ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.3

  • 2015.04.09 Thursday
  • 11:07

バシー海峡の海氷浴(三)

 甲板上が急に慌ただしくなったように感じて目が醒めた。時計を見なかったので、はっきりした時間はわからないが、後で考えると夜中の一時か二時ごろでなかったかと思う。上体を起こし、暗闇を透かすようにして甲板上を見回すと、機関砲の砲側で水兵が忙しそうに動き回っているようであった。危険が迫っているのを直感した。
 その時であった。
「ズスーン」
 という鈍い衝撃を感じた。続いてもう一回。魚雷を受けたのでないかと思った。半信半疑のなかで、船員か水兵かが、「やられたぞ!」と叫んでいるのを聞いた。やはり魚雷であったかと思った。なぜか海の中は寒かろうなとの思いが一瞬心をかすめた。怖さはなかった。
 すでに甲板上は騒然、蜂の巣を突っついたようになっていた。極度の緊張感が胸をよぎった。とにかく小隊全員を落ち着かせなければと思った。「全員、甲板上に集合!」と大声で叫び、「各分隊人員点呼、異常の有無を報告せよ」と、これも大声で命じた。
 海軍が気を狂わんばかりに機関砲を打ちまくっていた。敵潜水艦が浮上しているかと、その方向を見たが何も分からなかった。船からは盛んに爆雷を投下しているらしく、爆発音がひっきりなしに聞こえた。
 ようやく各分隊長の人員の掌握が出来とみえ、「第一分隊、異常ありません」と報告を受けた。「第二分隊、気違いが出ました」の報告に続き、「第三分隊も気違いが出ました」と報告された。「しまった」と思った。極度の恐怖感から一時的に錯乱状態に陥ったのだろうが、どうしようにも処置をする暇はなかった。爆雷の投下は相変わらず続いているようだったが、光栄丸はすでに傾きかけていた。海に飛び込むわけにはいかないしと思いながら、大発艇が甲板に積んであるのが目についた。「よし、これだ」と決心し、全員を少しでも落ち着かせるため、「よーし、わかった」と言い、全員大発艇に乗るよう命じた。
 全員が大発艇に乗ったのを確認して、「ロープの横におる者は、船が沈むときにロープを切るのを忘れるな、わかったか」と命じた。大発艇はロープで固定されている。切らなければ船もろとも沈んでしまうからだった。
「ハーイ」という返事に交じって、「隊長殿、底に穴があいています」と叫ぶ声がした。「穴にはボロきれか何か詰めておけ」と指示し終わらぬうちに、「隊長殿、この大発艇にはガソリンがありません」と叫ぶ声が聞こえた。「よーし、わかった、ガソリンは無くてもいい。浮かぶだけでいいんだ」と大声で叫び、とにかく全員の動揺を抑
えるのに懸命であった。

ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.2

  • 2015.04.09 Thursday
  • 10:04

バシー海峡の海水浴(二)

 ここで初めてビルマに行くとを知らされ、ビルマの本隊に合流するまでの部隊編成がなされた。私は小隊長を拝命し、約五〇人の初年兵を引率することになった。現役のときは兵卒であり、小隊指揮の経験は無かったが、鉄道教習所専門部では一年の時から小隊指揮者を命ぜられ、教練の時間には約五〇人の電気科生の指揮をとっていた。小隊長を拝命した時、特別に困ることはなかった。
 出発は深夜だった。事前に厳しく注意されていたので極めて静粛に行われ、久留米駅まで行軍して客車に乗り込んだ。門司港駅には翌日の夕方着き、門司港で数人ずつ民家に分宿した。私は夜間の巡察を命ぜられていた関係上、家族の方とゆっくり話をする時間もなく、ひと晩お世話になりながら、どの家のお世話になったのか記憶に残っていない。
 翌朝、門司港の桟橋前広場に集合したわれわれビルマの第五十六連隊の補充要員は、小隊ごとに別々の船に乗船した。輸送途中で敵潜水船等に攻撃され、撃沈された場合を配慮した措置と思われた。
 私が乗船した光栄丸は、排水量一万二〇〇〇トンの新造タンカーで、聞けば処女航海とのことだった。乗船したもののすぐには出航せず、出航は数日後であった。船団の船の数は分からなかったが、かなり大船団のようで、船団の周囲を駆遂艦か駆潜艇が護衛しているのが見えた。光栄丸にも機関砲一門が装備され、海軍軍人が数人乗り込んでいた。戦局の推移や輸送船の装備から考えて、この航海はかなり危険率が高いかもしれないと思われた。

 
編集部註=前年の昭和十八年二月一日、ガダルカナル島から日本軍が撒退した。同島方面での巻き返しをはかる日本海軍は四月七日から「い号作戦」を展開した。ラバウルに赴き、自らこの作戦の指揮をとっていた山本五十六連合船隊司令長官は四月十八日朝、最前線部隊の状況視察のためラバウルからブーゲンビル島南方のバラレ蓄地に向かったが、アメリカ軍に暗号を解読されており、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。
十九年七月七日にはサイパン島の日本軍守備隊残存兵力約三〇〇〇名が玉砕した。前年末から二月にかけ中部太平洋の島々を陥落させたのち、六月十五日約七万一〇〇〇名の兵力をサイパン島に上陸させた米軍に対し、約四万四〇〇〇名の日本軍守備隊は懸命に応戦したが、十九、二十日のマリアナ沖海戦で連合艦隊が敗北したため、大本営は二十四日同島の放棄を決定した。次第に島の北端に追い詰められた日本軍は七月六日、戦闘を指揮していた斉藤義次陸軍中将と南雲忠一海軍中将らが自決、残りの守備隊も七日から八日にかけて万歳攻撃を敢行、玉砕した。その際、約一万人の一般住民もその多くが手榴弾や毒物で自決、あるいは断崖から身を投げ自ら命を断った。

 しかし台湾の高雄までは別段異常はなかった。高雄に停泊している間、小隊長には上陸許可がおりたので、初年兵らが郷里に出す手紙と、あらかじめ注文を受けた待望の食料、バナナ、砂糖を買い求める資金を集めて上陸した。預かった手紙を投函し、高雄の街を見て回りながら蛇皮の財布を私個人用に購入し、バナナと砂糖を一篭ずつ光栄丸に積み込むようにした。所定の時間に帰船するとすでにバナナと砂糖は積み込まれていた。内地では甘味品に飢えていた時であり、全員大いに喜んだ。積み込んだ食料品も毎日平等に分配した。
 高雄に何日か停泊した後、船団はマニラに向かった。乗船以来われわれの船室は船倉に造られていたが、タンカーを改造したもので、船室は暑くて換気もよくなかった。しかし日中は甲板上に出るのを禁止され、日が沈んでからしか許されなかった。
 高雄出航後は特に船室の温度が高くなったような気がする。甲板に上がって満天の星を跳めながら、大きく深呼吸したときの壮快さは、表現の言葉もないほどいい気分だったが、機関砲の砲側に配備の水兵の数は増えてきたように思え、なんとも不気味だったのも確かである。
 夜も次第に更けて、肌にあたる夜風が幾分涼しくなると、甲板上で皆、思い思いに横になった。すでに白河夜船をきめている者もいた。私も異常がないのを確かめて、今日も無事に終わったと思いながら横になった。遭難に備えて軍装を解くことは禁じられている。帯剣を締めたまま、銃は右手に抱いて横になるのが習慣だった。星の輝やきがことのほか鮮やかに思え、これが南の空かとロマンチツクな気分で、うとうとと浅い眠りについた。

ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」

  • 2015.03.29 Sunday
  • 21:04
バシー海峡の海水浴(一)
 

