフィンパークに到着するなり、「ももはどこだろう、元気だろうか」と思った瞬間、遠くでジャンプするイルカがいます。まさに、そのイルカが「もも」だったのです。顔をあわせるなり、「大変だったねえ」と心の中で語りかけました。すると「もも」の何とも言えない温もりが伝わってきました。「思い込み」だとか「思い入れ強すぎ」だとか「錯覚」だとか、なんと言われようが、間違いなく「もも」は僕を覚えてくれていて喜んでくれています。

           くだんの調教のおねえさんと、新しく知り合った、ここ「しまなみ」のリーダーのお姉さんと、お二人から「もも」の話を聞きました。「ゆず」が比較的おとなしかったのに、「もも」はいやがって傷だらけになった話。到着したとき、「もも」は弱り切っていて、この方たちが付きっきりで面倒を見てくれた話。

           今日の「もも」は、とっても元気だと言います。

           今、イルカを水族館やレジャー施設に置くことの是非が問われています。

           インドでは、イルカを「Non human Person」、つまり「他の動物と比べて非常に稀なその知的能力の高さは『ヒト科以外の人間』としてみなされるべきであり、彼らには特別の権利を付与すべきである」とし、水族館やレジャー施設からイルカを解放することが義務づけられるようになりました。

           日本でも遠からず、水族館やレジャー施設から「イルカ」が消える日が来るのかも知れません。

           ただ、今現在の日本では、水族館で生まれたイルカやシャチがおり、この子たちや、もとは野生であっても、今は人間と深い絆で結ばれるようになったイルカやシャチがいます。

           以前に触れたシャチのケイコのことを考えると、「種」として考えるのでなく、「個」として考えたとき、何が彼らの幸せなのかを考えて判断してほしいものです。

           水族館やレジャー施設にいるイルカたちは、今は少なくとも、彼らをお世話する人間と友情や信頼関係を築いています。イルカを「人」として扱うのであれば、個人としての幸せを無視してほしくないと切に思います。

           

           今回の実験で感じたのは、イルカは海へ帰ったほ乳類として独自の進化を遂げたという点です。ある意味、人間以上に優れた生きものだと思います。特に、言葉に頼らず「思い」を「波動」として伝え、感じることができる能力――人間が、はるか昔に放棄した能力を進化させ続けてきた生物だと強く感じました。

           この「もも」「ゆず」「かえで」「さくら」に出会って、また、そのお世話をする若い方々と出会って、今、僕は、イルカやその他のクジラの仲間のことが忘れられなくなりました。

           

           さて次回は、人と深く関わったイルカとして、沖縄の美ら海(ちゅらうみ)水族館へ、「フジ」(尾びれをなくしたイルカ)の足跡をたどることにします。

           

          美ら海水族館所蔵「フジ」の人口尾びれの動画から転載。

          クジラ・イルカ紀行 vol.012 / じゃのひれの「もも」

          2018.05.12 Saturday

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            南あわじ市にある「じゃのひれ ドルフィンファーム」。下は「ふれあいコース」プール前の表示。

             

             上の写真は、兵庫県南あわじ市阿万塩屋町にあるレジャー施設「ドルフィンファーム」のイルカプールです。

             この「ドルフィンファーム」は湾の一角をイカダと網で仕切ることで、巨大なプールを作り、その海水プールで「イルカ」と「人」が一緒に泳いだり、触れあうことができるようにしたというレジャー施設です。

             本来は、「陸」と「海」という違った環境で暮らし、漁師の方やダイビングを趣味とされる方は別として、ふれ合うことのなかった二種の「陸」と「海」の」ほ乳類が出会える場所でもあります。それは人間の「癒やし」や「楽しみ」のために、一方的にイルカに犠牲を強いる結果となるわけですが……。

             しかし、そんな環境でも、いや、そんな環境だからこそなのかも知れませんが、「イルカ」とその世話をする「人」の間には、友情や信頼が育まれているように感じます。

             実は、僕が、イルカと初めて接触したのも、このドルフィンファームなのです。以来、ここでの強烈な体験がイルカやクジラにどっぷりはまり込んでしまう結果となりました。

             でもその体験に触れる前に、まずは、泳げない僕が、なぜ、イルカと一緒に泳ごうなどと思うようになったのか、その辺の経緯(いきさつ)から話させてください。

             

             

             写真の人物は、大阪府南河内郡河南町大宝に住む田池留吉というお爺さんです。

             住むというよりか住んでいたと言うべきでしょうか。この田池先生、一昨年の2015年12月、90才でお亡くなりになりました。若い頃は、大変な秀才だったようで、家が貧しかったため、大阪府立市岡中学校(旧制)卒業後は、経済的な理由で陸軍士官学校に入学されたといいます。正確に言うと「陸軍予科士官学校60期」に入学し、卒業後、「陸軍航空士官学校」に配属されたということになります。終戦が近づくや特攻隊を率いて出撃するはずでしたが、そのための訓練もままならないまま、終戦となってしまいました。

             価値観が一変しました。一時は特攻隊を率い死を覚悟し、「何のために死ぬのか」を自分に問い続けた青春時代でした。それが終戦の詔勅(しょうちょく)以降、まったく価値観が変わってしまいました。そんな中、田池さんは大阪高等学校(今の大阪大学)へ再入学され、教師の道を歩き出すことになったのです。

             大阪市立西中学校の補欠要因を皮切りに、母校である大阪府立市岡高校で数学を教え、やがて教頭となり、大阪府立東百舌高等学校の校長職を辞し教職生活にピリオドを打たれました。

             僕が田池先生を知ったのは、この東百舌高等学校の校長先生だった頃です。こんな関係で「先生」が代名詞みたいになってしまいましたが、その田池先生、出会った翌年、定年まであと一年を残して校長職を依願退職されてしまったのです。僕が出会った頃には、まだ校長職をしながら「人間はなぜ生まれてくるのか」「人間の本質は肉体ではなく心」「他人や社会を変えるのでなく、自分が抱えている闇に気づき、自分を変えていこうとしないかぎり何も変わらない」……、それらのことを手弁当で伝え続けておられました。

             そんな田池先生のもとへ、お子さんや家族のことで相談に来られたり、話を聞きに来られたりする方が次第に増え、田池先生も、たくさんの方に本当のことを知ってもらおうと、定年を待たず校長職を辞された次第です。

             僕も最初は反発していましたが、否定できないことが次々と自分の中で起こり、以来、お亡くなりになるまで、三十年以上、勝手に「師」と決め、お付き合いすることになりました。その辺の経緯は、拙著「時を越えて伝えたいこと」(2007年6月刊 絶版のためPDFで無料公開しています)の中に詳述していますので、興味のある方は、お読みください。

             その田池さんがお亡くなりになる前年だったと思うのですが、「イルカ」や「クジラ」について「人間に近い存在で私も興味を持っている」と話されたことがあり、「言葉でなく意識で通じ合える存在だ」とも言われました。まあ、すべての生き物がそうなのだと思うのですが、特にイルカやクジラにはそう感じさせる「何か」があるようです。このときは、たくさんの人の前で話されていたのですが、いきなり「なあ桐生さん、頼んだで……」と、なぜか名指しで頼まれてしまうことになりました。

