クジラ・イルカ紀行 vol.002 / 山口県長門市「早川家とくじら墓」

2018.02.03 Saturday

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    刃刺しの銑吉には不思議な特技があった。

    ご存知のようにクジラは哺乳類で、呼吸のために頭の上に鼻がついており、それを水面に出している。いかに長く深く海中に潜ろうと、呼吸のために、いつかは海面に頭を出さなければならない。

    ホエールウォッチングをしたことがある人なら分かるだろうが、クジラが出てくる場所を探すには「潮吹き(ブロー)」が目当てとなる。クジラが水面に上がるや鼻から溜まった海水を一気に噴き出すのだ。

    ところが仙吉は、見るのでなく、クジラを感じることができるという。今、海中のどのあたりにいるのか、どのあたりに上がってくるのか、まるで海の中にいるクジラの様子が手に取るようにわかってしまうらしい。

    そんな次第だから、鳥羽のクジラ捕り仲間では一目置かれる存在になっていた。だが、その半面、この力が災いしてどうにもやるせない思いに追い込まれることがある。

    南の海で生まれた子クジラを連れ、北の海にかえるメスの座頭クジラを見つけた時のことだ。

    普段は子連れのクジラは見逃すようにしている。クジラは母性愛が強く、子連れの時は常より猛々しくなる。しかも給餌のために帰る下りクジラは、子育て期間中、ほとんど餌を口にしていない。つまり栄養不良状態なのだ。そのうえ北へ流れる黒潮に乗っているので、泳ぐ速度も速く捕らえるのが難しいときている。

    普段なら見送るところだが、どうしたわけか、ここしばらくまったくクジラが姿を見せず、浦の生活自体も苦しくなってきていた。そこへ母親からはぐれた子クジラが浦へ迷い込んできたという次第。

    クジラの中でもザトウクジラは特に母性愛が強い。子供をおとりに捕まえてしまえば、決して母親はその子のそばを離れることはない。いやなやり方だが、浦の生活を思えば、なんとしても見逃すことはできない。

     

    (現在の石鏡漁港 宝永の大津波のあと、この地に移ってきたと言われる。)

     

    これが「石鏡(いじか)ものがたり」発端のシチュエーションである。

    「今回は見逃してほしい、子供を北の海へ連れて帰ったあと、この沖を通るときは、この命をささげよう!」

    銑吉は、伝わってきた母親クジラの思いを無視し、「浦のためだ、しかたねえ!」と、子供をおとりに母親クジラを追い込み、ついにとどめを刺す。

    銑吉は、とどめを刺すとき、まるで自分の母親を殺しているような後ろめたさに襲われたのだった。

    そして宝永の大地震、このときの大津波によって石鏡は壊滅する。

    生き残った銑吉は、殺した母鯨の断末魔の吠え声に苛まれ、壊滅した浦や村を彷徨いつづける。そんなとき、赤子に乳を含ませながら死んでいる母親に呼び止められた。

    最初は死んでいるとは思わなかったのだが、確かめれば、すでに息の切れた骸にちがいなかった。

    その骸のおっぱいにしがみつき、その子は元気に泣き叫んでいた。

    死んだ母親から「この娘を、この娘を……」という思いが伝わってくる。

    「石鏡ものがたり」の話はさておき、私はいま、石鏡からは遠く離れた、山口県長門市の青海島にある「早川家」住宅にお邪魔しています。江戸時代には、代々「古式捕鯨」の網本として存続し、現在、建物は重要文化財に指定された建物です。

     

    海から見た早川家住宅(昭和初期?)

    江戸時代の浜の状況

    現在の早川家住宅(内部)

     

    一番上の写真は、「重要文化財 早川家修理報告書」に掲載されていた写真をコピーさせていただいたものですが、船着き場が往時より随分小さくなっています。往時は江戸時代の浜の絵図面を見ても分かるように、鯨三頭が悠々並ぶ、かなりな規模のものだったようです。この同じ浜から、勢子舟(せこぶね)、樽舟、網船、持左右舟(もっそうぶね)など十数艘からなる鯨船の船団が漕ぎ出していきました。

    ちなみに早川家住宅は、江戸時代、通(かよい)に五軒あったといわれる鯨組の網本で、鯨屋敷と呼ばれ、全国でも数少ないとされる鯨漁家の遺構だといいます。この元鯨屋敷で、お茶とお菓子をいただきながら早川館長自ら通にある鯨墓や鯨の過去帳についてお話ししていただきました。

    早川館長の話によると、通の漁師たちは、捕れた鯨の一頭一頭に人間同様「戒名」をつけ、手厚く祀ったと言います。また鯨墓は小高い丘の上に、未だ海を見ることなく亡くなった鯨の胎児、その思いが海に届くようにという計らいから建てられたとも、また、はるばる訪れた鯨の子孫たちが、先祖の墓参りができるよう、海から見える小高い丘に作られたとも言います。

    いずれにせよ、通の漁師たちは、命のやり取りをする鯨たちを、人間に近い存在としてとらえていたようです。

    早川家住宅を後にし、鯨墓へと向かい、そのあと鯨の過去帳があるという向岸寺を訪ねますが、この向岸寺で不思議な体験をしました。話せば不思議でも何でもないと笑われそうですが、まずは話を聞いてください。

    駆けてあがったお寺の石段。

    おまいりすませて降りかけて、

    なぜだか、ふっと、おもい出す。

    石のすきまのかたばみの

    赤いちいさい葉のことを。

    ――とおい昔にみたように。

    向岸寺への近道とされる石段の坂道。その坂道を上り詰めた左手のお寺の壁に、金子みすゞの詩が掲げられてありました。その詩の書かれたわきに、金子みすゞの父親は、この向岸寺の旦那だったことが紹介されていました。みすゞが、まだ小さなころは、この向岸寺にもよく遊びにきたことが、この詩からも窺えます。

    今、上ってきたこの石段を、みすゞも幼少時に上り下りしていたのでしょう。

    そんなことを考えながらお寺の門をくぐったときです。墓参りでしょうか、いきなり着物姿の上品な老女と出会いました。

    「なにかお寺にご用?」

    「鯨の過去帳が、このお寺にあると聞いてきたのですが……」

    老婆というにはあまりに上品で、というより生活感がなく、浦で出会い話を交わしたおばさんたちとはあきらかに違った存在がそこにありました。お歳には違いないのですが、強いて言えば老婦人とでもいうのでしょうか、歳を感じさせない不思議なオーラを漂わせています。

    「和尚さんは、もうすぐ出かけられるから急いだほうがいいわ。ついて行ってあげましょうか?」

    私はお礼を言うと「一人で行ってみます」と、思いとは逆のことを口にしていました。

    そのあと、彼女がどこへ行ったのか、お寺のほうへ向かったのか、出ていかれたのか、さっぱりと思い出せないのです。覚えているのは、住職から、「これから急ぎの用があるので、またにしてほしい」と断られたこと。「いきなり来ず前もって連絡してほしい」と言われたこと。

    確かにこちらの落ち度には違いありません。仕方なく帰ろうとしたとき、どうしたわけか、住職が追いかけてきて「20分だけ」と制限付きで「鯨の過去帳」の写真を撮らせてもらえることになりました。住職は「ライトはダメだからね」と念押しすると、本堂へ上がって待っているように言いのこし、勝手口へと消えていきました。

     

    鯨墓と鯨の位牌

    向岸寺に現存する鯨の戒名

     

    こうして、何とか写真は撮れたものの、どう考えても住職の心を変えさせたのは、先の老婦人が口をきいてくれたに違いありません。でも住職の心を変えさせるには、よほど力のある檀家か、それとも、今の住職は養子として迎えられたと聞いているので、養い親の婦人なのかもしれません?