 昭和十九年七月六日、東京・池袋の鉄道教習所専門部電気科二年生として寮生活しているとき召集令状がきた。あとでわかったことだが、ビルマ(ミヤンマー)の日本軍が、世界戦史にも例を見ない悲劇的退却戦を始めた四日後のことである。
 
編集部註=昭和十七年八月、当初破竹の勢いだった日本軍は、一たんビルマ全域を占領したが、その後、英印軍や米中連合軍の、インド側からの侵攻に悩まされた。第十五軍指令官牟田口廉也中将は、英印軍の拠点、ビルマ国境に近いインドのインパール攻略を主張、大本営もこれを認め、三月に作戦は開始された。しかし当初から補給や制空権の確保は無視されており、弾薬と食糧の補給のない日本軍は苦戦に陥り、七月二日インパール作戦は中止された。
結局、この作戦で日本軍は参加兵士約九万名のうち約三万名が戦死、退却の途上飢えと病気で約四万二〇○○名の戦傷病死者を出した。

 当時、専門部の「有隣寮」が改築のため、寮生は全部「有朋寮」に住んでいた。非常に南京虫が多い寮で、夜は睡眠どころでなく、皆困り果てていた。
 その日も寝つかれない夜だった。寝台よりはましかもしれないと思い、長腰掛けの上に横になっていた。その時、電話の知らせを受け、寮長室に行ったが、遠くて全然聞きとれなかった。
 電話交換に聞いてもらったところ、「召集令状がきているので、明後日十一時までに久留米の西部○○部隊に入隊せよ。召集令状は小倉駅で渡すので、列車の小倉駅通過時刻を知らせよ。電報も打っておいたが、電報では間に合わないと思い電話をしている」とのことだった。
 当時、特急列車はなく、一日数本の急行列車があったが、電話を受けてから最も早い急行に乗っても、決められた時刻に入隊することは不可能であった。飛行機についても問い合わせてみたが、便があるはずもなかった。
 やむなく同室の同僚の一人に、憲兵隊に行って入隊遅延の理由について証明書を貰ってくれるよう依頼する一方、同僚の加勢で小倉の自宅に送り返す荷物を梱包した。
翌七日、荷物の発送は同僚に頼み、教習所長や配属将校等に挨拶のあと、池袋駅から東京駅へ向かった。それぞれの駅で多数の同僚が見送ってくれた。証明書を依頼した同僚は憲兵隊で、証明書は東京駅長に貰うように言われ、東京駅長の証明書を駅まで届けてくれた。別の同僚は、東京から久留米まで二十四時間かかるため、食堂に無理をお願いし、当時常食にしていた豆粕入りの握り飯二個を用意してくれた。
 列車は始発時からかなり混雑していたが、応召タスキをかけていたので座席に掛けられた。時間の経過につれて腹が減ったが、長い道中を考え、夜までは手をつけずに辛抱した。つとめて眠ることにしたが、目が醒めるといろいろなことを考えた。
 現役の時、四度満州の冬を経験しているので、満州なら嫌だなと思った。また、昭和十七年五月、現役を満期除隊後は、父がしきりと結婚を薦めていた。父は専門部の受験にも反対だった。合格のあと父に話したが、これに対し何も言わなかったものの、召集されてみると、父の意向に添えなかった済まなさが心をよぎった。しかし応召の身では妻子がいないのに越したことはないと、自分自身に言い聞かせたり複雑だった。
 このほか現役時代のことなど思い浮かべているうちに列車は八日朝、小倉駅に到着した。
 小倉駅では父と弟とが召集令状と弁当を持って乗り込んできた。早速、弁当を思いきり食べようとしたが、腹は減っているのに半分も食べられなかった。母や兄弟のこと、商売や空襲のことなど車中での話は、ほとんど聞き役に回った。
 父と弟とは久留米連隊の営門の前で別れた。所定の時間を過ぎていたので、ごく手短かく、「からだだけは気をつけろよ」、「お父さんもな」と言っただけで別れた。父は戦争体験があり、負傷もしていたので未練がましいことは嫌いであった。営内で担当の将校から入隊時間の遅れを一応やかましく叱責されたが、処罰はされなかった。
あまり覚えていないが久留米連隊には十日間ぐらい居たように思う。その間、各人に兵器や被服が支給され、私物の服や靴などは家に送り返した。

ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」連載にあたって

  • 2015.03.29 Sunday
  • 20:24
 福岡の友人から1冊の冊子が送られてきた。
 表紙には「太陽は未だ真上にあった」の表題があり、「ビルマ敗戦記」の副題がつけられている。著者名を見ると、松尾剛(まつおこわし)とある。
 同封されていた手紙を見ると、
「お手数をおかけしますが、私の国鉄時代の大先輩《松尾剛》鳥栖機関区長の戦争体験の手記です。戦争の実態を後世に残したいと思いお願いいたします。」
「お願いいたします」とあるのは、「たくさんの人の目に触れるようにし、戦争の実態を風化させないようにしてほしい」という思いのようだ。
 そこで、しばらく休んでいた私のブログ「徒然漫歩計」に連載しようということになった。たまたま中西喜次(なかにしよしつぐ)農学博士の書かれた「ジャワ・ビルマの大空 一気象隊士官の手記」と題された出版物も、大阪の友人からお預かりしている。ビルマで戦った二人の無名戦士の記録が手元にあるわけだ。
 とても偶然とは思えない。福岡の友人を通して、あるいは大阪の友人を通して、戦争で亡くなった方たちの思いが、僕のもとへ届けられたと考えるしかない。ならば、この二つの戦記を八月の終戦記念日に向けて「徒然漫歩計」に連載し、連載が完結した暁には、電子図書として後世に残すようにしよう。これで私に託され届けられた「思い」には、幾分なりとも応えることができるかもしれない。
そう思い、この連載を始めることにした次第である。

 そこで、まずは「太陽は未だ真上にあった ビルマ敗戦記」から始めさせていただく。
 ところで福岡の友人というのは、JR博多車両区を、たしか七年前に退職し、今は悠々自適の生活を送る竹下博氏である。彼の手紙を読むと、松尾さんというのは、彼が国鉄時代世話になった大先輩だという。
 その松尾剛さんの思い出を、竹下氏自身が綴ったものがあるので、ここに紹介し、松尾さんの紹介に換えたい。