             長くなりましたが、これが、僕が「イルカ」や「クジラ」に」興味を持つようになった最初です。

             

             ところで、人間は言葉を使います。だから言葉を信じがちです。でも、言葉で「あなたは良い人だ」と言っても、心では「おまえは嫌なやつだ」と思っているかもしれません。そうだとすれば、どちらが本当の姿でしょう。「良い人だ」という言葉とは裏腹に、その人からは「嫌なやつだ」という思いが流れています。思いはエネルギーですから、表面うまく行っているように見えても、いつか破綻を来すという事態が起こってきたりします。

             これに対し、動物は言葉でなく、鳴き声や吠え声に、喜びや怒り、悲しみの波動を乗せます。その最たるものがイルカやクジラたちのように感じます。高度に発達した知能を持ちながらも、鳴き声に何とも言えない優しい波動を感じさせます。僕の知人に「イルカの学校」を主催されている岩重慶一さんと言われる方がおられます。この方は、不定期ですが、子供たちを御蔵島で野生のイルカと遊ばせるということをされています。この岩重さんの体験ですが、イルカの発するクリック音(超音波)を正面から受けたことがあるそうです。そのときは、水中めがねがビリビリ震えたかと思うと、お腹のあたりがカーッと温かくなり、次には何とも言えない充足感に包まれ、胎児に戻ったかのような安心感に包まれたと言います。

             

            イルカがエコロケーションのために発する超音波、その時に発する音をクリック音と言います(ドルフィンファームの案内書から転載) 。

             

             クリック音というのは、イルカがエコロケーション(反響定位と訳され、つまり超優秀なソナーのようなものです)のために超音波を発しますが、その時に出す音のことです。イルカの目を見てみると身体の両サイドに付いていて前を見ることが出来ないのが分かります。しかも暗い海の中で、前方のものを確認する方法がエコロケーションということです。人間がイルカの出す超音波の直撃を受けたとき、なぜ、このような現象が起こるのか、僕にはその原因を説明できるような知識を持ち合わせません。

             これ以外にも、須磨水族館と京都大学が共同で行ったテストでは、これも理由はわかりませんが、イルカの画像を見た被験者の脳波は、多の動物の画像を見た、あるいは何の画像も見なかった被験者より、情緒の安定度が非常に高くなっているというテスト結果があります。アニマルケアという言葉がありますが、イルカは、犬や猫など、多の動物と比べ、ダントツにケア度が高いと言われています。

             誤解しないでください。だからといって、イルカは人間のケアのために存在している訳ではないのです。

             ただ近年、イルカやクジラが人間と接触する機会が増えていることは事実です。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンをザトウクジラが救った話、網に絡まったイルカ、クジラを人間が網を切って助けた話、そのほかネットを検索すれば、たくさんの事例がこれでもかと言うほどヒットしてきます。

             

            「ドルフィンファーム」で配られている手作りの案内書の一部

             

             前置きがずいぶんと長くなってしまいました。

             さてと、この写真は、ドルフィンファームで、スイムコースに参加した人に配られる手作りの案内書の一部です。所属するイルカさんたちが、その性格を表す一言ともに紹介されています。僕の姪っ子がドルフィン・スイム(イルカと泳ぐプログラム)に参加し、もらってきたものです。それを、また僕が借り受けたという次第です。

             この紹介ページを使って、僕の実験がスタートしました。まだ見ぬイルカさんと思いを通じ合えるのかという実験です。まずターゲットとなる特定の一頭を選びます。選ぶ根拠はありません。若い頃、ミヒャエル・エンデという作家にのめり込んだことがあります。彼の作品の中でも特に好きだったのが「モモ」。そこで選んだのが「もも」というイルカです。写真の下には「性格:食いしん坊、頑張り屋」さんとあります。

            「もも」の写真を携帯に取り込み、ことあるごとに開いては、その「もも」の写真に心の中で語りかけました。「こんにちわ」にはじまり、自己紹介をしてみたり、「今度、会いに行きますので、よろしく」だったり、写真を開かなくても、「もも」と、ただ思ってみたり、そんな他愛もない繰り返しを2週間近くもやったでしょうか。

             そうする一方で、スイミングスクールの個人レッスンを申込み、イルカと自由自在に泳げるようになろうとしました。

             ……が、これは失敗でした。水に対する恐怖心が抜けず、身体が硬くなり、あげくは頭がガンガン痛みだす始末。ともかく浮いて前へ進むぐらいはできるようになりましたが、イルカさんと自由自在に泳ぎ回るなんて、夢のまた夢のことです。

             でも、めげてはいられません。泳げないイルカの学者さんだっているんだから……そう、自分に言い聞かせ、女房と二人、ドルフィンファームのスイムコースに予約を取った次第です。

             

             次回は、いよいよ「もも」との衝撃的な出会いのことや、「かえで」に助けられるという、忘れることのできないイルカさんたちとの体験を語ります。

             

            ももでーす!(みなみあわじ、じゃのひれの「ドルフィンファーム」にて)

             

            クジラ・イルカ紀行 vol.011 / 釧路沖のシャチ

            2018.05.04 Friday

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              右図は北海道釧路総合振興局商工労働観光課発行の小冊子「シャチが来る海」から転載

               

               新得へ行く途中のことです。私は、JR北海道の社内広報誌で、「さかまた組」が釧路沖のシャチ観測船に、はじめて一般市民の乗船を受け入れることを知りました。そこで大阪へ帰るなり、早速、受付の窓口になっているJTBと連絡を取り、スケジュールを検討し、11月5日の観測船に乗せていただくことになりました。

               こうして10月初めの新得行きに引き続き、11月4日、再度、北海道を訪れることになった次第です。もちろん、北のイルカさんのその後の様子も気になり、釧路からの帰りには新得共働学舎へ立ち寄るよう計画していました。

               さて、ここで話を進める前に、シャチ観測船ツアーを主催する「さかまた組」と、「釧路沖」の環境について少し勉強しておきましょう。

               右上の写真は、参加者全員に配られた「シャチが来る海〜くしろ沖の魅力〜」というA5判20ページの小冊子です。これが釧路沖の魅力と特異性について非常に分かりやすく説明してくれています。そこで、これによって釧路沖について予備知識を身につけておきましょう。

               毎年9月下旬から11月上旬にかけて、釧路沖にはたくさんの海洋生物が姿を見せます。というのは、釧路沖の海底は、沖合15キロメートルあたりから急激に深い谷のようになっています。これを釧路海底谷(くしろかいていこく)と言うそうです。最も深いところで、水深は5000メートルにも達すると言います。

               秋口になると、流れが変わった「寒流(親潮)」と「暖流(黒潮)」が、この海底谷でぶつかります。その結果、海水が湧き上がる湧昇流(ゆうしょうりゅう)が発生し、深い海底に生息していたプランクトンなどの豊富な栄養が、この湧昇流にのって海面近くまで昇ってくるというわけです。