    答えが出ぬままに、青海島を離れることになりましたが、バスが仙崎の町へ入ったとき、「金子みすゞ記念館」がオープンしたという案内が目に入り、次いで、その記念館の建物がバスの車窓に飛び込んできました。

    ―――

    そんなわけがない、そんなバカな話は考えられない。

    そう思いつつも、向岸寺で出会った夫人は、金子みすゞさんとつながりの深い人に違いない、お孫さんか、縁続きの人か? それとも本人?! 一瞬、そんな途方もない思いに落ち込んでいました。

    次回は、沖縄は慶良間諸島の座間味に住む素敵なご夫婦を紹介します。

     

    クジラ・イルカ紀行 vol.001 / 山口県長門市「くじら資料館」

    2018.01.23 Tuesday

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       超久しぶりにブログを書き始めようと思った。

       一つの目的は、出版を予定している「動物のいる風景」―イルカ・クジラ編―の筆がなかなか進まないためである。少しずつブログで書きためていこうという魂胆。また、同時に子供向き読み物「石鏡(いじか)ものがたり」の想を練るという目的も兼ねている。

       ところで、この「石鏡ものがたり」は、鳥羽でまだ捕鯨業が盛んだったころのお話。子クジラをおとりに母親の座頭クジラを仕留めた刃刺しの銑吉。不漁続きで、見逃してほしいという母親クジラの夢だのみを無視して、泣く泣く母クジラを仕留めた銑吉だが……。

       この銑吉にかかわらず、クジラ捕りの男たちは、ある種の後ろめたさを抱えている。特に母クジラを殺した後、残された子クジラたちは、このままではどうせ死んでいくだけ、それなら、人間の血となり肉となって、ともに成仏してくれという寸法。しかしいくら自分に言い聞かせてみても、ある種の後ろめたさというか後悔というものがついてまわる。子クジラだけではない、成獣となったクジラでも、いよいよの断末魔の吠え声は、熟練の刃刺でさえ耳をふさぎたくなるほど切ないものだという。

       このためだろうか、クジラを供養する墓は、他の動物のものと比べダントツに多く、日本全国で約100か所に及ぶという。

       今回訪れたのは、山口県長門市の青海島(おうみじま)にある通(かよい)というところ。毎年7月に通(かよい)クジラまつりがることで有名だが、この時ばかりはにぎわうものの、それ以外は辺鄙な漁師町。この辺鄙な漁師町の中心に目的の「くじら資料館」があった。

       長門市駅からバスで揺られること30分近く、通(かよい)漁協前で降りてすぐ目の前にある。建物の陰に巨大なザトウクジラの姿が見え隠れするように姿を現す。クジラ資料館の広場に置かれたクジラの張りぼてだ。クジラ祭りに使われるのだろう。その前には座頭クジラの尾びれが台座の上に据え付けられ、その台座にはめ込まれた銘板に次のような一文が記されている。

      「有情/通浦では延宝元年(1673)頃から網取法によって捕鯨が始められ、明治末期まで長州捕鯨の中心をなしていました。

       捕獲した鯨に対する報恩感謝を願う人情厚い浦人たちによって、鯨墓を元禄五年(1692)に左山手の清月庵に建立しました。

       墓地には七十数体の鯨の胎児がまだ見ぬ大海の夢を抱いたまま、地中に永眠しています。

       平成三年三月 長門市教育委員会」

       

       

       館内に入ってまず目につくのが金子みすゞさんのクジラを歌った詩二編「くじら法会」と「鯨捕り」。「くじら法会」は館内に入ったホールに飾られており、入り口の「有情」の銘板と共にクジラ捕りの切なさがヒシヒシと伝わってくる。

       

        くじら法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ。
        浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、
        村の漁師が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、
        沖でくじらの子がひとり、

        その鳴る鐘をききながら、
        死んだ父さま、母さまを、

        こいし、こいしと泣いてます。
        海のおもてを、鐘の音は、

        海のどこまで、ひびくやら。

       

       

        海の鳴る夜は 冬の夜は、

        栗を焼き焼き 聴きました。
        むかし、むかしの鯨捕り、

        ここのこの海、紫津(しづ)が浦。
        海は荒海、時季(とき)は冬、

        風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。
        岩も礫(こいし)もむらさきの、

        常は水さえむらさきの、

        岸さえ朱(あけ)に染むといふ。
        厚いどてらの重ね着で、

        舟の舳(みよし)に見て立つて、
        鯨弱ればたちまちに、
        ぱつと脱ぎすて素つ裸、

        さかまく波にをどり込む、

        むかし、むかしの漁師たち
        きいてる胸も をどります。
        いまは鯨はもう寄らぬ、

        浦は貧乏になりました。
        海は鳴ります。冬の夜を、

        おはなしすむと、気がつくと

       

       みすゞの詩にしんみりしていると、「説明しましょうか」と、中肉中背ながら、がっしりとした老人が声をかけてくれた。それが、この長門市くじら資料館の館長・早川さんだった。

       早川さん……早川さんといえば、つい今しがた見て回っていた館内資料の中に「早川家」という古式捕鯨の元網本の屋敷が紹介されていた。この資料館に来る前にも、開館時間もまだだったため、漁協前でバスを降りた後、資料館とは反対側に海辺の突堤沿いに歩いていくと、「早川家住宅」の案内表示が道沿いの駐車場の中にぽつんと立っていた。案内表示に従い訪ねていくと、海沿いの道から一すじ奥に入った道に白壁の玄関口があり、そこに「早川家住宅」の説明書きが大きく出ている。

       声をかけてみるが、留守のようだ。裏側へまわってみて声をかけるがやはり誰もいないようだ。

       

       

      「ひょっとして、早川館長は、元網本の……?」

       思った通り「そうだ」という答えが返ってきた。くじら資料館館長・早川義勝さんは、この地の古式捕鯨網本早川家18代目の当主だという。「さきほどご自宅を訪ねたがお留守だった」と伝えると、「では、受付の女性が昼の休憩から帰ったら一緒に行きましょう」という。屋敷の中をみんな見せてくれるという。

       その間、館長の「通鯨唄(かよいくじらうた)」を聞かせていただくことになった。くじら祭りでは必ず歌われる祝い唄で、長門市の無形文化財になっている。歌う間、かならず手拍子でなく、もみ手をして歌うことになっている。これは命をささげてくれたクジラに、また共に幼いいのちを絶った子クジラや胎児のクジラに追悼の意を表しているのだという。館長の許可をいただき、撮影させていただいたものをユーチューブにアップしているので、興味のある方は視聴していただきたい。

      https://www.youtube.com/watch?v=1BASsc9JCmM​

       さて次回は、早川家を見学させていただいた後、いよいよ「鯨墓」と「鯨の過去帳」を見学させていただきます。(続く)