 私は昭和四十五年四月一日に日本国有鉄道九州支社に入社しました。
 六ヶ月間の研修を終えた後、十月一日付で鳥栖機関区車両係を拝命し機関士助手見習・機関助士・電気機関士見習・電気機関士となり、ある日、電気機関士として乗務し門司機関区の常務後点呼に行ったところ、
「オイ若僧! おまえは組合バッジを付けていないが何処の組合だ」
 と問われ、私はまだ組合に組合に所属してなかったので、
「私はまだ組合に入っていません」と答えたところ、
「組合に入ってない者に、我々が勝ち取った乗泊に泊めることはできない」と言われました。
 仕事で来て寝るところがないというのはスジが通らないので、管理者である当直助役に交渉しようとしたところ、その助役はスーッと席をはずし私の要求を聞き入れてくれません。
 困っていると、後ろからポンポンと肩を叩いてくれる人がいて
「泊まるところがないのなら、私共の確保した宿泊所に泊まりませんか?」と声をかけてくださいました。
 私は、その方の好意に甘え、その夜は紹介してくれた宿泊所に泊めてもらいました。
 当時の国鉄はオープンシップ制であり、組合に入ろうが入るまいが自由に選択ができる制度でしたが、現実と理想ではこのように違っていました。後で分かったことですが、当時の組合は大きく分けて総評系(官公労主体)の組合、国鉄労働組合(国労)と動労(動力車労働組合)の二大勢力と、同盟系(民間の労働組合系)とに分かれていました。
 私は翌日機関区に帰り指導室に行き、指導の方々に昨日のことを話したところ、指導の方から、
「竹下君、一応国鉄はオープンショップ制を取り入れているが、現実にはどこかの組合に入らないと仕事ができないよ」と言われ、 イジワルをされた組合に入るよりは助けてくれた組合に入ろうと決め、その日から鉄道労働組合に所属しました。
 その翌年の春闘のことだったと思いますが、機関区の便所で用を足していたところ、若い男性と女性が一人ずつ入ってきて便所の壁にビラを貼り出しました。そのビラの内容は「要求貫徹」とか「スト権奪還」とかいうビラを所構わずベタベタと貼り出しました。
 私は、掃除のオバチャンが毎日きれいにしてくれる便所、おまけに花まで飾ってくれる便所に、そのような無法が許されてよいものではないと思い、その若い青年と女性に
「おい、やめろ! 今貼ったビラをはがせ」と言いましたところ、二人は逃げてしまいました。
 そこで私は、安部政敏という後輩と二人で、そのビラを剥がしてまわりました。
 それから十分後、二、三十人のモサクレどもが徒党を組んで私を取り囲みました。彼らも上手いもので、手は出さず、腕組みをして足でボコボコと蹴るのです。
 その時の管理者(助役)達は見て見ぬふり。何もしてくれません。その時です、二階の区長室から、私が初めて赴任した現場長(松尾剛)がタッタッタッ と階段を駆け下りてきて、その二、三十人をかき分けて
「竹下! 区長室へ上がれ!」と助けてくれました。
 区長室に入ると、そこに動労の支部長 立石某なる者がいて、
「オイ若僧!」と声をかけてきましたが、私も腹が立っていましたので、
「若僧があるか! 俺には竹下博という名前があるんじゃ」とやり返しました。

 その後、区長室で動労の支部長と区長が話し合いを持ち、立石支部長から「そんなに便所をキレイにしたいのなら今から便所掃除をしてこい」と言われ、私も「よし分かった、今から便所掃除に行く」と言って立ち上がろうとしたところを、松尾区長から止められ、区長室を出るようにに言われ退室しました。
 その後、この事件は門司鉄道管理局まで上がり、当時は組合が権力を持っていたため、松尾区長は五十四才の若さで退職、私は新幹線大阪運転所へ転勤が命じられ、この一件は終了しました。組合が権力を持っていたため区長は首を切られ、私は九州支社から大阪へ左遷されました。松尾区長は自分の首を差し出し私をかばってくれたのです。この区長は二回も戦争に行き、軍隊では「牛殺しの松」の異名を持つ勇気ある区長でした。初任地で、このような男気のある区長に巡り会えたことは、私にとって記憶に残る感謝すべき巡り合わせでした。

 竹下氏と松尾氏の出会いは、このようであった。
 しかし「牛殺しの松」の異名を持つ松尾さん、どんな強面の人かと思ったが、娘さんから送っていただいた写真を見ると、がっしりとした、やさしそうな、それでいて少しはにかみやさんのような印象を受ける。
 娘さんの記憶によれば、松尾さんは、大正七年二月四日に生まれ、昭和九年に小倉中学校を卒業、その後、鉄道専門学校に進み、卒業後、国鉄に入社、昭和四十七(一九七二)年、五十四歳で退職したという。この間、二度の招集で戦地に赴いた。

 では、「ビルマ敗戦記 太陽は未だ真上にあった」―― いよいよ、はじまりです。

◇「孤児たちのルネサンス」を20名の方にプレゼントします

  • 2013.11.02 Saturday
  • 10:12
 60才の還暦を迎えたとき、自分へのご褒美ということで1冊の本を作った。それまでは本を出したいという人の相談に乗り、如何に安く良い本をつくるか、どのようにして読者を集めるか、そのことばかりを考えてきた。

 今度は自分の出したい本を作る。そうして出来たのが「孤児たちのルネサンス」だ。16世紀末、印刷機の普及に伴い、バチカンもルターに対抗し、これまでのラテン語聖書を全面改定し「シクトゥス聖書」が出版された。ところが、これが一冊も残っていない。シクトゥス教皇が亡くなるや、ベラルミーノ枢機卿がヨーロッパ中の異端審問書に号令をかけ回収し焼き払ってしまったのだ。そのうえで、「シクストゥス・クレメンタイン聖書」を大急ぎで発行し、これに換えてしまった。

 このバチカン史上、謎とされる事件と、日本からローマへ渡った留学生トマス荒木の史実を交えて、自分なりの解釈を小説化したものが、「孤児たちのルネサンス」だ。
テーマは、人の言葉に縛られる怖さ、宗教に縛られる怖さ……果たして我々は、何かをしようとするとき、何かを決断するとき、周りの何ものにも影響されないということが果たしてあるだろうか。本当の自由とは何だろうか? このことを、この本を通して考えてみたかった。

 前置きが長くなったが、この本を、当初1000部つくって、100冊を図書館に寄贈し、残りをボチボチ売ってきたが、在庫整理したとき300冊が残っていた。そこで100冊だけを残し、200冊を廃棄処分にした(それにしてもマイナーな内容にもかかわらず600人の方の手に渡ったことになる。ありがたいことだ)。

 しかし100冊を残したものの、では、どうしようかと思ったが、読みたい人にプレゼントするのがよかろうと思った。そこでまずは試しに20名の方にプレゼントという次第!!

 以下のメールアドレスに「本希望」の旨と、送り先の住所・氏名を書いて送信していただければ、ゆうメールにて送らせていただく。
kiriu@dep-ebooks.com

本の詳しい内容は、
http://www.dep-ebooks.org/orphant_order.htm

儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.3

  • 2013.09.26 Thursday
  • 14:18

葬儀に関して取材させていただいた中で、次のエピソードは、僕が一番感動した内容です。「人間は肉体ではなく、意識だ」ということを、息子さんからの話と自身の手術中の体験によって信じるようになり、「お前のやっている学びはほんものだ」と言いきったお父さん。言うだけでなく、長年つきあった友人の僧侶にも、その旨を話し、「長年世話になった」と檀家から抜け、「もし、それでも友人でいてくれるなら、自分の葬儀の時は、袈裟でなく背広とネクタイで出席してほしい」と告げたお父さん。その言葉に応えるように、背広・ネクタイ姿で葬儀に出席した僧侶……取材していて、本当に「こんなことがあるんだ」と胸が熱くなったのを覚えています。以下、その取材した原稿です。