               このプランクトンを餌とする小魚が集まり、小魚を餌とするイルカやクジラや海鳥が集まり、そして、イルカやクジラを餌とするシャチがやってくるという次第です。

               この時期、釧路沖は「食物連鎖」の一大舞台となるわけです。

               この釧路沖を中心に、海洋環境や生態系に関する研究成果を一般に普及し、自然の貴重さを伝えることを目的に「さかまた組」が結成されました。「さかまた」とは、漁師が使う「シャチ」の別名だそうです。そして、今回2015年秋、この目的達成の一環として、「さかまた組」が、釧路沖の海洋生物と生態系を調査する観測船に、釧路市民をはじめ一般の乗船希望者を募ったということです。

               

              JR釧路駅/日没時の釧路川とホテル「La Vista 釧路川」

               

               さて私ですが、乗船の前日、2015年11月4日PM4:00、スーパーおおぞら5号で釧路駅に到着しました。

               この日は、釧路港を見下ろすホテル「La Vista 釧路川」で一泊し、翌早朝の乗船に備えることにします。ここなら観測船が出船する港まで歩いて5分で行けるというわけです。

               ホテルでチェックインを済ませ、夕食を兼ねて、明日の集合場所である「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」を下見に出かけることにしました。MOOで夕食を済ませたあと、河畔に出て、釧路へと帰ってくる漁船を眺めて時を過ごそうというわけです。

               親爺が船乗りだった関係で、幼い頃から船に乗せられ、そのおかげでしょうか、船酔いというものを知りません。しかし、明日の海は荒れそうです。MOOで夕食をとっているとき、店のマスターと明日の天候について話しましたが、マスターも「明日は荒れそうだ」と同意見。最後には「船が出ればいいのだが……」と言葉を濁す始末です。

               てきめんホテルに帰るなり、JTBの担当者から電話が入りました。明日は欠航の可能性もある、船が出るとしても時間が遅れそうなので、明日の朝は連絡するまで、ホテルで待機してほしいということです。

               釧路まで来て、観測船にも乗れずに帰るなんて最悪です! 

               そう思う尻から、今度は、船が出ても、かなりの揺れが予想され、「これが初めての船酔い」なんてことにならなければいいが……そんな不安まで湧き上がってきます。ホテルのフロントで聞いても「酔い止め」は置いていないということ。仕方なく、夜の釧路の町に出かけ薬局を探す始末です。

               

              ホテルの部屋から見るフィッシャーマンズワーフMOO/乗船準備を済ませ待機する私

               

               そんなこんなで、いろいろとありましたが、翌朝、予定より約1時間遅れで船が出ることになりました。

               支度を済ませ、我ながら物々しい出で立ちと思いましたが、仕方がありません。ぎこちない足取りで集合場所へ向かいます。カメラを抱えた一般客やスタッフの人たちも既に集まっておられました。

               さかまた組の代表・笹森琴絵さんから乗船時の注意事項や、釧路沖の生物について説明があります。

               笹森さんは、室蘭市に住まいされ、さかまた組代表として、はたまた海洋生物調査員として、大学の非常勤講師をされたり、海洋生物の写真家として活躍しておられますが、かつては学校の教員をしておられたことがありました。それが交通事故が元で重い膵臓炎となり、教員生活を辞めざるを得なくなりました。そんなとき、室蘭沖のイルカの群れと遭遇し、以来、彼女の第二の人生がはじまったと言います。

               動物好きの笹森さん、これ以降、室蘭沖のイルカガイドとなり、さらに海洋生物調査や環境教育など、海の専門家の道を進むことになるのです。

               そうこうするうち、我々を釧路沖の海洋へと運んでくれる船が、知床を出船し釧路川河口へと入ってきました。

               

               

               

               いよいよ出船です。

               予想どおり、風が強く、揺れはかなりなものです。高速走行しているときはいいのですが、速度を緩めたり停船したときは、手すりにしがみついていないと立っていられないほどです。そんなときもクルーの若い女性が、何に動じることもなく船首に仁王立ちしているのを見ると、妙に安心感が湧いてきます。彼女が船首に立っているだけで安心感があり、彼女の存在自体が、この船そのものにさえ感じられます。船主の娘さんだと聞いていますが、実に頼もしい女性です。

               船首には彼女のほか、さかまた組のスタッフでしょうか、若い男性や女性が、長い竿の先にカメラを付け、これから現れる海洋生物の撮影の準備を進めています。

               船の司令塔となる2階の操舵室には船長のほか笹森さんが詰め、船内放送で現れた動物の解説をしてくれています。ただ船の進行に伴い移っていく景色に目をとられているのと、船の揺れに自分をなじませるのに気を取られ、せっかくの解説の声も、なかなか頭には入ってきませんが……。

               

               まず目についたのは海鳥です。僕にはカモメやアホウドリとしか分かりませんでしたが、このほかにも「クロアシアホウドリ」や「コアホウドリ」「ウミネコ」「ミツユビカモメ」などが、この航海で観測されていました。

               また荒れた海をものともせず、アザラシなのかオットセイなのか、愛嬌たっぷりにプカプカ浮かんでいる姿を見つけました。水族館で見るのとは違い、自然の中で、まるで見る人間を意識しているかのように愛嬌を振りまいてくれる姿は、一見の価値があります。

              https://1drv.ms/v/s!AilYHjP2WaAkgs4DpGraNVfwA5q-7A

               

               シャチの群が遠望されました! 船が群れを目指しスピードをあげます。

               シャッターを切る音、乗客の喚声、船全体が一つの思いに包まれたかのように、シャチの群にと集中していきます。

               笹森さんのアナウンスが船内に響きます。

               「普通は、こんなに簡単にシャチの群れを見られるとは思わないでください。一航海で、まったく逢えないこともありますし、遠くにブロー(潮吹き)しか見えないことだってあります。きょうはラッキーでした。」

               シャチのポッド(群れ)と遭遇したこと、この体験については言葉が役に立ちません。その時に撮った写真を並べておくことにします。

               

               

               

               

               

               

               シャチとの遭遇の中で、もっとも印象的だったのは、子どもを守るように泳ぐシャチの家族の姿でした。

               シャチは海のギャングのように言われています。たしかに、シャチのハンティングは、狡猾と言えるほどに巧みでチームプレーに長けています。子連れのクジラを狙い、親子を分離させた上で、子クジラの両サイドをかため、上からもう一匹のシャチがのしかかるようにして子クジラを窒息死させる、そんな様子をテレビで見たりすると、シャチが狡猾な悪者のように思われてしまいます。

               しかし反面、家族思いということでは、シャチの右に出る者はいないでしょう。クジラの仲間の中で、一夫一婦制で最後まで添い遂げるのはシャチだけです。シャチは、仲間の痛みを共有できる存在とも言われます。

               映画オルカ(1977)では、シャチを「本能で行動する獰猛な野生動物」ではなく、家族愛にあふれ、妻を人間に殺されたシャチが、その人間に復讐するという設定になっていました。