       

       

       

      ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.3

      2015.04.09 Thursday

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        バシー海峡の海氷浴(三)

         甲板上が急に慌ただしくなったように感じて目が醒めた。時計を見なかったので、はっきりした時間はわからないが、後で考えると夜中の一時か二時ごろでなかったかと思う。上体を起こし、暗闇を透かすようにして甲板上を見回すと、機関砲の砲側で水兵が忙しそうに動き回っているようであった。危険が迫っているのを直感した。
         その時であった。
        「ズスーン」
         という鈍い衝撃を感じた。続いてもう一回。魚雷を受けたのでないかと思った。半信半疑のなかで、船員か水兵かが、「やられたぞ!」と叫んでいるのを聞いた。やはり魚雷であったかと思った。なぜか海の中は寒かろうなとの思いが一瞬心をかすめた。怖さはなかった。
         すでに甲板上は騒然、蜂の巣を突っついたようになっていた。極度の緊張感が胸をよぎった。とにかく小隊全員を落ち着かせなければと思った。「全員、甲板上に集合!」と大声で叫び、「各分隊人員点呼、異常の有無を報告せよ」と、これも大声で命じた。
         海軍が気を狂わんばかりに機関砲を打ちまくっていた。敵潜水艦が浮上しているかと、その方向を見たが何も分からなかった。船からは盛んに爆雷を投下しているらしく、爆発音がひっきりなしに聞こえた。
         ようやく各分隊長の人員の掌握が出来とみえ、「第一分隊、異常ありません」と報告を受けた。「第二分隊、気違いが出ました」の報告に続き、「第三分隊も気違いが出ました」と報告された。「しまった」と思った。極度の恐怖感から一時的に錯乱状態に陥ったのだろうが、どうしようにも処置をする暇はなかった。爆雷の投下は相変わらず続いているようだったが、光栄丸はすでに傾きかけていた。海に飛び込むわけにはいかないしと思いながら、大発艇が甲板に積んであるのが目についた。「よし、これだ」と決心し、全員を少しでも落ち着かせるため、「よーし、わかった」と言い、全員大発艇に乗るよう命じた。
         全員が大発艇に乗ったのを確認して、「ロープの横におる者は、船が沈むときにロープを切るのを忘れるな、わかったか」と命じた。大発艇はロープで固定されている。切らなければ船もろとも沈んでしまうからだった。
        「ハーイ」という返事に交じって、「隊長殿、底に穴があいています」と叫ぶ声がした。「穴にはボロきれか何か詰めておけ」と指示し終わらぬうちに、「隊長殿、この大発艇にはガソリンがありません」と叫ぶ声が聞こえた。「よーし、わかった、ガソリンは無くてもいい。浮かぶだけでいいんだ」と大声で叫び、とにかく全員の動揺を抑
        えるのに懸命であった。

        ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.2

        2015.04.09 Thursday

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          バシー海峡の海水浴(二)

           ここで初めてビルマに行くとを知らされ、ビルマの本隊に合流するまでの部隊編成がなされた。私は小隊長を拝命し、約五〇人の初年兵を引率することになった。現役のときは兵卒であり、小隊指揮の経験は無かったが、鉄道教習所専門部では一年の時から小隊指揮者を命ぜられ、教練の時間には約五〇人の電気科生の指揮をとっていた。小隊長を拝命した時、特別に困ることはなかった。
           出発は深夜だった。事前に厳しく注意されていたので極めて静粛に行われ、久留米駅まで行軍して客車に乗り込んだ。門司港駅には翌日の夕方着き、門司港で数人ずつ民家に分宿した。私は夜間の巡察を命ぜられていた関係上、家族の方とゆっくり話をする時間もなく、ひと晩お世話になりながら、どの家のお世話になったのか記憶に残っていない。
           翌朝、門司港の桟橋前広場に集合したわれわれビルマの第五十六連隊の補充要員は、小隊ごとに別々の船に乗船した。輸送途中で敵潜水船等に攻撃され、撃沈された場合を配慮した措置と思われた。
           私が乗船した光栄丸は、排水量一万二〇〇〇トンの新造タンカーで、聞けば処女航海とのことだった。乗船したもののすぐには出航せず、出航は数日後であった。船団の船の数は分からなかったが、かなり大船団のようで、船団の周囲を駆遂艦か駆潜艇が護衛しているのが見えた。光栄丸にも機関砲一門が装備され、海軍軍人が数人乗り込んでいた。戦局の推移や輸送船の装備から考えて、この航海はかなり危険率が高いかもしれないと思われた。

           
          編集部註=前年の昭和十八年二月一日、ガダルカナル島から日本軍が撒退した。同島方面での巻き返しをはかる日本海軍は四月七日から「い号作戦」を展開した。ラバウルに赴き、自らこの作戦の指揮をとっていた山本五十六連合船隊司令長官は四月十八日朝、最前線部隊の状況視察のためラバウルからブーゲンビル島南方のバラレ蓄地に向かったが、アメリカ軍に暗号を解読されており、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。
          十九年七月七日にはサイパン島の日本軍守備隊残存兵力約三〇〇〇名が玉砕した。前年末から二月にかけ中部太平洋の島々を陥落させたのち、六月十五日約七万一〇〇〇名の兵力をサイパン島に上陸させた米軍に対し、約四万四〇〇〇名の日本軍守備隊は懸命に応戦したが、十九、二十日のマリアナ沖海戦で連合艦隊が敗北したため、大本営は二十四日同島の放棄を決定した。次第に島の北端に追い詰められた日本軍は七月六日、戦闘を指揮していた斉藤義次陸軍中将と南雲忠一海軍中将らが自決、残りの守備隊も七日から八日にかけて万歳攻撃を敢行、玉砕した。その際、約一万人の一般住民もその多くが手榴弾や毒物で自決、あるいは断崖から身を投げ自ら命を断った。

           しかし台湾の高雄までは別段異常はなかった。高雄に停泊している間、小隊長には上陸許可がおりたので、初年兵らが郷里に出す手紙と、あらかじめ注文を受けた待望の食料、バナナ、砂糖を買い求める資金を集めて上陸した。預かった手紙を投函し、高雄の街を見て回りながら蛇皮の財布を私個人用に購入し、バナナと砂糖を一篭ずつ光栄丸に積み込むようにした。所定の時間に帰船するとすでにバナナと砂糖は積み込まれていた。内地では甘味品に飢えていた時であり、全員大いに喜んだ。積み込んだ食料品も毎日平等に分配した。
           高雄に何日か停泊した後、船団はマニラに向かった。乗船以来われわれの船室は船倉に造られていたが、タンカーを改造したもので、船室は暑くて換気もよくなかった。しかし日中は甲板上に出るのを禁止され、日が沈んでからしか許されなかった。
           高雄出航後は特に船室の温度が高くなったような気がする。甲板に上がって満天の星を跳めながら、大きく深呼吸したときの壮快さは、表現の言葉もないほどいい気分だったが、機関砲の砲側に配備の水兵の数は増えてきたように思え、なんとも不気味だったのも確かである。
           夜も次第に更けて、肌にあたる夜風が幾分涼しくなると、甲板上で皆、思い思いに横になった。すでに白河夜船をきめている者もいた。私も異常がないのを確かめて、今日も無事に終わったと思いながら横になった。遭難に備えて軍装を解くことは禁じられている。帯剣を締めたまま、銃は右手に抱いて横になるのが習慣だった。星の輝やきがことのほか鮮やかに思え、これが南の空かとロマンチツクな気分で、うとうとと浅い眠りについた。

          ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」

          2015.03.29 Sunday

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            バシー海峡の海水浴(一)
             

             昭和十九年七月六日、東京・池袋の鉄道教習所専門部電気科二年生として寮生活しているとき召集令状がきた。あとでわかったことだが、ビルマ(ミヤンマー)の日本軍が、世界戦史にも例を見ない悲劇的退却戦を始めた四日後のことである。
             
            編集部註=昭和十七年八月、当初破竹の勢いだった日本軍は、一たんビルマ全域を占領したが、その後、英印軍や米中連合軍の、インド側からの侵攻に悩まされた。第十五軍指令官牟田口廉也中将は、英印軍の拠点、ビルマ国境に近いインドのインパール攻略を主張、大本営もこれを認め、三月に作戦は開始された。しかし当初から補給や制空権の確保は無視されており、弾薬と食糧の補給のない日本軍は苦戦に陥り、七月二日インパール作戦は中止された。
            結局、この作戦で日本軍は参加兵士約九万名のうち約三万名が戦死、退却の途上飢えと病気で約四万二〇○○名の戦傷病死者を出した。

             当時、専門部の「有隣寮」が改築のため、寮生は全部「有朋寮」に住んでいた。非常に南京虫が多い寮で、夜は睡眠どころでなく、皆困り果てていた。
             その日も寝つかれない夜だった。寝台よりはましかもしれないと思い、長腰掛けの上に横になっていた。その時、電話の知らせを受け、寮長室に行ったが、遠くて全然聞きとれなかった。
             電話交換に聞いてもらったところ、「召集令状がきているので、明後日十一時までに久留米の西部○○部隊に入隊せよ。召集令状は小倉駅で渡すので、列車の小倉駅通過時刻を知らせよ。電報も打っておいたが、電報では間に合わないと思い電話をしている」とのことだった。
             当時、特急列車はなく、一日数本の急行列車があったが、電話を受けてから最も早い急行に乗っても、決められた時刻に入隊することは不可能であった。飛行機についても問い合わせてみたが、便があるはずもなかった。
             やむなく同室の同僚の一人に、憲兵隊に行って入隊遅延の理由について証明書を貰ってくれるよう依頼する一方、同僚の加勢で小倉の自宅に送り返す荷物を梱包した。
            翌七日、荷物の発送は同僚に頼み、教習所長や配属将校等に挨拶のあと、池袋駅から東京駅へ向かった。それぞれの駅で多数の同僚が見送ってくれた。証明書を依頼した同僚は憲兵隊で、証明書は東京駅長に貰うように言われ、東京駅長の証明書を駅まで届けてくれた。別の同僚は、東京から久留米まで二十四時間かかるため、食堂に無理をお願いし、当時常食にしていた豆粕入りの握り飯二個を用意してくれた。
             列車は始発時からかなり混雑していたが、応召タスキをかけていたので座席に掛けられた。時間の経過につれて腹が減ったが、長い道中を考え、夜までは手をつけずに辛抱した。つとめて眠ることにしたが、目が醒めるといろいろなことを考えた。
             現役の時、四度満州の冬を経験しているので、満州なら嫌だなと思った。また、昭和十七年五月、現役を満期除隊後は、父がしきりと結婚を薦めていた。父は専門部の受験にも反対だった。合格のあと父に話したが、これに対し何も言わなかったものの、召集されてみると、父の意向に添えなかった済まなさが心をよぎった。しかし応召の身では妻子がいないのに越したことはないと、自分自身に言い聞かせたり複雑だった。
             このほか現役時代のことなど思い浮かべているうちに列車は八日朝、小倉駅に到着した。
             小倉駅では父と弟とが召集令状と弁当を持って乗り込んできた。早速、弁当を思いきり食べようとしたが、腹は減っているのに半分も食べられなかった。母や兄弟のこと、商売や空襲のことなど車中での話は、ほとんど聞き役に回った。
             父と弟とは久留米連隊の営門の前で別れた。所定の時間を過ぎていたので、ごく手短かく、「からだだけは気をつけろよ」、「お父さんもな」と言っただけで別れた。父は戦争体験があり、負傷もしていたので未練がましいことは嫌いであった。営内で担当の将校から入隊時間の遅れを一応やかましく叱責されたが、処罰はされなかった。
            あまり覚えていないが久留米連隊には十日間ぐらい居たように思う。その間、各人に兵器や被服が支給され、私物の服や靴などは家に送り返した。

            ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」連載にあたって

            2015.03.29 Sunday

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               福岡の友人から1冊の冊子が送られてきた。
               表紙には「太陽は未だ真上にあった」の表題があり、「ビルマ敗戦記」の副題がつけられている。著者名を見ると、松尾剛(まつおこわし)とある。
               同封されていた手紙を見ると、
              「お手数をおかけしますが、私の国鉄時代の大先輩《松尾剛》鳥栖機関区長の戦争体験の手記です。戦争の実態を後世に残したいと思いお願いいたします。」
              「お願いいたします」とあるのは、「たくさんの人の目に触れるようにし、戦争の実態を風化させないようにしてほしい」という思いのようだ。
               そこで、しばらく休んでいた私のブログ「徒然漫歩計」に連載しようということになった。たまたま中西喜次(なかにしよしつぐ)農学博士の書かれた「ジャワ・ビルマの大空 一気象隊士官の手記」と題された出版物も、大阪の友人からお預かりしている。ビルマで戦った二人の無名戦士の記録が手元にあるわけだ。
               とても偶然とは思えない。福岡の友人を通して、あるいは大阪の友人を通して、戦争で亡くなった方たちの思いが、僕のもとへ届けられたと考えるしかない。ならば、この二つの戦記を八月の終戦記念日に向けて「徒然漫歩計」に連載し、連載が完結した暁には、電子図書として後世に残すようにしよう。これで私に託され届けられた「思い」には、幾分なりとも応えることができるかもしれない。
              そう思い、この連載を始めることにした次第である。

               そこで、まずは「太陽は未だ真上にあった ビルマ敗戦記」から始めさせていただく。
               ところで福岡の友人というのは、JR博多車両区を、たしか七年前に退職し、今は悠々自適の生活を送る竹下博氏である。彼の手紙を読むと、松尾さんというのは、彼が国鉄時代世話になった大先輩だという。
               その松尾剛さんの思い出を、竹下氏自身が綴ったものがあるので、ここに紹介し、松尾さんの紹介に換えたい。