Uさんの場合

喪主のUさんは、四年前にお父さんを亡くされた。Uさんは知り合いの葬儀店に連絡を取り、会場だけを貸してほしい旨を連絡し、家族だけで送ろうとしたが、お父さんがこの地域で指導的な立場にあったため、役場から情報が流れ、県会議員をはじめ市長や多くの名士が参列する大がかりな葬儀となってしまった。
ただ参列者が驚いたのは、そこには読経をあげる僧侶も存在せず、焼香もなく、線香の一本さえもあがっていなかったことである。
ところで、この地区は因習や地縁関係が根深く残っているところであり、しかもUさんもお父さんも、この地区の指導的な立場にあり、旦那寺とも親しく、代々、檀家としても代表的な立場にあったという。お寺との関係ばかりでなく、この地区では行事といえば神事を指すほど、神社や氏神との関わりも強い。氏子としての役割も強かったという。
話は前後するが、こんな環境の中、Uさんのお父さんが直腸ガンの手術で入院することとなった。ところが開腹してみると思ったより状態がひどく、このまま手術を続ければ、老齢ということもあり生命の保証もできない。手術を中止するか、このまま続けるか、五分以内に回答をほしいということになった。立ち会っていたUさん、相談する相手もなくすべての判断が自分にかかっているという状況に追いつめられてしまった。しかもゆっくり考える時間などない、五分以内に答えを出さなければならない。
この頃、Uさんは「人間の意識」ということについて学んでおり、本当に伝わるのは、「言葉」や「態度」でなくその人の「思い」だということを教えられていた。口で「あなたはいい人だ」と言っても、心で「この野郎!」と思っていれば、「この野郎!」という思いがエネルギーとして働く。その場はだませても、このエネルギーが働くため、結局はうまくいかないし、相手も表面上はだませても、実は本人が気づかないだけで本音が伝わっているのだと……。要は、自分が変わらないかぎり、いくら宗教に頼っても自分も人も決して救われることがないということを分かり始めた頃であった。
思いあまったUさん、このことを思いだし、「意識は伝わるんだ」と自分に言い聞かせ、必死の思いでお父さんの心の中に話しかけた。
「親父、どうしたらいい。手術を続けるほうがいいのか? 中止したほうがいいのか?」
そのとき、Uさんの心の中に「手術を続けてくれ」というお父さんの思いがハッキリと響いてきたという。Uさん、半信半疑ながらも、その思いを信じ、医師に「手術を続けてほしい」旨を意思表示した。
やがて手術も無事終わって、お父さんの意識が回復したとき、
「不思議な体験をしたよ。おまえが俺に手術をするべきかどうか話しかけてくるんだ。」
Uさんは声に出して話しかけたわけでもないし、しかもお父さんは麻酔をかけられて手術室に入っていた。このことを話すと、「おまえが常々言っていたのはこういうことだったのか、おまえのやってる学びはほんものだ」と、あっさり脱帽したというのだ。
これからが、このお父さんの偉いところだ。
病状がある程度快復すると、Uさんと二人して旦那寺へと挨拶に出かけた。
「息子が常々、人は意識だと言っている。俺も病院で不思議な体験をし納得した。人は己の心を見つめ己自身が変わっていかないかぎり、寺に頼っても、経文に頼っても人は成仏することはできないことを知った。分かった以上、寺の檀家であることはやめたいと思う。理解してほしい。こんな訳だから、葬儀のときも、あんたが僧侶として出席することは控えてもらいたい。俺との長年の付き合いで顔を出してくれるというのであれば、背広にネクタイで出席してほしい。袈裟や数珠などは不要である。」
二人は、この後「長年、お世話になった」と礼を述べると、寺を後にした。
この後一年して、お父さんは亡くなった。肺気腫やその他の病気を併発しボロボロの状態であったという。死を悟られたのか、死ぬ一週間前、咳き込みながらも十分近く、自分の最後の思いをテープレコーダーに録音された。
「自分はこれまで自分の信じたことをやってきたが、その結果が果たして良かったのか、今、疑問に思っている。本当のことに早く気づけたのに、それをないがしろにし、今まできてしまい、人生を無駄にしてしまったことを後悔している……」
Uさんの奥さんが、たまたま録音されているその姿を目撃されたが、録音し終えると、しばらくはその場で泣いておられたという。
やがてUさんのお父さんは亡くなり、今回の葬儀となった。
集まった人たちは、僧侶もおらず、焼香もなく、線香の一本もあがっていない葬儀会場に面食らったが、静かに童謡の流れる会場に、やがて録音された最後のメッセージが流れはじめた。
咳き込み、時に涙ぐみながら語る故人の声に感動しない人はなかった。
集まった人たちは、葬儀が終わると、
「葬儀もこれからは変わっていきますなぁ」「重苦しい読経よりさわやかでよかったですよ」「本当に気持ちのいい葬式でしたなぁ」と口々に語られていた。
その弔問客の中に、檀那寺の住職も背広姿で参列していたという。
この話にはまだ続きがある。この地域ではありえない、この一風変わった葬儀の後、非難の声が起こると思いきや、追随する人が出てきたのだ。この地縁関係の結びつきの深い地域でも、確実に因習に縛られたくないという思いが広がっており、Uさんの行動に触発される人が今も続いているという。
ところで、この葬儀にかかった費用、お父さんの立場上、密葬にできなかったこともあってかなりな出費になってしまった。それでも八十万円程度であったという。
以下に掲載するのは、Uさんのお父さんがテープレコーダーに残されたという最後のメッセージである。息子さんの許可を得てここに掲載させていただくことにした。

本日は私のお別れの会に当たり、皆様方にはご多忙中わざわざお出でいただき本当にありがたく、はなはだ高席からではありますが、あつくあつく御礼を申し上げます。
私の生前中は、皆様方には一方ならぬお世話になり、これに対するご恩返しもできずに人生を終わっていくことを、ひたすら残念に存じております。何とぞお許しをいただきたいと存じます。
私の人生八十年を振り返りますと、いったい私は八十年間なにをしてきたんだろうと自問自答するとき、やってきたことすべてが幻であったとしか言いようがございません。八十年と申しますと、日数にして二万九千二百日、時間にして七十万八百時間、億という数字から見ますれば、本当に瞬きしている間、ほんの瞬間に過ぎ去ったと思います。時計の針の一秒一秒の積み重ねが八十年間で二十五億二千二百八十八万秒となりますが、その一秒一秒の大切さを、今更(声が詰まる)、「死」を直前にして知らされました。
一年は八万七千六百時間です。どうか、皆様、おのおのの年齢から割り出し、残りの時間を大切に悔いの残らぬよう、ご活躍あらんことを願うものでございます。
私は六十歳を過ぎてから、人生が本当に幸せな一日一日が送れたのではないかと思います。
家庭においては、子供らに親らしいことは何もしてやれなかったのに、本当にみんなが「爺ちゃん、体の調子はどうや」と言って体をさすったり、また「栄養をとらなあかん」と言って嫁が料理をつくってくれたり、兄弟みんな日曜日に寄って、部屋の掃除をしたり、本当に至れり尽くせりに面倒を見てくれ、私ほど幸せ者はなかったと、一人、部屋から子供らのほうを向いて手を合わせておりました。
なお老人会の皆様には、ゲートボールをはじめ、旅行、ぼちぼち広場、忘年会、新年会と、老人同士で語らい、忘れることのできない老後生活をさせていただいたことに対し、お礼と感謝を申し上げます。今後はお体をお厭いになり、楽しい老後の人生をお過ごしになることをお祈り申し上げます。
いろいろと申し上げたいことは多々ございますが、言い尽くすことはできません。
最後に、本当にお集まりいただきました皆様方の、本日お集まりいただきました皆様方のご健康とご多幸をお祈り申し上げつつ、お礼の言葉と最後のお別れの言葉に換えさせていただきます。どうも、ありがとうございました。それでは皆さん、さようなら、さようなら、皆さんの健康を祈ってます。さようなら、(泣きながら)どうかお幸せに、さようなら。さようなら……。 

儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.2

  • 2013.09.26 Thursday
  • 08:33


(神式の葬儀/http://www.serekea.jp/kazoku.htm から転載)


昔、新しい葬儀に関する本の出版に関わったことがある。その本は今は絶版状態になっているので、そのなかで、僕が直接取材した何人かの方の話をここで紹介している。いずれも、現在の仏教主導型の「お金のかかる葬儀」を良しとしない方々の一例である。