               またその後1993年に作られた「フリーウイリー」では、母親に捨てられた少年と、家族から引き離されたシャチが心を通わせるというストーリーになっていました。

               「フリーウイリー」映画化に当たって、主役のウイリーを演じたのはメキシコの水族館に所属する「ケイコ」というオスのシャチでしたが、映画が公開されるや、世界中の子どもたちから、「ケイコを海に返して!」という運動が起こりました。撮影終了後、狭い水槽の中で、皮膚病にかかり苦しむケイコの姿を、世界中の子どもたちが知ってしまったためです。

               といって、そのまま海に返しては死ぬしかありません。野生のイルカやシャチは水族館に連れてこられても、死んだエサは食べません。まず最初にするトレーニングは、人間があたえる死んだエサを食べられるようにすることです。こうして訓練されたイルカやシャチは、今度は自分でエサを採れなくなってしまいます。イルカやシャチは、水分をエサから採るため、エサを食べないと脱水症状になって死んでしまうのです。

               ケイコのために巨大なプールが用意され、ここで皮膚病を治療し、エサを自分で採れるようにして海へ返すのです。子どもたちの声が一頭のシャチを救うという奇跡が、今度は映画の中ではなく、実社会の中で起こりました。

               こうしてケイコは、世界で最も有名なシャチになりました。ただ結末を言うと、ケイコは野生の群れに入れず、何度も人間のもとに帰ってきました。それでも、あきらめず野生へ戻そうとする人たち。結局、ケイコは2003年12月12日、急性肺炎にかかり、野生にも戻れず、人間のもとへもかえってこれず、ノルウェーの海で命を落としました。ケイコの遺骸は海岸に引き上げられて埋められ、ノルウェーの子供たちの手で葬られたと聞いています。

               こんなことを考えると、イルカやシャチを水族館やレジャー施設に置くこと自体、人間の奢りのように感じてしまいます。かといって一度人間のもとに置いたイルカやシャチを、野性に返れないと分かっていながら無責任に海へ返してしまうのもどうかと思います。

               人間は「食物連鎖」の輪から飛び出し、今や自然の管理者になった気でいます。でも人間の関わった自然は、いつか歪みを見せ、崩壊へと転がっていくのではないでしょうか。

               本当に救うべきは、自然や野生動物ではなく、文明という袋小路にはまり込んだ自分たちではないでしょうか?

               

               

               野生のシャチとの遭遇、その感動の後に、自然に対しての後ろめたさが襲ってきました。

               新得の共働学舎へと向かう車中、そんなことを考えており、列車を降りてからも、共働学舎へ向かう足どりも重くなりがちです。

               途中、北のイルカさんに到着した旨、電話を入れました。

               まもなくして学舎の入り口あたりにきた時です。向こうから北のイルカさんが、笑顔いっぱいで走ってきます。そして差し出されたクッキー。自分で焼いたのだと言います。

               僕は焼き菓子があまり好きではないのですが、あのクッキーの美味しかったこと。

               イルカさんの笑顔とクッキーの味が忘れられません。

               

               次回は、僕が勝手に友人と決めてしまった、レジャー施設(南あわじ・じゃのひれ)のイルカさんたち。かえでちゃん、さくらちゃん、それにももちゃんを紹介します。

              クジラ・イルカ紀行 vol.010 / 新得から釧路へ

              2018.04.23 Monday

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                北海道にある新得共働学舎とその農場

                 

                イルカやクジラの話から少し外れますが、まずは僕が、北海道の新得共働学舎へ出向くようになった経緯から聞いてください。

                今から3年前のことになりますが、僕は、仕事の事務所を、大阪からもとの古巣である奈良県の広陵町へ移すようになりました。広陵町といえば、靴下の町ということ、それに日本で古墳が一番多い市町村ということで有名です。

                ますますクジラの話から遠ざかってきましたが、その広陵町で、「編集工房DEP」兼「自遊空間ゼロ」というフリースペースを運営するようになったのです。このフリースペースというのは、子どもが自由に時間を過ごせる、子どもと親が、ともに陶芸をしたり、お話を読み聞かせたり、ともに遊んだりと、親と子が時間を共有できる、そんな場所であります。サラリーマン時代からの長年の夢である、子どもが自由に創作活動が出来る「子ども工房」をつくりたいと、その思いが一歩を踏み出した、大げさに言えばそういう場所でもあります。

                まず、活動のシンボルになるような、子どものための本作りを考えました。何を作ろうかと考えたとき、思い浮かんだのが、北海道の「寧楽(ねいらく)共働学舎」の子どもたちのことです。

                サラリーマン時代、ボスが自由学園の理事を兼務していた関係で、これから紹介する北海道の共働学舎ともつながりがありました。自由学園とは、「真の自由人を育てる」ことを目的に、女性思想家、羽仁もと子さんと羽仁吉一さん夫婦によって1921年に創設されたキリスト教系の学校です。その関係で、僕も在職中、社員旅行で北海道を訪れたおり(これはボスが企んだことですが)、この寧楽共働学舎に滞在することになりました。

                その滞在中の日曜日のことです。

                当時、この寧楽共働学舎には、不登校の子どもたちが10人近くおり、その子どもたちと日曜日を利用して、留萌駅へSLすずらん号を見学に行くことになったのです。

                  留萌線を走る「SLすずらん号」と19年前の私(寧楽で)

                当時、NHKの朝の連続ドラマ「すずらん」の放映が終了したばかりで、ドラマに登場した蒸気機関車「すずらん号」が留萌線で不定期運行されるようになっていました。これを見学しようというのです。寧楽から留萌駅までは車で約40分の道のり。学舎のマイクロバスに子どもたちと乗り込み、ピクニック気分で、ワイワイ言いながら留萌駅を目しました。

                子どもたちといっても、小学生から中学生、高校生ぐらいの幅広い子どもたちが一台のマイクロバスに乗り合わせています。中には口もとにピアスをした、いかにも不良然とした男の子も混じっていました。

                車中では、年長の女の子がリーダー役をつとめていましたが、雑談も、いつしか身の上話的になり、僕にも何か話すように促してきます。

                僕としては、あまり話したくないことでしたが、若い頃、映画を志し、PR映画やコマーシャルフィルムの製作進行の仕事をしていたことを話しました。そして、なぜ映画の仕事を辞め、志を捨てたのかも話さざるを得なくなりました。才能がないからとか――そんな格好の良いものではありません。北軽井沢の長期ロケで、突然、訳の分からない不安感に襲われ、撮影現場から蒸発してしまったのです。取り返しのつかないことをしてしまい、その後、プロダクションに帰ったものの、みんなの目がいたたまれず、プロダクションを辞め、大学へ入学することになりました。当時は、自分のしたことの原因がつかめておらず、「誰でも出来ることが、なぜ、自分に出来ないのか」、そんな自問自答を繰り返している毎日でした。

                この話をし終えた途端、子どもたちみんなが「話したくないだろうに、話してくれてありがとう」と泣いてくれるのです。こんなにやさしい子どもたちがいるのかと思いました。ピアスの男の子まで、僕を慰めてくれる始末です。そうこうするうち、バスは留萌駅に着きましたが、すずらん号は発車した後でした。