               私は昭和四十五年四月一日に日本国有鉄道九州支社に入社しました。
               六ヶ月間の研修を終えた後、十月一日付で鳥栖機関区車両係を拝命し機関士助手見習・機関助士・電気機関士見習・電気機関士となり、ある日、電気機関士として乗務し門司機関区の常務後点呼に行ったところ、
              「オイ若僧! おまえは組合バッジを付けていないが何処の組合だ」
               と問われ、私はまだ組合に組合に所属してなかったので、
              「私はまだ組合に入っていません」と答えたところ、
              「組合に入ってない者に、我々が勝ち取った乗泊に泊めることはできない」と言われました。
               仕事で来て寝るところがないというのはスジが通らないので、管理者である当直助役に交渉しようとしたところ、その助役はスーッと席をはずし私の要求を聞き入れてくれません。
               困っていると、後ろからポンポンと肩を叩いてくれる人がいて
              「泊まるところがないのなら、私共の確保した宿泊所に泊まりませんか?」と声をかけてくださいました。
               私は、その方の好意に甘え、その夜は紹介してくれた宿泊所に泊めてもらいました。
               当時の国鉄はオープンシップ制であり、組合に入ろうが入るまいが自由に選択ができる制度でしたが、現実と理想ではこのように違っていました。後で分かったことですが、当時の組合は大きく分けて総評系(官公労主体)の組合、国鉄労働組合(国労)と動労(動力車労働組合)の二大勢力と、同盟系(民間の労働組合系)とに分かれていました。
               私は翌日機関区に帰り指導室に行き、指導の方々に昨日のことを話したところ、指導の方から、
              「竹下君、一応国鉄はオープンショップ制を取り入れているが、現実にはどこかの組合に入らないと仕事ができないよ」と言われ、 イジワルをされた組合に入るよりは助けてくれた組合に入ろうと決め、その日から鉄道労働組合に所属しました。
               その翌年の春闘のことだったと思いますが、機関区の便所で用を足していたところ、若い男性と女性が一人ずつ入ってきて便所の壁にビラを貼り出しました。そのビラの内容は「要求貫徹」とか「スト権奪還」とかいうビラを所構わずベタベタと貼り出しました。
               私は、掃除のオバチャンが毎日きれいにしてくれる便所、おまけに花まで飾ってくれる便所に、そのような無法が許されてよいものではないと思い、その若い青年と女性に
              「おい、やめろ! 今貼ったビラをはがせ」と言いましたところ、二人は逃げてしまいました。
               そこで私は、安部政敏という後輩と二人で、そのビラを剥がしてまわりました。
               それから十分後、二、三十人のモサクレどもが徒党を組んで私を取り囲みました。彼らも上手いもので、手は出さず、腕組みをして足でボコボコと蹴るのです。
               その時の管理者(助役)達は見て見ぬふり。何もしてくれません。その時です、二階の区長室から、私が初めて赴任した現場長(松尾剛)がタッタッタッ と階段を駆け下りてきて、その二、三十人をかき分けて
              「竹下! 区長室へ上がれ!」と助けてくれました。
               区長室に入ると、そこに動労の支部長 立石某なる者がいて、
              「オイ若僧!」と声をかけてきましたが、私も腹が立っていましたので、
              「若僧があるか! 俺には竹下博という名前があるんじゃ」とやり返しました。

               その後、区長室で動労の支部長と区長が話し合いを持ち、立石支部長から「そんなに便所をキレイにしたいのなら今から便所掃除をしてこい」と言われ、私も「よし分かった、今から便所掃除に行く」と言って立ち上がろうとしたところを、松尾区長から止められ、区長室を出るようにに言われ退室しました。
               その後、この事件は門司鉄道管理局まで上がり、当時は組合が権力を持っていたため、松尾区長は五十四才の若さで退職、私は新幹線大阪運転所へ転勤が命じられ、この一件は終了しました。組合が権力を持っていたため区長は首を切られ、私は九州支社から大阪へ左遷されました。松尾区長は自分の首を差し出し私をかばってくれたのです。この区長は二回も戦争に行き、軍隊では「牛殺しの松」の異名を持つ勇気ある区長でした。初任地で、このような男気のある区長に巡り会えたことは、私にとって記憶に残る感謝すべき巡り合わせでした。

               竹下氏と松尾氏の出会いは、このようであった。
               しかし「牛殺しの松」の異名を持つ松尾さん、どんな強面の人かと思ったが、娘さんから送っていただいた写真を見ると、がっしりとした、やさしそうな、それでいて少しはにかみやさんのような印象を受ける。
               娘さんの記憶によれば、松尾さんは、大正七年二月四日に生まれ、昭和九年に小倉中学校を卒業、その後、鉄道専門学校に進み、卒業後、国鉄に入社、昭和四十七(一九七二)年、五十四歳で退職したという。この間、二度の招集で戦地に赴いた。

               では、「ビルマ敗戦記 太陽は未だ真上にあった」―― いよいよ、はじまりです。

              ◇「孤児たちのルネサンス」を20名の方にプレゼントします

              2013.11.02 Saturday

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                 60才の還暦を迎えたとき、自分へのご褒美ということで1冊の本を作った。それまでは本を出したいという人の相談に乗り、如何に安く良い本をつくるか、どのようにして読者を集めるか、そのことばかりを考えてきた。

                 今度は自分の出したい本を作る。そうして出来たのが「孤児たちのルネサンス」だ。16世紀末、印刷機の普及に伴い、バチカンもルターに対抗し、これまでのラテン語聖書を全面改定し「シクトゥス聖書」が出版された。ところが、これが一冊も残っていない。シクトゥス教皇が亡くなるや、ベラルミーノ枢機卿がヨーロッパ中の異端審問書に号令をかけ回収し焼き払ってしまったのだ。そのうえで、「シクストゥス・クレメンタイン聖書」を大急ぎで発行し、これに換えてしまった。

                 このバチカン史上、謎とされる事件と、日本からローマへ渡った留学生トマス荒木の史実を交えて、自分なりの解釈を小説化したものが、「孤児たちのルネサンス」だ。
                テーマは、人の言葉に縛られる怖さ、宗教に縛られる怖さ……果たして我々は、何かをしようとするとき、何かを決断するとき、周りの何ものにも影響されないということが果たしてあるだろうか。本当の自由とは何だろうか? このことを、この本を通して考えてみたかった。

                 前置きが長くなったが、この本を、当初1000部つくって、100冊を図書館に寄贈し、残りをボチボチ売ってきたが、在庫整理したとき300冊が残っていた。そこで100冊だけを残し、200冊を廃棄処分にした(それにしてもマイナーな内容にもかかわらず600人の方の手に渡ったことになる。ありがたいことだ)。

                 しかし100冊を残したものの、では、どうしようかと思ったが、読みたい人にプレゼントするのがよかろうと思った。そこでまずは試しに20名の方にプレゼントという次第!!