大阪府・羽曳野のTさんの場合

Tさんは、二度の喪主体験をされた。最初はお母さんの時、二度目はお父さんの時だという。
もともと実家が神道であり、祝い事はおろか葬儀に至るまですべて神道で行ってきたという。大阪へ引っ越しされてからも、お母さんの葬儀の時は神道で行ったという。
私自身モノ知らずで、今まで神道の葬儀があるということを知らなかったものだから、好奇心も手伝って、神道での葬式がどういうものか訊いてみた。
仏式では霊前での焼香が必ずあるが、神道のお葬式では焼香は行わないという。神式のお通夜・葬儀・法事では玉串奉奠(たまぐしほうてん)といって、玉串と呼ばれる葉のついた枝を神前に供えるという。
まず両手で玉串を受け取り、根元が向こうを向くよう時計回りに持ち替えてまわし、お供えをする。次に二度、頭を下げ、音を立てないようにやはり二度柏手を打ち、最後にもう一度、頭を下げるという。
ただ大阪では、神主さんに頼むとき、結婚式や誕生などの祝い事は歓迎されるが、葬儀の依頼は結構いやがられたという。
二度目のお父さんのときは、最初と事情が違っていた。この間、Tさんはある人との出会
いから真剣に人生を考える機会を持ったという。「苦しいときの神頼み」という言葉があるが、真剣に自分自身を見ようとしたとき、苦しみの原因がどこにあるかも見ようとせず、ただ何かに頼ろう、すがろう、うまくいかないときは世間が悪い、周りが悪いと犯人探しをしてきた、そんな自分に嫌気がさしたという。そうなると儀式という形だけが残った宗教にも嫌気がさしてきた。と同時に、そんな宗教に向けてきた自分の心にも嫌気がさしたという。自分を変えようとすることなく、何とか自分に都合の悪いことだけを、祈って、すがって、なくしてもらおうとする。そんな自分の心を変えたいと思ったという。
そう思ったTさん、早速、町内会にも断りを入れ、一切の宗教的行事に関わり合いたくないと宣言された。大阪でも都市部はいいが、田舎へ行くとまだまだ閉鎖的で、こんなことを言い出した日には、周りがどんな目で見るか分かったものではない。どんなにか勇気がいっただろうと思うが、意外と周りはすんなりと受け入れてくれたようだ。
Tさんを取材するとき、お住まいが分からず、付近の方に「Tさんのおうちを教えてください」と道を訊いたのだが、「ああTさんの家なら……」と、親切に親しみを込めて教えていただいた。とても周りから白い目で見られている、そんな雰囲気ではなかった。
そんなわけで、お父さんの時は、神主さんも、お坊さんも呼ばず、互助会に頼んで家族だけで送ることになった。
お父さんの場合、急であった。長い闘病生活の末に病院で亡くなったというのでなく、自宅で、ある朝、起きてみたら亡くなっていたという。全くの急死であった。
早朝のため、主治医とも連絡が取れず、とりあえず一一九番に連絡し救急車が駆けつけることとなった。
救急車からは、人工呼吸するよう指示が出る。Tさん、「死んでいるのになぁ」と思いながらも電話からの指示通り、お父さんの口に息を吹き込み人工呼吸を行った。
やがて救急車が到着し、しばらくして警察も到着した。一一九番に連絡したとき、消防から警察へも連絡が行くのだという。Tさんの場合は、この後、かかりつけの医師とも連絡が取れ、医師が警察に事情を説明したうえで死亡診断書を発行してもらい一件落着となったが、普段から健康でかかりつけの医師もなく、急死ということになると、たとえ老衰死であっても、警察医による検屍・解剖と言うことにもなってしまいかねない。
Tさんは、お父さんが普段から「葬儀に要らぬ金は使わず、身内だけで送ってほしい」と言っていたこともあり、ご本人の宗教的な葬儀はしたくないという思いもあって、互助会に連絡を取り、僧侶も葬儀も必要がないことを意思表示された。
お母さんの葬儀の時、納棺に際してちょっとしたハプニングが起こった。納棺に当たって、普段、お母さんの訪問看護をしてくれていた方が「死に化粧」を施してくれ、やさしいいい顔になったとみんなで喜んでいたが、業者の方が、料金の内だと思ったのかどうか、その上からまた「死に化粧」を施してしまったというのだ。
結果、やさしい顔が怒ったような顔になってしまったという。
これに懲り、お父さんのときは、特に「死に化粧」もすることはなく、納棺した後は、互助会のホールに移送し身内だけで通夜をすることになった。
翌朝、斎場に移して火葬に付したが、このときは朝一番だったせいか静かで落ち着いて送ることができたという。というのも、最初のお母さんのときは、午後からの火葬となり、数が多く火葬も競争状態となった。各宗派の僧侶や宗教者が、それぞれのお経や祈りを、他に負けまいと大声を上げて競い合うものだから、静かで落ち着いた雰囲気などほど遠く、ただうるさくて慌ただしいだけのものとなってしまったという。
こうなると、お経はありがたいというより、うるさいだけの騒音でしかないだろう。
それはさておき、家族だけの葬送、全部で十八万円だったという。

儀式にとらわれない低価格の葬送 vol.1

  • 2013.09.25 Wednesday
  • 08:47


(10万円プランの葬送の一例 モリ葬祭さんの場合)


 低価格の葬送

「シンプルな葬儀・埋葬」と題して、二〇〇五年十月十三日の朝日新聞朝刊に次のような記事が掲載された。いわく「質素に最後を迎えたい、と故人が思っていたとしても、遺族にその意思が伝わっていなければ、葬儀やお墓にお金をかけてしまうものです。そんな中、残される家族の出費を抑えようと、自分が死んだ時の葬儀や埋葬方法を、あらかじめ選ぶ人が出てきました」と。
またホームページを検索してみても、「お墓は心の中に」と唱い、新しい葬儀の形を提唱する葬儀社も増えてきている。以前はこういった傾向は関東に多く見られたように思うのだが、最近は関西でも家族だけの低価格の葬儀を提唱する葬儀社が目立ち始めた。こんな中、「ぬくもり葬儀」のタイトルで、「家族葬ぬくもり10」 というホームページが目にとまった。とりあえず開いてみると、「火葬のみ ぬくもり10プラン 十万円 」とある。この十万円には、「寝台車(一五kmまで無料)」「枕元セット(経机・お線香・ローソク・おりん・仏花)」「ドライアイス二日分(二〇キロ)」「納棺一式」「お棺(桐)」「仏着(スエード)」「本骨袋(骨箱小)」「寝台形霊柩車」「役所代行手続き」「火葬場手続き」が含まれているという。このほかに、「霊安室使用料 五千二百五十円」「火葬料金(火葬場により異なる) 六千円」がかかり、総額費用でも十一万一千二百五十円でおさまるという。
無料のお問い合せ電話が掲載されていたので、早速、電話してみた。
大阪府松原市の「聖心社・もり葬祭」という葬儀社だった。代表の森さんは約二十年間葬儀社に勤めた後、『葬儀は変わりました! 安く・内容充実』をキャッチコピーに、これからの時代のこれからの葬儀社として平成八年に開業したという。
聞けば、このような家族だけの低価格の葬儀が増えており、同社の全取り扱いの約三割が低価格の家族葬プランだという。
森社長のお話を聞いていても、新しい兆しが確かに感じられる。
そこで自分の周りに、こういった葬儀にお金をかけなかった人がどれだけいるか調査し、その方々にお話しをうかがってみることにした。