                みんなのがっかりした顔――。

                突然、運転手をしてくれている木工工芸のお兄さんが、車内のみんなのほうを振り向くや、「追いかけるぞ」の一声。その号令一下、次の停車駅を目指して、マイクロバスが発進します。そして、途中、留萌川に沿って走るすずらん号を見つけたときは、車中が喚声に湧きたちました。

                子どものための本を作りたい、そう思ったとき、まず思い浮かんだのが、そんな寧楽共働学舎の子どもたちの喚声でした。

                とりあえず寧楽共働学舎に電話しましたが、当然のことながら、あの頃の子どもたちは、みんな元気になって巣立っていったということです。今は、在籍している子どもたちもいないとのことです。そこで、「一度、新得共働学舎へ行ってみては」と、提案を受けました。

                早速、新得へも電話を入れますが、ここも似たような状況でした。

                ところがです。数日して、新得共働学舎から連絡が入りました。

                私が電話がした後、札幌の女子中学生から電話が入り、共働学舎に置いてほしいというのです。

                その子が、今、新得共働学舎におり、僕の話をしたところ、ぜひ会いたいと言っているという次第です。

                翌週、早速、ジェットスターで新千歳空港へ飛び、南千歳から釧路行き「スーパーおおぞら」で新得を目指しました。その列車の中で、車内誌「The JR Hokkaido」に目が行きました。

                そこには、釧路で、「しゃちの観測船」に、はじめて一般の乗船希望者を受け入れるという記事が出ておりました。早速、電話番号をメモした次第です。

                 

                南千歳駅でスーパーおおぞらに乗り新得を目指す/右上の写真は、トマムの駅を過ぎた辺りの景色

                 

                シャチの話はひとまず置くとして、新得共働学舎に着くや、オーナーの奥さんが出迎えてくれ、

                「桐生さんから電話があって、すぐ、あの娘(こ)から連絡があったんです。不思議なものですねえ。今、呼んできますから待っててくださいね。」

                 

                やがて事務室の一角で、彼女と出会いました。

                彼女の提案で、翌朝、彼女の好きな牧場の散歩を一緒にすることになり、そこで話したいということになったのです。その日は、共働学舎のゲストルームに泊めてもらい、翌早朝6時、朝食前に二人で牧場が見渡される丘へと散歩することになりました。

                 

                この朝、「どうして自分は学校へ行けないのか」「どうしてみんなとうまくやっていけないのか」等々、彼女が抱える疑問の数々を聞かせてもらいましたが、最後に、「ほかにも、いろんな疑問を抱えている子どもたちがいるのかなあ、いたら話してみたい、会ってみたい」――彼女のその問いかけから、自遊空間ゼロの出版第一作「僕のナゼ、私のナゼ」が生まれることになりました。

                北海道から帰るなり、早速、協力してくれる子どもたちを探しました。結局、北海道の彼女以外に、岐阜大垣の子どもが3人、大阪の子どもが3人、あわせて7人の子どもが協力してくれ、自分の中に抱えている「ナゼ」と向かいあってくれることになりました。

                こうして出てきた「ナゼ」は、子どもたちの「本音」が詰まっており、想像以上にシリアスなものでした。このまま公開するより、イルカの子どもたちに置き換えたストーリーを作ろうということになりました。

                これは、僕のクジラ好きを知った、北海道の女の子が提案してくれたもので、以来、彼女から来る手紙には、必ず最後に「北のイルカより」と書かれてありました。

                以下は、彼女を主人公にした「僕のナゼ、私のナゼ」の結末部分です。

                    「僕のナゼ、私のナゼ」、表紙と本文から

                目覚めたのは病院の一室だった。
                そこは、先ほどまでの透明感のある真っ青な世界とはちがう、まっ白な世界だった。
                窓から入りこむ朝のまぶしげな光が、普段はもっとくすんでいるだろう白い病室を輝やかせていた。
                おきあがろうとしたかえでは、腕に小さな痛みを感じた。
                左腕に注射針が固定されていた。
                「目を覚まされました。」
                耳もとで看護婦の声がひびき、見わたすと、ぼんやりと、父と母の心配げな顔が浮かびあがってきた。

                かえでは、いつからか中学校へ行かなくなった。

                というより、行けなくなったというのが本当のところだ。
                みんなが自分のことをどう思っているのか、そう思うと学校へ行くのが不安でしかたなくなってきた。
                勉強は嫌いではない。むしろ好きなほう。

                本の虫で、教科書にしろ参考書にしろ、新しい知識、新しい世界にみちびいてくれる本の世界が、かえでには学校だった。
                そんなわけで学校に行かなくても、成績は、学年で常に十番以内に入っていた。
                お母さんからも、進学のことを言われると、学校へ行かないことも不安の種になり、試験の時だけは学校へ行った。
                それがまた、みんなから白い目で見られる原因になった。
                「あの子、普通じゃないのよ」
                「みんなのことバカにしてるのよ」
                「ちょっと成績がいいからって、私たちのこと無視ししている」
                「試験の時だけ出てきて、格好つけすぎよ」
                「私たち、頭が悪いって言われてるみたいじゃない!」
                「みんなと一緒にやれないネクラ少女よ!」
                みんなの思いが聞こえてくるようで、気になりだすと、ますます学校へ行けなくなった。
                でも家にいると、母とぶつかることが多くなった。
                いい子であろうと必死しになったが、それがまた苦しくて、だれにも迷惑にならずにいたい。

                いっそ死んでしまおうと思い、自殺も考えたが、父や母を悲しませるし……
                あれやこれや考えるうち、ご飯が食べられなくなった。
                食事がとれない状態が続くと、不思議に頭がさえきって、なんでも見通せるような感覚になってくる。
                そんななか、自分を知る人が誰もいない世界に身を置きたいと思うようになり、インターネットで「不登校の中学生でも入れるような住みこみの施設」を探すようになった。

                記憶はそこまでだ。
                かえでは摂食障害でたおれ、救急車で病院へ運ばれた。
                かえでは思った。
                (イルカさんとの体験は、私の空想が生みだした世界なんだろうか?)