                 以下のメールアドレスに「本希望」の旨と、送り先の住所・氏名を書いて送信していただければ、ゆうメールにて送らせていただく。
                kiriu@dep-ebooks.com

                本の詳しい内容は、
                http://www.dep-ebooks.org/orphant_order.htm

                儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.3

                2013.09.26 Thursday

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                  葬儀に関して取材させていただいた中で、次のエピソードは、僕が一番感動した内容です。「人間は肉体ではなく、意識だ」ということを、息子さんからの話と自身の手術中の体験によって信じるようになり、「お前のやっている学びはほんものだ」と言いきったお父さん。言うだけでなく、長年つきあった友人の僧侶にも、その旨を話し、「長年世話になった」と檀家から抜け、「もし、それでも友人でいてくれるなら、自分の葬儀の時は、袈裟でなく背広とネクタイで出席してほしい」と告げたお父さん。その言葉に応えるように、背広・ネクタイ姿で葬儀に出席した僧侶……取材していて、本当に「こんなことがあるんだ」と胸が熱くなったのを覚えています。以下、その取材した原稿です。


                  Uさんの場合

                  喪主のUさんは、四年前にお父さんを亡くされた。Uさんは知り合いの葬儀店に連絡を取り、会場だけを貸してほしい旨を連絡し、家族だけで送ろうとしたが、お父さんがこの地域で指導的な立場にあったため、役場から情報が流れ、県会議員をはじめ市長や多くの名士が参列する大がかりな葬儀となってしまった。
                  ただ参列者が驚いたのは、そこには読経をあげる僧侶も存在せず、焼香もなく、線香の一本さえもあがっていなかったことである。
                  ところで、この地区は因習や地縁関係が根深く残っているところであり、しかもUさんもお父さんも、この地区の指導的な立場にあり、旦那寺とも親しく、代々、檀家としても代表的な立場にあったという。お寺との関係ばかりでなく、この地区では行事といえば神事を指すほど、神社や氏神との関わりも強い。氏子としての役割も強かったという。
                  話は前後するが、こんな環境の中、Uさんのお父さんが直腸ガンの手術で入院することとなった。ところが開腹してみると思ったより状態がひどく、このまま手術を続ければ、老齢ということもあり生命の保証もできない。手術を中止するか、このまま続けるか、五分以内に回答をほしいということになった。立ち会っていたUさん、相談する相手もなくすべての判断が自分にかかっているという状況に追いつめられてしまった。しかもゆっくり考える時間などない、五分以内に答えを出さなければならない。
                  この頃、Uさんは「人間の意識」ということについて学んでおり、本当に伝わるのは、「言葉」や「態度」でなくその人の「思い」だということを教えられていた。口で「あなたはいい人だ」と言っても、心で「この野郎!」と思っていれば、「この野郎!」という思いがエネルギーとして働く。その場はだませても、このエネルギーが働くため、結局はうまくいかないし、相手も表面上はだませても、実は本人が気づかないだけで本音が伝わっているのだと……。要は、自分が変わらないかぎり、いくら宗教に頼っても自分も人も決して救われることがないということを分かり始めた頃であった。
                  思いあまったUさん、このことを思いだし、「意識は伝わるんだ」と自分に言い聞かせ、必死の思いでお父さんの心の中に話しかけた。
                  「親父、どうしたらいい。手術を続けるほうがいいのか? 中止したほうがいいのか?」
                  そのとき、Uさんの心の中に「手術を続けてくれ」というお父さんの思いがハッキリと響いてきたという。Uさん、半信半疑ながらも、その思いを信じ、医師に「手術を続けてほしい」旨を意思表示した。
                  やがて手術も無事終わって、お父さんの意識が回復したとき、
                  「不思議な体験をしたよ。おまえが俺に手術をするべきかどうか話しかけてくるんだ。」
                  Uさんは声に出して話しかけたわけでもないし、しかもお父さんは麻酔をかけられて手術室に入っていた。このことを話すと、「おまえが常々言っていたのはこういうことだったのか、おまえのやってる学びはほんものだ」と、あっさり脱帽したというのだ。
                  これからが、このお父さんの偉いところだ。
                  病状がある程度快復すると、Uさんと二人して旦那寺へと挨拶に出かけた。
                  「息子が常々、人は意識だと言っている。俺も病院で不思議な体験をし納得した。人は己の心を見つめ己自身が変わっていかないかぎり、寺に頼っても、経文に頼っても人は成仏することはできないことを知った。分かった以上、寺の檀家であることはやめたいと思う。理解してほしい。こんな訳だから、葬儀のときも、あんたが僧侶として出席することは控えてもらいたい。俺との長年の付き合いで顔を出してくれるというのであれば、背広にネクタイで出席してほしい。袈裟や数珠などは不要である。」
                  二人は、この後「長年、お世話になった」と礼を述べると、寺を後にした。
                  この後一年して、お父さんは亡くなった。肺気腫やその他の病気を併発しボロボロの状態であったという。死を悟られたのか、死ぬ一週間前、咳き込みながらも十分近く、自分の最後の思いをテープレコーダーに録音された。
                  「自分はこれまで自分の信じたことをやってきたが、その結果が果たして良かったのか、今、疑問に思っている。本当のことに早く気づけたのに、それをないがしろにし、今まできてしまい、人生を無駄にしてしまったことを後悔している……」
                  Uさんの奥さんが、たまたま録音されているその姿を目撃されたが、録音し終えると、しばらくはその場で泣いておられたという。
                  やがてUさんのお父さんは亡くなり、今回の葬儀となった。
                  集まった人たちは、僧侶もおらず、焼香もなく、線香の一本もあがっていない葬儀会場に面食らったが、静かに童謡の流れる会場に、やがて録音された最後のメッセージが流れはじめた。
                  咳き込み、時に涙ぐみながら語る故人の声に感動しない人はなかった。
                  集まった人たちは、葬儀が終わると、
                  「葬儀もこれからは変わっていきますなぁ」「重苦しい読経よりさわやかでよかったですよ」「本当に気持ちのいい葬式でしたなぁ」と口々に語られていた。
                  その弔問客の中に、檀那寺の住職も背広姿で参列していたという。
                  この話にはまだ続きがある。この地域ではありえない、この一風変わった葬儀の後、非難の声が起こると思いきや、追随する人が出てきたのだ。この地縁関係の結びつきの深い地域でも、確実に因習に縛られたくないという思いが広がっており、Uさんの行動に触発される人が今も続いているという。
                  ところで、この葬儀にかかった費用、お父さんの立場上、密葬にできなかったこともあってかなりな出費になってしまった。それでも八十万円程度であったという。
                  以下に掲載するのは、Uさんのお父さんがテープレコーダーに残されたという最後のメッセージである。息子さんの許可を得てここに掲載させていただくことにした。