大阪府・千里のSさんの場合

喪主のSさんは、重度重複障害児を持つ六十代前半の女性。亡くなったのは、障害児である娘のあかねちゃん、二十歳を迎えたばかりだという。
実はあかねちゃん一家とは、僕自身、ごく親しく近所付き合いをした仲だ。今も手許にあかねちゃんのお母さんの手記が残っている。
「娘の名前はあかねです。昭和五十二年十一月十八日、千五百グラムで生まれました。七ヶ月の初めに早産しました。生後二、三日で呼吸困難を起こしました。同時に黄疸を伴い、保育器の中で光線療法も受けました。その後、順調に発育していると思っていましたが、未熟児網膜症になっておりました。それは比較的軽く終わりました。現在は左が弱視です。生後九ヶ月目に脳性マヒと診断されました。昭和五十四年一月末日に重度の脳性マヒによる四肢体幹マヒ、わかりやすく言うと、寝たきり、一生涯寝たきりの子です。たとえ訓練をしても、寝たきりから脱することはできませんと診断されたのです。」
それから二十年が過ぎた平成九年十二月、あかねちゃんのお兄ちゃんが結婚することになった。
このとき、あかねちゃんは吐血が始まり病院に入院したまま。主治医のお医者さんも「もう長くはもたないだろう」と言っていた。それでも結婚式には病院の外出許可をもらって参加、式が終わるなり、また病院へとんぼ帰りしたという。
式場から病院へ帰り着き、看護婦さんに迎えてもらってうれしそうなあかねちゃんの写真が残っている。
それから一月あまりが過ぎた平成十年一月十四日、あかねちゃんは病院で亡くなった。明け方の午前三時だったという。病院のストレッチャーで車まで運び、大好きだったお兄ちゃんのライトバンで団地の一階にある家へと連れ帰ってもらった。
あかねちゃんはよく「キャッキャッ」と声を立てて笑った。外にいても、その笑い声が窓を通して聞こえてくるほどだ。亡くなったその日も、お母さんとお兄ちゃん夫婦がライトバンで連れて帰ってきたのだが、部屋へ入るなり「キャッキャッ」という笑い声が聞こえるというのだ。
「いやぁ、あかねチャン、生きてるわ!」と、一瞬思った。
だが、それは飼い犬エルの鳴き声であった。
夜が明けるなり、市役所に電話し、葬儀社を紹介してもらった。
「何も要りません、葬儀も不要です。棺桶と焼き場の手配だけをお願いします。」

この日は、あかねちゃんを知る人たちだけの送別会となった。急遽、あかねちゃんの寝ていた部屋が立食パーティの会場となる。焼香も線香もなし、来る人も香典はなし、数珠も持たない。
というのも、あかねちゃんのお母さんが、仏教の葬儀に疑問を持っていたからだ。いや仏教でばかりでなく宗教で人は救われることはないと強く思っておられる方だった。
だから来る人も、「あかねちゃんが花が好きだったので……」と、花だけを持って参加した。
来る人、来る人が花を持ってきた。
常々、お母さんは、あかねちゃんに「死んだら、あかねチャンの好きな花でいっぱいにしたげるワ」と言っていたが、期せずして、部屋はその言葉通り花でいっぱいになった。棺も花でいっぱいにした。ただ花だけを折って入れるのは「何となく残酷そうでイヤだ」というので、花だけをちぎるのでなく茎のままを入れたという。
誰も泣く人はなく、あかねちゃんの想い出話をし、ジメジメした雰囲気はなかったという。あかねちゃんの担任だった先生も、集まった人たちも「こんな雰囲気っていいですネ、私もこんな風にしたい」と感想を漏らしていた。
明けて一月十五日、普通なら成人式となるのだが、この日、あかねちゃんは黒いバンで斎場へと移された。
「焼いている間、みんなで食事をしました。お骨は迷った末に持って帰り、撒こうかとも思ったのですが、トラブルの元になってはと、実家のお墓へ入れました」とお母さんは淡々と語る。更に訊くと、それはお墓が大事だという意味ではなく、処分に困ったあげく、ここへ入   れておけば誰にも迷惑がかからず土に帰るだろうと思ったからだそうだ。
「葬儀の費用は」と問うと、「棺桶代が四万円だった。そう、全部含めて十三万円だったのを覚えているけど、明細は覚えてないわ」と明るく答えてくれた。
ちなみに大阪の市役所に電話で確認してみたが、大阪市では、お骨は持って帰らなくてもいいそうだ。最初に渡される書類に「お骨を持って帰る」「お骨を持って帰らない」の希望欄があるそうで、電話に出ていただいた係りの方に「お骨を持って帰らない場合、そのお骨はどうなるんですか」と訊いてみると、「一年間保管し、その後、共同霊園にお入れします」という答えが返ってきた。
このことは、全国どこの市町村でも同じらしいが、確認したわけではない。 

仏教という常識??

  • 2013.09.24 Tuesday
  • 14:21



はじめに

人の一生には様々な儀式がついて回る。
誕生に当たっては、まずは安産祈願。妊娠五ヶ月目に安産を祈って神社に詣で、腹帯とか岩田帯と呼ばれているものを授けられ、これを捲く。生まれたら生まれたで、七日目をお七夜と称し、この日に赤ちゃんの名前を付けるのが古来からの習わし。そして、この名前を命名書に書いて神棚にお供えする。
生まれて一月が過ぎると、初宮参りといって、男子は生後三十一日目、女子は生後三十三日目に神社にお参りする。
この後も、お礼参り、七五三参りと生まれてからしばらくは神社との縁が切れないようだ。
特に「氏神」だ、「氏子」だと意識しなくても、多くの人が、このように神社と関わり、当たり前のように正月には神社に初詣をする。結婚式も圧倒的に神式が多い。最近はクリスチャンでなくても教会で式を挙げる人も増えているが、葬儀となると、俄然、日本人は「自分は仏教徒」だという意識を強くするようだ。生まれるときは「神様」で、死ぬときは「仏様」となるのが日本人の普通の姿になってしまった。
ところが最近、葬儀についてのトラブルが後を絶たない。その多くがお寺、あるいは僧侶との関係にあるようだ。こんな中、「葬儀不要」「墓不要」「戒名不要」の声もにわかに勢いづいてきた。つい先だっても朝日新聞の朝刊に、シニアの三割が「葬儀を望まず」という記事が掲載された。
しかし、一方で「葬儀は仏教でし、僧侶にお経を上げてもらい、戒名を授かり、死んだら墓に入るのが常識」という感覚が根強くある。だがこの常識、一体どこまでがホンモノなのだろうか。
なぜ、こんなことを言うかというと、そもそも仏教に「墓をたてる」という思想がない。「死んで戒名をつける」という考え方も存在しない。仏陀自身は、「僧侶が葬式に関わるべきではない」とまで言っている。
こんなことを言うと、みんなから「ウソーッ」という声が返ってきそうだが、多くの仏教国で常識となっていることが、なぜ日本では「ウソーッ」と叫ばれるような状況になってしまったのか。
先日も、ある女性からこんな体験を聞いた。彼女も「葬儀不要」「墓不要」という考え方なのだが、ある時、知り合いの町会議員の方と話す機会があったという。話題は、息子さんの結婚式の話。ところが話すうちに、「うちの息子が、結婚式は外国で自分たちだけで挙げる。たくさんの人を招いて披露宴など挙げたくないと、バカなことを言い出しよった」と怒りだしたのだ。彼の立場上、そんなわけにもいかないらしく、それがもとで口喧嘩となり、あげくは、息子さん、「そんな体面ばっかりの儀式に縛られたくない。一番いい例が葬式じゃないか、あんな金ばっかりかかる葬式、ホンモノじゃないよ。必要ないんだ」と自分の思いをぶちまけたらしい。
これには議員さん、よっぽど腹が立ったらしく「近頃の若い者はけしからん、あんた、どう思う」と、彼女に同意を求めてきた。
それをよせばいいのに、「私だって、今の形の結婚式や葬式は必要ないと思っています。お墓だって必要ないですヨ。先祖や親を敬うっていう気持ちが、どれだけ大きな葬儀を挙げるか、どれだけ立派なお墓をたてるかにかかっているなんて、ナンセンスだと思います。せまい日本、そのうち墓だらけになってしまいますしネ。息子さんの言ってること、案外、筋が通っていると思いますけど……」と口が滑ってしまったからたまらない。
「葬儀がいらない! 仏教徒が墓をたてない! そんなバカな話があるか!」と、怒りの矛先は遂に彼女に向かい「わしは仏教徒だ。お釈迦様を敬い、先祖を敬っとる。仏教徒が墓をたてないなど聞いたことがない。家を建てなくても墓はたてるべきだ。墓を持たない家は、いずれ衰退していく。わしが死んだら、墓がいらんというあんたの人生、これからどうなっていくか、草葉の陰からじっくり見届けてやる」ときたのです。
このことをどうこう言うつもりはないのですが、私たちは、仏教徒だからこうしなければならないとか、お坊さんが言うからとか、常識だからとか言いますが、もし、この常識の根本が間違っていたらどうなるのでしょう。
ここでは「葬式が必要だ」とか「必要でない」とか、「墓がいる」とか「いらない」とか、そんな話をするつもりは全くありません。私たちが仏教で当たり前だと思っているもの、世間で常識だと思っているものに焦点を当て、本当にそれが仏教での常識なのかを考えてみたいと思うのです。