                ……………………

                「僕のナゼ、私のナゼ」制作中も、スーパー大空の車中で知った釧路のシャチ観測船のことが忘れられず、新得へ彼女の様子を見に行きたいということもあって、11月初旬、「新得」から更に先の「釧路」を目指すことになったという次第です。

                 

                「北のイルカさん」との出会いが、「北のオルカさん」ファミリーと出会うきっかけとなりました。

                次回は、いよいよ釧路港発「シャチ観測船」に乗り込みます。

                 

                新得共働学舎の朝/右上の写真はゲストルーム内部

                クジラ・イルカ紀行 vol.009 / 天草のミナミバンドーイルカ

                2018.04.09 Monday

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                  沿岸部を泳ぐミナミバンドーイルカ
                  天草通詞島沿岸部を泳ぐミナミバンドーイルカ

                   

                  私たちが普通イルカと言って、水族館やレジャー施設で出会う種類はバンドーイルカが圧倒的に多いのです。というのも、バンドーイルカが、もっとも頭が良く人にも良く慣れる性質があると言われているからです。一頃、映画「ザ・コーブ」が日本でも公開され、これによって和歌山県太地のイルカ追い込み漁が問題になりましたが、その中で、入江に追い込まれたイルカを、水族館やレジャー施設の学芸員の方が選んで買い付けていくシーンがありました。 これは何を選んでいるかというと、バンドーイルカのメスを選んでいるのです。これもバンドーイルカ、特にメスのバンドーイルカが、頭が良く、人にも良く慣れ、調教しやすいと言われているためです。

                  イルカブームの火付け役となったアメリカのテレビドラマ「わんぱくフリッパー」(1966年〜1968年にかけて放映)の主人公もバンドーイルカでした。

                  このようにバンドーイルカは、我々にもっともなじみの深いイルカなのですが、では、今ここで取り上げているミナミバンドーイルカとはどう違うのでしょうか?

                  前回でも触れましたように、2000年までは、ミナミバンドーイルカもバンドーイルカの亜種と思われていました。それほどよく似ているわけで、我々素人には見分けがつきませんし、どちらでも良いようにも思えてしまいます。

                  でも、もうちょっと頑張って、その違いを勉強しておきましょう。

                  まず大きさですが、バンドーイルカは成長して約4m前後になると言われていますが、ミナミバンドーイルカは約2.5m前後、つまりバンドーイルカよりも小ぶりな訳です。

                  ついで吻(ふん)――これは動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指して言う言葉ですが――これが、どちらも突き出しているのですが、バンドーイルカのほうが丸っぽくてぽっちゃりしている感じがあります。これに対しミナミバンドーイルカは、ほっそり長く突き出しているような感じなのです。

                  ほかに外面的な特徴として、ミナミバンドーイルカは、成長すると腹部にまだら模様ができると言われています。これは僕も見たことがないし、船からのウォッチングでは確認することが難しいと思います。ただ背びれが、バンドーイルカが丸みを帯びた三角形なのに対し、ミナミバンドーイルカはとがった三角形に近いと言われています。うーん、これも個体差があって、実際には背びれだけで判断は難しいと思います。総合的に判断するしかないと思います。

                  さて最後に、これが最も重要な違いなのですが、住む場所が違うのです。

                  バンドーイルカが沖合を長距離移動しているのに対し、ミナミバンドーイルカは、沿岸部に群れをなして住み着く性質があります。

                  日本での分布は、伊豆諸島、なかでも御蔵島の野生イルカ、それに石川県の七尾湾、そして今回行く天草の五和町通詞島の沿岸が最も有名ということになるでしょうか。

                   

                  産交バス旧二江小学校前を海のほうへ下っていくとイルカウォッチング発着所に着く。

                   

                   (ミナミバンドーイルカの群れが沿岸部にいることがよく分かる)

                  さて、今回は熊本から天草までを長距離バスで向かうことにしました。海辺の景色を楽しみながら約2時間半、バスはやがて、終点の本渡バスセンターへと到着します。ここからは富岡港行き路線バスに乗り換えますが、本数が少ないので事前に調べておいた方がよいでしょう。無事バスに乗れましたら「旧二江小学校前」で下車し、ここから海を目指して下っていくと約5分でイルカウォッチング発着所に着きます。

                  発着所には、「平成27年度イルカの絵コンクール」の入賞作品が展示されていました。幼稚園、保育園の子供たちが描いたイルカの絵ばかり。ウォチング船が出るまでの待ち時間、一枚一枚の絵を眺めていますと、天草の「イルカ」と「人」の関係が端的に表れているように感じました。

                  イルカ(自然)と獲物を取り合うのでなく、イルカ(自然)と共に生きている、そんな感じを受けるのです。

                  そうこうするうち、もう一人、ウォッチング船に乗る若い女性が発着所の待合に入ってきました。さわやかな感じの女性で、見れば、モータードライブのすごいカメラを抱えています。

                  受付の男性に紹介され、彼女が長崎大学水産学部の研究室の学生さんで、定期的にミナミバンドーイルカを観察しに来られているのだと知りました。

                  出発の時間です。

                  乗船する船は、入江一徳船長の操船する「天神丸」。ほかにも「大潮丸」「久栄丸」の2船がともに出船することになっています。乗船客を観察していますと、何組みかの親子連れのほかに、車椅子の障害者の方もおられ、同じ車椅子の方でも、ご老人の方もおられるようで、クルーの方たちが車椅子の積み込みに精を出しておられました。

                   

                  (入江船長と天神丸/出船準備のクルーたち)

                   

                  いよいよ出船となり、船長や長崎大学の学生さんと話すうち、早くもイルカの群れと出会いました。

                  いくつかの群れが次々と現れ、船の舳先や舷側をブロー(潮吹き)しながら泳ぎ回り、たちまち海を覆っていきます。これがバンドーイルカのウォッチングや、クジラのウォッチング、はたまたシャチ(オルカ)のウォッチングであれば、こう簡単にはいきません。まるで出会えないときもありますし、出会えても、遠くからブローが見えただけというときもあります。沿岸部を拠点に群れで生息するミナミバンドーイルカならではの壮観です。

                  石川の能登島では、一つの群れでしたが、ここでは無数の群れが生息しているため、ウォッチングでイルカと遭遇できる確率は、ほぼ100%と言っても過言ではありません。

                  僕の横手では、モータードライブのカメラが、シャッターを押すたび「ウォーン、ウォーン」と、小気味よい音を立て続け、僕も負けじとHDムービーカメラを回します。

                   

                  出船するや、たちまち現れたミナミバンドーイルカの群れ

                   

                  もう話を聞いている間もありません。いったん海が静かになったと思っても、すぐ横に「ブオッ」という音とともにイルカが群れで顔を出す。船の先頭を行ったかと思うと、船の下をくぐり横切っていく。子供たちのはしゃぐ声。ブローの音、イルカの声。ウォッチング船も含め、周囲一帯が、一つの興奮状態に包まれている、そんな感じです。イルカたちも、そんな雰囲気を楽しんでいるかのようで、人とイルカと海が、まるで一つになったような時間が連続していきます。

                   

                   

                   

                   

                  そろそろ話をまとめなければなりません。

                  そこで、NHKの番組「ニッポンの里山/イルカと生きる里の海」(熊本県天草市)に話を戻しましょう。そこには天草の漁師たちの思いが隠されていました。彼らは海を豊かにするため、一日の漁獲量を制限し、さらに手の空いた時間には海へ潜り海藻を植えて回っていたのです。

                  海が豊かになれば、イルカたちも住み着く。漁師さんたちは言います。

                  「イルカが泳ぎまわる海は、海が豊かになってきた証し」だと。

                   

                  前々回、壱岐のイルカ事件を紹介しました。そこで言われるように、イルカたちが漁師さんたちの獲物を横取りする、いわゆる「食害」になっていたことは間違いありません。しかし、イルカが来なくなっても、漁獲量は回復せず減少する一方だと聞いています。イルカの食害は、表面的な問題で、実は海が豊かでなくなってきている、それが根本的な原因だったように感じられます。