                  本日は私のお別れの会に当たり、皆様方にはご多忙中わざわざお出でいただき本当にありがたく、はなはだ高席からではありますが、あつくあつく御礼を申し上げます。
                  私の生前中は、皆様方には一方ならぬお世話になり、これに対するご恩返しもできずに人生を終わっていくことを、ひたすら残念に存じております。何とぞお許しをいただきたいと存じます。
                  私の人生八十年を振り返りますと、いったい私は八十年間なにをしてきたんだろうと自問自答するとき、やってきたことすべてが幻であったとしか言いようがございません。八十年と申しますと、日数にして二万九千二百日、時間にして七十万八百時間、億という数字から見ますれば、本当に瞬きしている間、ほんの瞬間に過ぎ去ったと思います。時計の針の一秒一秒の積み重ねが八十年間で二十五億二千二百八十八万秒となりますが、その一秒一秒の大切さを、今更(声が詰まる)、「死」を直前にして知らされました。
                  一年は八万七千六百時間です。どうか、皆様、おのおのの年齢から割り出し、残りの時間を大切に悔いの残らぬよう、ご活躍あらんことを願うものでございます。
                  私は六十歳を過ぎてから、人生が本当に幸せな一日一日が送れたのではないかと思います。
                  家庭においては、子供らに親らしいことは何もしてやれなかったのに、本当にみんなが「爺ちゃん、体の調子はどうや」と言って体をさすったり、また「栄養をとらなあかん」と言って嫁が料理をつくってくれたり、兄弟みんな日曜日に寄って、部屋の掃除をしたり、本当に至れり尽くせりに面倒を見てくれ、私ほど幸せ者はなかったと、一人、部屋から子供らのほうを向いて手を合わせておりました。
                  なお老人会の皆様には、ゲートボールをはじめ、旅行、ぼちぼち広場、忘年会、新年会と、老人同士で語らい、忘れることのできない老後生活をさせていただいたことに対し、お礼と感謝を申し上げます。今後はお体をお厭いになり、楽しい老後の人生をお過ごしになることをお祈り申し上げます。
                  いろいろと申し上げたいことは多々ございますが、言い尽くすことはできません。
                  最後に、本当にお集まりいただきました皆様方の、本日お集まりいただきました皆様方のご健康とご多幸をお祈り申し上げつつ、お礼の言葉と最後のお別れの言葉に換えさせていただきます。どうも、ありがとうございました。それでは皆さん、さようなら、さようなら、皆さんの健康を祈ってます。さようなら、(泣きながら)どうかお幸せに、さようなら。さようなら……。 

                  儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.2

                  2013.09.26 Thursday

                  0


                    (神式の葬儀/http://www.serekea.jp/kazoku.htm から転載)


                    昔、新しい葬儀に関する本の出版に関わったことがある。その本は今は絶版状態になっているので、そのなかで、僕が直接取材した何人かの方の話をここで紹介している。いずれも、現在の仏教主導型の「お金のかかる葬儀」を良しとしない方々の一例である。

                    大阪府・羽曳野のTさんの場合

                    Tさんは、二度の喪主体験をされた。最初はお母さんの時、二度目はお父さんの時だという。
                    もともと実家が神道であり、祝い事はおろか葬儀に至るまですべて神道で行ってきたという。大阪へ引っ越しされてからも、お母さんの葬儀の時は神道で行ったという。
                    私自身モノ知らずで、今まで神道の葬儀があるということを知らなかったものだから、好奇心も手伝って、神道での葬式がどういうものか訊いてみた。
                    仏式では霊前での焼香が必ずあるが、神道のお葬式では焼香は行わないという。神式のお通夜・葬儀・法事では玉串奉奠(たまぐしほうてん)といって、玉串と呼ばれる葉のついた枝を神前に供えるという。
                    まず両手で玉串を受け取り、根元が向こうを向くよう時計回りに持ち替えてまわし、お供えをする。次に二度、頭を下げ、音を立てないようにやはり二度柏手を打ち、最後にもう一度、頭を下げるという。
                    ただ大阪では、神主さんに頼むとき、結婚式や誕生などの祝い事は歓迎されるが、葬儀の依頼は結構いやがられたという。
                    二度目のお父さんのときは、最初と事情が違っていた。この間、Tさんはある人との出会
                    いから真剣に人生を考える機会を持ったという。「苦しいときの神頼み」という言葉があるが、真剣に自分自身を見ようとしたとき、苦しみの原因がどこにあるかも見ようとせず、ただ何かに頼ろう、すがろう、うまくいかないときは世間が悪い、周りが悪いと犯人探しをしてきた、そんな自分に嫌気がさしたという。そうなると儀式という形だけが残った宗教にも嫌気がさしてきた。と同時に、そんな宗教に向けてきた自分の心にも嫌気がさしたという。自分を変えようとすることなく、何とか自分に都合の悪いことだけを、祈って、すがって、なくしてもらおうとする。そんな自分の心を変えたいと思ったという。
                    そう思ったTさん、早速、町内会にも断りを入れ、一切の宗教的行事に関わり合いたくないと宣言された。大阪でも都市部はいいが、田舎へ行くとまだまだ閉鎖的で、こんなことを言い出した日には、周りがどんな目で見るか分かったものではない。どんなにか勇気がいっただろうと思うが、意外と周りはすんなりと受け入れてくれたようだ。
                    Tさんを取材するとき、お住まいが分からず、付近の方に「Tさんのおうちを教えてください」と道を訊いたのだが、「ああTさんの家なら……」と、親切に親しみを込めて教えていただいた。とても周りから白い目で見られている、そんな雰囲気ではなかった。
                    そんなわけで、お父さんの時は、神主さんも、お坊さんも呼ばず、互助会に頼んで家族だけで送ることになった。
                    お父さんの場合、急であった。長い闘病生活の末に病院で亡くなったというのでなく、自宅で、ある朝、起きてみたら亡くなっていたという。全くの急死であった。
                    早朝のため、主治医とも連絡が取れず、とりあえず一一九番に連絡し救急車が駆けつけることとなった。
                    救急車からは、人工呼吸するよう指示が出る。Tさん、「死んでいるのになぁ」と思いながらも電話からの指示通り、お父さんの口に息を吹き込み人工呼吸を行った。
                    やがて救急車が到着し、しばらくして警察も到着した。一一九番に連絡したとき、消防から警察へも連絡が行くのだという。Tさんの場合は、この後、かかりつけの医師とも連絡が取れ、医師が警察に事情を説明したうえで死亡診断書を発行してもらい一件落着となったが、普段から健康でかかりつけの医師もなく、急死ということになると、たとえ老衰死であっても、警察医による検屍・解剖と言うことにもなってしまいかねない。
                    Tさんは、お父さんが普段から「葬儀に要らぬ金は使わず、身内だけで送ってほしい」と言っていたこともあり、ご本人の宗教的な葬儀はしたくないという思いもあって、互助会に連絡を取り、僧侶も葬儀も必要がないことを意思表示された。
                    お母さんの葬儀の時、納棺に際してちょっとしたハプニングが起こった。納棺に当たって、普段、お母さんの訪問看護をしてくれていた方が「死に化粧」を施してくれ、やさしいいい顔になったとみんなで喜んでいたが、業者の方が、料金の内だと思ったのかどうか、その上からまた「死に化粧」を施してしまったというのだ。
                    結果、やさしい顔が怒ったような顔になってしまったという。
                    これに懲り、お父さんのときは、特に「死に化粧」もすることはなく、納棺した後は、互助会のホールに移送し身内だけで通夜をすることになった。
                    翌朝、斎場に移して火葬に付したが、このときは朝一番だったせいか静かで落ち着いて送ることができたという。というのも、最初のお母さんのときは、午後からの火葬となり、数が多く火葬も競争状態となった。各宗派の僧侶や宗教者が、それぞれのお経や祈りを、他に負けまいと大声を上げて競い合うものだから、静かで落ち着いた雰囲気などほど遠く、ただうるさくて慌ただしいだけのものとなってしまったという。
                    こうなると、お経はありがたいというより、うるさいだけの騒音でしかないだろう。
                    それはさておき、家族だけの葬送、全部で十八万円だったという。

                    儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.1

                    2013.09.25 Wednesday

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                      (10万円プランの葬送の一例 モリ葬祭さんの場合)