1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?
まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。
しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのですが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレーズが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみましょう。
「始布施若左手布施勿令右手……」
どこかで聞いたことはないでしょうか。
そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説です。
また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」とあります。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。
このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずです。
こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だったのです。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたといいます。
日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記しています。

私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」と言ってくれました。
「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。
(ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)

このことは一体何を意味するのでしょうか。
私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきました。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのです。
驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるといいます。
早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはありました。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑があります。これがお目当ての『景教伝達碑』です。
しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だといいます。
では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのでしょうか。
そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史─仏教・景教編─』から、その概要を見ておくことにしましょう。

中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。
この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。
景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。
「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」
この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。
景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。
王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。
当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三〜八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。
唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。

このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしいのです。
九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのです。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしません。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をします。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのです。ケン・ジョセフ氏は更にこうも言っています。

空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。
空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八〜八二七年)も、もとの姓を秦といいました。
空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。
高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
(ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本─逆説の古代史─」

これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようです。
聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できます。
ところで、ゴードン女子というのは、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことです。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れました。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだというのです。
ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、一九二五年、七十四才でこの世を去りました。最期の地は京都であったといいます。


2.お盆という行事も景教から
このように、日本人が仏教だと思っているモノの中には、原始キリスト教の影響が色濃く残っていることが浮かび上がってきました。
それは単に思想的な面にとどまるのでなく、行事や風習の中にこそハッキリと刻み込まれています。
 次に、我々が今まで仏教的だと思ってきた様々な行事や風習について見ていきたいと思います。

,盆と先祖供養
仏教にはもともとお盆という風習はありません。お盆は盂蘭盆(ウラボン)の略ですが、これは「死者の霊魂」を意味するペルシャ系のソグド語「ウルバン(URVAN)」からきたというのです(仏教学者・岩本裕博士の説)。
ソグド人には家に祖霊を迎え、供え物を共に楽しむという風習がありました。中国のお盆はこれを取り入れたモノだというのです。
また景教徒にも、「じつは先祖の霊魂の慰安を祈る風習」があったと言います。

ユダヤ人は昔から、死者の慰安のために祈る風習を持っていました。ラビ・トケイヤーにお聞きしたところ、今日でもユダヤ教においては、ユダヤ暦七月一五日の「仮庵の祭」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る特別なときがあるそうです(イズコル)。
じつは中国には、ソグド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆の風習は、ありませんでした。意外に思われるかもしれませんが、インド仏教にも中国仏教にも当初、お盆や、死者のための供養の行事はなかったのです。
しかし、中国は祖先というものを大切にする所です。その中国において、景教徒たちは勢心に、神の憐れみに満ちた取り扱いが先祖の霊魂にあるように祈りました。そうやって先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会でたいへん歓迎されたのです。そのために景教は、非常な勢いで人々の間に広まりつつありました。
一方、仏教は「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。仏教は出家王義ですし、もともと、親を捨てないと救われないとする教えです。また先祖に執着心を持っていては修行できないとする考えですから、先祖や親への孝行を説く儒教の人たちから、さんざんに非難を受けていたのです。
それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、「彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう」、と計画しました。そうやって、景教徒が中国へやって来た七世紀頃から、中国や、また日本でも、お盆の風習が始まるようになったのです。
ソグド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)はまた、西暦七六六年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行ないました。七月一五日のことです。これは道教の「中元」の日でもあったからです。
彼らはこうして、様々な宗教概念を仏教的な概念に編成し直し、景教徒への対抗意識から、歴代の中国皇帝の慰霊のために祈りました。このようにして、中国における「お盆」の風習が、仏教行事として定着したのです。この風習は、さらに唐の時代の中国にわたった空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。日本でもこうして、今日見られるような「お盆」の風習が定着したのです。
(『日本・ユダヤ封印の古代史2−仏教・景教編』)

戒名と洗礼名
次に戒名について見てみましょう。佐伯好郎教授によれば、この風習についても、もとは景教のモノだというのです。確かに仏教には、もともと死者に戒名を付けるなどという習慣も教えもありません。本来の意味から言えば、戒名とは、教えに帰依したときに付けられる名前です。キリスト教の洗礼名と非常に似通っています。
現に空海は、中国で密教に帰依したとき、灌頂(かんじょう)の儀式を受けています。この灌頂の儀式というのは、梅の木でつくった棒で人の頭に水滴を三度注ぐ儀式です。
そして、この儀式の後、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かっているのです。キリスト教の「洗礼式」と「洗礼名」、それに密教の「灌頂式」と「灌頂名」、非常によく似通っています。これに反し、これに少しでも似たような慣習は仏教にはありません。しかも、灌頂ということ自体、密教以前にはなかったといいます。水滴を三度注ぐというのも、特に理由はなく、父・子・精霊の三位一体の名によって三度水をかける、キリスト教の「滴礼式の洗礼」をまねたモノだろうと佐伯教授は言うのです。
そして戒名を書いた位牌。これについても佐伯教授は、本来景教のモノであると言います。景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった日付と洗礼名を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。同様にお墓をつくるという慣習も仏教にはなかったモノです。
アジアにある多くの仏教国にはお墓をつくるという習慣がありません。なぜなら人は死ねば、また次の人生を生きるために生まれてくるのです。悟るまでこれを繰り返し続けると言います。死後の世界、死後の生活があって、そこに止まるわけではないのですから、墓も供養も必要ないというわけです。
故人の思い出のために墓をつくるというのは、実は非常にキリスト教的な発想であり習慣であると言えるでしょう。

数珠と焼香
僧侶の必需品であり、私たち一般の者でも葬式には必ず持参する数珠、これもキリスト教のコンタツ(数珠)が元になっているようです。ケン・ジョセフ氏は「一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、随・唐時代の僧、道綽(どうしゃく 五六二〜六四五)だったと言われています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教にも取り入れられた」のだろうと述べておられます。
この時代、『大秦景教流行中国碑』にあるように、中国において景教が全盛であったことと考えあわせると、なるほどと頷けるモノがあります。
また、焼香という風習についても、仏教には元々なかったモノです。これについても、ケン・ジョセフ氏は、「じつは線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、そうではありません。仏教にははじめ、そうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちはみな、香炉などによって香をたく風習をはじめから持っていました。ユダヤ人も、礼拝のために香をたく風習を、モーセの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。(中略)また、景教の教会では、ろうそくを立て、あかりを灯しています。祈りたい人はろうそくを買い、それをろうそく立てに立てて祈るのです。これも、仏教の寺院に同じ風習があります」と述べておられます。
このように、葬儀と供養という面から、日本の文化というモノをみてきましたが、仏教とは違う日本の顔が表面に浮かび上がってきました。
生活の面、言葉の面、また神道の世界からアプローチしていけば、我々が思いもつかなかった日本が浮かび上がってくるはずです。