                  海の豊かさを取り戻そうとする天草の漁師の人たち、同様に1000キロ離れた能登島の漁師の人たちも、糸もずくの採集を通して、海藻を大事にすることで海の豊かさを守ろうとしています。

                  海藻が茂ることにより、小さな海の生きものが集まり、それをエサとするイルカたちも集まってくる。

                  海を豊かにしようとする能登島の漁師の人たちの思いが、はるか南のイルカたちを呼び寄せたのではないでしょうか。能登島ではミナミバンドーイルカの新たなポッド(群れ)が成長しつつあります。それと平行するように、能登島の海も豊かになっていく。「やさしい思いが豊かな海を育てる」、その優しさに導かれ、南のイルカが北の海へとやってきた、そんな印象を、天草通詞島と石川能登島の取材で感じた次第です。

                   

                  天草エアラインの新しいプロペラ機 MIZOKA ATR2-600

                   

                  行きはバスでしたが、帰途は天草空港から、イルカさんの飛行機に乗って天草を離れることにいたします。

                  次回は、能登島よりずっとずっと北へ。北海道は釧路の海で、シャチ(オルカ)探査船に皆さんを招待することにいたします。

                  クジラ・イルカ紀行 vol.008 / 能登島のミナミバンドーイルカ

                  2018.04.04 Wednesday

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                         NHK「ニッポンの里山 イルカが暮らす里の入江」

                    NHKの朝の番組に全国各地の里山を紹介する「ニッポンの里山」という長寿番組があります。そのシリーズの中で「海の里山」として紹介された二つの場所、それが熊本県の天草と石川県の能登島です。

                    2013年 1月28日に放送された「イルカと生きる里の海(熊本県天草市)と、2014年9月29日放送された「イルカが暮らす里の入り江」(石川県七尾市)が、それです。

                    そして、この二つの地域をつないでいるのが、天草のミナミバンドウイルカなのです。

                     

                    ところで、石川県の能登島にイルカが住み着いていると言えば、本来は「カマイルカ」のことだと思ってしまいます。ところが、この北の海に住み着いているのは意外なことに「ミナミバンドーイルカ」の群れなのです。

                    ミナミバンドーイルカについては、従来、バンドーイルカの亜種であるとされていましたが、2000年の国際捕鯨委員会 (IWC) 科学委員会により別の種とされました。

                    そして、その生息地の北限が、石川県七尾市能登島の七尾湾ということになるそうです。

                    さらに驚くことには、この七尾湾のイルカ、もとは天草沖合に2000頭以上のミナミバンドーイルカが暮らしていますが、その中の2頭のつがいが移り住んだものだといわれています。

                    ちなみに天草市五和町から七尾市能登島まで、およそ1000キロメートル。その距離を2頭のイルカ夫婦が北上し、能登島で新たな群れの始祖となったという次第です。

                    大克丸と大橋克礼船長(石川県七尾市能登島)

                     

                    上の写真は、僕が能登島に、南バンドーイルカの取材に訪れた際、ウォッチングの船を出してくれた大橋克礼船長と、その持ち舟・大克丸です。大橋船長は、もともとはこの能登島で郵便局に勤めておられました。それが定年退職後、退職金で、この大克丸を手に入れ、イルカのウォッチングと釣りイカダのレンタルを生業とするようになりました。大橋船長は、ミナミバンドーイルカが、この七尾湾に住み着くようになってこのかた、イルカ夫婦が一族をなしていく変遷を垣間見てこられた方なのです。

                    その大橋船長に、「本当に天草のバンドーイルカなのですか」と尋ねてみました。

                    船長が言うには、七尾湾にイルカが住み着くようになって騒がれ出した頃、長崎大学の水産学部の先生が調べに来られ、間違いなく天草のイルカだと断定したというのです。というのも、長崎大学水産学部では、長年、天草のミナミバンドーイルカの個体識別をおこなっており、背びれや尾びれの形、胴体の傷や特徴から、天草のイルカは、ほぼ特定できるようになっているのだと言うことです。

                     

                    沖合でなく沿岸部まできて遊ぶ南バンドーイルカの群れ

                     

                    さて、このイルカのことで、「まだ面白いことが……」というか、わからないことがあります。

                    それはイルカ社会がメス社会で、一夫一婦制ではないということです。クジラの仲間で、一夫一婦制なのはシャチだけだと言われています。シャチは夫婦の絆が強く死ぬまでともに暮らすと言われています。これに反しイルカはオスは種付けをするだけで群れには残りません。そうして生まれてくる子も、メスならグループに残りますが、オスの子は成長すると群れを離れていきます。こうしてイルカグループは、大お婆さんをリーダーとして、その娘、そのまた娘とが連なりグループを形成していくというわけです。グループに子供が生まれると、メス同士が助け合って育てていきます。もし子育て中の親子イルカを見ることがあっても、二頭のイルカは夫婦でなく、お母さんイルカとそれを助けるおばさんイルカというわけです。

                    それが意外なことに、天草から遠く離れ、石川県は能登島の七尾湾まで旅をしたイルカ夫婦なのですが、大橋船長が言うに、今も夫婦で、オスはグループに残っていると言うのです。七尾湾で新たに生まれた子供たちは、ルール通りオスの子は群れを離れていっているようです。ところが、群れの始原の二頭は、今もオスがグループにとどまっていると言うことです。

                    ことの真偽を確かめるべく、長崎大学水産学部の天野教授へ電話を入れたところ、大橋船長の話は間違いなさそうです。不思議に思い「どうしてこんなことが起こるんですか? イルカ社会はメス社会で、オスは離れていくと、どのイルカの解説書にも書かれているんですが……」

                    「そんなことを言っても、現にあるんやからしょうがない!」

                    これは当事者である能登島のミナミバンドーイルカ夫婦に訊いてみるより仕方がなさそうです。

                    イルカが話せたら、いったい、どんなロマンスを語ってくれるのでしょう?