                       低価格の葬送

                      「シンプルな葬儀・埋葬」と題して、二〇〇五年十月十三日の朝日新聞朝刊に次のような記事が掲載された。いわく「質素に最後を迎えたい、と故人が思っていたとしても、遺族にその意思が伝わっていなければ、葬儀やお墓にお金をかけてしまうものです。そんな中、残される家族の出費を抑えようと、自分が死んだ時の葬儀や埋葬方法を、あらかじめ選ぶ人が出てきました」と。
                      またホームページを検索してみても、「お墓は心の中に」と唱い、新しい葬儀の形を提唱する葬儀社も増えてきている。以前はこういった傾向は関東に多く見られたように思うのだが、最近は関西でも家族だけの低価格の葬儀を提唱する葬儀社が目立ち始めた。こんな中、「ぬくもり葬儀」のタイトルで、「家族葬ぬくもり10」 というホームページが目にとまった。とりあえず開いてみると、「火葬のみ ぬくもり10プラン 十万円 」とある。この十万円には、「寝台車(一五kmまで無料)」「枕元セット(経机・お線香・ローソク・おりん・仏花)」「ドライアイス二日分(二〇キロ)」「納棺一式」「お棺(桐)」「仏着(スエード)」「本骨袋(骨箱小)」「寝台形霊柩車」「役所代行手続き」「火葬場手続き」が含まれているという。このほかに、「霊安室使用料 五千二百五十円」「火葬料金(火葬場により異なる) 六千円」がかかり、総額費用でも十一万一千二百五十円でおさまるという。
                      無料のお問い合せ電話が掲載されていたので、早速、電話してみた。
                      大阪府松原市の「聖心社・もり葬祭」という葬儀社だった。代表の森さんは約二十年間葬儀社に勤めた後、『葬儀は変わりました! 安く・内容充実』をキャッチコピーに、これからの時代のこれからの葬儀社として平成八年に開業したという。
                      聞けば、このような家族だけの低価格の葬儀が増えており、同社の全取り扱いの約三割が低価格の家族葬プランだという。
                      森社長のお話を聞いていても、新しい兆しが確かに感じられる。
                      そこで自分の周りに、こういった葬儀にお金をかけなかった人がどれだけいるか調査し、その方々にお話しをうかがってみることにした。


                      大阪府・千里のSさんの場合

                      喪主のSさんは、重度重複障害児を持つ六十代前半の女性。亡くなったのは、障害児である娘のあかねちゃん、二十歳を迎えたばかりだという。
                      実はあかねちゃん一家とは、僕自身、ごく親しく近所付き合いをした仲だ。今も手許にあかねちゃんのお母さんの手記が残っている。
                      「娘の名前はあかねです。昭和五十二年十一月十八日、千五百グラムで生まれました。七ヶ月の初めに早産しました。生後二、三日で呼吸困難を起こしました。同時に黄疸を伴い、保育器の中で光線療法も受けました。その後、順調に発育していると思っていましたが、未熟児網膜症になっておりました。それは比較的軽く終わりました。現在は左が弱視です。生後九ヶ月目に脳性マヒと診断されました。昭和五十四年一月末日に重度の脳性マヒによる四肢体幹マヒ、わかりやすく言うと、寝たきり、一生涯寝たきりの子です。たとえ訓練をしても、寝たきりから脱することはできませんと診断されたのです。」
                      それから二十年が過ぎた平成九年十二月、あかねちゃんのお兄ちゃんが結婚することになった。
                      このとき、あかねちゃんは吐血が始まり病院に入院したまま。主治医のお医者さんも「もう長くはもたないだろう」と言っていた。それでも結婚式には病院の外出許可をもらって参加、式が終わるなり、また病院へとんぼ帰りしたという。
                      式場から病院へ帰り着き、看護婦さんに迎えてもらってうれしそうなあかねちゃんの写真が残っている。
                      それから一月あまりが過ぎた平成十年一月十四日、あかねちゃんは病院で亡くなった。明け方の午前三時だったという。病院のストレッチャーで車まで運び、大好きだったお兄ちゃんのライトバンで団地の一階にある家へと連れ帰ってもらった。
                      あかねちゃんはよく「キャッキャッ」と声を立てて笑った。外にいても、その笑い声が窓を通して聞こえてくるほどだ。亡くなったその日も、お母さんとお兄ちゃん夫婦がライトバンで連れて帰ってきたのだが、部屋へ入るなり「キャッキャッ」という笑い声が聞こえるというのだ。
                      「いやぁ、あかねチャン、生きてるわ!」と、一瞬思った。
                      だが、それは飼い犬エルの鳴き声であった。
                      夜が明けるなり、市役所に電話し、葬儀社を紹介してもらった。
                      「何も要りません、葬儀も不要です。棺桶と焼き場の手配だけをお願いします。」

                      この日は、あかねちゃんを知る人たちだけの送別会となった。急遽、あかねちゃんの寝ていた部屋が立食パーティの会場となる。焼香も線香もなし、来る人も香典はなし、数珠も持たない。
                      というのも、あかねちゃんのお母さんが、仏教の葬儀に疑問を持っていたからだ。いや仏教でばかりでなく宗教で人は救われることはないと強く思っておられる方だった。
                      だから来る人も、「あかねちゃんが花が好きだったので……」と、花だけを持って参加した。
                      来る人、来る人が花を持ってきた。
                      常々、お母さんは、あかねちゃんに「死んだら、あかねチャンの好きな花でいっぱいにしたげるワ」と言っていたが、期せずして、部屋はその言葉通り花でいっぱいになった。棺も花でいっぱいにした。ただ花だけを折って入れるのは「何となく残酷そうでイヤだ」というので、花だけをちぎるのでなく茎のままを入れたという。
                      誰も泣く人はなく、あかねちゃんの想い出話をし、ジメジメした雰囲気はなかったという。あかねちゃんの担任だった先生も、集まった人たちも「こんな雰囲気っていいですネ、私もこんな風にしたい」と感想を漏らしていた。
                      明けて一月十五日、普通なら成人式となるのだが、この日、あかねちゃんは黒いバンで斎場へと移された。
                      「焼いている間、みんなで食事をしました。お骨は迷った末に持って帰り、撒こうかとも思ったのですが、トラブルの元になってはと、実家のお墓へ入れました」とお母さんは淡々と語る。更に訊くと、それはお墓が大事だという意味ではなく、処分に困ったあげく、ここへ入   れておけば誰にも迷惑がかからず土に帰るだろうと思ったからだそうだ。
                      「葬儀の費用は」と問うと、「棺桶代が四万円だった。そう、全部含めて十三万円だったのを覚えているけど、明細は覚えてないわ」と明るく答えてくれた。
                      ちなみに大阪の市役所に電話で確認してみたが、大阪市では、お骨は持って帰らなくてもいいそうだ。最初に渡される書類に「お骨を持って帰る」「お骨を持って帰らない」の希望欄があるそうで、電話に出ていただいた係りの方に「お骨を持って帰らない場合、そのお骨はどうなるんですか」と訊いてみると、「一年間保管し、その後、共同霊園にお入れします」という答えが返ってきた。
                      このことは、全国どこの市町村でも同じらしいが、確認したわけではない。