まとめ
今、仏教でいう常識について、ちょっと、かたよった見方かもしれませんが、一つの観点を紹介してきました。こういった作業を敢えておこなったのは、それは仏教がどうとかキリスト教がどうとかいう問題でなく、葬儀が必要なものかどうかという切り口から、自分にとって「死」とは何か、「生」とは何かということを自由に考えてみて欲しかったからです。今までまとっていた「宗教」とか「常識」とか「世間」とかいう鎧を脱ぎ捨てて、自由になって、この問題を考えてみて欲しかったからです。
「仏教では」とか、「キリスト教では」とか、「世間では」という発想ではなく、自分はどう思っているか、裸になって考えてみることから本当の答えが出てくるような気がしてならないからです。

八咫鏡(神鏡) 宮中にあるものと伊勢神宮にあるもの、どちらが本物

  • 2011.11.11 Friday
  • 18:16


 松山の道後温泉本館に行ったときのことだ。館内の案内で、又新殿(ゆうしんでん)という皇室専用の湯殿に案内された。なんでも明治32年に建てられたもので、昭和天皇も戦後すぐの頃に来浴されたという。浴槽は、御影石の中でも最上級のものが使われ、正面の湯釜には大国主命、少彦名命の両神像を刻んだ宝珠があるという。
 こんな風に、案内のおじさんが名調子で解説してくれるのだが、おじさん、何を思ったのか、若い観光客のお嬢さんたちに、「三種の神器って御存じですか?」と問いかけた。お嬢さん方はキョトンとしている。おじさん、すかさず「三種の神器というのは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙の劔(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)という、代々の天皇に受け継がれる神器を言うのですが、では、この3つの神器、どこにあるか御存じですか?」
 ざわついていた空気が、シーンと静まりかえる。この間をとらえて、「若い人には難しいですね」と言葉をはさみ、さらに「そこのお父さん、御存じですか?」と、こちらへ白羽の矢を立てた。
 思わず振られたので、「エーっと、鏡は伊勢神宮だし、剣は熱田神宮……ウーンと、曲玉はたしか皇居かな。」
 「さすが年輩の方は、違いますね」と、若いつもりの僕をまるで年寄り扱い。喜んでいいのか悪いのか、複雑な心境になったものだ。

 しかし、思わず答えたものの、皇居には、曲玉ばかりか、八咫鏡だって、草薙の劔だってあるのだ。なかでも「八咫鏡」は神器中の神器。いわばキング・オブ・キングス。この鏡だけは特別で、賢所(かしこどころ)に独立して保管されている。それが、どうして二つあるのか。また「草薙の劔」にしたって壇ノ浦で、安徳天皇が抱えたまま入水されたのではなかったか。それ以後、引き上げられたという話は聞かない。にもかかわらず、熱田神宮にも、皇居にもあって、一時は中止されていたが、「剣璽御動座」という儀式が復活し、昭和天皇の行幸のとき、「鏡」以外の「剣」と「曲玉」も、天皇と共に移動したと聞いている。
 とすると、神器は一体何組あるというのだろう?

 道後温泉で湧きだした疑問は、解決されないまま再び忘れさられ、いつしか意識の奥深くに沈殿していってしまった。


(朝の自転車散歩で、偶然、唐古鍵遺跡へ出てしまった。)

 それが最近、我が町広陵町近辺を自転車で散策するようになって、再び意識の表面に浮かび上がってきた。一時期、早朝、運動を兼ねて、あてもなく自転車を走らせるのが習慣になっていたことがある。そんなある日、少し遠出をしようと、隣町の田原本町にある唐古鍵遺跡まで出てしまった。そこには1世紀の楼閣が復元されており、朝から珍しいものに出会えたと喜んだものの、帰り道が分からない。いつもは二上山が目印なのだが、それも見えない。早朝のこととて出会う人もなく、適当に自転車を走らせて行き当たったのが、「鏡作座 天照御魂神社」。これは「かがみつくりにいます あまてるみたまじんじゃ」と読むのだが、通称は鏡作神社という。その神社の由緒書きを見てびっくりした。そこには道後温泉で湧き出た疑問、その答の一端が示されていたのだ。


(上は鏡作神社の由緒書き。下は檜原神社の由緒書き)

 まずは由緒書きをご覧じろ。
 「第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡(やたのかがみ)を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像鏡(ひがたのかがみ)を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)として祀れるもので、この地を号して鏡作といふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
 古代から江戸時代にかけて、このあたりに鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。」

 要するに、崇神天皇の時代に、天照大神の分身である「八咫鏡」を、宮中に置いておくのは畏れ多いとして、伊勢神宮の前身である笠縫邑に祀り、宮中にはレプリカをつくってこれを祀った。そして、そのレプリカを鋳造した地が、この鏡作神社だというのだ。
 なるほど宮中にある神器はレプリカなのだ。でもレプリカって、要は偽物なんでしょうと思ったが、さにあらず、どちらも本物らしいのだ。「本体」と「分身」という関係らしい。
 この「本体」と「分身」という関係については、稲田智宏氏の「三種の神器――謎めく天皇家の秘宝」に詳しい。少し長くなるが引用しておこう。


(元伊勢と言われる桧山神社の鳥居)

 「宮中には鏡、剣、曲玉の三種神器があり、このうち鏡の本体とされるものが伊勢神宮に、剣の本体とされるものが熱田神宮に祀られている。したがって本体の鏡と剣も三種神器のひとつと呼ばれるが、宮中の三種神器と直接的な関わりが本来あったのかどうかについては分からない、ということである。
 ここで本体と分身という考え方について述べておきたい。
 先述のように天照大御神が自身の「御魂として」鏡を祀らせた、ということは、この天照大御神と鏡がすでに本体と分身の関係になっている。鏡は『日本書紀』の一書(あるふみ)によると天石窟に籠もった天照大神を復帰させる祭のとき、「鏡作(かがみつくり)部の遠祖天糠戸者(とほつおやあまのあらとのかみ)」が八咫鏡を製作したとあるから、神代の話とはいえ物理的につくられた物であることは明らかで、神とは異なる存在だろう。
 しかし日本の神は物に宿る。天照大神が宿る鏡は鏡であって同時に天照大神と見なされる。本体と分身という違いはあっても、同一と見なされるのである。したがって宿る物が無数にあれば宿る神も無数に出現する。(中略)
 事実、宮中の草薙劔は平安末期の壇ノ浦の合戦において海中に沈んだままなので、別の剣が草薙劔として用いられている。つまり八岐大蛇の尾から出てきたという由来を寄せられた伝統的な宝剣の直接的な分身ではないが、しかし現在、三種神器のひとつとして剣璽の間に奉安されている宝剣は、草薙劔の分身としての身分が確定しているがゆえに、草薙劔なのである。したがって熱田神宮の御神体の剣、壇ノ浦に沈んだ宮中の剣、現在の剣璽の間に奉安されている剣はいずれも草薙劔と見なされる。(中略)
 宮中に伝わる神鏡や宝剣は、真実かどうかはともかく伊勢神宮や熱田神宮の御神体の模造品、レプリカだと説明されることが多い。しかしその模造品とかレプリカといった言葉から、形だけを似せた模造品やレプリカにすぎないといった印象をもつのは間違いである。」

 一昨年、松山道後温泉で湧き出た疑問は、これで見事に解決した。
 しかし、迷った末に行き着いた鏡作神社。実は我が家から、自転車で走ってわずか30分たらずのところに存在していた。
 これを知ったとき、古代史のまっただ中
(アマテラスのまっただ中)に住んでいる、そんな感慨をあらたにしたものだった。


(鏡作神社に到着)


(鏡作神社 本殿)


(鏡作師が身を清めたという鏡池)
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