                    さて次回は、この七尾湾のイルカ夫婦のふるさと「天草」を紹介させていただきます。

                    「石川」と「熊本」、1000キロ離れた北と南の二つの海域には、いったい、どのような共通点があるのでしょうか? 人間と自然、その関係に新たな視点を見つけることが出来るのかも知れません。

                     

                    クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」

                    2018.03.07 Wednesday

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                      デクスター氏が壱岐に滞在中、宿泊した「ふくや荘」

                       

                       デクスター・ロンドン・ケイトさんについては、グリーンピースの運動家ということ以外、あまり分かっていません。

                       壱岐イルカ事件当時(1980年)は36才と言いますから、生きておられれば、今年で74才になられるのでしょうが、事件後、ダイビングの事故で亡くなられたと聞いています。

                       ケイトさんが最後に壱岐へ来られたときは、奥さん子供連れで、壱岐の「ふくや荘」に泊まられたようです。僕も、壱岐の辰の島取材のおり、辰の島への渡船や遊覧船のガイドをしておられるMさんから、ケイトさんが泊まられたのが「ふくや荘」だということを教えていただきました。

                       辰の島取材の後、その足でふくや荘を訪問させていただいたのですが、あいにく、この日は島をあげての運動会の日、旅館はもぬけのカラという状態。近所の方が見かねて「呼んできてあげましょうか?」と、親切に声をかけていただいたのですが、せっかくのお孫さんの運動会を邪魔する訳にもいかずお断りした次第です。

                       

                      壱岐から辰の島への渡船場/観光船「KATSUMOTO」/船長(上)とガイドのMさん

                       

                       ところで、辰の島取材に当たっては、壱岐市役所観光課を通して「当時の模様を知る人に」ということで取材の申込みをしていました。取材当日は、今は勝本町漁港で観光船の船長をしておられる方が話してくださることになっていたのですが、やはりお孫さんの運動会ということで、辰の島へ渡る船が出るまでの時間、大急ぎで次のようなことを話してくれました。

                      「イルカを追い込んだのは昭和52年と53年のことで、2000頭ちかくを辰の島海水浴場に追い込んで網で囲ったんですよ。それを聞いた愛護団体のケイトという人が夜中に網を切って、約300頭ほどを逃がし、それが裁判沙汰になったんですよね。

                       でも、これが爆発したのは一日や二日のことではないんですよ。何年も何年もかかって、あげくの果ての爆発なんですよ。

                       ここ勝本はイカやブリを獲って生活しておったんですよ。それをイルカが食べに来るんですよね。だから何年も何年も、どうしたらよいか、どうしたらよいかと悩んだあげく、仕方なく、昭和52年と昭和53年に追い込みに踏み切ったわけです。

                       殺生は、しとうなかとですもん、どうしても生活がかかっとりますもんね。

                       イカ漁というのは、油代が一日何万もかかるんですよ。イルカは頭が良いけん、集魚灯を焚いて、高い燃料代つこうて、イカが寄ってきたと思う時分にやってくるですもんね。そうなると、その日はまるまる赤字――それが一年や二年やないんです。何年も何年も続いてきたとですよ。悩んだあげくに殺すことになったとです。」

                       ――――――――

                      「お客さん、辰の島へ渡る船が出るけん……」

                       女性の受付けの方が、船の出航を知らせに来てくれた。このあとは、船のガイドをしているMさんという男性が、船長に引き続き、当時の話や案内をしてくれることになった。

                       

                      辰の島へは、壱岐の勝本漁港を出港して10分あまりで到着。

                       

                       イルカの大量屠殺で問題となった壹岐の無人島、辰の島へ到着です。

                       船長から話を引き継ぎ、辰の島を案内してくれるのは遊覧船でガイドをするMさん。
                       Mさんは、事件当時は中学生で、イルカの屠殺にアルバイトとして駆り出された一人です。今から40年近く前の話ですが、このアルバイト、時給800円の高額バイトだったそうです。

                       そのMさんの言うには、

                      「浜辺に並べられたイルカが涙流すんよ。」

                       さらに聞くと、涙を流すだけでなく、声を上げて泣くのだともいいます。

                      「叫ぶような、助けを求めているような、あの声を聞くと切のうてたまらん……」

                       

                      事件現場で、当時のことをつらそうに話してくれるMさん

                       

                       Mさんの話では、今もときどき沖から2〜3マイルの所にイルカの群れがあらわれるときがあるそうです。

                      「そのときはどうするのですか」と聞いてみると、「爆弾で追い払うんよ! 殺すんやないよ、追っ払うんじゃ」との答えが返ってきました。

                       あとで調べたところでは、これは「爆弾」ではなく「爆竹」で追っ払っているということらしいです。

                       このあと、迎えの船は、辰の島周辺の蒼く澄み切った海を遊覧し、勝本漁港へと帰ることとなりました。

                       

                       

                       

                       さて、辰の島の取材を終えるに当たって、最後に、デクスター・ケイトさんの人となりを「ふくや荘」のご主人や奥さんの証言を紹介しておきたいと思います。僕自身は、ふくや荘の方々とは、ついにお会いすることができませんでしたが、川端裕人さんの著書「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」(2010年刊)から引用させていただきます。

                       デクスター・ケイトはひょろりとした長身の白人で、髪を後ろに束ねたヒッピー風の風貌だった。物腰が柔らかく優しい目をしていた。肉食をきらい、魚を喜んで食べた。
                      「動物好きで、穏やかな人だった。子どもにも人気があった。息子ともよく遊んでくれた」
                       ケイトの最後の壱岐訪問の際、例の事件が起こるまでの一週間、彼は毎日何をするでもなく過ごしていた。つれづれなるままに、近所の子どもたちとよく遊んだ。イルカが出てくる映画を見せてくれて、子どもたちが喜んだり、宿の主人もおばさんも、動物が好きでわざわざここまでやってきた人として、好意すら抱いていたという。
                       ある朝、漁協から電話がかかってきた。
                      「そっちのガイジンさんどうなってる。いるか?」と聞かれ、
                      「ああ、いるよ」と答えた。朝食前の時間である。当然、いると思ったのだという。
                       ところが部屋を訪ねてみると、奥さんと子どもしかいない。言葉が通じないから分からないが、奥さんもなにか慌てている。そうこうするうちに、刑事がやってくるやら、漁協の幹部がやってくるやらで、大変なことになった。
                       前夜のうちにケイトは単身、辰ノ島に渡ってイルカの囲い網を切ってしまったというのだ。

                       ケイトは、今までの努力がすべて無駄だったと悟りました。

                       後は実力行使あるのみ。ケイトは、せめて今囲い込まれているイルカだけでも救おうと、皆が寝静まるのを待ってゴムボートで辰の島を目指したのです。

                       ケイトは、無事、囲い込みの網は切ったものの、折からの春の嵐に遭遇しゴムボートでは勝本へ戻れなくなってしまいました。そこでケイトは、網を切り、イルカたちを逃がすだけでなく、今度は浜にあげられたイルカたちを、一頭一頭引きずり、海へ戻す作業を始めたのです。

                       夜が明けて、イルカの処理作業に戻ってきた漁師たちは、網を切り、浜のイルカを引きずるようにして海へ戻しているケイトを見つけたのでした。

                       ケイトは「威力業務妨害」の罪で逮捕され、これより6回にわたって「動物の権利」が法廷で論議されることになりました。しかし、ケイトの思いは無視され、結局、ケイトの国外追放で、壱岐イルカ事件は幕を閉じたのです。

                       後日談ですが、漁獲量減少の張本人とされたイルカも、この海域には来なくなったのですが、それでも漁獲量が回復することはありませんでした。イルカの食害があったには違いありませんが、それ以上に乱獲による資源の枯渇が、問題の根本にあったようです。

                       

                       次回は、この問題に別の取り組みをする「天草」に渡り、ミナミバンドーイルカと人間の関わりを取材します。

                       さらに北の海を目指したミナミバンドーイルカのカップルを追って、石川県能登島へと向かいます。

                       

                      天草のミナミバンドーイルカ